2010/05/06

265【各地の景観】醜い景観を醜くなかった頃の景観に復元して遊ぶ景観戯造ごっこ

 インターネットのウェブサイト作りは、高齢社会のボケを防止する有用な道具であると思う。
 まちもり通信サイトで「景観戯造」というシリーズを始めた。
 これは美しい都市景観や自然景観をみていて、あれさえなければもっと良いのにという景観の中の異物を取除くという、景観を偽造する遊びである。

 本物の景観から取除くことはできないが、画像ならそれなりにできることがある。
 ある景観の画像をいじって、要らないかもしれないものを取除いてみると、意外な姿が現れることがある。
 あういは期待に反して、たいして違わないものが現れることもある。
 そんな遊びのような、景観スタディのような、現実ではできないけど画面ではできること、そうやって風景を偽造してみるのだ。

 江戸の名園の今と昔のありえたかもしれない姿、美しい山岳風景とその昔に見えたかもしれない風景など、いくつかの戯造した景観を載せる。
 ご覧になって、さて、あなたはどちらの風景をお好きですか?

題して
景観戯造


その1例をどうぞ

このほか多数あり

今後、ヒマにまかせて随時に追加していきます。

2010/05/02

264【各地の景観】スイスアルプスのアイガー北壁

 ドイツ映画「アイガー北壁」を見てきた。
 映画館に入ったのは何年ぶりだろうか。
 シネなんとかっていう、いくつも映写ホールのある映画館だが、スクリーンがずいぶん小さいし、客席も100人もはいるだろうか。8割くらいのいりこみだった。
 老人料金は1000円であった。さてこれは高いのか安いのか。もうちょっと待てば、近くの貸しディスク屋で老人料金200円で1週間かりられる。

 どうして見に行ったか。
 大学時代の山岳部仲間から、面白かったというメールが来たこと、昔々、この映画原作となっているハインリッヒ・ハーラー著「白い蜘蛛」を読んだ記憶があること、そして2006年6月にわたしはアイガー北壁を登ったことがあるからだ。
 登ったとは、北壁の中のトンネルをユングフラウ登山鉄道で登ったのである。
 それにしてもこんなところを電車を通すなんて、ものすごいことをやるものである。今なら環境保護派が承知しないだろう。
 長いトンネルを掘ったズリを、北壁の横にあけた穴から下に落としたのだそうで、途中の駅でその穴から外をのぞき見ることができる。

 ユングフラウ・ヨッホからの帰りには、トンネルを出たところのアイガーグレッチャー駅で途中下車し、歩いて下山を始めた。
 左にメンヒとユングフラウを眺めつつ、アイガー氷河に沿って下る。氷河の末端部が滝のように崩れ落ちる巨大さやら、その汚れやらに驚嘆する。
 とにかくあらゆる風景がスケールが雄大であり巨大であることに驚いている。

 放牧の牛の糞だらけの草原を下って、クライネシャイデック駅につく。ここのホテルが、北壁と共にもうひとつの映画の舞台であった。
 北壁の雪と氷と岩の壁に宙吊りとなって苦闘するトニー・クルツたちの苛烈な風景の映像が突然に一転して、暖炉の火の燃える温かく優雅なホテルの内部に替わる。
 この極端なる対比を映像は狙っていたのだろうが、ちょっと常套的すぎる。

 対比といえば、当時(1936年)のナチの台頭による政治的な様相を、オーストリア併合の問題も含めて、このアイガー北壁登攀に絡ませていることも、違和感があった。
 もちろん原作にはそんなことは書いてないのである。
 ただ登りたいだけのアルピニストに、政治を絡ませるのは映画としてはありうることだ。ただし、描き方がどうもとってつけた感があり、どこかしっくりこなかった。

 クライネシャイデックで一息入れて、右に方向を変えて下っていく。今度は右にアイガー北壁の正面をいつまでも眺めていられる。
 下のほうはよく見えているのだが、上方の「白い蜘蛛」辺りから上は雲の行き来が忙しい。あまりに巨大すぎて、見上げる首が痛い。足元に注意しつつ真正面から見上げるアイガー北壁を堪能する。
 これだけでかいと日本の山の岩登りはものすごく小さく思えて、ルートハンティングの勝手がおおいに違いそうだ。
 なんだかどこでも登れそうだが、はっとスケールを勘違いしていることに気付き、どこも登れそうにないと見えてくる。
 
 赤い断崖の下あたりや、その左あたりにいくつかの穴が見える。左の穴は窓になっていて、アイガーヴァント駅のところで、登りには途中下車してそこからこちらを見下ろしたことろだ。
 右のほうの穴は、最後にトニー・クルツ救助隊がここから北壁に取り付いた。
 悲劇の主人公トニー・クルツの恋人はここから出て、トニーを励ましつつ、氷の岸壁で夜を明かしたし、目の前にぶら下がるトニーの死を見つめることになる(原作にはない)。
 この女性を登場させるのも、映画の常套手段として、もっともらしいことであるとは思った。
 トニークルツに肩入れしたい昔山岳部としては、彼女をもっと純粋な形に登場させてほしかった。

 さて、たっぷりと北壁の眺めを味わいつつお花畑を下っていった。仲間は咲き乱れる花にしゃがみこんだりしているが、わたしはもっぱら見上げているばかり。
 そうやってアルピグレン駅まで歩き、また登山電車でグリンデルヴァルトに下った。

 映画の原作といっている「白い蜘蛛」を、昔々わたしは読んだ覚えがあるのだ。学生の頃だろうか。
 その中にあった一枚の写真、トニー・クルツがザイルで空中にぶら下がる姿に、強烈な印象をうけたのだった。救助のために出た坑道辺りから撮った書いてあった(ような気がする)。

 映画を見てきて、「白い蜘蛛」を県立図書館から借りて再び読んだ。奥付を見ると、1938年に初登攀したハイリッヒハーラーが1958年に出版した「DIE WEISSE SPINNE Die Gschichte der Eiger-Nortwand]で、日本では「白い蜘蛛-アイガーの北壁」と題して1960年に横川文男訳で出版している。
 ところが不思議なことに、そのトニー・クルツの写真がないのである。ということは、わたしの読んだのは別のなにからしいが、いったいそれは何だったろうか。

 岩壁登攀の映像は、かつて岩登りをしていたことがあるものから見ても、なかなか迫力があった。
 「アイガーサンクション」という映画があったが、岩壁登攀映像はインチキ臭くて、見るのがバカらしくなったものだ。
 ただ、岩登りをしていたものや、登攀ルートの知識のあるものには興味深いが、それだけに物足りない感がある。
 もっと事前のルートハンティングや、現場でのルートファインディングの苦労を見せてほしいものである。

 逆に、岩登り知識のないものには、場面場面の迫力はあるが、なぜそうなるのか全然分からないだろう。自然は厳しいものだなあ、てなくらいなものだろう。
 まあ、娯楽映画はそんなもんだ、といえばそうなのであろう。
 日本の山岳映画として最近評判になった「剣岳 点の記」よりははるかによかった。「点の記」はストーリーがなってないし、風景映像は美しいが順序がでたらめ、下界でのあれこれ場面がなんで必要なのかさっぱり分からなかった。

●参照→昔山岳部●参照→・ヨーロッパアルプスは棚田だった(2006)
http://homepage2.nifty.com/datey/swissalps.htm

2010/04/27

263【都市と地域】民主党は100万票失うか

 民主党政権が政府事業の仕分けをしていて、都市再生機構(UR)が槍玉に上がったとか。
 詳しいことは政府のそのページに書いてあるが新聞報道も見ると、第1に都市再生事業を縮小すること、第2に賃貸住宅事業を縮小すること、第3に関連会社への随意契約発注を廃止する、この3点らしい。
    ◆
 まず、第1の都市再生事業の件だが、これは縮小すると言うよりも方向を変えるべきと、わたしは思う。
 これまでURが行なってきた都市再生事業の中心である都市再開発事業(区画整理、市街地再開発事業)に関してみると、どうも政府、自治体系のなにかの施設の跡地(空き地)を狙って事業をやって来ている傾向が強い。
 都市再開発の本質は、過密で燃えやすいような密集市街地を改善することにある。
 しかし、URのやってきたことはその方向ではなくて、やりやすい大規模跡地を区画整理して大規模ビルを建てるとような仕事が多い。はっきり言えば、やるべきところよりも、やりやすいところばかりである。
 最近のURは、建物を建てて売ることができない制度になったとかで、土地だけ整理して民間事業者に卸売りする方式であるらしい。
 跡地整理ならはじめから民間でできるし、いや、民間事業者がやるほうが効率的である。
 URがこれからやるべき都市再開発は、民間企業ではなかなか取り組めない、息の長い採算性に乗らないような、しかし社会政策として取り組むべき事業である。
 例えば木造密集市街地、あるいはドヤ街のような環境の悪い居住地を改善するような事業である。それらは自治体ではとても無理なので、政府の社会政策として取り組むべきことであるからだ。
    ◆
 第2の賃貸住宅のことだが、報道では高級賃貸住宅はやめて民間に売却せよ、高齢者や低所得者対応賃貸住宅は公営にせよ、ということのようだ。
行政刷新会議のサイトを見るとこう書いてある。
「全員の意見は、高齢者・低所得者向け住宅の供用という政策目的の部分と市場家賃部分は切り分ける、その上で政策目的部分は自治体あるいは国、市場家賃部分は民営化/民間に売却/段階的に民間にシフトしていくべき、ということに集約されているので、その方向で整理していただくということを我々のWGの結論としたい。」
 これにはわたしは大反対である。なにか根本的な誤解か無知があるとしか思えない。
 民間賃貸住宅に仕分け人は暮らしたことがあるのだろうか。あの契約関係のひどいこと、管理のいい加減なこと、高額でしかも礼金を取ること、まったくもってどうして民間に任せろなんていえるのか。
 高級賃貸住宅というが、2LDKで18万円もするとは、高級なのは家賃だけなのだ。
 そのような高額にして狭い賃貸住宅を供給しなければならないようなURという公的事業体の仕組みこそが、日本の住宅政策の貧困であるのだ。
 質の良いものを安価に供給させるようにURを改めることこそ、民主党が自民党とは異なる政権としての事業仕分けのはずだ。
 仕分け人の言うことを住宅政策として翻訳すると、民間賃貸住宅が質が悪いから、UR賃貸も民間にせよと言っていることになるのだ。本末転倒もは甚だしい。
 住宅は社会資本であり社会政策であるということが、民主党になっても分かっていない。
 URが1955年から営々と供給してきたような、質の高い住宅が今こそ必要なのである。今の民間住宅はほとんどが、住宅公団以来のUR賃貸住宅のノウハウの上に立っているのだ。
 せっかく戦後に住宅公団から築きあげてきた室の高い住宅の供給体制を、低質な賃貸住宅がはびこる民間に移行するのは愚の骨頂である。
 民間任せの住宅政策、経済政策として住宅政策が、貧困ビジネスの繁栄に手を貸していることは、先般の暮から正月にかけての派遣村が見事にそれをあぶりだしたのだが、政治家は分かっているのだろうか。
 あるいは横浜寿町のドヤ街に行ってみれば、住宅政策の貧困がまさに現在の貧困ビジネスを支えていることがよく分かるはずだ。
 アフォーダブル賃貸住宅供給事業こそが、URの進む道であり、政策はそのように展開するべきだ。
 URが持っている77万戸の賃貸住宅のストックを、生かす道もそこにある。
 55年体制を危うく思想になった公団住宅住民の革新系への肩入れを、公団住宅の賃貸から分譲住宅への転換で阻止しようとしたと私は見ている。小さな財産を持った庶民は保守よりになる。
 そしてそうなって自民党政権を支えた。それが民主党政権で振り子は元に戻るのかと思っていたら、なんとこれでは民主党が55年体制の仕上げをする役割になるのだ。
 今回の仕分けによるUR賃貸住宅の縮減策は、もしかして、77万戸入居者の約100万票を民主党は敵にしたかもしれない。
 仕分け人たちは、住宅の需要側の視点で社会政策として事業を見るべきなのに、供給側の経済政策としての視点で見てしまっている。
 誰もが必要である住宅という基本的人権にかかる社会政策を、市場任せにするようでは民主党は自民党と同じである。
 参照→187民主党の居住・住宅政策は?
   ◆
 第3の関連会社への独占的発注であるが、これは昔わたしが仕事をしていた頃から、奇妙なことだと思っていた。
 わたしはURの仕事をしたことはないが、周辺からいろいろと聞いていた。
 例えばURの発注する建物の工事監理となると、かならずある特定会社が独占していた。八王子の多摩ニュータウンで起きた大規模な欠陥住宅事件も、工事監理がしっかりしていれば起きなかったことだが、この会社がやっていたような、。
 あるいは計画や設計に関しても、ある特定の会社はURのみからの受注で経営しているらしいのだ。しかし、そこの内部だけでは仕事をこなす能力が足りないので、他の設計事務所やゼネコンから人を派遣させて仕事をこなしていることもあった。
 URにも民間会社から派遣されている技術者が多いことは、聞いたことがある。
 なんでもかんでも一般競争入札による発注が良いとは決して言い得ないが、これまでのやり方が問題がありすぎたと、はたから見ていて思った。

2010/04/24

262【都市と地域】新白河駅前計画のアイデアコンペに入選した

 東北新幹線の新白河駅前の土地を持っている企業が、その活用についてアイデア募集コンペをやっていることを、WEBサーフィンしていたら偶然に見つけた。
http://www.sankinkk.co.jp/compe.htm

 2004年に起きた中越震災の被災地に復興支援のまねごとで、2005年秋からのちょくちょく行くようになっていた。
 地域おこしの事業に関わって連続して山村に行っていると、都市と同じ問題を抱えているが、もちろん都市における地域振興とは違った視点での問題が見えてきた。
 そのあたりことは「法末の四季」に書いている。

 山村地域振興政策について、現状に疑問を感じていて、新たな展開方法があるように考えるようになった。
 それは地域を振興することと、地域を閉じることを対にして考え、そういう政策が必要だということである。
 そこで、地方都市の中心とその周辺の過疎地域を結んで、地域の企業がそのような政策に対応する事業を、ソーシャルビジネスとしてできることがあるだろうと考えた。

 コンペの対象地になっている駅前に、そのソーシャルビジネスの拠点を設けて、「さとまち両全事業」となずけた事業展開することを提案応募した。
 結果は、いくつかの入選のひとつに入ったのであった。優秀賞ではなかったが、アドバイザー特別賞として、優秀賞と同じ賞金6万円である。
 アドバイザーの後藤春彦さんが認めてくださったのだろうと、嬉しい。
http://www.sankinkk.co.jp/ipan-koukai-shinsa-keka.pdf

 わたしの提案内容をわたしのサイトに掲載するには主催者の許可が要るだろうが、審査結果発表があったばかりだから、まだ掲載しない。
 とりあえずはコンペ入選なんてものに縁がなかったわたしの、ささやかな喜びを書いておくのだ。
提案書全文掲載(100502)→https://sites.google.com/site/machimorig0/sirakawa

2010/04/21

261【言葉の酔時記】腹立ち猜時記

 コンピューターを毎日いじっているが、まったくもってこんな役に立つ機械は無いと思う。わたしの人生がこれに間に合ってよかったとつくづく思う。
 その一方で、こんな未完成なものを売りつけてけしからん、そのうえ使い方の説明の日本語がまったくもってなっとらんと、腹が立つ毎日である。
 コンピューターばかりか、世の中分からんこと、なっとらんこと、そして危ないことが増えてくる。
 例えば、電気自動車なんてものをもてはやすのが分からない。
 電気自動車は排気ガス出さないけど、電気を製造するときにガスも核廃棄物もどしどし排出しているから、これはちっともクリーンじゃないぞ、なっとらん。
 もうひとつ例えば、大規模超高層マンションである。
 あんな危険きわまる代物を、どうして世間では売り買いするのか、まったくもって理解できない。阪神淡路大震災であれほどその危ないことを証明されたのに、もうわすれたのかしら。
  ◆
 アラウンド古稀のわたしはアラコキというらしい。ウソコキも上手になった。
 アラコキほどの馬齢を重ねると、そしてそれなりに知識は多く積み重なってくる。
 そしてまた、それなりに枯れてきたり、余裕の心になってくるはずである。
 ところが、わたしの知識と世の中の知識が、どうもずれて来ている様子があるのだ。
 だから、世のものごとがどうもおかしなこと、わからないことが多くなり、それが腹立つのである。
腹立つ方向は、なにも人様ばかりではなく、自分自身に対して腹立つことも多い。
 食い物に関しては、年とると不幸なのは、どんなに美味いものを食っても、どこかでこれより美味いものを食ったなあ、思い出すことである。
 若い頃はなにを食っても美味いと思っていたのに、不幸になった。
 変な言葉遣いをする若いやつらに出会うと、そんな口の利き方は無いだろうよと言いたくなるが、そこは我慢して腹が立つ。
 そう思って腹を立てる自分に腹が立つ。もっと素直に、美味いもの食ったときは真直に喜び、若者の感性を理解しろと、自分に言い聞かせる。
 あ、いかん、年寄りの愚痴を言うのではないのであった。
   ◆
 そんなことを「伊達な世界」ブログ「まちもり通信」サイトに、グダグダだととりとめもなく書き連ねてきた。あまりぼう大になったので、その中でいくつかを採り上げて、カテゴリーごとにまとめて編集してみた。
 実は5年ほど前にも同じようなことを考えて、そのときは書籍にして出版しようかと考えた。
 だが、これだけインターネットが普及すると、紙情報よりもこちらのほうがよさそうな感じになってきた。
 売れなくて抱え込むことは無いし、わたしが死んでも絶版は無いし、何時でも追加訂正できるし、制作費も送料もほぼただ同然である。
   ◆
 というわけで、題して「腹立ち猜時記」である。
第1章 自分のPCなのに分からん
第2章 ブログが分からん
第3章 ハイテクITが分からん(業界編)
第4章 ハイテクITが分からん(言葉編)
第5章 デジカメが分からん
第6章 電気自動車が分からん
第7章 電話もテレビもおかしい
第8章 日本語がおかしい(会話編)
第9章 日本語がおかしい(単語編)
第10章 医療がおかしい
第11章 マンションがあぶない
第12章 東京駅があぶない
   ◆
 ところで、これについて面白いことがあった。
 WEBサーフィンで偶然に「作家になろう」というサイトを見つけた。サイトの管理者はインテルとあるから、アメリカのハイテク企業らしい。
 小説とかエッセイとか日記とかの原稿を、そのサイトにあるシステムに投稿すると、そのサイトの中で書籍のような形にして読むことができるのである。
 もちろん投稿すればそのまま公開されるのではなくて、管理者のインテル側で審査して、公序良俗違反とか特定宣伝とか誹謗中傷とかあれば、公開掲載不可となって書き直しを求められる。
 そこで、この「腹立ち猜時記」を投稿したのである。各章ごとに審査をするのであるが、結果は見事にどの章も公開不可となった。
 いくつかの章はコンピューター屋を罵倒しているから、あちらから見れば誹謗中傷に読めるのであろうから、それはしかたがない。ほかの章がどうしてNOなのかは分からないが、それなりの企業判断があるのだろうから、それもしかたがないか、。
 そこで、ためしに「横浜B級観光ガイド」を投稿してみたら、これも全章が公開不可の通知が来たのであった。
 う~む、オレはそんな無茶を書いているのかなあ、、、世の中が分からなくなった。

2010/04/20

260【各地の風景】今、甲州は桃源郷

 いま甲州は桃の花の盛りとて、畏友を訪ねて韮崎へ。
 韮崎には新府城跡がある。新府城跡から見下ろす一面の桃の花のじゅうたん、その向うに雪をかぶる八ヶ岳がぎざぎざした山稜の連なりを見せていた。
 おきまりの桃源郷の風景だが、去年は雨で八ヶ岳が見えなかった
 甲斐の武田氏は、ここが滅亡時の最後の城だそうだ。
 周りに土塁や堀を巡らせた小高い丘の上に築いている。中世から近世への過渡期の城郭であろうか。

 城跡には武田氏を祀る藤武神社がある。今日はその祭礼に日とて、神楽の笛の音とカラオケらしい歌声とがこんがらがって聞こえる。
 急な100段以上はありそうな階段を息を切らせて上る。
 社殿そばの舞殿では、いましも神楽が進行中。見れば、翁が鈴を持って舞っている。神楽面ではなくて能面の切り顎の白式尉の翁面である。
 畏友にきけば、神話による神楽を行なうというが、今日は畑仕事が待っている。来年の祭礼にでもまた見にこよう。

 山上の広場にはたくさんの屋台が並び、焼そばやらの匂いが漂う。
 広場の向うには舞台もあって、いましもオバサンがなにやらカラオケ唱歌中である。神楽の笛と音が入り混じるのが困る。
 いつもは禁止だろうが、今日はたくさんの乗用車が登ってきている。松林の中が駐車場となっていて、どうにもこの風景はキライである。

 林の中を下って、観光客が通らない桃畑の道を抜けて歩く。ピンクの花の向うに八ヶ岳や富士山の白い山容をすかし見つつ、桃源郷を堪能する。
 もっとも、桃の花の本質は観光ではないから、これから花を摘んでいくので、桃源郷の風景は一気に褪せてしまう。摘んだ花から花粉を採って、また桃畑の残りの花に吹きかける作業をするのだ。こうして受精させて、果実を実らせるのである。

 ここは八ヶ岳噴火の溶岩台地のうえで、水はけが良いので桃の美味しく実るのだ。
 それでも観光客が通る道筋の桃畑では、道沿いに菜の花を咲かせている。黄とピンクとは取り合わせがなかなか良い。

2010/04/16

259【東京風景】ぶらり本郷から四谷まで徘徊

 本郷から四谷までぶらぶらと回り道しながらあるいた。延約8km、延約4時間である。西片町から裏町を歩きだしたが、本郷あたりはゴチャゴチャとした住宅地が面白い。
 時には昔のお屋敷のままにうっそうとした林の中に、和風住宅や蔵が見える。
 商店街のような住宅街のような通りの看板建築も面白い。

 水道橋まででて神田川を渡り、駅前の三崎町にでた。
 ここは地図で見ると、普通は碁盤目に道が通っているところに、斜めに道が入っている。
 だから6差路、5叉路、3差路の交差点ができているのが、今どきで面白いのだ。
 6差路交差点でパノラマ写真を撮る。こういうところは、たいていはロータリーを設けるのだが、ここには無い。かつては合ったのだろうか。
 もっとも、6差路が面白いと見えるのは地図や航空写真だけであって、地上から見る風景はゴチャゴチャした街並みで、面白くもない。

 
 このあたりはかつては神田三咲町といったらしい。
 千代田区のホームページによるとこう書いてある。
 「明治五年(1872)、東京の多くの町が新町名へ変更した際に、この界隈も三崎町と改称されました。明治二十三年(1890)には、陸軍練兵場(旧・講武所)が三菱社に払い下げられ、市街地としての三崎町の開発が始まりました。その後、劇場の三崎三座(東京座、三崎座、川上座)や神田パノラマ館ができ、日本法律学校(現・日本大学)も移転してきました」

 三菱合資会社が、丸の内地区を明治政府から高額で買い取らされたときに、交渉してここをおまけにつけさせたのであった。
 そして丸の内並みとは行かないが、計画的に開発をしたのであった。だから碁盤目状の道路に、西洋風の近代都市計画を気取って斜めの道を入れたに違いない。
 もっとも、丸の内のように建物まできちんとやらなかったらしいし、三菱が持っているのではなくて分譲してしまったらしいから、いまではどうってこともない風景になってしまっている。

 飯田橋から竹橋方面に抜けて、千鳥が淵を通り過ぎて、半蔵門へ出る。
 半蔵濠のあたりの桜は散りかけているが、土手の菜の花が美しい。

 ぶらぶらと赤坂見附から居の国坂を登りかけて、途中で外堀の上にかぶさる高速道路の下から、ホテルニューオータニを見上げる。
 外堀の水と生い茂る斜面の常緑樹の森、その上の超高層建築、そしてかぶさる高速道路の取り合わせに、近世から近代への動的な風景を見ることができる。
 
 さらに登って赤坂迎賓館に出る。久しぶりである。
 正面の門扉を通して片山東熊設計の宮殿建築を見れば、おや、うしろに超高層建築が数本あるではないか。
 東京ならこうなるのは当然であろうが、何しろここの敷地は広いから、向うに建つ超高層建築には負けないだけの距離感がある。まあ、ちょうど良いくらいのプロポーションか。

参照→東京風景

2010/04/10

258【父の十五年戦争】小田原に花見に行ってきたが実はそこは父の戦場だった

 昨日もまた花見に行って来た。小田原城を訪ねると花盛りをすぎて散りかけている。それもまたよし、花の下で生ビールである。
 そしてまた、小田原から酒匂川を遡って足柄平野の北の松田山を訪ねたのだが、ここの河津桜は緑の葉桜になって、枝垂れ桜が見ごろであった。
 だがしかし、だがしかし、そんなものを見に行ったのではなかったのだ。

 今から65年前、1945年の5月から8月まで、この足柄平野は血走った兵士たち大勢がやって来て占拠されたのであった。
 太平洋戦争の末期、大本営はここを本土決戦の戦場としようとしたのであった。湘南海岸に上陸してくるアメリカ軍を迎え撃つのである。

 その軍の兵士の中に、わたしの父も居たのだ。住民たちも動員してあちこちに銃砲の陣地を作って、上陸に備える準備をしていた。父は松田の山中で穴掘りをしていたという。
 だが、アメリカ軍が上陸してくるよりも前に、敗戦となって穴掘りも陣地つくりも中止、兵士たちは引き揚げていった。跡には掘りかけの穴がたくさん残った。住民たちは疲弊した。

 もしもアメリカ軍が上陸してきたら、武器は足りないし兵は老兵の日本軍ができることは、肉弾戦しかなかったのだ。悲惨な沖縄戦の再現であり、確実に父は死んでいただろう。
 その父が1945年の夏に、はるか遠い岡山県の片田舎の三人の幼子と妻を思いつつ眺めたであろう足柄平野の風景、それを65年後のわたしも眺めてきたのだった。

 今のあまりにものどかで平和な風景では、父のそのときの心境を想像することさえできなかった。
 参照→「父の十五年戦争」全文公開

2010/04/07

257【お遊び】桜5景

 この季節は、やっぱり今は桜の花のことを書いておこう。
 母校の大学に花見に行った。本館前庭にたくさんの大木にはながさきみだれている。
思えば1957年に入学したときはほんの3mにも届かない若木の林であった。
 その林の中を行き交い、毎水曜土曜の山岳部トレーニングの二子玉川マラソンはここから出発して、ここに帰りつき、体操をし、スロープでうさぎ跳び、石垣で岩登り練習であった。
 その若木はいまや老木となって、花は美しいが幹は真っ黒で瘤だらけ、つまり、これはわが姿であるのだと感慨を催すのであった。

 久しぶりに五反田に行く。
 89年から2000年までここにオフィスを構えていた。
 90年にその前の道の歩道に桜の若木が植えられた。2年ほどで桜は咲き、2階のオフィスのわたしの席のまん前が花のカーテンとなった。
 この桜も道路の上空をトンネル上に覆って、花のカーテンは4,5階あたりになっている。この若木は育ったが、こちとらは年取った。

 横浜のわたしの近所では、大岡川の両岸が美しい。屋台がたくさん出ていて、懐かしい花見が風景が広がる。
また、半世紀ほども前までは遊郭だった真金町には、誘客がそぞろ歩きした広い道があり、その中央に桜が植わっている。その昔なら紅灯に映えていたのだろう。

 山梨県の塩山市で、昔々数年にわたって仕事をしたことがある。
 あそこは今頃は桃源郷にふさわしい景色だ。風景が一面に桃色に霞んでいる。
 そこの慈雲寺に巨大な枝垂桜がある。
 あれはもう30年も前のこと、その花の下で美しい女性たちがお茶会をしているところに出くわした。上に桜花の瀧、下に緋毛氈の波、そこに和服の女性たち、これはこの世のものとも思えなかった。

 能「紅葉狩」は秋の妖怪変化の出来事だが、これは春のそれかと思うばかりであった。
 そこを再び訪ねたいと思うばかりで年月がすぎていく、ああ、行きたや、行きたしと思うとすぐに実行しないと、来年があるかどうか分からない年頃になった。本当にそんな悲しいことが、もうあれは10年も前だったか、病を得た飲み友達に起きたことを思い出す。

 今日は松田町に花見に行く予定だったが、雨で延期である。
 花見にも行くのだが、本来の目的は父が十五年戦争参加の最後の任地、つまり敗戦を迎えたところが松田だったので、父が眺めた風景を見に行こうと思ったのだ。
 もしかしたら、父が掘った塹壕の跡があるかもしれない。戦争遺跡を訪ねるのである。

2010/04/01

256【横浜ご近所探検】横浜B級観光案内ガイドブック:関外

 横浜の昔からの都心は、関内と関外地区とされる。
 港があり、山下公園があり、中華街があり、馬車道があるのは関内である。つまり観光で有名なところはこちらである。

 では関外には何があるか。そうですねえ、伊勢佐木モールぐらいのもんでしょうか。でもここは、最後の百貨店の松坂屋は閉店したし、老舗の専門店は閉店していって、だんだんとチェーン店ばかりが増えてくる。この横浜いちばんの繁華街は、B級になってきた。

 伝統ある都心というけど、実は太平洋戦争の空襲で丸焼けにない、戦争が終わったら今度はアメリカ軍に占領されてしまって基地になり、1955年頃まではまったくどうしようもなかったから、実態は戦後の都心である。

 他の戦災都市と比較すると10年は遅れた戦後復興の涙ぐましい努力は、いまも街並みに見えている。わたしはその痕跡を探して、徘徊老人を続けている。
 関内と関外では、戦前・戦後の都市の痕跡がかなり違う。関内はある程度は戦前の伝統らしい痕跡が見えるのだが、関外では戦前の痕跡はほとんど見えない。

 わたしが面白いと思うのは、関内では中華街である。あそこはB級感が漂っていて好きである。そのほかは特に面白くもない。
 関外はどうかといえば、これは全体がマニア好みとしか言いようがない。どんなマニアか問われても困るのだが、総じてどこかB級感が漂っているところが面白いのだ。

 わたしはそのB級感覚を吹聴して、ときどき悪仲間を引率して関外ツアーをやっている。何度もやる内に、これはガイドブックがあればよいのにと思ったが、関内側のガイドはいっぱいあれど、関外は無いのだ。
 そこで自分で書いたのである。ちょっとマニアっぽく、、。

 詳しくは→「横浜B級ガイドブック・関外編」をどうぞ。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hama-b