2009/07/28

159【父の十五年戦争】戦場はかくも悲惨だったのか

 父の遺品の中にあった、1931年から45年までの兵役時代の手記や記録類を解読して、「父の十五年戦争」としてまとめる作業をしている。
 そのために5月ごろから、満州事変から日中戦争のいろいろな戦史・戦記を読んでいる。

 関連して母方の叔父が戦死したと聞いていたので、その娘の従姉妹にどこで、いつなのかと聞いたところ、1945年フィリピンのマニラ近郊であった。
 なんとその戦場がわかったのは戦後も40年経ってから、部隊長だった人からの手紙であったそうだ。遺族としては、どう受け取ったのだろうか。
 この叔父は1944年7月、わたしの父は1943年12月、共に戦局のきわまりつつある時に充員召集され、叔父は南方戦線に送られ、父は輸送船が無くて内国勤務と、運命を分けている。

 わたしが棚田の米作りに行っている中越の山村の法末に、90歳の元気な長老がいる。
 この人も戦争体験者だとて、先日の夕方、ひとり暮らしの自宅に夕飯持参で訪ねて、話を聞いた。こちらは中国の宜昌作戦と、ビルマのインパール作戦に参加したのであった。

 叔父のマニラの戦いと、法末長老のインパールの戦いは、ともにアジア太平洋戦争のなかでも特別に悪名高い負け戦であった。それらの関連資料など読むと、あまりにも悲惨きわまる非人間的な戦場であり、それらが元はといえば作戦計画のずさんさからきているのが、まったくやりきれない。
 これまで興味が無かったが、こうして初めて戦記や戦史あるいは戦争文学を読んでみて、人間そのものへの不信感と嫌悪感がわきでてくるのをどうしようもない。人間同士で文字通り相食むのだもの、、、。
   →131戦争情報を下さい

追記:ここに書いた叔父と長老の二人の戦争に関する記録を、下記に載せた。
父の十五年戦争(附:田中参三叔父の戦場)
村の長老・大橋正平さんが語ったビルマの戦場

2009/07/26

158【山口文象】ほろ酔い気分で隅田の川風に吹かれつつ豊海橋へ

 昨日土曜日、新宿で旧友たちと久しぶりに逢って昼食、別かれてから東京駅丸の内探検へ。
 東京駅は今や工事現場と化していて、景色がはなわだよろしくない。北の三角ドームは皮をはがれて頭の骨が見えている。
 政治家も登場してお騒がせだった東京中央郵便局は、駅前広場側の2スパンを残して、裏側はきれいさっぱりなくなっていた。

 その斜め南向い側にあった丸の内八重洲ビルは、その南の三菱商事ビルと一体開発の丸の内パークビルとなっていて、角の塔が超高層ビルにくっついている。
 三菱商事ビルの跡には、コピー復元した三菱1号館が、超高層パークビルに従うように完成している。
 さてこの新三菱1号館を建築家・建築史家たちはどう評価するのか、タノシミである。京都の元第一勧銀ビルのように無視を決め込むのか、文化財の復元だとほめそやすのか。
   ◆◆
 今日は、隅田川花火大会の日であると知って、見てこようかと思いついて、地下鉄東西線に乗って、どこで下りようかと路線図を見ていて、門前仲町が目に付いた。
 そうだ、あそこの駅近くにうまい魚を食わせる酒場があったぞ、と思い出した。ここで花火見物は二の次になってしまった。

 門前仲町に下りるのは10年ぶりくらいだろうか、あの居酒屋が未だあるだろうか、どこにあるか分かるだろうか、店の名前も思い出さない。
 でも酒飲みはすごい、すぐに見つかった。魚三酒場である。
 1階は味のしみこんだカウンター席ばかり30席ほど、昔はすぐには入れないほど混んでいたのが、土曜日のせいか不景気のせいか、その中の5席ほど空いている。

 冷酒で鰯てんぷらを食いつつ見れば、ほぼ満席になかに以前は見かけなかった若い女性が、6,7人いる。男ときている者や女二人連れも居る。女一人は居ないようだ。
 でもこんなうまくて安い店に女性も入るようになって、それはよいことだが、混み具合が進むのが困るような。
 酒2合、肴4品で1240円、美味くて安かった。
  ◆◆
 さて、花火を思い出した。隅田川の橋まで歩けば見えるかと、ふらふらと永代橋までやって来た。
 だが、花火は遥か遠くの北のほうで、ビルや高速道路の裏から、頭だけパッパッとみせていて、これでは見物にはならない。

 そばの豊海橋がライトアップされているのを見つけた。
 この橋はわが師匠の山口文象がデザインにかかわっているから、敬意を表しに行き、半分だけ渡ってもどってくる。
 この橋から永代橋の夜景もよく見える。

 それにしても橋をライトアップすると、なんだかそれは元の橋とは違うものに見える。
 河川や両岸の風景とあわせて結ぶ風景、そしてその構造技術の美しさ、それらがあいまっての全体像が橋の基本的な風景なのだが、ライトアップされると特定部分の強調となってくるので、昼間の太陽の下の橋とは別物に見える。
 それがよしあしではなくて、そういうものとしてライトアップデザインをしているのだろうか。

 川風が涼しい。 魚三酒場の冷酒の酔いがまわってきて、橋と水の夜景がだんだんとぼやけてきた。
 よりかかる欄干からドボン、、。

2009/07/22

157【ふるさと高梁】少年の日にあった日食の思い出

 ただいま2009年7月22日午前11時ちょっとすぎ、半分以上は太陽が月に覆われているはずである。
 だが、横浜あたりは空は雲のおおわれていて、なんだか薄暗いだけで、ただいま進行中の日食は目に見えない。

 日食といえば、いつも北海道の北にある礼文島を連想する。
 小学生のころに、皆既食ではないが印象に残る日食を見た。
 生家の神社の境内で、子どもも大人もガラスのかけらにローソクで煤をつけて眺めたものだ。肉眼でも見えるぞと、じっと見つめていたら確かに太陽の姿が見えるのだが、その後しばらく目が見えづらくなった。

 そのときは、礼文島が観測適地だったらしく、新聞に礼文島のことがよく載ったので、記憶に日食=礼文島が刷り込まれている。行ってみたいと思いつつ、いまだに行っていない。
 調べてみるとそれは1948年5月9日のことである。その日は雲のない晴天であった。

 その3年前の8月15日も雲のない晴天であった。その昼過ぎ、この境内を近所の大人たちが黙りこくって、列になって街に戻る姿を思い出す。終戦の天皇の詔勅放送を、神社の社務所に集まって聴いた後であった。

2009/07/18

156【老いゆく自分】昔々の大学山岳部員だったころ岩場から落ちて死にかけた

中高年の山登りが流行とかだが、その60歳前後の山登りツアー客が北海道の山で10人も一日のうちに死んだという報道である。
 それもなんと、雪崩や岩崩れではなくて、寒さによる凍死だそうである。
 お気の毒とは思うが、そのひとびとの歳が歳だから、大学山岳部OBとしては、この山行きはどこかおかしい。
 ガイドに率いられて10数人が出発し、男女年寄りが風雨のなかで疲れた人の度合いによって、ばらばらになって離れて歩いていったというのは、常識はずれの言語道断である。まずガイドの資質を疑う。
    ◆◆
 思い出せば半世紀も前のこと、大学山岳部では若かったから、結構無茶もしたような。
 夏の剣岳合宿でのこと、仲間と2人でその日の行動に出たところ、わたしはうっかり雪の急斜面を滑落したのだ。
 すぐにピッケルを刺してとめようとしたところ、雪面が切れて急な岩壁になってしまった。
 岩壁ではごつごつした岩に跳ね飛ばされるからもう駄目だと観念して、ひょいと下を見たら小さな岩棚がある。
 うまい具合にその棚めがけて飛び降りて、ようやく滑落は停まった。下は絶壁である。
 死ぬ直前だったから、しばらくはショックで息が切れて、座り込んでいた。
 どれくらいそこにいたろうか、上にいる仲間の声にわれにかえって、のそのそと落ちたところを登って仲間の隣に戻った。 
 わが身を見れば、擦り傷はあちこち、すねに打ち身、ズボンはビリビリになっていた。岩場のせいである。
 その日の予定行動は取りやめてキャンプ地に戻った。
 それでも歩けるから、すねの打ち身を揉みながら合宿は続け、岩登りもしたし穂高までの縦走もした。
 そのときは合宿が終わってから横尾に残り、屏風岩の第2ルンゼを登ったのが、わが岩登りの最大ルートであった。つまり全く反省しないのであった。
◆◆
 この滑落は、わが人生の最大ショック事件で、それから半世紀後の去年、山岳部同期生のあつまりで、そのときに一緒だった相棒にこの事件を話して、ショックだったよな~って言うと、そんなことあったっけ覚えていないよ、と言う。これまたショックであった。
 不思議でさえあったが、人の生とは人それぞれにそういうものなのである、、自分でも言ってることがなんだか分からないが、、、。
 この山岳部同期仲間からどえらいやつが出た。ノーベル化学賞の白川英樹である。
 合宿テントの中で俺があいつに化学を教えてやったからなんだよって、受賞当時にヨタ話をしたものであった。
 なにで受賞したか当人から話を聞いたが、何のことだかさっぱり分からなかった。
 ときどき中高年の山登りに誘われるが、行かないのである。昔の山と今の山とは、風景も人もおおいに違うだろうから、それを見たくない。が、本音は、もしもバテたら昔山岳部として恥だからである。
 大学山岳部時代には夢のまた夢だったヨーロッパアルプスの山登り(正確には山降りだが)に、2006年に行ったからそれで満足である。
参照◆昔山岳部その2
参照◆ヨーロッパアルプスは棚田だった(2006)
参照◆アイガー北壁

2009/07/16

155【怪しいハイテク】出るばかりで浄化できずに貯まるばかりの電気のウンコ 

 電気はクリーンエネルギー、つまりきれいな動力源だから、電気自動車も環境によいのだって風潮がこのところあるけど、ほんとうかしらと疑問に思っている。
 今朝の朝日新聞東京版10面に、『使用済み核燃、貯蔵限界 再処理動かず原発ピンチ 「中間貯蔵」整備急ぐ』とて、原子力発電所で使い終わった核燃料がたまり続けている記事が載っている。
 ようするに発電したあとのゴミ処理ができないで、どんどんたまっているのだ。そのゴミが簡単には始末できない放射性物質だから、処理は容易なことではない。

 その処理工場を青森県六ヶ所村に作って試運転しているのだが、不具合続きで本格運転ができないのだそうである。
 工場にはこれまでの12年間に、ウランの量にして2500トン分が貯まっており、満杯に近づいている。各原子力発電所の敷地内にも核燃料ゴミは置いてあるのだそうだ。

 核燃料ゴミの量と環境汚染との関係は知らないが、なんにしても処理できない放射能ゴミが貯まり貯まっていけば、問題が起きるに決まっている。
 素人考えで不思議なのは、処理方法が確立しないのに、どうして放射能ゴミを出す発電を平気で行なうのだろうか、ということである。

 例えてみれば、口から美味いものを食うばかりで、尻からウンコは垂れ流しなのである。いやまあ垂れ流しはできないから、ウンコダメをあちこちに作っているが、そこで盛り上がっているままにしているのである。いつか溢れて流れ出すだろう、キタナイ、、。

 これでもクリーンエネルギーなのだろうか?
 江戸のウンコは下肥として、例えば川越のサツマイモになった。
 電気のウンコは、何か美味いものになるのだろうか? 
  
参照→・くたばれ乗用車

2009/07/14

154全国市長会で講演「伝統文化を活かした地域再生の可能性」

 「全国市長会」から講演の依頼が来た。
 日本各地の市長さんの会であって、税金で運営されているという。 そこの経済部の地方の活性化に関する検討会とて、「伝統文化の再生と地域の活性化』というテーマで、なにか話をしてほしいとのこと。
 おお、市長さんがたには言いたいことがいっぱいある。伝統文化にかこつけて、言いたいことを言ってこようと、喜んで引きうけた。

 7月7日の午後、東京は平河町の全国都市会館には、東北から九州まで25市長と、その随行の市役所職員が倍くらいいた。
 わたしが市長さんたちに訴えたかったことのひとつは、地方都市の郊外部のあまりに汚いので、これに気がついて早くなんとかしてほしい、ということである。
 わたしが撮り貯めている全国各地のいくつもの汚い郊外風景の写真と、その街の中心部の美しい風景とを対置してみてもらった。玄関にこんなにゴミを積んでおいて、それで観光に来いといっても駄目なのであ る。 
   参照→日本全国醜い風景アルバム

 もうひとつは、どこでもなんでも再生とか活性化とかの政策ばかりに金がつくが、人口減少する日本のどこもかしこも再生や活性化はできっこないのだから、もう一方の政策として山や村や街を閉じる政策、しかもそれを幸せに閉じる政策が必要である、ということである。
 このことは市長も役所の人も、心に思っていても絶対に言えないことだ。たちまち大反対にあうだろう。つまり総論としては必要だが、各論としてどこを閉じるかとなると大騒動になるからだ。わたしのような、何のしがらみのない者だからこそ言えることだ。

 多分、政策として理解されるのが難しいだろうが、今すぐ始めなければならないのだ。現実にやむをえず閉じつつある農山村や商店街が日本にいっぱいあるはずだ。
 今のように多くの人たちが、超高齢化してやむをえず農山村から街に移り住んでも、それは幸せなこととはいえないことが多い。

 それに対して何の政策の手を伸べずに、負け組だからほっておけでは、もう見過ごせないときが目の前にきているのだ。もう遅いかもしれないくらいだ。
 このことは誰もがわかっていても、簡単には言い出せない。 
 さあ、どうする、市長さん?(090707)

 参照→地域のしまいかたを考える
 
 講演全文→伝統文化を生かした地域再生の可能性

153【言葉の酔時記】こちらアイスクリームとなりますと言うので、そうなるまで待っていたら、 

 このごろ「・・・となります」と、言葉尻を結ぶのをよく聴く。
 居酒屋で、「こちらビールとなります」(未だ醸造中なのか、出来立てビールになるにはどれくらい待つんだよ)
 喫茶店で、「こちらアイスクリームとなります」(なるまで待ってると溶けちゃうよ)
 鉄道駅で、「まもなく列車の到着となります」(人間が運転するものと思ってたら、自然にやってくるものだったか、)
 旅行の広告に、「このツアーは2人部屋となります」(と言うことは、これまでは1人部屋か3人部屋だったのか、)

 もともと「・・なる」とは、「現象や物ごとが自然に変化していき、そのものの完成された姿をあらわす」(広辞苑第4版)ことである。
 転じて特殊な使い方では、「(そのことが自然に生ずる意から)〓高貴の人の行為をあらわす」とある。 ビールや列車が高貴の方になったのではあるまい。

 普通なら、「アイスクリームでございます」、「ビールでございます」、「列車が入ってまいります」、「2人部屋でございます」というのだ。
 世の中、普通でないことが多くなった。こちら老人となります、、、。

2009/07/08

152【言葉の酔時記】まったくもって無礼な電話屋の言葉遣いだぞ

 電話屋のNTTから「ひかり電話ルータの不具合に関するお詫びとバージョンアップのお願い」なんて長たらしい郵便が来た。
 ルータってなんだ、バージョンアップったあなんのことだ、日本語で言えよ。

 要するに、NTTが売った電話機と電話線をつなぐ機械(これをルータというらしい)が欠陥商品と分かったので、買った客が自分で治せ、というのである。
 そりゃないでしょ、欠陥商品なら治しに来るか、欠陥のないルータを持って取替えに来るのが、世の常識だろうよ。

 治し方を書いてあったので治したけど、来た文書を読み電話機に取り付いて治しおわるまでに20分はかかったぞ、それに加えて本当に治ったか確認のために天気予報にかけたから、その人件費と諸経費と通話料はどうしてくれるんだよ。
 そりゃまあ、たいした金額じゃないけど、でも100円くらいになるだろうよ(時給300円か、安いな)。光電話加入が何件あるか知らないけど、仮に100万件なら合計1億円だぞ。そんだけNTTは自分が原因の損失を免れて、消費者に負担をかけたのである。

 わたしの場合は一番簡単なやり方で治ったけど、それで治らなかったらという方法の、ひかり電話サイトにPCをつかって入ってやることになったら、もっともっと時間がかかるはずだ。
 お詫びとは言いつつ、こっちで治すのが当然の言い方、誰でもこれくらいは知っているみたいなカタカナ用語(ルータ、バージョンアップ、ファームウェア、プログラム、アラーム、INIT,CONFIG)を使って、とにかくそれが気に食わない。

「バージョンアップを行ないます」なんて、いかにも性能を高くするのをタダでやらせてやるみたいな言い方だが、要するに欠陥の修理である。
 「修理を致しますので、お手を貸してください」と言いなさいよ。

 コンピューター関係業者も礼儀知らずだけど、電話屋も無礼である。
 それにしても、買ってから6年9ヶ月経ったら、電話が自分で死んでしまうんだってさ、、バッカみたい。

 多分、この光電話を始めてから今頃が6年9ヶ月なんだろう、どこかでうんともスーとも言わない電話になってしまって、どうしたんだよって文句が出て、おやそうなのかってはじめて「ファームウェア(機器のプログラム)の不具合があり」って、欠陥商品だったことが分かったのだろう。

 この次はどんな欠陥が出て、どんな修理のご指示をいただくのか、タノシミである。
 あ、そうだ、これからは何か間違ってたら、ではバージョンアップします、って言おうっと。

2009/07/05

151【老いゆく自分】長い会議でも疲れない術は話の半分も聞かないでいること 

 一昨日は横浜都計審であった。2時間半ほどのけっこう長丁場の会議だった。会議のあいだを、きちんと聞いたり見たり読んだり言ったりしてすごごすのは、けっこう疲れるものだ。
 横浜都計審でのわたしは、多分、委員発言のうちの半分近くの時間を占拠してしゃべっていた筈である。でもちっとも疲れないのだ。

 それには、わが師匠から45年前に伝授してもらった秘訣があるのだ。わたしも歳とったから、このあたりで公開することにした。
 藤田邦昭という日本の都市再開発コンサルタントの草分け的な人がいた。8年前になくなったが、わたしが大学出てかけだしの頃、再開発にかんする地域の人たちのとの会合に、かばん持ちでついてまわったことがある。

 たいていはそのような会は夕方7時頃からはじまり、とりとめめのない話がだらだらと8割以上はあって、とりとめあることは1割くらいである。だからといって、とりとめないことを省くことはできない。
 午後10時、11時頃までつづき、いろんな人のいろんなことを聞いていると、若くて体力はあっても、頭がへとへとに疲れるのである。

 ところが藤田さんは平気で、話をしたり笑ったりしているのである。わたしよりも10歳も年上である。
「ねえ、藤田さん、どうしてそんなに平気でやっていられるのですか」と聞いたものだ。
 藤田さん曰く「わしなあ、みんなの話の半分も聞いとらへんねん、なんかほかのなあ、例えばええ女のこととかそんなこと考えとるんや、そやけどなあ、なんか質問あったらさっとそれなりに答えることできるんやで、それがプロちゅうもんや」

 それ以後のわたしは、これを座右の銘にして世の中をわたってきたのである。
 体力と知力の両方の衰えを感じる昨今であるが、一昨日の都計審もこの秘伝の技で乗り切ったのであった。


2009/07/04

150【横浜都計審】都市計画審議会の市民委員は疲れるもんだなあ 

 昨日の横浜都計審は、無事に(文字通り)終った。
 つまり、わが提案やお願いは一蹴されて、議事は原案とおりに事も無く可決されたのだ。
 会場にはまちづくり仲間数名が傍聴にきてくれて嬉しかった。

 ご期待に応えるべく提案やお願いにがんばったのだが、やっぱりドンキホーテか寅次郎、あれあれというまに一蹴二蹴されたのであった。
 これまで2回の審議会で上手く主張が通らなかったので、今回は作戦を変えて、議案に附帯決議をつけるという提案をしたのだった。

 今度はうまく行って、これについて審議をシッカリとしてもらえた。
 結論はNOだったが、審議してもらえただけでもわが進歩はあったと思うこととする。
 ♪奮闘努力の甲斐も無く~♪というところを、少しは甲斐のあったかもしれない審議会だった。

 それにしても、議事資料がきてから5日間しかないから、暇人のわたしでも結構忙しかった。
 一番の問題だった廃棄物処理場付近の土地利用に関しては、現地に2回も足を運んで見てきのだ。それでこの地域に住宅を禁止する措置を取ることが、どうしても必要と提案したのだが、通らなかった。 

 審議会で感じたのだが、どうも、現地を見ている委員がいないらしい、いてもごくわずからしいのである。議員委員の方はご自身の選挙区ならよくご存知であろうが、。
 現地を見ないで都市計画を審議するのは、都市計画の本質から言って大問題だと思う。

 孤軍奮闘又負けた。
 疲れるような、楽しいような、こりゃボケ防止になりますねえ、。

●参照→横浜市都市計画審議会を改革せよ