2015/06/29

1102ドジな議員さん、ドジな選挙民、そしてドジなわたし自身

 アンポハンタイ、アベヲタオセ、なんて、デジャビュな世の中になったものである。
 懐かしいなあ、アンポ~ハンタイ、キシヲ~タオセ

 でもって、政治の世界では、なんだかドジなお方たちばかりがいるようだ。
 憲法審査会(何を審査するのかしら?)では、学者に意見を聞こうとて、自民党の推薦で招致した学者が、現在の安保法案は違憲だって、真正面から言われてしまった。
 ありゃ、これじゃあ、アンポハンタイ派に勢いを付けさせただけだったなあ、、作戦大失敗と正直に告白する責任者の議員さんがいて、そのドジさ加減がホントにオカシイ。

 そしてまた、今度は失敗しないぞと、右より発言で有名な小説家を招いて、なにやら文化芸術とかに関する勉強会をしたら、こんどは大成功。
 でも、大成功過ぎて、あまりに右より発言された上に、出席者もそれに尻馬に乗ってしまって、なにやら妙なことになっている。沖縄のひとたちを益々怒らせてしまった。
 またまた、そのドジさ加減がオカシイ。
 なんであの辺り議員さんたちは、あんなにもドジなんだろうか?

 でもなあ、いちばんドジな人々は、そんなドジな議員に票を入れて、国会に送り込んだ選挙民たちである。
 この前もその前も、翼賛選挙してなあ、、マッタク、、株価さえ値上がりすれば、ほかのことはどうでもいい選挙民ばかりなんだな、。
 株って、蕪しか知らないわたしには理解不能。
  あ、今日、ギリシャショックで株価の超値下がりだよ、ウヒヒ、ざま~ミロ~、、。
 
 いや、まてよ、そうじゃないか、そういうことを2回の選挙で続けて選択したのが、この日本列島に住む人々なんだから、ドジなんかなじゃない、賢明な人たちなんだな、だから選ばれた方たちも賢明なんだ、うん、そうに違いない。

 そうか、わかったよ、最もドジなのは、そういう世に生きる、このわたし自身のことなんだなあ、う~む、まあ、あとは勝手にやってくれ、。

2015/06/22

1101【尻餅老人起臥戯録8】発症から50日目で大進化したと思ったらX線写真で実は退化とは、、

 この春に、大学時代の同期生10人ばかりと、一泊旅行に行った。驚いたのは、食事の時に薬を飲む奴が大勢いることだ。しかも何種類も飲んでいる。
 それなのに、わたしには飲むなにも薬がない。わたしだけが旅行にお菓子を忘れたみたいで、うらやましかった。
 それにしても毎食事に何種類も飲むって、どれ飲んだかわからなくるだろうし、飲んだかどうかも忘れるよなあ、いや、1日に3回もそれを考えつつやっていると、ボケの進行が遅くなるかもしれないなあ。

 本日2015年6月22日、第4腰椎圧迫骨折で50日目、第4回目の診察であった。そして、わたしもついに3種類もの薬を持つ身になったのである。ボケ防止薬飲み仲間に入れてもらった。
3種類の薬を、それぞれ週1回、朝1回、3食ごとの3種類の飲み方、
飲み方を間違えないように考えるだけでボケ防止になるな
 最初の瀕死芋虫状態から格段の進化をした状態を診てもらった。ところが、X線による冷徹なる事実は、進化どころか退化になっており、こりゃいかんと薬が出てきたのだ。
5月6日に撮った第4腰椎のX線写真の圧迫状態が、元のように回復しているのかと見たら、その逆で今日見ると前よりも潰れているのだ、え、なんだよ~、。

 これはわたしの生活態度が良くないからかと、医師に聞いたら、そうではないらしい。血液検査をして判断するとて、その検査をしたが結果は全く異状なしだった。
 結局医師が言うには、骨密度検査で骨粗鬆症の気配がなかったので、投薬しないできたが、X線写真を診ると骨の回復の薬を飲んだ方がよい、という。
 ふ~ん、早く言えば、診たてを間違ったんだね、とは言わなかったが、しょうがない、わたしもこれで遂に薬を飲む身になった。
 ま、これまでは検査だけだったのが、発症50日にしてようやく治療が始まったということだ。

 ズボンをはくときに、左脚が上がりにくいのは何故かときいたら、ベッドに仰臥せよとて、延ばした脚を医師が手で軽く押さえたまま、上にあげろと言う。
 押さえる力に抵抗して、右足をあげることはできたが、左脚は全然上がらない。押さえる手を外すと上がる。う~む、なさけなや。
 なぜかと聞くと、しばらく寝ている時間が長いので筋肉が弱ったのだろうという。腰のあたりの神経は膝に通じているそうだ。でも、それがどうして左脚だけなのか。当初から左脚が右脚よりも異常だと言っているのになあ。
 これについては、うっかり追及しないままになった。

 それまでは便秘なんてなったことがないのに、この怪我になった日から便秘になったのは、この怪我が原因で排便排尿するための神経系統に異常が起きたのか、と聞くと、そうではないだろうという。便秘薬を出すことになった。
 ということで骨を丈夫にする薬2種と便秘を治す薬とで、今日から3種の薬を飲む身になったのだ。
 これで一人前の老人になった気分である。
 
 今日も、待った待った、8時半に受け付けにはいってから、検査2回、診察2回、支払い終って出たのが13時だった。そのあと病院の前の薬局でまた30分も待たされた。
 まあ、病院通い4回目ともなると、待つ覚悟ができているのだが、なにしろ腰掛けて待つ姿勢ががつらいのだから、困ってしまう。つっ立ったまま待つ方が楽なのだ。
 待ち合いの長椅子に寝転んで本を読んでいると、眠ってしまいそうになるから、ときどき立ち上がってしばらく休み(?)、また寝転ぶ。

 薬局で薬剤師が、医者がどんな病状と言ったのか教えろと、聞いてきた。
 え、なんだよお、こんなに周りに人がいるところでかい、身体の故障なんて一番のプライバシーだぞ。
 こっちは病院でも薬局でも長く長く待ち草臥れている上に、朝から何も食っていないので超不機嫌だ。
 そんなことは医者に聞け、素人のおれに聞いても間違ったこと言うぞと、そっぽ向いた。
 医薬分業なら、医者と薬屋との連携をきちんとするのは、そっちの責任でしょ。医者の出した処方箋について、素人の患者に聞くなんて、チャンチャラおかしい。ここでも診察するなら個室を設けろよ。

・尻餅搗いて突発寝たきり老人になったが、、、2015/05/05~


2015/06/17

1100【横浜都計審】今度の都計審には市街地再開発事業という難しい議題があるが審議会委員さんたちに審議する能力があるだろうか

 もうすぐ横浜市の都市計画審議会がある。毎度のように傍聴に行って、イチャモンをここに書いている。 
 だが、今度の6月22日には行けない。ただいま負傷中にて、行くことはできても椅子に長時間座っていることが無理なのだ。
 だから、ここに事前イチャモンを書いておいて、もしかしたら都計審委員の方が事前に読んでくださったうえで出席なさると、審議の参考になるだろうと期待している。

 今度の横浜都計審の議題は11件もある。1番から6番まではそれぞれ市内各地の特別緑地保全地区の決定や変更である。議題の内容は似ているが、場所はあちこちなので、それぞれの違いがあるはずだ。
 わたしがかつて都計審員をしていた時は、審議会の事前にそのあちこちを回ってみたから、けっこう忙しかった。わたしの外の委員は現地を見ていないようであった。
 委員を辞めてから毎度傍聴に行っているが、そこでの委員の発言を聞いても、だれも現地を見ていないようである。
 委員の方々は、ぜひとも事前に現地をご覧になるべきである。

 議題の7番から11番までは、じつは相鉄線の瀬谷駅の南側の同じ場所である。
 この一つの地区で5件もの都市計画を、同時に決定するのだが、目的は「瀬谷駅南口第1地区第一種市街地再開発事業」という都市計画事業を行うのが目的であり、その他4件はそれに付随する都市計画である。

 さて、まことに失礼な言い方だが、横浜市の都市計画審議会の委員に、市街地再開発事業について審議する能力があるのだろうか
 市街地再開発事業の都市計画は、都計審議題になることは少ないが、かかった時は審議会の無能が露呈される。
 市街地再開発事業の都市計画については、事業の仕組みを知らない者には、その議案書をみても、なにを審議すればよいのか、ここでの課題はなになのか、実はチンプンカンプンのはずだ。いや、チンプンカンプンであることさえもわからないだろう。
 そして現に委員のほとんどが素人なのだ。更に悪いことに事前に勉強さえしてこない。

 それは過去の都計審が証明している。
 去年1月の横浜都計審の議題になった「大船駅北再開発事業」について、ほとんど審議しないで原案通りに通したので、傍聴したわたしは唖然としたのであった。そのことはこちらにルル書いたのである。
 大船駅前再開発議案をまじめに審議していないぞ
http://datey.blogspot.jp/2014/01/890890.html
 またその前には二俣川駅南地区の再開発事業が議題となったことがあった。傍聴したが、まるで審議になっていなかった。
 大丈夫か横浜都計審:二俣川駅南再開発
https://sites.google.com/site/matimorig2x/110831yokohama-tokeisin
 ほかにも日ノ出町駅前市街地再開発事業の時も、ほとんど審議になっていなかった。
 
 上の二つの記事で、都市計画事業に対して都市計画審議会は、なにをどう審議するべきかを詳しく書いたので、横浜都市計画審議会の委員様方はぜひとも、今度の審議会までには、しっかりお読みいただきたいものである。
 そして重要なことは、審議会の前に必ず現地を訪問すること、そして事前配布資料を当日の席上で読むのじゃなくて、事前に勉強してから審議会に出席すること。なんだか小学生に説教しているみたい。

  そして、議題の範囲だけじゃなくて、長い歴史を持っている瀬谷駅周辺地域まちづくりにも、きちんと目を配って審議をなさってください。
 時間が足りない程の意見が出ればよいのだが、意見が無いので審議をはしょるなんてそんな恥ずかしいことをしないでください。
 そしてまた、つまらぬ質問しかしない都市計画質議会じゃなくて、委員としての意見を述べあい討論して、真面目に審議をしてくださいませ。

 わたしはこれらの再開発事業、あるいは今回の瀬谷駅南の再開発事業に、反対とか賛成とかの立場ではなくて、都市計画事業の都市計画決定にかんしては、他の都市計画決定とはかなり異なる諸課題があるのだから、、もっと真摯に審議せよと言うのである。なにしろ都市計画審議会なのだから。

 この都市計画決定によって、このあと事業認可から権利変換というドラスティックな現地を動かす事業なのに、余りに素人談義で済ます、いやそれさえもなくて、分らないままに原案賛成だけに手を挙げるのは、まちづくりに努力する地域のひとたちに失礼だし、なによりも都市計画の基本に悖ると思うのである。

 しっかりせよ、横浜都計審!!!6月22日の審議に期待しておるぞよ!

参照
●横浜ご近所探検隊が行く
http://datey.blogspot.com/p/blog-page_19.html
●都市計画審議会を改革せよ
https://sites.google.com/site/machimorig0/#tokeisin
●あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている
https://sites.google.com/site/matimorig2x/essay-cityplanning

2015/06/11

1099【中越山村の四季】中越震災から10年の法末集落、この山村はこれから先の10年どうなるか

 この美味い米の飯を毎日食うようになってから、はや10年経ったのか。あの豪雪の山里の棚田にできるコシヒカリを、毎月送ってもらうようになったのは、2005年のことだった。
 新潟ブランド米の「魚沼産コシヒカリ」が旧魚沼郡地域産の米に名づけられるのだが、わたしのコシヒカリはその地域にすぐ隣接する山里で採れるのだ。名乗ることはできないが、事実上は魚沼産と変らない。
 
 10年前にその米に出会ったのは、その前の年の2004年10月に中越大震災があって、わたしが所属していたNPOが復興支援で、その被災山里に入り込んだことからである。復興支援のひとつと思って、集落の営農組合から買い求めて10年となった。
 じつは、この米の飯に慣れてしまったわたしの舌は、外食で美味い飯を食うことをあきらめさせた。入院した病院の飯が不味くて、パンに代えてもらったこともある。

 中越震災復興というと山古志村ばかりが有名だが、あのあたりの山里はどこも山古志のような状態だった。
 わたしたちのNPOが入り込んだのは、そのような被災地山里のひとつである長岡市小国町法末集落である。
 平地はほとんどない傾斜地ばかりの集落、森林と棚田と伝統茅葺民家群が織りなす風景は、日本の山里の原型を想わせる。

 地震で山林は崩れ、田畑は割れ、家屋は傾き、道路は壊れた。中越大地震のときの集落民119人・53戸の全世帯が麓の町に避難した。避難勧告解除は翌年の夏だった。
 法末集落の住民たちは、行政支援を待たずに震災直後に自力復旧にとりかかった。集落が生きる基盤の棚田の修復が最も急務で、来年に米の作付けできるかどうか大きな心配だった。
 年によっては4mも積もる豪雪がやってくる前に、土に埋もれ崩れた棚田や農道を修復したい。他の被災地域のほとんどの農地が、行政による復旧を待って1年の休耕をしたのに、この集落では次の年には3分の2の棚田が作付けをしたのは、自力復旧の故である。
 米つくり農業こそがこの集落民の生きがいなのである。そうやって、自力で家も神社も修復しつつ、集落に戻ってきた。


 あれから10年、集落ではその間にはいろいろなことがあった。今では震災時の6割の70人の住民がいる。高齢化率は73%である。
 あの大戦の終った頃には、今の10倍の700人も住んでいたとは、ちょっと信じられない。

 この10年、集落人口も世帯も減ったが、新たに4世帯が入ってきた。この村は内山さんと大橋さんばかりだが、そこに新たな姓が増えた。
 そのうちの1世帯は、わたしたちの仲間であり、とうとう棲みついて集落住民となり、米つくりに精を出し、山村活性化への策を起しつつある。

 わたしたちのNPOの支援活動も一段落して、時々遊びに行く程度になった。わたしたちも10年の歳を重ねて、高齢化したのである。
 
 この春、『和 震災復興 法末の10年』という冊子が、法末集落から発行された。この10年間の集落と住民たちのさまざまな物語が載っている。
 下記にその抜粋を紹介した。
  震災復興 法末の10年』
https://sites.google.com/site/hossuey/housue10
 さて、これからの10年、人口減少と超高齢化時代の日本のなかで、この集落はどのような道を歩むのだろうか。

●参照
中越震災から10年・復興の山村はこれから
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hossey10

・法末集落へようこそ
https://sites.google.com/site/hossuey/
・中越山村の暮らし
https://sites.google.com/site/machimorig0/datemegane-index#chuetu
・山村の四季を愉しむ
http://datey.blogspot.jp/2013/05/775.html

2015/06/07

1098【15年安保騒動か】日米安保ガイドラインの自衛隊後方支援は英文ではlogosticsつまり兵站だから戦争そのものだよ

●60年安保騒動を思いだす

 なんだか国会議事堂あたりが、騒がしいようだ。今、6月、そうだ、1960年のこの頃、アンポ~ハンタイ、キシヲ~タオセ~、騒がしかったなあ、その中にわたしもいたもんだった。
 そして6月15日、デモ隊の中にいた学生が死んだ。樺美智子といった。
 今日の新聞に、6月14日、国会議事堂前の集まれとの、全面広告が出ているのを見て、ああ、そうだったと思い出して、心の底で波が立っている。

 ノンポリだったわたしさえもそこにいて、おかげで人生のコースが逸れたのだ。内定していた就職先からデモ参加を理由に断られて、別に変更した。もちろん人生はどちらが良かったのか、知る由もないが、わたしの人生の何かが、あの60年安保騒動で変ったことは確かだ。
 あれは60年安保騒動といったけど、55年後の今は15年安保騒動というのかしら。

●日米新安保ガイドラインのlogistic supportとは?

 国会の騒ぎの争点は、戦争に参加することができるように、憲法解釈を変えて、安保関連法も改定するのだそうだ。
 そうか、またアンポ~ハンタイだな。1960年は「キシヲ~タオセ~」だったが、今度はその孫の「アベヲ~タオセ~」なんだろうなあ。
 
 ところで、今話題となっている戦争について自衛隊が後方支援するって、なんのことだろうか。後方支援だから戦争参加ではない、なんて話が出ているらしい。
 昔々「銃後の守り」って言ったよなあ、あれかなあ。兵器生産のために金属供出とか、弾に当らないようにって千人針を縫うとか、竹槍で敵をやっつける訓練するとか、そういうのを後方支援というのか。
 いや、今どきまさかなあ。

 で、分らないから、英語の方に当ってみた。そのあたりの日本のやるべきことは、こうらしい。
「intelligence, surveillance, and reconnaissance (ISR), air and missile defense, maritime security, asset protection, training and exercises, logistic support, and use of facilities」
 この中で、どこにも「rear area support」と書いてないのだが、後方支援ってどれなんだろうか。
 intelligence, surveillance, and reconnaissanceなんて、スパイをやれってのかしら。
 training and exercisesって、竹槍訓練をやれってのかしら。

 logistic supportって、兵站のことだよな。
 つまり戦争をするための兵器や食料などを調達して補給し、輸送し、整備し、回収したり、関連施設を建設したりする仕事である。
 どうやら、これが後方支援らしい。企業活動なら物流機能である。
 あのなあ、兵站は戦争やるのに一番の基礎的な事だよ、この兵站がないと負けるんだよ、これが後方支援かなあ。なんだか誤訳のような気がするなあ。

●日本軍はlogistic兵站軽視で戦争に負けた
 
 日本軍は伝統的に兵站を軽視したのも、先般の戦争に負けた大きな原因だという説がある。日本軍は兵站軽視、つまり行った先の現地調達主義だった。
 だから中国戦線の日本軍は、民家に押し入って食料を調達したのだ。

 その証拠は、わたしの父の手記がある。1933年、満州事変で中国戦線に行った初年兵の父は、民家に押し入って芋を強奪する。「種イモだけは残してくれと哀願するニーコー(蔑称)が哀れだった」と写真つきで書いている。
 参照⇒「父の十五年戦争:第2章 満州事変(1)1933年」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/15senso/part2
 後のビルマ戦線では日本軍もちょっとは反省したらしく、軍票で支払ったそうだ。これについては、インパール作戦生き残りの長老から話を聞いたことがある。そのインパール作戦こそが、悪名高い兵站無視の悲惨な負け戦だった。
 参照⇒大橋正平戦場物語
https://sites.google.com/site/hossuey/home/ohashi-syohei

 日本と戦っている中国の国民政府軍は、アメリカからの支援を、南方の兵站ルートで受けていた。蒋介石を支援するので援蒋ルートといった。
 だから日本軍はその援蒋ルートをたたくために、中国南部へと兵を進め、陸揚げ港をたたくためにフランス領インドシナへ、英領ビルマへと戦線を広げたのだった。
 
 兵站なら戦争に参加していない、後方支援だというのは、いかさまもよいところだ。
 つまり、いまだに日本軍は、兵站軽視の伝統を持っているのですな。
 兵站だから敵からも恨まれないと暢気に構えていたら、昔の日本軍が援蒋ルートでやったように、敵は日本を直接たたきに来るんだろうなあ。
 歴史を知らないことは、怖さを知らないことなんだなあ。

 あ、待てよ、だから迎え撃つ頃ができるように軍備を整える必要がある、だから憲法9条を改定する必要がある、だから今の騒動はその下準備中なんだよって、そう来るかもなあ。
 どうも、デキチャッタ婚みたいに、既成事実をつみ重ねて、周りからしょうがないから結婚せよと言われるように、軍備ガッチリに持ち込む作戦らしいな。

2015/06/05

1097【戦争できる日本へ】選挙権18歳に引き下げはアジア・太平洋戦争末期の徴兵17歳に引き下げを連想させる

 いま国会では、いみじくも「戦争法案」と野党が名付けた、安保関連法案の審議が続く。
 つまり、この法案が国会で承認されたら、色々条件は付くにしても、日本もついに戦争をすることができるようになるらしい。
 でもなあ、戦争の修羅場になってしまうと、条件もくそもないのが、戦争というもである。

 戦争をするとなったら、戦場に行く人間が必要だ。現行の自衛隊員だけでは足りなくなるだろう。そしてまた、戦争をやるのは若者でなくては無理である。
 ところが日本は超高齢社会になってしまって若い者が少ないから、戦争になったら困ることになる。
1944年も2011年も日本では戦場に行ける若者が少ない

 そこで、戦争法案が通って、いざ戦争となって、兵員が足りないから徴兵しようとなったら、堂々と18歳から徴兵適用できるようにしておきたい。それが、18歳選挙権である。
 この18歳選挙権法案を提案なさっている国会議員のお方たちは、こう深謀遠慮しておいでに違いない。そして戦争を知らない世代に選挙権を広げて、憲法改定を容易にする作戦も、、。
 なお、選挙権と徴兵の年齢の連動は、どこの国でも常識である。

 実は第2次大戦中に、日本はそうやって徴兵年齢を引き下げたことがあった。
 アジア・太平洋戦争の戦場で、日本軍の兵員をどんどん消耗してまい、志願兵がいても足りなくなってきた。
 1943年に20歳からだった徴兵年齢を19歳に引き下げ1944年には17歳に引き下げたのだった。更に志願兵は17歳未満でも可とした。ネコソギ徴兵といった。

 そんな日本の歴史を連想させるこの頃の世の中である。
 年寄りばかりの今の日本で、20歳徴兵では戦争に勝てないのである。

 これが、徘徊老人の杞憂であることを期待するばかりである。
 まあ、若いもんは頑張ってくれたまえ、こちとら早くあの世に逃げよう~っと、、。

2015/06/03

1096【尻餅散人起臥戯録7】瀕死の芋虫から直立猿人へと自分の身体が進化していく過程を観察するのは面白い

●全治3カ月のやっと3分の1でずいぶん進化した

 ちょうど1か月前のこと、自転車から降りようとして、尻餅を搗いたら動けなくなった。医者の診断は、第4腰椎圧迫骨折、養生していれば3カ月で治癒するとのこと。
 ちょっと動いても背骨に激痛がドキューンと走るので、瀕死の芋虫の如くの寝たきり老人だったのが、今では立って歩くのはほぼ普通になった。

 だが、背や腰に違和感がまだまだあって、動作がぎこちないから直立猿人か。
 完全復元するはずの全治3カ月のうち、まだ3分の1しかきていないのだから、しょうがない。
 余り早く治ってしまっては、あの孫娘のように可愛い医師に申し訳ないから、徐々に治していくのだ。と言っても、なんの治療も薬もないのだから、ただノンベンダラリと日を送るしかないのだが。

 瀕死の芋虫から、寝たきり老人、そして今の直立猿人にまで、日々進化してきたこの1ヶ月であった。
 自分自身の進化を観測するのは、けっこうおもしろい。今日できなかったことが、3日後には何とかできるようになって喜ぶ。
 そのうちに自分が何ができなかったのか忘れるだろう。あかんぼの頃に、這い、立ち、歩くと進んだのも、こうだったろうと思うが、もちろん忘れている。

●寝たきり治療でボケたり歩行不能になったりするとか

 インタネットで腰椎圧迫骨折を検索すると、こんなことが書いてある。
 「高齢者に多く、長期間ベッド上安静により、認知症の症状が進行したり、足腰が弱ってしまい、痛みが取れても寝たきりのままになってしまうことも少なくありません」
 う~む、わたしは高齢者には違いない。自分ではわからないが、認知不全にはなっていないような気がする。

 それなりに安静にしているつもりだが、痛くない姿勢を積極的にとるようにしている。
 その典型が直立歩行であり、2週間ほどで立つことが可能になってから、ベッドで安静にしてはいない。
 ときどきスクワットはいかないにしても、膝の屈指運動もやっている。
 今、PCのキイボードを打っているが、椅子に座らず立ったまま、足踏みしながらやっている。多分、歩行のリハビリになるはずだ。

●人間がウンコしなくなると良いことだらけ

 ただ今の問題は、背や腰が姿勢によってまだ痛むのもあるが、実は、汚い話だが、ウンコが出ないのに困っている。いや、出ないのだからきれいな話か。
 もともと便秘の習慣はなかったから、あきらかに今回の事故に伴って起きている。
 初めの頃、便器に座る姿勢がつらくてつらくて、油汗を流して座っていたから、それで身体が便をすることを忌避することを覚えたのかもしれない。

 まあ、大便が出なくてもいいのなら、それはまことに結構なことである。健康であっても、毎日の面倒なあの義務がなくなれば、どんなにかせいせいすることか。 
 もしも人間がクソしなくてもよくなったら、この世界はどう変わるだろうか。昔々なら、作物の肥料として大便が必需品だったから、そうなると困っただろうけど、今はそんなことはない。

 小便だけになると便所も小さくてよいし、下水道施設もずいぶん簡単になるだろうなあ。便を経由する伝染病も無くなるだろう。
 大便がなくなっても、世の中で困ることは、なにもないばかりか、むしろ良くなるような気がする。
 そうだ、身体が摂取した食物を全部を消化して血肉エネルギーにすれば、食べる量も少なくて済むから、食糧問題が解決するぞ。
 いいなあ。そういう研究を誰かやってるかしら、イグノーベル賞になるような。

 3日もウンコしなくて、そんなことを考えていたら、腹が猛烈に痛くなってきた。駄目かあ。
 やっぱりウンコってものは、しなければならないものらしい。
 便秘薬を飲んで凌いでいるが、これからずっとそうなるのだろうか。
 もしかして、排便系統の神経に支障が起きたのだろうか。治るのだろうか。
 この際、ウンコしなくてもよい身体に改造するか。つづく

参照

・尻餅搗いて突発寝たきり老人になったが、、、2015/05/05~