2019/06/27

1406【1950年代モダニズム建築の再生】3:神奈川県立図書館・音楽堂は本当に保存に値する名建築か

【1950年代モダニズム建築の再生:2】からのつづき
紅葉ヶ丘あたり現況
熊五郎:こんちわ、ご隠居。もう梅雨ですねえ。
ご隠居:おや熊さん、いらっしゃい、まあ、おあがりよ。
:先日、紅葉ヶ丘に登ってきましたよ、神奈川県立図書館と音楽堂があるところ。
:おやそうかい、もうひとつ県立青少年センターもあるよ。どれも前川國男の設計のモダニズム名建築だよ。
神奈川県立青少年センター(1962年、前川國男設計)
横浜能楽堂もありますよ、これもその前川って人のモダニズム名建築ですかい。
:それは前川じゃなくて大江宏だね、モダニズムじゃなくて日本伝統建築モディファイの姿をしてるね、伝統芸の能楽堂らしくね。
横浜能楽堂(1996年 設計:大江宏) 写真は横浜能楽堂公式サイトより
:あのね、前川建築は西洋モダンで大江建築は日本伝統ね、え~と、同じところに並んでるなら後でできた能楽堂が前川に合わせてモダニズムデザインすべきでしょうに、建築家ってのは隣になにがあろうと関係ないんですかね。
:あ、ウン、いや、その、、。
:前川の図書館や音楽堂が名建築なら、なおさらそうすべきでしょうに、違うんですか。
:タジ、タジ、、
県立音楽堂はほんとうに名建築か?
県立図書館は本当に名建築か?(県立図書館公式サイトより)

:そもそも音楽堂やら図書館は、どこが名建築なんですかね。飾りもなくて骨と皮ばかり、仕上げは安物ばかり、どうみても貧乏建築にしか見えませんよ。
:貧乏建築と名建築とは対立関係ではないのだよ、豪華な材料を使ったり手間のかかる装飾をしなくても、美しい空間を作るのがモダニズムだよ、すっぴんの美しさだね。
:なるほど、でもねえ、あの音楽堂のホワイエ、案内のボランティアの方は褒めていましたが、あそこはどう見ても縁の下と言うか床下でしたよ。
:そうだよ、そこは客席の床の下だね、その構造を素直に空間として表現している、これがモダニズムだよ。
床下利用のホワイエは落ち着かない
:でもねえ、そのモダスムは美しいかなあ、コンクリむき出しの柱と梁がゴチャゴチャと交叉してて、なんだかうるさくて鬱陶しいなあ、天井を張ってほしい。
:でも周りが明るいガラス張りだから、鬱陶しいことはないだろ。
:それがねえ、ガラスの外の景色が庭園とか海とかならいいけど、表側は殺風景な駐車場、図書館側は石垣、隣の掃部山公園は向うが高いから緑が少ししか見えないし、何だか機械を置いてあるから、まったくもってガラスの向こうがちっとも美しくないし、あれじゃあ空調も不経済だろうし、設計が下手。
:ま、そういやそうだけど、いやいや、マイッタな。
音楽ホールは下から上まで歩いて登る
:ついでにもひとつ、音楽ホールの中はガイドの話では音楽家には音響が評判が良いとのことで、それはいいけど、全部が階段椅子席で1階から3階の上まで歩いて登るしかないのが、観客にとって今どきいいのですかねえ。
:う~む、まあ、若者が活躍する音楽堂にしてもらうかな。
:今じゃあ横浜には県民ホール、芸術劇場、関内ホール、みなとみらいホールとかいっぱいありますよ、更に横浜市立の芸術劇場計画もあるし、この音楽堂は要るのですかね。
:あ、そりゃ要るよ、ここに昔は超有名演奏家を招いてたけど、今はもっと良いホールがあってそちらに行くけどね、昔と大違いは音楽を自分でやる人たちがぐ~んと増えて、その市民活動の場としてもこの音楽ホールは必要だよ。この音楽堂が約千席、隣の青少年センターのホールが約800席で、興業には向かないけど一般市民活動にはちょうど良いよ。

:なるほど、そうですね、ガイドの話だと、音楽堂は建ってすぐに楽屋の増築、更に続いてリハーサル室や控室も増築したそうで、デザインはモダンでも機能は足りなかったらしいですよ。それでも名建築かなあ。
:そうだねえ、あの東と北の増築部分は道路際までぎりぎりに建ていて、まわりへの配慮に欠けるねえ。
:はは、ご隠居も悪口を言い出しましたね。その増築部部は裏側だからか、いろいろ機械が裸で露出していて、能楽堂と掃部山公園側の景観を悪くしてますよ。
柱や梁ばかりか機械も美しく露出させるのが、モダニズムの手法だけどねえ。
:じゃあ、裸の空調機が壁に幾つもぶら下がってるのも、広場がむき出し駐車場なのもモダニズムですかい。
リハーサル室などの増築部、あちこちにむき出し機械類
:いや、なに、その、、そういえば先日見たら、今、外回りの整備工事をしているね、あれが完成すればよくなるのかもね。むき出し機械を樹木を植えて隠すとかしてね。
:そうそう、図書館の周りの大きな木がバサバサ伐られて、お知らせの紙が貼ってあり、昔の景観に復元するから我慢して見ていてくれ、なんて書いてある。ところがねえ、そこにある完成イメージ図を見ると、ますます殺風景になるんですよ。
広場には木がたったの一本だけ
整備し直しても木は一本だけ
植栽の剪定と伐採についての貼り紙
写真では広場が砂利敷きだがこれも復元するのだろうか
:わたしも見たよ、そこは気になるね、あの広場には樹木がたった一本しかなくて、全部が駐車場に占められているし、広場から昔は海が見えたろうけど、今じゃあ周りは高層共同住宅でその上から超高層ビルに見下ろされて、なんとも鬱陶しいねえ。
:そう、広場はクルマに占拠されてるし、夏は暑くてたまんない、だから緑を植えて木陰のある庭にして人が集まるようにするのかと思ったら、この絵を見るとやっぱり駐車広場ですよ、写真見ると砂利敷きだから、水の浸透性をよくするように砂利を復活するのかな。

紅葉坂を登って行くと右手の歩道沿いに広い植栽帯があるだろ、花咲町の共同住宅の建替えの時にできたね、あれができて坂を登るのが少しは気分がよくなったね、途中で腰を下ろして休めるしね、で、紅葉ヶ丘の青少年センターまで登ってきたら、何だか土をいじって工事している、見れば張り紙があって「もみじ坂景観改善工事」と書いてある。
:そうか、あの坂沿いの緑地帯を、丘の上へも延ばしてくるんですね。
:わたしもそうも思ったら、そうじゃないんだね。
:あ、そうか、この絵のように広場に登る大きなL型の階段を作るんですね、でも、これって復元なんですかね。
:せっかく下から緑地帯が登ってきたのだから、それに続けてこちらにも緑地帯をつくって広場も緑地にする、なんてのじゃなくて真反対にコンクリの車優先広場にするって、公共事業として間違ってるでしょ、民間の事業を見習いなさいって言いたい。
紅葉坂沿いの緑地帯
紅葉坂の緑地帯を坂上から見下ろす
坂の上までこれを続けて整備するのかと思ったら、、
:アレレ、建築では違ったけど、緑の整備ではご隠居と同意見になった、なんでも復元ならいいんだと建築家はバカみたいですね。
:いや、建築家は人工の文化を大切にするけど、自然のことをよく知らないんだね。
:あ、そうだ、復元と言えばあの前川建築群が建つ前は、あそこらへんは緑がいっぱいあったんでしょうね、その緑の復元をしてもらいたいですね。
:あの紅葉ヶ丘は、図書館・音楽堂が建ったところには県知事の官舎のあって、広い敷地に庭や林があり、青少年センターの建ったあたりも広い官舎だったらしい。
:ほう、写真や地図を見ると緑豊かだったようだから、それを復元してもらいたい。

2018年紅葉ヶ丘あたり
:その前の幕末から明治開港時の紅葉ヶ丘は、横浜開港場を統括する幕府の奉行所があったんだね。その前は野毛山から伊勢山、紅葉ヶ丘から掃部山へとひと続きの山だったのを、このときに横浜道の開削と紅葉ヶ丘の開発で区切ったんだ。
:じゃあ、せめて掃部山から伊勢山に続くように緑の森の復元をしてもらいたい。
:広場に樹木を植えるのはできるだろうけど、掃部山とつなげるのは無理だね。
:じゃあ、まあ、音楽堂だけはせっかくの日本の歴史的モダニズム建築であるとしてこれからも使うことにして、図書館を取っ払って緑の森にしてはどうです。
:うわっ、図書館もモダニズム名建築だよ、壊せないだろ、だって図書館はわたしも時々使うんだもの。

:う~む、音楽堂にケチをつけたけど、こんどは図書館にケチをつけるかな、あれも名建築って、本当ですかねえ。東側は音楽堂につながるモダニズム建築なんでしょうけど、西側に回ると全然違う普通の白いビル、あれも名建築?
:あ、あの新館は本館に後で増築したんだね、あれは前川の設計じゃないね。
図書館新館玄関(左)と青少年センター荷物搬入口(右)
:ホレね、本館が名建築なら新館だって名建築として増築するべきでしょ、それがあの姿じゃあ、別に名建築の必要が無いと言ってるようなもんでしょ。
:う~む、本館の名建築とはわざと違うデザインにして、区別したのだろうなあ。まあ、音楽堂の北側増築部分も真っ白に塗ってわざと違ってみせているね。
:だからツギハギに見えるんですね、なんかうまくないなあ、そうか、最初に建てる時に、増築を予想しないで完結するデザインをしてるのがいけないんですよ。

:うむ、それはあるな、ほら、鎌倉の旧県立美術館では初めから増築予定してあったからあの本館と新館は実にうまく調和していたね。
:前川ってそこのところが坂倉より下手クソですね。
:う~ん、だから壊してもいいってのかい。
:あ、そうか、図書館を壊して緑の森にする話でしたね、そう、あの図書館の良いところは、利用者が少ないのでいつも静かなところだけですよ。言いすぎかな。
:うん、まあ、そのとおりだな、
:おや、なんだかおとなしくてヘンですよ、どこか具合が悪いのかな。
:いや、わたしはいつも熊さんに従順だよ、ハハ、でも、あの吹き抜けの閲覧室がいい空間だろ、そう思うだろ。
図書館本館の吹き抜け閲覧室(県立図書館公式サイトより)
:はいはい、一階閲覧室はたしかに天井は高いし、大きな透明ガラスが緑の庭に面して、空間としては気持ちがいいですよ、でもねえ、なんか落ち着かないんですよ、今どきの図書館は読書するよりも、資料を閲覧しつつ調べ物するところだから気が散らない空間の方がよいのですよ。気分転換には外の出てくればいいでしょ。
:じゃあ、2階の閲覧室はどうだい。
:ガラス窓の外に穴空きの焼き物が格子状に積んであるところでしょ、中から外の景色を眺めるにはその格子が邪魔ですよ、あれは西日よけのデザインらしいけど、部屋側にブランドを下ろしているから、ほとんど役立たずですよ。
穴空き陶器に囲まれる西側窓の外面(県立図書館公式サイトより)
:うむ、う~む、図書館ではガラス面よりも開架書棚を多くしてほしいところだね。実はわたしもこの図書館は不要なような気がしてるんだよ、本音としてはね、。
:なんだ、保存に値する名建築じゃないんですか。
:いや、そこのところは苦しいけど、もうこの図書館は役割が終わったように思うんだよ。実はこれまでに、何度も建て替えの検討があったらしいよ。
:ほれやっぱりそうでしょ。
:実際使ってみると新館と本館の連絡が悪いし、これまでいろいろな調べものするのに、蔵書検索するとたいていは市立の方で間に合ったしね。
:そうそう、だから県立図書館を壊して、山の緑を復元してもいいでしょ。
:う~む、壊さずに別の文化施設として使い続ける方法があるといいけどなあ、
:そうですねえ、う~む、そうだ、ここ紅葉ヶ丘には中小の劇場が3つもあるのだから、総合的に再編して舞台芸術創造活動の場にするってのはどうですか。
:図書館を廃止してもその建物を再利用するってわけか、それもいいなあ。
:そういえば隣の伊勢山には市民ギャラリーがありますよね、そうだ、こことも一連の活動の場として、舞台だけじゃなくてアート全般の創造活動の場にするといいですよ。
:おお、紅葉山市民アート活動センター構想だな、
:市立県立の壁を取っ払ってやりましょうよ。

:いいねえ、いいねえ、ところで、わたしは能楽堂にもちょくちょく行くのだけど、あそこはいかにも図書館の裏でございます、って感じがいやなんだな。
図書館(右)の裏の感じが強い横浜能楽堂(左)
:そうですね、いっそのこと図書館なくして、音楽堂の西側に中くらいの広場を設けて、能楽堂と音楽堂をひとつの空間にまとめるといいですね。
:おお、いいこと言うねえ、いやいや、図書館の本館の建物は残してほしいなあ。
:あ、そうだ、図書館の北の庭園を音楽堂と能楽堂の共同の広場にすればいいんですよ、音楽堂の正面をこちらにするんですよ。
:そうだな、その上でいまの駐車場広場の車を地下に入れればいいね。
熊:そうそう、今の広いコンクリ広場を樹林の庭園にすれば、掃部山から伊勢山に緑が続くことになりますね、掃部山の春の花見の場がひろがりますねえ。
:おお、いいねえ、はなしだけだとなかなかいいこと言うねえ。

:そう言えば、近くの野毛山の中腹に横浜市中央図書館がありますよ、どっちかと言うと、こちらの方が方がよほど充実してるし、利用者も断然多いですよ。
:そうだね、県立と市立両中央図書館が、ほとんど内容に違いが無くて、近くで張り合ってるのも奇妙なもんだね。わたしは両方を使えてありがたいけど、一般論としてはもったいないよな。
左の野毛山中腹に横浜市中央図書館、右の紅葉ヶ丘上に県立図書館
:市立図書館の方が新しいし、規模も大きいしね、これは誰の設計なんですか。
:県立と同じ前川國男だよ。
:えーっ、同じ人ですかあ、ずいぶん違うデザインですよ、建築家って器用なもんですね、まあ、それじゃあ県立図書館の方を壊しても、前川図書館はこっちにあるから勘弁してもらいましょうよ。
:そういうもんじゃないんだけど、まあ、いいか、。
坂を登ってたどり着いたらまた階段を登らされる横浜市立中央図書館
:もっとも、紅葉ヶ丘の県立図書館はアクセスが不便だけど、市立中央図書館も野毛山の中腹にあって、坂や階段を登るもんだから、けっこう不便ですよね。
:そうそう、まったくなんであんな不便なところに建てたのだろうね。
:建築家は与えられた土地で設計するしかないんですかね、建築家の前川は設計するときに、ここよりも市民に便利なところに建てろと提案しなかったんですかね。
:まあ、あそこは以前の図書館の建替えだったからなあ。
:じゃあ、もっと下のほうからトンネルとエレベーターでアクセスするように設計すればよかったのに、前川は下手だ。
:いや、まあ、、。
:それじゃあこの長屋談議の締めくくりに、今日のホラ話を戯造画像にしました。
広場:樹林にして伊勢山から掃部山に緑を連続復元
図書館:一部保存大改装増築して芸術創造活動の場に

参考:『「県立図書館の再整備に向けた基本的な考え方」の取りまとめについて』(2016年10月28日 神奈川県教育委員会)

2019/06/18

1405【1950年代モダニズム建築の再生】2:横浜の紅葉ヶ丘の今昔と神奈川県立図書館・音楽堂


【1950年代モダニズム建築の再生】(1)からつづき

 今年5月に鎌倉の八幡宮境内にあった神奈川県立近代美術館が閉館して、建築は復元的再生して別のミュージアムに生れ変った感想を、このブログの前の記事として書いた。続いて同じくこの春に復元的再生をした県立音楽堂について感想を書く。
 県立美術館は1951年開館、音楽堂は県立図書館と合せて1954年に開館、どちらもオーナーは当時の神奈川県知事内山岩太郎である。内山は会館知事と言われた程に沢山の開館を県内に建て、今でいうところの箱モノ行政をやって、あの貧乏な時代に人々の文化への希求をうまくとらえたともいえる。

紅葉ヶ丘の文化施設群
●驚くべき紅葉ヶ丘の景観変化

 鎌倉八幡宮で美術館を見てきた眼で、横浜市中区の紅葉ヶ丘に立って県立音楽堂を見ると、その景観のあまりに奇妙さに、音楽堂を可哀そうに思ってしまった。

左に県立音楽堂、正面は高層共同住宅群とMM21超高層建築群
左端に音楽堂、右上は青少年センター
音楽堂ができた頃はこのむこうには空だけだったはず
今ではそれなりに見慣れたが、それでも昔の景観を思いだすと戸惑う気分になるのは、ここは髙い丘の上なのに、丘の下に建つ超高層ビルから見下ろされているからである。
紅葉ヶ丘の音楽堂前の駐車場広場の標高は約25mの高台だが、その東側の丘の下は海を埋め立てて造った標高4m程の平らな街がひろがり、そこに建つ超高層建築群が丘よりも高くそびえているのである。

 紅葉ヶ丘の景観の主役であった音楽堂・図書館そして青少年センターは、その座をひきずりおろされてしまっているのである。
 かつて東に大きく開かれて広場は、妙にデコボコスカイラインと色とりどり建築ファサードに取り囲まれた。たぶん今後も増加して変化していくだろう。
 それはひとりの建築家がつくりあげた紅葉ヶ丘上の建築群のまとまりある景観に対峙して、何ともまとまらない景観を投げかける。
 この景観の大変化の中で、建築保全とはいったい何だろうかと、鎌倉の旧美術館と比較するとあまりの違いに、都市景観と建築について大いに考えさせられるのである。
  
紅葉ヶ丘を見下ろす丘の下の超高層建築群
紅葉ヶ丘は、横浜が開港した19世紀中ごろ、幕府はここに奉行所を設置して、横浜の街を管理した官庁街だった。戦後は県公舎用地となり、知事公舎と職員住宅が建っていた。その知事公舎跡地に1954年に立てたのが図書館と音楽堂だった。
 その頃は丘の上から東の横浜港を俯瞰すると、目の下には横浜造船所のクレーンやドックのある工場が広がり、その向こうに東京湾を出入りする船が見えていた。
 それが20世紀末になると造船所は引っ越し、海を埋立てて土地を作り、「みなとみらい21」プロジェクトの新市街形成が進んだ。横浜で最激変の地である。
1988年丘の下の造船所跡地等埋立大変化中
わたしは20年も前だったか、久しぶりに音楽堂にやってきた時に、ランドマークタワーが音楽堂にのしかかっているのに遭遇し、文字通りにビックリ仰天したものだった。えっ、こんなに近くてこんなに髙いのかと、ただ見上げるばかり。
 そのときは紅葉ヶ丘の景観に割り込んでいたのは、ランドマークタワー一本だけだったが、その唐突さに不思議な思いだったが、その後にまとまりなくあれこれと景観は乱れて行った。
 今では音楽堂のすぐ下の斜面地にあった、中層の花咲団地が建てなおされて高層建築共同住宅群になり、いまや海も見えないどころか、丘の上から見晴らす風景が消滅してしまった。

●“黒沢天国”の紅葉ヶ丘

 それを嘆くことではないが、あまりの景観変化に今でもまだ戸惑いがある。横浜だけではあるまいが、海や川沿いの低湿地と丘の上の高燥な土地との間には、自ずからそれぞれの品格の上下差があって、もちろん丘上が格が上で低地を見下ろしている。
 そこで思い出すのが、黒沢明監督映画「天国と地獄」(1967年)であり、その天国とは丘の上の住宅、地獄とは低地のスラム街であり、横浜がモデルになっている。あの凶悪犯は低地から丘の上を見上げて、そこにいる富裕層への劣等感をつのらせる。
 ところが紅葉ヶ丘は、見事に低地から見下されていて、なんだか逆転している感があるのだ。この現象は実に現代的で、興味深い。
映画「天国と地獄」の天国と地獄の風景
丘の上と下の関係で言うと、市民の利用する文化施設の図書館・音楽堂を、紅葉ヶ丘の上という駅からも街からも遠くて、急な坂を登る不便なところつくったのだろうか。
 たまたま県有地があったからとは言い切れないのは、美術館の例を見ても明らかだし、関内には空き地だらけで県有地もたくさんあったはずだ。

 思うに、昔は(今もか)文化施設は、猥雑な街なかを避けて丘の上とか郊外の緑の中とかに作っていたものだった。文化は高尚だからと思っていた節もある。
 利用する市民の不便さよりも、立地の環境が美しく建物も景観的に見栄えが良いようにつくり、行政トップの政治的見栄としての箱モノ行政だったようだ。今もその傾向があるのは、隣の横浜能楽堂がそうである。

 実は紅葉ヶ丘はわたしの今の住み家から近いので、図書館に調べものでよく訪れるし、趣味の能楽鑑賞で横浜能楽堂にもちょいちょい入る。音楽堂と青少年センターにも、たまによって音楽や演劇鑑賞もする。
 東の桜木町から紅葉坂を歩いて登るアプローチは、なんと高低差約20mもあって、歳とるとなんとも苦しいので、わたしは日ノ出町方面からバスで登るのだ。
桜木町から登る紅葉坂
桜木町方面から路線バス便は無くて、音楽堂のイベントに合わせての特別バスだけである。ぜひとも紅葉坂を登る路線バスを開設してほしい。
 桜木町駅から横浜美術館、MMホール、紅葉ヶ丘の図書館、音楽堂、青少年センター、掃部山の能楽堂、野毛山の横浜市立中央図書館、そして日ノ出町駅へと巡回してはどうですか。
 
●“黒沢地獄”の丘の下

 1950年代半ばに内山知事があちこちで箱モノを目論んでいた頃、鎌倉の美術館は高台ではないが、超一級の立地であることは確かだ。
 では県立図書館・音楽堂はどうかと言えば、まさに丘の上の“天国”立地だが、なぜ人々が利用しやすい横浜都心の関内や関外ではなかったのか。
 この問いに最も直接的な回答は、そのころは横浜の関内関外のほとんどが、敗戦と同時に進駐してきた連合軍の基地として占領されていたので、そこに建てるとは誰も考えようがなかったからだろう。
1954年開館当時の図書館・音楽堂 手前に県の公舎が見える
 図書館・音楽堂が開館した1954年前後の紅葉ヶ丘は、空襲による焼失を免れて、林の中に県の公舎が立ち並び、県知事公舎もあり、まわりも静かな住宅地だった。
いっぽう、丘の下の桜木町から関内・関外にかけての市街地は、空襲によってほとんど焼失した後に、敗戦直後から占領軍に半分以上を接収されて兵舎や軍用機財置き場等の用地になった。
 そこで、接収を免れた桜木町あたりから野毛、日ノ出町、黄金町にかけての大岡川から日ノ出川沿いに人々が移ってきて、戦後の横浜都心になた。つまり紅葉ヶ丘と野毛山の麓が新たな都心になったのだ。

 1950年に朝鮮戦争が始まると横浜港はその兵站基地となり、紅葉ヶ丘下の横浜港も横浜造船所もおおいに活況を呈して、多くの労働者が全国から集ってきた。麓の狭い土地に集る人々で、街は闇市と安宿の密集スラム街となり、街も丘も野宿者たちがあふれ、犯罪が横行していた。黒沢映画の“地獄”はその一部である。
 そして紅葉ヶ丘には、高尚なる文化の殿堂の図書館音楽堂が建った。まさに“天国”である。県都横浜の都心に作りたかったかもしれないが、地獄の街に文化施設はありえなかったのだろう。
1956年の紅葉ヶ丘(黄丸)と横浜都心北部
下中央部に占領軍接収地の兵舎群が見える
2018年の紅葉ヶ丘(黄丸)と横浜都心北部

●音楽堂は昔も今も超一級ホールか?

 それにしてもそのような時代なのに、いやそのような時代だからこそか、図書館・音楽ホールとよく作ったものだ。開館当時から西欧の名演奏家がこの音楽堂にやってきたそうだが、その聴衆は下界の労務者たちではなかったことはたしかだろう。
 もっとも下界のアメリカ軍キャンプでは、ジャズ音楽が響いていたことだろう。
 その頃の、レコードによる西欧クラシックの復活について、個人的な記憶がある。わたしの1954年頃は、住民が1万人程の城下町盆地で高校生だったが、LPレコードでクラシックを聴く会になんどか行った記憶がある。片面30分のレコード盤が出てきた頃で、田舎高校生でもクラシック音楽に憬れていたのだった。

 都会には本物演奏に憬れていた人たちが多くいただろうから、音楽堂への希求が大きかっただろう。実はこの音楽堂でもその頃にはLP鑑賞会があったらしい。
 まだ日本全体が若い時代、図書館だろうが音楽堂だろうが、文化を求めて丘の上に登るのは苦労ではなく喜びだったろう、ホールらしいホールはここしかなかったから。
 そしてこの音楽堂はクラシック音楽ファンに愛されて、竣工直後に改修や増築しているから設計所で不具合があったのだろう。90年代はじめの建替え話も乗り越えて、2008年には耐震工事を経て今回の大改修へと、今日まで生きてきた。

 わたしは音楽ホールの建築的なことも音楽的なことも知らないが、ちょっと思いつくだけでも今や横浜都心部には音楽系大ホールが、ここのほかに4箇所もある。音楽堂よりもはるかに設備は整っているし、便利な立地にある。
 そのような時代を迎えても、はじめの頃と今とはどのように使い方が変っているのか知らないが、この音楽堂は当初からそして今でも素晴らしい音楽の場なのか、復元保全に値する記念的モダニズム建築だろうか。

 ここではモダニズム建築の保全について書こうとしているのだが、まだ建築と言うよりも都市環境の話から抜け出せない。ほかにもここの建築外部環境への対応にいくつものハテナと思うところがある設計で、あの前川國男も初期の初めての公共建築では下手だったなあと思うのである。
 建築再生の話は続きで。
                 (つづく


2019/06/07

1404【50年代モダニズム建築再生】(1)神奈川県立近代美術館が鎌倉鶴岡八幡宮ミュージアムに転生した

●身近な二つの有名建築公営文化施設の再生

 今年(2019年)の春、身近にあって親しんできた文化施設二つのリニューアルオープンに出会う機会があった。どちらも戦後早期にできたモダニズム有名建築である。
 ひとつは鎌倉の鶴岡八幡宮境内にある「神奈川県立近代美術館」であり、もうひとつは横浜中区の紅葉が丘にある「神奈川県立音楽堂」である。この音楽堂は県立図書館と同時にできた連携する施設であるが、図書館リニューアルは後回しで音楽堂が先行してオープンした。

 実はどちらの施設もわたしが親しんできた施設で若干の思いいれがあり、その建築、環境、景観そしてそれが生れた頃の社会的背景について考えさせられたので、感想を書いておくことにした。
リニューアルオープンした鎌倉文華館(旧県立美術館鎌倉館)
リニューアルオープンした県立音楽堂
 近代美術館は、40年ほど前から四半世紀を旧鎌倉の東寄りに住んでいたので、美術館のある鶴岡八幡宮境内はしょっちゅう通りぬけており、参道に出ている美術館の展覧会ポスターを見て、ちょくちょくふらりと入ったものだった。

 音楽堂については、2002年に横浜の関外に移り住んだので、近くの紅葉が丘にある横浜能楽堂には趣味の能楽見物によく行くし、県立図書館にも調べものでちょくちょく行くから、それらの隣にある音楽堂や青少年センターホールでの出し物に触れるようになった。
 もっとも、鎌倉に住む前は横浜の日吉に10年ほど住んでいたので、そのころも何度か音楽堂に来た記憶がある。

 美術館(設計:坂倉順三)が1951年、音楽堂(設計:前川國男)が1954年の創設だから、まだまだ日本全体が貧困きわまっていて、文化施設よりも住宅を食物を求める時代であった。1950年頃から復興への歩みが起きようとして来て、そのような殺伐とした時代だからこそ文化が求められる空気も出てきたのであろう。

 当時の神奈川県知事は内山岩太郎であり、内山のリードで文化施設として美術館、音楽堂、図書館を造ったのだった。それにしても、どちらもモダニズムデザインの旗手たる建築家をコンペで選出したのだから、よくもやったものである。そのころはわたしは中学生だったが、あの頃の新たな時代への社会の意気込みが分るような気がする。

●近代美術テーマの美術館

 内山が鎌倉に県立近代美術館を作ったのは、美術展覧会のできる会場が欲しいと言う市民の要請があったからのようだが、まだまだ苦しい時代でありながら、文化復興への息吹がようやく出てきたということだろう。政治家としてそれをとらえて美術館に結実させたところがさすがである。

 しかし、建てたのが県都の横浜市内ではなかったのは、横浜が戦中の大空襲による戦災ダメージに加えて戦後は都心部が占領軍基地になっていたからであろうし、古都の鎌倉にしたのは、鎌倉は戦災に遭わず各界文化人たちも多かったことにあるだろう。
 しかも八幡宮境内という絶好の立地を得たのだった。つづく県立音楽堂の横浜の立地と比べると、その後の現在までの立地環境や景観の変化のあまりの差異に驚くのである。

 美術界のことは知らないが、このとき「近代美術」というテーマを掲げたのは、この美術館企画に深く携わり館長になった土方定一によるものだろう。近代という言葉の持つ前衛性に戦後の文化復興の進路を見出そうとしたのだろうか。あるいは鎌倉の八幡宮境内には「鎌倉国宝館」が既にあったことが、ジャンル分けを明確にさせたのだろうか。

 日本の近代美術館としては倉敷の「大原美術館」(1930年設立)が戦前から有名である。企業家大原孫三郎によるいわゆる泰西名画のコレクションによる私設美術館である。
大原美術館遠望 2011
近代美術に限ってはいないが、その充実がすごい。
 わたしは少年時代を過ごした街が倉敷に近いのでなんどか行ったことがあり、その展示されている名画の数多くを記憶にある。近年に六本木の国立ギャラリーにそれらの多く名画がやってきて「大原美術館コレクション展」があり、懐かしく思い出しつつルノアールやセザンヌを見たのだった。

 考えてみれば、わたしが倉敷でそれを見た頃は、鎌倉の近代美術館が生れた頃のまさに戦後貧困期であった。そしてそれら美術が中学生の心に深く刻みこまれて、なにほどかは後に建築デザインの世界へと向かわせたかもしれないから、この県立近代美術館も都会の少年たちを文化へと目覚めさせたことだろう。

 ところで、いまでこそ近代美術館を名乗るものは多いが、そのころは日本では皆無だっただろう。そして鎌倉の県立近代美術館は、近代美術を掲げた公立美術館としては日本あるいは戦後で最初であったと書いている資料を散見する。例えば「神奈川県立近代美術館」サイト「日経アーキテクチュア1978年8月7日号」、「鎌倉文華館」サイトであるが、わたしの知見では実はこれは正しくないはずである。

 高松市の栗林公園内にあった「高松近代美術館(山口文象設計、後に高松市立美術館)は、1949年に高松市立の近代美術館として開館している。わたしは1978年に訪ねたことがあるが、鎌倉の近代美術館に負けないモダンデザインだったが、大名庭園の中で異彩をはなっていた。
高松近代美術館 1978
これを近代美術館としたのは、この美術館の企画者だった猪熊弦一郎によるものだろうし、山口文象に設計させたのも猪熊の推薦であったとは、わたしが猪熊から直接に聞いたことがある。
 1988年に閉館して市内の別のところに移転した。建築は今は無いが、設計図面はRIAが保管している。山口は次の年の久が原教会を発表して戦後復帰を果たしたのに、この戦後最初の作品とも言うべき高松近代美術館を発表しないままだったのは、なぜだろうか。

近代美術館は八幡宮ミュージアムに

 ところで、この美術館と音楽堂という二つの文化施設の今回のリニューアルオープンで興味深いのは、施設にも運営にも大きな差異が起きたことだ。音楽堂は県立のままだが、美術館は民営になり中身も変わった。
 鎌倉の美術館は「鎌倉文華館・鶴岡ミュージアム」と名を変えて、鶴岡八幡宮が所有して運営、神奈川県は撤退して県立近代美術館の看板を下ろしてしまった。
県が八幡宮から境内地の一部の土地を賃借していたのだが、その賃貸借契約期限が切れて延長ができなかったのがその理由であるという。八幡宮が跡地利用を考えて土地の返却を求めたらしい。

 もっとも、県立美術館は分館が近くにあって継続するし、葉山にもあるから消滅はしないのだが、今の八幡宮境内立地よりも交通不便であり、わたしは鎌倉別館には数回、葉山館には1回訪れたのみである。
 さて八幡宮はどのようなミュージアムにするであろうか。宗教活動の場なのか、それとも純粋に美術館経営をするのだろうか。先般の見学に行ったときに、施設管理者たちの衣装が白衣と水色袴であったのが、いかにも八幡宮施設となったことを認識させた。
鎌倉文華館の鶴岡八幡宮参道からのメインアプローチ

●建築の復元保全について

 当初は八幡宮としては新しい施設を建てなおすつもりがあったようだが、長年親しまれた池に臨む美しい内外の風景とともに戦後名建築の消滅を惜しんだ市民たちの要望があったようだ。
 八幡宮は市民の要望に対応して、美術館建築の本館部分を残して復元的リニューアル、新館は取り壊し、付属棟は建て直して、新ミュージアムとして再登場させたのである。

 これをどう評価するか。景観保全としては成功だろうが、建築保全としてはどうだろうか。わたしはなんでもかんでも当初に復元保全という保存原理主義には同調できないが、ここではどこまで原理主義的であるのだろうか。
 モダニズムデザインとして印象的な本館は、できるだけ復元設計されたとのことであり、池からの景観は美しく、ピロティからの池の眺めも楽しい。


元の設計のもっとも目立つ真っ白い立面の外壁面は、スレートボードを目地押さえ金物でつなぐといういかにもチープなものであった。これをリニューアルでをどうするのか気になっていて、今どきの設計ならば新館に使ってあったホーロー鉄板を使って目地押さえ金物など使わないだろうと思っていたが、原設計のままにチープさと共にリニューアル復元されていて、それなりに美しくなっていた。
 なおリニューアル設計は丹青社であるが、なぜ坂倉建築事務所ではないのだろうか。

 建築復元としてはともかくだが、最も大きな改変はメインアクセスを八幡宮参道側にしたことだろう。あの大階段が招き入れる機能がほぼ死んでしまったのがもったいない。この大階段を上手に使う展示やイベントがなされることを期待する。
 だが、考えてみると、実質的には入館者のほとんどが参道側から入るだろうから、これが正しくて元の設計が間違っていたといってよいだろうが、なんだか引っ掛かる。
元の正面玄関が裏玄関になった鎌倉文華館
近代美術館だった頃の正面入り口風景 2009年
 県立時代には中庭や外構のあちこちに彫刻作品がおかれていたのが、いまは何もない芝生やペーブになっているのが、何だかさびしい。もとのままに置いておくことはできなかったのか。そのうちに何かがおかれるのだろうか。
かつて県立美術館であった記憶の風景は、建築だけがあればそれでよいのだろうか。わたしの頭には建築と彫刻とが一体になった風景が記憶に刻まれている。
 
●完全消滅した新館

 新館がすっかり取り壊されて、メインアクセスルートの芝生の下に消えた。これは池との関係で悪くない景観ではあるが、新館が影も形もないのが気になる。
左に本館、右に新館があった旧県立近代美術館 2009年
本館と新館の間に池が入り込んでいた 2009年
 新館はいつのころからだったか、建築構造上の問題が起きたとて使用禁止になっていた。それを聞いてわたしが訪ねたのは2009年夏だったが、なるほどあちこちの鉄骨の柱の根元がボロボロに錆びていて、フランジに穴さえ開いていた。
 この鉄骨は耐候性鋼と言われ、錆が被覆となってメンテナンス不要が売り物の新材料だったはずである。わたしも1970年頃にこの鉄骨を使うオフィスビルに関わったが、それは今も健在であるから、ここの鋼材は不良品だったのか。
旧近代美術館時代の新館 右が本館 2009年
コルテン鋼柱の根元の穴空き腐食 2009年
 この増築は最初から予定されていて、開館は1966年だから晩年の坂倉順三(1901-1969)の設計になるそうだ。わたしはこの新館の吹き抜け展示空間を大好きだった。大きな絵を見ることができるし、大ガラス越しの外の池の景色もよかった。
できればこちらも復元してほしかったが、消えたのはどうしてだろうか。そういえば鎌倉文華館の開館記念展示には、本館のことは詳しかったが、新館については全く何もなかったのは、どういうわけだろうか。

 附属棟の跡地の三角屋根展示場も悪くないけれど、復元新館をそれに充てることできなかったのだろうか。せめて、芝生アプローチの中にあのボロボロ鉄骨柱数本を元の位置に建てると野外アートにもなるし、この美術館の変転史を伝えることができるとも思うのだが、記憶に残る建築であっただけに、惜しいことだ。

変わらなかった環境

 さて全体的に見て、これも建築保全としての一つの回答だろうが、建築復元にこだわり過ぎて、どこかつまらないのである。要するに創造的なところがどこにもないのである。
 もちろん元の設計が、小さな建築なのに大きな階段、広い中庭、気持ちよいピロティ、そして何よりも八幡宮境内の環境が素晴らしく、結果は実に良いのだ。森の泉のほとりの宝石箱である

 ただ、これはずっと前から気にくわなかったのだが、あの水と緑の立地環境のなかで、内外相互貫入する建築空間を、一連の連続する空間として体験ができないことである。
 建築に入る段階で入場料を支払う人為的なバリアーがあることで、連続すべき動線が切れてしまうのであるのが、実にもったいない。
 池を巡る道がピロティに連続するようにしてほしい。ピロティや中庭は外扱いにして入場料をとらない、あるいは参道からの敷地入り口で入場料をとればよいのに、と思う。

 創造的なところがあるとすれが、付属棟跡の新展示施設であろうか、あるいは逆説的だが新館の消滅による空間デザインが創造的と言えば言えるだろうが、建築空間としては復元にとらわれているところが、どうも、いじましいのである。
 昔のもとの姿に復元せよと言う、建築保存原理主義者の言い分にに負けたのだろうが、それを一歩踏み出すと新たな創造的空間が生まれるだろうに、惜しいことである。
 最初にコンペで坂倉を起用したように、再生設計コンペにすればよかったかもしれない。これはないものねだりだろうか。いや、坂倉を越えるのは無理か。

 建築的なことはともかくとして、ここでもっともすごいと思うのは、この立地環境がこれが建った1951年からほとんど変化していないということである。後述するが県立音楽堂の立地する横浜紅葉が丘が、都市開発圧力による結果として景観が大変化したことと比べると、こちら鎌倉のほとんど変化しないことに驚く。

 もちろん鎌倉にも開発圧力は高いのだが、都市計画としては八幡宮境内は市街化調整区域であるし、まわりも含めて古都法や景観法などで環境と景観の保全施策があるし、それよりもなにりも市民に環境保全思想が行き渡っていて、開発となるともめごとになるからだろう。
1956年の鶴岡八幡宮あたりの空中写真
2018年の鶴岡八幡宮あたりの鎌倉空中写真
1990年の近代美術館と鎌倉八幡宮周辺景観
 そういえば、1964年に起きたいわゆる「御谷(おやつ)騒動」といわれる鎌倉八幡宮裏山宅地開発反対運動のときに、この美術館を作った内山知事は、開発行政をつかさどる長の立場にありながら、政治家として開発反対に動いたことで開発は止り、1966年に古都法を生み歴史的環境保全へと歩むようになったのであった。
 
今回の美術館のリニューアルで、建築・環境・景観は1951年時点に復元したことになるのかもしれない。ただしハードウェアはそうだが、公立から離れて宗教法人活動の場となって、ソフトウェアとしては原点復元ではない。
 いや、そうではない、もともとが宗教法人の敷地内だから、宗教活動のできない異物だった公立施設の排除で、むしろこうなってこそが原点復元と言うべきだろう。なかなかに稀有な興味深い事例である。

(次の県立音楽堂の記事につづく