2010/05/29

270【言葉の酔時記】はずかしがりもせずにヘノコヘノコと辺野古談義

 ヘ〇コと書くなんてイヤラシイ、ワタシャミントーメンとフクシマさん。
 オレにたてつくとはフテだってハトヤマさん。
 まったくもってキナワメーワクだってナカイマさん。
 久しぶりにTVを見たら、ニュースでそのいきさつをやっていた。
 ヘ〇コ、ヘ〇コと男女が口々にいう。聴いてるこちらが恥かしい、まあ、いろんな意味でね、。
●参照→212辺野古仕分け分別

 わたしがそんな政治ニュースをTVでわざわざ見るし、つい先日もPCで仕分け作業のNET中継を見てしまったくらいだから、新政権は目に見える政治にしたことは、少なくとも前政権とは大きな違いがある。
 これは功績だと思う、内容についてはいろいろとイチャモンはあるがね。
●参照→263民主党は77万票失うか 167時代遅れの民主党公約

2010/05/25

269【法末の四季】山村の棚田で今年も田植えをしてきた

 中越の棚田で、仲間10人と田植えをしてきた。久しぶりの法主集落である。
 この冬は、この豪雪地の住人たちさえも話題にするほどの、まれに見る大雪だった。
 行く道の回りにある杉林のあちこちに、幹が途中から折れた跡が、白く痛々しく見えている。
 わたしたちの拠点の民家も、屋敷周りに植えてある杉の木のうちの2本が、根元近くからボッキリ折れた。モウソウ竹も何本も折れ曲がっている。
 北隣との境のケヤキの木は、雪で危ないので隣の方が伐った。庭木の松ノ木も、支柱にしていた竹が支えきれなくて倒れた。
 母屋と土蔵とを結ぶ廊下が、震災で少し傾いていたのが、雪の重みで傾きが進んだようだ。次の冬も大雪になったら倒壊するかもしれない。
 それでも春がくれば、スギナの草原になった庭には、花が咲いて風情がでてくる。タケノコやらウドも生えてきて、美味い料理になった。
   ◆
 田植えする棚田は合計で5段で5枚ある。昨年までは3枚で、今年は2枚増えた。
 さすがに5枚もとなると、あわせて2000平米近くなって、これまでにように遊びでやっているのだから田植えも稲刈りもなんでも人力でやってみよう、ってわけには行かない。
 3枚は田植え機で、広い2枚を手で植えたのであった。手で植える田には、あらかじめ六角という6角柱の木の梯子のような道具を転がして、碁盤目を土につけておく。その交点に植えていくのだが、なにしろ水中にあるから歩くそばからにごって見えなくなるので、ある程度は適当にやることになる。実はいい加減間隔に植えると、あとで困ることがあるのだが、まあいいや。。
 ウグイスを聞きながらの田植えは、腰の痛いのは兎も角としても、なかなかに風流なものであった。
 新たに増えたのは、その持ち主の住民の方から、もう疲れたのでやってくれないかと仲間に話があったので、できるだけ支援してみることにしたのだ。
 限界を超えた集落だから、このようなことが次第に起きてくるだろう。農業後継者がまれな時代だから、集落では珍しいことではなくて既にあちこちで起きていることである。たまたま今回はわたしたちが話を受けてやることになったのだ。
   ◆
 考えてみれば、この集落にはじめて仲間が来てからもう6年目、米作り体験も4回目の季節に入った。
 こうやって話を持ってきてくださるのは、仲間の努力で集落の方たちから信用される立場になったということであろう。
 しかし、農業技術があるわけではないし、毎日いるのではないから、作業方法や日常管理は地元の方の指導に頼らざるを得ない。
 これから米つくり体験の場を増やすわけにもいかない。増やすなら他から人を連れてくるしかない。仲間の中にはそんな実験を始めようとしているものもいる。
 しかしこれから先、どの棚田も誰かが耕作継承とか支援をすることはできないから、放棄棚田は増えてくるだろう。そのままにしておけば、草が生え木が生えて次第に森に還っていくのが、日本の自然の強さである。
 自然はそれでもよいと思うのだが、人間の高齢化は元に還ることはないから、集落はどうなっていくだろうか。集落縮退計画なるものが必要だろうか、あるいはそのような計画がありうるものだろうか。思案する。
●参照→●中越山村・法末の四季
    ●中越法末・四季物語

2010/05/17

268【本作り趣味】新しい趣味として自家製本づくりを始めることにした

 新しい趣味を始めようと思い立った。思い立ったら書いておかないと忘れるから、ここに書く。
 しかも、道具をすぐに揃えたから、思うだけでやらないってわけには行かないハメに、自分自身を陥らせたのである。
 製本というか装丁というかブックデザインというか、そういう手仕事をやってみることにした。

 早速に図書館からそのための本を借りてきた。栃折久美子著「ワープロで私家版づくり」と同じ著者の「装丁ノート」である。
 読んで基本的なことは分かった。そこでWEB検索したら、ここにも製本の方法を書いたサイトがいくつもある。
 WEBサイトでわかったのだが、自分史を書いて本にしたり、ブログに書いたことを本にするのが流行しているらしい。

 それは自費出版もあるけど、製本趣味で本にすることも流行しているようだ。製本趣味の教室もあるらしいし、NHKで趣味の放送もあったとか。
 なるほど、そういう時代なのか。
 栃折さんの本を読むと、製本はけっこう大昔からあった手仕事で、それなりに面白そうで、奥も深いようだ。
   
 わたしが突然に製本を趣味にしようかと思いついたのは、「父の十五年戦争」なる長文の記録を書いて、キンコーズでプリンター印刷し、ステップラーで中綴じしたA5版冊子を数冊つくり、従兄妹と息子たちに配ったことに端を発する。

 一応は配布し終えたのだが、そうか、表紙をつけてもうちょっと格好よい本にすることもあるなと気が付いた。しかも自分の趣味で一冊一冊異なるデザインにするのだ。いいぞ。
 そうやって、東急ハンズと100円ストアーであれこれと材料と道具を買ってしまったのだ。

 では早速に本にしようかと、新たな紙に新たなインクで印刷をして、5折りの本文(ほんもん)はできた。これを糸で綴じるかと眺めているうちに、もっと厚いほうが立派になるなあ、なんて、欲が出てきた。
 そうなると、ほかの原稿も取り出して編集することになる。それはそれで面白そうだ。やってみようと思いついた。

 だが、まだ始めていない。ほかに先にやるべきことが、それなりにある。
 楽しみは6月になってからだ。趣味は急ぐことはない。問題は忘れることだけだ。だからここに書いておく。

参照⇒◆「まちもり叢書」自家製ブックレットシリーズ

2010/05/16

267【各地の風景】鎌倉鶴岡八幡宮の大銀杏が消えた風景

 久しぶりに鎌倉に行った。今日のお目当ては、鶴岡八幡宮の大銀杏である。この3月に参道大石段脇にあった大銀杏が強風にあっけなく倒れた。
 数百年を越えて聳え立つていたから、永遠に立つものと誰もが思っていたから、そのあっけなさに驚いたものだ。
 あれは生き物であったのだ。遠くから見れば狂気の逆髪のごとく枝葉を天に乱し広げていたし、近くに寄れば巨大な胴周りに気根が牢爺人の瘤か老婆の垂れ乳のごとくにぶら下がり、そろそろ妖怪変化銀杏になる生き物の雰囲気を宿していたものだ。
大銀杏があった頃の景観

大銀杏がなくなった今の景観

 わたしは八幡宮の正面からの写真を、四季に応じてけっこうたくさん撮ってきている。大銀杏が目当てではなくて、社叢森の生態的変化をとらえたいのだ。
 大銀杏が消えた八幡宮の正面の風景は、大銀杏が左半分隠していた随身門が、今は全部見えるようになった。さてこれをどう評価するか。
 この大石段上の随身門は、若宮大路の南方の遠くからも望むことができる。銀杏がある頃よりもよく見えるようになってランドマークの性格が強くなった。
 西欧的な意味ではこれのほうが良いのだろう。

 しかし日本のランドマーク性は、むしろ奥深くに見えないところに隠すことによって深まるのだ。伊勢神宮内宮にしても天皇の居所にしてもそうなのである。
 その点では銀杏によって見え隠れする八幡宮のほうが日本的な象徴性を持っているのである。
 もっとも、それは日本の古代的な思潮であり、仏教が輸入されてからは大伽藍を造って顕示型になったとすれば、八幡宮もながらく八幡宮寺であったのだから、現在のような視覚に仰々しいほうが正しいのだろう。
倒れた大銀杏の根からひこばえが育つのを待つ

●参照→大銀杏の死 

2010/05/10

266【老い行く自分】さくらんぼ狩りをして少年時代の神社境内の生り物の味覚を思い出す

 サクランボを木から直接とって食べ放題、そんな贅沢をした。近くに住む友人の庭木である。実の付いた枝を折ってもらってもちかえった。
 太陽の下で、赤い実を一粒づつつまんでは口に入れていると、思い出したのは少年時のこと、生家の神社境内にあったユスラウメを同じようにして食っていた。
 そういえばその頃、本当にサクランボを食ったことを思いだした。参道の石段沿いに山桜と八重桜があり、そのなかに花が散ったあとで大きめの実をつけるものがあった。
 濃い紫色になる頃に食べると、口の中が紫色になった。ただし美味くはなかったから、味を試す程度だった。今のようなサクランボがあることを知らなかった頃のことで、これをサクランボといっていた。
   ◆
 境内の広場の周りや山林には、いろいろな木の実、果実が四季に応じて勝手に実った。何の手入れもしていないが、そういうものであった。
 戦後の食べのもののない頃は、腹の足しにするおやつでもあった。子どもはそれで四季を知る。
 春の桃は数個が生った。昨今の店に並ぶものと違って、歯ごたえがあり、ほんのり甘くほんのり酸っぱかった。懐かしい味だが、もう出会えそうにない。
 梅の実はたくさんなった。母が梅干を作っていたこともあった。
 広い斜面の竹やぶには、マダケのタケノコがたくさん生えてくる。ちょっととって来てと台所から母に言われて、崖上から身を乗り出しタケノコを折りとった拍子にヤブの斜面をずり落ちたことがあった。
   ◆
 夏になるとユスラウメとグミである。たくさんの実をながい間にわたって食べさせてくれる。グミといわず違う名であったが、思い出せない(追記100620 これを読んだ高校同期の女性がメールをくれて、30分考えて「ぐいび」といったと思い出して教えてくれた)。
 秋は銀杏の巨木から、たくさんの臭い実が落ちてきた。拾い集めて樽に入れてかき回して皮と種を分離する。種を干しておいて貯蔵し、ホーロクで炒って食べた。そういえば焙烙なる素焼き陶器の台所道具は、今もあるのだろうか。
 林の中の一角にキノコが群生していて、これは食べられたが、なんと言うキノコだったのだろうか。
 山栗のイガがはじけて落ちてくる。朝早く拾わないと、散歩に来た人に拾われてしまう。鎮守の森の山林のあちこちに栗の木があるのだが、これはその場所を知っている境内の住人のわたしの秘密の場所である。
 甘柿渋柿2本の柿ノ木には、1年交替でたくさんの実がなった。渋柿はゆでて甘くした。
   ◆
 冬はなにかあったろうか。そうだ柚子があった。濃い緑の葉の独特の香りと、棘を思い出す。葉を食って育った大きな毛虫が、そのまま柚子の葉のにおいを発散していた。
 父が京都の苗木屋から取り寄せて植えた果実の木があった。その名は「チンカポポー」。幼児の耳にも覚えていて、どんな実が成るかたのしみだった。だが、この木は大きくなるばかりで、一向に実がならないままだった。チンカは珍果であったらしい。
   ◆
 ずっと後に鎌倉に住むようになり、庭にユスラウメとグミを実らせたのは、思い出の再現である。
 庭に実生で生えてきた枇杷の木を大きくしたが、これは実が出るとすぐにリスに食われてしまって、めったに人間の口に入らなかった。
 その裏山には栗の果樹園があった。栽培中は入れないが、終わると入れたので枯葉のなかに拾い残しを拾った。キノコも沢山出ていたが、さすがにこれは採集する気にはなれなかった。
   ◆
 サクランボの友人の庭にも、たくさんの実のなる木があった。梅、ヤマモモ、甘夏、みかん、柿、キウィ、ユズなど、味で四季を感じさせる。この元プラスチック技術者は、玄人大工はだしのDIY趣味の延長上で果実作りもやっている。
 韮崎にいる友人もいろいろな果実をつくっているが、こちらは庭ではなくて広い畑である。ここのサクランボはまだならない。リンゴ、ソルダム、栗などとともに、何種類もの野菜も植えていて、この情報工学の専門家はロボット盲導犬の開発に忙しいが、農作にも忙しい。

 参照→136小屋を建てる 025今もし失明したら

2010/05/06

265【各地の景観】醜い景観を醜くなかった頃の景観に復元して遊ぶ景観戯造ごっこ

 インターネットのウェブサイト作りは、高齢社会のボケを防止する有用な道具であると思う。
 まちもり通信サイトで「景観戯造」というシリーズを始めた。
 これは美しい都市景観や自然景観をみていて、あれさえなければもっと良いのにという景観の中の異物を取除くという、景観を偽造する遊びである。

 本物の景観から取除くことはできないが、画像ならそれなりにできることがある。
 ある景観の画像をいじって、要らないかもしれないものを取除いてみると、意外な姿が現れることがある。
 あういは期待に反して、たいして違わないものが現れることもある。
 そんな遊びのような、景観スタディのような、現実ではできないけど画面ではできること、そうやって風景を偽造してみるのだ。

 江戸の名園の今と昔のありえたかもしれない姿、美しい山岳風景とその昔に見えたかもしれない風景など、いくつかの戯造した景観を載せる。
 ご覧になって、さて、あなたはどちらの風景をお好きですか?

題して
景観戯造


その1例をどうぞ

このほか多数あり

今後、ヒマにまかせて随時に追加していきます。

2010/05/02

264【各地の景観】スイスアルプスのアイガー北壁

 ドイツ映画「アイガー北壁」を見てきた。
 映画館に入ったのは何年ぶりだろうか。
 シネなんとかっていう、いくつも映写ホールのある映画館だが、スクリーンがずいぶん小さいし、客席も100人もはいるだろうか。8割くらいのいりこみだった。
 老人料金は1000円であった。さてこれは高いのか安いのか。もうちょっと待てば、近くの貸しディスク屋で老人料金200円で1週間かりられる。

 どうして見に行ったか。
 大学時代の山岳部仲間から、面白かったというメールが来たこと、昔々、この映画原作となっているハインリッヒ・ハーラー著「白い蜘蛛」を読んだ記憶があること、そして2006年6月にわたしはアイガー北壁を登ったことがあるからだ。
 登ったとは、北壁の中のトンネルをユングフラウ登山鉄道で登ったのである。
 それにしてもこんなところを電車を通すなんて、ものすごいことをやるものである。今なら環境保護派が承知しないだろう。
 長いトンネルを掘ったズリを、北壁の横にあけた穴から下に落としたのだそうで、途中の駅でその穴から外をのぞき見ることができる。

 ユングフラウ・ヨッホからの帰りには、トンネルを出たところのアイガーグレッチャー駅で途中下車し、歩いて下山を始めた。
 左にメンヒとユングフラウを眺めつつ、アイガー氷河に沿って下る。氷河の末端部が滝のように崩れ落ちる巨大さやら、その汚れやらに驚嘆する。
 とにかくあらゆる風景がスケールが雄大であり巨大であることに驚いている。

 放牧の牛の糞だらけの草原を下って、クライネシャイデック駅につく。ここのホテルが、北壁と共にもうひとつの映画の舞台であった。
 北壁の雪と氷と岩の壁に宙吊りとなって苦闘するトニー・クルツたちの苛烈な風景の映像が突然に一転して、暖炉の火の燃える温かく優雅なホテルの内部に替わる。
 この極端なる対比を映像は狙っていたのだろうが、ちょっと常套的すぎる。

 対比といえば、当時(1936年)のナチの台頭による政治的な様相を、オーストリア併合の問題も含めて、このアイガー北壁登攀に絡ませていることも、違和感があった。
 もちろん原作にはそんなことは書いてないのである。
 ただ登りたいだけのアルピニストに、政治を絡ませるのは映画としてはありうることだ。ただし、描き方がどうもとってつけた感があり、どこかしっくりこなかった。

 クライネシャイデックで一息入れて、右に方向を変えて下っていく。今度は右にアイガー北壁の正面をいつまでも眺めていられる。
 下のほうはよく見えているのだが、上方の「白い蜘蛛」辺りから上は雲の行き来が忙しい。あまりに巨大すぎて、見上げる首が痛い。足元に注意しつつ真正面から見上げるアイガー北壁を堪能する。
 これだけでかいと日本の山の岩登りはものすごく小さく思えて、ルートハンティングの勝手がおおいに違いそうだ。
 なんだかどこでも登れそうだが、はっとスケールを勘違いしていることに気付き、どこも登れそうにないと見えてくる。
 
 赤い断崖の下あたりや、その左あたりにいくつかの穴が見える。左の穴は窓になっていて、アイガーヴァント駅のところで、登りには途中下車してそこからこちらを見下ろしたことろだ。
 右のほうの穴は、最後にトニー・クルツ救助隊がここから北壁に取り付いた。
 悲劇の主人公トニー・クルツの恋人はここから出て、トニーを励ましつつ、氷の岸壁で夜を明かしたし、目の前にぶら下がるトニーの死を見つめることになる(原作にはない)。
 この女性を登場させるのも、映画の常套手段として、もっともらしいことであるとは思った。
 トニークルツに肩入れしたい昔山岳部としては、彼女をもっと純粋な形に登場させてほしかった。

 さて、たっぷりと北壁の眺めを味わいつつお花畑を下っていった。仲間は咲き乱れる花にしゃがみこんだりしているが、わたしはもっぱら見上げているばかり。
 そうやってアルピグレン駅まで歩き、また登山電車でグリンデルヴァルトに下った。

 映画の原作といっている「白い蜘蛛」を、昔々わたしは読んだ覚えがあるのだ。学生の頃だろうか。
 その中にあった一枚の写真、トニー・クルツがザイルで空中にぶら下がる姿に、強烈な印象をうけたのだった。救助のために出た坑道辺りから撮った書いてあった(ような気がする)。

 映画を見てきて、「白い蜘蛛」を県立図書館から借りて再び読んだ。奥付を見ると、1938年に初登攀したハイリッヒハーラーが1958年に出版した「DIE WEISSE SPINNE Die Gschichte der Eiger-Nortwand]で、日本では「白い蜘蛛-アイガーの北壁」と題して1960年に横川文男訳で出版している。
 ところが不思議なことに、そのトニー・クルツの写真がないのである。ということは、わたしの読んだのは別のなにからしいが、いったいそれは何だったろうか。

 岩壁登攀の映像は、かつて岩登りをしていたことがあるものから見ても、なかなか迫力があった。
 「アイガーサンクション」という映画があったが、岩壁登攀映像はインチキ臭くて、見るのがバカらしくなったものだ。
 ただ、岩登りをしていたものや、登攀ルートの知識のあるものには興味深いが、それだけに物足りない感がある。
 もっと事前のルートハンティングや、現場でのルートファインディングの苦労を見せてほしいものである。

 逆に、岩登り知識のないものには、場面場面の迫力はあるが、なぜそうなるのか全然分からないだろう。自然は厳しいものだなあ、てなくらいなものだろう。
 まあ、娯楽映画はそんなもんだ、といえばそうなのであろう。
 日本の山岳映画として最近評判になった「剣岳 点の記」よりははるかによかった。「点の記」はストーリーがなってないし、風景映像は美しいが順序がでたらめ、下界でのあれこれ場面がなんで必要なのかさっぱり分からなかった。

●参照→昔山岳部●参照→・ヨーロッパアルプスは棚田だった(2006)
http://homepage2.nifty.com/datey/swissalps.htm