2008/10/31

058【世相戯評】調剤薬局では人前で平気でわたしの病名を大声で言うがプライバシーなしかよ

 調剤薬局に薬を買いに行くと、他人の病気が分かってしまう。
 薬剤師が客に病状を聞き、薬の説明をするのに、待合室に他に客がいても店先で平気に大きな声でやるからである。
 もちろん、私の病気も他人に知られてしまう。

 病気とは、究極のプライバシーに属することなのに、それで良いのだろうか。
 奇妙な病気に対する偏見だってあるし、他に感染する病気持ちに近づきたくないし、政治家は選挙で落選する可能性もある。
 医院では待合室とは別の診察室で医者と話すからプライバシーは保たれるのに、調剤薬局ではそうなっていないのが不思議である。

 昨日は、いつもの調剤薬局の薬剤師に、他人がいるところでそんなプラバシーに関わることを大きな声で言うな、他の人の病気も聞きたくない、と、叱りつけた。
 これが2回目である。分かっていないやつである。

 医薬分業になって、患者の側は面倒になってしまった。昔のように医者が薬をくれると便利だし、なによりも処方箋代とか薬屋の管理費とかそんなものはいらなかった。
 どうして患者の負担を多くするようになったのだろうか。
 命を担保にとられているから、医者には文句を言いにくい。

2008/10/28

057【世相戯評】毒を食う日々

 このところ毒入り食品がしょっちゅう話題になる。あれは内部告発者がマスメディ屋(新聞屋というより格好いいかも)などに漏らして、企業がやむなく公表ってことなんだろうか。

 毎日の新聞の社会面に、食品に限らず欠陥商品類のお詫びの広告が出る。
 それらの文面はどれも一定の暗黙ルールに沿っており、独自の書き方での心からお詫びと読めるものに出会った覚えがひとつもない。

 あるとき、これは独特だなあ、責任者の写真まで載っているし、と読んでいたら、なんとまあ、お詫びを装った映画広告であった。うまくはめられた。

 毒入り食品広告で気になっているのは、これを普通に食っていても毒は微少なので健康被害はないから安心せよ、そんな旨が書いてあることだ。
 毒入り食品がこれだけ多くなると、そのひとつの食品は微少だろうが、いろいろな種類の毒入り食品を3度3度の飯で毎日食っているから、それらを合わせるとかなりの量の毒を摂っていると思うのだ。問題ないのかしら。

 いろいろな毒が体内で複合して、新たな毒になっているかもしれない。あ、いや、毒をもって毒を制しているのか、それならアンシンだなあ、??

2008/10/27

056【各地の風景】信州・松代で江戸時代の街並みと昭和戦中の大本営跡をみてきたが、、、

 10月25,26日に、「全国路地サミット」なる会議が長野市であり、善光寺門前町と松代の街を訪れてきた。
 松代は私は初めての訪問であった。わたしがある街を初めて訪問する時は、事前に調べることをしない主義である。ぶっつけで行って見て、その街がどれだけ私を街の入り口から歓迎してくれるか、そして街のなかをいかに上手に見せてくれる仕掛けになっているか、それを試すのである。

 結論から言うと、この松代は落第生であった。
 もっとも、これまで及第した街はないから、仕方が無いとも言える。
 いずれ私の「まちもり通信」にも松代のことを書くが、ここにはとりあえず落第の理由をレポートしておく。
 長野駅前からシャトルバス「エコール・ド・松代」号に乗る。日曜日というのにガラガラである。
 この日はたまたま私たちサミット参加仲間が乗っているからにぎやかだが、いつもは乗客がいるのかしら。ハイデッキの観光バスタイプの乗り合いバスなので、もったいない。
 そもそも、これに乗るのに、駅前で乗り場案内からして、どこにあるのか探すのにうろうろしてしまい、交番でも分からず、どうも不親切であった。

 私は観光的に用意されている名所旧跡には、あまり興味がないへそ曲がりなので、普通の街並みを主に見て歩いた。
 松代の街は、観光への取り組みをそれなりに街づくりとしてやっているようで、歴史的な武家町も商人町も、そして木町通りの新しい街並み作りへの努力も、なかなかよかった。
 一応は観光スポットとして、池田満寿夫美術館、佐久間象山記念館、大本営地下壕の3箇所でけは見学した。これらも満足だった。 


 
 大不満であったことが二つある。
 第1は、観光案内地図が全くもってなっていないことである
 歩くには、その距離が分からないのが一番困るのであるが、それが松代のどの地図を見ても分からない。かろうじて、街角に立つ案内看板が、縮尺が合っているのみである。
 一生懸命作ったらしい「信州城下町松代まるごとミュージアムかわら版絵地図」なる観光地図も、買い物ついでにくれる地図も、地図の基本である距離と南北が分からないのである。縮尺が合っていないお絵かきでは、これを持って歩くのが不便で仕方がない。

 それらの観光地図には、観光スポットしか書いていないから、そこが街の中なのか、田んぼの中なのか、山の中か分からないし、私の興味のある街並みはどこにあるのか分からない。路地も書いていない。
 これは松代に限らず、長野の善光寺門前町の観光地図も同じだったし、私の知る限り、日本全国の街で同じである。困ったものである。

 もっとも、私くらいの街歩き達人となると、わが眼と鼻だけでも、街並みのよさそうなところ(特にB級街並み)を探し出すことができるのであるが、。
 地図を作るには、どこの市町村にも、縮尺1/2500の地形図(国土基本図)がある。まずこれを下地に薄く印刷し、その上にお好きな案内地図を描いてはどうか、そこから先はデザイナーの腕次第である。
 そして重要なことは、地元の人が作ってはいけないのだ。知りすぎていることを記入しないからである。地図はよそ者のためのものなのだ。
 と、いつもどこの街でも観光関係の方にこう言っているが、やってもらえない。唯一、私が指導?した鯖江市の地図のみが、私の眼に適うものだ。

 大不満の第2は、街の中はそれなりに景観を保つ努力をされていて、ちょっと気持ちがよいのだが、街の出入り口周りになると、とたんに広告だらけのハデ派手な醜い風景に出くわしたことだ。
 頭かくして尻かくさずというか、玄関はゴミだらけでも居間がきれいならよいのか

 街を訪れる客が、最初に出くわす松代の風景が、こんなに汚れていても松代の人たちは平気なのだろうか、不思議である。わがコレクション「日本全国醜い風景アルバム」ここもクリックをどうぞ)に風景がひとつ増えた。

2008/10/24

055【各地の風景】大阪の駅前から御堂筋そして心斎橋筋へと繁華街を久しぶりに歩いてきた

 2年ぶりくらいに大阪駅に降りた。ついでに御堂筋、道頓堀、ナンバ辺りをちょっとだけ見てきた。
 近頃は建築のスピードが速いから、2年位のでもずいぶん変わる。大阪駅前では、かの伝統ある阪急デパートの建物を建て替えの真っ最中である。低層部に既存のデザインイメージを継承し、上に超高層が載るというお決まりパターンである。

 阪急から駅ビルの大丸をはさんで西には、未だ取り壊しは始まっていなかったが、吉田鉄郎の大阪中央郵便局が黒く見えている。近いうちにこれも下半身は今の形をイメージ継承、上半身に超高層建築が建つだろう。
 これをペアのような郵政建築の東京中央郵便局の建て替えは、もう施工会社まで決まったと報道だから、近いうちに工事だろう。

 御堂筋を行くと、31mのスカイラインがそろう銀杏並木は、落ち着いた風格をもつ景観だが、次第に超高層がスカイラインを乱して来ている。
 そごう本店と大丸本店は並んでいて対照的である。そごう本店は、かの村野藤吾の名作の面影もなく、軽薄なる超高層建築に建て替えた。
 これに対して隣の大丸はヴォーリスの名作を今も大事に使っている。建物の風格に格段の差がある。
 横浜の松坂屋も閉店で、この風格あるデザインがどうなるか気になっているときに、大阪の大丸本店は実に堂々たるものである。

 心斎橋筋に入り、道頓堀橋まで来ると、橋の袂にあった高松伸怪作のキリンシティがただいま取り壊し真っ最中である。
 あれができたのはいつだったか、奇天烈な広告建築で、道頓堀筋への猥雑さを象徴していたものだ。

 ちょっと横に入り、法善寺横丁に行く。火災で丸焼けになったあとに工夫を重ねて、元のような狭い路地の飲み屋街を再現したのだが、新しいような古いような、そして猥雑にして親密なる空間が生きている。

 それにしても心斎橋筋もナショナルチェーン店が多くなっているようで、仕方ないのかもしれないが、東京の渋谷と変わらない。人出はさすが大阪の目抜き通りで、平日の昼間なのにずいぶんとにぎわっている。 

2008/10/22

054【横浜ご近所探検】象の鼻とトロッコ線路

 横浜港が幕末に開港した当時(1859年)のもっとも古い近代港の位置は、黒船でやってきたぺリーの上陸地点である。近代港湾として徐々に整備をして行くが、明治初期に作った防波堤は、その形から象の鼻とよばれる。

 
 今の横浜港は現代的なコンテナ埠頭が他に作られていて、象の鼻の中は小船のたまりになっているが、この周辺を整備して歴史的港湾の公園とする整備工事が、横浜市によって行われている。

 日本大通から直接には入れるように元税関の倉庫群を取り除いて、公園整備のための掘削を始めたら、線路が出てきた。
 調べてみたら、20世紀初頭頃の荷役用の人力トロッコの線路であることがわかったというのである。左側見学に行った。 
 丸い転車台、つまりトロッコの向きを変えるための1台分のターンテーブルがあちこちにある。

 この線路の方式は、人力で押す労力を最小にするために原則として線路はまっすぐに敷いて、方向を変えるときは、この転車台で必要な角度に方向を変えて、その方向の線路にまた載せて進める仕掛けである。

 線路はたくさんの倉庫や桟橋を結ぶ多方向にあるので、そのたくさんの結節点ごとに転車台を設けていいる。煩瑣なようだが、その時代の技術をなるほどと思わせる。
 まだ完成していないが、この公園から見る港の風景はいかにも港らしい。

 横浜ご近所探検隊が行く<「伊達の眼鏡」ブログ連載中>

2008/10/21

053【横浜ご近所探検)郊外スプロール風景に画像でちょっと手を入れてみた

 保土ヶ谷区の横浜国大近くに郊外地域の典型的な風景がある。地形的には谷戸と丘陵であり、土地利用としては残存緑地、農地、バラたち戸建住宅、バラたち共同住宅、ゴルフ練習場、野球演習場などが入り乱れる。
 なんとも典型的な大都市郊外のスプロール景観である。せめてスカイラインにあるあたりに、緑を保全するような土地利用コントロールをすれば、それだけでも景観は落ち着くと思うのだが、。 

 →現場風景をちょっと画像処理をしてみたのでご覧ください。

現況の風景はこうなのだが、、、

せめてスカイラインだけでも緑を保全すればいいのになあ

2008/10/20

052【横浜ご近所探検】横浜一番の繁華街だった伊勢佐木町からとうとう百貨店がなくなった

 横浜の伝統ある都心商業地・伊勢佐木町にある百貨店「松坂屋」が、2008年10月26日に閉店する。横浜駅前の三越が一昨年だったかに閉店したから、横浜の都心の百貨店は高島屋、そごうだけで、どちらも横浜駅前である。
 横浜松坂屋はその前身は「野沢屋」といって、生糸商から始まる横浜地元資本の伝統のある百貨店だったが、30年位前だったか横井英樹が株買占めで登場してごたごたの末にいろいろあって松坂屋となっていた。

 横井英樹といえば、東京日本橋の白木屋百貨店(石本喜久治設計・1926年)にも登場して、ごたごたの末に東急百貨店になってしまい、それも閉店(2000年)した後に今は外資による新ビルとなっている。
 関内、関外という横浜の伝統的と商業的停滞とみるのか、それとももう百貨店の時代ではなくなったということなのか。わたしはむしろ後者だと思う。

 わたしの横浜ご近所探検のコースでもあり、買い物はほとんどしないが4階にある郵便局にちょくちょくいく。
 いつ行ってもガラガラで店員のほうが多い。よくやっていけるものだと思ってはいたが、本当に閉店となると残念な気もする。

 戦前の様式建築なので、建物の表の顔は凝っている。建築保存運動がおきつつある。ただし、建物としてはつぎはぎつぎはぎで建てて来ているから、プランは悪いし、不等沈下しているし、耐震性もよくないとあって、多分、持ち主は建て直したいに決まっている。

 今の持ち主が建て直すならば、この建物の姿に愛着があるかもしれないから、なんらかの表顔だけでも継承した伸建物にするかもしれないと期待もしたくなる。
 この土地建物をそっくり他の企業、たとえばファンドとか不動産デベロッパーとかに売ってしまったら、通常はそうはいかない。保存なんて儲からない面倒なことはお断り、ってことになる可能性が高い。

 建築デザインとしては二流だが、戦前の建物は珍しいし長く市民に親しまれたから保存したいのも分かる。だが、保存運動はどのような戦略があるだろうか。
 わたしが思うには、最も効果的な保存運動は、毎日買い物に行くことである。
 この数日間は閉店セールの安売りをやっているらしく、店内にはものすごく大勢の客があふれている。いつもと大違いである。いつもこれほどの客が来るなら、廃業はしないで続けられるだろうから、当然に建物も保全されていくだろう。

 建物保存も地方の鉄道線の保存と同じようなことで、へいぜい利用しないでいて、廃止になったとたんにただただ保存をしてほしいといっても、それは無理というものだろう。
 もしもなんらかの保存をされるとしても、うまくいっても今の表の壁の一部を新らしい建物の一部に取り付けてお茶を濁すくらいかもしれない。もっとうまく行けば、今の半分くらいはどこかに再現するだろう。

 ファサードだけでも良いからきちんと保存するなら、なにか行政からインセンティブを与えるとしても、容積率の上乗せしかないだろうが、そうすれば超高層建築になるだろう。この街並みの中で超高層建築が果たしてどうなのか。
 床の使い方としても分譲共同住宅が一番可能性が高いだろうが、それはわたしの主義としては全くいただけない。公的賃貸住宅ならまだ良いが、。

2008/10/16

051【法末の四季】棚田でコシヒカリをつくる稲作遊びはななか難しいけど面白い

 このブログの9月30日の記事に、法末集落の棚田での稲刈りのことを書いた。あれから2週間、ハサ掛けした稲穂が乾いた頃とて、仲間と一緒にハサからおろして脱穀をした。
 脱穀は昔流を貫徹させるならば、稲コキで手でしごかなければならないが、さすがにそこまではやらない。田の持ちのTさんが操作してくださるコンバインを使っての機械式である。

 ハサ掛けのそばにコンバインをつけて脱穀作業開始、ハサ掛けした稲束をはずしては次々に運んでコンバインに入れると、もうもうとした藁埃と稲藁束が排出され、籾は袋に入る。
 脱穀しても稲藁にたくさんの穂が残る問題があり、それを再度抜き取ってコンバインにかける手間があった。
 それは稲束の穂先がそろっていないからである。来年は稲刈りのときに穂を揃えるよう注意して短く刈るようにしよう。
 藁ホコリまみれになりながら、機械に追われて休みなく3時間ほどの労働で、新潟コシヒカリの籾は合計17.5袋、約500kgを得て、米も稲藁束も今年は豊作だった。

 ところが、さて脱穀して籾はできたが、今年の籾は乾燥不足で水分が多すぎることが分かった。乾燥がよくないと梅雨時にカビの原因となる。
 これでは機械乾燥をする必要がある、Mさん所有の乾燥機で引き受けてくださることになり、その作業場に籾を持ち込んだ。
 現在の籾の水分は18.3パーセント、これを理想的な15.4パーセントまでに涼風でゆっくりと乾燥することとし、それは明日までかかる。その上で、後日に精米機にかけることになった。

 一昨年も昨年も除草剤は入れず、機械は脱穀コンバインだけだったが、今年は除草剤を入れ、機械は稲刈りバインダー、脱穀コンバイン、乾燥機を使い、3年目にして農遊から農業に近づく気配がしてきた。
 ということで、いまだに新米の飯にありつけていない。

 なにしろ一年がかりの作業だから、1~2週間ぐらいずれてもどうということもない、、と思ったのだが、考えてみるとそれは大きな問題がある。
 売っているのではないから、マイペースで適当にやりたいと思うのだが、季節がこちらの都合に関係なく、雨・風・気温・水温などで農作業を待ったなし、あるいは延長、延期を要求してくるので、従わざるを得ない。

 機械を使うとなると、こちらは全く所有していないから、地元の農家の方たちに頼らざるを得ない。そうなるとその機械の稼動工程に合わせなければならない。
 稲作の農作業は勝手な遊びでやっているのではできないのだと、3年目にして分かってきたのである。
 実際のところ、田起こし、水管理、農用機械使用、作業のタイミング指導などなど、集落の人たちの支えがあるから作っていられるのだってことを、わすれないようにしなけば、、。

 参照→法末の四季物語

2008/10/09

050【能楽鑑賞】能「摂待」をみて「安宅」と比較すると面白いと思った

 この10月5日の観世会秋の別会は、「摂待」という珍しい演目があった。能の解説本にもないし、印刷物の謡曲全集にも載っていない。
 「安宅」と同じように、義経が弁慶たちと12人の山伏姿に変装して、奥州平泉に落ち延びる途中の出来事であるが、史実とは異なるらしい。

 「安宅」では、安宅の関所で不審尋問され、弁慶が機転を利かせて主人義経を棒で滅多打ちして主従でない証拠と見せかけることで、義経一行と見破られずにようやく関守から解放される。もっとも芝居の勧進帳では、関守が知っていて逃がしたとしているようだが、。
 ところが「摂待」では簡単に見破られて、白状してしまうのである。

 義経一行は、落ち延びる途中に福島あたりの民家で行きずりの山伏をもてなす接待の席を訪れる。
 そこで接待役の老婆(シテ:野村四郎)とその孫(子方:小早川康充)に、弁慶(ワキ:宝生閑)も義経(山階弥右衛門)も供の者も見破られてしまうのである。

 官製の安宅の関所はいい加減だが、こちらの私設関所のほうが厳しいのである。
「安宅」の弁慶は武士を相手に強いのに、「摂待」では女・子ども相手にまことに弱いのである。
 この弱さの原因は、実は義経はこの老婆と孫に借りがあるからだ。
 老婆の息子つまり孫の父親は義経の家来の武将であったが、八島の戦で義経の身代わりに立って矢に射られて死んだのである。

 老婆は、義経たちがこのあたりを通って逃げてくると聞いて、道端に山伏接待所と掲げて誘い込む算段をして、義経たちを待ち受けていたのである。
 弁慶はものの見事にこれに引っかかった。
 待ち受けるのは「安宅」と同じであるが、こちらでは見事につかまえて正体を暴き、子を返せ、父を帰せと義経に詰め寄るのである。
 が、いかんせん、頼朝に戦犯にされて追われ逃走中の義経は、彼らに何の補償することもできない。ただ悲しいと嘆くばかりのだらしなさである。

 親子の愛、親への孝、主への忠、敵への仇、これらの間で苦悩するという古典的な仕掛けであるが、「安宅」が忠をテーマにしているのに対して、「摂待」は忠よりも愛を主題にしている。
 子を殺された母親が犯人である領主に子を返せと迫る「藤戸」にも似ている。藤戸では母親は補償を受け問い、供養をして仏教的な救いにエンディングを納める。

 ところがこの「摂待」のエンディングはちょっと意表をつく。
 子が突然に、親の敵(かたき)を探すために義経たち山伏一行について行く、と言い出すのである。
 親の敵はすでに屋島で討ったと教えられているのに、そう言い出すのは幼少だから聞き分けないのだといえば、そのままだが、これはもしかして本当の敵は義経だと知ったからかも知れない。
 いい所に旅に出て、義経を討とうと決心したのだろう。忠より孝である。
 一同あわててなだめすかして、逃げるように出て行くのであった。

 「安宅」では、大勢の山伏たちがすわや戦いかとばかりに緊張感を盛り上げる集団演技があるが、「摂待」では全員がほとんど座ったままで、舞台に壁をつくっているばかりある。
 シテは悲しみの口説きばかりだが、ワキは戦の場面を朗々かつ切々と語って、シテよりも演技どころがある。
 また子方もかなりのせりふと演技があり、この「摂待」はシテよりもワキと子方に負うところの多い演目であり、その点でも珍しい。

 舞もなくて名優野村四郎でも、老母の悲哀だけの演技では、こちらがついつい期待するその華麗さがないが、どこか立ち居に足弱な感じがしたのは老いの演技だろうか。

 この別会では、ほかに「栗焼」(野村万作、野村万之介)、「江口」(木月孚行)、「道成寺」(岡久広)があった。
「道成寺」の間(アイ)に野村萬斎がいて、「摂待」の山伏に野村昌司がいたから、野村家3兄弟とその息子たち合わせて5人の出演であった。

 万之介は野村4兄弟の末っ子なのに、久しぶりに見た顔は一番の老けだった。大病が癒えないのか。
 萬斎も顔色が悪いが、もしかして忙しすぎるのか。売れっ子になっても能楽堂に本職できちんと出演するのがエライ。

参照→能楽師野村四郎師
   →わたしの能楽入門

2008/10/03

049【モノづくりとまちづくり】めがねとアメリカ大統領選挙

 自分が今の世界の話題の人のかけるめがねと同じデザイナーによるめがねを着けていると、今日はじめて知った。
 アメリカ大統領選挙でペイリンアラスカ州知事が共和党副大統領候補で登場して、何かと話題になっているが、日本でも話題になっていて、それが全く政治的話題ではなくて、彼女のかけているめがねが日本製だから、という新聞記事を今朝読んだ。
 日本のめがねといえば福井県産(特に鯖江)に決まっているが、彼女の眼鏡はその増永眼鏡製の川﨑和男デザインだそうだ。
  
 1991年の湾岸戦争を指揮していたアメリカのパウエル国務長官が、増永眼鏡製・川﨑和男デザインの縁なしめがねをかけていた。実はそれが、私のかけている今のめがねと同じデザインだった。

 私が遠近乱視めがねをかけだしたのは40台の半ばからだが、壊したり合わなくなったりしていくつかけ替えただろうか。この8年くらいは、今の川﨑和男デザインのふちなし眼鏡をかけて、度の合わなくなったレンズを1回換えただけで使いとおしている。
 その前にもふちなし眼鏡を使っていたが、弦と玉の付け根で壊れる連続だった。

 ペイリンやパウエルのほかにも、アメリカ政界の人が川﨑デザインめがねをかけていると、今朝の新聞に書いてあったから、あちらで流行なのだろうか。
 それとも、品質がよくて高価な眼鏡を選ぶと、福井の産地の物になるという自然の成り行きなのか。それならめでたいことである。

 増永といえば、増永五左衛門という人が20世紀初めに、福井県の鯖江と福井の間にある麻生津村(現在は福井市内)に、めがね弦を作る産業を起こしたのだ。それがいまや鯖江といえば、めがね弦生産は日本の9割を越す産地となったのである

 と、宣伝するのは、これまで15年くらいの間、私は鯖江市に通って産業政策と都市政策を融合するまちづくりを手伝っていた経緯があるからだ。めがね、越前漆器、繊維が鯖江の3大産業である。
 鯖江の眼鏡が生産日本1と威張ってても、実は鯖江に行ったら良い眼鏡を安く求めることができるか、私だけのデザインの眼鏡をすばやく作ってくれるか、と期待しても、そうはいかないのである。長い間に組み立ててきた生産と流通の仕組みが、そうなっていないのである。

 それをそうはいくようにしたい、生産する力は十分にあるので、デザイン力と販売力をつけて、産地の地域で売るように、眼鏡を買いに来てくれる観光の力もつけよう、まちづくり全体として取り組もう、というのが狙いであったが、諸般の事情であまりうまくいっていない。
 でも、こうやって“外圧”が宣伝してくれると、外圧に弱い日本では、もしかしたらなにかが起きるかもしれないと期待している。

 中国製の安物眼鏡ばかりがもてはやされる今の時代に、海外からの逆宣伝で日本人が日本製品を見直すのは情けなくもあるが、この機会を生かすのもよいだろう。
 日本でも選挙騒ぎのようなことがあったけど、あ、これからもあるか、でも、ファッショナブルなお話は出てきませんな。 そのかわり、日教組をぶっつぶすなんて大臣が言うファッショな話題ならあるよなあ。
 →参考ページ・鯖江ファッションタウンへの提言(2002)
         ・もの・まちづくり運動と都市の再生(2005)

048【世相戯評】外国人労働者

 ハンブルグでタクシーに乗って、中央駅まで行きたいと運転手に英語で言って通じない。同乗者がドイツ語で言ってもフランス語でも通じない。しょうがないから機関車シュシュシュッと、ボディランゲージでなんとか通じた。

 これは1974年だったか、植生調査団でヨーロッパを訪れたときのことであったが、言葉も知らないものがタクシー運転手をやってよいのかと、びっくりしたものである。そのうちに日本でもそうなるのだろうか。 おかしなことに、あれこれと話しかけていてなんとなく分かったのは、トルコからの出稼ぎで、朝鮮戦争のとき日本に行ったことがあるとも言った。

 昨日、鍋料理屋の外国人のことを書いたが、この10年くらいのうちに飲食店、特に居酒屋の店員に外国人が多くなった。イラッシャヤセー、アリアトゴサイターなんて、調子が良い。
 顔つきからして主に中国系や韓国系であろうから初めはわからないが、マニュアルにないことを聞くと言葉の調子が乱れるので分かる。

 その外国料理を食わせる店なら、明らかにそれらしい顔の外国人がむしろ良いのだが、日本料理を主に食わせる店で明らかに外国人顔の店員だと、なんとなく違和感がある。
 日本の寿司屋で外国人が握るのはちょっと想像しがたいが、アメリカのショッピングモールの中の寿司屋では当然に日本人顔でない人が握っていて、それは場所柄そうであるだろうと納得した。
 これから日本の人口が減ると、労働人口としてさらに外国人が入ってくるのだろう。いまは技能技術を要しない単純労働の分野が多いようだが、次第に専門分野にも及ぶだろう。

 西ヨーロッパ北部中部諸国が、南部や東部諸国からの労働者を入れて、いろいろと問題が起きているようなことを、今度は日本が経験することになりそうだ。
 今と同じくらいの労働力を保つためには、ものすごい数の外国人を急いで入れる必要があるから、そうなるとあちこちで文化摩擦がものすごいことになるだろうなあ、。

2008/10/01

047【横浜ご近所探検】「肉屋の正直な食堂」は実は外国人鍋料理屋だった

 横浜で徘徊老人をやっていて、伊勢佐木町商店街に「肉屋の正直な食堂」なる看板を掲げた店があることを書いた。→横浜ご近所探検・伊勢佐木町 
 書いただけでは申し訳ないので、今日、夕食をそこで食ってきた。カウンター席だけしかなくて、そのカウンターに電磁誘導加熱装置(induction Heating)がずらりと並んではめ込まれていて、客はそこに置かれた鍋物を煮ながら食うのであった。

 牛、豚、鳥の肉のいろいろな鍋料理がある。しかし、鍋だからとて大勢で囲むのではなく、小さな鍋にご飯と味噌汁がついていてひとりで喰う。要するに肉鍋定食屋である。
 蓋をした鍋物が出てきて、砂時計が落ちるまで待つと煮えるから、それから食い始めろという。
 さてそうして食っていたが、鍋の中が焦げ付くのである。鍋料理ってのは普通はワリシタとかの汁や水で煮るのだが、ここでは鍋蒸し焼きなのかと思いつつポン酢で食っていた。

 するとカウンターの中の女性がやってきて、鍋を指し示して「ミズイレマスカ、アリマスカ、、」みたいなことを言っている。「エッ、なに?」と問い返してもさっぱり要領を得ない。
 別の男性がやってきて、「水入れるのを忘れてました、ごめんなさい」という。どうやら、厨房から出すときに、あらかじめ入れておく水を入れ忘れたってことらしい。 だから焦げている。

 このあたりで私は気がついたのだが、顔は日本人と同じだが言葉から判断してこの二人とも外国人らしい。
 厨房にいる間違えた張本人を見ると、これは立派なインドアーリアン系の外国人顔である。
 その厨房の黒い顔も出てきて、「すみません。鍋と料理をとり換えて持ってきます」と流暢にいうのだが、もう半分も食っている。

 そんなに食えないから、いいよいいよ、と言うと、「すみません、ではコーラを飲みますか」といって、気を使ってくれる。「年寄りはそんなに飲み食いできないから、いいよ」とやさしく断る。
 「ねえ、君たち、どこなの、コーリア?」と聞けば、初めの男女は中国、厨房の男はバングラデシュだという。

 この外国人3名で日本鍋料理屋をやっているのかしら、そんなわけはなかろうと、インタネットで調べるとやっぱりチェーン店であった。
 マニュアルどおりにやれば外国人でも日本式肉鍋料理屋ができるってことである。 ただ、食べつけない料理には、料理人もちょっとマニュアルを間違えるってことか。

 「肉屋の正直な食堂」は、こうしてそれなりに“正直”ではあった。だが、 「正直な食堂」であって、「正直な肉屋」ではない看板は、いまどきはどうも気になる。

 参照→横浜ご近所探検隊が行く