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2024/01/18

1782【ザハ・ハディド登場】芥川賞小説に没になった新国立競技場ザハ案登場とて懐かしや

 

 今期の芥川賞と直木賞の受賞作が決まったとのニュースの、芥川賞の紹介文を読んでビックリした。なんと、建築家ザハ・ハディド女史設計による新国立競技場が実現した世界という小説だそうだ。


 これって、2020年(実は2021年に延期)東京オリンピック主会場の新国立競技場のことである。2013年にUKの建築家ザハ・ハディドの応募案が国際コンペで一等になったのだが、なんだかんだとケチが付いて反対運動が起きたりした。時の安倍首相の白紙撤回命令により、没になった事件があった。それを下敷きにした小説とは面白い。

華々しく登場し没になったザハ案
 芥川賞の小説にこの幻のザハ案が登場したことに、ちょっと驚きつつ喜んでいる。もっとも、その小説を全く読んでいないから、ぬか喜びかもしれない。
 わたしはザハ案の実現をある考え(後述する)から期待していたので、没になった後でもザハ案をブログには再登場させる遊びをやっていた。思い出してブログを読み返して、そのあたりをここに載せることにした。もちろん芥川賞に対抗ではなくて、遊びとしてなかなか面白いからだ。
 そもそもザハ案騒動について書き始めたのは、2013年10月のことだった。ザハ案に建築家の槙文彦氏が反対ののろしを上げたのである。その時のブログは【五輪騒動】なぜ今頃になって建築家は新国立競技場の計画案に異議申し立てなのかというのであった。建築家の態度への批評であった。そしてこのころからパロディ遊びのザハ案登場をやっていた。
ザハ案を絵画館の位置に建てたら、、2013年10月

 そして2015年7月に、時の安倍晋三首相がちゃぶ台返し白紙撤回をして、ザハ案を白紙撤回の没にしたのだった。表向きはコンペ条件になっている工事費とは大幅に高額な見積り額となったことだったが、裏ではそのデザインが「生牡蠣ドロリ」と言い放った大ボスの森喜朗氏へのおもねり対応であったろう。

 ザハ案に代わる新案募集が決定的になったのは21015年末であった。2015年12月のわたしのブログにザハ案評価をこう書いている。

 庶民がお好みの銀杏並木から絵画館への風景全部が、日本帝国主義を象徴する作りこんだ西洋流の帝冠洋式なんだね。わたしはそれが嫌いでねえ、だからザハ・ハディド案の新国立競技場が、20世紀半ばまで日本を支配した国家主義の風景をぶち壊してくれるって期待してたんだよ。惜しかったよなあ。

 そして新案が立ちあがろうとしている頃の2019年5月のブログにこんな戯画文を書いた。ザハ案を私は戯画で、今回の芥川受賞小説が文章でそれぞれ再登場させたのだ。

隠居:ワハハ、実は昨夜の夢に死んだザハ・ハディド女史が出てきてね、「ウラメシヤ~、没にしたわたしの案を新国立ラグビー場に建ててほしいよ~、、、」と……で、これだよ。

熊五郎:ウワ、あのカオで幽霊になるとコワイ……、そう言えば最近になって秩父宮ラグビー場と神宮第二球場を入れ替える再開発をやるって、計画の環境アセスメント手続きが始まったそうで、ご隠居はまた野次馬やってるんですね。

:そうそう、つまりラグビー場を新国立競技場の隣りに引っ越しするってね、また格好の暇つぶしだからね、あの新国立競技場騒動からあれこれ思い出して考えてたもんだから、ザハ幽霊が夢に出てきた。

:そこで彼女の願い通りに描いてみたのか~、なんだかウマく納まってるような、第2新国立競技場ですね、まあ、あの騒ぎの中で急死だから成仏してないでしょうけど、これで供養になります。

:わたしは彼女のファんじゃないけど、コンペ当選案の肉感的な姿を見た時から、あの場所だからこそあの姿で建ってほしいと思っていたよ。

 2019年2月のこと、埼玉県立美術館で「インポシブル建築展」という、計画はあったが実現しなかった有名建築の写真図面模型の展覧会があった。ザハ案は、膨大な実施設計図面と模型で登場していた。わたしはブログにこんなことを書いた

 これはザハ・ハディド「新国立競技場案」への厳粛なるオマージュ展であるな、ってことだ。累々たるインポ建築のミイラの最後に登場したなのが、この一昨年に死んだばかりの生な死骸の「新国立競技場案」だった。これがあることで、この展覧会がインポを越えてポシブルへと橋が架かった。そこまで観てきた累々たる死骸が、ここで生き生きとした死骸になった。フィクションをリアルへとつないで見せたと言ってもよいだろう。
  あのもう見慣れた巨大な背割れ亀模型もすごいが、なんといっても圧巻は膨大な実施設計図書の展示である。折り込み縮刷A4版製本して何十冊ものあの量だから、実物の図面や書類ならば展示してある小間にいれたら、部屋に一杯で天井までも積みあがるくらいはあるのだろう。さすがに大規模建築にふさわしいすごい量だ。 それが実は既にできていたのに、土壇場でインポになったのだから驚くばかりだ。現実はインポでもフィクションでもないのだった。
 この最後の小間に至る前までの模型や図はすべて、まるきり建とうともせず建ちもしなかったものだが、これだけは実は建つ寸前クライマックスまで行って突然に脳溢血で(じゃなくて時の首相に寝首を掻かれて)腹上(下)死インポ化であった。その無念さが、あの膨大な何千枚もの実施設計図書の展示に込められている。
  わたしはこのザハ・ハディド案で建ってほしかったと考えていたことは、あの騒ぎが始まった頃にこのブログlに書いているが、それはその異教徒的な怪しさが、あの明治神宮外苑の持つ19世紀的帝国主義王権の男性原理的景観を、21世紀の今ぶち壊してくれることを期待したからだった。
 それがこうなった今では、どこかにこれを建ててインポからポシブル建築にしてやって、この建築インポ騒動のせいで死んだ(のかもしれない)ザハ・ハディドを供養しなければなるまい。隈・大成による実現新国立競技場の竣工の日に、ザハ・ハディドの白拍子姿の幽霊が登場して、釣鐘に見立てた新競技場に舞い込んだとたん、9.11のごとくに崩落する幻想を抱く。

  このころに書いた別のブログ記事には、築地市場後再開発に登場させたザハ案を、隣の浜離宮から眺める戯画をつくった。ザハの怨念景観である。

浜離宮から見る築地市場跡地にザハ案が、、2019年2月

 2019年12月28日ブログに、ザハ案評価のまとめをこんな戯作文にして書いて、これでもうおしまいにしたのであった。 

 わたしはザハ・ハディド案で建てばいいなあと期待していた、その建つ位置がなんと明治神宮外苑絵画館という外苑心臓部の隣なんだからすごい、その姿と言ったら、石造どっしり大胡坐の真ん中に
四角な包茎に●頭を覗かせた男性原理も露わな太く短いチン■コ建築だよ、その隣に曲面うねり流れパックリ割れて女性原理も露わなドロリ生ガキ建築だよ、見ようによっては絶好のコンビだけど、実は女が巨大すぎて男が呑まれそう、これでは保守派にとっては明治王権を汚す不埒不届不敬者だと言いたかろう、だってそもそも明治神宮ってのは、明治政府が新統治体制のために京の都から拉致してきた貴族トップ雲上人を、近代統治機構のカリスマ王権に改造育て上げたけれどのに、その死後の後継者が脳の病でカリスマ性皆無、困った政府は死せるカリスマを神に祀るべしとて全国総動員体制で造営したのだからね、その内苑は日本的に森の奥深く隠れる宮とし、外苑は西欧的に視覚に訴える権威的表現とし、合せて王権カリスマ賛美装置、外苑銀杏並木の透視景観の焦点に男性原理建築の明治大帝聖徳記念絵画館、並べて建てようとしたのが女性原理建築の新国立競技場、完成したら明治王権呪縛景観をザハ・ハディド流テロ爆弾で文明批評建築になり得ただろうに、惜しかったなあ、惜しかったと言えば騒動最中にザハ・ハディド急死、世界の建築界に新デザイン潮流を巻き起こしたバグダッド出身の天才建築家は、日本のドタバタ騒ぎで魔女殺しに遭ったのかも。 

 このザハ案の華々しい登場からメタメタの白紙撤回、この騒動最中にザハ・ハディド女史の急逝、そして今の真っ白ベーグル建築登場までの新国立競技場事件は、実は近ごろなんだかやかましい明治神宮外苑再開発計画の前半戦であったのだ。外苑の辺りはそのころから10年以上もやかましいのだ。

 わたしはこの事件が面白くて、せっせとブログに瓢論を書いていた。今は外苑再開発についても、ちょっとは楽しんでいる。さてこちらも白紙撤回になるのかしら?、あ、もしかして女史の亡霊が外苑あたりをさまよっているのかも、、。

 こうして没になったザハ案を登場させて面白がるブログを書いてきたが、まさか小説に書いている人がいるとは思わなかった。確かのその方が自由に想像を広げることができる。負けた。久しぶりに本を買いに行こうかな。

 実は本がたまりすぎて遺品処分に困るので、もう買わない宣言をして10年くらいになる。しかし書店にはしょっちゅう行って立ち見(読まない)するので、ごくたまにはつい買うのである。芥川賞になったから書店にザハの亡霊がいるかもしれない、楽しみだ。

(20240108記)

このブログのザハ騒動などの記事一覧

◆【五輪外苑騒動】国立競技場改築+神宮外苑再開発両騒動瓢論集https://datey.blogspot.com/p/866-httpdatey.html

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伊達美徳=まちもり散人
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2023/11/24

1748【東京再開発】巨大再開発「麻布台ヒルズ」で荷風さんが愛した谷底の路地群が消えた

 東京の街は意外に起伏が多い。水はけがよくて乾燥している丘の上には金持ちが住み、水はけが悪くてジメジメした谷底や傾斜地には貧乏人が住む、という様に昔から住み分けてきたようだ。

 永井荷風が戦災で焼け出されるまで住んでいた「偏奇館」となづける家は、麻布市兵衛町の丘の上だった。その目の下には我善坊谷と呼ばれる谷底に小さな家々が身を寄せあう路地の街があった。荷風は愛人をその路地の奥に「壺中庵」と名付ける家に住ませ、三年坂を上り下りして通った。これついては当ブログに以前に書いた(「永井荷風をだました女」)。

 現代になって地価が高くなって、海を埋め立てて土地を広げるとともに、急傾斜地でも谷底でも土木技術で伐ったり埋めたりして街を広げた。この谷や丘の切り崩しは、いわば陸の埋め立てである。
 その丘や谷の埋め立て街づくりの典型が、六本木あたりでデベロッパー森ビルが進めてきた再開発である。その森ビル式再開発は初めは点だったが、次第に広くなってきた。

 今日の新聞に、「麻布台ヒルズ」なる超高層ビルが開業したとある。そして東京版には見開き2面広告「AZABUDAI HILLS」が載っている。
 このあたりは永井荷風が住みうろうろと坂道を行き来したが、きれいさっぱりと荷風の風景は消え去って、彼が毛嫌いしそうな明るすぎる風景が出現した。荷風とヒルズの取り合わせが面白い。

麻布台ヒルズの新聞広告 20231124朝日新聞東京版

麻布台ヒルズ開業記事 20231124朝日新聞東京版

我善坊谷谷底街へ下る三年坂は荷風さんが通いつめた道だったか 2013年7月10日
 

 わたしはこれに何も関係ないが、あのあたりの街には興味あってよく歩き回ったものだ。森ビルが次々を街の姿を変えていく様子を、その最初の「アークヒルズ」再開発のころからしげしげと見ていた。一時は森ビル主催の「アーク都市塾」の講師として通っていた。

 今日の新聞ニュースの焦点は、高さ330mの日本一高い「森JPタワー」ビルである。それが大阪の「あべのハルカス」を追い抜いて、東京に日本一のビルが戻ってきたという俗受けする話である。
 もっとも、直ぐ近所の「東京タワー」を地盤の高さのゆえに追い抜いたこととか、その日本一もそう遠くないうちに大手町に移ることを書いてない。高さは庶民に最もわかりやすい開発風景だ。

 これは単独のビルが建ったのではなくて、広い範囲の再開発事業として、3本の超高層ビルや道路や広い緑の空間を作ったのが特徴である。これは現今の話題の神宮外苑再開発と同じ手法の市街地再開発事業である(ただし内容は月とスッポン)。
 1989年に再開発に乗り出して、区域の広さは8.1ヘクタール、地権者300人の規模という。たぶん、日本での民間施行の市街地再開発事業では最大の規模であろう。公共団体施行再開発では、東京のでは江東再開発、大阪では阿倍野再開発などの、これよりもはるかに大規模な例はある。

 2012年当時に港区が発表した(実は森ビル作だろう)が、あのあたりの開発計画図がある。この図の下の方にある「虎の門麻布台地区」と「麻布郵便局地区」とをあわせた区域が、今回の麻布台ビルズ再開発の区域であろう。
 この麻布郵便局が森JPタワーのJPの所以であり、そのタワーの位置には郵政省の局舎が建っていて、それなりに歴史的建築であったが、新ビルの腰巻にでもなったのだろうか。



2017年に森ビルが公表した再開発計画図

 北の仙石山と南の麻布台という二つの丘とそれに挟まれる我善坊谷と呼ばれる谷間の街を一体的に計画している。丘の上はそれなりの街であったので、特に面白くもない風景であったが、我善坊谷は実に面白い街であった。

 この街が再開発で消えるとしたら、今のうちに記録しておこうと思いつき、2013年に何回か尋ねて歩き回って写真を撮り、このブログに載せておいた。記録しておいて、後で再開発で出現する風景と比較して遊ぼうと思うだけで、保存しようなどとの考えは全くない。

 そして今日の新聞に登場した広告写真を見て、やっぱりなあと我善坊谷の風景を思い出すのである。そのとんでもなく異なる風景の出現に、ちょっとは訪ねてみたいが、いやいや見なくても十分に想像できるいつもの超高層風景とも思う。

 ただ少し興味があるのは、これまで交わることなかった丘の上と谷底が一続きになったが、どうやって建築で谷底街を埋め立てたのか、その落差の行方を見たいとは思う。そのうちにグーグルストリートに登場するだろう。

 とりあえずここに、2013年に訪ねた記録のページURLを並べて置き、ときには繰って眺め、江戸期の下級武士たちと戦中に居た文士たちを偲ぶことにしよう。

◆東京路地徘徊・我善坊谷をゆく

●2013/07/12・806【1】谷底に緑に覆われる家々がひっそりと立ち並ぶ東京秘境
https://datey.blogspot.com/2013/07/806.html

●2013/07/16・807【2】谷底の落合坂を行く・近いうちに消えゆく街並み記録
https://datey.blogspot.com/2013/07/807.html

●2013/07/19・809【3】谷底の落合坂を行く・崖の上下の極端な出会いの風景
 https://datey.blogspot.com/2013/07/809.html

●2013/07/21・810【4】谷底の落合坂を行く・南の路地とその上のレトロ建築
 https://datey.blogspot.com/2013/07/810.html

●2013/07/25・812【5】谷底と丘上の交わらない二つの街の歴史 https://datey.blogspot.com/2013/07/812.html

●2013/07/26・813【6】我善坊谷の住人たちー永井荷風を手玉に取った女
http://datey.blogspot.jp/2013/07/813.html

●2013/07/28・【7】我善坊谷の未来を勝手に想像する
https://datey.blogspot.com/p/2013azabudai.html


(20231124記)
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伊達美徳=まちもり散人
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2023/10/31

1725 【10月尽】あの超ダサかった渋谷が無国籍イベントのハロウィン騒ぎの場になる時代とは

 よそから人々に遊びに来てほしいとあれこれやっても、うまく行かない日本の各地がある一方で、こうやってよそから人々になにがなんでも来てほしくないと、条例を布き警察までも出てきて規制する街がある。

 どうして渋谷がハロウィンで騒ぐことになるのかわけが分からない。ただの駅前交差点とゴチャゴチャした商業の街だよ。まあ、あのゴチャゴチャが良いのだろう。

 ハロウィーンなんて今やまるっきり無国籍イベントなんだから、どこでやってよさそうなものだ。どこか寂しくて困っている村や町で、「バーローウィン」イベントなんてやってはいかがかな。
 それにしてもよく分からないのは、こうやってマスコミが来るな来るなと書き立てると、ますます人が集まるだろうになあ、来年からはマスコミ報道規制をするかもね。

 あ、そういえば最近のわたしの渋谷訪問は、2019年の暮のことだったから、もう5年も無沙汰であるのだ。そうか、この後に行っていないのはコロナパンデミックの故であるし、それに加えてわたしが年取ってヨレヨレになってきたこともある。コロナと年齢が協力して、わたしの渋谷だけではない外出活動の足を引っ張ったのである。

 その前はよく行ったものだった。コロナでもうパタリだ。今はどんな風景に変わったか、行ってみたいけど、いまやどうでもいいやとも思う。ある程度は知識として知っているのだが、どうせ超高層ビルだらけの、ありふれた都会になったのだろうなあ。見なくても分かっているような気がしている。
 
 わたしが初めて渋谷駅前に降り立ったのは、1957年のことだからもう66年も昔であったか。あのごちゃごちゃゴミゴミの街に、東急文化会館だけがいかにも都会的に建っていた。ほかに大きな建物は、東横デパートだけだった。

2008年 東急文化会館が断末魔のころの姿

 今、ハロウィンで話題の駅前交差点を渡った先の方は、ごちゃごちゃしてポッと出の田舎者が行ってはいけない感じの街だった。とくに今のハンズのあるあたりは、いわゆる連れ込み宿の街だった。そして新宿や池袋はもっともっと怪しげな街だった。
 その頃の渋谷は思い出すと、何となくダサいという言葉がぴったりだった。いつのころからか若者の街になったが。それは西武デパートが来てからだったろうか。
2011年 渋谷スクランブル交差点の面白くもない風景

2012年 東横線渋谷駅が健在だったころの姿

 そんな渋谷の変転を永らく興味を持って見てきたものだ。昔はブログなんてなかったから書いてないが、2012年からいくつか書いている。それでも読めば懐かしい。

●2018/10/09【渋谷アスレチックステーション】久しぶりに渋谷駅から外にでてみれば高齢者の足腰を鍛えるサービス充実を再確認https://datey.blogspot.com/2018/10/1165.html

●2016/11/18【東京・渋谷駅定点観測】日夜変わる渋谷駅で老人ウロウロ、立体迷路はら三途の川と黄泉の国へつながるかも  https://datey.blogspot.com/2016/11/1133.html

●2015/03/12 ただいま渋谷駅は巨大な立体迷路遊園地かつ健康ウォーキングランドでバリアフリーくそくらえ http://datey.blogspot.com/2015/03/1066.html

●2013/03/28玉久三角ビルから東横デパートへと渋谷の変わりゆく姿を追うhttps://datey.blogspot.com/2013/03/746.html

●2012/05/08渋谷駅20世紀開発は21世紀再開発時代 http://sites.google.com/site/dandysworldg/sibuya20120508

(20231031記)

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伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
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2023/06/26

1693【外苑再開発騒動】イチョウ並木に導かれる視線の向こうにあるもの

 ●外苑イチョウ並木は不自然だ

 ここに二つの並木道の写真がある。これら両側に並ぶ街路樹はどちらもイチョウである。同じ樹種なのに、こうも姿が異なる。

東京の神宮外苑イチョウ並木 先端が鋭く立ち上がる人工的円錐形
視線の先の記念館に向けて一つに集中する消失点の一点透視図法の配置設計

横浜の日本大通りイチョウ並木 こんもりと繁る自然な姿
これと比べると外苑イチョウ並木の人工性がよく分かる

 街路樹はもちろん植物だから、その生態的に定まっている姿で育つ。枝葉の張り方による外形が最もそれをよく表現するものであり、そのままならばそれぞれ本来の葉張りの形態に育つものである。
 ところが人間はえてして自分の好みの形の葉張りを要求する。そのためには枝葉を切りそこれを剪定して人間が望む姿にする。上のふたつの写真のイチョウの木の姿は、どちらが本来の姿でどちらが人間がつくった姿であろうか。もちろん上が人口の姿、下が自然(に近い)の姿である。

 わたしの生家は神社の森の中にあった。森の一部を切り開いた広場にイチョウの巨樹があった。大人3人が手をつないで抱えるほどの太さで、高さは30mもあったろうか、大きく広く枝葉が繁っていた。秋には金色の実と葉が境内地に舞い散り落ちていた。少年のころのある日、地面を打つ大音響とともに切り倒された(参照:大銀杏が死んだ日:伊達美徳)。
 そのイチョウの大木の姿を思い出せば、あまりの巨樹で剪定しようもなかったから、というよりも広い境内で剪定の必要がなかったろうが、枝葉は自由に左右に空に向かって広がっていた。上の写真の日本大通りのイチョウの姿に近く、外苑のそれではなかった。

 今、神宮外苑再開発事業に伴ってイチョウ並木が枯れるかもしれないと、「あの美しい緑の自然環境を傷つける再開発」のような言説が、世間(といっても東京あたりだけだが)でやかましい状況にある。
 あのイチョウ並木は自然環境であろうか。あの円錐形の姿で行儀よく並び、しかも絵画館に近いほど背が低くなるように先手して、パースペクティブを効かせた姿は、自然とは到底言えない。そうなるには4年ごとに人間が手を入れて枝葉を切り刻んであの形に仕立てる剪定を行うるからである(明治神宮のネット記事)。自然環境には直線は存在しない。

 ちょっと大げさに言えば、あの姿は不自然そのものの表現である。この街路樹群は最初から傷つけられて育つ運命にあるのだ。だからあのイチョウ並木が枯れてもよいのだと、わたしは言っているのではない。街路樹はもともと自然環境ではない。人工で作り出す疑似自然であり、むしろ文化の所産というべきものだ。つまり生態学的な自然とは峻別して、造園学的な人工自然として対応すべきというのだ。

 それに対して内苑の森は、当初の疑似自然から植生遷移を経て、本来の生態的な自然に限りなく近づいているので、外苑の緑とは当然に対応が異なるものである。(参照【神宮外苑あたり徘徊②】2015伊達美徳)

 余談になるが、自然な樹形として円錐形の並木にしたかったのならば、メタセコイヤ並木にすればよかったのである。横浜の大通公園にはその並木道がある。だが、折下吉延がこのデザインをしたころは、造園界にはメタセコイヤが未発見だったから仕方がない。

横浜大通公園のメタセコイヤ並木 自然な姿の円錐形

●外苑イチョウ並木景観を嫌い

 明治神宮外苑といえば、そのイチョウ並木が名所とされてまるで主役の様に言われることが多いようだ。だがそれは寺社で言えば参道であり、その到達目的が本堂や本殿であるように、ここでも明治天皇事績を描く絵画館が主役であり、参道はそこに至る経路に過ぎない。

 その両側並木の形態と配列に導かれる視線の先には絵画館の坊主頭、これはもっとも簡単な一点透視図法の設計であり、誰にも分かりやすい景観が登場して、人々に印象を深く与えるのであろう。この消失点に向かってわき目も振らずに人々を向かわせようとする基盤には、明治国家とその天皇制があることに留意しなければならない。

 わたしはこの一点に集中させる景観の仕掛けが、実は国家と天皇の権威付けのために作られた仕組みであることに嫌悪を持つのである。権威そのものの景観に嫌気がさしてくるのだ。正に国家の掌に乗せられている空間演出である。

 京都から拉致してきた天皇を中心に据えてカリスマ性を与えて王権国家の樹立に成功した明治政府は、明治天皇の死に次いで登場した後継者が全くカリスマ性を持ちえないことに愕然としたに違いない。
 そこであらためて王権の確認を国民にさせるために、王権から神権の樹立へと格上げをしようと明治神宮造営に政府は動き出した。そして内苑と外苑の神権景観が登場した。

 やがて明治神宮や伊勢神宮を頂点とする国家神道は、戦争駆動装置として日本列島の津々浦々まで、そして植民地にも働くことになる。頂点の明治神宮での著名な戦争駆動イベントに1943年の外苑競技場の学徒出陣壮行会があった。
 わたしは小さな町の神社で生まれ少年期までを過ごした体験からも、こういう手に載せられるのをどうにも好きになれない。だが、東京には王権景観を賛美する場所があちこちにあり、それを行政として維持する仕掛けもある(参照【東京は権威主義景観が好き】2014伊達美徳)。

  わたしは国家や戦争に結びついている外苑の景観を嫌いなことを、2013年からたびたびここに書いてきた(参照:【五輪騒動】神社の境内だから・・2013伊達美徳)。ちかごろ似たようなことを言う人をようやくネットで見つけた(参照:「戦前の勤労奉仕がSDGs」という問題発言を考える 2022古市憲寿)

 もうひとつ気になっていることは、「神宮外苑を国民の自主的な任意の献金と勤労奉仕でつくった」との賛美の言説である。国営の神社建設事業が本当にそうであったのか、調べてみたいと思っている。

(20230626記)

この件に関連する筆者のブログ記事一覧
国立競技場改築・オリンピック開催・外苑再開発騒動瓢論集


2023/04/30

1682【神宮外苑騒動】10年ぶりに神宮外苑あたりが騒がしいが再開発・都市・建築・植生の専門家はどうした?

外苑騒動戯像2013年作 ザハ競技場出現図

●10年ぶりに神宮外苑あたりが騒がしい

 東京の明治神宮外苑再開発について、世間が、と言うよりもネット空間が騒がしい。
 三井不動産を施行者とする市街地再開発事業に仕立てて、東京都知事による事業施行認可が今年の2月16日におりて、事業に着工したとのこと。

 その一方で、この市街地再開発事業に関する環境影響評価の審議が、都環境影響審議会で行われてきて、これはまだ審議が終わっていないようだ。施工認可が先になっても、アセスは事業が進むうちに審議も継続してもよいらしい。

 事業者が公表する事業内容の絵がネットに出たから、世間も興味を持つようになったらし。とくに外苑名所の公孫樹並木が再開発で切られるとか枯れるとか、だれもが分かりやすい問題があるとの情報がネット上にながれるようになった。

 そこに緑地に関する専門家の石川幹子さんが、イコモスの委員会の名で植生計画ついて問題提起と、独自開発計画案を提示した。
 それから「再開発で伐り倒される樹木が10000本」と数字があるだした。わかりやすい数字になると世間も話に乗りやすいのは、かつて国立競技場の建物の高さで、次いで工事費の高さで反対運動が高揚したことに似ている。今年になって次第に「樹を伐るな」テーマの運動がいくつか起きてきた。

 そして事業者が審議会に提出した「環境影響評価書」が公表されると、石川さんは植生学専門家として、評価書の植生調査に多くの問題を含むので、調査をやり直せ、アセス審議会をやりなおせと提案をしたのだった。

 調査方法がおかしい、間違い調査だ、記述間違いがあるなど多くの項目で環境影響審議会で説明させよと提案した。だが、東京都側はそれをうけることなく環境影響評価審議会開催、そして事業者側はそれに対して間違いも無いし、調査方法もこれでよし、と回答した。こうして今年も4カ月が過ぎた。

 その間、次第にばらばらの市民たちによる再開発反対運動が起きてきて、今の時代らしくネット活用による情報流通で、活動は次第に櫃のネット空間にまとまろうとして、熱を帯びてきている様子である。この面のリーダらしい人たちも登場している。
 わたしは知らないが、著名な音楽家やタレントが反対運動に加わっているようで、盛り上がりに関係しているのだろう。

 10年前の国立競技場騒動のころは、都市計画家が反対運動に登場することはなかったが、今回は珍しくも都市計画家の大方潤一郎さんがこれに加担なさっている。大方さんは10年前も専門家として事情をよくご存知のはすで、国立大学を退職なさったからだろうか。
 ところで競技場騒動では多くの建築家が登場したが、今回もいるのかしら。

 さて外苑再開発事業は、市街地再開発事業としての施行認可で法的にGOサインが出てしまったし、アセス審議会も事業進行中に適宜審査継続するとウヤムヤ通過しそうだ。どうなるおろうか。
 これから外苑再開発は本格的に動き出すようで、現場はもう板囲いに囲まれて、工事中雰囲気に満ち満ちているようだ。

●五輪外苑騒動史わが10年前妄想予測は当ったか

 このところ外苑前再開発について何やら騒がしい。あの有名人が反対してるからとか、あのいちょう並木が切られるとか、卑俗なレベルになって、急に世に知られるようになったらしい。と言っても世間的には東京あたりの人に限られるのであろう。

 そしてこれまでこの再開発計画は、10年前から立案が行政と事業者たちだけで密かに進められてきた、なんて、隠某論みたいなことを言う人も出てきた。
 それはそれで社会現象として面白いのだが、わたしに言わせると、実は不十分ながらも基10年前には基本的なことは公表されていたので、そこから今日の現象をある程度予想することもできたのだ。

 それなのに秘密裏に関係者だけでで進めたと世間が言うのは、要するに世間では都市計画なる公共的な空間計画制度にほとんど関心がなくて、知ろうとしなかっただけなのである。
 都市計画は身の回りの生活空間の将来像を示しているのだが世間は無関心であり、その都市計画が目に見える事業になってようやく気がついて、俺は知らなかったとか、秘密に進めたとかいうのである。

 10年前には外苑再開発の概略が分かっていた証拠として、2013年に書いたわたしのブログ記事がある。そのころにおきた外苑地区の地区計画という都市計画について、あれやこれやと指摘をしていたのだ。

 わたしはかつてフリーランスの都市計画家だったが、2013年には仕事の現役をしりぞいてしまい、ただの隠居老人だった。だから仕事を通じて特別に外苑地区計画を知っているのではなくて、ネット空間徘徊で素人でも知りうる情報により、批評やオチョクリや妄想やらを書いていたのだ。

 いまごろになり急にネット空間に外苑再開発がなんだかんだ登場するので、思い出して2013年のブログ記事を読み返してみた。
 おお、そうだったよなあ、今ごろ起きている問題をあの頃にもう予想もしているなあ、当たり外れもあるけど、われながら面白いなあ、フムフムと読んだのであった。

 これをお読みのあなたも、お暇なら長文だけどお読みくださいませ。

2013年12月【五輪騒動)神宮外苑都市計画談議1~10
http://datey.blogspot.com/2013/12/866.html

2013年~2023年【五輪外苑騒動】国立競技場改築騒動と神宮外苑再開発騒動瓢論集http://datey.blogspot.com/p/866-httpdatey.html

●神宮外苑再開発コンサルタントは答えよ

 いまイコモスの石川幹子さんから指摘されている環境アセスメントの問題だが、このアセスコンサルも日建設計だろうか。間違いだ虚偽だレベル低いなどと、石川さんにあれほど言われても表に出て答えないのは、答えられない事情があるのかしら?、専門家としてさぞや苦しいだろう、お気の毒になあ。

 神宮外苑再開発は誰がやっているのかしら、いわば雇われ事業者の三井不動産ばかりがやり玉に挙がっている感がある。
 しかし、本当の事業主は大地主の宗教法人「明治神宮」と独立行政法人「日本スポーツ振興センター」(JSC)であることは明白。三井不動産は再開発事業の権利者ではないようだから、都市再開発法が許す形式上の事業主である。それはそれでよい。

 だが、本当に事業主は土地所有トップの権利者は明治神宮である。第2の権利者はJSCである。第3、第4がいるが弱小権利である。ところが事実上の事業者の明治神宮と第2のそれのJSCがまったく表に出てこない。
 つまり、雇われマダム(マスター)の三井ばかりが表に出てくるから、反対運動者たちもこの目くらまし陽動作戦に誘導されて、三井ばかりをやり玉に挙げている。もちろん三井は忠実に役目を果たしているのだろう。

 ところで、世間の反対運動者たちは、どうして三井の雇い主である明治神宮やJSCを相手にしないのだろうか。直接に文句言うのは何か不都合があるのだろうか、あるいは作戦か。
 例えば最大権利者の宗教法人明治神宮にアピールするには、その本拠の神宮内苑にも行くべきだろう、初詣デモとか、、。
 あるいはJSCに文句言うのは、その親分の居る文科省にデモかけるとか、、。そもそも都市公園の計画決定を外したから可能になったこの事業の元凶は、文科省の子分のJSCなのだ。

 更にこの騒動の当事者として登場するべきなのは、それにこの市街地再開発事業にかかわるその専門家たちである。この再開発の計画から事業に至るには、都市計画家や建築家などの専門家が大きな役割をしているはずだが、どうして世間はやり玉にあげないないのだろうか?

 その専門家はどなたでしょうか?、少なくとも日建設計が関わっていることは確実ですよね、市街地再開発事業コンサルタント、都市計画家、ランドスケープアーキテクト、建築家など、全部の役割を請け負っているのかしら、ほかにも下請けの専門家も多くいるだろう。

 今話題のアセスについては、石川幹子さんから植生調査について論争を挑まれているのだから、その調査担当の植生専門家は堂々と名乗り出て、石川さんとの論争を受けて立ってはいかがすか、それが専門家というものでしょ。

 神宮再開発についての公的発表は下記にある。
●神宮外苑地区におけるまちづくりファクトシート(東京都都市整備局)https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/bosai/toshi_saisei/data/jinguu_factsheet03.pdf?230224=

神宮外苑地区のまちづくり(東京都都市整備局)https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/bosai/toshi_saisei/saisei07.htm

(20230430記)

2023/04/03

1680【来年の花は?】まったくもって世の中に絶えて桜の無かりせば、、な春だ

 遂に4月も3日になって本格的な春到来、今年の桜開花は去年よりも早いようで、3月半ば過ぎからこちらの心が落ち着かずに、花ばかり気にしているのは、今の自分の年齢のこともあるが、なんとなくコロナ明けという世間の様子もある。

 ほぼ毎日徘徊に出かけるが、今日も根岸森林公園の桜を見てきた。近くの森林公園には何度も行っていながら、春の梅の花はみても桜の花見は初めてだ。もう盛りを過ぎていたが満開の時はかなりすごい風景と想像することができる。来年の花見をするなら、ぜひとも盛りの時に来よう。

根岸森林公園の桜、狂気のごとく咲く花というのもしらけるものだ

根岸森林公園の花見

 今年3月末からこれで花見を目的とする徘徊(徘徊定義は無目的だから正確には徘徊ではないが)に、もう5回も出かけたことになる。
 花吹雪は波もいいものだから、まだまだ花見徘徊やれそうだ。大岡山キャンパスには2回も花見に行ったし、横浜の近くの大岡川も掃部山ももちろん、わが家から見下ろす花見もあるのだ。

大岡川の花見

自宅下に咲く花には小さな布の花も咲く


大岡山のキャンパス花見

 桜の花見に心が急くのは、何しろ花の期間が1週間もないから、花に追いかけられている感があるからだ。
 来年もあるから急がなくてもいいよと言われそうだが、それがわたしの歳になるとそうはいっていられない。八十路半ばとなると、来年も花を見られるかなあと本気で思うことが、まわりから起きてくる。訃報である。

 同年の親友のひとりが重病でこの1年を送っているが、彼からのメ―ルに「来年も見られるかな」と一言あって、ズキンと響いた。もう10数年前にも、ある親友が病床で同じことを言い、次の花を見ることはなかった。
 わたしがそういう時はいつだろうかと思う。何かもっと格好良い言い方を、今の内から考えておこう。

 コロナがやって来た次の年の2021年春に、願わくは花のもとに春死なんその如月の望月のコロナと狂歌を詠んだ。そして22年もそう詠み、今年も詠んだ。
 いつになれば最後の「ナ」を言わなくて済むようになるか。いや、その時が来たらもとにもどって、狂歌でなくなるから詠まないな。

 実のところはコロナ禍であろうとなかろうと、今やわたしはこの心境である。西行は73歳でこの歌の通りに春に死んだそうだ。しかしこの歌が載る歌集が世に出されたのは死の5年前だから、この歌を彼が詠んだのは少なくとも死の5年以上前だ。つまり68歳以前だから、わたしよりも15年以上も若い頃だから、偉いものだ。いや、昔はいまより若くて死んだものだから、実年齢は同年くらいなんだな、と思うことにしよう。

 老いると桜の花見の視線が変わる。母校の大学キャンパスの花見を同期仲間と毎年やっているが、その桜の樹がもうヨレヨレの老木なのである。樹幹は広がっているから花は大きく広く咲く。もう70歳くらいの超老木なのに偉いものだ。
 だが、花の下の幹を見ると黒々とひと一抱え以上もあり、ごつごつとして左右に凸凹とし、そこからいくつもの枝が、自由自在に上下左右に伸びる。地を這うように横に伸びる枝もあるし、半分皮がむけて筋肉が見える枝もある。
 そんな老木が花お咲かせているのは、どうも無理やりやっているような、それはそのままわれらが老いの無理矢理姿に思えてしまう。花見ならぬ幹見をして、気の毒になる。

大岡山キャンパスの桜 老幹にも一輪づつ咲かせる健気さ

 今年の花見の時は、コロナ明けともいえる時期に重なったから、なおさら感慨深い。本当にコロナが明けたとは到底思えないが、とりあえずは政府がマスクはいらないよと言ったから(本当に言ったかしら)、いつもは政府嫌いなのに、こんな時ははいはいと便乗していうことを聞いてしまい、マスクを外して人に会って喜んでいる。

 言い訳すれば、じつはそれには切ない心情が裏にあるのだ。そう、花に来年は会えないかもと思うように、人にも同じ様に思うのである。
 3月から急に親しい知人たちに会う機会が多くなった(多くした)。リタイアした仲間同士では特に用事があるでもないが、花と同じでいま会わないと次がないかもしれないから、今のうちに会おう会おうと言いあう。これでコロナがぶり返すかもしれない。そうなると本当に会えなくなる。

 一緒に花見酒を飲もうよと言いあっている人も多いだろう。だが、わたしはコロナで逼塞中に酒飲む気がなくなってしまった。コロナ前にはよく一緒に飲んでワイワイとやる人たちも、互いに敬遠しあうしかなかった。
 その時期がこれほども長くなり、わたしはひとりで飲むのもバカらしいままでいたら、酒の美味さも誰かと飲む楽しさも、どうやら忘れてしまったらしい。

 先日、久しぶりに大学時代の山岳部仲間7人で飲み会やった時に、わたしはビールをグラス一杯だけで後はお茶を飲んでいたが、それで十分に楽しかった。これは年寄りには懐にも健康にもよいこと思うと、われながら殊勝げで、かえって癪に障る。まあ飲まないでいいや。
 でも、なんだか他人とじっくり話す方法も忘れたような感もある。これは年寄りのボケが進んだということだろう。

(2023年4月2日記)


2023/03/26

1679【大岡山花見2023】毎年恒例人生最後の花見を今年も雨中ながらも決行

 毎年、大学同期仲間数人と、春になると母校の花見で一杯の集まりをやってきた。コロナ中も人数は激減したが、欠かさなかった。
 今年はコロナ忌が明けたらしいのだが、仲間に誘いメールしても反応がない。そうこうするうちに花は待ってくれず、咲き出したらしい。とにかく下見にでも行ってくるかと、自由が丘に用事を作って、そのついでという名目で出かけた。

 大岡山駅に1年ぶりに下車、地上に出ると、おお、なんということ、本格的にザアザアと雨が降っている。駅前広場に何やら露店が出ているのは、花見客を狙ってか駅前商店街イベントらしい、雨で気の毒。篠原建築の百年館はキャンパスランドマークとして健在。

 
   

 模様替え中の校門を入ろうとすると、大きなキャンパス案内板の展示、フムフムこれが最新のキャンパスか、全体の形は昔と変わらぬが建物は激変。
 でもこれが近いうちにまた激変するとか、なんでも田町にある付属高校を緑が丘にもってきて、田町の高校跡地にの校舎や貸室の超高層ビルを建てて、こちらから一部学部など移転するとかで、建築系もこ田町に移すらしい。そうだ、近日中に大学名も激変らしい。





















 校門あたりから見る雨で何となくうす暗い風景の間に、桜の花の華やぎがほの見える。手前左にあるクマ建築が邪魔、お前のせいで桜も本館もろくに見えないぞ。















 
 本館の正面に回ってバックして階段を上って全体を見る。左のクマの滝プラザは変な格好だなあ、屋根に木を植えるなら、白壁にツタをまとわせてはどうか。中央に本館前桜広場、右に図書館。今年の桜は花は去年よりも何となく密度があり、まとまっているような。去年の老桜の枝枝はもっと暴れていた記憶がある。






















 本館前の花の広場は、花でおおわれてしまっている。今年の老桜はなんだか頑張っているみたいだ。何か老いを止める治療でもやったのか。





















 たしかに去年まではもっと暴れた枝があちこちに跳ね上がっていた。どうやらそれなりに剪定されたらしい。そしてそれに応じてどこやら行儀よく咲き誇ったらしい。雨が降りしきるのに合わせて花びらも散り敷きつつある。
 カメラもリュックサックも肩もズボンも雨に濡れる。まあ、花の下の暗がりでしっぽり濡れるのも悪くないと思うが、一人なのが残念だ。それにしても老桜の幹の迫力というか、けなげというか、老残というか、わが身を見るがごとき。


 左に列植してある若木の桜がこの老桜にとって代わる頃を、わたしが見ることはもちろんない。わたしがこのキャンパスに初めて来た頃、今の老桜があの若木であった。





















 スロープ下に2軍ともいうべき桜並木が色とりどりに咲き誇っている。

 スロープ途中から、谷口吉郎建築と清家清建築に敬意を表しつつ、雨中花見をする。


 緑が丘方面へとトンネルをくぐり、呑み川の橋を渡りつつ、坂を登りつつ宇宙花見を続ける。実のところは、雨に負けてもうやめたい気分でもあったが、ここまで来たらいつものコースを行くぞと、意地になってきた。






















 緑が丘上から呑川にかかる木造橋の手すりに触れるばかりに、土手に狂気のごとく咲きそろい、絶え間なく雫を垂らす花々を見つめる。濡れた妖気が漂う。
 緑が丘の上から裏門に向かって下る道から振りかえってみる。昔々大学寮からこの坂道を歩き下って、緑が丘や自由が丘の街に出かけたものだ。今はこの一帯は建築系のエリアらしいが、遠くないうちに付属高校になるとか。そうしたら建築系は入れ替わって、田町に移るらしい。いつ頃のことだろうか。

  裏門を出て街から振り返る。裏門というには立派過ぎるほどに大きくなっている。

   緑が丘の「緑が丘百貨店」という市場は昔もあった気がする。健在である。





















 緑が丘駅は立派な高架駅である。この効果の下をくぐって向こうに行けば、そちらにも裏門ができている。





















 これで今日の雨中単独花見はおしまい、また晴れた日に仲間と語らって出直し、花吹雪を浴びようか、それとも葉桜見物でもやりたいものだ。(20230325記)

(20230329追記)
 物好きにも3月29日に今年2度目の大岡山花見をしてきた。この前が雨だったので、晴れた日に見ておこうと、同期同クラス仲間も誘ったら5人が集まった。その中には私と同様に2度目が一人いた。晴れたり曇ったりだったが、桜はやはり雨より晴れた空のもとで見る方が美しい。





























 ついでに2018年の参加者も見よう。故人となったものが一人いる。



2023/03/10

1676【東京大空襲】1945年日本は現代ウクライナと同じに無差別空爆におののく日々

 3月10日と言えば、1945年のこの日夜半からUSA空軍による大空襲で東京は大炎上した。10万人以上で実数はわからない死者の巨大人災は、現在もウクライナで続く。
 もちろんこの年はその後に横浜も小田原も大阪も、日本中の各地が空爆にあって炎上した。今、ウクライナではミサイルが降ってくるように、日本各地で空から降る焼夷弾におののきながら暮らしていた。人間は78年経っても変わらないのか、忘れたのか。

東京大空襲空撮(1945)Wikipedediaより 

 わたしは岡山県中西部の空にめったに飛行機も見ないような小さな盆地にいたので、幸いにも空襲を経験しないで済んだ。
 だが父は国内で軍務についていて、その軍隊が移動中にこの大空襲直後の東京を通った。そして移動先の小田原で湘南海岸に上陸してく連合軍に備えて、本土決戦の準備の塹壕掘りで郊外の山中にいて、8月15日未明の小田原市街の空襲炎上を遠望した。

 戦中のUSA軍の空襲と言えば、建築家アントニン・レイモンドを思い出す。彼は日本空爆のコンサルタント建築家だったのだ。
 帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの助手として来日し、そのまま日本で建築家として独立して、1937年まで日本で仕事をして多くの名建築を生んだ。

 そしてUSAに戻ってからは、第2次世界大戦におけるUSA軍の日本空襲につき、日本の都市と建築をよく知る建築家として、効果的な空爆を行うための実物大の市街地模型の建設を指導した。
 木造家屋群を効果的に破壊炎上させる実験により、空爆エリアの周辺部から焼夷弾を投下して燃やし尽す空爆システムが開発された。
 これについてはわたしは既にこちらに書いているので参照されたい。https://datey.blogspot.com/2016/02/1171.html

 そういう日なので、今日の横浜都心徘徊は、思いついてそのレイモンド設計の不二家という菓子屋レストランの建物を横浜都心の伊勢佐木町商店街で眺めてきた。1938年竣工だから、彼の離日直前ころの作品である。
 彼の作品だからというわけではあるまいが、1945年5月29日の横浜大空襲からも焼け残った。そして終戦直後に横浜都心部一帯が占領軍(進駐軍と言った)に接収された時、この不二家の建物も接収され、「横浜赤十字クラブ」と呼ばれる進駐軍専用の娯楽厚生施設になった。
 レイモンドはここでもUSA軍に貢献した。不二家が返還されたのは1952年であった。

横浜伊勢佐木町不二家(1938)と防火建築帯(1950年代)の建築群


不二家建築の裏側

 では同じころにレイモンドが設計した、USA軍空爆実験のための「Japanese Villedge」のデザインはどうか。
 もちろん木造密集市街地であるのだろうが、妻壁が防火壁らしく立ち上っている棟もある。「後方にドイツ村」と書いてあるから、それはドイツ空爆のため煉瓦造だろうか。
 こうやって見るとさすがレーモンド設計だなあと、皮肉を言いたくなる。
 なんだか立派に見えるが空爆実験用だから、建てては燃やし、建ては破壊したのであろうが、もったいない。

 そういえば横浜の山手には、レイモンド設計の木造のエリスマン邸が建っている。今は観光施設になっているが、これを見ても不二家を見ても、その設計者が日本に巨大な災難をもたらした建築家と思う人はいないだろう。

エリスマン邸(1926)

 余談だが、アントニン・レイモンドが指導した空爆模型を作ったJapanVillageのことをWikipediaで読んでいたら、そのころやはり日本の街を炎上させる空爆方法として、コウモリ爆弾の研究があったという。
 コウモリに時限作動装置付き焼夷弾を抱かせて投下して、習性として屋根裏に飛び入る頃に発火炎上させる。家屋炎上はするが人命災害は少なくて済む利点があるとされたが、開発が遅れて実用に至らなかったという。なんだか風船爆弾を連想した。(20230310記)