2015/11/29

1149【五輪騒動】明治神宮外苑はドサクサ新国立競技場大急ぎ都市計画変更に便乗して何をやる気なのか

●開発構想図を見ないで審議する都市計画審議会の能力は

『全体の構想というようなものを前提となっている(はずだから)、それを示していただいて、ゆえに地区計画が必要なんだということをお示ししていただく必要があるのかなと。いきなり地区計画(図書が)が出てきても何でこうなるのかという話にどうしてもなってしまう…』(2013年2月158回新宿区都市計画審議会議事録より、括弧内は引用者補足)。

 これは委員の都市計画家・倉田直道さん(工学院大学)の発言である。専門家でも都市計画手続き用の図書だけではわからない、審議できないという。
 その次の159回新宿都計審の議事録を見ると、これに応えて出した絵は国立競技場とJSCビルの予想図であったらしい。倉田さんが求めたのは地区計画区域全体構想の絵、つまり外苑も含めての全体構想図であるが、それは出ないままだったようだ。
 構想図が無いままに審議した都市計画審議会の委員たちの能力は、すごいものだと思う。また、東京都の行政職の都市計画家の能力にも敬服するばかりである。わたしだったら、到底不可能であった。
 ではそのようなものは、存在しないのだろうか。

●再開発等促進区地区計画は開発構想図が元になるはずなのに

 地区計画はミクロの都市計画であり、具体的にどのような姿にするのかを構想し、それが都市計画として正しい方向であると市民も行政も認めて、的確に実現にむけて誘導するために定める都市計画である。
 特に再開発等促進区では、土地利用を開発方向に、つまり規制を緩和する方向に変更するから、その土地利用と建築計画に関して具体的なイメージがないままに定めることはできない。緩和したことでどのような影響が出るのか、知っておいてこそこの地区計画の適用か不適用が分るものだ。

 地区整備計画でそれを詳細に示すとしても、基本方針段階においても構想図がないままに地区計画の文言書くことは事務的にはできても、それでは内容が余りにいい加減な都市計画である。
 この件の東京都都市計画審議会では、新宿区都計審での倉田発言のような意見は無いまま、ほぼなにも審議しないままに原案通りに可決したのはどういうわけなのだろうか。
 結論を言うと、無いのではなくて、あっても見せないのに違いない。見せないとなると、なにか後ろ暗いことがあるのかもしれない、と思うよ、へそ曲がりのわたしはね、、。
着色範囲が地区計画指定範囲。
紫色の民有地がなぜ含まれるのか不可解。
詳細指定の新国立競技場関連エリアと、
詳細未指定の外苑等民有地エリアが、
再開発等促進区地区計画を同時決定したのが不可解。

●国立競技場と神宮外苑がひとつの地区計画なのはなぜか

 そもそも、新国立競技場の地区計画と、神宮外苑の地区計画とは、実体的には関係がないのだ。だって、土地の入れ替えがあるわけじゃなし、容積率の移転があるわけじゃなし、たまたま隣合せているに過ぎない。
 競技場側では建築、敷地、公園、道路などの具体的な姿が提示されて、都市計画的変更内容が明確になっているのに、外苑側は基本方針の文言と区域割の図だけで、なにをやるのか何も具体的な絵が示されない。それを同時に都市計画決定なんて、不可解である。

 それらをひとつの地区計画にして、しかも同時に定めたのは何故か。
 オリンピック会期に追われている国と都の側(図の水色)の大急ぎの都市計画手続きに、民間側の外苑(図の緑色)や民有地(図の紫色)が開発計画も決まらないのに、ドサクサまぎれにチャッカリ便乗したとしか思えない

 ここで再開発等促進区さえを通しておけば、内容は後の地区整備計画でなんとでもなる、うるさい市民の眼は競技場に向いている今がチャンスだ、ということだったのだろうか。なぜ再開発等促進区なのか、そもそものこの制度の出自に照らしても、一向に理解できない。
 現に、新国立競技場については、世間がゴタゴタ言ったけれども、外苑側の都市計画については、誰もなにも言っていない。うまいことすり抜けたものである。
 外苑の将来がどんな姿になるのか知らないが、わたしが言いたいのは、こんないい加減な再開発等促進区の決め方は、都市計画として実に不可解であるということだ。

●『建築ジャーナル』誌に外苑都市計画の不可解さを寄稿した

 他にもいろいろ不可解なことがあるので、雑誌『建築ジャーナル』2015年12月号に寄稿したので、お読みください。

 寄稿小論の表題は「新国立競技場と明治神宮外苑で都市計画家は何をしてきたのか
 前置きはこうである。
この新競技場建築計画に関しては、多様な問題が世間の話題になったが、要はその建築のあまりの巨大さへの批判である。 では事業主の日本スポーツ振興センター(JSC)のもとでその巨大さを決める仕事をした専門家は誰であったか。新競技場の建築計画をまとめ、国際コンペの裏方を務め、実現のための都市計画案を策定し、東隣の神宮外苑も含む大規模な都市計画へと歩を進める役割をした都市計画家とその都市計画の抱える問題に目を向けよう。

 本文をここに載せたら雑誌が売れなくなるから、小見出しだけを書く。
・都市計画家は建築から都市までマネージする
・都市計画公園指定の神宮外苑はどのような姿で開園するのか
・地区計画の区域設定が都市計画として不可解である

●参照
『建築ジャーナル』 

参照
◆【五輪騒動】新国立競技場建設と神宮外苑再開発瓢論集


2015/11/26

1148【尻餅老人起臥戯録10】つぶれた第4腰椎は遅々ながらも復元は進んでいるらしいがまだ薬から解放されない

 5月初めに尻餅搗いて、第4幼稚圧迫骨折なる大けが、いっときは寝たきり老人、それでも立ち直ってはきたが、全治3カ月都の医者の宣告もむなしく、ダラダラと腰痛が続く。 さすがに半年と20日も経つと、日常生活は普通にできるようになった。でも、起居の度に第4腰椎が警告を発するようだし、昔の調子で2時間も歩くと第4腰椎あたりが疲れたなあと言い出すのである。

 今日は、7回目の病院診察であった。9時半に受付、すぐに骨密度測定とX線撮影。
 ここからが長い、9時50分診察の予約が実際に呼ばれたのは10時50分、1時間待ちだった。医者は「おまちどおさま」と言ってくれるのが可笑しい。
 相かわらず待合場所には、50人くらいがボケ~ッと座っている。本読んでいる人は1人か2人、日本列島の端から端まで、こうやってぼけーと待ち続ける人々がいるんだろうなあ。

 その後のわが身の状況報告をする。
「第4幼稚、いや腰椎のあたりは痛いことがあるけど、ほかに痛いところはなくなりました。上向きに寝ていて、上向きのまま起き上れるようになりました。とにかく治ってきてはいますが、やっぱり第4腰椎あたりの違和感が、どうもねえ」

 骨密度は85%とて、これは普通の値だとのこと。X線で第4腰椎の復活具合を見る。
左が6月、右が11月撮影だが、医者は復元進行というのに
わたしの眼には同じにしか見えないのだが、、
6月撮影と比べて、「ホラ、ここのところ、骨が盛り上がって来てますよ~」と先生はおっしゃるのだが、わたしの眼ではなんだかちっとも違わないのであるのが、カナシイ。
 昔、健康診断の時に、医師が大きなX線フィルムネガを見せながら、ココントコロガドウトカコウトカ言っているけど、わたしはちっとも見えなかったことを思い出した。
 やっぱり、プロの目は違うのだろう。
 せっかく先生が励まして下さっているので、「ハイハイ、これからもガンバリマス」なんて、どう頑張るかわからないけど、いちおうは言う。
 特に気を付けて生活する必要はないとのこととて、無罪じゃないけど仮釈放くらいか。

 腰椎を復元させるべく、いつものビタミンDと骨粗鬆症治療の薬が出た。骨粗鬆症治療薬は、後発薬品という、これまでの半額ものにしてもらった。
 なんだかよく分らないが、先発薬ってのが高くて(一粒600円)、後発薬ってのが安い(一粒300円)のだそうだ。同じ効能なら安いのがいいし、売れるに決まってるのに、値段がこうも違う薬があるのが不思議である。
 次の診察は来年の2月、しだいに間遠になって来るのが、嬉しいような気もする。 

 病院に来るようになって毎度どうも気になるのは、診察時の先生とわたしの位置関係である。昔ならまともに向かい合っていたのに、いまはコンピューター画面を二人で覗き込むから、互いに横向きである。
 でも画面に関係ない話をするときは顔を向けなきゃなるまいと、体勢をそうするのだが、センセイの方がそれに応えて向きを変えてくれない。チラチラとは見てくれるのだが。
 まあ、センセイは若い女性、こちらはむくつけきジジイだから、正面から見つめちゃ気持ちが悪いかなあ、そうか気の毒かなあ、しょうがないや、でも、ちょっとチガウような、なんて思う。

・尻餅搗いて突発寝たきり老人になったが、、、2015/05/05~


2015/11/23

1147【終活ゴッコ:懐かしい品々処分:製図用具編】もうこれがなんであるか分る人が少ないかもなあ

 先般のカメラに続いて、こんどは懐かしい製図用具が出てきた。
①計算尺、②竹製30糎物差し、③卓上掃除ハケ、④丸描きテンプレート、⑤1m折れ尺、⑥勾配定規、いずれも小物なので捨てなくてもよいのだが、、、。

 ①計算尺は、大学生の時に買わされたような気がする。でも、これを使った記憶がないなあ、構造計算の授業で必要だったのだろうか、そんなことした覚えがないなあ、なんで買わされたのだろうか。手回し計算機と並ぶ精密骨董品の感がある。

 ②~⑥は古典的製図用具である。
 これらの内で今でも役に立っているのは、③卓上刷毛のみである。製図版の上の消しゴム屑を払うためのものだったが、今ではPCのキーボードのホコリを払っている。
 
 このほかに持っていたけれども捨ててしまった製図用具に、烏口、ロトリング、コンパス、T定規、製図版(90×60㎝)があった。便器用テンプレートもあった。
 蕎麦打ちを趣味としている友人が、製図版をノシ板にしている。

 思い出せば、2H鉛筆を細く細く尖らせて図面を描いてたものだった。1㎜幅に中に5本以上の線を引くのが自慢であった。いまやそんなことはPC使えば100本だって引けるし、眠くて目がしょぼついても線を引けるんだな。

 昔々、仕事場仲間内では、その筆致で誰の手による図面であるか判ったものだが、今はそうはいかないだろう。
 いやまてよ、今どきだから、それぞれ描き手の個性ある図面を引くソフトができているに違いない。あるいは、大建築家の筆致で描くソフトもあるのだろうなあ、どうなんだろうか。

 ついでに書いておくが、これは製図用具でもないし、懐かしいというにはあまりに昔のもの過ぎる祖父の遺品がある。さて、これはなんでしょうか?


2015/11/21

1146【終活ゴッコ:懐かしい品々処分:カメラ編】戦前から今日までの7個の古カメラをもう捨てようっと、、

 今年になって蔵書の処分という終活をダラダラと続けている。ほかにも処分するべきものがあったなあと思い出したのだが、どうでもいいのに、なんとなくとっておこうと、どこかに放り込んでいた懐かしい品々である。
 まず、カメラが7個も出てきた。うち2個(①と②)は父親の遺品であり、③~⑦の5個はわたしのものである。試していないが、電池を入れると①と⑦のほかは使えそうな感じもある。

●父のカメラ
 戦前のカメラの①「KINKA HAND CAMERA」については、かつてこのブログに掲載したら、読んだ方からその由緒を教えてもらったことがある。http://datey.blogspot.jp/2009/04/118.html 

 珍しいものだろうが、もうボロボロで、今日もこの撮影用に引っ張り出したら、あちこちポロポロと欠け落ちる有様である。
 わたしがカメラなるものに触ったのは、これが最初であった。小学生の頃にこれを引っ張り出してもてあそんでいた。中学生になってから何とかして写せるようにしたいと、近所のカメラ屋さんに相談したが、なにしろガラスの乾板なんてものは、戦後の貧しい時の田舎町には存在しなかった。
 父がこのカメラを買ったのは1935年、わたしの姉がが生まれたときのようだ。その姉は3歳で夭折してしまった。このカメラは1942年まで使ったらしい。たぶん、もう遊び用には、ガラス乾板も印画紙も無くなったのだろう。

 もうひとつの父のカメラ②「FORMULA SF-D」は、戦後に買ったものであるが、いつごろのものか知らない。楽天オークションにジャンクで1380円とある。

●わたしのフィルムカメラ
 戦後しばらくはカメラは高価なものものだったから、今のように誰でも持っているものではなかった。父のもう写せないカメラをいじっているうちに、なんかして本当に移すカメラをほしいと思って、小さなおもちゃに毛が生えたくらいのカメラを買ったことがある。たぶんそういう思いを持つ少年向けのものだっただろうが、詳しいことは忘れた。
 大人になってから、カメラを借りて写すことはあったが、自分で買ったのは1967年だったような気がする。吉祥寺で仕事をしていて、知り合ったカメラ屋さんで買ったのが、当時はじめて世に出たコンパクトカメラの「コニカC35」であった。
 これは吉祥寺の街の変化を記録するのが主な目的で買ったのだが、以後、あちこちの街の変化をカラーリバーサルフィルムで記録する癖がついた。

 この次に買ったのは③「オリンパスXA」である。発売が1978年、これを買った理由の第1は、日付がはいるからであり、第2はデザインがすばらしいことである。気に入ってずっと使った。

 だが、街の風景の記録にはカメラレンズが広角であるほうが便利なので、それを待っていた。
 コンパクトカメラで28mm広角が出たのは1994年、⑤「FUJIFILM CARDIA MINI TIARA」であり、日付も入るので、直ぐに買った。小さくてポケットにも入る大きさなので、便利に使った。

 その後で28mmから90mmまでズームできる1994年発売④「ペンタックスESPIO928」も買ったのは、ちょっと勇み足だった。これはコンパクトよりは大きすぎる。

 ここまでがフィルムカメラである。使ったフィルムが一体いくつくらいかわからないが、ほとんどがカラーリバーサルフィルムで、スライドマウントしているのだが、その量が膨大である。たぶん3,3万枚はあっただろうが、だんだんと捨ててきた。それでもまだ5000枚くらいはあるだろうか。これの処分を思案中である。エイヤッと全部捨ててもよいのだが、、、。

●わたしのデジタルカメラ
 そのうちにデジタルカメラが出てきたが、買うかどうか思案していた。28㎜の広角がでたら買おうと待っていた。2004年についにズームの広角デジタルコンパクトカメラ⑥「RICOH CAPRIO R1」が出たので買った。これは單3電池も使えるのがよい。

これが故障したので、⑦「CANON IXY900 IS」を買ったのが2006年である。

 これを水の中の落していっとき故障したが、なんとか回復してだましだまし使っていた。でも、2010年にどうにもダメになったので、古カメラ屋で同じものを買った。今、ここの写真を写しているカメラである。実は、この他に2個のデジタルカメラを買った記憶があるが、詳細を忘れた。
 いずれにしても、広角、日付入り、コンパクト、視覚ファインダーつき条件のカメラであり、街の風景の記録をするためののもので、カメラ収集趣味も写真撮影趣味もない。
 デジタルカメラになって、フィルムはたまらないのがいいが、PCの中に画像が一体何枚ある事か、一応は整理してあるが、場所も重さもないからいいようなものだが、貯めておく必要がほとんどないなあと思いながらも溜めこんでいる。

 さて、もう書いて記録を残したから、この7個のカメラを近いうちにゴミに捨てようっと。(カメラ収集癖のある方で、ほしければタダで差し上げますよ)

(20200927追記)2010年に中古で買ったキャノンのカメラが、今日壊れた。よく働てくれた、感謝である。さて次のカメラをどうするか、普通なら携帯電話機にカメラがあるから要らないのだろうが、私はなにしろガラケーである。さて、さて、年取るといろいろと壊れるなア、このカメラといい、ガラケーは息絶え絶えだし、パソコンはよたよた、健全なのはタブレットタイプパソコンだけだなア。そろそろ持ち主を処分するほうが早いか。

2015/11/09

1145【横浜ご近所探検隊が行く】ヨコハマ港名所「象の鼻パーク」に本格的空き家廃墟コンセプトの新名所ができたらしい

みなとヨコハマ名所「象の鼻パーク」、謎の新名所か

明るい港のそこだけ土地は草ぼうぼう、蔦がからまる木造2階建て、
屋根のセメント瓦は崩れ落ちそう、真っ赤に錆びた高いポール、
ちかごろ日本全国で評判の空き家廃墟をコンセプトにした
 新名所に違いない、これは面白そう、

行ってみようとて、近づけばますます本格的廃墟デザイン、
アンテナにカラスがとまっているところもニクイね、

振り返れば海にオドロオドロな龍がいたりして、
ますます雰囲気を盛り上げる。

 港側には入口がなさそうなので、
表にまわって大桟橋通り側から眺めると、
おお、入口両側にはレトロな街並みを従え、
後ろにランドマークタワーを控えさせて堂々たるものだ。


いよいよ路地を入って近づけば、
蔦のからまる壁にCLOSED、
あ、今日はお休みの日なのか残念、
レターポストの上に黒猫が眠っているのもニクイねえ、
ドアのガラス越しに見る室内は、いかにも廃屋っぽいインテリアで
壁は汚れ、床にはなにやかや散らばっていて、本格的雰囲気だ。

こんど開店しているときに来よう~ッと。

2015/11/06

1144【神宮外苑あたり徘徊③】なんだか懐かしい風景の霞ヶ丘都営住宅団地を消滅させる外苑都市計画提案は実は都住宅マスタープランに背反していたのでは?


●どこか懐かしい風景の霞ヶ丘都営住宅団地へ

 銀杏並木から消えた国立競技場そしてと体育館へと歩いてきて、消えた明治公園四季の庭に沿って外苑西通りを南へ、半分消えた明治公園霞が丘広場、そして霞ヶ丘都営住宅へとやってきた。

 この都営住宅はまだ建っているが、いずれ新国立競技場のトバッチリを受けて、消える運命にある。トバッチリ組の霞ヶ丘広場がここに移ってくるからである。都営住宅を地区内のどこかに建てるのかと思ったら、完全に消えるらしい

 なんとも懐かしい団地風景である。5階建てだけどエレベーターがなくて、階段で上り下りする。給水塔があるのも懐かしい。わたしは1970年代に10年ほど、このような団地に住んでいたことがある。
 庭には今、たくさんの果樹があり、柿やミカンや柚子等がたわわに熟している。いまどきのキレイに刈り込んだ造園ではなくて、草も繁っているのだが、なにやら懐かしく成熟感がある。


●建て替えられた北青山都営住宅団地

 実はここによる前に、外苑銀杏並木の東隣にある北青山1丁目都営住宅に寄ってきたのだ。
 そこはかつてはここと同じような低層棟が建ち並んでいたのだが、いまは高層住宅に建て替えられている。
 その周りはここと違って、いかにも造園デザインの風景で、キチンとしているのである。いまどきで言う高級マンションのようだ。立地条件も高級住宅地並である。
北青山1丁目都営住宅

 霞ヶ丘都営住宅だって、ほとんど同じ立地条件である。建て替えすれば、暮らしやすい良い住宅になるだろうに、なぜトバッチリで消滅させるのだろうか。
 代替の都営住宅として、JSC・日本青年館ビルに高層都営住宅を併設したってよさそうなものを、もったいないと思う。

 いま、空き家問題やマンション問題が起きている。大災害で住宅難民が大量に出ることが予想されている。東北地方では大震災後に大慌てで大量の公営住宅を建てている。
 そういうことから分るように、いまこそ公的賃貸住宅が重要な時なのである。遊びの場の競技場のトバッチリで、こんな良い立地の公的住宅が消えるなんて、なんともやりきれない。

●霞ヶ丘団地を消す地区計画提案は都マスタープラン違反

 そこでちょっと調べてみた。東京都や新宿区には都市マスタープランとか住宅マスタープランとか呼ばれる、まちづくりの基本計画がある。そこにこの霞ヶ丘住宅のことをどう書いてあるか。
 外苑地区計画を提案したときの書類「地区計画企画提案書」に引用してある「東京都住宅マスタープラン」には、「霞ヶ丘地区の都営住宅建て替え事業が特定促進地区として指定」と書いてある。新宿区の都市マスタープランにも同じことが書いてある。
 そして引用の図には『「低中層個別改善地区」地区の特色を考慮した良好な住環境へと改善するために地区計画等を活用して整備する』と記入がある。
 つまり霞ヶ丘団地も、北青山団地のように、建て替えをすることに決めてあったのだった。

ということは、ここの地区計画を提案内容には、もちろん霞ヶ丘都営住宅が競技場のトバッチリで消えるようになっているから、これは上位計画に背反している提案である。
 う~む、それを受け取った東京都は、自分のところで作ったマスタープランと違う内容なのに受理したのであったか。
 受けとってからマスタープランを変更したのかしら、行政裁量として適切だろうか。

参照
◆【五輪騒動】新国立競技場建設と神宮外苑再開発瓢論集

2015/11/04

1143【神宮外苑あたり徘徊②】今日は祭神の誕生日の明治節、神社境内の外苑は祭礼の見世物小屋群で賑わっている

●自然を無理に仕立てる銀杏並木

 神宮外苑を訪れたのは、一昨年の秋に来て以来だ。また同じことを書きそうだが、あの時と違うのは、国立競技場が消えたことである。
 正面ゲートの青山通りから銀杏並木を入っていく。東京は暖かいから、未だ並木の銀杏は黄葉を迎えていない。
 葉張りが隙間があり過ぎるし、樹幹の先端あたりが妙に細く細く立ち上がっているのは、最近になって剪定をしたのだろう。


 銀杏の木の自然の姿は、絶対にこのようにはならない。ばらけて四方に広がるのが自然なのに、ここではわざわざ剪定して不自然な円錘形の銀杏並木をつくるのである。
 それは絵画館(小林正紹デザイン)という明治日本帝国の記念碑に、一点透視で視線を集める仕掛けのひとつとして重要な造園景観なのだ。ヨーロッパに学んだ造園家・折下吉延のデザインである。

 ここではいわば絵画館が神殿であり、参道が銀杏並木である。
 明治天皇の後に立った大正天皇では、カリスマ性の形成がおぼつかないために、明治政府が一生懸命に作り上げた明治帝国という仕掛けが崩れかねない。そこで明治天皇を神に仕立てて明治神宮を作り、その境内地の外苑がここである。
 外苑の土地はほとんどが官有地だったが、土木、建築、造園等の整備の費用は、全国から寄付と人力奉仕を集めた。その方法は官僚機構を使って地方各地に割り当てが及ぶことで、明治国家の末端への浸透を意図する国家事業であり、明治神宮は国営施設であった。
 また、青年団活動を起して勤労奉仕も求めることで、その団体活動は強兵づくりの基礎となった。
 相撲場や競技場を作ったのも、青年たちが兵士として壮健な肉体を養う場としてであり、それはここの前身である青山練兵場の歴史を受け継ぐものである。

●祭神誕生日の祭礼で見世物小屋が立ち並ぶ境内

 さて、今日は、まさにその明治天皇が生れた「明治節」の11月3日、お祭りの日であろう。神社で祭りならば、境内に屋台や見世物が出てきて賑やかなはずである。
 おお、そのとおり、絵画館前広場にはたくさんのテント小屋が立ち並び、なにやら芸事の披露大会をやっているようだ。この賑わいこそが神社境内らしさなのだ。妙に気取った銀杏並木と絵画館のパースペクティブ景観なんて、お呼びでないのである。
 見れば絵画館の右後ろに、なんだか背が高い(名ばかり)マンションのようなビルが建っている。一点透視の焦点が乱れた。東京都都市景観計画の規制は、役に立たなかったのか。
 

 今日は仮設の小屋がたくさん出ているが、ここには常設の見世物小屋もたくさんある。絵画館、神宮球場、第2球場、そして国立競技場(いまは外苑施設ではないが、かつてはそうだった)、ラグビー場が5大見世物小屋である。
 それらはいずれも巨大すぎて、じつは都市計画の風致地区の高さ制限に違反しているのだが、いずれも風致地区指定(1970年)以前に建ったから、既得権がある。
 そのほかにも観客参加兼用見世物小屋として、水泳場、ゴルフ練習場、テニスコート、草野球場、バッティングセンタなどなど、神社境内らしく雑多に立ち並ぶ。

 肝心の絵画館も、その威容を見せるための周囲に階段や噴水や植え込みでデザインしたオープンスペースは、平らなところはどこもかしこも駐車スペースになっており、威容をいや増しに見せるどころか、これも雑多な神社境内風景らしくなった。
 
 この前来た時は、絵画館にむかって左に眼を転じたら、森の上に何やら鉄骨造りの無粋な代物がいくつも立っていて、それはこの境内で最大の見世物小屋だった国立競技場の夜間照明等であった。
 そして今日はそれが消えている。5年後にはまた立っているのだろうか。
2013年には向うに国立競技場の照明塔が見えていた

●外苑の聖なるモニュメントは駐車場扱い

 あまり知られていないようだが、絵画館の真後ろには、聖なるモニュメントがある。ここが神宮外苑となる前の青山練兵場で明治天皇の葬式を行った時に、その棺を安置した葬場殿跡を記念している場所である。
 そのモニュメントは、丸い石組の草の生えた基壇の上に、大きくその葉を茂らせている楠が一本立っているだけである。絵画館の裏庭の、しかも駐車場の中にあって、その雑多なる風景には聖なるモニュメントの風情はない。
 だが実は、外苑の銀杏並木から絵画館への真直ぐなる軸線上の頂点に位置するこここそが、明治神宮の祭神である明治天皇へのフォーカスポイントなのである。



 そこに神殿を設けずに常緑の大樹としたのは、いかにも日本的信仰の形らしい。これは外苑のプランナーであった建築家・佐野利器の考案であったという。
 そのモニュメント大樹のまん前にひろがる絵画館は、いわば絵馬を飾った拝殿みたいなものである。この拝殿は、いかにも西欧王権的な大仰さである。

●2020年再登場する外苑最大の見世物小屋は

 聖なるものは森の中に隠れて奥に居ますべきとする日本的信仰の姿(神宮内苑)と、西欧近代に追いつき追い越せの明治帝国を露骨にプレゼンテイションする姿との間のギャップが、秋の日の外苑の見世物小屋群の喧騒なる風景に見事に現れていて、妙に面白かった。

 さて、2010年に再び姿を現すはずの巨大見世物小屋は、どんな形を見せるのだろうか。ザハ・ハディド案の未来宇宙船が没になったからには、日本の神社境内にふさわしいとして、檜皮ぶき屋根が乗っていて玉垣に囲われて登場するのだろうか、まさか。 
これはわたしの戯作
 しかし、見世物小屋はしょせん見世物小屋、伝統的なテントやヨシズ張りの小屋掛けがいちばん似合う。そんな軽~いデザインを伊東豊雄か隈研吾(どちらもただ今ゼネコンとグルになって準備中)が見せてくれるだろう。
 あ、そうだ思い出した、1964年オリンピックに、神宮内苑の脇に建った代々木の国立体育館(丹下健三デザイン)は、まさにサーカステント見世物小屋そのものであった。
代々木国立体育館

キグレサーカス

(つづく)
参照
◆【五輪騒動】新国立競技場建設と神宮外苑再開発瓢論集


2015/11/03

1142【神宮外苑あたり徘徊①】消えている今だからこそ見える束の間の風景を探しに消えた国立競技場を観に行く

●東京体育館と絵画館が呼応する期間限定風景

 秋晴れの日、東京ひとり徘徊は、神宮外苑あたりへ、消えた国立競技場を観に行った。
 消えたものは見えないが、消えたからこそ観える風景、5年先には変ってしまうから今でなければ観ることができない束の間の風景を探しに行ってきた。

 まずはこの風景はいかがですか。向うに見える坊主頭は、言わずと知れた神宮絵画館、手前左に大きくかぶさる丸がいくつも重なる建築は、これまた言わずと知れた東京体育館である。傾いている四角な箱は、ゲージツらしい。

 もう少し引いてみるとこうなる。

  東京体育館と神宮外苑絵画館の位置関係はこうである。

●渋谷川の明治公園が消えた

  東京体育館を背にして、消えた国立競技場を観るとこうなる。絵画館の坊主頭から神宮球場まで見える。この風景は、今でなければ見ることはできない。
 つい半年ほど前までは、この向うに国立競技場が立っていて、この風景ではなかったはずである。残念ながらそのころの写真を撮っていない。
 体育館との間には渋谷川が流れている谷間に、明治公園四季の庭があるはずだが、いまや白い板囲いの中の工事現場になっていて樹木を撤去しつつあるようだ。川はどうなるのだろうか。

 この写真に見える黒い庇や階段は、もちろん体育館である。向うの坊主頭の手前の大きな空き地が、消えた国立競技場である。2020年には、ここに新国立競技場が建っていることであろう。

 上の写真を撮っている位置は、下の写真(google street)の外苑西通り左のコンクリート壁上にある東京体育館の裏出入口から右を見おろしている。
 こうやってみると渋谷川の谷間に擁壁を立てたという地形的なせいもあって、体育館も実際にはかなり高い建物になっている。


●現れた懐かしい未来都市のような期間限定風景

 では逆に、坊主頭絵画館の側から東京体育館を見るとどう見えるか。
 絵画館を背にして、競技場撤去工事の板囲いにある透明プラスチック板を通して覗き込んだ。
 おお、消えた国立競技場の跡地の向うに、今だからこそ観えるのは、ロケットと宇宙船そして高層ビルが林立する未来都市だよ~、、、これって、わたしが少年時代の雑誌で観たデジャビュ感のある風景だなあ。
 今や幻となった新国立競技場ザハ・ハディド案も未来型宇宙船であったが、東京体育館は既に地球に降り立った前世期型宇宙船というところか。
 
NTTのタワーとの取り合いが絶妙で、ヘンに懐かしいような。

では、ちょっと悪戯して


●没になったザハ・ハディド案は東京体育館に良く似合う

次は、東京体育館の正面にまわって、千駄ヶ谷駅前の側から眺めると、ふむふむ、こちらから見るともうちょっと近代的宇宙船かもしれない。
 宇宙船つの体育館を大いに意識して、一義的にはこちらとの調和を求めたのであったらしい。
 一方、クラシックな絵画館との関係は、むしろ極端に対比することで記念性をさらに高揚させようと考えたのであろうと、いまさらながら確認したのである。
 実はこのことは、神宮外苑地区地区計画の企画評価書に、それらしいことを記してある。その評価書は、都市計画家の関口太一が書いたのであろう。

これが幻のザハ・ハディド案と東京体育館の並ぶ模型写真
よく似た仲良し母娘みたい

 つぎは、絵画館の方にもいってみよう。(つづく)

参照
◆【五輪騒動】新国立競技場建設と神宮外苑再開発瓢論集