2017/07/25

1277【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド8】明治生命館は今や丸の内では超一級重要文化財、自社オフィスなのに一般公開しているのがいまどき偉いなあ

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド7】からのつづき
東京駅周辺ガイドマップはこちら
●東京駅周辺ガイドルート(グーグル画像マップ)

 では、馬場先通りを西へ、堀端の方へ歩きましょう。
 この日比谷通りと馬場先通りの角地に立つのが1934年に建った「明治生命館」です。重要文化財指定の建築です。
 丸ノ内の重文指定建築と言えば、最初の東京駅がそうでした。そして三菱1号館美術館は重文なりそこね、鳥取藩池田家上屋敷表門は今は上野の山にお出かけ中ですね。
明治生命館(馬場先通り側)

2017/07/22

1276【日本橋首都高撤去話】懐かしや、またぞろ登場、でもねえ、高度成長開始期日本記念碑としてここだけは保存してはいかが?

 
  今は2重橋になっている東京の日本橋、この下の段の20世紀初期の橋だけ残して、上の段の20世紀中期の高架橋を取っ払おうって話である。
 懐かしや、小泉内閣の時にそのブレーンだった伊藤滋さんが音頭を取って、構想を練っていたのを思い出す。

2017/07/17

1275【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド7】明治建築を再現したんだから次は丸の内に昔あって今は上野にある江戸大名屋敷黒門を連れ戻しましょうよ

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド6】からのつづき

●1丁倫敦メインストリート馬場先通りの景観

 さて、三菱1号館美術館の南側の通りは、江戸城の馬場先門に続く通りなので、
馬場先通りと呼ばれています。実は丸ノ内でこの通りこそがメインストリートだったのです。三菱地所がロンドンの街を真似して作って、赤レンガ建物が軒を接して立ち並んだ景観は、「1丁倫敦」と20世紀の初めに謳われたのでした。
馬場先通り一丁倫敦を西に見る景観
右手前が三菱一号館

2017/07/11

1274【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド6】丸の内に40年ぶりに浦島太郎が美術館になって戻ってきた理由はなんだろうか

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド5】からのつづき

●三菱一号館再現登場の意義を考える

 さらに三菱1号館独断偏見ガイドを続けます。
 低層建築の「三菱一号館」を壊したのが1968年、その跡地に建てた高層建築をまたもや壊したのが2006年、そしてその跡地に登場したのが低層建築の「三菱1号館美術館」です。
 19世紀末の建築である「三菱一号館」という浦島太郎は、あたりの風景を見てさぞや、ビックリしてるでしょうね。
 どんな玉手箱を持って返ってきたのか気になって見れば、なんと乙姫様はものすごい箱をもたせてくれましたねえ、超高層の丸の内パークビルという巨大な箱ですよ、え、まさかあれを開けたら、白い煙が出てきてあたり一面を燃やす、つまり関東大震災再来ってんじゃないでしょうね。

 この美術館を設計して建てたのは三菱地所ですが、昔のコンドル設計の三菱一号館とソックリに作ったのだそうです。単に見た目の姿だけじゃなくて、煉瓦造、木造屋根などの作り方も昔のままにしたとか、ご自慢です。
最初の設計者J.コンドルが描いた三菱一号館立面図
ご自慢の中でもその赤レンガ、その数なんと230万個、昔風の焼き方するには日本じゃ無理とて、中国で手づくり生産、そしてレンガ職人が一個づつ積んだそうです。
 でもさすがに昔の設計のままのレンガ造では地震で倒れるので、地下に免震構造を設けて、建物をゴムの上に乗っけている。まあ、地面が揺れても関係ないように浮いているんでしょうか。
 もちろん美術館として使うためるには、昔は無かった階段とか冷暖房設備とかが新たにくっついていますし、内装も2階はぜんぜん違うそうですから、完全に昔そっくりではありません。しかし、それにしてもよくやるもんです。 

 そんな努力して昔そっくり再現をしたのは、三菱地所にどんな意図があったのでしょうか。
 三菱地所の再現担当のお方に、トップから昔の三菱一号館を再現建築しろとの命が下ったのだそうですが、じゃあ、なぜそのようなことをやろうとトップは思い付いたのでしょうか。
 もちろん三菱一号館が、三菱地所の丸の内不動産事業の出発点の記念建築だったことがあるでしょう。かつてそれを保存して重要文化財にとの学会から声に反発?して、無理矢理取り壊した事件を知っているトップにとっては、もしかして罪滅ぼし感覚もおありだったのでしょうねえ、たぶん。

●不動産業としての意義はどうか
 
 独断偏見ガイドはまだまだつづきます。三菱地所は丸の内の大地主、大家主として、19世紀末からの建築を1930年頃からドンドンと建て替えをしてきました。
 ボロビルを保存なんてしない、効率よいビルを建てて、高い家賃を取る、これが不動産業としての使命ですから、当然のことでしょう。
 そしてその建て直しビル群は、決して建築界とか不動産業界の先端を行くような現代先進的なデザインではなくて、四角な頑丈な箱で使いやすい管理しやすい、文字通り保守的な姿勢で、堅実そのもの建築でした。
 でも、丸の内という立地が幸いし、それは大成功の不動産業でした。

 そうやって来たのでしたが、はたと気が付けばありふれた事務所ばかり作って、休日はだれも通らない寂しい街になってしまった。
 そう、昔の丸の内は、日曜日やお正月はほんとにゴーストタウンでしたね。わたしは人がいない丸おうちを歩いてみたくて、わざわざ正月にここに散歩に来たこともあります。
 これではいけないと三菱は考えた、1990年代からでしょうか、仲通りを中心に高級ファッションブランド物販店中心の商店街つくりに力を入れて、休日の人寄せに成功しました。仲通りも樹木を植えて、歩行者優先にして、気持ちよいモールになりました。ビジネス街が商店街にもなったのです。もっとも、わたし縁のない店ばかりですが。
丸の内仲通り 2009.7.25
でも、10年ほどしてまた気が付けば、文化が無い街と気が付いたのでしょうねえ。美術館も博物館もない、三菱所有の歴史的な建物もひとつも残っていない。
 丸の内にある重要文化財の建築は、明治生命ビルと東京駅、歴史的な姿の建築は日本工業倶楽部と銀行協会ですが、どれも三菱地所の建物ではありません。
 たくさんあった赤レンガ建築をこわしては、四角な変哲もないビルに建てなおしてきたのでした。三菱所有の中では、丸ビルが比較的最近まで残っていた歴史的建築でしたが、これも学会の保存要請に眼もくれずに建てなおしましたね。
東京駅の前から皇居方面を眺めて、左側にあった丸ビルが無くなった珍しい写真
右の新丸ビルはまだあるが、丸ビルを建替えのため壊した直後の1998年9月撮影
 ところが、ライバルの三井不動産が、すぐ近くの三井の本拠地とも言うべき日本橋地区では、大規模な再開発を進めて超高層ビルを次々と建てている。
そこには超高層ビルだけじゃなくて、保存した重要文化財の三井本館や美術館もあるのに、こちらにはそれらしいものがなにもない。
 これはいかん、企業イメージで負けてしまう、なんとかしようと三菱地所のトップは思ったのでしょうね、たぶん。
三井の本拠地日本橋にある重要文化財の三井本館 2005年10月撮影
で、昔壊した三菱1号館という重要文化財指定直前だった建築を、そのままそっくり再現すれば、もしかしたら重要文化財になるかもしれない、そして美術館にすれば三井本館に負けない文化イメージがつくぞ、重文指定になれば容積ボーナスがつくだろう、なんて思ったかも。あ、私ならこう思うってことですよ。
 ついでに言えば、昔々、三菱が丸の内開発計画を描き始めた19世紀末の頃、コンドルが描いたが実現しなかった建築計画には、劇場とか美術館の文化施設もあったそうです。三菱の丸ノ内開発は、120年ほど後にようやくに文化に到達したのですね。

●三菱一号館美術館は歴史的文化財か

 その作戦は成功したでしょうか。まず、重要文化財指定は無理でした。そっくりに作っても新築ですから、指定の基本にある築50年以上になりません。だからこれによる容積ボーナスは無かったのです。
 でもねえ、どうも不思議なのは東京駅が重要文化財指定になっていますよね、あれって実は3階と屋根は新築再現建築だから、ざっと見て半分はここと同じでしょ。
 それであちらは重文指定、こっちは100%新築再現だから重文指定はできないってことなら、じゃあ何%まで当初部分が残っていれば重文指定になるんでしょうか、気になります。

 それでも美術館にしたので文化施設としての社会貢献評価で100%ボーナスが付きました。それと東京駅からの移転容積が130%、それに地域冷暖房施設で35%を足して計265%を、基準容積率1300%にして合計1565%としたのです。
 美術館は昔の姿で3階建てですから、これらの容積のほとんどは同敷地内の丸の内パークビルに盛り上げたので、あの太くて高いビルになったというわけです。
盛り上がる丸の内パークビルと足元にうずくまる三菱一号館美術館
いまの三菱一号館美術館界隈の賑わいを見れば、レンガの美術館と緑の中庭は大成功でしたね。これで休日も人々が遊びに来てとどまっていますからね。昔の寂しい休日とは比較になりません。
 でも、建築専門家やマニアはともかくとして、普通の人がこの新美術館は昔そっくり再現建築だと分るのでしょうか。東京駅と合わせて見れば、ディズニーランドの日本版なんて思うでしょうね。

 素人が分らなくても、こんなに力を入れて三菱地所草創期の記念建築を再現することに企業としての意義があるのだとすれば、それはまことにごもっともなことです。歴史を視覚的に伝え、近代日本における建築技術継承という、まさに文化的事業です。

 ところで、1968年の取り壊し事件への反省があると、更に歴史的深みが重なると思うのですがねえ、どこかにその経緯を書いた看板でも立ててありますか、三菱さん。
三菱一号館抜き打ち解体事件ニュース 1968年3月26日朝日新聞
(つづく)

注:三菱1号館美術館については下記の「まちもり通信」(伊達美徳)記事に詳しく書いているので参照されたい。



2017/07/07

1273【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド5】40年前に重要文化財指定を嫌って取り壊した三菱一号館が美術館になって出戻り

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド4】からのつづき

 さて、では大名小路を南に歩いて、「三菱一号館美術館」に行きましょう。
 この通りは名前のごとくに、江戸時代は日本各地の大名の屋敷が並んでいました。德川将軍がいる江戸城周りをがっちり固めていたのです。
 しかし実は今も、現代の大名である巨大企業が丸の内に居を構えて、天皇のいる皇居のまわりを昔と同じようにがっちりと固めていますね。歴史は続いています。

●大名小路の景観変化を観る

 まずはJPタワー横あたりから南方向を眺めまししょう。
 右手前は三菱重工ビルで、昔、この有名な軍需産業への極左の爆弾テロ事件が、ここであり死傷者が出ましたね。
 その向こうの角に白い塔のようなものがある赤っぽいビルが「丸の内パークビル」、そのむこうに赤っぽい壁の低くて黒っぽい屋根の建物が「三菱一号館美術館」です。どちらも2009年完成です。

 この二つのビルには、なかなか面白いいわれがあるのです。
 ちょっと、この写真を見てください。2007年に撮影したのですが、同じ角度からですね。
右の三菱重工ビルは同じですが、その向こうにある白いビルのところに今の丸の内パークビルが建ち、さらにその向こう隣りの高層ビルのところが今の三菱1号館美術館になっています。景観の変化がよく分るでしょう。

 角の白い塔のようなものはなんだか似ていますね。そう、新しい丸の内パークビルの角に、元あったビルの一部をコピーしたものらしいです。
 この塔のようなものがある白いビルは、1928年に建った「丸の内八重洲ビル」でした。けっこう立派なデザインのビルで、重要文化財になってもおかしくない風格を持っていましたね。
 丸の内地区では、どのビルも角地のところに塔のようなものを設けるのが、昔の街並み景観づくりの手法だったようですが、今ではこんな形でしか思い出せなくなりました。

 その八重洲ビルの向こうに高いビルが見えていますね。これは三菱商事ビルで1971年に建ちました。これはいまの三菱一号館美術館になっています。
 実を言えば、手前の丸の内パークビルとこの三菱一号館は、ひとつの敷地内に建っています。つまり八重洲ビルと三菱商事ビルの二つを壊してこれ等を建てたことになるのですが、もっと正確に言えば、ここからは見えない右の後ろになるのですが、そこにあった1968年にできた古河ビルもこわして一つの敷地にしました。つまり新ビル大小2つを建てるために、3つの巨大ビルをこわしたのでした。 
2003年 丸の内八重洲ビル
思い出せば、丸の内八重洲ビルは歴史的建物と言ってもよいくらいだったし、他の二つのビルは完成後40年ほどでまだまだ使えるような立派な建物でしたが、それらを壊して建替えする巨額投資をしても、不動産として採算が合うんですねえ。
 こちら丸の内パークビルは、ものすごく太くて高い超高層ですが、下層階の角には以前ここにあった八重洲ビルの塔を模してつくり、1,2階には腰巻の様に元の石を張り付けてあります。この街の歴史を記憶する仕掛けでしょうか。
 このパークビルには、東京駅からの容積移転先6ビルのひとつで130%割増しになっています。
 
馬場先通りの三菱1号館あたりの景観変化 
上から、20世紀初、1970年代、2009年

●三菱一号館と三菱一号館美術館
出現したばかりの三菱一号館美術館と丸の内パークビル
 
 さてここが「三菱一号館美術」館です。ご存じでしょうが、これは「三菱一号館」と言って、19世紀末から76年間ここに建っていた建築を、再現したものです。
 たとえて言えば、小田原とか掛川とか城下町で城を再現しているようなもんですね。東京駅も3階と屋根は新築再現ですから、似たようなものです。
今の「三菱一号館美術館」の場所にかつて建っていた「三菱一号館」
かつて「三菱一号館」の場所に現在建つ「三菱一号館美術館」
 昔の「三菱一号館」の設計をした人は、東京駅を設計した辰野金吾の師匠のジョサイア。コンドルです。東京駅もこれも赤レンガ造りってのが時代を感じさせますが、この三菱地所設計「三菱一号館美術館」は2009年に昔の姿で再登場したのです。これから20年も経つと19世紀からここに建っていたと思う人が多くなるでしょうね。

 こんな超高層街の真ん中に、なんでまたこんな古臭い低層建築をわざわざ建てたのか、そこが面白いところです。
 三菱地所はこんな金かけた超高層ならぬ超低層建築をつくっても不動産屋として儲かるのか、なんてお思いでしょうが、たぶん儲かるんでしょうね。それはこういう仕掛けです。

 「三菱一号館美術館」は、法的にはもっと高く建てられるけど、同じ敷地に超高層「丸の内パークビル」を建てて、そちらにこちらの空中権を移動したのですね。東京駅の様に頭の上の空中権を他の敷地に売ったのじゃなくて、同じ敷地内で移動したってことです。二つの建物は互いに離れられないカップルなんですね。
三菱1号館美術館と丸の内パークビルの超低層超高層カップル空中風景
更に美術館という公開する文化施設を作れば、都市計画の容積率割り増しのご褒美があり、それで100%乗せています。先ほど話した東京駅からの移転とこれと併せて230%割り増しですね、文化でちゃんと実利を取ってますね。
 だから低層建築にしたからとて、法定容積率を消化できなくて損しているのってことは全くないのですね。三菱一号館だけでは採算が取れないけど、丸の内パークビルとの合わせ技で採算成立というわけです。

●昔の三菱一号館取り壊し事件のこと
 
 それにしても美術館をつくりたいなら、こんな建物じゃなくて、超高層ビルの中にも植えていいだろうに、なにを考えたのでしょうね。
 そこで思い出すのは1968年のこと、ここにあった三菱一号館という赤レンガ建築を、三菱地所はあっと言う間に壊した事件です。
1968年取り壊し直前の三菱1号館の姿(撮影:平井聖)
そのころ建築学会と文部省の文化財保護委員会は、明治期の建築を重要文化財にしようとして日本銀行、赤坂離宮そしてこの三菱一号館を重要文化財指定しようとして、三菱地所にも打診していました。そのさい中の出来事です。ことの意外ななりゆきに関係者は唖然としたのでした。

 では三菱地所はどうして壊したのでしょうか。公式な回答は、前の道の大名小路地下に作られるJR横須賀線の工事に構造的に耐えられないから、ということでした。
 でも、おなじレンガ造の東京駅は横須賀線が地下に入っても、ちゃんと建っていますから、それは杞憂でしたね。というより、こじつけ詭弁だったかも。

 たぶん、本当の理由がこううだろうとわたしは推測します。そのころ日本の高度成長時代が来ていました。このあたりの大不動産屋の三菱地所は、目地以後の低層赤レンガ建築を、近代的高層ビルに建替えてきていました。
 1966年、丸の内で初めての超高層ビルである東京海上ビルの計画が出されて、皇居を見下ろす超高層反対、いや日本も超高層時代だなどなど、世間にいわゆる美観論争が起きていました。その後のことは今見る通りに超高層時代の勝利です。
 
 その頃の三菱地所としては、その所有する高層ビルの多くは高さ31mのビル群でした。これは私の推測ですが、せっかくここまで営々として建てて来たのに、超高層が流行したら不動産価値が下がると思ったのでしょうねえ。三菱は超高層反対派にまわりましたね。
 でも今は全く逆で、三菱地所は超高層をどんどん建てていますから、時代は変わった。

 でも、とにかく不動産競争に負けていられないとて、会社としては記念的な三菱一号館も高層ビル化して行こうと考えていたところに、重要文化財指定でビジネスチャンスをつぶされてはたまらない、はやく壊してしまえってことだったのでしょうねえ、たぶん。
 壊した跡に建てたのが三菱商事ビルでした。それは超高層ではなかったけれど、それまでの三菱地所が建てて来た31m8階建てを超えて、45m15階建の巨大ビルでしたね。

 1960年代の丸の内のあたりは、高層ビルが建ってたのは東京駅のあたりだけで、南半分から有楽町にかけての三菱村には、赤レンガ建築が建ち並んでいました。
1950年年代初の丸の内赤煉瓦街 左上の堀端の高層建築は明治生命館(撮影:平井聖)

わたしは若いころに、その赤レンガの建物で仕事していたことがあるのです。有楽町からここまでの中間あたりに、仲4号館という2階建ての赤レンガ建築の中に勤め先があました。外はレンガでも内部は床も階段も木造でしたから、歩くとガタガタ音がしてうるさかったな。
 その仲4号館の写真がこれで、子どもがいるのは三菱地所の社宅ががあったからでしょうね。フラフープなんて懐かしい遊びしていますねえ。仲4号館の中にも管理人の住宅があり、こちらが仕事で徹夜していると、うるさいと叱られたものです。
三菱仲4号館(『丸の内百年の歩み』(三菱地所)より引用)

注:三菱1号館美術館については下記の「まちもり通信」(伊達美徳)記事に詳しく書いているので参照されたい。