2014/06/20

965・山口文象設計の総同盟会館・全繊会館という戦後初期労働運動拠点を“発見”

 この「伊達の眼鏡」ブログにも「まちもり通信」サイトにも書いたが、山口文象設計の青雲荘・友愛病院という建築が1936年にできて、それが1894年にできたJ:コンドル設計の日本労働会館(旧・惟一館)と並んで建っていた。
そしてこれらは、1945年に太平洋戦争の空爆で炎上したのである。焼け残りのコンクリート躯体を再利用修復して雑居ビルになっていた青雲荘・友愛病院は、1964年になって消えた。

 山口文象と青雲荘物語はそこでおしまいと思っていたのだが、実はさかのぼって戦後に発展する物語があったことが分かった。
 焼けて消えた日本労働会館跡地に、1949年、総同盟会館・全繊維同盟会館が建ったのだが、これが山口文象設計であったのだ。
 40年ほども山口作品を追っていながら、これは知らなかった。もうドイツにでも行かないと新発見はあるまいと思っていたから、ちょっと興奮した。そのまえにコンドル作品と山口文象作品が並んで建っていたことにも興奮したのだったから、2重の喜びである。

 昨年、この総同盟会館・全繊会館について山口文象設計であろうかと、友愛労働歴史館から問い合わせをいただいて、調べたことがある。
 山口文象の設計かもしれないとの根拠は、青雲荘のオーナーであった財団が発行した『財団法人日本労働会館六十年史」(1991、渡辺悦次著)に、総同盟会館の落成式の様子について、次のように記述(177頁)があることによる。

「会館は正面右側に全繊会館、左側に総同盟会館が並び、コの字型につながる形で建った。山口設計事務所による設計であり、11月に着工、翌1949年8月4日に落成式を行った。(中略)建坪は251坪(総同盟会館111坪、全繊会館109坪)、共通ホール29坪、費用は合計600万円で山口設計事務所の設計により納富建築株式会社が建築した。(中略)山口設計事務所長に感謝状が贈呈された。」

 1949年に解散した山口文象建築事務所の資料は、RIAが所蔵保管している。その中に青雲荘・友愛病院については、竣工写真や設計図面がある。また当時の雑誌に山口文象の名前で発表している。
 ところがRIAの山口文象資料には、総同盟会館・全繊会館に関するもの全く見当たらない。
 さらに、山口文象建築事務所の最後の所員であった方に直接に聞いてみたが、そのような設計をした記憶がないとのことであった。
 ということで、山口設計事務所の記述でもあるし、山口文象作品かどうか判断できないまま、保留していた。

 5月27日に、友愛労働歴史館での「J・コンドルと惟一館/山口文象と青雲荘」展覧会に関連して、「松岡駒吉と山口文象が青雲荘にこめたメッセージ」と題する講演会があった。わたしが講演者である。
 建築や都市関係者相手のレクチャーは何度もしてきたが、労働運動関係者相手は初めてのことで、なにか新しい反応があるかと期待していたら、やはりあった。
 後日、そこに聴衆としていらした方からお手紙が来た。『全繊同盟史第2巻』(1965年 全繊同盟史編集員会著)のなかに、全繊会館が山口文象建築事務所の設計との記述があると、ご教示をいただいた。 
 その本には、「全繊会館進む」(408頁)と題して、次のように記載されている。

「当時、総同盟においても、もと日本労働会館(戦前の総同盟本部)跡に、新会館建設を決定し(中略)、全繊会館は種々検討の結果、敷地を総同盟会館と同一場所にきめ、土地所有者、財団法人日本労働会館(理事長松岡駒吉)よち借り入れ、建物は総同盟会館と隣接し、共通ホールで接続する設計であった。
 会館建設の概要は次のとおりである。建設坪数1階50.25坪、2階59.33坪、総坪数109.58坪。木造2階建て。主要設備室ー事務室1、応接室1、会議室1、図書室1、宿泊室(洋室・和室)5、小使室1、便所、浴室。
 設計・監督 山口文象建築事務所、請負者 聖徳社納富組、見積工事費 228万1,209円(以下略)」

 これには山口文象建築事務所と正確に名前が出ているし、規模も総同盟会館の記述と符合する。となると、この二つの会館は山口文象の設計であったことは間違いあるまい。
 そこで建築学会の図書館で当時の「新建築」、「国際建築」、「建築文化」を探したのだが、登場してこない。建築雑誌に載るような建築はまだそれほどない時代で、けっこう大きくしかも山口文象設計ならば載りそうなものだが、どういうわけかない。

 山口にとっても、1949年と言えば、仕事がなくて山口文象建築事務所を閉鎖した年だから、宣伝のためにも載せそうなものである。
 本格戦争になった1941年頃からは、めぼしい仕事はなくて軍需工場の工員宿舎の設計で食いつないでいたが、戦争が終わるといよいよ仕事がなくなり事務所は閉鎖した。その後は、猪熊弦一郎の支援で高松近代美術館と久が原教会があるくらいなものだった。山口の戦中戦後ほぼ10年間は、蟄居時代であった。

 こうして戦後初期の時代の大変革の中で、ようやくにして合法化された労働組合運動の拠点として、焼け残り青雲荘も総同盟会館も全繊会館も、大きな役割を果たしたのであった。
 戦後が確実に終わった1964年、これらは取り壊されて高層ビルに建て替えられた。1936年からの山口文象の物語はそこで終わったが、なぜ続かなかったのだろうか。
 多分、山口文象建築事務所が消えてRIAになっていたことを、建て替え時の総同盟側が気が付かなかったのだろうと推測するしかない。

 というわけで“新発見”だが、今のところ図面も写真も、こんなものしか見つからないない。もうちょっと調べてからこの建築のことを書きたい。
この左に焼け残り改修の青雲荘が建っていたはず
全繊同盟史第2巻にある全繊会館の写真

1960年前後頃か、左から改修した青雲荘、総同盟会館、全繊会館
  なお、この新発見を導いてくださった方は、まずは展覧会を開催された友愛労働歴史館事務局長の間宮悠紀雄氏、そして講演会にいらしてご指摘をいただいた、UAゼンセン(全国繊維化学食品流通サービス一般労働組合同盟=旧・全繊同盟)会長の逢見直人氏である。お礼を申し上げます。

参照
講演「松岡駒吉と山口文象が青雲荘に込めたメッセージ」2014年6月
●「J・コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い2014年3月

参照建築家・山口文象+初期RIA(伊達美徳)
  まちもり通信サイト(伊達美徳)

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