2017/12/29

1312【又々・山口文象設計茶席常安軒】鎌倉に居ながら京都の大徳寺忘筌の庭に高台寺遺芳庵吉野窓を眺めようと欲張り技の茶室写し

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その5
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)


その4】のつづき
さて、ようやく関口邸茶席の本館とも言うべき
数寄屋会席について述べる。

どこか別のところで見たことあるような


 
●関口邸茶席の数寄屋会席今と昔

 浄智寺谷戸の道から草屋根の門をくぐり路地を歩めば、最初に出会うのがこの数寄屋建築の会席である。吉野窓茶席はその裏に隠れて、やがてやってくる客を待ち受ける。

 吉野窓茶室が小面積なのに大きな髙い屋根を載せて、ボリュームを大きく見せているの対して、数寄屋会席の方はその大面積をできるだけ小さく低く見せようとしている。屋根を小瓦一文字葺きと杮(こけら)葺き(いまは金属板葺き)の奴(やっこ)葺きで薄く軽く見せる。
左に数寄屋会席、右に吉野窓茶室

2017/12/25

1311 【又・山口文象設計茶席常安軒】北鎌倉には三角茅葺屋根とまんまる吉野窓が浄智寺谷戸にも明月院谷戸にも古雅な姿を見せる

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その4
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

【その3】のつづき

●大工棟梁山下元靖の回顧譚

 この茶席常安軒の工事をしたのは、大工棟梁の山下元靖であり、『工匠談(1969年 相模書房刊)という本を出して、自分のいろいろの仕事を語っているが、その中でこの茶席の想い出も35年も前のこととして語っている。
 この本には、山口文象による「山下さん」という序文があり、関口から設計を依頼され、山下と「毎日浄智寺の現場で……けんかをしながら楽しんで仕事に没頭した」と記している。どちらも30歳そこそこの若者だった。


 山下はその本の「北鎌倉の関口邸の茶室」という章で、数寄屋会席については何も述べず、吉野窓茶室と離れの工事についての自慢話をしているのが興味深い。
 その吉野窓茶室について、草ぶき屋根の小屋組み仕口の仕事を茅葺屋根専門の職人から褒められたこと、吉野窓を貴人口にも使うように工夫したこと、土庇柱の沓石に寺院の向拜の沓石を転用したように古びて見せる工夫をして関口を感心させたことなど、職人肌が面白い。
窓は吉野窓にし、直径を京間の六尺の大丸窓にしました。
それは貴人口にも使用する関係で、丸窓の下部を半紙幅の半幅、
つまり下から約四寸の高さのところを図のように水平に切り、
掃き出しも兼用できるようにしました
」(『工匠談』)

2017/12/21

1310【続々・山口文象設計茶席常安軒】ベルリンでの関口と山口の話で始まった浄智寺谷戸への京都高台寺遺芳庵の写し茶室「吉野窓由来」

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その3
伊達 美徳
北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

【その2】のつづき 

●京都高台寺遺芳庵の鏡写しの茶室

 この茶席をつくるにあたっては、関口泰があの茅葺の茶室をつくりたいことからはじまったらしい。京都で見たある茶室の姿に惚れて、浄智寺谷戸の持ってきたい、そして山口文象も関口よりも前にそれを見て、素晴らしいデザインだと知っていたというのだ。
 だから、この茶室は既存の茶室のコピーである。ただし、コピーするときに左右逆転の設計をしている。
 なお、昔から茶室の建物は、「写し」といってコピーをつくることが普通に行われていたから、特に不思議でもない。

 さてそのコピーされたほうの京都の茶室は、高台寺ある「遺芳庵」である。
 この茶室については、なんだか俗受けする由来があるようだが、ここではそれはおいといて、関口茶席としての由来を書いておく。
 だがわたしは茶室建築には暗いから、興味だけで書くから間違っているかもしれない。

 まずは本家(本歌か)の京都高台寺の遺芳庵と、こちらの鎌倉の浄智寺谷戸の茶室の写真である。左は1922年頃の山口文象撮影の遺芳庵、右は2017年にわたしが撮った旧関口邸の吉野窓茶室である。なんだか屋根のプロポーションが違うようだ。


 平面は左右(下図では上下)をひっくり返したから、茶道のお手前から言うと本家の遺芳庵は逆勝手(左勝手)だったのが、こちらでは本勝手(右勝手)になっている。

では、もしもそのままコピーして建てたらどんな姿であるか、遊びでやってみよう。左が現物の遺芳庵、右が左右逆転した旧関口邸の吉野窓茶室、当然ながらそっくりである。

山口の談には「敷地の条件に合わせて(『住宅建築』1977年8月号)左右反転したという。茶道に暗いわたしにはそれがなぜなのか分らないが、茶庭の構成上でそうなったのだろうか。茶道に通じていた関口あるいは夫人が本勝手を望んだのかもしれない。
 その山口の談には、「丸窓の位置がなかなか決まらないので、会席のほうもずっと後れまして」ともあるから、茅葺茶室の位置決めが最初であり、ここでは茶室を要としてその他の配置を決めたのだろう。実はこの時は、母屋の南に渡り廊下で結ぶ「離れ」も建てたが、それは今はない。
 
●関口泰の遺芳庵への想い

 関口泰の著作のひとつに『吉野窓由来(1940年)があり、「遺芳庵」と同じものを建てた由来を書いている。吉野窓とは遺芳庵の丸窓で、これを好んだ吉野太という女性に因むという。
 関口は浄智寺谷戸に居を構えてから、日夜まわりを眺めているうちに、この谷戸の風景の中に塔を欲しくなった。
夏に家が建ち上っての秋である。道を隔てて刈り残した薄原には、赤穂を吹いた尾花がなびき、上の段へ上る所に檜の小さな森がある辺が、一つの絵をなしてゐる。どうしてもあの辺に塔がほしい所だ。室生寺の五重塔をもって来ようと空想した程、室生寺の塔は小さく愛すべきものだ

 だが費用的に無理と分って、次に思いついたのが遺芳庵だった。
義弟の旭谷左右に案内されて京都の茶席を見物してまはってゐる時に、高台寺の中の佐野画伯の家にある「遺芳」の席を見て、これはいいと思った。無論茶道の方からではなくて、私の庭における絵画的効果からの話であるが、二坪か三坪の小さい家に比較してトテッもなく大きい三角形の屋根と、伽藍石を踏まへた大きな丸窓は、それだけで絵だ

 そしてこれを建てたいと山口文象に言う。
分離派の新建築家ではあるが、早く茶室建築に目をつけて、ベルリンで修業してゐる間に私と茶室建築の約束をした山口君であるから、変に型にはまった茶の宗匠や、高い金をとりつけた茶室建築家と相談するよりは、余程話がつきやすいわけである

 なんとベルリンで山口と話したのだそうが、山口文象がベルリンのグロピウスの下に居たのは1931年春~32年の6月、関口が朝日新聞のベルリン特派員だったのは1932年4月~11月である。
 山口の滞欧時に記入していた手帳があるので見ると、1932年2月14日と3月3日に関口の名がある。関口の滞在時期より少し前だが、手紙とか電話連絡のメモだろうか。

●山口文象の遺芳庵への出会い

 そうやって関口は山口をつかって浄智寺谷戸に、丸い吉野窓の茶室を設ける相談をしたのだ。
 関口の文中に、山口が「早くに茶室建築に目をつけて」いたとあるが、逓信省の製図工であった頃に、大阪市内の局舎工事現場監理の仕事で1921年から22年にかけて大阪に住んだのだが、休日には京都、奈良、堺などの茶室建築を訪ねたことを指している。

 山口はこの時に写真を撮り実測もしたが、その多数の写真プリントがRIAにある。その中には高台寺の遺芳庵もある。だから関口に遺芳庵を持ってきたいと言われたときに、既にそれを知っていた。
 「これがすばらしいデザインなんです。屋根のヴォリュームの大きさ、それら全体のプロポーションが実にすばらしい、その話を関口先生にしたら「じゃあ見に行こう」というわけで見に行きました。そこで決まったわけです(『住宅建築』1977年8月号)

 そのような二人が好きになった遺芳庵だが、その頃それはどうであったかというと、関口が書いている。
 「それに何よりも、一畳大目の茶室と二畳の水屋は、建築費からいっても、宝生寺の五重塔の如く空想に終らずに実現の可能性をもつし、長く茶室につかはれずに暴風雨に壊されたまま蜘蛛の巣だらけの物置のやうに、庭の隅に抛り放しになってゐる此の可憐なる茶席は、柱や床板の一つひとつに高価な正札のつけてあるやうな富豪の茶室とは事変り、私に消極的自信をつけてくれるに十分なものがあったからだ(『吉野窓由来』)
 山口が撮った写真は、「蜘蛛の巣だらけの物置」状態だったのだろう。
山口文象の茶室写真帳とその中の高台寺遺芳庵と傘亭

 それにしても、ナチスの暗雲漂う1932年のベルリンで、吉野太夫の遺芳庵の話とは、粋な二人である。
 その年に山口文象は帰国したが、翌年にブルノ・タウトがナチスを逃れてアメリカ亡命を目指して日本にやってくるし、翌々年には師匠のグロピウスがイギリスに逃れてアメリカに亡命する。
 そのブルノ・タウトは山口文象と何度か出会っていて、この関口邸茶席を褒めているのである。

 1934年6月に山口文象はその建築作品個展を銀座資生堂ギャラリーで開いたが、観に来たタウトが6月15日の日記に書いている。
建築家山口蚊象氏の作品展覧会を観る(同氏はドイツでグロピウスの許にいたことがある)。作品のうちでは茶室がいちばんすぐれている、――山口氏はここでまさに純粋の日本人に復ったと言ってよい。その他のものは機能を強調しているにも拘らずいかにも硬い、まるでコルセットをはめている印象だ。とにかくコルビユジエ模倣は、日本では到底永続きするものでない(『日本ータウト日記 1935-1936』篠原英雄訳 岩波書店刊)

 タウトが書く「茶室」とは、関口邸茶席のことである。ほかにも出世作の日本歯科医学専門学校など8件のモダンデザイン建築を展示したのに、タウトがほめたのはこれだけであった。
 タウトの評価をどうとるか難しいが、桂離宮を称賛し日光東照宮を貶した鑑識眼でみた関口邸茶席であった。彼が日本で褒めたモダンデザイン建築は、東京駅前にある中央郵便局舎(吉田鉄郎設計)だけだったようだ。
 つづく

・たからの庭


2017/12/20

1309【終活余談】あきひとさんの終活でちょうどよい機会だから日ごろ面倒な「元号」をもうやめてちょうだいな

 「終活談義」なるお題を、「現代まちづくり塾」の塾報編集委員からいただいたので、わたしだって終活年齢だが、それを書くにはまだ早い!?、ここではある有名なお方の「終活問題」を書こう。
 そのお方とは、あきひとさん(この人には姓が無いのでこう呼ぶしかない)である。なんでも、歳とって疲れたのでもう辞めるって、つまり終活に入るとTVで宣言したとのこと。

 どうぞどうぞ、ご勝手に終活をおやんなさいよと、庶民のわたしは思うのだが、どうも、その終活のトバッチリが庶民にも及ぶらしいのだ。ほんとに困るのである。
 それは改元とて新「元号」の登場である。まったくもって元号は高齢社会の邪魔ものである。だって、ほら、元号と西暦と換算するでしょ、明治には1867、大正には1911、昭和には1925、平成には1988を、それぞれ加えると西暦になるんだけど、歳とるとその暗算が無理なんだよなあ。それらにまたひとつ計算が加わるともうどうしていいもんか。いちいち計算機を叩くってのもなあ。
 あ、これってもしかして、おカミの国民ボケ防止対策かもしれないなあ、う~む。

2017/12/17

1308【続・山口文象設計茶席常安軒】リベラリスト関口泰が愛でて後半生を過ごした浄智寺谷戸の自然と茶席と庭と

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その2
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

その1】のつづき
大き巌うしろになしてこの梅はことしれうらんと咲きにけるかも  関口 泰

●関口泰が愛でた浄智寺谷戸の風景

 鎌倉は谷戸(やと)と呼ばれる地形に特徴がある。三浦半島特有のデコボコ丘陵ばかりで、海辺の外には広い平地が少ないので、12世紀ごろの昔から丘に切りこむ狭い谷間に宅地をつくってきた。
 谷戸は谷の向きや深さによっては、日中のほんの少ししか日が当たらない。奥になれば坂道は急になり階段になる。歳とると住みにくい。

 浄智寺谷戸は南上りであり、旧関口邸茶席はその奥にある。まわりを緑の丘陵に囲まれていて、豊かな自然風景に恵まれているが、その一方で陽光が照る時間は少ない。
 この茶席をつくった関口泰も谷戸を愛し、短歌「浄智寺谷風景」や随筆「小鳥と花」に自然を描いている。
 そこには、鶯の声で目を覚まし、彼岸桜、紅梅、山桜、染井吉野、大島桜、蝋梅、雪柳、緋桃、芍薬、牡丹、山躑躅、山吹、山藤などの花々を愛でる日常を、優雅な筆にしている。

2017/12/16

1307【山口文象設計茶席常安軒】紅葉の浄智寺谷戸に傘寿越す茶席建築を卒寿の建築家と訪ねる

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その1
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

●北鎌倉に山口文象設計の茶席建築を訪ねる

 秋も深まり初冬になり、北鎌倉に紅葉狩りに行ってきた。いや、実は行ってみたら紅葉が美しかった結果なので、真の目的は山口文象和風建築狩りであった。
 わたしがそれを訪ねるのは2度目だが、1976年以来の40年ぶり、その時の同行者には、設計者の山口文象がいた。そして今回は山口の一番弟子ともいうべき和風建築の名手である小町和義さんが一緒だった。

 40年前に来た目的は、山口文象(1902~78)の作品集をつくるために、評伝を執筆する佐々木宏、長谷川堯、河東義之の各氏たちも一緒だったが、山口はその2年後に急逝した。その本は1983年に刊行になった『建築家山口文象・人と作品』(RIA編)である。わたしはRIAに在籍していて、この本の編集執筆担当だった。
 山口文象がこの茶席を訪ねたのは、その時が40年ぶりと話していた。気が付けば、その時の山口文象よりも、わたしも小町さんも年寄りになっていた。そうか、二人とも山口文象よりも長生きしているのであったか。

2017/12/03

1305【余談:安藤忠雄展雑感談議】直島プロジェクトの模型や映像を観ていて昔々この島に消えた大量の釣鐘を思い出した

安藤忠雄展雑感長屋談議】【】【続々】のつづき
直島は昔から金属工場の島 観光リゾート安藤建築は島の南

●少年のころに直島を訪ねた大昔記憶
 国立新美術館に建築家の安藤忠雄展を観に行ったのだが、大勢の入場者に驚いた。建築家ってこんなにもてるものなのかい?、いいなあ、都市計画家もそうなりたいものだ。
会場の中央に安藤流の卵があって、それは瀬戸内海の小島の直島で長期にわたるプロジェクトを、ジオラマとパノラマ映像で見せる見世物小屋だった。ベネッセという企業と組んでいて、安藤さんの営業力を見る感じだ。
直島プロジェクト見世物小屋
その安藤の建築のことは別に書いているから、ここではわたしが昔々に直島を訪ねた想い出を書くのだ。ほう、いま計算したら、それはもう70年も前のことである、すごいなあ、そんな大昔がこのわたしにあるなんて、どうにも信じられない気持ちだ。

 太平洋戦争が終わった次の年の1946年の夏、わたしは直島を訪ねた記憶がある。草木のひとつも見えない荒れ果てた岩や赤土が剥き出しの島だった。港から坂を登って行き、丘の中腹を切り拓いたらしい広い空き地にでる。
 そこには無数の釣鐘の群れが、土の上に延々と並んでいた。これがこの島訪問の目的である。光景を思い出せば、たぶん2~300個はあったろうだったろう。
 少年のわたしの背よりも高いものがほとんどだったが、中には小さなものもある。夏の太陽に照らされた坊主頭の大群衆が、緑青や茶褐や漆黒の肌を光らせて、黙々と立ち尽くしているのだった。
 想えば、シュールリアリズムの絵画のようであり、子ども心にも異様であり、これだけがわたしの記憶にある直島風景である。

 直島を訪れたのは、その6年前に戦争のために金属供出した釣鐘を探す旅だった。父が連れて行ってくれた。ほかに父方の伯父と1歳上の従兄もいた。
 わたしの生家は神社であり、父は神社の宮司であった。その高梁盆地の御前(おんざき)神社には、17世紀半ばから城下町に時刻を知らせるために、時の鐘として鳴らされていた釣鐘があった。

 それが1940年に政府に召し上げられ、兵器となるために溶かして鋳直す工場がある直島に渡ったのだ。金属鉱山の無い日本が戦うための武器をつくるには、街や家庭にある既製品の金属製品を回収して原料にするほかなかった。
 直島の三菱精錬所には、各地から釣鐘類が集められていたが、戦中に兵器にするべく鋳潰されるはずが、運よく残っていたのがわたしたちが見た釣鐘の群れだったのだ。
 たぶん父は供出した釣鐘の行方を調べて、ウチの鐘も残ってるかもしれないと思って直島に出かけたのだろう。

●少年のころの釣鐘の記憶
 鐘にはこのような銘が鋳てあった。

吾移住当城之後為教城下之士庶十二時候課干冶工鋳鳧金以奉納槨内御前大明神之賽前蓋知時即寺社不忘其勸矣時則四民不勤其業近境順法遠境効焉所冀天長地久国家安全除災與楽将来千億
       慶安四歳次辛卯九月吉祥日
        城主水谷伊勢守勝隆 敬白
          冶工當国小田郡高草
           惣領 彦之丞藤原守重

 慶安4年とは1651年であり、その9年前に転封してきた城主水谷勝隆が奉納したとある。この鐘は供出するまで290年もの長い時を刻んできて、高梁盆地の城下町に時刻を教える鐘の音が響いていたのだった。
 兵器となるべく直島に蝟集した無数の釣鐘群の中には、もっと昔のものもあったに違いない。

 探しているその釣鐘は、岡山県の高梁盆地の丘の中腹にある御前神社の鐘撞堂(かねつきどう)に吊るされ、朝な夕なの時刻を知らせる時の鐘だった。昔は鐘撞き専門の職がそばに住んでいたらしい。
 鐘撞き堂は、木造の高楼建築で高さが3階建てほどだった。撞くべき時刻が来ると宮司の父が撞き、父が不在の時は母が撞いていた。その時刻が何時であったのか記憶にないが、父の不在中の夜中に母が出かけるとき、3歳幼児だったわたしはひとりでの留守番を怖かった記憶がある。夜中の鐘撞堂の梯子のような急階段を、幼児をおぶって登るのは不可能だったのだろう。

 もうひとつのおぼろげな幼児期の記憶だが、家に騒がしく出入りするひとたちがいて、鐘の音が連続して聞こえていたような気がする。しらべてみて、これは1940年紀元2600年記念に、その元日に2600回連続して鐘を撞くイベントの時であったようだ。今に残るわたしの人生最初の記憶である。
 城下町に響く時鐘は町民に愛されていたらしく、1940年の金属供出で鐘が出ていくとき、それを送り出す盛大なイベントがあったことが、当時の写真で分る。このとき父は中国戦線で兵役についていた。金属供出例は1941年に出されているから、これは自主的供出だったのだろうか。
1940年12月 時鐘供出祭
左に地上に降ろされた釣鐘と祭壇
 
 直島の鐘の話にもどる。父は1943年から3度目の兵役についていたが、このときは国内勤務だったので、戦争が終わった1945年8月の末日に帰宅してきた。
 4人で釣鐘群の迷路の中を、夏の日に照らされながら捜し歩いたが、そんなにたくさんありながら目的の鐘を見つけられなかった。父も伯父もガッカリしたことだろう。

 荒涼とした島の風景の中にたたずむ死を免れた釣鐘群は、それまでにもっと大群が兵器となって戦争の泥沼に沈む旅に出ていくのを見送ったことだろう。
 生き残った釣鐘は、その後にそれぞれの故郷に戻って行ったのだろうか。戻るべきところも戦争でなくなっていたかもしれない。故郷を失った鐘は鍋や釜になったのだろうか。

●リゾート観光地の直島に戦争の記憶は
 わたしたちの探していた釣鐘はそのまま帰ってこないが、鐘の故郷の高梁盆地にある御前神社には、いまも鐘撞堂がすっくと立っていて、戻ってくる鐘を待っている。
 だが木造高楼建築は、寄る年波には勝てないらしく、倒壊の恐れありとて、登ることはもちろん近づくことも禁止の注意書き札が立っている。
 鐘が戻ってきても、もう吊るすこともできない。もっとも、いっときのことだが寄付する人がいて、プラスチック製の釣鐘がぶら下がり、テープ録音の鐘の音が響いたこともあるらしい。
1940年末から今日まで鐘の帰りを待つ鐘撞き堂も老いてしまった

 わたしの直島の記憶は上に書いた場面だけなのだが、その帰りにどこかの海辺で海水浴をした記憶が鮮明にある。従兄と2人で泳いだのだが、白砂青松の浜辺がひろがり、泳ぐ向こうの遠くない海上に、可愛らしいお椀を伏せたような松の繁る小島が見えていた(確証はないが、たぶん牛窓の海岸のようだ)。
 この海にそそぐ高梁川の中流部の高梁盆地で育ち、その川で泳ぎを覚えたわたしには、初めての海水浴だった。海の水は辛く苦いものだと、まず舐めて確かめた記憶がある。

 海水浴を楽しむにはまだ貧しすぎた時代だからか、わたしたちの外に誰もいなかった。父と伯父は、たぶん船か列車の待ち時間に、その子たちを遊ばせたかったのだろう。
 それがどこだったのか、直島航路の宇野港に近いあたりの海水浴場を、ネットで探しても見つからない。いまでは小島もろともに埋め立てられて産業地になり、砂浜はなくなったのだろうか。
 もう、父も伯父も従兄もこの世にいない。

 金属産業の直島はいま、企業のベネッセによる事業として、建築家安藤忠雄の建築で有名な観光リゾートの地に大変身して、煤煙で島を丸禿にしていた三菱の工場はエコアイランドの核となっているという。
 かつてこの地が各地から社寺の釣鐘を集めて、兵器をつくるための島だったことは、忘れ去られているだろうか。釣鐘ばかりか、そのほかの多様な金属も来ていただろう。あの頃、各地の金属製の文化財も失われた。
 直島にもあった戦争の記憶を、今の島のどこかに残しているだろうか。直島町史あるいは三菱マテリアル社史に載っているだろうか、あの光景の写真があるだろうか。
 思えば、あの荒野の白日の下の釣鐘群の姿は、戦争直後に幻のように出現して消えた現代美術インスタレーションだったような気がしてきた。