2017/07/07

1273【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド5】40年前に重要文化財指定を嫌って取り壊した三菱一号館が美術館になって出戻り

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド4】からのつづき

 さて、では大名小路を南に歩いて、「三菱一号館美術館」に行きましょう。
 この通りは名前のごとくに、江戸時代は日本各地の大名の屋敷が並んでいました。德川将軍がいる江戸城周りをがっちり固めていたのです。
 しかし実は今も、現代の大名である巨大企業が丸の内に居を構えて、天皇のいる皇居のまわりを昔と同じようにがっちりと固めていますね。歴史は続いています。

●大名小路の景観変化を観る

 まずはJPタワー横あたりから南方向を眺めまししょう。
 右手前は三菱重工ビルで、昔、この有名な軍需産業への極左の爆弾テロ事件が、ここであり死傷者が出ましたね。
 その向こうの角に白い塔のようなものがある赤っぽいビルが「丸の内パークビル」、そのむこうに赤っぽい壁の低くて黒っぽい屋根の建物が「三菱一号館美術館」です。どちらも2009年完成です。

 この二つのビルには、なかなか面白いいわれがあるのです。
 ちょっと、この写真を見てください。2007年に撮影したのですが、同じ角度からですね。
右の三菱重工ビルは同じですが、その向こうにある白いビルのところに今の丸の内パークビルが建ち、さらにその向こう隣りの高層ビルのところが今の三菱1号館美術館になっています。景観の変化がよく分るでしょう。

 角の白い塔のようなものはなんだか似ていますね。そう、新しい丸の内パークビルの角に、元あったビルの一部をコピーしたものらしいです。
 この塔のようなものがある白いビルは、1928年に建った「丸の内八重洲ビル」でした。けっこう立派なデザインのビルで、重要文化財になってもおかしくない風格を持っていましたね。
 丸の内地区では、どのビルも角地のところに塔のようなものを設けるのが、昔の街並み景観づくりの手法だったようですが、今ではこんな形でしか思い出せなくなりました。

 その八重洲ビルの向こうに高いビルが見えていますね。これは三菱商事ビルで1971年に建ちました。これはいまの三菱一号館美術館になっています。
 実を言えば、手前の丸の内パークビルとこの三菱一号館は、ひとつの敷地内に建っています。つまり八重洲ビルと三菱商事ビルの二つを壊してこれ等を建てたことになるのですが、もっと正確に言えば、ここからは見えない右の後ろになるのですが、そこにあった1968年にできた古河ビルもこわして一つの敷地にしました。つまり新ビル大小2つを建てるために、3つの巨大ビルをこわしたのでした。 
2003年 丸の内八重洲ビル

思い出せば、丸の内八重洲ビルは歴史的建物と言ってもよいくらいだったし、他の二つのビルは完成後40年ほどでまだまだ使えるような立派な建物でしたが、それらを壊して建替えする巨額投資をしても、不動産として採算が合うんですねえ。
 こちら丸の内パークビルは、ものすごく太くて高い超高層ですが、下層階の角には以前ここにあった八重洲ビルの塔を模してつくり、1,2階には腰巻の様に元の石を張り付けてあります。この街の歴史を記憶する仕掛けでしょうか。
 このパークビルには、東京駅からの容積移転先6ビルのひとつで130%割増しになっています。
 
馬場先通りの三菱1号館あたりの景観変化 
上から、20世紀初、1970年代、2009年

●三菱一号館と三菱一号館美術館
出現したばかりの三菱一号館美術館と丸の内パークビル
 
 さてここが「三菱一号館美術」館です。ご存じでしょうが、これは「三菱一号館」と言って、19世紀末から76年間ここに建っていた建築を、再現したものです。

 たとえて言えば、小田原とか掛川とか城下町で城を再現しているようなもんですね。東京駅も3階と屋根は新築再現ですから、似たようなものです。
今の「三菱一号館美術館」の場所にかつて建っていた「三菱一号館」

かつて「三菱一号館」の場所に現在建つ「三菱一号館美術館」

 昔の「三菱一号館」の設計をした人は、東京駅を設計した辰野金吾の師匠のジョサイア。コンドルです。東京駅もこれも赤レンガ造りってのが時代を感じさせますが、この三菱地所設計「三菱一号館美術館」は2009年に昔の姿で再登場したのです。これから20年も経つと19世紀からここに建っていたと思う人が多くなるでしょうね。

 こんな超高層街の真ん中に、なんでまたこんな古臭い低層建築をわざわざ建てたのか、そこが面白いところです。
 三菱地所はこんな金かけた超高層ならぬ超低層建築をつくっても不動産屋として儲かるのか、なんてお思いでしょうが、たぶん儲かるんでしょうね。それはこういう仕掛けです。

 「三菱一号館美術館」は、法的にはもっと高く建てられるけど、同じ敷地に超高層「丸の内パークビル」を建てて、そちらにこちらの空中権を移動したのですね。東京駅の様に頭の上の空中権を他の敷地に売ったのじゃなくて、同じ敷地内で移動したってことです。二つの建物は互いに離れられないカップルなんですね。
三菱1号館美術館と丸の内パークビルの超低層超高層カップル空中風景

 更に美術館という公開する文化施設を作れば、都市計画の容積率割り増しのご褒美があり、それで100%乗せています。先ほど話した東京駅からの移転とこれと併せて230%割り増しですね、文化でちゃんと実利を取ってますね。
 だから低層建築にしたからとて、法定容積率を消化できなくて損しているのってことは全くないのですね。三菱一号館だけでは採算が取れないけど、丸の内パークビルとの合わせ技で採算成立というわけです。

●昔の三菱一号館取り壊し事件のこと
 
 それにしても美術館をつくりたいなら、こんな建物じゃなくて、超高層ビルの中にも植えていいだろうに、なにを考えたのでしょうね。
 そこで思い出すのは1968年のこと、ここにあった三菱一号館という赤レンガ建築を、三菱地所はあっと言う間に壊した事件です。
1968年取り壊し直前の三菱1号館の姿(撮影:平井聖)

 そのころ建築学会と文部省の文化財保護委員会は、明治期の建築を重要文化財にしようとして日本銀行、赤坂離宮そしてこの三菱一号館を重要文化財指定しようとして、三菱地所にも打診していました。そのさい中の出来事です。ことの意外ななりゆきに関係者は唖然としたのでした。

 では三菱地所はどうして壊したのでしょうか。公式な回答は、前の道の大名小路地下に作られるJR横須賀線の工事に構造的に耐えられないから、ということでした。
 でも、おなじレンガ造の東京駅は横須賀線が地下に入っても、ちゃんと建っていますから、それは杞憂でしたね。というより、こじつけ詭弁だったかも。

 たぶん、本当の理由がこううだろうとわたしは推測します。そのころ日本の高度成長時代が来ていました。このあたりの大不動産屋の三菱地所は、目地以後の低層赤レンガ建築を、近代的高層ビルに建替えてきていました。
 1966年、丸の内で初めての超高層ビルである東京海上ビルの計画が出されて、皇居を見下ろす超高層反対、いや日本も超高層時代だなどなど、世間にいわゆる美観論争が起きていました。その後のことは今見る通りに超高層時代の勝利です。
 
 その頃の三菱地所としては、その所有する高層ビルの多くは高さ31mのビル群でした。これは私の推測ですが、せっかくここまで営々として建てて来たのに、超高層が流行したら不動産価値が下がると思ったのでしょうねえ。三菱は超高層反対派にまわりましたね。
 でも今は全く逆で、三菱地所は超高層をどんどん建てていますから、時代は変わった。

 でも、とにかく不動産競争に負けていられないとて、会社としては記念的な三菱一号館も高層ビル化して行こうと考えていたところに、重要文化財指定でビジネスチャンスをつぶされてはたまらない、はやく壊してしまえってことだったのでしょうねえ、たぶん。
 壊した跡に建てたのが三菱商事ビルでした。それは超高層ではなかったけれど、それまでの三菱地所が建てて来た31m8階建てを超えて、45m15階建の巨大ビルでしたね。

 1960年代の丸の内のあたりは、高層ビルが建ってたのは東京駅のあたりだけで、南半分から有楽町にかけての三菱村には、赤レンガ建築が建ち並んでいました。
1950年年代初の丸の内赤煉瓦街 左上の堀端の高層建築は明治生命館(撮影:平井聖)


 わたしは若いころに、その赤レンガの建物で仕事していたことがあるのです。有楽町からここまでの中間あたりに、仲4号館という2階建ての赤レンガ建築の中に勤め先があました。外はレンガでも内部は床も階段も木造でしたから、歩くとガタガタ音がしてうるさかったな。
 その仲4号館の写真がこれで、子どもがいるのは三菱地所の社宅ががあったからでしょうね。フラフープなんて懐かしい遊びしていますねえ。仲4号館の中にも管理人の住宅があり、こちらが仕事で徹夜していると、うるさいと叱られたものです。
三菱仲4号館(『丸の内百年の歩み』(三菱地所)より引用)

注:三菱1号館美術館については下記の「まちもり通信」(伊達美徳)記事に詳しく書いているので参照されたい。


東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

  

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