2010/10/30

343【父の十五年戦争】続・父の遺品の蛇腹写真機の製作出自が判明した

 昨年4月にこのブログに「118父の遺品の蛇腹写真機」を掲載した。
 それをご覧になった方からメールをいただいた。承諾を得てその一部を引用する。

ご尊父の遺品のカメラですが、戦前に私の祖父が経営していた山本写真機製作所の製品の錦華ハンドカメラに間違いないと思います。1933年ごろの製品です。神田小川町に所在し、近くの錦華公園に因んでKINKAと名付けたようです。山本」(抜粋)

 おお、そうであったか。「日本製だろうか」と書いたけど、れっきとした国産であったか。身元がわかって嬉しい。
 さっそくウェブサイト検索したらCamerapediaというサイトがあり、そこにKinka plate foldersなるページがある。はじめのほうにこう書いてある。

The Kinka (錦華カメラ) 6.5×9cm plate folders were made in the early 1930s by Yamamoto Shashinki Kosakusho. One source says that they were released in 1931. The company later made a number of other cameras under the Kinka brand: see Kinka Lucky, Kinka Roll and Semi Kinka.」

 これによると錦華カメラは、1930年代に山本写真機工作所が製造販売したらしい。
そこにカメラ雑誌の「アサヒカメラ」1932年6月号に載っている広告の画像があるので引用した。
 このFAMOSEを辞書を引いても分からないが、FAMOUSの書き間違いだろうか。
 父がカメラを買ったのは、多分、初めての子が生まれた1935年だろうから、山本さんのメールにある1933年ごろの製品とすると年代的には合う。

 ここに載っているカメラと父のカメラとは、形はソックリだけど、部品はちょっと違うようだ。
 父のカメラのレンズは、Munchenとあるからドイツ製らしいが、シャッターはELKA T.B.C.T.とあって、Camerapediaで調べると製造所はよく分からないが日本製とある。

 値段もわからないが、広告にあるものと大差ないとして30余円だろう。
 物価の差を調べてみると当時の葉書が1銭5厘、今は50円だから3333倍、とすると30円の3333倍は10万円か、高いようにも思うが、今と違ってカメラは珍しい頃だからそのようなものだろう。

 父はどのようにしてこれを買ったのだろうか。昔、高梁の新町に写真機店(店名を忘れた)があったから、あとあと乾板を買う必要もあるからそこで買ったのだろう。
 現像と印画は家でやっていたようだ。薬や印画紙がたくさんあったが、少年のわたしが玩具にして露光させてしまった。
 なんにしてもインターネット時代はすごいものである。普通なら古物写真機マニアにしか分からないことが、こうやって分かるのだから。


2010/10/29

342【各地の風景】新潟の裏路地と巻町の鯛車を見てきた

新潟に行ってきた。毎年、各地持ち回りでやっている「全国路地サミット」なる会合である。
 昼間は路地をうろうろと歩いて、夜は飲む会である。それだけではまずかろうと、飲む前に一応のシンポジウムのようなこともやる。
 言ってることはいつも同じで、狭い路地はいいなあ、飲み屋もあるし、酔っ払っていても車は入らなくて安心だと、その開催した街の裏路地が好きなノンベの変人奇人たちがジマンするのである。

 新潟にもその類の男や女がいて、全国各地から来た物好きも入れて200人ばかり集まった。よそから来た奴も自分ところの路地のほうが狭い長い汚い綺麗とかなんとかジマンする。
 新潟の古町・本町あたりは、表通りは立派な中心商店街であるが、そのすぐ裏に入ると怪しげなお兄さんが客引きしたり、料亭・置屋・揚屋などの花街になるのが面白い。
 夜の宴会は、いまはもう閉鎖している待合をわざわざ開けて、仕出料理を取ってやった。さすがに新潟芸者を呼ぶには金の足りない会議であった。

 来年は東京の向島でやることに決まった。あそこは江戸時代の田圃がそのまま町になったところで、路地でないところを探すほうが難しいくらいである。
 あくる日は巻町に行った。鯛車でまちおこしの意気込みが面白かった。鯛車は新発田の金魚台輪が鯛になったものだが、大きさが断然違うのであった。

参照→住民による住民のための観光・巻町を歩く

2010/10/27

341【各地の風景】信州山中の金ぴか御殿

 信州安曇野の東隣あたりに、今は松本市に吸収されているが、四賀村というのんびりした農山村がある。
そこのクラインガルテンで野菜つくりと絵描きをしている旧友がいる。
 その娘夫婦は、いわゆるIターンでこの村にやってきて住み着き、専業農家をしている。いまどきそういう若者たちがいるのである。日本の将来は明るい。
     

 そこへ旧友の作った野菜を仲間で食べに行く「収穫祭」と称する小旅行を毎年やっている。
 この村は松茸の産地である。今年は松茸が豊作とて、夜は市営のその名も「松茸山荘」に泊まって、松茸料理コースを堪能(?)してきた。
 このあたりは昔は善光寺街道の宿場であり、今も伝わる古寺や街並みも魅力的である。
 食べるだけでなく、近隣の古社寺や隣の安曇野に美術館をたずねる文化的なこともやる。
だがなんといっても、田園の人文と山並みの自然が織りなす四季の風景がすばらしい。風景を描くのが好きな旧友がここに来たわけも分かるような気がする。
 
   ◆
 そのようなのどかな農山村の中を徘徊していると、突然、白亜に金ピカと彫像装飾だらけの西洋の古城が出現した。
 信州ゴールデンキャッスルと看板がある。つまり金ぴか御殿か。
 ふ~ん、こんな山の中でラブホテルかよ~、それもいいかもなあ、なんて近寄ってみんなで車を降りて立ち並んで、その周囲の風景との対比のスルドサに呆然として眺めいる。
 ヨーロッパのどことかのお城みたいだ、あ、ノイシュバンシュタイン城なら行ったことがあるぞ、でもちがうなあ。

 

 ゲートあたりでうろうろしていたら、中から宮廷衣装のお姫様ならぬ普通の洋服を着た女性がでてきて、案内パンフレットをくれる。
 聞けば、この地はなんとあの伝統ある居酒屋チェーン「養老の滝」の創業者である会長の故郷であり、その関連会社が経営する結婚式場だそうだ。
 まあ、ラブホと縁がないでもない。この白亜西洋古城風彫像行列デザインは、その会長さんのご趣味であるとのこと。

 裏山も西洋風か日本風か分からない豪華な造園をしておられて、庭のあちこちになんだか値段が高そうな銘石類を配置というか展示してあり、ひとつひとつに名札を立てておられる。ついでにお買いになったお値段も書いてくださると分かりやすいと思った。

 多分このあたりの大地主さんだろうから、これからは裏山のほうばかりではなく、周囲の農家も田圃も全部に手入れをしていただいて、田園はベルサイユ宮殿ばりの花咲き池のある大庭園に、家屋は西洋農家風にフランス瓦とスタッコ壁で緑の窓枠なんて模様替えして下さると、実によろしい様な気がいたしました。

2010/10/25

340【各地の風景】上高地に山岳部時代思い出センチメンタルジャーニー

 何しろ晩年を迎えているのだから、特に深刻でもないが、今のうちにできることをしておこう思う。そのひとつにセンチメンタルジャニー、つまり感傷旅行がある。
 若い頃に訪ねて印象深かったところを、もういちど訪ねて、わが人生を振り返るのである。振り返ってどうするってことではないが、まあ、身体能力の差を明確に確認することはできる。
    ◆
 信濃から越後へと1週間の旅をぶらぶらとしてきたが、その中で日本アルプスの登山基地である上高地を訪ねる感傷旅行をした。
 半世紀以上も昔になったが、大学山岳部の春合宿で、初めて上高地に入り、帝国ホテルに泊まった。といっても積雪期はホテル営業はしていないし、たとえ営業していても学生が泊まれるところでもなかった。泊まったのはホテル管理人の家であった。登山者たちを泊めてくれていたのだ。
 その後、いつの日か上高地帝国ホテルに泊まりたいと思っていながら、いまだに果たせていない。それで今回は遂にその宿願を果たした。というのは嘘で、松本駅前のビジネスホテルに泊まっての日帰りであるのが、情けない。
 上高地までバスで行き、帰りのバス時間を決めておいて、その間で行き着けるだけ行って戻ってくることにした。
なんだか東京繁華街並みのにぎやかな河童橋あたりを抜けて奥へ奥へと歩き出す。
 紅葉が美しい林の中を植生を楽しみながら、ときどき林が切れて梓川と穂高の山並みが顔を出す雄大な風景を楽しみながら、徳沢園まで6.5km、往復13kmを歩いた。

    ◆
 昔々、初めて上高地に入った山岳部合宿のときは、西穂尾根に登って西穂高岳まで行く予定は、尾根の上で吹雪の日々が続いてテントに閉じ込められて敗退した。もちろん島々から重い荷物を背負って雪道を徒歩で往復である。
 次の年の夏は剱岳から縦走してきて、横尾にテントを張って屏風岩を登攀した後に、歩いて上高地に下り、更に歩いて島々まで下った。
 その秋だったか、島々から徳本峠を越えて上高地に入り、涸沢でテント生活数日、北穂高岳滝谷の岩場登攀、奥穂から槍ヶ岳に縦走して帰ったこともあった。
それが今ではもう下から眺めて、それらの思い出を心の中で反芻するだけの、センチメンタルジャーニーである。もし次のチャンスがあるならば、せめて横尾から屏風岩の下まで行って見たい。往復20kmを超えるが。

2010/10/18

339【世相戯評】ミラノとベルガモを間違えたように羽田と成田を間違うよ

 羽田空港が国際化されて、成田と両方が国際空港になるそうだ。不案内の外国人が困ることが起きるであろうと、他人ことながら気になる。
 それは、わたしが困ったことがあったからだ。

 ミラノにはマルペンサとベルガモの二つの空港がある。あれはもう15年ほども前のことだったか、知人と二人でフランクフルト経由でミラノに降り立った。
 ミラノ都心までバスで行く予定にしていたので、バスターミナルに行った。

 ところが事前に調べていたミラノ都心行きのバスが見つからない。そのあたりの人に聞いても、そんなバスはない、ミラノ空港行きバスならあるという。
 だってここはミラノ空港だろう、何言ってるんだよって、数人に聞いても同じようなことを言って、なんだかよく分からない。もちろん言葉が通じにくいのは当たりまえ。

 どうも変なので、空港の中まで引き返して案内所で聞くと、分かった。
 ここはミラノ空港ではなくて、ベルガモ空港だという。え、ミラノじゃないの?
 なんとまあ、ミラノが霧で降りられなかったので、ここに降りたという。だからミラノ空港までのバスで行って、そこから都心に行けというのだ。

 こちらはてっきりここはミラノ空港だばかり思い込んでいて、その前提で人に聞くから、変なことになっていたらしい。間違いの原因はこちらにあった。
 でも、それならそれと飛行機の中で言いそうなものだと思ったが、考えてみるとフランクフルトで乗り換えたのが、ヨーロッパ内のローカル線なので、こんなことはよくあることとて、放送はしたのだろうが、ごく普通の調子であったのだろう。こちらはそれに気がつかなかった。

 羽田に下りたはずが成田だったの感じで、ずいぶん距離は違う。そんな間違いがこれからありそうだ。

2010/10/15

338【怪しいハイテク】検察官が証拠物件のフロッピディスクデータ改竄とは

 検察官が証拠品として被疑者から押収したフロッピーディスクのプロパティに手を加えて、文書作成日付を検察側に都合がいいように書き換えたという検察官の犯罪事件が、いま世を騒がせている。
 わたしはデータのプロパティの書き換えができるなんてことは知らなかったが、それを知っていた検察官も、書き換えたことがディスクに記載されるってことを知らなかった。
 もしも裁判でそのディスクが証拠品として提出されたとしても、それを専門家に鑑定されると、改竄がばれたはずである。

 今回は裁判の外で新聞記者がばらしたので、その被疑者の上司が冤罪だった無罪判決と共に、社会的事件となっている。
 こうしてみると、電磁記録による証拠なんてものは、本当に証拠となるのだろうか。ディスクの中の奥の奥まで見ることができるということは、奥の奥まで改竄することができるってことだろうと思うのだ。

 今回はそこまで知らない人の仕業だったからばれたけれど、これからはそうはいかない。だから改竄しないようになるのではなくて、奥の奥まで改竄できるソフトウェアが出回るに違いない。
 こうなると、手書きのものしか証拠にできなくなる時代に逆戻りかもしれない。
 あ、それも高級テクニックで手書きを改竄することができるようになるかもなあ。いたちごっことはこのこと。

2010/10/14

327【世相戯評】元に戻っただけ

 地球の裏側で土中深くに閉じ込められた33人の人たちを、長尺の穴を掘って助け出す作戦が成功したとかで、新聞テレビはこのニュースで持ちきりである。
 個人名から顔写真一覧まであって、普通の報道でここまでするものかしら。
 それはそれでよかったのだが、この原因が天災ではなくて、鉱山の落盤という産業事故であることが気になる。なぜ事故が起きたのか、そのあたりの報道が全く無い。

 いかにも美談らしく報道しているが、実は人災の大事故の始末なのである。
 現場に国旗や国家が登場してくるのは、お国柄や人さまざまであるが、こちらではそれはないだろうなあと思う。

 考えてみると、この事件は何も前向きのことはなくて、地上に戻ってきて元に戻っただけである。
 こちらでおきた事件で、厚生労働省の局長が冤罪逮捕から裁判で無罪になって戻ってきたのと同じである。
 マイナスの状況がプラスマイナスゼロになっただけで、本当は喜ぶのはおかしいはずである。
追記101015)
 今朝の朝日新聞に、33人閉じ込め事件のチリの鉱山は、これまでも事故が頻発して問題となっていたと記事が載っている。全員無事に救出できたから、ようやくその面に眼が向いたか。

2010/10/09

326【世相戯評】差別意識が見えるノーベル賞

 インドで新言語が発見されたとの報道がある(2010.10.05朝日新聞夕刊)。500人ほどの人がしゃべるコロ語だそうである。
 これってまるでコロンブスの新大陸発見みたいに、発見するほうとされるほうという極端な差別意識がある。発見するほうが常に先進文化で、されるのは後進であるとの意識が見える。
 コロ語をしゃべる人たちは、発見される立場なのか、誰が発見するのか。この報道の元が、USAナショナルジオグラフィック協会だというのだから、なるほどそうかと思った。
 一時ナショナルジオグラフィックを定期購読していたことがある。記事は面白いのだが、いつもその西欧的な眼で未開の文化を「発見」する差別意識が見え見えで気になっていた。
 今に日本のどこかの村で新言語を「発見」されるかもしれない。
   ◆
 国会議事堂の中で、雑誌の商業的タイアップ記事の写真を、女性代議士をモデルにて撮影したのは、ケシカランと男の議員が怒っているとの新聞記事がある。
 神聖なる場所を穢した、ケシカランと言うのだそうだが、ヘンである。
 ファッション雑誌に載るようならようやく国会も庶民に近くなってきたのであろうに。
 税金で作って、税金で運営してるんだから、神聖なる場所を穢すなんて、差別用語を使って忌避してはいけませんよ。
 ところで国会を舞台にしたテレビドラマとか漫画とかはあるのかしら? 無いとしたら、似たようなイチャモンがあったのだろうか?
   ◆
 2010年のノーベル平和賞は、中国の獄中にある民主運動の活動家だそうである。
 中国政府当局はカンカンにお怒りらしい。個人的なことなのに、ノルウェーと国交断絶なんて、見当違いのことをするかもなあ。
 でもねえ、去年はオバマだったし、その前はアウンサン・スー・チーとかダライ・ラマだったし、日本で唯一それは佐藤栄作であったよなあ。なにか筋があるのか考えてもスーチーと佐藤栄作なんて天地の差で、なんか分からんよなあ。

 そもそも平和賞なんてのは、極端に政治的な代物であるから、アチラから見れば平和主義者、こちらから見れば政治犯となるのはあたりまえである。
 その点ではノルウェーのノーベル平和賞委員会ってところは、度胸があるなあ、としか言いようがない。
 平和賞なんてものが存在する世の中がそもそも間違っている。

 ノーベル賞も「授与」するって言うから、授け与えるほうと受け戴くほうの間の差別感が著しい。
 王権にある者が特権階級を保証する勲章や爵位があった時代のそれと同じように誰もが思っているらしいが、どうも前近代的である。
 いつも思うのだが、賞なんてものは授与するものじゃなくて、感謝して贈るものであろう。例えば文学賞はたいていは「贈呈式」といっているから、贈るものであろう。もっとも出版社が贈るのだから、儲けさせてもらうお礼かもしれない。

 だとすればノーベル賞だって、社会のために有意義なことをした人たちへの、世界の人々からのお礼の贈りものであり、それをノーベル財団の寄附で行なっているという風にならんもんですかねえ。
参照→254授与と贈呈

2010/10/07

325【本づくり趣味】「まちもり叢書」縁起

 以前に書籍の手作りなる趣味をはじめたことを書いた。
 306手製本2種http://datey.blogspot.com/2010/08/306.html
 268本作り趣味 http://datey.blogspot.com/2010/05/268.html
 本日、第5号「街なかで暮らす」ができて、これまで5種類の本を編集したことになる。
 そこで、よく会う人たち、久しぶりに会う人たち、その人が読みそうなもの、というより、その人に読ませたいものを選んで手製の本にして、勝手に押し付けている。
 5種類ともなると、なんだかシリーズになるような気がしてきた。
そこで「まちもり叢書」と名づけることにした。随時出版つまりDTPである。
 各本の最後に下記のようないわれを書いた。

●まちもり叢書縁起 2010年8月 まちもり散人
 長い人生で仕事やその周辺、そして趣味でたくさんの文章を書いてきた。いわゆる商業出版物は、共著も含めて10冊くらいだろうか。仕事でまとめた報告書なる印刷物は、200冊を越えるだろう。それらは商業出版ではないが、わたしとしては面白がって、私見もたくさん書き込んだものである。雑誌への雑分類の寄稿もある。
 それらの昔の頃からの書き物を整理して、2000年末からインタネットサイト「まちもり通信」に掲載を始めた。そのうちに書き下ろしも載せるようになり、ついには2008年からブログ「伊達な世界」も始めた。ぼう大なファイル数のサイトになってしまった。
 実は10年くらいまえに、主なものをまとめて出版しようかと思ってその気になった。だが思い直した。これほどにインタネットが普及すると、紙情報よりもこちらのほうが優れていると思うようになった。絶版はないし、誰でもアクセスできるし、ほとんど無料だし、随時公開できるのである。
 だが問題は、読ませたい人が読んでいただいているかどうかとなると、インタネットはまことに心細い。これが書籍ならば、こちらから一方的に直接押し付けて、読め読めと催促できるし、読む人も持って歩いて電車でも読める。
 そこで考えた。ジャンルを決めて編集し、机上でデザインして編集、プリントして装丁・製本、趣味の手作り本にして、そのときどきの見せたい人に配ることにしたのである。
 題して「まちもり叢書」、随時出版、つまりDTPである。
 今これをお読みの方は、その被害者のお一人である。なにとぞ、徘徊老人のボケに免じてご容赦を。

 そして現今既刊と将来刊行見込みはこうである。

●まちもり叢書・趣味の卓上手作り出版
―――既刊(2010.10時点)―――
父の十五年戦争/神主通信兵の手記を読み解く
波羅立ち猜時記/日々の小言僻言繰言寝言
・街なかで暮らす/あぶないマンション・いらないバイパス
―――続刊(見込み)―――
・建築保存とは何か/赤煉瓦東京駅舎の復原から考える
・中越山村の四季/棚田の米つくりから見てくること
・自然の風景・文化の景観/なにもかもが人間の仕業
・山口文象/時代の先端を駆け抜けた異色建築家
・高梁川/鎮守の森から

 さて、続刊できますかどうか、われとわが身を試すお楽しみである。

●参照⇒「まちもり叢書」ブックレットシリーズ

2010/10/03

324【言葉の酔時記】アパートと共同住宅とマンションはどう違うのか

 少年が放火で逮捕されたというニュース。その中味はともかく、新聞によって下記のように放火建物が違うのである(いずれも「あらたにす」サイトから引用)。
 読売では「アパートから出火、木造2階建て約670平方メートルを全焼」、
 日経では「アパートから出火、木造モルタル2階建て計約650平方メートルを全焼」、
 朝日では「共同住宅付近から火が出ていると119番通報」
 これらのアパートと共同住宅にはどのような差があるのだろうか。
 新聞社によって書き方が違うのかと思ったら、朝日には「隣のアパートに住む女性(26)は火事に気づいて外に出た際、」ともある。放火の「共同住宅」の隣には「アパート」があるらしい。この違いは何だろうか。
 国勢調査では、アパートもマンションも共同住宅に分類されている。
 2階建てならアパート、3階以上ならマンションというのも珍妙である。長屋(テラスハウスなるものもこの形式)はなんと言うのか。
 不動産屋が誇大セールスのために勝手につけた奇妙な名前にしたがって、新聞屋もいちいち違えて言うからおかしくなるのだ。
 1棟2戸以上の建物は全部「共同住宅」にして、2階建て部屋割り型(いわゆるアパート)とか、2階建て連戸型(いわゆるテラスハウス)とか、30階建て区分所有型(いわゆるマンション)とか、くっつけてはどうか。
●参照→くたばれマンション



2010/10/01

323【世相戯評】正義を振りかざす

 なんでも検察官が、犯罪者の犯行の証拠品を改造して、無実の人に罪をかぶせようとしたとかで、マスメディアがけしからんとボロクソに言って騒いでいる。
 ちょっと待てよ、その罪をかぶせられようとして無実なのに逮捕された厚生労働省の逆転無罪局長は、その当時マスメディアから犯人扱いされて、ケシカランとボロクソに言われていたような気がする。
 ということは、こんどの逮捕された検察官をボロクソに言っている今の報道は、もしかしたらこれも怪しいような気がする。またもや逆転無罪検察官になって、大恥をかくかもしれないぞ。
 社会の木鐸だとか言って、マスメデディアは正義を振りかざしたがる。どこから正義でどこから不正義なって、ホンマは分からんことだよなあ。
 最近アメリカの大学教授が「正義について語ろう」なんて名講義をして、日本でも大評判らしい。
 でもなあ、「正義」を振りかざされると、なんとも胡散臭いと思ってしまって、そちらさまでご勝手にどうぞ、わたしは敬遠しますって、言いたくなるのである。