2015/08/19

1119【山口文象研究:ブルーノ・タウトとの出会い(後編)】タウトが山口にジードルングの論文自筆原稿を贈ったことなど

中編からの続き)

●タウトが設計助手として山口のスタッフの河裾逸美を借りたこと

 タウトは1934年8月から、高崎にすっかり腰を落ちつけて、井上工房で工芸デザインをしている。時々東京の行って講演したり、建築家たちと付き合い、展覧会などに出かけている。
 1934年10月26日のタウト日記。
「午前、美術研究所に所長の矢代幸雄教授を訪ねる。矢代教授はヨーロッパ特にドイツの芸術に精通し、ドイツの学者とも親交があり、先ごろはまたベルリンの日本展覧会を主宰された。立派な人柄の芸術学者である。それから同氏の友人で建築家の山口(蚊象)、谷口(吉郎)と、バーナード・リーチ氏のつ迎賓展覧会を見た。作品はいずれも決して悪い出来ではない。同行の建築家たちはリーチ氏のものをあまり好まない様子であった。つまり作風が日本化し過ぎているというのである。」
 有島生馬のプロジェクトで、タウトは山口に仕事を取られたが、それを互いに知っていたか知らないのか分らないが、山口とタウトの間にはなにも起きなかったらしい。

 高崎では、井上工房で数々の工芸品や家具のデザインをして試作を続けるが、製作現場とタウトの意図とのすれ違いにイライラしている様子が日記にある。それでも、井上の経営する軽井沢の店で、タウトデザイン工芸品を売り出しつつある。時には日本住宅の設計を頼まれて、設計図を書いている。彼のもとには3人の助手がいたらしい。
 1934年12月10日のタウト日記。 
「私の助手諸君のうちの一人(儘田氏)は少林山、二人(水原、河裾)の両氏)は高崎で、全試作品(実際に製作されたものばかりでなく、図面だけのものも含めて)のカタログを、私の指示に従って編集している。」
 この3人所助手の内の河裾とは、河裾逸美のことであると訳者註にある。

 河裾逸美(1904~?)は、山口文象が所属していた逓信省営繕課の同僚であった。彼も山口等が1923年関東大震災の余燼の中ではじめた「創宇社建築会」の活動に、1927年から参加している。
山口文象が1931年に帰国後、すぐにとりかかった東京歯科医科専門学校附属病院の設計にあたっての山口の仕事の最初の相棒、つまり山口文象建築事務所の最初の所員である。1937年にまで在籍していたから、山口の最盛期のスタッフであった。
 河裾が何時からタウトの助手であったのかわからないが、山口がタウトに貸したのだろうか。10月に一緒にバーナードリーチ展を観に行ったとき、タウトから建築図面を書く助手がほしいと相談されたのだろうか。

 そこで気になったので、ほかにタウト関連の本を探したら、「ブルーノタウトへの旅」(鈴木久雄 2002 新樹社)にこれに関する記述を見つけた。
 その頃、井上工房はタウトのデザインによる製品を数多くつくるようになり、軽井沢に「ミラテス」という名の販売店舗をもっていたが、更に東京の銀座の交詢社ビル向かいのビルの1階にも店を出すことになった。
「店の詳細設計は、助手の河裾逸美が実測をつくって、タウトの指示で作図をした。河裾は元逓信省経理局営繕課の雇員だった建築のよく分る人物で、タウトの信頼を得ていた。」(「ブルーノタウトへの旅」150p)
 なるほど、店舗のインテリア設計のできる建築設計助手をタウトは欲していて、それを山口文象には話したのだろう。
 そうして銀座に「ミラテスが開店したのは1935年2月12日だった。

 ところが、1935年1月19日のタウト日記に、また河裾が登場する。いろいろと井上工房での愚痴を書いた後に、このようにある。
「河裾(逸美)氏は、つい近頃井上工房を鮮めてしまった。この人は、自分だけでも貧しいのに、僅かな俸給を勉強中の弟さんの為に割いていた。河裾氏の月給は四十五円だし、水原氏のは恐らく三十円にも達しないだろう。河裾氏は文字通り飢えんばかりの生活をしていた。昼の食事でも歯が痛いからと言っては、いつも十銭の弁当で済ませるという風であった。」
 水原とは、最後までタウトの助手であった水原徳言で、日本での唯一のタウトの弟子である。

 ということで、河裾はタウトのもとを去った。安月給で雇われていたが、ミラテスの仕事も終わってクビになったのかもしれない。山口文象建築事務所にまた戻って、更に2年ばかり在籍した。山口には洋風と和風の両方の系譜の建築があるが、洋風が河裾の担当だった。
 河裾は戦後は大阪に住んで、建築設計をやっていた。わたしは何度か大阪の安孫子にある自宅を訪ねて、話を聴いたことがあるが、タウトのことを聴いたことはない。

●山口文象資料にあるタウトの自筆原稿のこと

 山口文象がドイツにいた1931~32年には、タウトはベルリンのシャルロッテンブルグ工科大学の教授だったが、山口文象の滞欧手帳にはタウトの名は登場しないから、出会ったかどうかわからない。
 山口文象とタウトの出会いに関しては、ここまでの話は日本でのタウト日記だけが資料であるが、山口側にも唯一のタウトとの接触を示す強力な資料がある。それは、タウトから贈られたという自筆原稿のカーボンコピーである。

 RIA(㈱アール・アイ・エー)に保管してある山口文象資料の中に、『Siedlungs-Memoiren』と題する、手書き原稿45頁のカーボンコピーがある。原稿末尾に「Hayama,30.8.33 B.T」とある。
 別の紙が表紙に添えてあり、そこに山口文象の筆跡で「ブルーノ・タウトから贈られる」と記してある。つまりこの自筆の葉山と日付とB.Tはブルーノ・タウトのサインである。本文と筆跡が異なるから、本文は秘書のエリカ・ヴィッティヒによるのであろう。タウトの原稿はほとんどが口述であり、エリカが筆記していたそうである。

 1933年8月30日の日付をもとに、タウト日記にそれを探したら、1933年9月2日に「論文『ジードルング覚書』(45頁)を脱稿。」とあり、訳者の註で「『ジードルング覚書 Siedlungs-Memoiren』」とあるからこれだろう。
 この原稿をいつ山口文象が贈られたのか分らないが、12月に前田青邨邸であったときだろうか。

 この「Siedlungs-Memoiren」は「ジードルング覚書」として篠田英雄訳『タウト 日本の建築』(春秋社1950年)に収録されている。ただしこれはのちの改稿原稿である。
 山口文象の持っている自筆原稿が初稿だろうが、その翻訳版は公刊されていない。だが、山口の翻訳になるタイプ原稿が山口文象資料に保管されている。その日付は1948年8月30日とあるから、山口はタウトからもらったまま持っていたが、戦後ヒマな時に翻訳したのであろう。多分、どこかの雑誌に発表するつもりだったのだろう。
 ただしこの訳文はかなりの悪文だから、雑誌に売りこんでも掲載されなかったのだろう。
https://sites.google.com/site/dateyg/1946burunotaut-siedlungs

 
●タウトとの別れの送別会で山口は青邨の色紙を贈ったこと

 タウトは日本を目的地としてやってきたのではなく、日本経由でアメリカに行くつもりだった。しかし、水原徳言によると、秘書のエリカ・ヴィティヒのビザを取ることができなくて、あきらめたそうだ。
 タウトは故国に妻子をおき、秘書のエリカとの間にでき子もおき、エリカと二人でナチスからの逃避行の先が日本だったのだ。エリカには、もうひとりの子もいたが置いてきた。火宅のカップルであった。

 しかし本職の建築設計の仕事はないし、工芸デザインも順調ではないし、日本の気候が体に合わなくて病気がちだったから、なんとして日本を出たかった。日記をドイツの親戚や知人に送るとともに、ヨーロッパ方面の知人への連絡を欠かさなかった。
 そして1936年9月30日に、朗報がトルコのイスタンブールからやってきた。ケマル・アタチュルク大統領による新生トルコ共和国の芸術アカデミー教授に招かれたのだ。タウトは大喜びですぐにも出立することになる。

 1936年10月10日のタウト日記には送別会の記事がある。
「井上氏の肝煎で、同氏のほか吉田(鉄郎)、蔵田(周忠)、斎藤(寅郎)の諸氏が幹事役となって、盛大な送別会を催してくれた。会場に当てた赤坂幸楽の二階には、五十人ばかりの知友が集まった。(中略)山口(蚊象)氏からは岳父(前田青邨氏)の色紙を頂戴した。私への餞けの言葉は、いずれも賛辞ばかりで、美しい屍に捧げる頒辞でも聞いているようだ。そこで私は、どうか私に封する非難のお言葉も頂戴したいものです、と言った。」
 山口文象はタウトとの最初の出会いも山口青邨がらみだったが、最後の別れもまたそうであった。石本喜久治を間にしてむしろ困らせたと言ってもよいが、設計作業で困っているタウトに事務所スタッフの河裾を貸したので、帳消しになったかもしれない。結局のところ建築家としての深い付き合いはなかったのだろう。
 そして、タウトが設計した可能性もあった「番町集合住宅」を、山口が設計したという因縁はある。

 ブルーノ・タウトは多くの日本の建築家たちと交流したが、結局のところ、力量を高く評価した建築家は、吉田鉄郎だけだったようだ。吉田は当時は逓信省所属の建築家で、東京駅前の東京中央郵便局(現在は改築してKITTE)の設計者として有名である。山口文象は吉田に逓信省時代に出会っている。
 また建築設計作品らしいものは、インテリアデザインの日向利兵衛別荘地下室だけと言ってよいだろう。幸いにも今は保存公開されている。
 タウトの日本の滞在の日々は、総じて気の毒なことだったが、日本の建築界としてはその謦咳に接したことでよかったと言えよう。しかし彼の建築の腕前を発揮させることができなかったのは、実に惜しいことだった。

◆ブルーノタウトと山口文象
前編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1117.html
中編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1118.html
後編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1119.html

山口文象アーカイブス
https://sites.google.com/site/machimorig0/#bunzo

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