2016/05/18

1193【東京徘徊】おやおやあの赤プリがボテ太りビルになってしまい今や東京は超高層建築さえも次々建て替える時代

東京の赤坂見附あたり、緑濃い弁慶掘りから眺める風景が、以前より大きく変わっている。
 あの屏風の切れ端のような超高層ビルだった赤坂プリンスホテルが、別のビルになっている。
 赤プリ建築は丹下健三の設計で1983年に建ったから、今や超高層ビルだって30年ほどで壊されて別のビルになる、そんな時代が来ているのか。
 そういえば日本超高層ビル草分けのひとつ、浜松町の貿易センタービルも建て替えが始まるとか。

 赤プリ跡の新しい施設の案内看板によれば、名前は「東京ガーデンテラス紀尾井町」といい、ホテル、オフィス、商店、共同住宅棟の複合開発のようだ。
 ここは崖地である。徘徊ヤジウマはさっそくこの崖地建築に入りこんで、昔のように崖の下から上の永田町まで通りに抜けでてみよう。
 でも建物の中をエスカレーターで登っても面白くもないので、弁慶掘り沿いに坂道階段が作ってあるので、そこを登って行くことにする。

弁慶掘を眺めると右手前に赤プリを建てなおした超高層オフィスホテル棟、
右向う隣りはホテルニューオータニの超高層、
左向うにはやはり超高層を超高層に建てなおした鹿島の本社ビル
面白いのは弁慶掘側の斜面緑地と江戸初期の石垣である。それらを修復して、新たにウッドデッキの緑道を設けてある。緑と石垣と弁慶掘りとその向こうの東京の街を眺めながら登るのは、なかなかよろしい。
 江戸城外堀の弁慶掘から立ち上がる石垣は、江戸城の赤坂門の一部である。1636年に福岡黒田藩が築造を担当したから黒田の家紋である裏銭紋を、石に刻印しているのが見える。
 そのような17世紀の江戸城の固い守りの城門の石垣に、20世紀の高速道路がズボッと突っ込んで攻め込むさまがが面白い。
江戸城の城門のひとつだった17世紀の石垣に
20世紀の高速道路がトンネルで攻め込む
石面に見える丸い刻印は石垣築造担当の黒田藩の紋

江戸時代の話になったので、ちょっとこの地の歴史をおさらい。江戸時代は徳川御三家のひとつである紀伊和歌山藩徳川家の中屋敷だった。もちろん今の西武鉄道関係の土地だけではなくて、麹町まで広かった。
 19世紀半ば過ぎて明治維新後は、皇族の北白川宮家の土地になり、20世紀の初め1910年日韓併合で朝鮮の李王家が日本皇族に取り込まれて、この地に邸宅を持った。その一部が、赤坂プリンスホテルの一部になっていた。

 そして20世紀半ば過ぎ、1959年に西武鉄道の堤康次郎がこの地を手に入れて、プリンスホテルを開業する。堤は各地の宮家の土地を獲得して、その宮家のメタファとしてプリンスをブランド名とするホテルを作っていった。これについては、都知事でミソつけた猪瀬直樹『ミカドの肖像』に詳しい。
 更に21世紀の初め2011年、巨大地震と津波の東日本大震災事件、そのときここが被災者たちの避難先の一時住まいとなったという歴史も忘れてはならないだろう。
江戸切絵図に現在の主な土地利用状況を書き込んだ
 さて崖上に登って、気になっていた旧李王家の邸宅(1930年築)の無事を確認した。これがなくなったら、この場所の歴史的意味を目で確認しにくくなるから、とりあえずよかった。
ただし、どうも昔とは位置が違うような気がする、前庭がもっと広々していたのが、いかにもせせこましい。これは曳家して移転したのだろう。
 この崖地の再開発は、プラン上ではいろいろと工夫があるのだろうが、新しい2棟の超高層建築もその外回りのデザインも、特に面白くもなんともない。写真を撮る気にもならない。
曳家して修復活用する旧李王家邸
2年振りくらいだろうか、坂上からこのあたりの街を眺めると、あちこちに高層ビルが建っていて、景観がずいぶん変わった。
 遠望しても覚えていた高層ビルの姿が見当たらないから、どこがどこやらわからない。だが、変わらないのは弁慶掘に沿う常緑樹林と、その項影を落とす堀の水である。
 旧李王家邸も、変わらないもののひとつと言ってよいだろう。

 もうひとつ変わらない面白い景観がある。
 旧李王家邸の真向かいに、このあたりで稀有と言ってよい木造住宅が建っているのだ。
 オフィスビル街のこの戸建て住宅を以前から気になっていて、今日もまだあるだろうかとやってきたら、おお、健在である。
 狭い敷地に小さい平屋の古家ながらも、立派な樹林を従えていて、道の上に枝葉を伸ばしている。
 人が住んでいるのかどうかわからないが、何かの事情でここに建ち続けているらしい。これからも建ち続けてほしい。

左に旧李王家邸、右に謎の小さな森の木造住宅
この上下の空中写真を比較すると旧李王家邸がかなり移動したことが分る





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