2012/03/26

600山口文象設計戦前モダン木造住宅現存発見

建築家・山口文象の設計した建物探しは、いまだに新発見があって面白い。
 先日(2012年3月)、世田谷文学館で、「都市から郊外へ―1930年代の東京」展覧会を見てきた。
 その展示に彫刻家の菊池一雄のアトリエ建築の写真と、菊池の手書きのアトリエ案内地図があった。
 おお、山口文象作品だ、思いがけない出会いに感激。
 これは1931年に建っているから、山口文象にとっては渡欧直前であり、建築家としてはまだ世に名が出ていないころの設計である。
 石本喜久治の事務所で経験をつんではいるが、個人作品として現実に建った建築はまだ2、3作目のはずだ。

 RIA所蔵の山口文象コレクションにもその写真はあるのだが、手書き案内図を見てこんなところに建っているのかと知ったのであった。
 学芸員の方に聞くと、建築家・池辺陽による増改築の手が入っているが、現存しているとのこと。
 早速に行ってみた。
 元の山口文象デザインが変わっているとしても、池辺デザインならすぐわかるに違いないと、見当つけて歩いていたら、おお、やっぱり池辺デザインだ、これは。
 例の池辺が一時期よくつかったことのあるスレート波板である。鉄骨と波板という工業製品を自在に組み合わせる池辺デザインが、鉄骨は見えないがここにも生きている。
 もっとも、普通眼にはどう見ても工場にしか見えないので、そのデザインの意義は玄人にしかわからないだろうが。

 道路は北側にしかないから見ているのは北面である。アトリエが建った頃はこの道路はなくて畑が広がっていた。
 こちら側にあのアトリエのガラス面とガラス屋根そして急勾配瓦屋根の組み合わせによるモダンスタイルの立面があり、その峰から南に向かって大きな勾配屋根が下がっていっていた筈だ。
 その北立面は全面にスレート波板の壁が立ち上がり、そのままスレート屋根になって登り、峰から南に南に向かって大きな勾配屋根が下がっている。
 ふむ、これは南への大屋根は元のままで、北の壁を壁を壊してここに池辺デザイン増築をしたらしい。北側からみると昔の面影を伝えているものは、大屋根勾配とシャープな下屋庇であるようだ。スレート壁に瓦屋根の下屋が取り付いているのは、もとの瓦屋根のイメージ継承のつもりだろうか。 

 南側の庭の方を見ることはできなかったが、グーグルアースの衛星写真で見ると、大屋根のままだから、もしかしたらそちらは元のデザインがあるかも知れない。
 山口文象とはかなり親しかった池辺陽だから、必ずやイメージとしては継承しているだろうと思う。
 グーグルアースで見ると、周辺の家がどれも道路に直角に建てているのに、この菊池アトリエだけが南北軸にあわせていて、微妙にずれているのがわかるのだが、これはアトリエが当初の建物であることの証明である。
 普通に見れば池辺デザインは異様であるが、それは芸術家の家であることのサインである。
 山口文象作品でモダンデザイン木造住宅はひとつも現存しないと思っていたが、かなり変わってはいるがこれは現存している唯一のものだろう。

 竣工時の写真では、まるで畑の中の一軒家のごとくであるが、いまはそれなり密度の高い住宅地のなかにある。
 展覧会のテーマである「都市から郊外へ」については、1930年代から東京周辺の緑地帯は、こうやって住宅地化されていったのである。
 そのなかで芸術家が果たした役割のようなことが、この菊池アトリエもそうだが、展覧会のひとつの柱らしい。
 そこのところは、展覧会を見ても実はわたしにはまだよく飲み込めていないのだが、面白いテーマであるとおもう。

 1930年代の東京の大きな変化は、1923年の関東大震災に起因するのである。
 このところそのあたりの資料がありそうな展覧会で、この世田谷と、葉山の神奈川県立美術館での「村山知義展」、そして新橋パナソニックミュージアムでの「今和次郎展」をハシゴしたのであった。
 そこで村山も今も、関東大震災を契機に新展開したことを確認したのであった。
 建築家・山口文象を産み落としたのも同じく関東大震災であるから、20世紀末と21世紀はじめの東西の大震災は何を産み落とすのか、あるいは産み落とさないのか、興味があることだ。

参照→山口文象アーカイブス1931年菊池一雄アトリエ

2012/03/24

599非日常・異日常そして日常の風景

横浜新港地区の結婚式場建築の計画が、横浜市の都市美審議会でNO、だが、そのままGOになるらしい。
 この件は以前に「592市場における都市美とは?」で書いた。
 http://datey.blogspot.jp/2012/03/592.html
 まだ、審議会議事録も変更デザインもウェブ検索では出てこないので、ここでは景観瓢論の域をでないが、興味をかきたてられる。

 1月の審議会の部会につづいて3月23日に開催、「テーマパークのようで抵抗がある」、「これを通すなら都市美審議会はを解散したほうがいい」などと委員からの過激な発言があったことを新聞(朝日新聞2012年3月24日横浜版)が伝えている。
 高さと色の一部変更があったらしいが、審議会の委員たちが最も問題とした(らしい)あのゴチャマゼ様式建築デザインに関しては変わることはなかった模様である。

 たしかにこれはテーマパークそのものである
(計画図http://goo.gl/w00Cg
 だが、まさにそれが事業者の狙いなのだから、根本のスタンスが異なるのはどうしようもない。
 皮肉にも、委員がそれを指摘すればするほど、事業者はそのデザインの意図を保証をされたように思い、事業の成功を確信するだろう。
 結婚式場という非日常の場は、まさにテーマパークそのものである。その日だけは王子様王女様になってまわりから祝福され、明日から待ち受ける厳しい日常もテーマパークの日々が続くような幻想を抱かせる場、それが結婚式場である。
 
 昔は婚礼(結婚式とは言わない)は、その夫婦が暮らす家でとり行うものだった。
 それはあくまで日常世界の連続の位置にある行事だから、住家でなければならなかった。
 親戚や町内の人々が寄り集まって、その日だけは非日常の花嫁と花婿を、明日からの日常へと円滑にとり込むための行事だった。

 それがだんだんと家の外にでていくようになってきたのは、家が狭いとか核家族とかの時代になってきたからだろう。
 しかし、かつてのように公民館でやっていた頃は、まだ異日常レベルだったが、ブライダル産業の登場からは非日常行事へと進み、婚礼は結婚式という儀式になっていく。
 そして儀式のための仕掛けも非日常化たテーマパークとなり、ディズニーランドのように入場者一人当たり1万円以上を消費させる産業に成長する。

 若者が少なくなってくると、ブライダル市場も狭まるから、ここで生き残りをかけた寡占を狙って産業界は必死になっているに違いない。
 そのためには、その立地選定、施設内容そしてサービス内容の競争になる。
 そこで話が元に戻って、横浜新港地区のこの施設立地は申し分のないテーマパーク性を備えている。
 運河に面した見晴らしよい場所、テーマパーク性をいやがうえにも演出してくれる背後の遊園地、そして憧れのヨーロッパ古典?建築のキリスト教会、、、おお、これほど非日常性の演出は、ここでなければ外国に行くしかないよなあ。

 でも外国まで行くには金がかかるけど、ここなら日本のどこからでもやってくることができる非日常世界になりうる。
 そう、この婚礼の場は、ある日だけ外からやってきて、いつもと違う風景の中でいつもと違うことを体験するのである。つまりテーマパークだ。

 そこに審議会との深い溝ができる。
 審議会の委員たちはがテーマパークを否定するのは、ここが非日常の世界ではないと心得ているからだろう。せいぜい異日常世界であろう。
 それは、外からの目ではなくて、いつも見ている内からの目、つまり日常からの視線で風景を見るからだろう。
 そこに異物としかみえない何かが登場することに、耐えられない心情が働くのはよくわかる。
 ところで、ここにある遊園地コスモワールドの風景には、委員の方々は耐えられるのだろうか。
 遊園地の散らかった風景とこの新婚礼施設とは好一対で、たがいに引き立て役になるだろう。

 では、審議会の良しとする建築風景はどのようなものだろうか。
 新港埠頭側から眺める新開発地区の建築の立ち並ぶ風景は、どうやら近代的赤レンガ倉庫街のイメージらしい。
 近代的とつけたのは、本物の赤レンガ倉庫があるのに、今の倉庫?は屋根がなくて壁はレンガ色である。
 そして、できるだけ四角に端正であることが、デザインの基本にあるようだ。
 つい最近できたカップヌードルミュージアムという、まさにテーマパークの建物が、どう見てもテーマパークに見えないことで、それがよくわかるのだ。
 じつは、わたしはこのインスタントラーメンの博物館ができると聞いたとき、あのラーメンのカップそのものの形の建物をイメージしたのである。そしてそれが提案されたとき、横浜都市美審議会がどうそれを審議するだろうかと思ったものだ。
 審議過程は知らないが、できたものを見ると、ただの赤い箱であった。
http://www.cupnoodles-museum.jp/about/index.html
 あらかじめ知らないと、そばに寄るまであの世界に普及した「インスタントカルチャー」を作り上げた記念碑とは気がつかない。

 まあ、それもミュージアムとしてのひとつの見識であるが、隣の温泉施設も反対側の研修施設も、同じような赤い四角な箱で、ここではっきりいうと、その連続する風景はまことにつまらないのである。
 このあたりを日常の散歩の場とするわたしでも、ここはせめて異日常の風景であっても良いと思うのだが、ほぼ新開地駅前風景(たとえば新横浜)とたいしてかわりがない。

 そこに殴り込みをかけてきたのが、この厚化粧花魁頭の非日常結婚式場である。さて非日常と日常あるいは異日常との戦いは、どちらに軍配が上がるか。今は非日常が寄りきり勝ちしようとしているようだ。
 この厚化粧デザインを支えるのは、まさにブライダル市場である。市場が景観をつくるのは、今の日本の都市と郊外を見ればよくわかる。
 ついでながら、かつて木造土蔵の横浜の街並みに、赤レンガの開港記念館ができたとき、その厚化粧花魁頭の建物は、人々の目にどう映ったのだろうか。


(参考)神奈川新聞2012年3月24日
 MM21地区「国内最大」式場計画、景観協議が不調「再考を」/横浜
 横浜・みなとみらい21(MM21)新港地区に計画されている国内最大規模の結婚式場をめぐり、横浜市長の諮問機関「都市美対策審議会」の部会は23日、横浜市と事業者が進めてきた都市景観協議が「不調に終わった」との意見をまとめ、建設計画の再考を求めた。市は週明けに事業者に結果を伝える方針。
 協議の方針について、1月の部会で「さまざまな時代背景の建築デザインを模倣し混在させるのは避けること」など30項目の意見が委員から出されていた。
 市は23日、「協議を進めたが、すべての意見に対応できなかった」と報告。これに対し、委員らは「もっと時間をかけて審議を重ね、いい計画にしていきたい」などと指摘した。
 事業者は紳士服量販大手AOKIホールディングスの子会社で、予定地は同市中区新港2丁目の市有地と民有地の計約1万8千平方メートル。欧風スタイルの結婚式場やカフェなどを設ける計画で、2013年秋の開業を予定している。

2012/03/23

598震災と地価

地価公示が新聞に出ている。
 津波被災地の高台移転先の土地が高騰しているとのこと。
 そんなことになるのは、とうにわかっていながら、地価凍結をできない日本の土地政策がある。いや、土地政策がないのか。
 とにかく住宅(建物)政策はあっても、居住政策ってものがない。
 一方、津波をかぶった所は地価下落とのこと。

 ところで、次に地価高騰するところは、原発被災の著しい双葉郡のエリアであろう。
 えっ、津波被災よりもひどいのに、なぜ高騰するかって、そう思うでしょ?
 それが高騰するのは、このエリアが核毒貯蔵の場所として、必ず国有化されるからだ。
 それを狙って国か東電に高く売りつけようって、高台の次はここだって、もう不動産屋さんたちが蠢いているだろうなあ、多分、。

●参照→21世紀の「谷中村」は「核毒の森」
 http://datey.blogspot.jp/2011/08/47921.html

2012/03/17

597今風望郷歌

東武電車の「業平橋駅」が「スカイツリー駅」と、名前を変えたそうだ。
 かのイケメン男の在原業平は、嘆いているかもしれない。

 むかし、男ありけり。
 その男、身をえうなきものに思ひなして、「京にはあらじ。あづまの方に住むべき国もとめに」とて往きけり。
 なほゆきゆきて武蔵の国と下総の国との中に、いとおほきなる河あり。それを角田河といふ。
 その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、かぎりなく、遠くも来にけるかな、とわびあへるに、渡守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。
 さる折りしも、白き鳥の嘴と脚とあかき、鴫のおほきさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。
 渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、
   名にしおはゞいざこと問はむ都鳥
    わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。
            (「伊勢物語」より)

 ある男、京都から東京に移ってきたが、身の上がうまくゆかない。
 流れ流れてとうとう隅田川のほとりに至り、ダンボール小屋を建てて住む。
 思えば、こんなところで、こうなったものだと、ホームレス仲間と嘆きあう。
 そうこうするうちに、近くに高いタワーが立ち上がってきた。聞けばこれこそスカイツリーだという。
 男は展望台から故郷を眺めたいが、入場料が高くて登れない。嘆いて一首を詠んだ。
   名にしに負わばいざこと問はむスカイツリー
    わが想う人はありやなしやと
 ホームレス仲間はみな泣いたのであった。
            (「伊達物語」より)

●参照→503押上の斜塔
http://datey.blogspot.jp/2011/10/503.html

2012/03/14

596狼地震に無効核毒

地震がほとんどないところで生まれて少年時代を過ごした。19歳で関東に住むようになって驚いたのは、地震が多いことである。
 今から考えるとおかしいが、どんな小さな地震でも心臓がドキッとしたものである。
 なんと関東は危ないところだと思いつつ暮らすうちに、ドキッとはしなくなった。
 それでも、そうなるまでには数年を要した。

 だから、外国人ならば、まさに昔のわたしのように、揺れるたびにビクッ、ドキッとしているに違いない。
 その上、原発からの核の毒が降ってくるとなれば、地理不案内の外国人は、なおさら不安に駆られるに違いない。

 わたしが、どこか言葉が不自由な状態の外国で大地震と核毒の雨に出くわしたとしたら、新聞や放送でどこそこの地域では安全とか、どこそこ危ないとか言われても、それが自分のいるところとの関係がよくわからないから、その国とか広い地域全部が危ないと思うに違いない。そして逃げ出すに限ると思うだろう。
 今、外国人のほとんどは、日本は地震と核毒でどこもかしこも全部が危ないところだと思っているにちがいない。
 でも、そのことをだれも否定できない。

 これほど毎日毎日地震に見舞われると、だんだんと不感症になるのはやむをえない。
 毎度の地震を、ふん、また狼少年、いや狼地震かよ、、、。
 そしてまた、核毒まじりの食品を食っているかも知れないが、どうせ年寄りだから、10年や20年後に発病しても、その頃は死んでるから、核毒なんてオレには効かないと同じだよ、もう、どうでもいいや

 あ、そうだ、与太話ついでに新提案を、、、核毒汚染食品を、70歳を超えたら年齢と同じパーセントで値引きして売ったらどうですかね、70歳に人には7割引きで、100歳の人には無料でね。

2012/03/11

595震災ビル新装お目見え

横浜公園そばに、昨年3月の震災で傷んでいたビルがあった。
 今日、前を通ったら、綺麗に修復された姿でたっている。2週間目はまだ囲いがあったような気がするから、震災1周年までに仕上げたのだろう。

●参照→横浜都心地震探検

594忘れてはいませんか3月10日を

●記念日とは
 天然現象から1年という日月が流れたことに物理的には何の意味もない。しかし、人間は時間という文化を発明して、人生を区切る癖がある。身近に事件が起きると地球が太陽を一回りしたときをもって意味づけをしようとする。

 もっとも身近な例が誕生日である。誕生日は誕生した日の1日しかないはずが、それから毎年同じ月日を誕生日記念日として、これを誕生日という。
 同じように死んだ日を命日という。命が尽きた日のことを省略して命日というようになったのだろうか。

 その命日が1万9千も重なった日が、2011年3月11日。東日本大震災から今日で1年が過ぎた。
 毎日どこかでだれかの命日がたくさんあるのだが、同じ日にこれだけの数が、ほぼ同じようなところで、ほぼ同じ原因で命日が発生するのは珍しいから、それを思い出す行事を共同でやりたいと人間は思うらしい。

 1923年9月1日、1945年3月10日、1995年1月17日、2001年9月11日、そして2011年3月11日、これらがわたしが記憶(体験ではない)している大量命日である。
 昨3月10日の命日を共同で思い出す行事を誰かしたのだろうか
 10万人以上がいわば虐殺の人災で死んだ日なのだが、人間は忘却する能力もある。2万人の1年、10万人の67年、この差は何を物語るのだろうか。

●犠牲者とは
 震災で死んだ人たちを「犠牲者」というのが気にかかる。
 犠牲とは何かのために何かを捧げることである。野球に犠牲バントというがある。塁に出ている走者を進めるために、打者が自分がアウトになるのにバントをするのである。これは打者が走者のために犠牲になったと言える。

 では津波で死んだ人は、だれのために犠牲になったのか。中には誰かを助けて命が尽きた人もいるだろう。それはそれぞれ個別の犠牲者である。
 しかし、どことかの町は何千人の犠牲者とか、震災の犠牲者は全部で19000人とか言うのと、生き残ったもの全部が死んだ人に助けられたことになる。

 これでは生き残ったものはだれもが負い目を持って生きなければならない。たまったものではなかろう。
 軽々しく犠牲者といっては、生き残った人たちには気の毒だし、本当の犠牲者には失礼になると思う。

●中間貯蔵とは
 中間とは、出発点と終点との間のどこかを言う。
 出発点では、福1原発が発射した放射性物質が福島県内外に降ってその地域のあらゆるものを汚染させた。
 しょうがないから、その核毒汚染したもろもろを集めて廃棄せざるを得ない。

 で、中間点として、その汚染廃棄瓦礫塵芥類を、福島県双葉郡内に設ける中間貯蔵施設に集めるそうだ。大量凝縮核毒捨て場である。
 その土地が降り積もった核毒で使えなくなっているのだから、これはやむをえないだろう
 そして問題は、終点である。30年以内にそれらを県外のどこかの最終処理施設に移動するのだそうだ。

 はたして県外にその大量核毒を引き受けるところがあるだろうか。だれでも沖縄の普天間基地移転騒動のことを思い出すだろう。毒に汚染されていない地域を、あらためて毒で汚染するのである。
 中間貯蔵とは言いながら、多分、最終捨て場にならざるを得ないだろう。そう、「核毒の森」となって。

●ふるさと放棄の政策も
 震災は社会のトレンドを10年くらい後押しするものだと痛感したのは、2004年の中越震災復興支援で、中越の山村に行くようになってからだ。
 昨年の大震災もまさにそうである。被災した各地で人口が激減しているが、10年後に起こる予定が早まっただけである。

 問題は、突然の進行だから、対応できないということだ。いや、突然の進行でもない日本各地での人口減少に対応できていないから、なおさら問題である。
 問題となる根本は、自然現象とでも言うべき人口減少に対抗しようとすることである。
 だから、ある人口減少地域から、都市へと移住すると後に残るものから冷たく見られる。

 地域に残らせるための政策はいろいろ振興策としてあるけど、地域から出て行くための政策はない。出て行くものは、やむをえなくても自力でがんばるしかない。
 なんだかおかしい。いまや出て行くことが主流になりつつあるのに。

 人口減少してもハッピーな社会、出て行った先でもハッピーな暮らしをできる政策のほうが今は求められているはずと、わたしは思うのだ。
 積極的に「ふるさと放棄」の政策はないのか。そう、遠い別の地につぎなるハッピーな「それぞれのふるさと再建」をするのである。 

 災害にあったその地でふるさと再建こそが第1だとする政策では、他に移ったものにはやりきれないだろう。
 これは去年の大震災で背中を押された日本社会で大きな課題として、あぶりだされなければならない

参照→地震津波火事原発
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#jisin

2012/03/07

593何十年ぶりかで動物園へ

神奈川県立図書館からの歩いての帰り道、どんどん横道にそれたら、たまたま通りかかったのが野毛山動物園、ふらふらと入った。
 昔々、子どもをつれて上野に行ったかなあ、あれは何十年前だろうか。
 動物園も懐かしいところであった。

2012/03/06

592市場における都市美とは?

横浜都心の魅力のひとつは、海辺の風景が身近にあることだ。
 だからそこに建つ建物について、景観面からの行政からの規制がうるさいのだ。
 建設しようとする建物デザインを、横浜市都市美対策審議会でOKを取る必要がある。

 ここに面白い、といっては語弊があるが、それでも面白いといわざるを得ない事件がおきている。
「5人の委員は、このままではこの場所には認められないのではないか、横浜市のガイドライン、景観計画、地区計画、いろいろと進めてきた中ではこれは認められない」
 こうまではっきりと否定されたデザインというのも、ちょっと珍しいような気がする。

 桜木町駅から赤レンガ倉庫へと導く汽車道は、横浜近代化の産業遺産をうまいこと生かして、横浜名所となった新港地区への美しい景観をもつ玄関アプローチである。
 そこから最もよい眺めの位置にある空き地に、結婚産業屋さんが結婚式場を建てる計画で、そのデザインを都市美審議会に持ち込んだ。

 そのデザインは、なんというか、南イタリア風のようなギリシャ風のような、宮殿のようなラブホテルのような、あれこれとヨーロッパ建築様式のようなそうでもないような部品で構成する「欧風様式のモチーフを展開した外観を創出」(事業者の計画説明書)している。
●そのデザインは事業者の都市計画協議申し出書参照
http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/design/shingikai/tosibi/ks014/pdf/ks014-3-1.pdf

 これを審議した都市美審議会の議事録がある。
 読むと実に面白い。委員と事業者とがぜんぜんかみ合っていないのだ。おかしいくらい噛み合わない。どちらも戸惑っているようだ。
 委員は真正面からデザインがヘタクソだといっているが、事業者側はこれまでこれであちこちでやってきてるのに、ここではなんでいけないんだよって、。
http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/design/shingikai/tosibi/ks014/
 出席した事業者側に、清水建設設計本部の人がいるから、これはその設計施工であるらしい。

 それにしても、今の市場の要請はこうなのだとがんばる事業者の立場と、普遍的な都市美と地域景観の創造的な整合を求める委員の立場とは、こういうときはどこに落としどころがあるのだろうか。
 委員にがんばってもらって、このラブホテル風結婚式場(ラブホとブライダルは親戚関係だなあ)が、どう変わるのか、外野としては実に楽しみである。

2012/03/03

591千年の津波

東北の震災復興計画に関する報告の会合が大学であり、現地の様子を聞きたくて出てみた。
 わたしは地震津波原発被災にも復興計画にも、これまでなんの関わりないので、復興計画の中身と問題を新鮮に聞いた。

 ある都市計画家の報告で、自治体ごとに立案している復興計画を並べてみると、それらの行政区域の境界あたりで、津波防御の計画が不自然につながらないところがあるという。
 復興計画には防潮堤や高く盛り土した道路などが、海岸線に平行して2重にも3重にも線を描いているが、それらが行政境界に来るとつながらなかったり、不自然に曲がったり、あいまいに消えたりしている。
 津波を防御する対策が行政境界で食い違うと、そこから津波が内陸に入ってくることになる。

 これらの計画の相互調整はどうなっているのだろうか。
 計画立案はどこも委員会によっていて、学者、専門家、行政マンたちが委員である。
 各自治体の復興計画の委員名簿を見ると、かなり重複している学者たちがいる。その人たちは、担当する復興計画相互の調整を考えなかったのだろうか。
 コンサルタントが作業をやっているはずだが、それらも相互調整することはないのだろうか。
 今後あるいは現在、それらの調整が行われることを期待しよう。

 被災の現地から参加した市民の話も聞いた。
 ある被災市での復興計画委員会(上のそれとは違って地域のものらしいが)に、公募市民委員として入った人は、その委員会の役割について行政から、こう言われたという。
 この委員会は、上級官庁が策定して降りてくる計画に、賛成か反対かを言うだけで、提案は一切受け付けない。
 そんなことが現地ではあるらしい。
 現実はそうは行かなくて、議論百出だったそうだ。当たりまえであるが、決定権はどうなるのだろうか。

 また別の市民の話。
 津波が押し寄せるのを防ぐ道路などは、かなりがっちりしたそれこそ水ももらさないものになるのだろう。
 逆にそれを現状から見ると、地盤沈下して海水が引かないところにそのようなものができると、なおさら海水が引かないことになる。そこでは膨大な地域の嵩上げが必要になるが、現実的なのか。

 ところで、津波防御の考え方には、数十年から数百年に1回おきる津波(レベル1)への対応と、5百年から千年に1回おきる津波(レベル2)への対応が、あるそうだ。
 わたしにはそれらの違いがよくわからないが、去年の津波は「レベル2」だったそうだ。
 ということは、これから先、5百~千年はあのような津波はやってこないということなんだろうか。素人はそう思ってしまうが、違うのだろうか。

 1995年に阪神淡路大震災が起きたときに、わたしは思ったものだ、これから数百年は地震に日本一安全な都市は神戸だ、と。
 人間は5年先さえも見通せないのに、数百年、千年先となると、どうでもよいと思うものだろう。
「津波と村」(山口弥一郎著)を読めば、それが人間には当たり前のように思う。
http://datey.blogspot.com/2012/02/588.html

 千年の超未来へのまなざしが必要なことなのか、今日・明日の命こそが重要なことか、そもそもそのような比較は成り立たないことなのか、復興計画はまったくもって難しいことのようだ。

2012/03/02

590老人は都市を目指す

世界の国々の都市人口の変化が面白い。
 2050年の日本の人口は約1億人、そのうちで都市に暮らすものが8割を占めるという予測が出されている。
http://periscopic.com/unicef/urbanmap/

 日本の1950年の都市人口割合は35パーセント、それが今では67パーセントになり、2050年には80パーセントになる。
 その頃の日本はどうなってるんだろうか。

 老齢人口は、2050年には33~39パーセントと予測されている。
 なんらかの社会的支援を必要とする老人は、やっぱり都市にすむようになるだろうから、日本の都市人口の8割のうちの老齢人口割合はかなり高くなるだろう。
 
 そのような都市は、今とどう違っているのだろうか。
 都市に集中する人口への政策は、抑制策か促進策か、どちちらなんだろうか。
 老人が都市に向かうのは、社会に支えられて生きるために必要な行動だから、これは抑制することはできないだろう。
 
 中国の都市人口を見ると、1950年が12パーセント、2010年が47パーセント、2050年は73パーセントとある。
 中国の2050年は今の日本に近い割合だが、その数は日本の10倍以上で8億7千5百万人と、大変なものである。
 こんなに急激に変化して都市時代に突入する中国では、どのような政治になっているのだろうか。

 ヨーロッパで見ると、イギリスの1950年の都市人口が79パーセントと、2010年が80パーセント、2050年はなんと88パーセントだそうである。
 西欧の他の国々に比べてかなり高く、都市化への歴史が長いのが分る。
 一国の人口の9割が都市に住むとは、どういうことなのだろうか。

 なんにしても、昔は青年が都市を目指していたが、今は老人が都市を目指す時代になったのだ。わたしもそのひとりである。