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2023/11/19

1743【都市の高齢化率比較】歳取ればどの街に住むのが得なのかとZOOMで考えた

●年寄りにはZOOM同期会が適している

 リアルに出会ってやる飲み会とか同期会とかは、この4年間コロナで止められていたが、コロナが終わった(らしい)からもう解禁である。
 ところが、コロナ期間中に同期仲間は後期高齢者から末期高齢者に突入してしまった。そこで起きたのが、高齢化による身体やら家族やら、でいろいろな不都合なことである。コロナが終わっても、リアル飲み会の復活は無理になってきたのだ。悔しい、コロナの奴に腹が立つが、どうにもしょうがない。

 そこで登場したのがコロナ中にビジネス世界で大流行のZOOMである。それを動けぬ老人たちの遊びに取り込んだのである。ヒマツブシばかりではないが、それに近いことをだらだらと、同年のヨイヨイ同期生たちとPCに向かって話すのである。

 その老人無駄話ZOOMを、これまで1年ほどあれこれやったが、これははっきり言って、老人のボケ対策にまことに有効であると分かった。老人のボケ防止と言うか、ボケ進行遅延策と言うか、あるいは社会復帰の機会になるかもそれない。

 同じ釜の飯を食った大学寮仲間10人前後で、毎月2回の定例ZOOMである。話題はその時の持ち回り担当者が適当に決める。みんなにアンケートで話題を組み立てることもある。
 つい先日のZOOM話題は、「先般、敬老の日があったが、自治会とか自治体とかが、何かお祝いのようなことをしてくれたか」というものであった。

 参加者がそれぞれ自分の場合を話したのだが、内容はわたしのような「全く何もない」を最低にして、最高は「外国旅行券(くじびきだが)」というのまで、各種各様で地域の貧富の差というか、コミュニティの緊密度と言うか、それぞれだった。
 饅頭を10個ももらって老夫婦で20個もどうするかと問題にもなったとか、羨ましい話もあった。それらの話は措いておく。

 ZOOM参加者はみな85歳前後の後期高齢者どころか、今や末期老齢者になりつつあるものばかりである。本州の東から西へ11都市の11人、太平洋を越えたCALIFORNIAから1人であった。男ばかりというのが当時の理工系大学の様相だ。

●年寄り日本列島

 わたしが個人的に気になったのは、それぞれの暮らす街には、高齢者はどれくらいいるものかということである。そこでそれぞれの住む自治体の人口統計をネット検索して、参加者の住む都市の高齢者比率を比べてみることにした。それがこの表である。


 東から西へ並べた。大都市から小都市までそろっていて、高齢率も様々で面白い。久しぶりにこんな表を作った。少し驚きつつ、ほう、日本の高齢化はこうなのかと眺めてみた。なお、こっれらどの都市にも仕事か遊びで訪れたことがある。

 昔々、日本全体の人口のうち65歳以上が7%になると高齢社会に入り、その倍の14%になると高齢化社会に入ると、勉強したものだった。そしてある時14%になって、おやおやと思った記憶があるが、今調べたらそれは1995年のことだった。そうか、直接関係ないが、その年は阪神淡路大震災があったなあ、その年に死んだ父親よりも長生きしてるなあ。

 なお、7%を越えたのは1970年だそうだが、そのときの記憶はない。若くてあまり老人のことに気が回らなかった証拠か。2倍になるのに四半世紀かかって、今や28.22%だから酷いもの、いや、すごいものだ。
 なお、21%を超えると超高齢社会と呼ばれるそうで、わたしもそれに立派に寄与している。まさにその時代にいるのだ。

 高齢者を分類して、65歳以上~75歳未満を「前期高齢者」といい、75歳以上85歳未満を「後期高齢者」と政策的に言うそうだ。では85歳以上を何と言うか。政策的には超後期高齢者と言うそうである。
 でもこれはあまり聞かないなあ、わたしは語感から言って末期高齢者」と言えばよいように思う。末期とはマッキと読むが、マツゴとも読めるから適していると思う。

●年寄り比率の意外な都市

 こうして11都市を比較して見て意外に面白方。
 浦安市は高度成長時代に東京湾を広大に埋め立てて市域を5倍ほどにも広げ、隣接する東京都区内からあふれる人口を計画的に受け止めた。若い人たちやってきたから、いまも高齢者比率が低い。日本一の若い都市である。
 なお、わたしは1970年ころから10数年、浦安市の埋め立て地に何にもない頃から、都市計画の仕事として土地利用計画を作り、ディズニーランド周辺構想にも関わった。懐かしい街であり、それほどにも若い街であるのだ。

 関東の南近郊都市の横須賀市が、意外に高齢都市であるに驚いた。ここも80年代初から90年代末ころまで、仕事で都市計画にかかわった懐かしい都市である。
 この横須賀市に高齢状況が似ているのが、阪神の近郊都市の宝塚市であるのも意外だ。どちらもイメージが良い巨大都市近郊都市なので老後に住みに来る人が多いのだろうか。

 三鷹市宝塚市は地政学的に似た立地と思うのだが、宝塚市の方が高齢化率では大きくリードするのはなぜだろうか。
 同じ東海道筋の都市でも、三島市豊橋市の違いはなにだろうか。豊橋の方が若いのは工業化かによる違いか。
 韮崎市三次市は、いずれも地方小都市であり、予想通りにずれも日本の典型的な高齢化と人口減少中である。どちらも山間部の盆地都市であることが似ている。

 私が住む横浜市中区は、大都市としては古い都心部だから高齢化率が高いと思っていたが、意外にそうでもないのである。都心部だけに人の出入りが多いのだろうか。
 これらいろいろ私が意外に思うことは、人口学者には常識的なことかもしれないが、ちょっと興味をそそられている。

 年取るとどこの町に住むのが得だろうかと昔から考えていて、高齢者仲間に入ると同時に今のところに移り住んで20年になった。個人的には生活圏としては移転成功したと思う。
 しかし、あまりにも課題が多く積み残し過ぎているのが今に日本の居住政策だ。いや日本には住宅政策はあったが、居住政策はなかったし、いまもないと思うのだ。

(20231119記)

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伊達美徳=まちもり散人
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2023/11/13

1738【外来白物家電】終活の最中なのに老朽洗濯機を買い替えたらチャイナ製がやってきた

 とうとう新しい洗濯機がやってきた。それがなんとチャイナ製品である。
 ひと月前にこんなブログ【ハイテクも歳には負ける】を書いた。13年前に買った洗濯機が壊れた話である。

 自動注水機能が故障したので、人力注水などしてだましだまし使いながら思案していた。これを買い替えてもまた13年先まで使うことは、確実にない。いや、新品買った途端に不要になる恐れもある。終活中なのに新品買ってどうする、などなど。

 かといって今更に盥で手もみ洗濯もできないしなあ、いや、できなくもないかな、もう年取って運動量が少ないから汚れ物は少ないからなあ、いやいや、これから介護段階になるともっと多くの汚れもの出るかなあ、なんて、どうでもよいことを悩み楽しむのである。

 ネットや近所の電器屋で、なにか安いいいやつはないものかと、探す楽しみもやっていた。意外にも近所にたくさんの古物屋、いまではリサイクルショップと言うらしいが、そこで中古洗濯機を売っているのも見つけた。ほう、こんなところにもあるのか、いつも前を通るのに気がつかなかったのは、用がなかったからだ。

 そうして1カ月、結局は近所の大型電器店で一番安いヤツを買ったのが、ハイアールなるチャイナメーカー製品だった。これまでいわゆる白物家電でうちに入ってきたものは、すべて日本メーカー製品だった。初めてのチャイナ製品である。小物の電気製品はチャイナ製がちょこちょこあるが、、。

 昔々1950年代から70年代だろうか、日本製品は安かろう悪かろうの国際的な評判であった。金のあるうちではアメリカ家電を買ったものだ。そのうちに日本製品の質が上がってきたら、次はコリア製品が安く入ってきた。これが次の安かろう悪かろうの評判であり、それにチャイナ製品が追随したものだった。

 しかし今では、コリアもチャイナも技術向上で品質が良くなってきた。なにしろその大陸や半島のメーカーたちは、U.S.A.や日本のメーカーを買収して製品を作るようになったからだ。ハイアールはいつだったか日本の三洋電機の白物家電を買収したから、うちに来た洗濯機は実はサンヨーの洗濯機なのだろうか。
 こうして安かろう悪かろうの波は、日本から半島へ大陸へと西へ移っていったが、今はもっと西の方に行ったのだろうか。例えばインドとか。

 やってきた洗濯機だが、白物であるがどうも白物過ぎるのだ。表示がすっきりと統一されていて、ひところのモダンデザインなのだ。年寄りにはどの表示も同じに見える。どれが何か迷う。

ハイアール製洗濯機

 どこから押せば洗濯が始まるのかもよく分からない。そこで、とりあえずスイッチにフェルトペンで丸を書いて番号を付けておいた。モダンデザインだいなしである。
 まあ、洗濯機なんてどのメーカーも同じようなものだろう。適当にやっていればそのうちに分かるだろう。でもなあ、こちらのボケる方が先にくる恐れもあるよなあ。

(20231113記)

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2023/06/27

1695【超高齢人生仕舞どたばた】金融機関の口座を解約するのも人生仕舞の面倒事でボケ遅延になる

 超高齢者になって先が短いので、その前にいろいろやることがある。いつかやるときが来ると思っていたが、本当にやってきた。そのドタバタがボケ防止にもなる。
 ネットのこととカネのことが面倒そうだ。とりあえずカネのことで、金融機関との取引を絞り込む、つまり預金通帳の整理である。

 最初に勤務した小さな設計事務所から、曲りなりにも給与が入るようになって(遅延もあった)、初めて口座を持った。それからいろいろとあるたびに預金口座をつくることがあり、なんだかんだと20件くらいの金融機と関係したような気がする。

 今に手元にあるカードと通帳を見ると、Y、M、J.Sの4件だが、ほかのそれをどう始末したか解約の記憶がない。多分それぞれに僅かに預金が残っていただろうが、今はそれらの金融機関あるいは国庫に帰属したのだろう。
 その手元に残る4件のうちでも、預金があって使っているのはYの一件だけ、理由は一番近所だからである。
 実はY以外の口座については、もう3年以上も利用していない。整理してYだけにしようと他の解約手続きに取りかかった。そのドタバタと書いておく。

 まずJを解約に行った。通帳とカードと身分証明書を持って行けば済むと持ったら、印鑑を持ってこいと言われて、第1回は敗退した。
 ながらく使わないからどこに置いたか忘れた印鑑をようやく探しだして、次の日に持って行ったら、待つことなく20分ほどで解約手続きは終了した。意外に早いと思い、その足でMに向かった。

 メガバンクは面倒なようで、信金のJのようには簡単に取り掛かってくれない。あれこれロビーの係員と長々と話し込むこむことになった。よく分からないが、手帳は一つなのに口座が普通預金と貯蓄預金と二つあるらしい。どう違うのか説明を受けて知ったような気がしたが実はよく分からない。もうどうでもよい。とにかく二つの解約手続きが要るらしい。

 そしてここまで来るのにもう30分もかかっている。超久しぶりの銀行のわたしが好奇心もあり、応対に気になることもあり、いかにも年寄りらしいいちゃもん付けたりしたからである。例えば言葉遣い(人間と機械のどちらも)とか。

 そして手続きにはさらに1時間半かかるというのである。いい加減にせい、と腹が立ってきた。
 「先ほどJで解約手続きしたけど20分ほどでできたぞ」「こちらは信金より大きくて大勢に利用者がおられますので、、」「う~む、今日は用事があるから出直してくるよ、ところで解約しないならこのまま使えるのですね、それなら待たなくても済むからそうしますよ」「いえ、それができないのです」「え、なぜ?」
 何年か利用しないと口座をストップするとて、わたしのそれは今は使えないのだと言う。見れば680円の預金があるのに、、。

 ヤレヤレ、もうどうでもいいやとは思えども、このままでは癪なのでどうしようと考えていると、次に来るなら予約すれば早くできると教えてくれた。
 それならそうしよう、今日はここまで進んだのだから、次は残り時間で済むんだなと納得して、次の週に予約をして帰宅した。

 さて次の週の約束に時間に再びMを訪問、今回はすぐにできると思った期待はすぐに外れて、予約で早くなるのは受付だけで、手続きが早くなるのではないという。
 「そりゃ約束が違うでしょ」「いえ、そう申し上げました、こちらの控え手様にもそう書いております」「そりゃ書き間違いでしょ」「いえ、、、」
 大人のはしたない論争は時間の無駄なのですぐに切り上げ、さっそく仕事にかかる。普通預金はそのままで復活するが、貯蓄予期口座の解約手続きが必要とて、また1時間半待ってくれ、その辺に出て外で時間つぶししてくれもよいという。

 「おいおい、ここで待ってても面白いこともないし、家には病人がいるからいったん帰宅して出直して来るよ、何時にくれば良いのか」「1時間半くらい後で、午後3時までにおいでください」「ハイ、もしも明日になってもよいですね」「いえ、明日になるとまたやり直しになります」「エ~ッ、今日なら代理に息子でもよいか」「ハイよろしいです」

 結局15時少し前にまたMを訪問、これで先週から3回目であるが、ようやく手続きは終わった。係の人に手伝ってもらってネットバンキングができるように設定した。遠くになったが、これからはパソコンでやることにするのだ。初めは解約するつもりが結局はこうなったのである。3回も通って面倒だったが、ボケ進行遅延策になったことは確かである。

 Mの店で待つ間に見回していていたら、壁や柱や天井に見えるだけで13個ものカメラのレンズがこちらを監視している。こうやって見回しているわたしを不審な奴だと記録したに違いない。それにしても殺風景極まるインテリアである。

 さて、もう一つのSの口座解約はいまだにできていない。Y駅前にあったと記憶しているSの店を訪ねたら、なんとまあ郵便局に変身していた。
 経営に問題あると噂のS銀行は、日本郵政に吸収されたのか、それならニュースになるはずだが知らない。どこかに移転したのだろうと、駅前を徘徊して探したが見つけられない。あとから思いついてネット検索したら、最近できた駅ビルの17階に移ったとて、これでは街に見つからないはず、出直していこう。

(20230627記)

2023/06/14

1691【父の遺品】この古そうな懐中時計はいつごろのどこの製品だろうか

 別の探し物をしていて机上の引き出しケース内から、汚れた懐中時計が出てきた。わたしの父(1910-1995)の遺品だが、忘れていた。幼児のころに弄んだような記憶がかすかに湧き出た、いや、母方の実家で玩具としてもらったような、、いまや怪しい。


 文字盤の針は動いていない。長針が無い。裏蓋を開けると透明ガラスの中に、歯車などの精密機械が美しい。竜頭を巻くと二つの歯車がかみ合ってチチチと回る。
 そうしたら動かないはずが、チチチチッチとささやきつつ秒針が回っている。このままずっと続くのだろうか、、アッ止まった、、ちょっと振り回したらまた動きだした、、。


 裏蓋の内側には、中ほどに馬が後脚をはね上げている図が線彫してある。文字は上方に「0.800」(ネットによると銀製品の銀純度8割の意味とある)、下方に「461030」とあるが、ブランド名らしき文字はどこにもない。馬の前足の下に横に細長い長方形があるが中にないもないのは、もしかしてここに何か貼り付けてあったか。


 父の遺品の一つに、蛇腹カメラ(その画像はこれ)があったが、これについてこのブログに書いたら、それを読んだある方からそのブランド名や製作時期などを教えていただいたことがあった。(そのブログはこれ)。
 そのカメラは治しようもなく壊れていたが、この時計は治せば動きそうな気配があるから、今回もどなたか教えてくださる幸運に出会いたい。なお、古物懐中時計をネット検索で探したがあまりに多くて、これと同じものにたどりつく前に疲れてやめてしまった。

(20230614記)

伊達美徳=まちもり散人dateyg@gmail.com
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2018/10/25

1167【生涯メールアドレス】理工系大学同窓会のメールシステムがスパム屋に潰された

 大学同窓会が運営するメールシステムがある。ここに登録して得るメールアドレスを「生涯メール」と言う。
 それは、色々なプロバイダーによるメールアドレスを使うとしても、生涯メールからそれに転送する設定にしておけば、表向きは生涯を通じて同じメールアドレスで通じるからだ。知人たちにメールアドレス変更通知の必要がない。
 わたしもそこに登録して、ニフティやグーグルなどのプロバイダーを移るごとにそうしてきて、それなりに便利であった。よく分らないが、これはプロバイダーではないという。

 ところが、その生涯メールのシステムが、どういうわけか、スパムメールダダ漏れシステムになってしまって、毎日数十通ものスパムメールがくぐり抜けてやって来る。
 実はこの十年ばかりはなんだかオカシイと気がついて、Gメールを主として使って生涯メール発信をしないようにしているのだが、スパムメールは例外なく生涯メールアドレス宛に来ているのである。
 はじめはもちろんスパム遮断をいちいちやっていたが、やりきれなくなってしまったのだ。

 挙句の果てに最近来たスパムは、お前のメールを乗っ取ったぞ、お前が見るエロサイトも知っているぞ、エロサイト見て興奮している姿をPCカメラで撮ったぞ、もし削除してほしいなら、$573をビットコインで振り込め、、、、。

 なんだよこれはバカヤロ、と思ったけど、もういいや、スパムが来ないようにしよう、もう生涯メールをやめようと、その手続きをした。
 トタンに見事に、スパムメールが一通も来なくなった。う~ん、これまで毎日スパムメールを消す作業を、それなりにヒマツブシに楽しんでいたのに!!!。

 スパムメールって読まなくても、そのタイトルから内容を知ることができるから、長い間の経験から世相による変化があって面白かった。
 エロ勧誘、ヤミ金融、TVニセカードなどがいつもあるが、世相により王座が入れ替わる。ほかにちょこちょこなにか大安売りとかが登場する。

 いっとき、いろいろなロシア女性名(Katya、Julia、Natasha、Polina、Anastasia、Irina、Helen、Yulia、Victoria、Valeria、Ksusha、Kseniya、Ekaterina、Alexandra)でつぎつぎと英語によるエロへのお誘いが頻繁に毎日来ていたが、あるときパッタリと来なくなった。あれは何だったのか。
それにしても、どうも同じ題名の同じ内容らしいスパムメールが、次々と発信者名を変えてやってくるのは、まさか手じゃなくて機械がやるのだろうが、無駄にご苦労なことである。下手な鉄砲でも数を撃てば、誰かが引っ掛かるってものなんだろうか。

 それにしても大学同窓会の、ちょっと気の利いた先端的サービスが、アホメールに潰されたのが、まことに残念なことである。
 そう思う一方では、現代の最先端の情報工学だってやってるはずの理工系大学の同窓会が、こういうことには負けちまうのは、いったいどうしたのだろうか。

 生涯メールアドレスを廃止してgメールだけにしたよと、知人たちに通知しなければなるまいが、めんどくさいから、もういいや。
 これをお読みの方で、もしかして該当者がいらしたら、そう言うわけですから、ドメインがkuramaeとなっているメールアドレスを削除してくださいませ。
 ま、これも終活の一種だな。


2017/12/20

1309【終活余談】あきひとさんの終活でちょうどよい機会だから日ごろ面倒な「元号」をもうやめてちょうだいな

 「終活談義」なるお題を、「現代まちづくり塾」の塾報編集委員からいただいたので、わたしだって終活年齢だが、それを書くにはまだ早い!?、ここではある有名なお方の「終活問題」を書こう。
 そのお方とは、あきひとさん(この人には姓が無いのでこう呼ぶしかない)である。なんでも、歳とって疲れたのでもう辞めるって、つまり終活に入るとTVで宣言したとのこと。

 どうぞどうぞ、ご勝手に終活をおやんなさいよと、庶民のわたしは思うのだが、どうも、その終活のトバッチリが庶民にも及ぶらしいのだ。ほんとに困るのである。
 それは改元とて新「元号」の登場である。まったくもって元号は高齢社会の邪魔ものである。だって、ほら、元号と西暦と換算するでしょ、明治には1867、大正には1911、昭和には1925、平成には1988を、それぞれ加えると西暦になるんだけど、歳とるとその暗算が無理なんだよなあ。それらにまたひとつ計算が加わるともうどうしていいもんか。いちいち計算機を叩くってのもなあ。
 あ、これってもしかして、おカミの国民ボケ防止対策かもしれないなあ、う~む。

2016/01/12

1163【終活ゴッコ】去年から所持品を処分する作業に凝っていて次第に面白くなってきたが最後にわが身の処分をどうするかなあ

 昨年は蔵書をあちこちに押し付けて、約1000冊くらいは処分した。まだ1000冊はありそうだ。ことしの仕事である。蔵書の処分は、これまで何度もやってきて、ようやくここまで到達した。

 父の遺品類は、大物の岡山の空き家を売却処分、小物のあれこれは息子に一部を押し付け、カメラ類は廃棄したが、写真アルバム13冊に悩んだ。
 大正期の尋常小学校時代から各学校卒業写真、日中戦争の現場写真、父の父から父の孫まで顔写真、たぶん1000枚以上あるだろう。弟も息子も要らないという。
 いくつかはデジタル化したが、きれいさっぱり捨てた。
父の遺品の写真アルバム類
父の遺品カメラと、わたしの“遺品”カメラ類

わたしの収集したセットテープも捨てた。能楽堂でひそかに録音した能演奏、野村四郎師指導のわたしの謡の稽古の録音、仕事がらみの録音、外国旅行の街で拾った音など、数百本あったのを、エイヤッと燃えるゴミに出した。
 山口文象研究関係のテープ5本(山口文象、前川國男、猪熊弦一郎が語る声)は、RIAの山口文象資料として引き取ってもらった。

 さて次は何を捨てようかなあ、本がまだあるなあ、それよりも思案は最後に粗大ごみのわが身をどう処分するか、それが問題だ。

2015/12/19

1154【終活ゴッコ】PC類とヴィデオデッキ等小型家電品の処分を無料でやるレアメタル都市鉱山

 PCなどの小型家電製品を、無料で引き取ってくれる企業があるという。ありがたい、終活にもってこいである。
 だいぶ前に、モバイルPCを細かく分解して、燃えるゴミでして捨てたことがあるが、まだ捨てるべきPCが2台ある。


 ひとつは12年前に買って、昨年まで使っていたWINXPである。WIN7を買ってからも、壊れたときは戻れるように置いていたが、一度も使わないままなので、この際捨てるのだ。久しぶりにほこりを払って机上に持ち出し、中をあけてハードディスクを取り出した。

 もう一台は、ずいぶん前に買ったモバイルPCだが、ほとんど使い物にならずお蔵入りしていたが、これも捨てる。
 外付けCDドライブ、液晶モニター、ヴィデオデッキ2台、コード類やらなにやらと箱詰めした。
 
 しかし、どうして無料でも引き取るのかと、ウェブサイトを見たら、どうやら都市鉱山とて、レアメタル類を取り出すらしい。近ごろなんでも捨てちまうのに、レアメタルってのはそんなに高いものなのか。
 都市鉱山と言えば、都市金山ってあったなあ。人間の焼骨灰の中から、金歯を集めるのが日本最大の金山だって話を、昔に聞いたことがあるが、今でもそうなんだろうか。金歯を入れている人がいなくなってみたいだけどなあ。

 そのうちに、人間を無料で処分してくれる時代がくるかもなあ、宅急便で送るんだ、、。

2015/11/23

1147【終活ゴッコ:懐かしい品々処分:製図用具編】もうこれがなんであるか分る人が少ないかもなあ

 先般のカメラに続いて、こんどは懐かしい製図用具が出てきた。
①計算尺、②竹製30糎物差し、③卓上掃除ハケ、④丸描きテンプレート、⑤1m折れ尺、⑥勾配定規、いずれも小物なので捨てなくてもよいのだが、、、。

 ①計算尺は、大学生の時に買わされたような気がする。でも、これを使った記憶がないなあ、構造計算の授業で必要だったのだろうか、そんなことした覚えがないなあ、なんで買わされたのだろうか。手回し計算機と並ぶ精密骨董品の感がある。

 ②~⑥は古典的製図用具である。
 これらの内で今でも役に立っているのは、③卓上刷毛のみである。製図版の上の消しゴム屑を払うためのものだったが、今ではPCのキーボードのホコリを払っている。
 
 このほかに持っていたけれども捨ててしまった製図用具に、烏口、ロトリング、コンパス、T定規、製図版(90×60㎝)があった。便器用テンプレートもあった。
 蕎麦打ちを趣味としている友人が、製図版をノシ板にしている。

 思い出せば、2H鉛筆を細く細く尖らせて図面を描いてたものだった。1㎜幅に中に5本以上の線を引くのが自慢であった。いまやそんなことはPC使えば100本だって引けるし、眠くて目がしょぼついても線を引けるんだな。

 昔々、仕事場仲間内では、その筆致で誰の手による図面であるか判ったものだが、今はそうはいかないだろう。
 いやまてよ、今どきだから、それぞれ描き手の個性ある図面を引くソフトができているに違いない。あるいは、大建築家の筆致で描くソフトもあるのだろうなあ、どうなんだろうか。

 ついでに書いておくが、これは製図用具でもないし、懐かしいというにはあまりに昔のもの過ぎる祖父の遺品がある。さて、これはなんでしょうか?


2015/11/21

1146【終活ゴッコ:懐かしい品々処分:カメラ編】戦前から今日までの7個の古カメラをもう捨てようっと、、

 今年になって蔵書の処分という終活をダラダラと続けている。ほかにも処分するべきものがあったなあと思い出したのだが、どうでもいいのに、なんとなくとっておこうと、どこかに放り込んでいた懐かしい品々である。
 まず、カメラが7個も出てきた。うち2個(①と②)は父親の遺品であり、③~⑦の5個はわたしのものである。試していないが、電池を入れると①と⑦のほかは使えそうな感じもある。

●父のカメラ
 戦前のカメラの①「KINKA HAND CAMERA」については、かつてこのブログに掲載したら、読んだ方からその由緒を教えてもらったことがある。http://datey.blogspot.jp/2009/04/118.html 

 珍しいものだろうが、もうボロボロで、今日もこの撮影用に引っ張り出したら、あちこちポロポロと欠け落ちる有様である。
 わたしがカメラなるものに触ったのは、これが最初であった。小学生の頃にこれを引っ張り出してもてあそんでいた。中学生になってから何とかして写せるようにしたいと、近所のカメラ屋さんに相談したが、なにしろガラスの乾板なんてものは、戦後の貧しい時の田舎町には存在しなかった。
 父がこのカメラを買ったのは1935年、わたしの姉がが生まれたときのようだ。その姉は3歳で夭折してしまった。このカメラは1942年まで使ったらしい。たぶん、もう遊び用には、ガラス乾板も印画紙も無くなったのだろう。

 もうひとつの父のカメラ②「FORMULA SF-D」は、戦後に買ったものであるが、いつごろのものか知らない。楽天オークションにジャンクで1380円とある。

●わたしのフィルムカメラ
 戦後しばらくはカメラは高価なものものだったから、今のように誰でも持っているものではなかった。父のもう写せないカメラをいじっているうちに、なんかして本当に移すカメラをほしいと思って、小さなおもちゃに毛が生えたくらいのカメラを買ったことがある。たぶんそういう思いを持つ少年向けのものだっただろうが、詳しいことは忘れた。
 大人になってから、カメラを借りて写すことはあったが、自分で買ったのは1967年だったような気がする。吉祥寺で仕事をしていて、知り合ったカメラ屋さんで買ったのが、当時はじめて世に出たコンパクトカメラの「コニカC35」であった。
 これは吉祥寺の街の変化を記録するのが主な目的で買ったのだが、以後、あちこちの街の変化をカラーリバーサルフィルムで記録する癖がついた。

 この次に買ったのは③「オリンパスXA」である。発売が1978年、これを買った理由の第1は、日付がはいるからであり、第2はデザインがすばらしいことである。気に入ってずっと使った。

 だが、街の風景の記録にはカメラレンズが広角であるほうが便利なので、それを待っていた。
 コンパクトカメラで28mm広角が出たのは1994年、⑤「FUJIFILM CARDIA MINI TIARA」であり、日付も入るので、直ぐに買った。小さくてポケットにも入る大きさなので、便利に使った。

 その後で28mmから90mmまでズームできる1994年発売④「ペンタックスESPIO928」も買ったのは、ちょっと勇み足だった。これはコンパクトよりは大きすぎる。

 ここまでがフィルムカメラである。使ったフィルムが一体いくつくらいかわからないが、ほとんどがカラーリバーサルフィルムで、スライドマウントしているのだが、その量が膨大である。たぶん3,3万枚はあっただろうが、だんだんと捨ててきた。それでもまだ5000枚くらいはあるだろうか。これの処分を思案中である。エイヤッと全部捨ててもよいのだが、、、。

●わたしのデジタルカメラ
 そのうちにデジタルカメラが出てきたが、買うかどうか思案していた。28㎜の広角がでたら買おうと待っていた。2004年についにズームの広角デジタルコンパクトカメラ⑥「RICOH CAPRIO R1」が出たので買った。これは單3電池も使えるのがよい。

これが故障したので、⑦「CANON IXY900 IS」を買ったのが2006年である。

 これを水の中の落していっとき故障したが、なんとか回復してだましだまし使っていた。でも、2010年にどうにもダメになったので、古カメラ屋で同じものを買った。今、ここの写真を写しているカメラである。実は、この他に2個のデジタルカメラを買った記憶があるが、詳細を忘れた。
 いずれにしても、広角、日付入り、コンパクト、視覚ファインダーつき条件のカメラであり、街の風景の記録をするためののもので、カメラ収集趣味も写真撮影趣味もない。
 デジタルカメラになって、フィルムはたまらないのがいいが、PCの中に画像が一体何枚ある事か、一応は整理してあるが、場所も重さもないからいいようなものだが、貯めておく必要がほとんどないなあと思いながらも溜めこんでいる。

 さて、もう書いて記録を残したから、この7個のカメラを近いうちにゴミに捨てようっと。(カメラ収集癖のある方で、ほしければタダで差し上げますよ)

(20200927追記)2010年に中古で買ったキャノンのカメラが、今日壊れた。よく働てくれた、感謝である。さて次のカメラをどうするか、普通なら携帯電話機にカメラがあるから要らないのだろうが、私はなにしろガラケーである。さて、さて、年取るといろいろと壊れるなア、このカメラといい、ガラケーは息絶え絶えだし、パソコンはよたよた、健全なのはタブレットタイプパソコンだけだなア。そろそろ持ち主を処分するほうが早いか。

2015/10/20

1135【終活ゴッコ】建築家山口文象と初期RIAに関する資料コレクションをRIA山口文象資料庫に納めた

●蔵書を箱づめ送り出す

 蔵書をどんどん手放している。他に手放すべき財産らしいものがないので、これが重要なる終活(終末活動)である。
 箱詰めして送り出すのだが、箱詰め作業がけっこうな労働になるので、ただいま腰椎圧迫骨折治療中の身としては、リハビリテーションを兼ねてボチボチユルユルと進めている。

 あちらこちらの知人たちに、こんな本があるけど要りませんかと、本棚の写真を添えて頼みこんで、受け取ってもらうのである。
 今年の初めに、知人の若い研究者に、本棚の写真を送って、この中で要る本があるなら、喜んで差し上げると言ったら、100冊くらいを引き取ってくれた。
 これに味を占めて、この分野の本ならあの人が、この分野の本ならこの研究会メンバーが、などと、あちこちに声をかけて、良い返事をいただいたところに箱詰めして送る。もしかして押し付けになっているかもしれない。

 もちろん、近くの古本屋に売るとか、震災復興支援で古書寄付なんて方法もあるのだが、それは最後にして、やはり読みたいお方に受け入れていただきたいのである。特定のテーマによる資料収集は、そのテーマに関係の深い方に受け取ってもらいたいとも思う。 
 ある友人が、全部を受け入れようと、超ありがたいことを言ってくださったので、それに甘えてボチボチ送り付けている。ただし、何でもかんでも片端から詰め込んで送るのも申し訳ないので、ジャンルごとに整理して箱詰めして送る。
 
 そうやって蔵書を棚卸していると、同じ本が2冊も出てくることがたびたび出現する。ボケたので同じものを次々に買った、のではない。
 この現象の原因は、買ったけど読まないままに忘れてしまい、また買ったに違いないのである。自分の興味ある本はいつまでも変らないってことか。

 稀覯本を集める趣味はないが、なかには珍しいような本もある。調べもののために古本屋めぐりしていて発見した戦前の本など、調べものが終ってからは本棚に入りっぱなしだった本を、懐かしく再発見している。それを読んだりするから、箱詰めは遅々として進まない。

●未読本の読破で余生を送る

 前から自覚していはいたが、買うばかりで読んでいない本、つまり未読本が非常に多いのが、なんとも悔しい。興味ある本を見つけると、絶版になると困るからとにかく買っておく、という行為を重ねてきた結果が、未読本の山になったのだ。
 未読のままに人さまにさしあげるのは残念な気もするが、一方では、もらってくださった方から、キレイな本ばかりと感謝されて、良かったようで、こそばゆい。
 
 4年ほど前に、本の処分をしないと死んだ後の処分が大変だなあ、息子に申し訳ないことになるなあと気がついて、もうこれからは本を買わないと決めた。
 これからは未読本を読破することをもって、わが余生の過ごし方とすることにして、ウチにない本は近くの市立や県立の図書館に行くことにした。図書館は宝庫である。
 そしてほぼそれを守ってきたのだが、じつのところは未読本読破余生は遅々としてはかどらない。その最大の原因は、インタネットウェブ徘徊である。読書時間がWEB時間に食い込まれてしまった。どうやら読破前にわが身が終末になるだろう。

 未読本読破はもういいや、ってことにして、箱詰め外部送り出しとなったのである。自分ではできないので、未読本読破作業の外注である。
 今年になってから送りだし始めたのだが、これまでに段ボール箱22個、でも、まだまだ半分もはけていないから、本の終末よりわが身の終末が先になりそうだ。
 まあ、そのときはテキトーに息子がやってくればよい。そのときは持ち主は不在で、なにも文句を言わないからね。

●建築家山口文象関係資料をRIAへ

 そのような中で昨日のこと、大物コレクション発送して、ちょっと息をついたところだ。
 それは建築家・山口文象に関する資料である。RIA在籍時代の1982年に、「建築家山口文象 人と作品』(相模書房)を発刊したが、これの編集に6年間ほど携わった。
 50歳でRIAを離れてからも山口文象研究を続け、2003年には『新編 山口文象 人と作品』(アール・アイ・エー)を発刊、山口文象に関する資料を収集し続けてきた。その間に新発見もあった。

 完全に集めるほどのマニアではないが、初期RIA分の資料も入れて、ついつい増えて書棚の一角を占拠し続けてきた。だが、もうこの山口文象ストーカー行為も終活にすることにした。あとはベルリンに行って調べるしか残っていないが、そこまでの文象マニアではない。
 ということで、終活発送箱にこれら資料も加えることにしたのである。幸いにしてこの受入れ先は以前から明確になっており、山口文象が主宰したRIA(㈱アール・アイ・エー)である。
 RIAには、山口文象関係資料庫があり、戦前の山口文象建築事務所じだからの図面、書籍、書類を保存しているので、その中にわたしのコレクションも入れてもらうことにしたのである。
 送り出すとなって整理して、リストを作り、箱詰めしたら4個になったのであった。

 これまで10人くらいの学生や院生たちが、山口文象やら戦後復興期の都市づくりに関して論文を書くとて、わたしに問合せが来たり、インタビューされたことがある。
 その資料が、ボケが来つつあるわたしのところにあるよりも、RIAにあるほうが世の中に役立つ時が来たということである。

 なお、わたしの『山口文象+初期RIA資料まちもりコレクションリスト』を載せておいた。完全なリストではないが、ある程度は役に立つだろう。
 これまでのRIA所蔵の資料は、まだリスト化されていないので、検索が難しい。その内容をもっともよく知っているのは、わたしだろう。でも、わたしはもうボケてきたから、これを機会にわたしのコレクションと一緒に整理、リスト化をしてもらいたいものである。

参照:山口文象+初期RIAアーカイブス(伊達美徳編)
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html




2015/05/01

1083【わたしの終活】父の家を売る:日本の空き家問題がひとつ解決したかも

●空き家が増えるのに新築住宅が増えるヘンな日本
 日本の空き家問題がなんだか深刻であるらしい。空き家法なんてできたりして。
 総務省のウェブページには、「2013年住宅・土地統計調査(速報集計)結果の要約」としてこう書いてある。
 http://www.stat.go.jp/data/jyutaku/2013/10_1.htm
・総住宅数は6063万戸と,5年前に比べ,305万戸(5.3%)増加
・空き家数は820万戸と,5年前に比べ,63万戸(8.3%)増加
・空き家率(総住宅数に占める割合)は,13.5%と0.4ポイント上昇し,過去最高
・別荘等の二次的住宅数は41万戸。二次的住宅を除く空き家率は12.8% 
 これを見ると、空き家が増えているのに、住宅の総戸数が増えているという、妙な状況である。更に人口が減少しているのだから、これはどうもヘンである。
●大借金を背負わないと家に住めない変な日本
 日本の住宅政策は、社会政策じゃなくて経済政策だから、なんでもいいから景気対策として新築工事しろ、そうすりゃ金が動くからってことである。
 公共住宅も賃貸住宅も促進政策はなくて、個人の持ち家ばかり優遇する政策だから、庶民は泣き泣き大借金を背負って家を手に入れなければならない。借金できない人はロクな家に住めない。

 どうも、何かがおかしい。
 住むって基本的人権の行使が、大借金をしなけりゃできないなんて、そういうことでいいのか。
 人口が減ってるってわかってても、持ち家優遇策が続くのは、いったいどういうことなんだろうか。

 空き家が増えすぎたので、今度は空き家を壊せという法律が、近ごろできたそうだ。
 なんだかおかしいよ、作れ造れと借金までさせておいて、今度は壊せ壊せとは、いったいどういうことか。
 はは~ん、壊せっていうのも景気対策なんだな、壊すことで金が動くからって、、マッタクモウ。

●いつのまにか空き家問題の渦中に
 さて、わたしは、その日本の空き家問題の渦中に、ながらくあったのだった。
 父から相続した家を20年も空き家の儘にしておいたら、いつのまにか日本の空き家問題の渦中に入っていたのだ。まあ、わたしも時代の先端を行っているってことだな。
 去年、売りに出したが、一向に売れないままに過ぎて行った。

 以前から処分しなければ、ご近所迷惑だと思いつつ、そのままになっていた。不動産屋に知り合いはないし、安心して処分するにはどうればよいのかと、たまには思案しているうちに20年も空き家にしていた。

 2014年春に、岡山市からの固定資産税請求書に同封して、岡山市空き家情報バンク制度の紹介がはいっていた。
 この制度を通じて、地元の不動産屋を紹介されて、3か月間の専属媒介契約をしたのが去年の夏のことだった。売却価格は、不動産屋の助言もあって、固定資産税評価額と同じにした。
 幾人かが見に来たらしいが、3か月間で成約なし、また3か月の契約をしたが、またもやなにもなし。
 ここまでのことは、ここに書いた。
1024・いま日本中で起きている空き家問題にわたしが直面とは、(2014/11/11)
http://datey.blogspot.jp/2014/11/1024.html 

●大値下げしたらやっと売れた空き家
 半年たっても売れないとは、ちょっと思案投げ首状態になった。
 このままでは息子の代まで持ち越すのかなあ、先が思いやられる。そうか、これが、いわゆる空き家問題なんだな。
 不動産屋が言うには、これがいわゆる「旗竿宅地」であることが、売れない理由だそうだ。

 敷地の場所が表通りから巾2mの路地の10mほど奥にあり、表通りから車を入れようにも、隅切りがないため角を曲がれなくて、入れないのが最大の難点だという。
 車を持つ人には住みにくいし、家を壊すにも直すにも、表通りから路地を手運搬しなければならないから、高くつくのだそうだ。
 その分、かなり安くしないと売るのは無理という。

 しょうがない、3度目の媒介契約では、それまでの半額にした。そして1カ月後、ついに買い手が登場して、めでたく売買成立となり、先日、手続きをすべて終えた。
 買主は個人だったが、不動産屋の話では、この方は空き家を買取って、修復して賃貸することを、既に何軒かやっているとのこと。この家もそうするとて、素人が買って住むのではないらしい。

●良い設計きちんと工事安い値段が売れた理由
 なぜ、その方はこれを買ったのか。買主と不動産業者の話を総合すると、価額と古家の質であったらしい
 古家の質については、わたしに買主がこう言った。
 「古家をいくつも見てきたが、50年もたつ家はたいていは傾いたり一部壊れてひどい状態なのに、この家は、外観はともかくとしても、屋根瓦もきれいだし、傾きもないし、床も普通の家よりも高い。内部は50年も経つとは思えないほどしっかりしている」

 まんざら素人でもない人が、既に買ってしまってから言うのだから、たしかだろう。
 わたしの設計は、住宅金融公庫仕様に忠実に従ったし、これを工事した人も真面目にやったのだろう。
 だからこそ、50年の古家でも、修復して賃貸することができるのだろう。よかったのである。いまどきのエコロジー風潮にも対応できる。

2015年4月の姿

2015年4月の姿
1966年建設当初の姿

2015年現在の平面図(1965年設計図面に南と西の広縁増築部分を加筆修正)
父母がこの家に移る前まで住んでいた高梁盆地にある神社境内(わたしの生家)
 価額については、修復に300万円くらいかかるようで、今回の土地代ならばそれに加えても、採算のあう住宅賃貸事業となる、ということらしい。
JR山陽線の駅から歩いて5分の立地だから、すぐ売れるだろうと、わたしは初めには思っていた。しかし地方都市では車社会なので、どうもそうはいかないらしい。
 でも、地方都市こそ高齢化が進むから、このような立地は、車を運転できなくなる高齢者向きと思うのだが、どうだろう。

岡山市空き家バンク制度を不動産業界は活用せよ
 こうして空き家問題として、長年にわたって迷惑をかけた隣の奥方にお詫びをして、帰途へ。
 帰途の大阪で途中下車、空き家問題に共に悩んだ弟たちと、20年忌の父に献杯して、問題脱出の祝杯をあげた。

 というわけで、岡山市の空き家バンク制度利用は、わたしにとって役に立った。
 不動産屋に聞いたら、この制度活用はまだそれほど進んではいないらしい。現に岡山市の空き家情報バンク登録物件紹介ページを見ても、登録数が少ない。
 岡山市も地元不動産業界も、この空き家バンク制度の活用策を積極的にやってほしいと思う。わたしには、こうして役に立ったのだから。

(2016年4月28日追記)
 岡山に遊びに行った弟がここを訪ねて、売却1年後の姿の写真を送ってくれた。リニューアルした家には、大学の美術系の先生が入居しているとか。 

黒くペンキ塗りかえただけでモダンに見えるのがオカシイ

元の形のままにペンキを塗り替えたらしい


庭は賃借入居者の趣味だろうか


2015/04/01

1076【終活ゴッコ】四半世紀つかったプロバイダーNIFTYと縁を切ったら古女房と別れたような気分

 ネット社会にわたしが足を踏み入れたのは、よく覚えていないが1988年だっただろうか。
 今でいうところのインタネットの「ワープロ通信」なるものを始めたのだ。ただし、できることは電話線を使ってテキストを送受信するだけ、通信速度が2400bpsと超遅かった。
 加入したプロバイダーはニフティサーブ、いまは@niftyと言っている。

 ネット関係の終活作業として、昨日、その四半世紀にわたったニフティとの契約を解消した。今日からはニフティによるメールはできないし、「まちもり通信」サイトも消えてしまった。
取り入れていた光回線を取り払って、Atermという無線システムに乗り換えたのだ。そのことの理由などを、こちらにに書いた。
http://datey.blogspot.jp/2015/03/1067.html

 二フティを四半世紀も使っていたから、古女房と別れたような気分もないではない。
 しかし古女房と縁を切っても、ネット社会との縁切りは、いまのわたしには不可能である。ネット社会だけが付き合いの世界になりつつある。
 そこで、新女房としてgoogleを引きこんだ。このgoogle女史とは、ニフティ女房がいたときからもう10年くらいは付き合っている仲だ。
 なんだか妾を妻にしたような気分もないでもない。いや、これまでそういう実体験はないから、想像するだけのことである。
http://goo.gl/TPE230

 というわけで、ニフティのメールアドレスncb02505@nift.com、二フティの「まちもり通信サイト」http://homepage2.nifty.com/datey/は、今日から接続不可能となりました。
 これらを住所録やお気に入りやブックマークにご登録してくださっているお方は、削除してくださいませ。
 そして、それらは下記のようになります。といっても、これらはずっと以前から使っているので、今日から新規になったわけではありません。

●伊達美徳メールアドレス  dateyあっとまーくkuramae.ne.jp
               または   dateygあっとまーくgmail.com
●まちもり通信サイトURL   https://sites.google.com/site/machimorig0/
              または    http://goo.gl/TPE230
●伊達の眼鏡ブログURL  http://datey.blogspot.com/     

2015/03/18

1069【終活ゴッコ】たくさん溜まった年賀状と名刺を捨てる作業をしたら意外に面白かった

 ここ数年は、知人との音信は電子メールシステムばかり使っているから、郵便による紙情報がやってくることは少なくなった。ときにはface bakaが通信手段になる。
 特に仕事をやめてからは、郵送でやってくる紙は、150枚くらいの年賀状が9割以上を占めている感じである。

 仕事をしている頃は、年賀状が300枚くらいは来たし、こちらも250枚くらいは出していた。わたしはフリーランスなので仕事を徐々にやめていったのだが、それにつれて出す枚数を絞っていった。
 更に2009年からは年賀状を出すのをやめて、2月頃に寒中見舞いにしたら、来る年賀状も150枚くらいに減った。寒中見舞いにしたのは、喪中の葉書をいただいた方にも挨拶できるからである。
 今年の寒中見舞いは85枚にした。これからも年ごとに次第に減っていくだろうから、これはもう立派な「終活ゴッコ」である。

 最近7年分のいただいた年賀状を、なんとなく保存していた。これを捨てることにした。まずは一枚一枚の住所等を、PCに保存してある住所録と照合して、必要な訂正をした。
 3年ぶりくらいに住所録整理をしたら、削除する名前もたくさんあった。死亡者である。こういうのをまとめて削除するのは、あまり気分がよくないものと知った。
 そして全部の年賀はがきを、ビリビリと破ってゴミ袋にすてた。なにしろ1000枚以上はあるだろうから、紙質が良いのでけっこう力が要って、手が痛くなってしまった。
1000枚以上ビリビリ破くと手が痛くなった

 それを終えて、そうだ、ついでに名刺も溜まっているから、この際にこれも整理しようと、終活モード全開になってきた。
 名刺の数は、いっときは、5~6000枚はあったかもしれない。これままでに整理をときどきやってきているから、今ではたぶん1000枚くらいだろう。

仕事をやめてからは、名刺を出すことがどんどん減って、いまではめったに出すことももらうこともない。会合で多くの人に出会っても、積極的にそうするべき気分にならないからだ。時には、人さまからいただいても、「ごめんなさい、いま、名刺を持ち合わせてないので」と、こちらが出さないこともある。

 年賀状は一応、今年の分だけ一枚一枚点検してあとは見ないで捨てたが、名刺については、最近のものを中心に100枚ほどに絞って、あとはざっと見て捨てた。
名刺整理箱に100枚ほど残した
ざっと見ていると面白かった。同じ名前の人の名刺が何枚もあるのは、その人が肩書が変るごとに下さったのであろう。あるいは、お会いしたことを忘れて、何度も名刺交換したのだろう。
 昔の名刺は、黒文字で縦書きがほとんどだったが、次第に横書きになり、色刷りになり、写真が入ってくる。
 わたしは90年代から、外から支給される場合は別として、自分の名刺はすべて自分で、PCとプリンターで作ってきた。だから、気分でしょっちゅうデザインを変えている。

名刺を繰っていると、懐かしい人々の名前が何度も登場して、この方はこうだった、この方とはああだったとか、あれこれと人柄とその前後の状況を思い出すのだった。
 わたしはいただいた名刺に、その日付と場所、紹介者などを書き込んでいるから、もしも自伝を書くならこの名刺がある役立つだろう。
 名刺のデジタル化は本よりも簡単だから、やろうかとふと思ったが、まあ、もういいやと、思いきって捨てたのである。デジタル化は、スライドフィルムだけでいまは手いっぱいである。

 わたし自身の昔からの名刺も何枚も出てきた。最も古い名刺には、1965年と書き込みがある。東京の地名になっているから、その頃に東京に転勤したのだろうか。
もっとほかの重要肩書名刺もあったような、、左上が最古、右下が最新
その後、何回も肩書が代わり、新たな肩書が加わり、あるいは別の肩書の名刺も並行して持ったり、その上に仕事場も自宅も何度も引っ越しをして住所が変り、その都度に仕事用と私用の2種の名刺をつくっていたから、いったい何種類の名刺を使ったか、いまでは思い出せないほどの数であった。

 最近は名刺を使うことがほとんどなくなったので、それはそれでなんだかサミシイ。まあ、名刺を使うことがなくなるということは、「終活ゴッコ」が順調に進行しているということであろう。
 

2015/03/16

1068【終活ごっこ】たくさんの蔵書の一部を知人に貰っていただいたがまだ残りの方が多くて悩みは尽きない

 人間を永くやっていると、いろいろものがたまる。わたしには宝物や資料でも、他人にはゴミであるものばかり、今ではそれらをどうやって捨てるか、悩んでいる。
 わたしがボケたり死んだりしたら、家族は迷惑なだけである。特別に家族思いでもないが、気にはなる。

 インタネットのわたしのサイト「まちもり通信とブログ「伊達の眼鏡」には、わたしの執筆したページが、もういくつあるか見当がつかないほど、溜まりに溜まっている。
 しかし、後に迷惑かけることはないように、公開を前提の内容であるし、物体でもないから、後々に問題はないだろう。

 一番の困りものは、本、書籍の類である。ゴミではあるがゴミではなくて、溜まりに溜まっていて、都市系、建築系、歴史系、文学全集などなど、いったい何冊あるのか見当がつかない。
 数えるのが面倒なのでやったことはなが、1000冊以上は確かだろう。これでもこれまでの4回の引っ越しで、そのたびに整理したのだが、いつの間にか増えて溜まってくる。
 一昨年から、今後は本を一切買わないと固く決心したので、そこからは増えていないはずである。

 古本屋に来てもらって処分するしかない。それでも、古本屋も持って行かないものも、たくさんあるような気がする。
 うちに一冊も本がなくなったら、せいせいするだろうか、それとも寂しくてたまらないだろうか、どっちだろうか。
 若いころは、本を買うのが大好きであり、家の本棚の場所がなくなるのが大悩みだった。
 50歳で自分のオフィスを持ったとき、これで本棚の心配なく本を買うことができると、嬉しかったものだ。今の悩みなど想像もできなかった。

 先日のこと、face bakaに、知人が探していたある雑誌を、古本屋を見つけて買ったと、喜んでいる記事を載せているのを見た。
 その雑誌をわたしは持っているだから、言ってくれれば差し上げたのに、と思ったのだった。

 そこで、その知人にわたしの本棚の一部(全体の5分の1くらいか)の写真つきで、この中でご入用の本があれば、喜んで贈呈しますとメールを送った。
 迷惑かもしれないと思ったのだが、返事が来て写真の本に印をつけたので、それをほしいと言ってくれたのである。

 ありがたやと、さっそく抜き出して送るための箱詰めしたら、3箱にもなったのには驚いた。
 だって、抜き出したあとの本棚は、まだまだたくさんの本が詰まっているからだ。
 これで200冊もあるのかと数えたら、たったの73冊で、これまた驚いた。
知人に送り付けても、残りの本の方がはるかに多いばかりか、これでも全体の5分の一ほど
73冊を箱詰めしたら3箱にもなったのに驚いた
 
箱詰めしていて、こんなボロ本を送りつけていいのかなあと、思うものもあった。ひとつは「共同研究 転向」(思想の科学研究会)(3冊)である。すっかり紙が茶色になっている。
 もう一つは、二川幸夫・伊藤ていじによる「日本の民家」(2冊)である。この本のことはここに書いた
 わたしは本を集める趣味はなくて、資料としか考えていないので、現物には愛着はないが、どちらも1960年代の若い貧乏なころに無理して買ったことを、ふと思い出させてくれた。

 さて、まだまだ本はあるなあ、どうしようかなあ、また誰かに本棚お見合い写真を送って、無理やりお嫁入りさせるかなあ。
 実は、未読本がかなり多いので、それを読んでから処分したいのだが、未読本の読破終了前に、ボケが来るだろうから、もういいのだ。早くなんとかしなくっちゃ。
 終活ゴッコは、まだまだ続く。



2015/03/14

1067【終活ごっこ】技術革新で30年間も生えていたシッポがなくなってついに無線になったウチのPC

 わたしのPCから、シッポが一本消えた。インタネットつながりがようやく無線になって、LANケーブルのシッポがなくなったのである。シッポに変る「モバイルルーター」なる器械がやってきたのだ。
 もっとも、まだいくつかのデバイス用のシッポが生えているのだが、。

 うちのPCのこの通信シッポは、6年前に生えてきたのだが、その前は電話線がシッポだった。電話線時代でも、出先でどうしても無線でやる必要がある時は、携帯電話機をシンポにしてインタネット接続していた。

 ニフティサーブなるプロバイダーに登録して、電子通信(インタネットとはまだ言わない頃)を始めたのが、今から30年くらい前だったから、それだけながらく通信用シッポをつけてきたことになる。
 もちろんその間にPCは何台も替わった。インタネット時代が来る前は、ワードプロセサー専用機を電話線につないで「ワープロ通信」をやっていた。それが「パソコン通信」になって、今はインターネットである。

 そしてそれが10年くらい前から、世のなかはワイヤレス全盛時代になっているが、わたしはもう外で仕事することはほとんどないから、まあいいやと、シッポつきでやってきた。
 有線から無線にする手続きが、もう面倒な年ごろになってしまったこともある。
 でも、いよいよ年取ると、老人ホームに入るってことになるかもしれない。その時もPCを手放そうとはとても思わないのだが、問題は行く先にLANがあるだろうかということである。

 そこで思い切って、今のうちに無線化することにしたのだ。無線化すれば、どこに引っ越そうとPCとモバイルルータさえ持っていけばよい。
 そう気がついて、今やその筋の専門家システムエンジニアになっている息子に、その無線化を頼んだのである。

 それがまあ、なんともいとも簡単に無線化したのであった。昔は新システムとか新PCなどのインタネット設定は、超面倒で疲れはてたものだが、これはまあ拍子抜けするくらい簡単にやってくれた。
 しかも、通信量4GB/日を息子名義で共用する契約で、わたしは息子の通信扶養家族になったのである。なんとも親孝行ものであると息子に感謝している(多分、初めて)。
LANケーブルを抜いてもインタネットにつながっているウチのPCとクレ-ドルに乗るモバイルルータ
さてこれからわたしがやるべきことは、30数年つきあったNIFTYとの解約、NTTとの光通信の解約、そしてひかり電話を一般電話に戻すことである。
 これらが面倒なような気がするなあ。ボケ防止にやってみるか。

 ニフティで書いてきた「まちもり通信」サイトのページは全部をgoogleサイトにコピーしたし、ニフティのメールアドレスがなくなっても、いまやgmailにしているので、もう問題は起こらないだろう。
 起きても、もう仕事してないから、気にしないのだ。


2015/02/04

1054中学生の時に作ったクラス文集が出てきて読んで不思議な気分の私がいる

 昔々に自分が書いた文章のある冊子を、ふたつ発掘した。これも終活の一環である。
 ひとつは、55年ぶりにみる大学卒業研究論文であり、もうひとつは64年ぶりにみる中学校クラス文集である。
 懐かしいと思わなくもないが、中身を読むとなんとも不思議な感じで、その中にある文章の書き手のわたしは、いまここにいるわたしと同じ人間とは思えないのである。とくに大学の卒研のほうにその傾向が強い。

 まずは中学校のクラス文集のことである。こちらの方を、大学論文よりもむしろよく覚えているのが、おかしい。
 昭和27年(1952年)12月24日発行、編集人は高梁中学校3年5組新聞部とあり、66ページのホッチキス止め、手書きガリ版刷りの冊子である。
 冊子の名前は『鳩舎』である。
 記憶にはあるのだが、あれからなんども引っ越しをしたのに、まさか自分の家の本棚から出てくるとは思わなかった。

 ひょっこりと本棚の奥から出てきたのは、たぶん、家を出たときから持っていたのではなく、10数年前に亡くなった母の遺品の中にあったのを見つけて、そのときから持っていたのだろう。
 卒業写真アルバム、卒業証書、学業成績表も一緒にあるから、母が保管していたいたにちがいない。
 
 アルバムを見るとそのクラスの人数は51人、担任教師の小野八重子先生は、たぶん新卒で初めての赴任だったような気がする。一学年が5クラスあったから、それなりに大勢の中学校だったことになる。
 その頃は「新制中学」といっていたものだ。戦後の学制改革で、それまであった中学校は新制の高等学校になり、新制度の中学校が生れたばかりの頃の中学生だった。
 街にはこの新制中学校と旧中学校から変わった新制高校の両方があったから、その頃の大人は用事で中学校へ行くとて旧制中学校だった高校へ行って、そこで初めて間違いに気が付くことをよくやっていたものだった。

 旧制中学が移行した新制の高校と違って新制中学は新設だったから、1年生の時は校舎の建設が間に合わなくて、小学校に間借りをしていた。
 新校舎ができても教室数が足りなくて、大学の様に教科ごとに教室を生徒が移動したのだった。まだ戦後のドサクサ時代だった。今では、この場所に中学校はなくて、他に引っ越したようだ。
 この3年5組の小野先生は、生徒たちからおおいに慕われた人だった。まだご健在なので、いまでも訪ねて行く当時の生徒がいるほどである。わたしもこの先生には憧れたものだ。

 文集『鳩舎』は、小野先生の情操教育の賜物のひとつだろう。そういえば「山びこ学校」は、あのころのことだったから、先生もそれを意識していたのだろうか。
 15歳の少年少女たちの、文章が盛りだくさん載っている。小説もあれば詩もあり論文もあり、日記もある。幼い物言いもあれば、ヘンに気負っているやつもある。
 わたしは、この冊子を作る時の担当の一人だったので、よく覚えている。男女仲間7人で、ガリ切りから印刷製本までやった。最後の時は徹夜もやったと、あとがきに書いてある。そうだったような覚えもあるような気がする。
 
 わたしが書いた2編の「随想」が載っているので、ここに転載する。

「あまのじゃく」
 僕は普通よりも違ったことを考えるのが好きだ。また逆の事を考えることも。右と言えば左と、左と言えば右、たてといえば横、上といえば下と全く逆に考えてみることも楽しいものだ。又、普通のことを肯定して今度はその一歩上のことを考えるのも楽しい。この考えることは大きな価値があると思う。異なる事を考えるということは進歩をもたらすことになろう。このことにより何んらかの新らしい道を発見できることもあると思う。しかし、いたずらに考えるだけではならない。

「瞬間」
 僕はある一瞬をたっとぶ。時計の振り子の止まる時、一枚残った柿の葉が落ちる瞬間、勿論、自然にである。めったにその瞬間は見つけだせない。又それだからこそ尊ぶ。知っていてもとらえにくい時だ。化学実験など瞬間をみなければならない時がある。そのような時はなおさら瞬間に価値がある。
 ・生はこの永遠の間に於ける一瞬時なり――――カーライル

 常識的なことを、いかにも気取って書いているのがおかしい。最後の警句なんぞ、どこから取ってきたのだろうか。
 ところでこの文集は第1号とあるので、その後に第2号をつくったのだろうか。記憶がない。
 なんにしても、遠い遠い日となってしまった。こうやって、昔々を懐かしむようになっては、おれもおしまいだよなあ。

追記20150205)これを読んだ当時の仲間のひとりから連絡をもらった。『鳩舎第2号』は出されているとのことであった。次の年の4月4日発行で、中学校卒業記念文集になっているとのこと。



2014/11/11

1024いま日本中で起きている空き家問題にわが身が直面するとは、、

 父母が住んでいた岡山市内にある空き家を、最近になって売りに出したが、売れない。この20年も空き家にしていた。
 建物が古いとか道路が狭いとかいろいろあるにしても、駅近くのけっこう便利な立地なのに売れない。

 売れないのは個別の条件もあるが、今の日本の社会問題のひとつであることに、今さらながら気が付いた。日本全国が空き家だらけになっているらしい。
 マクロな空き家問題はあれこれと話題になっているらしいので、そちらに任せるとして、ここではわたしがただいま体験中のミクロの空き家問題を書いておく。でも、これが典型的な空き家問題らしい。

 1966年に父母が岡山市内に小さな家を建てて、郷里の高梁を離れた。この家はわたしの建築家としての処女作だった。
 ここに引っ越して、たぶん、一番喜んだのは母だろう。それまでは広大な神社境内と社殿や社務所の掃除に追いまくられていたから。父も気楽になっただろう。
1966年竣工時
当時流行のモダンリビング風のデザインと間取りだったが、父は数年のうちに増築改装した。
 一番の大きな改装は、鉄板瓦棒葺きの屋根の上に瓦屋根が乗ったことだった。暑いし雨音がうるさくてたまらなかったそうだ。縁側がついて深い軒の出がなくなった。
 エレベーションのプロポーションは悪くなったが、文句は言えなかった。だからわたしには未練のない建物だ。
 でもまあ、当時の金融公庫仕様で、基礎をきちんと設計していたから、今でも傾いていないのが、わたしの唯一の自慢である。

 父母が80歳を超えて高齢になったために、1993年に大阪の息子が住む近くに転居した。このときから岡山市内の家は空き家になったままである。
 わたしたち3人の子らが、ときどき行って管理をしていた。隣りの方がこちらの庭で野菜つくりをしがてら周りを掃除してくださっていて、これも助かっていた。
 だが、台風が中国地方にやってくと、心配だった。家は倒れても一向にかまわないが、近所迷惑は困る。

 わたしは1957年に大学に入るために関東に移り、弟たちも次々を故郷を出た。そののちに父母も故郷を離れた。父母がなくなっても空き家のままだった。
 わたしたちのような子の世代が、このようにして父の世代の空き家を持つことになった経緯は、じつは日本では珍しくもないことだろう。数多く日本にあるという空き家の大半は、このような事情だろうと思うが、どうだろうか。
 いまでは、わたしの子の世代が同じようなことに直面しつつある。

 その岡山の家は、売ろうという積極的な気もなくてズルズルきたが、3人の子たちも高齢化してきたから、このままでは孫世代が困ることになると思い出した。
 そんな最近、岡山市から来る固定資産税の請求書に同封して、「空き家情報バンク制度」なるものを始めたとのパンフが入っていた。
これを見て登録することにした。登録すると、不動産屋を決めて、そこと契約して売りに出すのである。それを始めたのが今年の8月だった。いまだに売れない。

山陽線の駅から300mほどのところ、山陽線で岡山駅へも倉敷駅へも8分である。近くに城跡もある古くからの集落の中で、新開地ではない。
 それでも売れないのは、ひとえにその道路条件にあるらしい。集落の中の一角をミニ開発した場所で、表の道から2m幅の市道が10mほど突っ込んだ場所にある。だから自動車を入れることは無理である。このことが障害らしい。
 
 買い物は近くでできるし、父の勤め先の岡山市中心部までは電車ですぐだったから、父母にとっては車がなくても一向に不便ではなかった。
 そんなところだから、そのうち売ればよいとのんきに思っていたら、なんとまあ、今や空き家だらけの時代、車があることが当たり前の時代、そして人口減少が当たり前の時代になり、住宅需要が減る時代になってしまった。タイミングを誤ったなあ。

 売れないままだと諦めて、そのうちに関東大震災でこちらを焼け出されたら、その岡山の家に避難してそのまま終の棲家にするかなあ。
 あのあたりは、瀬戸内海からは遠いから津波はないし、地震は少ないし(わたしは関東に移ってしばらくはなんと地震が多い土地だろうと思ったものだ)、一番近い島根原発からも遠いし、軍事基地も近くにあると聞いたこともないし、交通は便利だし、いいかもしれないなあ。
 いやいや、そういうことに遭遇したくない。


2014/10/21

1015【終活ゴッコ】暇つぶしに「終活」プロジェクトとて所蔵書籍資料書類等廃棄に取り組みつつあるけど、、

 たくさんの書類を捨てた。自分の仕事で作ってきた報告書類やら資料集である。
廃棄書類の一部の記念写真、重いからぎっくり腰にならぬように捨てに行く
プランナーなる職能で、都市や建築にかかわる企画や計画の仕事を長年やってきた。その作業中で作った資料や成果としてまとめた報告書類が山ほどある。デジタル化が当たり前でない時代のものである。
 これまでもオフィスや自宅を引っ越したり閉じたりした機会に、何回も整理して捨てるべきものを捨ててきた。そのなかで、これはまだ置いておこうと所蔵していた書類が書棚にある。だが、それらを使って昔のことを書く需要もなくなった。

 世の中には人生を終了する活動なるものがあり、それを「終活」というらしい。わたしも終活をやってみたくなったので、まずは、それらの仕事関係の代物をやり玉にあげて廃棄することにした。
 書棚の奥からほこりを払いつつ引っ張り出して並べると、その仕事をした頃のことを思い出すが、腹の立つことも思い出すから、捨てるのが惜しいなんてことはない。中身を見ないでどんどん捨てることにする。

 もっとも古いヤツは、1964年度「名古屋港地区再開発基礎調査」なんてのが出てきて、B4版、ガリ版印刷の本編と手書き青焼きの資料編であった。これがわたしの初めての都市計画仕事であったかと、感慨深い。
 当時の日本住宅公団からの委託研究だったが、その研究会のメンバーを見ると、石原舜介、服部千之、植田一豊、長峰晴夫、玉置伸俉など、だれも生きていないよ、う~む。
 あ、いかん、読んでたら捨てられなくなるよ。

 建築家の仕事ならば、建物の形でその場に残っているが(もちろん失敗もそのまま残る)、プランナーのやった仕事は、多くの場合はその場に行っても、それをやった当人しか仕事の形は分からない。
 計画したことが建築となっているとしても、プランナーの名前が表に出ることは、ほとんどない。
 手もとにある報告書やらパンフレットだけが、その仕事にわたしが携わった証拠品だが、そんなものを持ち続けてもしょうがないと思う歳になったことが、まさに「終活」の時期を迎えたことである。

 ということで、第1次終活プロジェクト・作成報告書類廃棄をやったので、次は第2次の収集資料類廃棄にとりかかろう。
 自分がつくった資料や報告書類はさっぱりと捨てても、あちこちから蒐集した関連資料の中には、けっこう高価なものや、貴重な古本的価値もありそうなものもあり、うまく捨てられるかなあ。

 更に第3次は、スライド用にマウントした35mフィルムである。1970年代からのもので、何千枚あるだろうか。デジタル化もボチボチやってきたが面倒で進まない。これはセンチメンタルにならざる得ないだろうから、見ないでエイヤッと捨てるしかないだろうなあ。
 第4次は、書棚全部の本の廃棄である。これまで何度も廃棄し、それでも何千冊だろうか、う~む。

 終活初心者はまだまだ迷うのである。
 迷う終活プロジェクトは面白い暇つぶしにはなるが、適当なところで終活の極意を会得したいものである。
 終活免許皆伝になれば、自分自身をエイヤッと廃棄可能になるのだろうか。

2014/10/06

1008白内障手術で眼が若返ったことが昔の眼鏡をかけて分かった

 眼鏡屋を始めるのではない。身辺整理とてあちこちの引き出しの中を調べて、要らないものを捨てる作業をしていたら、眼鏡がこんなにたくさんでてきた。

 遠近乱用メガネをかけだしてから30有余年、その間に、何度も買い換えた結果である。
 もちろんこのほかに壊した、無くした、レンズだけ入れ替えたなんてのもあるから、覚えていないが実際はもっと数があるはずだ。そうだ、サングラスもあるな。

 少年の時からかけている人は、生涯にどれほどの数の眼鏡を買うものだろうか。
 わたしの若い時は、視力2.0だったから、40歳代に老眼が始まるまで全く眼鏡不要だった。老眼が始まると同時に、乱視と近視も加えた眼鏡をかけてきた。
 昔のガラスレンズはキズがないけど、最近のプラスチックレンズはキズだらけ。

 一昨年、白内障手術までは、遠近乱用眼鏡を使っていた実績が、この眼鏡群である。白内障手術後は、眼鏡を原則として使っていない。
 原則としてというのは、手もとの小さな字を読むときにだけ、眼鏡を使うようになったからだ。その眼鏡は、元の遠近両用でも、百円老眼鏡でも十分に間にあう。

 こうやって出てきた眼鏡を、片端からかけてみたら、意外や意外、遠近ともに立派に間に合う奴があったのだ。
 これがいつのものかわからないが、どうも度が一番弱そうなので、最初の眼鏡のようだ。
 ということは、白内障手術でわたしの眼が40年分近くも若返ったことになるのか。
 う~む、眼だけ若がえってもなあ、、脳内障手術ってあるのかしら、。

 参照⇒白内障手術一部始終日記2012
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hakunaisyo