2011/12/31

562余はこともなし

本当は、世はこともなし、というのだが、世にはことがあり過ぎるし、余にはことがなさ過ぎるのである。
 一日が夜昼あって、間に睡眠という動物的行為があるから、これは明らかに変化の節目がある。
 しかし、一年が終わるといっても、突然老化が進むという時間が飛ぶわけじゃなし、起きてみたら別の世界にいるって環境が変わるじゃなし、この日から正しく生きようなんて心が変わるじゃなし、何の変化の節目もない。
 それなのに人々は騒ぐのはどうしてか、昔から不思議におもっている。
 
 わたしは、わざわざことをつくるべき理由がないから、普通なる時間をすごすだけである。
 年賀状も書かなくなった。その代わりに寒中見舞いを書くのだが、これは寒さという季節の節目があるからだし、寒いと人間は能力が衰えて病になるから見舞うのは妥当なる行為である。
 明日の朝は、いつもの元日のように雑煮を食うのは、生まれてからの習慣であり、これだけがわたしの唯一の正月らしいことである。
 なお、わたしは服喪という習慣が理解できないので、わたしの父母のときも普通にしていたし、人様のそれもほとんど気にしないので、ますます正月気分はない。

 そんなショウモナイことを言って年を越すことができるのは、これをもって平和であるというなら、余はこともなし。

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