2014/10/29

1019久しぶり訪問の愛宕山から虎の門ヒルズあたりの森には蛭と虎が跋扈していた


 地下鉄日比谷線の神谷町駅を降りて、裏道に入る。この道はちょっと昔、日本都市計画家協会に通った道であるから、懐かしい。
本日の徘徊マップ
  裏道に出て虎ノ門方向を見ると、なんだかうっとおしいのは、行く手の空にドデンと幅広く高く突っ立つビル、あ、そうか、ここからあの虎ノ門蛭巣がこう見えるのか。
 なんだか、あたりがスカスカの感じなのは、だんだんと地上げされてるかららしい。モリ蛭かモリ虎による都市開発が進行しているらしい。
行く手にドデンと虎ノ門蛭巣
そうなると、今日のわたしが期待する、この道の先の右にあった木造2階建ての、いかにも下町風借家風の4軒の建物は、今もあるかなあ。
 かつて通りすがりにいつも眺めては、その古色蒼然たる健在ぶりを鑑賞していたものだった。特にその後ろに建つモリ蛭モリ虎ビルとの対比が面白い。
 お、あったぞ、いや、1軒しかない。3軒は壊されて空き地駐車場になっている。ふーむ、虎ノ門蛭ズのお膝元になって、いよいよ消え去る時が来たか。

今回の徘徊では1軒だけ健在

2010年の徘徊のときは裏にあるのも入れて4軒あり、後ろに共同住宅ビルが建った

2003年の徘徊時は4軒とも健在であった、後ろに森虎と森蛭のビル
  もう少し歩いて、愛宕下のあたりに来ると、ますす虎ノ門蛭巣が迫りくる。おお、通っていた日本都市計画家協会事務局が入っていた愛宕チャンピオンビルは、まだ建っておるな。よしよし、。
 ところが、そのビルはモリ蛭の地上げで、店子の家協会はつい2か月前に神田に引っ越していった。
 このあたりの中小ビル群も、その裏路地にある愛宕下の小住宅群も、もうすぐ壊れて愛宕蛭巣(たぶん)になるのだろう。以前にこう書いているので参照のこと。

虎ノ門蛭巣の下敷きになった元JSURPが入っていたビル

裏路地の木造住宅地も地上げで取り壊し工事がそばに迫っていた
  
 それにしても、近くで虎ノ門蛭ズの工事をしていたことは前から知ってはいたが、できてみるとこんなすぐ隣であったとは、それだけ蛭がド太いのだった。
 ビルの姿に重ねて、あの太さと高さで蛭が立ちあがっている姿を想像すると、いやあ、おぞましい。
 あ、わたしは開発がいけないと言ってるんじゃないですがね、なんともデカすぎるのが、不気味で気持ち悪いだけです。

 さて、この後はやはり話題の虎ノ門蛭巣に入ってみようかと思ったのだが、ヘソが曲がったので横目で通り過ぎて、新虎通りなる環状2号線を通ってみたのであった。
 この道については、作っているときから興味あってウロウロしていたから、なんだよ、この道のつくりかたは、もうちょっと何とかなるだろ、広けりゃいいってもんじゃないよ、とかって、いろいろ言いたいことがあるが、日が暮れたので次の機会にする。
この地下にも重ねて2階建て道路だから、もてあまし気味に広すぎる新虎通り(環状2号線)





2014/10/28

1018ゲンペイさんが消えた、サテ今度は…ドコを乗取ろうかナ?

サイタ サイタ サクラガ サイタ 
アカイ アカイ アサヒ アサヒ

 赤瀬川原平さんが逝った。わたしには憧れのような妬ましいような才の人であった。
 もちろん一面識もないが、いつ頃からこの人の名を知っただろうか、同じ時代の空気を吸っていた人である。
 ハイレッドセンター東京ミキサー計画か、千円札訴訟か、朝日ジャーナル事件か、きっかけは忘れてしまった。たぶん零円札事件が最初だろう。妙に気になる人になってしまった。

 上に引用したのは、「朝日ジャーナルの時代1953…1992」(朝日新聞社1993年発行)の639ページの、ゲンペイさんのイラストのなかの言葉である。イラストはこれである。

 そしてこのイラストに添えて、こう注意書きがある。
【回収号】朝日新聞社は「朝日ジャーナル」1971年3月19日号(イラスト特集)を発売後、回収した。ヌードをあしらった表紙、一部のマンガも問題とされたが、赤瀬川原平作・画の「櫻画報」、その中の「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」のコピーがとくに問題視された。(「朝日ジャーナルの時代1953…1992」朝日新聞社1993年発行638ページ)
 
 で、「表紙と一部のマンガ」はこれである。(いずれも上記の本から引用)


 この朝日ジャーナルは、わたしの学生時代からの愛読誌だったから、ゲンペイさんのイラスト連載を面白がっていたし、それが「アカイアサヒ」事件となったのも、同時代の出来事で興味深いことだった。
 朝日新聞社は、このところ二つの吉田証言誤報と池上寄稿不掲載のお詫び事件で騒がしいが、この43年前のアカイアサヒ回収事件でも、編集長更迭、大人事異動、一時休刊となった騒ぎであった。
 だが、時代の空気がどうも違いすぎる感がある。なんなんだろう?

 路上観察学会で仲間をつれての登場には、喝さいを送ってしまい、以後その著作が出ると読もうとしたが、あまりに多作で変幻自在・玉石混交・古今東西・上下逆転・神社仏閣?の出版物を、どれもこれも追いかけるのは到底できるものではなかった。
 あの持って回っていながら持って回っていなくて、意表をつきながら意表をつかず、するりと逃げ去るようで逃げない、オトナの手法を何とかして盗もうと憧れたものだ。

 ゲンペイさんのもとにはヘンな人たちが集まり、育っていたようだが、その人たちが出した(と思われる)「頓智」という雑誌があった。1995年10月から96年7月まで、10冊出して突然休刊した。
 ヘンな雑誌だったが、わたしの趣味に合って毎号楽しみだったので、がっかりした。わたしの本棚にそれが今もおいてある。

 昨年、丸の内の東大博物館で、零円札に初めてお目にかかって感激したものだ。そういえば、あれはどこだったか、昨年、ハイレッドセンター活動の回顧展のようなものも観に行った。
 それなのに、わたしの意表をついていなくなってしまった。ゲンペイさんらしいのだろうか。羨ましい死に方で、やっぱり妬ましい。
 実は死んでみてのあの世の路上観察記を書いて(シンボーかテルボがゴーストライターで)いずれ出版するに違いないと、期待している。

 書棚から「芸術言論」を見つけたので、今夜はこれを読もう。

2014/10/27

1017【福島東電核毒地帯徘徊9】バス内はいま十マイクロシーベルト車窓の街が溶けて流れる

 こんな歌が今朝(2014年10月27日)の朝日歌壇に載っている。

   枝道を鎖して入れぬ区間あり長い六号線息止め走る
                   (福島市)青木崇郎

 わたしも9月に、まさにこの体験をしてきた。青木さんには無粋をお詫びしつつ、この歌の風景を写真でお見せする(2014年9月20日撮影)。

双葉町の帰宅困難区域内の国道6号には両側がバリケード20140920撮影

これは双葉町と大熊町の福島第1原発のすぐそばを通る国道6号の一部で、普通なら核毒濃度が髙くて立ち入り禁止の「帰還困難区域」のなかを、特別に通り抜け許可区間である。
 しかし、核毒が国道だけ薄いってことはあり得ない。通る車は窓を閉め切っておかなければならないし、もちろんバイクや自転車は走行禁止である。どの車も全速力で走り抜ける。
 その時のことを、わたしのブログにこう書いている。
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1005.html

 そして、わたしもその国道区間のことを歌に詠んでみたのである。

双葉町にて     まちもり散人

バス内はいま十マイクロシーベルト車窓に街は溶解しつつ

帰還さえ困難という異界にておののきおののき疾走に疾走

国道は左右に連なるバリケード核戦争の市街戦なるらし

 そのほかにこんな歌を詠んだ。

浪江町にて     まちもり散人

破れ船核毒の荒野を漂えば舳先のかなたは壊れ原発


海嘯に弄ばれたる死者の群いまだ雑魚寝の核毒の荒野


雲低き核毒牧野に群れる牛一瞬の陽光降りてまた閉ず


核毒の里にも秋の実りあり茸に落ち栗ひろいて食らわん

 この浪江町で見たことはこう書いている。
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1003.html
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1004.html
http://datey.blogspot.jp/2014/10/1006.html

飯館村にて     まちもり散人

肥沃土を剥ぎとる除染の黒袋稔りなき田に鄙の賑わい


秋深く核毒の荒野ひろごりて眼閉ずれば黄金の穂波

人は逃げ鳥も蝶も飛び去りて核毒の地には介護老人

見わたせば人も稲穂もなかりけり核毒村の秋の夕暮れ

飯館村でのことは、こう書いた。
http://datey.blogspot.jp/2014/09/999.html
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1000.html
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1002.html

参照⇒地震津波核毒オロオロ日録

2014/10/24

1016ルイス・カーンvsエドモンド・ベイコン激論が面白い志水英樹さんの回想記


◆F・L・ライト&L・ルイスカーン建築巡礼の旅1995
 ルイス・カーン(1901-74)という建築家がいた。その建築家のもとで、1964年から67年まで働いた建築家の志水英樹さんの講演を聴いた。
 わたしは1995年の夏、志水さんにくっついて、カーンとライトの建築を見てUSA東西をめぐる旅に行ったことがあった。志水さんは建築学生たちをひきつれていたが、わたしは建築を見る趣味のみの気楽で楽しい旅だった。

 カーンの弟子の志水さんには悪いが、フランク・ロイド・ライト(1867-1959)の建築を見るのがわたしの目的の第1で、カーンは第2だった。
 ライトの有名な建築、例えば落水荘、ジョンソンワックス、ユニテリアン教会、マリン郡庁舎とか、おお、これがあの写真の本で見ていた現物か、やっぱりライトの造形力はすごいもんだと、それはもうナイヤガラの滝でも見るような完全に観光気分であった。日光東照宮を見る様に、とは日本建築史の素養が邪魔をして言えないが、まあ、一般的にはそう言ってもおかしくない。
 たしかにライトの建築は、だれが見ても楽しむことができる。使い勝手が悪そうだ、なんてだれも言わない。観光対象になる。
マリン郡庁舎 1995撮影
Falling Water 1995撮影

  それに引き替え、カーンの建築はそうはいかない。すなおに観光させてくれず、ちょっとは考えざるを得ない。玄人好みである。
 このライトとカーンの違いが、建築あるいは建築家というものの社会性を考えさせてくれる。

 わたしが建築学徒だった頃の昔、雑誌で見て読んで形と理論に感激した、彼の初期のリチャードメディカルセンターに出会って感激と共に、その第2期の仕事の凡庸さに首を傾げ、更にその使い手の研究者たちの言う評判の悪さには困惑した。
 有名なソーク研究所を見て、この立地環境でこれってどういうことなんだろと思ったり、評判の高い晩年のキンベル美術館を見て、なんだか退屈な繰り返しだなあと思ったり、ライトとは違って建築を批評的に考えたのだった。
リチャーズメディカルセンター 1995撮影

フィッシャー邸 1995撮影

ソーク研究所 1995撮影
エクセター図書館 (志水さんが担当) 1995撮影

カーンへのオマージュの志水英樹著「回想1,2,3」
 さて、今回の志水さんの話は、この2月に上梓した「回想1,2,3」なる著書をもとにした講演であった。その本は、彼が建築家へと急な坂道を勢いよく駆け上がる頃の自伝的な物語である。シアトルとフィラデルフィアでの1961年から67年のことであった。

 回想の第1話は、シアトル万博の噴水デザインの国際コンペに勝ち抜いて、現地でその実施にあたっての奮闘出世物語である。若者2人がシアトルで噴水の制作に右往左往しつつも見事に成し遂げる。

 第2話は、ペンシルベニア大学に留学し、シビックデザインコースでの奮闘学業物語で、そこでルイス・カーンとエドモンド・ベイコンの二人の大家に才能を認められる。志水さんは、さすがに学者であるから、そのコースのカリキュラムを詳しく紹介している。

 第3話は、それをステップにしてカーン事務所に入り、巨匠のもとでの建築デザイン奮戦物語である。カーンの変幻自在のアイディアを、志水さんが平面に形態に翻訳していく過程とか、カーンの素顔の挿話が興味深い。ルイス・カーンへのオマージュである。

 わたしが面白かったのは、カーンのフィラデルフィア美術大学設計案について、エドモンド・ベイコンが、カーンに直接にイチャモンをつけて変えさせる話である。
 フィラデルフィア市の都市計画を牛耳っていたベイコンは、周辺の建築群に対応したバロック的なカーンのデザインが気に入らなくて、ここでは都心のシンボル的なダイナミックな空間を創るべきと言う。
 この大物二人がカーン事務所の中で対峙して、どちらも顔を真っ赤に大声の大論争の末、とうとうカーンが「YOY ARE RIGHT!」と言って負けた。志水さんはちょうどその場に居合わせたそうだ。ラッキーな人である。

 ペン大で教えてもいたベイコンは、学生だった志水さんがシビックデザインの課題で提出したフィラデルフィア都心部再開発計画を高く評価し、志水さんは市役所に入れと誘われた。
 カーン事務所に入ることが決まっていたいた志水さんはそれを断ったが、ベイコンはこの美術館の担当をさせるようにカーンに推薦したという。
 そこでカーンのスケッチをもとに志水さんは奮闘する。何回も作り直したプランと模型によるデザイン検討の努力は、ベイコンのOKとなったのだが、このプロジェクトは資金的事情でボツになったままだそうだ。
 
 行政都市計画家の見識と立場の強さに、洋の東西の違いを思うのである。エドモンド・ベイコンは、後に映画マイ・アーキテクトのなかでカーンについて語っているが、カーンの息子の面前で遠慮会釈なくこき下ろしている。
 この映画は、カーンとその愛人(のひとり)の間に生まれた子息ナサニエル・カーンが、亡父の作品と関係ある人たちを訪ねるドキュメンたりーで、なかなか面白い作品である。ネットで見ることができる。
 不幸なことに、カーンはペンシルベニア駅の便所で心臓発作により突然に生涯を閉じた。多額の借財が遺されたそうだ。
MY ARCHITECT  http://vimeo.com/9418890
https://www.youtube.com/watch?v=WAICbcFPRVo

 カーンについてわたしは興味が特にあるわけもないから、香山寿夫とか工藤国男の書いたカーン論を読んだことはない。
 しかし、志水さんの案内でカーン作品にいくつも出会った20年前の体験、数年前に見たカーンの息子制作の映画、そして志水さんの回想が今ようやくにして本となり、建築趣味人のわたしとしてはこれで十分に面白い建築家像が脳内に組みあがった。

「回想1,2,3」志水英樹 市ヶ谷出版社 2014 1500円

2014/10/21

1015【終活ゴッコ】暇つぶしに「終活」プロジェクトとて所蔵書籍資料書類等廃棄に取り組みつつあるけど、、

 たくさんの書類を捨てた。自分の仕事で作ってきた報告書類やら資料集である。
廃棄書類の一部の記念写真、重いからぎっくり腰にならぬように捨てに行く
プランナーなる職能で、都市や建築にかかわる企画や計画の仕事を長年やってきた。その作業中で作った資料や成果としてまとめた報告書類が山ほどある。デジタル化が当たり前でない時代のものである。
 これまでもオフィスや自宅を引っ越したり閉じたりした機会に、何回も整理して捨てるべきものを捨ててきた。そのなかで、これはまだ置いておこうと所蔵していた書類が書棚にある。だが、それらを使って昔のことを書く需要もなくなった。

 世の中には人生を終了する活動なるものがあり、それを「終活」というらしい。わたしも終活をやってみたくなったので、まずは、それらの仕事関係の代物をやり玉にあげて廃棄することにした。
 書棚の奥からほこりを払いつつ引っ張り出して並べると、その仕事をした頃のことを思い出すが、腹の立つことも思い出すから、捨てるのが惜しいなんてことはない。中身を見ないでどんどん捨てることにする。

 もっとも古いヤツは、1964年度「名古屋港地区再開発基礎調査」なんてのが出てきて、B4版、ガリ版印刷の本編と手書き青焼きの資料編であった。これがわたしの初めての都市計画仕事であったかと、感慨深い。
 当時の日本住宅公団からの委託研究だったが、その研究会のメンバーを見ると、石原舜介、服部千之、植田一豊、長峰晴夫、玉置伸俉など、だれも生きていないよ、う~む。
 あ、いかん、読んでたら捨てられなくなるよ。

 建築家の仕事ならば、建物の形でその場に残っているが(もちろん失敗もそのまま残る)、プランナーのやった仕事は、多くの場合はその場に行っても、それをやった当人しか仕事の形は分からない。
 計画したことが建築となっているとしても、プランナーの名前が表に出ることは、ほとんどない。
 手もとにある報告書やらパンフレットだけが、その仕事にわたしが携わった証拠品だが、そんなものを持ち続けてもしょうがないと思う歳になったことが、まさに「終活」の時期を迎えたことである。

 ということで、第1次終活プロジェクト・作成報告書類廃棄をやったので、次は第2次の収集資料類廃棄にとりかかろう。
 自分がつくった資料や報告書類はさっぱりと捨てても、あちこちから蒐集した関連資料の中には、けっこう高価なものや、貴重な古本的価値もありそうなものもあり、うまく捨てられるかなあ。

 更に第3次は、スライド用にマウントした35mフィルムである。1970年代からのもので、何千枚あるだろうか。デジタル化もボチボチやってきたが面倒で進まない。これはセンチメンタルにならざる得ないだろうから、見ないでエイヤッと捨てるしかないだろうなあ。
 第4次は、書棚全部の本の廃棄である。これまで何度も廃棄し、それでも何千冊だろうか、う~む。

 終活初心者はまだまだ迷うのである。
 迷う終活プロジェクトは面白い暇つぶしにはなるが、適当なところで終活の極意を会得したいものである。
 終活免許皆伝になれば、自分自身をエイヤッと廃棄可能になるのだろうか。

2014/10/20

1014神奈川大学初期キャンパスデザインについて近藤正一さんの話

 横浜にある神奈川大学の建築学科創設50周年とて、記念の講演会を聴きに行ってきた(2014年10月18日)。講演者は、近藤正一さんと槇文彦さんであった。
槙さんのお話は、ご自分が設計してきた数多くの大学キャンパスの建築について、名古屋大学豐田講堂から始まり、この講演会の会場であるセレストホールまでの解説であった。
 さすがに日本の東西はもちろん世界東西にわたっての仕事である。偶然にも、わたしはこの二つだけを見ているが、そのほかは見ていない。

 近藤正一さんの話は、かつて山口文象が率いるRIAが、神奈川大学のキャンパス計画コンペに当選して以来、営々と校舎の設計に携わってきた歴史物語である。
 そのお話をかいつまんで書いておく。なお、講演はは中井邦夫さんとの対談形式であった。

 1953年、神奈川大学キャンパスの綜合計画が指名コンペになった。指名されたのは、山口文象のRIA,久米権九郎の久米事務所、吉原慎一郎の創和設計であり、審査は神奈川県建築部営繕課の人であった。
 1953年は、山口文象、植田一豊、三輪正弘の3名でRIAの発足の年であるから、この3人でコンペに勝ったのだった。

 3人の建築家は、戦後民主主義の嵐の中で、建築家共同設計集団として歩もうと、Research Institut of Architecture(RIA)なる不遜な名称をつけたのであった。戦前に建築界では名を成していた山口の名を冠しないところに覚悟ほどが見える。
 もちろんこれは山口文象の師であったW・グロピウスがアメリカに亡命して組織したThe Architects Collaborative(TAC)に倣ったのであった。

 こうして山口文象は戦後の出発をしたが、3人の誰も財界のバックはなく、あるのは意気込みだけだった。庶民の小住宅設計で、ほそぼそと動き出す。
 そのRIAが神奈川大学の仕事を得たことは、歩み始めるにおおきな出来事だった。神奈川大学がRIAを、ゆりかごから育てたのであった。

 キャンパス全体の配置計画である「神奈川大学綜合計画」は、何段階かの変容をしていく。中庭や広場を考えながら、幾何学的な形態で構成していく。現代のキャンパスデザインにみるような曲線を使うことはなかった。
 山口文象のデザインの真髄は、コンポジションとプロポーションの厳格さ美しさにある。考えていくうちにしだいしだいにそぎ落とされて行く。
 「プレーンソーダのようなさわやかさ、後味の残らないデザイン」と、山口文象が言っていたことを近藤は思い出す。 

 1954年からほぼ1年おきに校舎が立ちあがるという猛スピードであり、1969年に一段落する。
 はじめの10年くらいは綜合計画に寄りながら進められたが、後半はかなり乱れて、前半と後半ではかなり違うことになっているようだ。それは大学の急速な拡大に対応するために、とにかく建てなければならなくなり、粗製乱造気味になった。

 1955年にできた3号館(2012年取り壊し)は、山口文象の担当によるものである。集団設計を標榜したRIAでは、山口文象も担当者に一人になるのだった。
 コンクリート造なのに細いフレームで木造の木割のような表現である。この構造設計は岡隆一で、バランスドラーメンと言われる方式だった。
 実はRIAで山口文象が担当した建築は多くはないが、その中でも大規模なものがこの3号館であった。病気がちだったのであまり担当できなかったが、後に寺院や博物館の小品でその力量を見せている。
 
 1955年にできた5号館の担当は植田一豊だったが、そのもとで詳細を書いたのが近藤で、最も印象的な仕事だった。
 コンクリートなのに柱間が1間で並んでいて、禁欲的なデザインだった。階段に当時としては珍しいプレキャストコンクリートを使ったり、窓枠のスチールサッシュに凝った。普通の引き違いでガラス面に段差が出るのを嫌って、折れて開く特異なディテールを考え出した。このころは既製品のサッシュはなくて、鉄板を曲げて手づくりだった。

 1956年にできた図書館は、いまは6号館となっている。担当は富永六郎。
 1959年にできた本館(1999年に取り壊し)の担当は近藤であり、米田吉盛学長が建築趣味でいろいろな注文を出してきて困った。学長自ら図面を描くし、電話でこまごまと指示されつつ図面を描かされたこともある。
 大学の担当者は、事務長の小坂さんと施設課長の酒井さんで、学長と合わせて3人が建築担当だった。

 8号館、9号館と進んでくると、大学生も量産時代、施設も量産になった感じだし、メンテナンス重視へと移ってきて、オリジナルなデザインがなかなか難しくなった。
 1967年にできた体育館の構造設計は山家啓助で、近藤と共にRIAの役員だった。実はこの山家は、神奈川大学建築学科で都市計画の教鞭をとっている山家京子教授の父君である。偶然にして意外なつながりがあるものだ。

 RIAにおける山口文象は、集団共同設計という新たな方法を目指して戦後再出発をした。そして植田、三輪、近藤たちの若者にかなり自由にさせて山口文象+RIAの名で発表していたが、実は個人的にはかなり我慢をしていたようであり、建築家個人としてとしてやりたいことがあったようだ。内では言わなかったが外でそのようなことを言っている。

 神奈川大学ではRIA初期の集団設計の試みの事例のひとつである。RIA内部もそうだが外部の構造設計たちとも共同して設計を進めて行った。その集団共同設計の試みは、今もRIAでは実験が続いていると言ってよい。
 米田吉盛学長の意気込みが、戦後日本の教育も建築も復興へと進む社会的上昇気分の中で育ってこのキャンパスができて行った。
1960年頃
植田一豊担当の5号館(1956)

左・近藤正一担当の旧本館(1959-1999)、右・山口文象担当の3号館(1955)

現在のキャンパス
正面は旧図書館の現・6号館、右は5号館
5号館

●参照⇒神奈川大学建築学科デザインコース作品集「RAKU」2011年度
・神奈川大学総合計画案
http://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/02-17.pdf
・近藤正一 インタビュー
http://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/18-21.pdf
・3号館解体現場調査レポート
http://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/22-24.pdf

●参照⇒山口文象+初期RIAサイト
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html





2014/10/17

1013【棚田の有機栽培新米宣伝】越後の棚田の山里から今年も美味しい新米がやってきた

 今年も新米の季節になった。越後の山村の棚田から、コシヒカリの美味い新米がやってきた。
 炊き立ての飯も美味いが、冷めても美味いのがこのコメの良いところだ。
 わたしはここの米をもう10年も食い続けてきたので、いつぞや入院した病院の飯が不味くて困ったことがあった。
 冬の深い雪が田んぼにしみ出てきて、美味い米を育てるのだ。

 新潟県長岡市小国町にある法末集落は、3mも積もる豪雪の山里であり、ほとんど平地がなくてもう尾根筋に近い村だから、普通ならば林業か畑作が産業のはずが、江戸時代からきりひらいてきた棚田での米作が主要産業である。
 
 2004年の中越震災で一時は全集落避難したが、今やその傷はすっかり癒えて、平穏な美しい典型的な日本の山村風景である。もうすぐ紅葉が村を染める。参照「法末の四季風景
 限界集落の典型だが、その村を持続させ振興するための会社を、震災復興支援から継続している仲間が作った(わたしも出資)。今、その会社が栽培した今年の新米を売り出している。

 その美味い米を、ここで宣伝をしますので、どうぞお買い求めください。
 ただ今のお得なセットは、特選棚田新米5キロと地元野菜500円分詰め合わせで4000円(送料共)、メールでお申し込みください。
 メール miyata@hossue.jp  ㈱法末天神囃子 社長 宮田裕介
 記入事項は、注文主(名前、住所、電話、メールアドレス)、
       送付先(名前、住所、電話)
 支払方法は、注文主に郵便振替用紙を送りますので、払い込んでください。

 ほかにも、3キロセット、30キロ(分割配送)、18キロ(分割配送)など、あります。
 1キロ800円は高いと思われるかもしれないが、有機栽培の棚田米はうまいことを保証します。贈答にもどうぞ。

参照

2014/10/13

1012【横浜ご近所探検】初期モダンデザイン建築の歴史的価値をどう表現するか建築家の力量が問われる

 
下半身にはありふれたコンクリビルが張り付き、上半身もありふれたカーテンウォールの超高層ビル、こんなちぐはぐな意匠のビルが、神奈川県庁の隣りにできた。真ん前が旧税関の歴史的ビルである。
 近寄って玄関を見れば「JAグループ神奈川ビル」と書いてある。

実はこのビルについて、わたしは以前にこう書いた
http://datey.blogspot.jp/2013/06/790.html

 この場所には、この下半身の意匠の「神奈川県産業組合会館」(のちに「神奈川県中央農業会館別館」)という、1930年にできた3階建のビルが去年まで建っていた。
建て替え前の姿(google street)
それにこの超高層ビルを継ぎ足したような意匠で、新ビルに建てなおしたのである。もちろん継ぎ足したのではなくて、新超高層ビルの下半身にかつてのビルの形をコピーして貼り付けたのである。(設計:NTTファシリティーズ)
 なお、写真を見ると街路樹がなくなっているが、これは植えないのだろうか。

 これは横浜市が進める「歴史を活かしたまちづくり」施策のひとつであるようだ。このような形での旧ビルのイメージ継承を、工事費の一部助成策をもって行っているのだ。
 一般の眼には何の変哲もない無装飾デザインだが、日本の建築に西欧のモダニズムデザイン思想が入ってきたころの1930年代の建築だから、専門的にはそれなりに歴史性を持っているのだ。

 この分りにくい専門性の建築とと、飾りがついていて普通に分りやすい建築の違いが、文化として一般に理解されるには、なかなかに難しい。多分、このビルを見る多くの人たちは、歴史的デザインとはまったく気づかないだろう。
 現に、つい先日のことだが、横浜関内の歴史的建築をめぐる催しに参加してここを通りかかり、ボランティアガイドの方(横浜シティガイド協会)に、これも歴史的建築ですねとわたしが言うと、ご存じなかった。それが普通だろう。

 東京駅前にあった中央郵便局が1933年だから、似たような形である。タイル貼りか白色ペンキ塗りかの違いだけだ。そう言えば、昔の形を下半身い貼り付け、上半身にガラスの超高層という意匠は、そっくりである。
 中央郵便局が表側の2スパン分の建物を残して新ビルにくっつけたのに対して、こちらのJAビルは街角の隅切りに面する壁一枚だけを残して新ビルにくっつけたから、規模の違いはあっても手法もほぼ同じである。
旧東京中央郵便局(現・JPタワー)
つまり、このようなツギハギ手法の歴史建築保存の方法が、今や一般的になっているのだ。それが悪いというのではないが、そのツギハギにも建築家のデザインの上手さ下手さが見え見えである。ツギハギだからこそ建築家の力量がよく分って面白い。

 で、このJAグループ神奈川ビルは、そのうちの下手の部類である。これは腰巻保存とかカサブタ保存とか揶揄されてきた手法であるが、それにしても新旧のデザインの取り合いに工夫が無さすぎる。
新旧のデザインの取り合い 典型的カサブタデザイン
旧建築意匠のパラペット部と新建築意匠の取り合い
近くにある同じような新旧取り合いデザインの建築の、アイランドタワー(安田銀行)、合同庁舎(生糸検査所)、県立博物館(正金銀行)、などと比較して見ると、その下手さがよく分る。
アイランドタワー

アイランドタワーの新旧の取り合い 新旧を切り離して見せる
新ビルの低層部は旧ビルとパラペット高をそろえる
合同庁舎
合同庁舎の新旧のデザインの取り合い 2段構えで取り合う


県立歴史博物館
県立歴史博物館の新(左)旧(右)の取り合い 
  ところで、昨年現地で見たのだが、旧建築の隅切り部分の壁一枚を、わざわざ切りとって残していた。これを新ビルに張り付け、さらにその左右にコピー再現した壁を作ったのだろう。
 だが、新旧とも白く塗ってしまったから、せっかく切りとったオリジナルの壁がまったくわからなくなった。
知る人ぞ知る昔の壁というのも、もったいない。オリジナル壁とコピー壁を区別できるデザインをしなかったのは、どうしてだろうか。
隅切り部の壁を現地に残していた(昨年) これを新ビルに組み込んだ
特にこのようなモダンデザインは、現代ごく普通にある意匠なので、その歴史的価値を一般的に見出すことは難しい。であればこそ、何らかの形で歴史を尊重する表現を眼に見せてほしかった。
 わたしは現物保存こそ正しい歴史的保存であるという多数派建築家とは立場を異にするが、せっかく現物保存したのなら、それを歴史の証人として生かしてほしいと思う。
 そこにこの新ビルの設計をした建築家の、歴史への理解とデザイン力のレベルを見ることができる。

参照⇒横浜ご近所探検隊が行く http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_19.html


 

2014/10/11

1011ノーベル平和賞が消滅する本当に平和な時代が地球上にいつの日か来るのだろうか

 ノーベル平和賞を、パキスタンとインドの人権活動家が受賞することになった。
 特に17歳の少女であるマララ・ユスフザイさんの受賞を、素直に喜びたいのだが、複雑な思いを禁じ得ない。これからこの人はどのような人生を歩むのだろうか。

 ほとんどのノーベル賞の受賞者たちが、成熟年齢に達し、一定の功成り名遂げているのに対して、マララさんの場合は、これまでの活動を評価されたとしても、あまりに若い。
 この賞が課した重荷を背負って生きていくことになる長い長い人生に幸多かれと、このわたしが期待することさえも重荷かもしれないと、不安になる。
 彼女が生きるイスラム社会が、そして国際社会が、これからどのように彼女を抱擁していくか、見守りたいものである。

 考えてみると、ノーベル平和賞なるものがこの地球上あり、その受賞を望む者があり、その受賞を讃えるということ自体が、実に歪んだものである。
 平和賞がなくなることこそが、望むべき平和であろう。いつになればこの賞がこの世から消えるのだろうか。

 日本の憲法第9条の戦争放棄条項をもって、日本国民をノーベル平和賞に応募するという行為が話題になるのも、考えてみれば不幸なことである。
 戦争放棄なんて当たり前になるべきだろうが、現実の地球上の世界は全く反対である。
 この賞に応募した人々がいて、受賞に期待する人々がいる日本という国は、この戦争放棄条項に大いに異議を唱える政党が、選挙によって大量な票を獲得して政権を握っているのである。日本列島が世界の縮図に見えてくる。

 1945年にあの戦争が終わって、わたしは平和な時代の最先端を生きてきて、幸せな人生だと思ってきたのだが、どうやら人生晩期に危ない時代に入りかけているらしい。半世紀以上も平和な時代が続くのは、実は異常であったのか。
 大地震が来るのも怖いし、戦争になるもはもっと嫌だし、そいつらがやってくる前に、そろそろこのへんで人生を逃げ出したいものだ。まあ、逃げても卑怯と言われない歳になってはいるよなあ。

2014/10/09

1010ノーベル平和賞を日本国民が受賞したら、わたしも賞金の分け前もらえるのかしら

 ノーベル賞の季節である。この賞の報道でいつも気になるのは、日本人の受章者は今年はいるのかとか、ほかのアジアの人と比べて日本人が多いとか、妙に国粋的になることである。
 で、今年は今のところ物理学賞で2人の日本人受賞で、アベ首相は「日本人として誇らしい」と述べたそうだ。

 昔々、湯川秀樹さんが受賞したときに大騒ぎだった記憶があるが、あのころは敗戦国日本としての劣等感を、これが癒してくれる事件だったからだ。
 その後、ここまで国際化しても、今年は日本人受賞者はいるかと、いまだに毎年騒ぐのはまだ劣等感に悩んでいるんだろう。劣等感と国粋主義は表裏一体のようだ。

 今年の物理学賞受賞者3人のうちのひとり、元日本国籍で今はUSA国籍の中村さんがいる。報道ではそれも日本人に勘定したがるようだ。
 でも、この日本人をやめた人は、日本社会の研究風土を遠慮なく罵倒しているから、ノーベル国粋主義メディアは、ちょっと鼻白んでいることだろうなあ。
 この3人についての報道ぶりがどう違うのか、あるいは違わないのかと、興味がある。

 ところで、もしも、ノーベル平和賞を憲法第9条を守る日本国民が受賞したら、わたしもノーベル賞受賞者の一人になるのだよなあ、賞金の分け前があるかしら。身近な賞になったもんだ。
 身近と言えば、大学時代に山岳部仲間のひとりで、一緒に勉強、じゃなくてトレーニングやアルプスで合宿をしていた同期生が、ノーベル化学賞を受賞したことがあるから、この賞はわたしにはずいぶん身近になっている。

 ノーベル平和賞って、欧州連合とか、中国の民権運動家とか、ダライラマとか、アウンサースーチーとか、賞の出し方がなんとも平和への戦術的な感があるから、今の新憲法大嫌い政権のときだからこそ、平和賞でガツンとやってくれる可能性があるような気がする。
 今だからこそ、受賞に期待する。明日が発表らしいから、今日、これを書いておくのだ。

 そうだ、思い出したけど、日本では佐藤栄作さんが平和賞を受賞していたんだったなあ、でもなんだか忘れやすい受賞だなあ。
 あの受賞の時は、みんなが、エ~ッ、ドーシテッ、マサカ?って思ったもんだったよなあ。

(追記20141010)ノーベル平和賞は、マララ・ユスフザイさんに決定、あの銃弾の惨劇の少女は、世界に認められる人権運動家として、立派に成長したのであるか、よかったよかった。
 日本政府は、受賞回避ロビー活動を懸命にやったのだろうなあ、たぶん。




2014/10/07

1009横浜成田山の崖上大工事中の足元がけ崩れで崖下の仮本堂ペシャンコとて野次馬参上

 台風8号の大雨で、がけ崩れが起きて、下にあったお寺の仮本堂がペチャンコ、
若い修行僧が死んだそうだ。修行中に死んでは残念だろう、気の毒に。
県立図書館への行き帰りに、いつも通る成田山横浜別院というお寺がある。
ものすごい急な崖地の下から上までが境内で、一番上に本堂がある。
そこでこの事故が起きたというので、野次馬で覗いてきた。
左の崖が崩れてきてつぶれた仮本堂 
左の崖上の青い幕の中が工事中でその足元から崩れた2014/10/07
 
2011年の写真、この真正面からがけ崩れで、右の建物がつぶれたようだ
 眼を崖上の工事中の足元にズームアップすれば、
どうやらコンクリート柱の足元際からがけ崩れが起きている。

工事中建物の足元からがけ崩れが起きている2014/10/07
 昨年から崖上で大工事を始めていて、今は境内にはいれない。
掲示してある完成予想図を見ると、
崖上に京都の清水寺の舞台のような構築物を築いて、
その上を人工地盤として新本堂を建てるらしい。
清水の舞台の足元が崩れて、舞台本体は大丈夫なのだろうか。
 
境内に掲示してある完成予想図はまるで清水の舞台
この絵の左下が崩れたようだ

崖上にはこのような本堂が建っていた
上の本堂を取り壊した跡の空き地で、現在は工事中ではいれない
工事中に参拝客の足を切らさないように、
崖下に仮の本堂を設けていたのだろう。

わたしは全く信仰心はないのに、この横浜成田山をよく通るのは、
その崖地の利用のあまりのすごさと、ここから俯瞰する街の風景が面白いからだ。
とくに面白いのは、日本土俗的なここの空間と、
みなとみらい地区に建つ超高層建築との対比の風景である。
みなとみらい地区の超高層ビルが見える 2010年
   




 このあたりは崖地だらけの地形であり、しかもその崖地に人々が住んでいる。そのような住宅地を歩くと、曲がりくねったり、登ったりくだったりと、ヒマで散歩で歩く分には楽しいが、住むとなると実際は大変だろうと思う。
 建物を建てるときに、どうやって資材を運び込んだのだろうと思うようなところが多い。もちろん玄関は車から遠い。年とると大変だろう。
 今となっては、売ろうとしても売れないだろう。崖地空き家集落になっていくだろう。

 もともとの山地自然地形を、根元を切って平地を多くしたり、途中を切って棚地をつくったり、階段道路で途中を切り刻むから、傾斜地はどんどん崖になっていく。そこを自然は、常に元に戻そうとするチャンスを狙っている。
 チャンスは、地震、大雨、更なる改変工事のたびに訪れてくるから、そのたびにどこかが崩れる。 人口減少時代になり、このような居住困難地区に関して、新たな公的な居住政策が必要だろう。

参照⇒横浜ご近所探検隊が行く