2017/06/13

1270【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド2】空爆廃墟「1945東京駅」を不必要に華麗に復興した「1947東京駅」は米軍への復讐戦か



 東京駅の南口ドーム内から外に出て、正面に来ました。
 幅が300mもあるこの赤レンガ3階建ての建築は、今日おいでのみなさまはご存じでしょうが、実は4代目でなんですよ。世の中には、これが戦前からこの姿のままずっと建っていて、数年前にきれいに化粧直ししたのだろうと思ってる人たちが多くいるような気がするし、これからどんどん増えてきそうに思うのです。
でも違うんです、この建物はいったんは廃墟になったのです、しかもそれは不幸な大事件で人為的に燃やされたのでした。そう、太平洋戦争下の空襲、いまは空爆と言いますが、1945年5月25日の深夜に、燃え上がりました。皇居も燃えました、八重洲の街も燃えました。3月10日に次ぐ大空襲でした。大勢の人が死にました。
1945年5月25日深夜の空襲で銀座、東京駅、丸の内、皇居炎上


●空爆廃墟「1945東京駅」の登場
わたしがこのガイドとして伝えたいのは、この赤レンガ駅舎は日本の歴史を背負っているということです。
 20世紀初めに華麗な姿で初登場したこの建築が、20世紀半ばに戦争によって燃やされ無残な廃墟にされたのを、敗戦直後に焼け残った躯体を再利用して修復復興して20世紀を生き延び、21世紀の初めに再度の修復で今の姿になった、この建築の変転の裏にあるのは近代から現代日本の歴史そのものです。
 
 初代「1914東京駅」は3階建てでしたが、焼け焦げた2代「1945東京駅」を修復するときに被害甚大の3階を取り除いて2階建ての3代「1947東京駅」にしました。それが戦後わたしたちの世代がながく親しんだ東京駅の姿でした。
 東京駅と言えば、全国から修学旅行でやって来たものだし、旅の登りはここが終点でこの先は下りばかりです。だれもが知っている、日本人の駅でした。
 「1914東京駅」は今見る「2012東京駅」と同じ姿ですが、その間に「1945東京駅」と「1947東京駅」があります。
「1945東京駅」壁と床の躯体は燃え残ったが屋根や内装は焼失
「1945東京駅」の屋上の焼け落ちた屋根



「1945東京駅」北口ドームの被災状況

「1945東京駅」中央の天皇専用玄関の様子 台形ドームは焼失

「1945東京駅」全体像 手前の水面は工事中の新丸ビルの地下にたまった雨水
(1945年 米軍写真家G Faillaces撮影)


●廃墟を復興して「1947東京駅」の登場
 東京駅を特徴づける南、中央、北の3つのドームは、鉄骨がぐにゃぐにゃになって燃え落ちました。長い間の戦争の末に敗戦して疲弊し切った日本に鉄骨はありませんでしたから、今度は木骨トラスでドームをかけました。木造大架構は戦争中の飛行機格納庫の技術の応用でした。
鉄骨ドームの代わりに木造のドームをかける 南戯地ドームは底面八角形、頂面正方形
手前から工事中の中央ドーム、北口ドーム

「1947東京駅」の各ドーム形状(2004撮影)

 この台形ドームの中に、先ほど見たアルミ製半球天井が架かっていました。北口ドームも同じですね。中央ドームの形は、もとの形のように木骨で再現しました。
 なお、ドームの屋根葺き材は、1914東京駅では石綿スレートだったが、1947東京駅では亜鉛メッキ鉄板ペンキ塗りだったのです。それを石綿スレートにふき替えたのは1952年だそうです。つまり応急トタン葺だったのが、元の材料で再現されたわけです。

 下のドームは「2012東京駅」、つまり「1914東京駅」を再現した姿です。上の写真と比較してみてください。
「2012東京駅」は「1914東京駅」の姿を再現
ところで、「1914東京駅」の南北ドームは、八角形で立ち上がって、その上に丸いキャップをかぶせたようなデザインです。「1947東京駅」のドームをつくる時に、何故同じ形にしなかったのでしょうか。技術的には木造でも作れるはずです。

 そうしなかったのは、技術問題ではなくて、その時の担当建築家たちのデザインによる選択だったのでした。内部のあのアルミ半球天井は、鉄道省建築家たちのコンペで決めたそうです。そしてこの正八角形から正方形に絞る台形ドームは、そのインハウス建築家たちの元締めの建築課長・伊藤滋による案だったそうです。

 どちらも「1914東京駅」のそれらと比べて、明らかにモダンの味を持っているのは、辰野金吾とは違う空気を吸った建築家世代の現れでしょうね。
「1947東京駅」デザインスケッチ(鉄道省建築課制作)に見るモダンさよ
外壁を見ましょう。こちらは今見る2012東京駅ですから、燃える前の1914東京駅と同じ姿です。3階建てです。

2012東京駅(2013撮影)
 下の写真は、1947東京駅の壁面です。ご覧のように2階建てでした。
空襲で3階が特によく燃えたので、レンガ強度が劣化しているとして取り壊し、2階建てにしました。ですから、上の写真の2階の窓の上で水平に切りとったのです。
 ピラスター(付け柱)の上部た切りとられましたが、下に見るように、また改めて左官工事で柱冠飾りをつくりました。もちろん窓枠も硝子もなくなっていたので作りました。軒のコーニスを少し深く出して、パラペットも立ち上げ、形を整えています。
 まったくもってよくやりましたね。そのほかにも、余りにもきれいに整えたので、知らぬ人はこれが1914東京駅と思っていたことでしょう。
1947東京駅(2006撮影)
ところで、この1947年の修復工事は、占領軍の命令でもあったのでした。道路が壊されてしまった日本で、鉄道は日本統治のための重要なインフラでした。東京駅内にRTOと呼ばれる占領軍用のオフィスの設置も命令されました。
 今の東京駅の京葉線コンコースの一角に、大きな壁面レリーフが展示されていますが、これはそのRTOの内装として「1947東京駅」に設置されたものでした。建築家中村順平の下に本郷新などの当時の新進美術家たちが集まって制作した一大美術作品でした。
RTOにあったレリーフ(東京駅京葉線コンコースに移設保存)
復興時のこれらの件は、その当時を回想する本『東京駅戦災復興工事の想い出』(松本延太郎著 1991年)によって、わたしは話しています。

●華麗な復興「1947東京駅」は空爆軍への復讐戦か
外観や内装など、特に占領軍の命令でもないのに、頑張ってしまったのは、鉄道省建築家たちの本能的な頑張りだったのでしょうか。伝えられるところでは、3~4年間をもてばよい、直ぐに建替えるから、とのことだったそうです。
 保存建替え論争の時にも、そのような仮設だから建てなおすべきとか、あるいはまた、仮設だからこそ復元すべきとか、言われたものでした。だが、その仮設建築が1947年から60年間も使われたのですから、これはいったいどうしたことか。

 考えてみれば、本当に仮設建築ならば、屋根はドームじゃなくてトタンぶきの切妻でよいだろうし、ドーム天井だってアルミ半球でなくて平らなベニヤ板でよいだろうに、外装だって燃えて痛んだレンガ壁の修復じゃなくてモルタルを塗っておけばよかったろうに、などなど、どう見ても仮設建築ではありませんでしたね。
 
 ところが、そんな「1947東京駅」にも、どう見ても応急仮設にしか思えないデザインのところがありました。それは線路のあるホーム側に面した壁です。こちら側の壁は、ホームの木造屋根の火災によって特に損傷が大きかったのでした。
 その大きな壁は、レンガ色でしたがよく見るとレンガは見えなくて一面の塗り壁でした。窓周りも柱型も、一切の装飾はありません。色つきモルタルだったのです。 

 さすがに駅前広場から見えない側は、応急的な仕事だったのです。まさにこれこそが仮設であったのです。でも、この姿でも60年間をしっかりと務めを果たしたのです。表側をなぜにあれほども力を入れたのでしょうか。
1947東京駅のホーム側の姿(1987年中央線ホームから撮影)
この赤レンガならぬ赤モルタル東京駅を眺めていると、いくらレンガの代わりとはいえ、あまりの悪趣味なその色に辟易してしまいます。もしかして空爆下の東京都民が流した血の色か。
 ふと、もしも赤じゃなくて白色だったらだったらどうなんだろうと思い付いて、やってみました。ヤヤッ、これって表現派というか、けっこうモダンに見えますねえ、表は擬古典様式、裏はモダニズム、スゴイスゴイ、辰野さんも伊藤さんもビックリのイタズラ。
イタズラで北口ドーム壁を白塗りにしてみた

1947東京駅のホーム側の姿(1987撮影)
 もちろん1914東京駅は、線路側も表側と同様にしっかりとデザインをしてあったことは、今に見る2012東京駅がそれを示してくれています。
2012東京駅の1914東京駅を再現するホーム側(2017中央線高架ホームから撮影)
 全部が色モルタル塗壁、トタン屋根、ベニヤ板天井でもよかったのに、この「1947東京駅」の頑張り様はどこから出て来たでしょうか。建築家の性でしょうか。
 考えていて思い付いたのは、これは大事な東京駅を空爆で焼いた占領軍への、鉄道省建築家たちの復讐戦だったのだろうということです。

 ドームやらレリーフやらの飾りで、占領軍に迎合したのではなくて、単なる修復以上の新デザインもして見せることで、彼らに復讐戦を挑んだのでしょう。わたしにはそう思えるのです。しかも表は復興した姿なのに、裏は焼けた壁にモルタル塗の被災の姿のまま、その余りの落差を表現することで、戦争の文化財破壊を目に見える形で訴えたつもりだったのかもしれません。

 敗戦直後の人も金も物もない疲弊しきった日本で、よくまあ頑張ってやったものです。鉄道省だから資材の調達ができたのでしょう。それにしても、その後の60年もこの姿が生きたのですから、復讐戦は成功したということでしょう。

 あれまあ、1945年までタイムマシンで遡上してお見せするガイドをやってましたので、ずいぶん長口上になりました。次を見ましょう。つづく

註:掲載した1945年空爆被災写真のうち、モノクロ写真は『鉄道と街・東京駅』(永田博、三島富士夫 1984大正出版社)、カラ―写真は『マッカーサーの見た焼跡 東京・横浜1945年』(ジェターノ・フェーレイス 1983年文芸春秋)から、それぞれ引用しました。


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