2017/01/31

1249【東京駅周辺徘徊その7】戦争直後にさっそう登場して5か月で消えた幻のモダン建築八重洲口駅舎


東京駅とその周辺の太平洋戦争による空爆被災
 太平洋戦争の空爆で、1945年5月25日に東京駅も被災した。丸の内駅舎は焼夷弾を食らって炎上、煉瓦壁とコンクリ床とぐにゃぐにゃ屋根鉄骨だけが残った。
 下の地図はピンク塗りつぶし部分が被災したところで、丸の内側は東京駅舎の外は比較的被災が少ないようだ。だが八重洲側の京橋、銀座、日本橋、そして大手町も、街はどこもかしこもすっかり炎上した。
東京駅周辺の戦災被災区域図
 上の地図だと東京駅の東の八重洲口あたりの被災は無かったようだが、どうだろうか。
 次の写真は、戦争直後の京橋上空から西を俯瞰している。焼け跡がある程度片付いているようだから1945年末か1946年の撮影だろう。

 次は上の写真の八重洲口あたりの拡大である。
 八重洲橋の正面に2階建ての駅舎らしい建物があるが、丸の内駅舎が丸焼けになったので、こちらに機能を移しているのだろうか。
 その左には初代の八重洲口駅舎らしい形も見えるから、こちらは被災しなかったのかもしれない。 
 

 ついでにこの時の丸の内駅舎の様子を見よう。丸の内の赤レンガ駅舎は、1945年5月20日の空襲で焼夷弾を浴びて炎上した。
 下の写真は、鉄骨造の屋根が焼け落ちてしまい、内部は全焼、煉瓦の壁とコンクリート床が焼け残っている。まだ修復工事が始まっていないから、1945年末ごろの写真だろうか。手前の池は、工事中断したままだった新丸ビルの地下にたまった水である。


 次の空中写真は1947年11月撮影である。東京駅八重洲口側の中央あたりに外堀にかかる八重洲橋がある。八重洲口の駅舎は小さすぎてよく分らない。
 この写真の外堀は埋め立て工事中なので水が見えない。外堀埋立は1947年11月20日に完了し、れによって生じた土地は、東京駅拡張用地や民間開発事業用地となった。
 西側の丸の内駅前広場に面して南に東京中央郵便局、北に鉄道省(後に国鉄本社)があり、正面の南には丸ビルが見える。丸ビルの北側には工事中断した新丸ビルの地下部分に水が溜まっていて黒く見えている。
1947年 東京駅の東側の外堀を埋立工事中

 次は1947年の外堀通り、外堀、八重洲橋そして東京駅の写真である。
 この八重洲橋の右に見えるのは、上の拡大写真に見る駅舎だろう。次の年にできる新駅舎とも形が異なるから、戦災直後の仮設建築だろうか。
 右上に修復中の丸の内駅舎の南ドーム(外は台形、内部は半球形)が見える。この年3月に外観はほぼ修復完了した。その左は東京中央郵便局。
 
  まだ戦後の混乱期であり、この行列は乗車券を買うために並んでいるのだそうである。丸の内駅舎が使い物にならないので、こちらが乗車券発売の機能を持っていたのだろうか。
 外堀の中にトラックがあって埋め立て工事中だろうが、翌年に埋立は完了した。


●戦後初の八重洲口新駅舎のさっそう登場とはかない命
 1948年11月16日に、次の写真のような八重洲口新駅舎が登場した。木造2階建てだが、ようやくいかにも戦後駅舎らしいモダンな姿である。
 この設計は鉄道省建築課長の伊藤滋のデザインだろう。まさにモダニスト伊藤の作品であり、有名な御茶ノ水駅(1932年)を想起させる。
 ついでにいえばこのころ伊藤は、戦災で炎上した丸の内駅舎の修復工事も指揮しており、辰野金吾デザインの異国趣味葱坊主型ドームを、台形角型ドームのモダンデザインに再生した。(参照⇒「空爆廃墟からよみがえった赤レンガ駅舎」伊達美徳)
この写真のネットサイトでの説明に1953年とあるが1948年の間違いであろう
丸の内駅舎の南ドームが修復されており、その左は中央郵便局、右は丸ビル 
 この写真で見ると、手前に路面電車が走る外堀通りと駅と地続きなっているから、外堀は埋め立てられている。その地面から八重洲橋の欄干や照明ポールが立っているのが見えるが、それらの位置から判断して八重洲橋は右の方であるらしい。つまり、八重洲通りのつきあたり正面に新駅舎が建っているのではなくて、南に寄っていることになる。
 八重洲橋と地続きになった外堀埋立地は、新駅舎の駅前広場になった。

 ところが、新駅舎は半年も経たないうちに姿を消した。
 1949年4月19日午前、駅舎工事現場の失火から、烈風のなかを火は燃え広がって、この八重洲口モダン駅舎と周辺の6棟が燃え、更に飛び火で300m離れた家屋1棟が焼失した。新駅舎の命はたったの5か月だった。
 下の写真は、それを伝える当時の新聞記事である。附図で駅舎と八重洲橋の位置関係が分る。下右の半楕円のような形は、八重洲橋であろうから、この下方に八重洲通りが続くのである。
 

●八重洲口駅舎とその位置について推測

 わたしは鉄道については全く門外漢である、興味があるのは駅舎のデザインとか景観である。
 だから八重洲口駅舎が、その位置で、そのようなデザインで、しかも丸の内側よりずいぶん遅れてなかなか整備されんかったのは、何故であったのか気になる。
 その理由はいくつか考えられる。
(1)天皇の駅として作ったのだから、庶民が必要なら有楽町駅でも神田駅でも使えばよろしい。
(2)外堀から西の丸の内側は三菱村の領分、東側は三井村の領分、その確執があったから。
(3)駅東側に将来の弾丸列車(新幹線)乗入計画があったが、なかなか定まらなかったから。

(1)と(2)については、勝手な推論で面白がって書いてみたいとおもうが、それは次の機会にする。ここでは(3)の新幹線計画がらみについて、国鉄の人が書いた資料を基に、勝手に推測する。
 東京駅丸の内側については、赤レンガ駅舎や初期の電車ホーム等で、その整備は固まっていたが、八重洲側については、弾丸列車計画との関係でかなり多様な計画やらその変更やらがあったようだ。
 そのために八重洲口駅舎は位置も建物もながらく固まらず、仮の計画であったのだろうと、門外漢として推測する。

 弾丸列車とは、今の新幹線であり、これは既に1938年頃から計画が進められていたとのことでる。それは、1931年からの中国大陸での日本軍の軍事行動が広がると、軍事輸送からと、大陸植民地経営の観点からとで、新輸送鉄道の要請が出たのだそうだ。
 そして東京から下関に高規格新幹線計画が始まり、1940年度から実施に入って線路時期などの一部用地取得や工事が実施された。しかし、太平洋戦争により新幹線事業は中止された。

 この下の図は1940年頃につくった東京駅に新幹線が乗り入れる計画案である。
 八重洲側に新幹線のおおきな駅舎(裏本屋と記述)があり、駅前広場も外堀通りと八重洲通の交差点を東に三角形に広くして計画している。
 この大きな駅前広場は、鉄道側で勝手に描いたものか、それとも都市側でこのような計画があったのか、どうなのだろうか。
 だが、八重洲通りは、震災復興事業でいろいろと地元反対の中で、駅前広場をつくることができないままに完成したばかりであった。
 新幹線は中止になってもいずれは再開するとして、ここまでみたように、八重洲口側は駅舎など作るとしても小規模木造建築で、位置的にはその場あたりで仮設的に過ごしてきたのであろうと推測するのである。
 結局は本格的な八重洲駅舎が建ったのは、戦後になってからだったから、丸の内とは40年ものギャップであった。(つづく

●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その6】控えめ過ぎる初代八重洲駅舎
http://datey.blogspot.jp/2017/01/1247.html
・【東京駅周辺徘徊その5】復興記念館にあった東京駅八重洲口駅舎らしい絵は幻か
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・ 
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・ 


2017/01/26

1248【能「隅田川」を観る】傘寿となった人間国宝・野村四郎が演じる隅田川を観てきた

 東京の隅田川に「言問橋」(ことといばし)という面白い名の橋がある。その橋は関東大震災の復興橋梁として1928年に架けられた名橋のひとつである。
 この橋のことを川端康成が『浅草紅団』のなかで、「清洲橋が曲線の美しさとすれば、清洲橋は直線の美しさだ。清州は女だ。言問は男だ」と書いている。
言問橋の透視図 復興局橋梁課嘱託技師時代の山口文象によるパース
  言問いとは、質問という意味である。その由緒は9世紀ごろに成立した歌と紀行の「伊勢物語」にさかのぼる。
 そのころの隅田川は、たぶん自然堤防の流路で橋は無く、船による渡し場があったのだろう。その物語の主人公である在原業平がやってきて詠んだ歌がある。

  名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

 川の上に入る鳥の名が都鳥と聞いて、業平の故郷の京の都を思い出して、愛しい人は無事に過ごしているだろうかと、都鳥に問いかけるのである。
 この歌が有名になり、後に橋を架けた人が言問い橋と名付けたのだろう。

 なぜ有名になったのか。それは16世紀初につくられた能「隅田川」が有名になり、その主題歌とでもいうべき歌がこれであったからだ。
 もっとも、庶民にまで知られたのは、17世紀以後のことだろう。いまもある名物「言問団子」のネーミングも、有名な歌を利用した宣伝である。それが地名となり、橋の名になったというわけである。

          ◆◆

 さて話はその能「隅田川」のことである。2017年1月25日に国立能楽堂でその能を観てきたことを書くために、ここまでがその前置きであった。
 わたしが能の隅田川を見るのはこれで6回目である。そのほかに能からアレンジした「隅田川」物を2つ見ている。ひとつはベンジャミン=ブリテン作のオペラ「カーリューリバー」、もうひとつは浄瑠璃とコラボレーション能「謡かたり隅田川」である。
 分りやすい悲劇を、いかに演劇あるいは芸能にするかという、それぞれの工夫が面白い。

 さて、今回の能「隅田川」は、シテ野村四郎で地頭は梅若玄祥という、実に強力な組み合わせである。わたしはこれまでに四郎の隅田川を2回、玄祥のそれを1回観ているが、今回久しぶりに観て感動したのであった。
 能「隅田川」は、誘拐された幼子を捜し歩く母が、その子の埋葬された塚にたどり着き、嘆き悲しむという実に分りやすい悲劇である。
 離別した子を探す筋書きの能は多くあり、最後は親子が出会ってめでたしになるのが普通だが、この「隅田川」だけが唯一の悲劇であるところに、能としての特徴がある。
「能の図 隅田川」 狩野柳雪

         ◆◆

 これまで観た能「隅田川」の詳細な記憶があるのではないが、今回は最後のところがこれまで観たことのない演技であったと思う。
 塚から亡くなった子の亡霊が出現し、母はかけよって手を差し伸べると消え去り、ふりかえると再び亡霊出現、母は抱こうと駆けよるが、亡霊はまた塚の中に消え去る。
 そして母の嘆きのうちに、ほのぼのと夜が明けて、もう子の亡霊は現れない。まわりは荒涼とした野が広がり、能はおわった。

 子方を追いかけて崩れ込んだシテは、舞台上の作り物の塚にすがりついて、ゆすらんばかりに嘆く所作のうちに、地謡が歌い終えた。
 これまで観た能「隅田川」では、嘆く母は立ち姿のままでシオリ止めとなっていたと思うから、ここは四郎の新演出だろう。これまでの抑制的な嘆きの型を、激情的な表現の型へと工夫したのであろう。
 それを論評するほどの見識をもちあわせないが、これで「哀れなりけり」と謡い納める嘆きの深さに、激しさをも加えたことがよく分かった。

 激情的な嘆き表現と言えば、六代目歌右衛門が得意とした歌舞伎舞踊「隅田川」がある。そこでは狂乱とも言えるほどの激しい所作で、子の死を嘆き悲しむ。
 能にもとをとる歌舞伎は多いが、能の抑制した表現を歌舞伎一流のオーバーな表現に転換する。隅田川では歌舞伎では過剰な嘆きが舞台に溢れ、能では深い重い嘆きが舞台に積もる。

 野村四郎は、いま傘寿だが決して枯淡の演技ではなく、最後の所作ばかりか、全体にその謡や言葉は哀れさよりも激情的な表現であったように観た。
 ただし、さすが年には勝てないのか、あの華麗なる謡にいくぶんかの錆と淀みを聴いたのが、ながくその美声ファンのわたしには寂しいと感じた。

         ◆◆

 能「隅田川」は、観世元雅の原作とされる。その父は能の大成者の世阿弥元清である。
 その親子が、この隅田川の能の演出についての論争したことが、世阿弥が書いた『申楽談儀』にある。元雅は塚から死んだ子の亡霊を舞台に登場させる演出を、世阿弥は登場させない演出をそれぞれ主張したというのだ。

 今回の能「隅田川」は、亡霊が登場したから、元雅の演出によるものだ。もっとも、わたしはこれまでに子方の亡霊が登場しない隅田川を1度しか見たことがない。喜多や金剛など下ガカリでは、子方の出ない演出を普通にしているのだろうか。
 子方の出ない演出を観たいと思う。子方がいないシテひとりの舞台で、塚の中から子が謡う念仏の声と塚から現れる子の亡霊という母の幻聴幻視を、観客にも幻聴幻視させる演技を、ぜひとも観たいものである。

 もうひとつわたしが考えている観たい演出がある。それは、母がただただ嘆くままに終るのではなくて、子の死を確認して再出発する母を表現して終るのである。
 母はこれまで、「人の親の心は闇にあらねども子を思う道に迷う」ばかりだったが、今、子の死を確認したことで、ようやく「ほのぼのと明け行」く時を迎えた。朝日の光りの中、4月の春の日、緑が萌えてたつ「草茫々」の「浅茅が原」に立ちあがった母は、、次の人生へ歩みだすのである。
 つまり、その母を「哀れなりけれ」と悲しみの目で見るのではなく、もうひとつの古語の「あはれなりけれ」として、その母の再出発をしみじみといとおしく謡うのである。そんな演出はどうだろうか。

 能「隅田川」の母の次の運命を描く芸能は、いくつもあるらしい。
 そのひとつをアレンジしたのが浄瑠璃とのコラボレーション能「謡かたり隅田川」である。そこではなんと、母は絶望のあまりに隅田川に入水するのであった。

 余談だが、隅田川に登場する狂女は、笹の枝を手に持って面白く舞う姿を人々にみせて群衆を集め、失踪した子の行方を尋ねていたのだろうか。ほかの狂女物の能ではそのような狂女が登場する。
 今なら、どのような人物なのだろうか。ちかごろ街なかで、独りごとをブツブツ言いながら歩き回る女にであうことがある。これが笹の枝をもっていると、そのまま隅田川の狂女である。昔々、地下鉄飯田橋駅地下道に、いつ通っても、木の枝を持ちブツブツ言いつつ舞う狂女がいたことを思い出す。

         ◆◆

2017/1/25(水)14:30 国立能楽堂
狂言 大蔵流「神鳴」  シテ:山本東次郎、アド:山本則俊
能  観世流「隅田川」 
   シテ:野村四郎、子方:清水義久、ワキ:宝生欣哉
   囃子  笛:藤田六郎兵衛、小鼓:観世新九郎、大鼓:亀井忠雄
   後見:浅見真州、野村昌司
   地謡:梅若玄祥、武田宗和、岡久広、青木一郎 ほか
   後見:浅見真州、野村昌司

●参照
 能役者 野村四郎サイト http://nomura-shiro.blogspot.jp/
 趣味の能楽鑑賞 https://sites.google.com/site/machimorig0/#nogaku

2017/01/19

1247【東京駅周辺徘徊その6】震災復興初代八重洲口駅舎が丸の内駅舎や八重洲橋と比べてあまりにも控え目なのはなぜだろうか

東京駅周辺徘徊その5】からつづく
 (読者に伺い中の復興記念館の写真について、まだどなたからもご教示はありません)

●関東大震災で東京駅の東側が大きく変わった

 東京駅は1914年に西側の丸の内口だけに出入り口を設けて、巨大な駅舎を作った。
 その目の前は野原であり、その向うの元江戸城の皇居があった。だが京橋や日本橋の繁華街があった東側には、出入り口を設けなかった。つまり天皇のための駅であったのだ。

 1923年9月1日、関東大震災が起きた。東京から横浜は大被災、丸の内の東京駅舎は無事だったが、駅東側の外堀端の鉄道省は炎上、外堀の東側の京橋や銀座や日本橋の街は燃えた。
関東大震災直後の東京駅周辺 矢印と線は震災時火災の飛び火と延焼
東京駅の東側の鉄道省施設が火災にあったことが分る
 後藤新平の大風呂敷震災復興計画は、紆余曲折の末に縮小に縮小しながらも復興事業にとりかかって、1930年頃には大方が完了した。
関東大震災復興事業後の東京駅周辺図 駅の西側は変化がほとんどない
東側では、東京駅の裏口駅が開業、八重洲橋がかかり、八重洲通りが開通した
 復興事業により、駅東の外堀には八重洲橋がかかった。その幅44m、長さ38mの、コンクリートアーチ橋の完成は1929年6月だった。
 そこから東に向かって築地へと結ぶ八重洲通りが開通した。その道幅は44mで東京駅がその西端の突き当りになる。
 そしてついに東京駅東口の八重洲橋口駅舎開業したのは1929年12月16日だった。 
 これでようやく京橋や銀座日本橋から東京駅にまっすぐに入ることができるようになった。

●復興した東京駅と八重洲橋あたり

 ではどんな駅舎が登場したのだろうか。先ず、全体像を見よう。
 次のカラー写真は戦前の絵葉書だが、丸の内方面から東を俯瞰しており、右上に外堀通りがあり、そこには広い八重洲橋がかかっている。1930年頃の撮影だろう。
 外堀にかかる八重洲橋の手前に、列車基地をまたぐ陸橋につながっている駅舎が見えるが、復興記念館の絵とは似ていないようだ。
 
 これで見ると、八重洲通りと八重洲橋の立派さに対して、八重洲橋のこちらに見える駅舎やその周りのゴタゴタぶりはどういうことなのだろうか。それら多くの建物はいずれの鉄道関係の施設であり、左上の呉服橋手前にある大きな建物は鉄道省であった。
 八重洲通りを通し、八重洲橋をかけ、都市側の整備がこれほど進んでも、鉄道側は小さな駅舎を建てて出入り口を設けただけ、まわりは何も整備をしていないように見える。ギャップが大きい。

 東京駅裏口(八重洲橋口、今の八重洲口)の開設当時の新聞記事を載せておく。
 この記事には、初日の乗降客数が約6700人で、予想していた東京駅1日乗降客数7万人余の5~6割の4~5万人よりもはるかに少なかったと報じている。それは電車しか扱わないし、駐車場もタクシーも不便な作りであるからとある。

●初代八重洲口駅舎と八重洲橋の姿

 次の写真はネットにあったものだが、駅舎と周辺がよく分る。
 1931年初代八重洲口と書いてあるから、これが本当だとすれば、先の復興記念館の駅舎はやっぱり幻の代物であったか。 

 跨線橋に接続する駅舎らしい建物は、小さな平屋のようだ。駅を出るとほとんどいきなり八重洲橋であり、自動車も見えないから橋が歩行者専用の駅前広場だったのだろうか。
 木造2階建てだろうが、橋上広場の南西角にあって斜めに配置している。復興記念館にあったあの絵のような八重洲橋への正面性はみられず、丸の内に比べると実に実用的な建物のようだ。
 これで東京駅裏口駅舎(八重洲口)の初代駅舎は、復興記念館にあった絵の姿とは全く異なるものであったことが分かった。

 駅舎は仮設的だし、その周りの建物はバラックだったが、そこから東に踏みだして外堀にかかる八重洲橋と、そこから東に伸びる八重洲通りは、丸の内に負けない立派な都市整備であった。
 新設の復興道路八重洲通りの幅員44mは、国会議事堂間通りの55mに次ぐ広さであり、ほかには昭和通があるだけだったから、かなりの力の入れようである。なお、八重洲通りも含め主要な22の復興道路の名を公募してつけた。昭和通りや新大橋通りなど今も使われているが、歌舞伎通りは今は晴海通りといっている。

 そしてこの駅専用と言ってよい八重洲橋は、外堀をわたる長さ38m、幅は八重洲通りにの幅に合わせて44mであった。コンクリートアーチ橋は石張りの実に堂々たるものである。
 八重洲通の西詰めにあって、それ自体が広場になるほどの大きさである。この橋と初代八重洲口駅舎の貧弱さと比べると、月とすっぽんの差であった。

 関東大震災の復興橋梁のひとつであった八重洲橋は、1929年6月に完成しており、その設計図面には、建築家山口文象のサイン(岡村)があるから、彼がデザインをしたのであろう。このことは、このブログに2014年に書いたことがある。

 1948年、この八重洲橋は外堀の埋立てで地中に埋もれた。その後に八重洲地下街や首都高地下道路ができたから、外堀の江戸城の石垣ともに消えてしまっただろう。

●八重洲橋口駅舎はなぜこんなにも貧弱なのか

 こうしてようやく東京駅の裏口と言われる東口駅舎が新たに登場したのだが、丸の内駅舎開設から15年もの後であった。なぜ1929年まで待たねばならなかったのか。
 物理的には、それまでは外堀に橋がなかったからだろうが、もともと木橋の八重洲橋があったのを、1914年の東京駅開業時に撤去したという。橋をかけ替えようという計画もなかったのか。
 そして開設しても、周辺の駅施設は駅前広場整備はさしおいて、小さな駅舎だけを建てた感じである。常識的には駅前広場の整備も行うだろうに、これはどうしたことだろうか。

 そしてまた、丸の内側に比べて、八重洲橋口駅舎はなぜこれほどに貧弱なのだろうか。丸の内口よりもこちらの八重洲橋口の方が、利用者が多いと言うのに、この差別は何故だろうか。
 15年前につくった皇居にいる天皇のための丸の内側の駅舎・広場と、このたびの京橋・日本橋側の庶民のための駅舎・広場との、あまりに大きなギャップに驚く。
丸の内駅舎
 もしかしたら、新開設した八重洲口駅舎は、実は仮設であって、いずれはあの復興記念館にあった絵のような駅舎を立てる予定だったのだろうか。
 なんにしても、あの復興記念館の絵は幻の駅舎であったらしい。あのような計画案があったが、諸事情で実現しなかったのか、それともあの絵は復興記念館の展示のためだけに画いたものか。

 やがて太平洋戦争の戦禍が東京駅周辺にも及んできて、丸の内口にも八重洲口にも再び大きな変化をもたらすのである。(つづく)

●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その5】復興記念館にあった東京駅八重洲口駅舎らしい絵は幻か
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・ 
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・ 

2017/01/16

1246【東京駅周辺徘徊その5】復興記念館にあったこの東京駅八重洲口駅舎らしい絵は幻だろうか、どなたか教えて下さい

【東京駅周辺徘徊その4】からつづく

 東京駅というと、わたしたちすぐに西側の丸の内駅舎のことを頭に浮かべるが、東側の八重洲駅舎ついて、ちょっと知りたいことがあるので書いておこう。どなたか教えていただきたいのです。

 なお、戦後の町名変更までは、八重洲という地名は今のように外堀通りの東の京橋側ではなくて、東京駅の西側の丸の内にあった。
 しかしここでは戦前の話でも、今のように八重洲口駅舎に統一して書く。

●関東大震災復興計画の八重洲駅舎か?

 ここに東京駅の八重洲口駅舎と思われる絵の写真がある。
 わたしが1988年に、墨田区横網町公園にある復興記念館を訪ねたときに展示してあるのを見つけて撮った。その10年ほど後に訪ねたときにもあったが、今もあるのかどうか知らない。
 
 この絵のいちばん背景には、左右に長く連なる屋根に3つのドームがあるから、これは東京駅の丸の内側にある赤レンガ駅舎である。
 ところがその手前に、もうひとつ別の屋根のある建物が見える。この建物の両脇から左右に水平な屋根が見えるのは、駅プラットホームの屋根のようだ。
 とするとこの建物は八重洲口の側にあることになる。その手前には橋がかかっていて、これは外堀通りの突き当りにあった八重洲橋であろう。
 八重洲通りの突き当りにある建物だから、東京駅の八重洲口の駅舎に違いない。

  ちょっと加工して、背後の丸の内口駅舎を薄くして、八重洲口駅舎を浮き出してみよう。

 こうして見るよく分るが、この八重洲口駅舎は、左右対象の2階建て、左右両端に尖塔をもち、その間にスレート葺き屋根がかかり、中央部は丸の内駅舎の中央ドームに呼応するように、若干高くなった屋根に3つのドーマー窓をもっている。
 この中央部が駅の主出入口で、中はたぶん吹き抜けになっているのだろう。
 その意匠は全体的に丸の内駅舎をアレンジしているが、派手に装飾はしていないようである。スケールが小さいので、どこか丸の内駅舎の子か孫のようなイメージである。

 復興記念館の展示には、この駅舎についての説明がなかったが、復興記念館にあるのだからこれも復興駅舎計画だろうか。それとも、復興展示は復興橋梁の八重洲橋が主眼で、その時に描いたのだろうか。
 東京駅の八重洲口の開設は1929年、震災後の復興事業が完了に近づくころである。この絵の駅舎が八重洲側の出入口の新規開設と同時に建てられたのならば、初代八重洲駅舎である。
 駅舎の手前の八重洲橋も、1929年に復興橋梁として架けられた。この東京駅専用のような橋の堂々たる規模と意匠からして、駅舎と橋が一対の復興事業となったのだろうか。

 わたしがこの絵の写真を撮った1985年から90年くらいまで、東京駅とその周辺の再開発の検討調査を国土庁や建設省や運輸省等の政府機関が行っており、わたしは都市・建築コンサルタントとして、主に東京駅赤レンガ駅舎の検討を担当していた。
 その調査のために、昔からの色々な東京駅のかなり多くの資料を見たが、この絵に相当する建物の写真にも図面にも出会わないままである。もしも実現したならば、何か写真でお目にかかるはずである。

 ところが実は、初代八重洲口の駅舎はこれとは全く違った姿で登場していたのだった(次回にそれを書く)。では、これは計画はあったが幻の駅舎なのか。いったいなんだろうか。
 これをお読みになったどなたかぜひとも教えていただきたい。
              つづく
 
●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・ 
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・ 

2017/01/10

1245【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側の駅ビルとその南北のビル群はこの30年で大変化

東京駅周辺徘徊その3】からつづく

 東京駅の駅舎と言えば、つい丸の内側の赤レンガキンキラ駅舎のことばかりになるが、八重洲側にも出入り口があるし、もちろん駅舎もある。
 八重洲口は1929年に開業した。丸の内側の駅舎と違って、こちらの駅舎は何回も変転があって、戦後になってもずいぶん姿が変った。
 ここでは1987年にわたしが撮った八重洲側の写真がいくつかあるので、それと現在とを比較してみよう。

 まずは八重洲側の駅前にある八重洲通りから見る、1987年の東京駅の八重洲側駅舎である。鉄道会館と言い、大丸デパートが入っていた。
 
これが最初に建ったのは1954年で、そのときは6階建てであった。この写真で見るのは、1968年に12階建てに増築したのちの姿である。
 八重洲通りの正面に、黒い壁のように立ちふさがっていた。反対側の丸の内側から見ると、増築までは6階建てだから、赤レンガ駅舎の上には見えなかったのだが、増築後は赤レンガ駅舎の上に横長に見えてスカイラインをみだしていいた。
 
 上と同じ八重洲通から見る東京駅の2016年の姿である。
この鉄道会館が消えたのは正確にはいつか忘れたが、ある日、真っ黒だったビルが真っ白のビルになっていて驚いたことがある。取り壊し工事のための囲い壁が白色だったのだ。その白ビルがだんだんと低くなっていって、鉄道会館が無くなった。
 いまでは八重洲駅舎は3階建てになり、グランルーフと名付けられているのは、その上にテントのようなものが張りだしていてそれが大(グラン)屋根(ルーフ)なんだろうか。低くなった分の容積率はグラントウキョウノースタワーにでも移転したのだろう。
 その向こうには建て直して高くなった丸ビルと新丸ビルが見える。 
 八重洲通りの両側の姿は、30年前とほとんど変わっていない。でも、近ごろこのあたりを再開発して、超高層ビルに建て替える計画案が、事業者から発表さているから、10年後には大きく変わっているだろう。

 次は、その鉄道会館の屋上から見る、1987年の八重洲通りの姿である。
 

 次は上と同じ位置からの2015年の姿である。しかし、写真を撮ろうにも鉄道会館が消えたので、これはグーグルアースのお世話になって似たようなアングルを探したものである。
 左右ともほとんど変わっていないことが分る。しかしそれも5年ほどのことだろう。

次も同じく鉄道会館屋上から見る、1987年の八重洲通りである。

上と同じアングルで、グーグルアースによる2015年の八重洲通りである。近いうちに大きく変わりそうである。

 次は八重洲側の八重洲ブックセンターから外堀通りを北に眺める1987年の東京駅八重洲口駅前広場と鉄道会館である。
 鉄道会館の向こうに国際観光会館と鉄鋼ビルが見える。これらはいずれも1950年代早々に整備されて、東京駅の八重洲側をかたちづくったのだった。

 上と同じアングルで、八重洲ブックセンターから北に眺める2016年の風景である。この30年で大きく変わったことが分る。
 八重洲駅前広場と八重洲駅舎、その右向こうに大丸デパートが移転したグラントウキョウノースタワー(八重洲観光会館の跡)である。左端にグラントウキョウサウスタワーが見える。
 これらは丸の内駅舎の一部容積移転も受けて、2007年に建った。右端に見えるのは、再開発されて超高層になった鉄鋼ビル。

 次は上とは逆に、外堀通りを北の呉服橋交差点から南へ見通した1987年の写真である。右に鉄鋼ビル、左に龍名館が見える。

  上と同じ位置から2016年の写真。右の鉄鋼会館が建替えられ、その向こうの国際観光会館も建て替わった。
 左の外堀通りの東側は、手前の太陽神戸銀行と龍名館が建て替わっているが、その先はほとんど変化が見えない。

面白いのは、東京駅の街区は大変化なのに、外堀通りから東の八重洲2丁目の裏路地あたりの街の、あまりにも変化のないことである。同じ東京駅周辺でも、こちらと丸の内側とのギャップの大きさが興味深い。
 1970年頃から10数年、大手町の勤め先からここに昼飯や夜呑みでやってきていたものだった。何本もの細い路地に小さな飲み屋が立ち並ぶ、なんとも懐かしい昔の風景が今もある。

つづく

●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・ 
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・ 


2017/01/05

1244【東京駅周辺徘徊その3】駅前の行幸道路でやんごとなきお方が眺める景観変化この90年と未来景観戯造お遊び

東京駅周辺徘徊その2】からの続き

八五郎:ご隠居、明けましておめでとうございます。
ご隠居:おや、八ツアン、いらっしゃい。はい、おめでとうさん、今年もよろしくお願いしますよ。
:正月早々から、ネット遊びですかい。日本橋の景観戯造なんて、、。
:はは、ヒマだからね、正月は、いやまあ、1年中ヒマだけどね。
:で、つぎはどんな戯造です?
:いや、偽造の前に去年やった東京駅の話の続きをしようかね。こんどは丸の内の駅前道路、通称・行幸道路の景観ね、これが今の姿だよ。
丸の内行幸道路の東京駅方向を見る風景 2016年12月
:ああ、東京駅と皇居前広場を結ぶ広い道路ですね。何で行幸道路なんだろ、天皇だけが通る道ってこともないだろうに。
:うん、もしかしたら自動車に乗って真ん中を通ることができるのは、天皇だけかもしれないね。とすればこれは、やんごとなきお方が眺める風景だ。
:こんなに左右の高いところから見下ろされると、やんごとなきお方だって鬱陶しいかもなあ。

昔の風景はどうだったんでしょうねえ。
:はいよ、これが1928年の写真だよ。関東大震災の5年後だけど、ここはあまり被害はなかったね。東京駅は1914年にできている。右の手前のは1918年にできた日本郵船ビル、そのむこうに少し見えるのは1923年にできた丸ビル、左に見えるのは1918年の東京海上ビルだよ。
:ほう、スッキリですねえ、えらく空が広いや。まんなかの東京駅は今と変わらないけど、左右のビルはずいぶん違いますねえ。総じてバランスがいいなあ。今の風景はビルがこけてくるような、。あ、そうだ、右が丸ビルなら左には新丸ビルがあるんでしょ。
:いや、海上ビルの向こうの新丸ビルは、このときはまだできていないから空き地だよ。

:このあとの大変化が、1945年の大空襲ですね。
:そうだね、東京駅は焼けて屋根が無くなったけど、丸ビルなどのコンクリビルは大丈夫だったんだね。戦後の変化は、1952年に新丸ビルができたのが第1号だな。
:新丸ビルは丸ビルと同じ高さでしたね。
:そう、1963年までは法律で高さ100尺つまり31mまでしか建てられなかったんだな。そのあとがずいぶん変わってきた。これが1987年にわたしが撮った写真だよ。
:どこもかしこも変わっちまって、変わらないところを探すほうが早いや。まず真正面の東京駅は変りませんね。
:いや、中央部分は変わらないけど、その左右の高さが3階建てが2階建てになっているよ。
:あ、そうだ戦後に戦災の傷跡を修復をしたのでしたね。それと東京駅の後に高いビルがありますよ。
:それは八重洲口の大丸百貨店だよ、1968年に12階建てにしたので、丸の内側からそれが見えるようになったんだな。

:右向うの丸ビルも替わりませんね。並木に隠れて見えないけど、左向うには新丸ビルがあるはずでね。
:そうだね、丸ビルと新丸ビルはまだ変わらない。ここでの大変化は、左の東京海上ビルが1974年に25階建てに、右の郵船ビルが1978年に15階建てに、どちらも建て替わったことだな。
:ほう、左右アンバランスですねえ、こういう時にどうせ建替えるなら、右と左をそろえた高さにすれば、門のようになって格好良かったのにねえ。

:そうだね、まあ揃えればいいというもんでもないけど、都市の景観デザインを考えて建て替えたのかという問題提起だね。
:そう、その問題提起ってヤツですよ、エヘン。
:この東京海上ビルを建てる前に、その景観について世の中に論争が起きたんだよ。あんまり髙すぎる、いや、現代都市は超高層ビルであるべきだとかって、1966年から10年くらい続いたな。
丸の内景観論争って、有名人とか不動産屋とか建築家とか政治家とか登場したんでしょ。
:そうだったね、そのころ日本でも超高層ビルを建てられるように法律が変り、技術も進歩したんだね。建築家も建設業界も、超高層ビルを建てたくてしょうがないんだな。
:そこで丸の内で超高層ビルを建てるって計画が出てきて、世間がビックリしたんですね。

:それまではビルと言えば高さが31m、例外的に45mまで建って、丸の内では街並みの高さがそろっていたんだな。それがこれを機会に崩れて凸凹の風景になるのはケシカランてね。
:それだけじゃないでしょ、皇居を見下ろすのが不敬にあたるって、そんな意識も根強かったとかでしょ。
:もしかしたら反対論の根にはそれが深かったのかもしれないねえ。まあ、なんにしても海上ビルが超高層で建ってしまったら、あとは一瀉千里、今のように超高層だらけになったな。
:じゃあ、あの景観論争って、いったいなんだったんですかねえ。
:そうだねえ、なんだったんだろうねえ。その後に景観が法律に登場するまでには四半世紀以上もかかってるんだもんなあ。
:ずいぶん長くかかってますねえ、丸の内景観論争は狭い範囲の騒ぎだったんですね。

:さて次の写真は、その景観法ができた2004年に撮ったよ。
:あっ、右の丸ビルが超高層ビルに建て替わりましたね。
:そうだよ、2002年に37階、179mに建て替えたな。景観論争であれこれあって、100mで手をうった筈なのにねえ。

:次は2007年の写真だよ。さて、どこが変ったかな。
:ほほう、左の新丸ビルが超高層に建て替わり、東京駅左上にも超高層建築が建ちましたね。
:新丸ビルが建て替わったのは2007年、高さ176m、38階だよ。左向うは八重洲側に建つグラントウキョウノースタワーってんだな、ここに大丸デパートが引っ越した。
:あそうだ、新丸ビルとグランノースは、東京駅上空の空気を買ってノッポになったのでしたね。
:そう、容積率移転と言ってね。その東京駅は、この年からしばらく増築とお化粧工事の板塀に囲われて姿を消すんだよ。

:さてその次は去年2016年の12月だよ。さあ、どこが変ったか分るかな。
:うーむ、そのグランナントカってってやつの下の方が、右に伸びてきてるなあ、ほかはあるかなあ。
:あるんだよ、東京駅だよ。
:東京駅の後ろの大丸がなくなった。あっそうだ、2007年から東京駅の増築とお化粧工事で、2011年に戦前の姿が現れたんだ、でも、これみてもあまり変わらないような。
:そうだね、中央のドームは変わらないけど、よく見ると尖塔がついてるし、3階ができてるよ。

:ここまできましたけど、まだまだ変わるんでしょ、八重洲側で大きな開発計画があるとか。
:そうだね、その開発事業者が発表してる絵をもとにして、2023年の風景はこうなるらしいと戯造してみたよ。東京駅の上も賑やかだねえ。

:でもねえ、ご隠居、その先があるでしょ、なんだか止めどもなく開発するようですよ、だからあっしがこんなの未来戯造しましたよ。
:おうおう、八重洲が超賑やかなばかりか、丸の内の東京海上ビルも日本郵船ビルも建替えて丸ビル並にノッポにするかい、スゴイすごい。
:隣が超髙くなったんだから、こちらが25階とか15階じゃあ損だ、建て替えようってどっちも思うでしょ。

:よし、それならわたしも、例の丹下案をはめ込んで未来偽造だ、どうだい。どこが変ったかわかるかい。
:うわっ、八重洲側目隠しビルですねえ、え、郵船ビルもレンガ色ですかあ、うーむ。
:これを上と比べると、なんだか妙に整いすぎて見える、ちょっとつまんない感じもあるよね。
:そうですね、模型を見てるようで、左右がそろえばいいってもんでもないか、アレッ、東京駅ビルの中間に穴を開けて風が抜けるようになってますね、ワハハ。(続く

参照:まちもり通信サイト「東京駅復原反対論考集

2017/01/02

1243謹賀新年2017年新春のお遊びは東京は日本橋の景観戯造

謹賀新年
2017年元旦

本年も「伊達の眼鏡」ブログのご愛読をお願い申し上げます。

新春のお遊びとしてお笑い戯造景観遊びでお楽しみください。

東京の日本橋は、川の上に橋が架かり、
その橋の上にまた橋が架かる2重橋です。
川の上の橋は19世紀の終わりごろ、
橋の上の橋は20世紀の半ば過ぎにできました。
今では後からの橋の上の橋がでしゃばっていて、
元祖日本橋が日陰の身になっています。

そこで橋の上の橋、つまり首都高速道路高架橋を取り除いて、
昔々のような日本橋の景観に戻そうとの構想は、
もう何十年も言われていますが、いまだに2重橋のままです。

そこで新春のお遊びとして、
わたしが橋の上の橋を取り除いてみました。
いかがですか。


でもねえ、取り除いてもたいした景観が現れるのでもないですねえ。
そこでちょっと考えました。
取り除くとしてもせっかく作った橋の上の橋だって、
それなりに歴史的な時間を経た建造物として人々の景観記憶にあるので、
その一部を記念として日本橋の横に保存した景観もつくりました。
いかが?

◆◆

ところで実は、わたしは同じことを2005年にもやっていたのです。
それが下の画像ですが、上と比べてたいして変っていませんが、
よく見ると超高層ビルが完成したり工事中だったりいくつかあり、
今後はかなり替わるようですね。
また10年後につくるかなあ、まだわたしが生きていたらね。


なお、景観戯造遊びは、ここにたくさんあります。