2019/08/31

1418【フェイクバカ狐乱夢8月まとめ】表現不自由、台風進路、五輪遺産、熱中コロリ、戦争の八月


8月4日【表現の不自由列島】
日本列島全部が不自由展覧会場になってしまったのか~、津田大介の思うツボだろうな。モダンアートはそれが呼び起こす社会の動きそのもののもアートなのだから。
すごい時代に生きあわせたもんだなあ、イヤだイヤだ、
 今日も暑いぞ、冷房しないで、熱中コロリ期待しようっと。


8月6日【台風進路と日韓問題】
こんな図を見ていつも思うけど、政治的には喧嘩しても、台風情報は日韓協力してるんだろうなあ、日本製台風導入拒否運動とか、進路ウソ情報伝え合うとか、、まさかね、 対馬海峡の南と北の皆様にお見舞い申し上げます。

8月8日【東京オリンピック負遺産かしら?】
オリンピックで選手村として使った共同住宅団地を、中古住宅として売り出すそうだ。
 場所は東京の晴海、晴海と言えば東京湾内の埋立人工島、地盤ズブズブ海抜1m津波モロ歓迎、あんな狭い島に4000戸もの超過密住宅団地、しかも選手たちが使った後の中古品。それなのに値段がなんと1億円、そして購入競争率71倍とのこと。
 売る方も売る方だが、買う方も買う方で、まったくもって、世の中には物好きな人がいるものだ。団地の名前がシャレているよなあ、「晴海部落」(harumi flag)って。
へ~、この団地の広さは13.4ヘクタール、そこに5,650戸のアパート造るんだってさ、とすると一戸当たり3人として約17000人が住むのかな、1ヘクタール当たり約1200人かよ~、ひょえ~、スラム街もビックリ過密じゃん、まわりの海にこぼれ落ちるかな、。
 こんな過密プラニングの共同住宅団地でも、しかも中古なのに、なんと一戸一億円で売る奴がいて買う奴がいる東京って、どうなってるんだろ???
 世界中からやってきた人たちに、日本の居住政策の貧困を宣伝する場になるんですね、すごいなあ、やることが、、。
住宅余りの時代にこの供給とは、これって、財政学の新説「現代貨幣理論(MMT:Modern Monetary Theory)」のように、住宅はいくらたくさん新築供給しても問題ないという新学説「現代住宅理論(MHT:Modern Housing Theory)が存在しているのかもしれませんね。


8月9日【熱中症コロリ志願】
今年も暑い暑いと言いながらも、わたしの部屋をいまだに冷房にしていない。超高齢社会問題解決の策として、ささやかながら寄与するために、数年前から夏になると熱中コロリゲームをやっている。だが、毎年ゲームに負け続けていると、身体の耐暑性能が次第に向上する一方で、自然の方も猛暑性能を次第に向上させているらしい。う~む、。

8月10日【東京地下鉄迷路駅にて】
平河町駅での改札を出ようとしたら、後ろから来たスマホ見つめる人から尋ねられた。
「エート、地上に出る5番口はどこでしょうかね」
「この改札の向こうのようですね」
「エ、外に出るのですが、この改札をまた入るのですか?」
わたしは手に持つ切符を見せつつ
「いやいや、ここを出るんですよ」
「エ、ということは、わたしはまだ改札の中にいるんですか」
かなりウロウロしてきたらしい。

8月12日【原発安全対策費5兆円】
フン、5兆円かかろうと、10兆円かかろうと、お上がやれと言うからやるんだよ、な~に、そのカネは電気代で徴収するから平気平気、いやなら電気を使わなきゃいいんだよ。


8月15日【縦断か横断か】
台風10号は西日本を縦断するのかい、これって横断してるように見えるけどなあ、縦断というからには、急に右カーブして列島上を進むんだね、怖いなあ。
 南北に横切ると、画面の縦方向だから、縦断と言うのかなあ?、う~む、中国地方を横切ったのに、これを縦断と言うかなあ、どう見ても横断でしょ、ならば道路の交差点には横断歩道と縦断歩道があるのかなあ。



8月18日【わたしのブログ来訪者たちって??】
この1週間分の「伊達の眼鏡」ブログ来訪者の国別人数は、ドイツ478、ポーランド428、アメリカ合衆国195、ウクライナ182、日本177、トルクメニスタン4、オランダ3、オーストラリア2、ブラジル1、、エ~ッ、どういうこと?、おれはこうも国際的に知られたのかあ、この週になり突然に?!、なのに日本人は見てくれないなあ、トホホ、まあ、どうでもいいけど。


8月11日~22日ブログ記事【戦争の八月】

2019/08/28

1417【戦争の八月(4)】昭和館で敗戦放送を聴き、旧軍人会館で定番復元保存開発に出会う

戦争の八月(3)】からつづく

九段坂下の昭和館へ

 千鳥ヶ淵から九段坂を下るころは脚がヨロヨロ、この辺りでどこか涼しいところに入りたいと、田安門から下を眺める。左に見える虚無僧の笠のようなのは昭和館だが、あそこなら涼しい休みどころもありそうだ。
 その右に見える瓦屋根のあるビルは九段会館(昔は軍人会館)、どうやら壊しているようだが、そうか建て直すのか。とにかくあそこまで行こう。
田安門あたりから九段坂下を眺める
  坂を下りきる直前に「昭和館」入口が目に付いたので、冷房のホールに入った。
 この建物は外から見ると窓がない巨大排気塔のような、バケツを伏せたような、虚無僧の編み笠のような、奇妙な形である。
 建築家菊竹清訓の設計で、記憶では計画段階ではこれをの字に腰折れした(靖国神社に向って礼拝している)姿だったが、景観的に変だとあちこちから総スカンの声が出て、それがこうなったのだった。でも特によくなったようにも見えない。鬼才菊竹にしては駄作だろう。


 入り口ホールは冷房で涼しいが座るところがない。上階の展示場に行こうと入場券を買おうとしていたら、案内人がやってきて今日は無料とて、喜んでエレベーターに乗る。
 ずっと昔に一度だけ来たことがあるが、内容の記憶はない。観客はたいして多くないが子供連れが結構いる。夏休みの宿題か。
 集めた戦中庶民の資料が狭い展示場にこまごまと並んでいるが、足が疲れているのでじっくり見る気分ではない。あとでじっくり見たい資料もあるが、撮影禁止なのでさっさと通り過ぎてしまう。

 戦中戦争直後の米搗き一升瓶とか防空頭巾とか学童疎開の記録など、こういうところの定番展示である。しかし、わたしはかつて実際に体験した当事者なので、あの耐乏貧乏腹ペコ生活なんて面白くもない。
 庶民生活が展示されているところが、遊就館と対極にあるのだが、戦争によるあの悲惨な生活の影が薄いのは、遊就館と同じだ。
 撮影禁止なので、パンフの一部を載せておく。このような資料なら積極的に撮影させて、SNSで宣伝すればよいと思うのだが、どういうわけか。



敗戦放送の日の記憶

 下の階の図書室なら座れるだろうと階段を下りていたら、踊り場に人だかりがある。壁の棚にあるラジオから1945年8月15日敗戦放送が聞える。あの独特の棒読みのお経のような節回しである。
 音声がきれいなので、「こんなんじゃなくて雑音だらけだったなあ」とつぶやいたら、前に立つ中年男が振り返って「リアルタイムで聴いたとはスゴイですね」と言う。はずかしくなって急いで階段を下りた。
 思えばあの内容で、あの口調で、あの雑音の放送を聴いて、どれほどの人たちが、敗戦放送と分ったのだろうか。庶民に理解させる気が全くない。ユーチューブで改めて聴くと、ほとんど言い訳ばかり、なぜ負けたか反省も謝罪もないトップ責任者の言葉。

 当時の憲法が定める戦争開始と終結の責任者たる天皇が、1945年8月15日の正午から、初めて肉声で放送する事件、これにわたしは遭遇した。場所は岡山県中西部の高梁盆地の、生家の神社社務所であった。
 その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から兵庫県芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて住んでいた。盆地内のほかの寺社などに児童51名が疎開して来ていた。

 当時ラジオのある家は限られていたが、その疎開学級が持っていた。社務所の玄関口に近所の人々が集まって、敗戦の詔勅を聴いていた。
 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、列になって黙々とぼとぼ参道の石段を下って行くのを、わたしは社務所縁側から見ていた。緑濃い社叢林の上はあくまで晴れわたり、暑い日であった。
 もちろん8歳のわたしには内容を分らない。その場の情景の記憶のみである。
 聞いていた人たちがこれを敗戦と分かったのは、たぶん、疎開学級の教員がそれを伝えたのであろう。

 その半月後に父が兵役解除で戻ってきた。父は満州事変、支那事変、太平洋戦争と3度も繰り返して通算延べ7年半も兵役に就いた。最後は本土決戦に備えるとて、小田原の海岸から上陸する敵を迎え撃つ陣地構築をしていたが、「父の十五年戦争」がようやく終わった。
 だが、わたしの家では戦後戦争とでもいうべき難が始まった。戦後農地改革で小作田畑を失い、食料源がなくなったのであった。支払われた補償金は数年間の分割払いで、戦後超インフレで紙切れ同様になった。
 昭和館の展示をわたしが見て思い出すのは、とにかく腹が減っていたことばかり、3人の子に食わせてやれないのが、父母の一番の悩みだったろう。

 図書室では、「戦史叢書」(朝雲新聞社)全巻が開架でそろっていたので、本土決戦編を取り出して父の3度目の徴兵時の記録をぱらぱらと読んだ。
 この書物は、わたしの父の死後に見つけた父の戦争メモをもとに「父の十五年戦争」なる記録を書いたのだが、その時に資料として読んだものだ。

 図書室には子どももけっこういて、母親が戦災の絵本を読みきかせしている声も聞える。とりあえずは冷房での休息になったが、閉所恐怖症のわたしはこの建築は窓無しと知っているので、長居すると気分が悪くなる。15分ほどでたちあがる。

 おにぎりがつぶれたような変形プランで使いにくそうだし、展示スペースは狭いし、敷地も狭い。これでは増築もできないから、資料を大量に収集してもどう収蔵展示するのか、博物館建築としては困るだろう。メタボリズムを標榜した建築家の設計にしては、いっこうにそのメタモルフォーゼできそうにない駄作である。
 靖国神社の近くで、元軍人会館の隣りという立地であり、しかも昭和という天皇制に依拠する館名称とて、これって何だかなあと考えさせる。

九段坂下の旧軍人会館は今

 外に出て隣の元軍人会館の九段会館を眺めると、今や建替え工事中である。そういえば311地震で死者を出して閉館していたのだった。
九段下交差点から九段会館を見る 2013年8月15日

同上 2019年8月15日
工事用仮囲いに完成予想図などが展示してある。みれば元の九段会館の姿を道路側の2面に修復保存して、裏に超高層建築を建てるらしい。
 これって下駄ばきとか腰巻きとかカサブタとか言われる定番保存開発手法である。東京駅前の元中央郵便局、今のKITTEがこれにいちばん近い手法だろう。

 この九段会館は1934年に「軍人会館」の名称で、在郷軍人会が建てて軍の予備役・後備役の訓練、宿泊に供した建築であるから、ここにも戦争の残影がある。靖国神社のある九段らしい立地である。
 建築デザインはコンペで決められた。そのコンペ要綱に「容姿ハ国粋ノ気品ヲ備ヘ荘厳雄大」なデザインを求めるとあった。それがこの近代洋風デザインに城郭風の瓦屋根を載せた姿になって出現してのであろう。

 このスタイルはその頃の公共建築の流行であったから、軍関係だからこの姿だったとは言えないにしても、日本風デザインを強調していることは確かだ。
 そういえば、靖国神社の遊就館、千鳥ヶ淵戦没者墓苑、日本武道館など、このあたりではどれも日本風勾配屋根である。
 いわば地域のデザインコードが働いているようだが、誰かがコーディネートしたのではなく、戦争の時代の表徴として和風と洋風の混合勾配屋根になったのだろうか。
靖国神社遊就館 伊東忠太 1932年
同新館 三菱地所設計 2002年 

千鳥ヶ淵戦没者霊園 谷口吉郎 1959年

 それらに交じって建つ最も新しい昭和館が、いかにも特異な姿に見える。地域のデザインコードを無視していると言えよう。
 それは菊竹が意図したアンチテーゼか、あるいは菊竹は一般に景観デザインには無頓着だったから、やりたいデザインをやったまでのことだろうか。
 冗談で言えば、せっかくだから新しい九段会館の高層部分は、隣の昭和館のデザインの系譜にすればよかったのになあ。
左手前 昭和館 菊竹清訓 1998
その向うとなり 九段会館 川本良一 1934年
右手前 日本武道館 山田守 1964年
軍人会館は戦後になって国有財産となり、遺族会に貸与して九段会館の名で営業してきた。わたしも何度か会議でここに来た記憶がある。
 地震被災して閉館後に、国は競売して東急不動産が取得、またもやホテルになるらしい。それでようやく戦争の影がなくなるのかと思ったら、建築の姿として軍人会館時代を継承すると言うから、まさに残影そのものが表象として継続することになる。
 九段坂の上と下を戦争の残影がしっかりと押さえている。

●九段下交差点ウヨク行列見物

 さてもう疲れたので地下鉄に乗って帰ろうかと思うと、九段下交差点は異常に騒がしい。あ、そうだ、毎年ウヨクさんたちが輪になって演説したり、道路を日の丸行進してやってくるだと思い出して、それらを見物してから帰ることにする。
 
 九段下交差点のこちらと向うに別々のグループが10数人集まっていて、それぞれ定番の日ノ丸や旭日旗を建てて、これまた定番らしい天皇ものの演説をしている。
 そこへ歩道ではなく車道を、一人一人が日ノ丸の旗を掲げた行列がやってきて、交差点に入ってきた。おお、いつものウヨクデモだな。
 「♪うみーゆーかばー♪」とスピーカーで流す小型バンを先頭に、数百人はいそうな参加者が、各人おなじ大きさの国旗を弔旗にして竿の上に掲げて、折から台風影響の強風になびかせながら、交差点を斜めに向うに進んでいく。

 その行列にはシュプレヒコールもプラカードもない。国旗が参加者の数だけなびいている。沿道群衆から時折「ありがとう」「ありがとう」と叫ぶ声が入る。
 参加者の個性は見えなくて、数百人が統一されている様子である。これはいわゆるデモ行進ではなくて、軍隊の分列行進をなぞっているらしい。その沈黙の旗行列は、交差点を過ぎて向うの街角に消えていった。
 参加者たちの顔を見ると老若男女ごくふつうの人たちの様子で、コワモテウヨクらしい風情は見えないのが不思議というか、かえってコワイ。

 後でネット検索したら、この行進の最初から最後までを主催者として撮った動画がユーチューブにあり、350人参加だそうである。リーダーらしき人の演説では、靖国に祀る戦死者たちを慰霊する趣旨の行進らしい。最後は靖国神社大鳥居の前に集り、「君が代」と「海行かば」を斉唱して解散した。
 なぜ「海行かば」なのだろうか。これは大伴家持が天皇へのひとえに帰依従属を誓う政治的な意味を持つ歌であって、戦死者鎮魂の歌ではない。1948年10月に神宮外苑の競技場で学徒兵たちの出陣式で「海行かば」が歌われたように、天皇の戦争に命を捧げに赴く若者を鼓舞するための歌である。

 暑いさなかにいながら、心が寒くなってしまい、そそくさと地下に潜ったのであった。

(完)

参照 「戦争の八月

2019/08/20

1416【戦争の八月(3)】アジア太平洋戦争で日本人戦没者より多い被侵略国の死者を想う千鳥ヶ淵戦没者霊園


千鳥ヶ淵戦没者墓苑へ

 靖国神社遊就館ホールで涼んで一休みしたので、拝殿の前あたりで参拝客の列にその年齢性別の多様な人の様子を見物して、南に境内を出た。
 これから千鳥ヶ淵戦没者墓苑を目指すのだ。薄曇りながら暑い街のなかを歩くと、台風の余波で若干の風が吹いているので助かる。学校や共同住宅や事務所などのビル街を抜けて、千鳥ヶ淵に出ると豊かな緑の陰と水の涼しさが嬉しい。

 そうだ、この水と緑の空間は江戸城の北の丸であり、皇居の外苑の一部、つまり実は天皇家の領分であったことに気がついた。これから訪れる墓苑はもともとは宮家の邸宅地であった宮内庁管轄地であったし、そこでの埋葬者たちも天皇の命令のもとに外地に出かけて戦って死んだ人たちが大部分を占める。あたり一帯に天皇制あるいは天皇教とでもいう空気がみなぎる。


 靖国神社が民営の慰霊施設とすれば、千鳥ヶ淵戦没者墓苑は国営である。だから宗教色はないはずだ。だが後でネット検索したら、この日に僧侶たちの団体が仏式の儀式をしているのがみつかったが、ほかの例えば神職たちのそれは見つからなかった。
 だからと言ってここが仏教による墓苑ではないだろうから、どの宗教も儀式をしてもよろしいのだろう。
 

 とは言いながら、ここには天皇制(天皇教)という日本独特の宗教性が色濃くあることを感じるのである。例えば、前屋をはいると左右に昭和天皇の大きな歌碑がふたつも待ち構えることがそれを表徴している。

 納骨の六角堂に各界からの献花がたくさんあるが、総理大臣や天皇からの花もある。どちらも靖国神社には行かないが、こちらには来るのか、あるいは靖国神社のように献花だけだろうかと思ってまとでネット検索したら、政府広報にアベサンが献花して拝礼する動画があった。

 献花者の名札を見てきて気がついた。どの名も敬称はつかないのは、死者への捧げ物だからあたりまえだろうに、例外が正面左右にある2つには「陛下」の敬称つきである。
  ということは、天皇の命令で死んだ者は、死後も天皇の隷下にあり、花を下げ渡されているということか。

 ところで天皇教の表徴である天皇の名札だけが2本もあり、しかもどちらも「天皇皇后両陛下」と表記されている。天皇と皇后とふたつではない。二人まとめては失礼のように思う。
 他は例えば、「内閣総理大臣安倍晋三」であり、「呉竹会長頭山興助」であり、「長崎県遺族代表団」である。「内閣総理大臣安倍ご夫妻様」ではないし、「長崎県遺族代表団殿」でもない。
 ここでは公的な職位や団体名を書くのならば、「徳仁天皇」だけであるべきだろう。せめて「徳仁天皇」「雅子皇后」の2本にすれば他とバランスするのだがと、眺めていて思ったのであった。


日本軍に押しかけられた国の死者は

 ここにはアジア・太平洋戦争で日本列島の外で死んだ人たちの内で、引き取り手のない37万人分の遺骨が埋葬されているとのこと。遺骨収集を今も継続していて、最近その遺骨が日本人ではないことが分ってきたとかのニュースもある。
 わたしは死ねば人は自然に還ってしまうと考えるから、わたし自身の父母たち墓にさえも疎遠であるように、霊を祭る神社も遺骨を保存する霊園にも何も感じない。もちろん他人がどう感じているのか、それは自由である。

 その遺骨の死者の数え方を「37万柱」と公式サイトに記しているが、「柱」とするのは神道によるの神の数え方である。国営墓苑でも、死者は神道による神になって祀られるのか。ここは宗教性を抱いている。
 大きな説明版が立っていて、アジア・太平洋戦争の15年で、日本人の軍人軍属一般人の戦没者は240万人と記されている。その戦争の区域の各国ごとの数が記されている。あんなに遠くまで出かけて、こんなにも多くの死者を出したのかと驚く。
説明版のアジア太平洋戦争区域戦没者地図(実に見づらい)
上の図を分りやすく書きなおした図(朝日新聞2019年8月16日)
地球儀に戦争のエリアを描くとそのあまりの広大さに兵站不能な戦争だったと、
 しかしその一方では、その日本人の死者たちがそこに戦争に押しかけたならば、その押しかけられた側の各地には人々が住んでいて戦争に遭遇し、やはり死んだはずである。そのことを忘れてはなるまい。
 他の戦争の資料では、例えばフィリピン人は110万人、中国人は1321万人、朝鮮人は20万人が死んだとされる。上の地図にその各国の戦没者数を書きこんでみた。
赤字は日本軍に押しかけられた側の国の死者数
押しかけた日本人よりも、押しかけられた側のほうがはるかに多くの死者を出している。それらは背中合わせの死者である。想像力をそこに働かせないと、死者の一部しか見ないことになる。
  そう、アメリカ軍に押しかけられた沖縄戦で多くの日本人が死んだように、各地の戦争でその地の人々が死んだのであった。わたしの父も日本軍の一員として2度の中国戦線にいった。父の世代はそんなにも多くの人々を殺しに出かけたのか
 そのことに暗然とすると共に、それを説明版のどこにも書いてないことにも暗然とする。戦争を相対化する表徴はどこにもないのか。それでは靖国神社と同じであるが、それでよいのだろうか。

天皇教の軸線設定

 靖国神社と違って、こちらの人出はまったくもって少なくて静かなものである。この違いはなんなんだろうかと、毎度思う。
 この施設の配置は納骨堂の六角堂に向かって、北北東から南南西への軸線を設定しており、したがって拝礼は南南西に向けて行うことになる。一般に神社なら本殿は南面し礼拝は北に向かい、仏教寺院なら本堂は東面し礼拝は西に向かうのが原則だから、ここではどういうことなのだろうか。南西の海の死者ばかりではないはずだ。
 ところで、靖国神社はほぼ東西軸配置であり、本殿は南面ではなく東面していて、礼拝は西に向かうのだから、これはまるで仏教寺院配置であるのは何故だろうか。

 そしてまた地図を見ていて気がついたのは、長屋門のような前屋を抜けて、その先にある納骨の場の六角堂に至る北北西から南南東に向かう軸線を、北北西に伸ばしていくと靖国神社の本殿に突き刺さるのである。ここで死者に礼拝したときの姿勢は、その背後の方向つまり尻を突き出す先に、もうひとつの死者を祀る神社本殿がある。
 更にまたその軸線を逆に南南東に伸ばすと、皇居の新宮殿に至るのだ。つまり死者を礼拝すれば、そのまま天皇を礼拝することになり、まるで天皇遥拝殿であるのだ。
 特に今は二つの献花の名札「天皇皇后両陛下」に向かって礼拝するから、これはあまりにも象徴的というか寓意的過ぎる天皇教の表徴である。
千鳥ヶ淵戦没者霊園の施設配置の礼拝軸線設定は、
後方は靖国神社本殿へ、先方は皇居新宮殿に至る
六角堂を礼拝するこの軸線上の向こうには皇居新宮殿があり、
背後には靖国神社本殿がある
 この寓意的軸線の設定は、敷地の制約からやむをえず出てきた配置には見えないから、意識的にそのように設定したのに違いない。
 それは造園家・内田剛によるデザインか、建築家・谷口吉郎によるものか。仏教系でも神道系でもない軸線、これは明確に天皇教の軸線設定である。

  こちらは靖国神社よりもずいぶん狭いと思う。ここは公園としての墓苑だから、もっとエリアを広げてほしい。今はまわりの高層ビルから覗き込まれている。
 敷地を広げることが今さらかなわないならば、千鳥ヶ淵の側を囲まないで、濠と一体的総合的にランドスープデザインをしてはどうか。千鳥ヶ淵に北の丸公園とつなぐ橋、あるは軸線の延長上に橋を架けてはどうか。
   谷口吉郎の建築は、このスケールならば、先生の得意とするところである。1959年建設だから、わたしが大学で教えていただいていた頃であったか。

あらたな戦争の予兆に出くわす

 疲れてきた、もう地下鉄九段下駅に向かって帰ろうと、千鳥ヶ淵に沿って歩いていると、なにやら喧騒な雰囲気に出くわした。
 路上に大勢のインド系の顔をした人たちが集まり、大声を上げ、旗を振っている。言葉も分らず、プラカードの文字も読めない。
 はて、今日はいつも東京で出会う外国人観光団体客に出会わなかったが、ここで出会うとは何だろうか。立派なモダン建築の前であり、みればどうやらインド大使館らしい。
パキスタンの国旗を振っている
それで思いついたのは、これは今や国際紛争になろうとしているインドのカシミール併合問題の余波だろう。インド大使館前でインド系の顔の人たちが抗議デモするとすれば、これはパキスタン人たちだろう。
 振っている旗に、星と新月が描いてあり、後で調べたらやはりパキスタンの国旗である。アジア太平洋戦争の残影のなかをよろよろと歩いてきたら、こんどはインド亜大陸の現実の紛争、もしかしてまたインド・パキスタン戦争再来か、新たな戦争の予兆に出くわすとは、まったくもって暑い地球である。

 もう足が疲れたから、九段坂を下って帰ろうと思う。(実はこの先で、更にまた戦争の表徴の数々に出会うのであるが、)

戦争の八月(4)】につづく

2019/08/19

1415【戦争の八月(2)】敗戦記念日は東京九段の靖国神社に戦争の残影を見物に


夏定例の九段徘徊へ

 今年(2019年)の8月15日も、毎年今日の定点観測地「東京九段あたり」を野次馬見物してきた。参拝ではなくて見物である。
 ちょうど西日本を台風が襲っていて、航空機、新幹線等の西からの交通機関が不通だし、関東の天候も不穏なせいか、例年と比べると人出はすくなかった。
 それでも九段坂の上下に毎年に出現する戦争お化けは登場してきて、今年も見物したのであった。神社祭礼には見世物はつきものである。
本日の徘徊ルート
(九段下ー靖国神社ー千鳥ヶ淵墓苑ー九段下昭和館ー元軍人会館)
12時半頃に地下鉄九段下駅に到着、地上出口あたりは出動服の警官たちが固めている。高曇りで台風余波の風が吹いているが、気温は高い。
 われながら物好き年寄りと思いつつ、参拝を終えて下ってくる人波を避けつつ、歩道に並ぶいろいろな香具師のごとき活動団体のポスターと呼び声の中を、九段坂をよろよろと登って行く。

 お祭りの神社参道に出てくる屋台店みたいなものだが、金魚すくいも綿飴も射的もなくて、どこか不穏な空気の諸活動プロパガンダである。
 台湾は中国ではないとか、ウィグル族や法輪功の弾圧やめろとか、なんだか東アジア反体制の宣伝隊が並ぶと思えば、新し教科書を作る会とてこれは日本体制側の宣伝か、いつものゲリラ喧騒である。

 九段坂上の昔の住宅公団本社、後の東京理科大学、今の日本工営のビルを過ぎて、靖国神社境内入口にたどり着く。
 いつものように天皇参拝を希求するとかなんとか演説などやっているゲリラがいる。5年くらい前までは境内の中もいろいろと右寄りゲリラ宣伝がいたものだが、今は境内からは排除されたらしい。
 このあたりに結界があるらしく、境内に入ろうとすると境内全体に薄暗い蚊帳が吊ってあるような感じがする。

九段坂上靖国神社境内へ

 去年と比べて境内に人が少ないのは、台風のせいで遠くからの参拝者たちが来られなかったからかもしれない。
 いつも境内をうろうろしている戦闘服に身を固めたウヨク的姿の男たちを、ことしはほとんど見なかったのは、ウヨクさんたちも台風で来られなかったのだろうか。
 そういえば茶店がなくなって石の広場になっている。このあたりにあった茶店とそのまわりには怪しげな軍服姿のオジサンやら旭日旗や日ノ丸がひらひらする風景があったのだが、きれいさっぱりなくなって白いテントの店が行儀よく並んで、保守派の著書を売っている。



 みまわせば境内の整備が進んでいるらしい。新たな建築も工事中だから、茶屋に変るものができるのかもしれない。
 今年はなんだかあの靖国神社独特の怪しい雰囲気を欠いてる感もあるのは、あながち台風のせいだけでもなさそうだ。神社側も排除してるのか。そういえばいつも周りの道路からやかましく叫び立てる右翼街宣車が、今年は一台もいない。
 それでも例年登場の軍服コスプレオジサンたちがいた。いつものように大灯篭の陰に固まって、ラジカセで軍歌を流しながら、平和に立ち話をしていた。カメラを向けるとポーズとって、アイドル気分らしい。

 家の戻ってからネット検索したら、この日に靖国神社にやって来たウヨク団体らしい姿をいくつか見つけることができた。健在である。



 第2鳥居をくぐって神門から内苑に入る。拝殿前で礼拝待ち行列がある。それが去年は内苑におさまらずに神門を抜けて第2鳥居当りまでも長かったが、今年の行列は拝殿と神門の中間ぐらいまでしかない。この暑さだから年寄りはあまり見えないが、若者が多いのは初詣気分だろうか。
 それでも神門を抜けて参集殿前から遊就館あたりまでの内苑広場はいつもの混雑であるが、今年はなんだか静かな感じである。騒がしいいつもの団体が台風で来られなかったか。

 国会議員たちが昇殿参拝のために車で寄りつく到着殿の前には、いつものように報道カメラが沢山待ち受け受けているが、なんだか手持無沙汰の様子でもあるのは、もう政治家たちの参拝はおわったのか、これからか。
 一昨年だったか、ちょうど国会議員たちの参拝の時に出くわして野次馬見物していたが、まわりの群衆から拍手と「よく来た」とか「よ~し」とか、男女の大声があがるのに戸惑ったものだ。

 ここに来るといつも感じるのだが、戦争と天皇制の賛美の空気がモヤモヤとたちこめている。あの戦争を賛美する空気が濃い。
 そのひとつに、東京裁判の弁護士だったインド人パール博士の顕彰碑がある。パールが日本戦犯の無罪を主張したことをもって、博士を称える碑と頌がある。
 だが、パールが無罪と言ったのは、戦争時にはまだ存在しなかった人道の罪を罰すると言う国際法による裁判を無効とする法理論上の言説であり、犯罪行為そのものがあったことを認めており、決して無実と言ったのでは無い。このギャップが、いかにもこの場らしい顕彰碑である。

 暑いので冷房で休もうとて、遊就館に入った。もちろん入場料を払って展示の見物はしないで、無料の1階ホールでゼロ戦やら兵器の見物して、戦争土産グッズ店を冷やかして、適当にへたり込む。
 天皇賛美、戦争や兵器の本、「新しい歴史」の本など保守系執筆者の書籍、軍歌CDなど、そして日ノ丸鉢巻、旭日旗などなど、ここは戦争フリークショップである。



 去年はここにいるときにちょうど正午になり、近くの武道館で行われている式典の中継音が流れてきて、一同起立、3分間黙祷の指示に出くわした。
 そんな他から強いられる儀式を大嫌いなわたしは、ひとり座り込んでいて居心地が悪かったので、今年はその時間をわざと外して、今は13時過ぎである。
 人ごみなのになんだか違和感があるような感じがしていたが、ふと思いついた。東京の人が集まるところには必ず団体観光アジア系の人たちがおおくいるのだが、ここにはさっぱり見かけないのだ。どうしてだろうか、避けているのかしら。
 さて、そろそろ腰をあげようか、

●参照:2018靖国神社  2017靖国神社  015靖国神社 
    2014靖国神社  2005年、2013年靖国神社