2010/05/29

270【言葉の酔時記】はずかしがりもせずにヘノコヘノコと辺野古談義

 ヘ〇コと書くなんてイヤラシイ、ワタシャミントーメンとフクシマさん。
 オレにたてつくとはフテだってハトヤマさん。
 まったくもってキナワメーワクだってナカイマさん。
 久しぶりにTVを見たら、ニュースでそのいきさつをやっていた。
 ヘ〇コ、ヘ〇コと男女が口々にいう。聴いてるこちらが恥かしい、まあ、いろんな意味でね、。
●参照→212辺野古仕分け分別

 わたしがそんな政治ニュースをTVでわざわざ見るし、つい先日もPCで仕分け作業のNET中継を見てしまったくらいだから、新政権は目に見える政治にしたことは、少なくとも前政権とは大きな違いがある。
 これは功績だと思う、内容についてはいろいろとイチャモンはあるがね。
●参照→263民主党は77万票失うか 167時代遅れの民主党公約

2010/05/25

269【法末の四季】山村の棚田で今年も田植えをしてきた

 中越の棚田で、仲間10人と田植えをしてきた。久しぶりの法主集落である。
 この冬は、この豪雪地の住人たちさえも話題にするほどの、まれに見る大雪だった。
 行く道の回りにある杉林のあちこちに、幹が途中から折れた跡が、白く痛々しく見えている。
 わたしたちの拠点の民家も、屋敷周りに植えてある杉の木のうちの2本が、根元近くからボッキリ折れた。モウソウ竹も何本も折れ曲がっている。
 北隣との境のケヤキの木は、雪で危ないので隣の方が伐った。庭木の松ノ木も、支柱にしていた竹が支えきれなくて倒れた。
 母屋と土蔵とを結ぶ廊下が、震災で少し傾いていたのが、雪の重みで傾きが進んだようだ。次の冬も大雪になったら倒壊するかもしれない。
 それでも春がくれば、スギナの草原になった庭には、花が咲いて風情がでてくる。タケノコやらウドも生えてきて、美味い料理になった。
   ◆
 田植えする棚田は合計で5段で5枚ある。昨年までは3枚で、今年は2枚増えた。
 さすがに5枚もとなると、あわせて2000平米近くなって、これまでにように遊びでやっているのだから田植えも稲刈りもなんでも人力でやってみよう、ってわけには行かない。
 3枚は田植え機で、広い2枚を手で植えたのであった。手で植える田には、あらかじめ六角という6角柱の木の梯子のような道具を転がして、碁盤目を土につけておく。その交点に植えていくのだが、なにしろ水中にあるから歩くそばからにごって見えなくなるので、ある程度は適当にやることになる。実はいい加減間隔に植えると、あとで困ることがあるのだが、まあいいや。。
 ウグイスを聞きながらの田植えは、腰の痛いのは兎も角としても、なかなかに風流なものであった。
 新たに増えたのは、その持ち主の住民の方から、もう疲れたのでやってくれないかと仲間に話があったので、できるだけ支援してみることにしたのだ。
 限界を超えた集落だから、このようなことが次第に起きてくるだろう。農業後継者がまれな時代だから、集落では珍しいことではなくて既にあちこちで起きていることである。たまたま今回はわたしたちが話を受けてやることになったのだ。
   ◆
 考えてみれば、この集落にはじめて仲間が来てからもう6年目、米作り体験も4回目の季節に入った。
 こうやって話を持ってきてくださるのは、仲間の努力で集落の方たちから信用される立場になったということであろう。
 しかし、農業技術があるわけではないし、毎日いるのではないから、作業方法や日常管理は地元の方の指導に頼らざるを得ない。
 これから米つくり体験の場を増やすわけにもいかない。増やすなら他から人を連れてくるしかない。仲間の中にはそんな実験を始めようとしているものもいる。
 しかしこれから先、どの棚田も誰かが耕作継承とか支援をすることはできないから、放棄棚田は増えてくるだろう。そのままにしておけば、草が生え木が生えて次第に森に還っていくのが、日本の自然の強さである。
 自然はそれでもよいと思うのだが、人間の高齢化は元に還ることはないから、集落はどうなっていくだろうか。集落縮退計画なるものが必要だろうか、あるいはそのような計画がありうるものだろうか。思案する。
●参照→●中越山村・法末の四季
    ●中越法末・四季物語

2010/05/17

268【本作り趣味】新しい趣味として自家製本づくりを始めることにした

 新しい趣味を始めようと思い立った。思い立ったら書いておかないと忘れるから、ここに書く。
 しかも、道具をすぐに揃えたから、思うだけでやらないってわけには行かないハメに、自分自身を陥らせたのである。
 製本というか装丁というかブックデザインというか、そういう手仕事をやってみることにした。

 早速に図書館からそのための本を借りてきた。栃折久美子著「ワープロで私家版づくり」と同じ著者の「装丁ノート」である。
 読んで基本的なことは分かった。そこでWEB検索したら、ここにも製本の方法を書いたサイトがいくつもある。
 WEBサイトでわかったのだが、自分史を書いて本にしたり、ブログに書いたことを本にするのが流行しているらしい。

 それは自費出版もあるけど、製本趣味で本にすることも流行しているようだ。製本趣味の教室もあるらしいし、NHKで趣味の放送もあったとか。
 なるほど、そういう時代なのか。
 栃折さんの本を読むと、製本はけっこう大昔からあった手仕事で、それなりに面白そうで、奥も深いようだ。
   
 わたしが突然に製本を趣味にしようかと思いついたのは、「父の十五年戦争」なる長文の記録を書いて、キンコーズでプリンター印刷し、ステップラーで中綴じしたA5版冊子を数冊つくり、従兄妹と息子たちに配ったことに端を発する。

 一応は配布し終えたのだが、そうか、表紙をつけてもうちょっと格好よい本にすることもあるなと気が付いた。しかも自分の趣味で一冊一冊異なるデザインにするのだ。いいぞ。
 そうやって、東急ハンズと100円ストアーであれこれと材料と道具を買ってしまったのだ。

 では早速に本にしようかと、新たな紙に新たなインクで印刷をして、5折りの本文(ほんもん)はできた。これを糸で綴じるかと眺めているうちに、もっと厚いほうが立派になるなあ、なんて、欲が出てきた。
 そうなると、ほかの原稿も取り出して編集することになる。それはそれで面白そうだ。やってみようと思いついた。

 だが、まだ始めていない。ほかに先にやるべきことが、それなりにある。
 楽しみは6月になってからだ。趣味は急ぐことはない。問題は忘れることだけだ。だからここに書いておく。

参照⇒◆「まちもり叢書」自家製ブックレットシリーズ

2010/05/16

267【各地の風景】鎌倉鶴岡八幡宮の大銀杏が消えた風景

 久しぶりに鎌倉に行った。今日のお目当ては、鶴岡八幡宮の大銀杏である。この3月に参道大石段脇にあった大銀杏が強風にあっけなく倒れた。
 数百年を越えて聳え立つていたから、永遠に立つものと誰もが思っていたから、そのあっけなさに驚いたものだ。
 あれは生き物であったのだ。遠くから見れば狂気の逆髪のごとく枝葉を天に乱し広げていたし、近くに寄れば巨大な胴周りに気根が牢爺人の瘤か老婆の垂れ乳のごとくにぶら下がり、そろそろ妖怪変化銀杏になる生き物の雰囲気を宿していたものだ。
大銀杏があった頃の景観

大銀杏がなくなった今の景観

 わたしは八幡宮の正面からの写真を、四季に応じてけっこうたくさん撮ってきている。大銀杏が目当てではなくて、社叢森の生態的変化をとらえたいのだ。
 大銀杏が消えた八幡宮の正面の風景は、大銀杏が左半分隠していた随身門が、今は全部見えるようになった。さてこれをどう評価するか。
 この大石段上の随身門は、若宮大路の南方の遠くからも望むことができる。銀杏がある頃よりもよく見えるようになってランドマークの性格が強くなった。
 西欧的な意味ではこれのほうが良いのだろう。

 しかし日本のランドマーク性は、むしろ奥深くに見えないところに隠すことによって深まるのだ。伊勢神宮内宮にしても天皇の居所にしてもそうなのである。
 その点では銀杏によって見え隠れする八幡宮のほうが日本的な象徴性を持っているのである。
 もっとも、それは日本の古代的な思潮であり、仏教が輸入されてからは大伽藍を造って顕示型になったとすれば、八幡宮もながらく八幡宮寺であったのだから、現在のような視覚に仰々しいほうが正しいのだろう。
倒れた大銀杏の根からひこばえが育つのを待つ

●参照→大銀杏の死 

2010/05/10

266【老い行く自分】さくらんぼ狩りをして少年時代の神社境内の生り物の味覚を思い出す

 サクランボを木から直接とって食べ放題、そんな贅沢をした。近くに住む友人の庭木である。実の付いた枝を折ってもらってもちかえった。
 太陽の下で、赤い実を一粒づつつまんでは口に入れていると、思い出したのは少年時のこと、生家の神社境内にあったユスラウメを同じようにして食っていた。
 そういえばその頃、本当にサクランボを食ったことを思いだした。参道の石段沿いに山桜と八重桜があり、そのなかに花が散ったあとで大きめの実をつけるものがあった。
 濃い紫色になる頃に食べると、口の中が紫色になった。ただし美味くはなかったから、味を試す程度だった。今のようなサクランボがあることを知らなかった頃のことで、これをサクランボといっていた。
   ◆
 境内の広場の周りや山林には、いろいろな木の実、果実が四季に応じて勝手に実った。何の手入れもしていないが、そういうものであった。
 戦後の食べのもののない頃は、腹の足しにするおやつでもあった。子どもはそれで四季を知る。
 春の桃は数個が生った。昨今の店に並ぶものと違って、歯ごたえがあり、ほんのり甘くほんのり酸っぱかった。懐かしい味だが、もう出会えそうにない。
 梅の実はたくさんなった。母が梅干を作っていたこともあった。
 広い斜面の竹やぶには、マダケのタケノコがたくさん生えてくる。ちょっととって来てと台所から母に言われて、崖上から身を乗り出しタケノコを折りとった拍子にヤブの斜面をずり落ちたことがあった。
   ◆
 夏になるとユスラウメとグミである。たくさんの実をながい間にわたって食べさせてくれる。グミといわず違う名であったが、思い出せない(追記100620 これを読んだ高校同期の女性がメールをくれて、30分考えて「ぐいび」といったと思い出して教えてくれた)。
 秋は銀杏の巨木から、たくさんの臭い実が落ちてきた。拾い集めて樽に入れてかき回して皮と種を分離する。種を干しておいて貯蔵し、ホーロクで炒って食べた。そういえば焙烙なる素焼き陶器の台所道具は、今もあるのだろうか。
 林の中の一角にキノコが群生していて、これは食べられたが、なんと言うキノコだったのだろうか。
 山栗のイガがはじけて落ちてくる。朝早く拾わないと、散歩に来た人に拾われてしまう。鎮守の森の山林のあちこちに栗の木があるのだが、これはその場所を知っている境内の住人のわたしの秘密の場所である。
 甘柿渋柿2本の柿ノ木には、1年交替でたくさんの実がなった。渋柿はゆでて甘くした。
   ◆
 冬はなにかあったろうか。そうだ柚子があった。濃い緑の葉の独特の香りと、棘を思い出す。葉を食って育った大きな毛虫が、そのまま柚子の葉のにおいを発散していた。
 父が京都の苗木屋から取り寄せて植えた果実の木があった。その名は「チンカポポー」。幼児の耳にも覚えていて、どんな実が成るかたのしみだった。だが、この木は大きくなるばかりで、一向に実がならないままだった。チンカは珍果であったらしい。
   ◆
 ずっと後に鎌倉に住むようになり、庭にユスラウメとグミを実らせたのは、思い出の再現である。
 庭に実生で生えてきた枇杷の木を大きくしたが、これは実が出るとすぐにリスに食われてしまって、めったに人間の口に入らなかった。
 その裏山には栗の果樹園があった。栽培中は入れないが、終わると入れたので枯葉のなかに拾い残しを拾った。キノコも沢山出ていたが、さすがにこれは採集する気にはなれなかった。
   ◆
 サクランボの友人の庭にも、たくさんの実のなる木があった。梅、ヤマモモ、甘夏、みかん、柿、キウィ、ユズなど、味で四季を感じさせる。この元プラスチック技術者は、玄人大工はだしのDIY趣味の延長上で果実作りもやっている。
 韮崎にいる友人もいろいろな果実をつくっているが、こちらは庭ではなくて広い畑である。ここのサクランボはまだならない。リンゴ、ソルダム、栗などとともに、何種類もの野菜も植えていて、この情報工学の専門家はロボット盲導犬の開発に忙しいが、農作にも忙しい。

 参照→136小屋を建てる 025今もし失明したら

2010/05/06

265【各地の景観】醜い景観を醜くなかった頃の景観に復元して遊ぶ景観戯造ごっこ

 インターネットのウェブサイト作りは、高齢社会のボケを防止する有用な道具であると思う。
 まちもり通信サイトで「景観戯造」というシリーズを始めた。
 これは美しい都市景観や自然景観をみていて、あれさえなければもっと良いのにという景観の中の異物を取除くという、景観を偽造する遊びである。

 本物の景観から取除くことはできないが、画像ならそれなりにできることがある。
 ある景観の画像をいじって、要らないかもしれないものを取除いてみると、意外な姿が現れることがある。
 あういは期待に反して、たいして違わないものが現れることもある。
 そんな遊びのような、景観スタディのような、現実ではできないけど画面ではできること、そうやって風景を偽造してみるのだ。

 江戸の名園の今と昔のありえたかもしれない姿、美しい山岳風景とその昔に見えたかもしれない風景など、いくつかの戯造した景観を載せる。
 ご覧になって、さて、あなたはどちらの風景をお好きですか?

題して
景観戯造


その1例をどうぞ

このほか多数あり

今後、ヒマにまかせて随時に追加していきます。

2010/05/02

264【各地の景観】スイスアルプスのアイガー北壁

 ドイツ映画「アイガー北壁」を見てきた。
 映画館に入ったのは何年ぶりだろうか。
 シネなんとかっていう、いくつも映写ホールのある映画館だが、スクリーンがずいぶん小さいし、客席も100人もはいるだろうか。8割くらいのいりこみだった。
 老人料金は1000円であった。さてこれは高いのか安いのか。もうちょっと待てば、近くの貸しディスク屋で老人料金200円で1週間かりられる。

 どうして見に行ったか。
 大学時代の山岳部仲間から、面白かったというメールが来たこと、昔々、この映画原作となっているハインリッヒ・ハーラー著「白い蜘蛛」を読んだ記憶があること、そして2006年6月にわたしはアイガー北壁を登ったことがあるからだ。
 登ったとは、北壁の中のトンネルをユングフラウ登山鉄道で登ったのである。
 それにしてもこんなところを電車を通すなんて、ものすごいことをやるものである。今なら環境保護派が承知しないだろう。
 長いトンネルを掘ったズリを、北壁の横にあけた穴から下に落としたのだそうで、途中の駅でその穴から外をのぞき見ることができる。

 ユングフラウ・ヨッホからの帰りには、トンネルを出たところのアイガーグレッチャー駅で途中下車し、歩いて下山を始めた。
 左にメンヒとユングフラウを眺めつつ、アイガー氷河に沿って下る。氷河の末端部が滝のように崩れ落ちる巨大さやら、その汚れやらに驚嘆する。
 とにかくあらゆる風景がスケールが雄大であり巨大であることに驚いている。

 放牧の牛の糞だらけの草原を下って、クライネシャイデック駅につく。ここのホテルが、北壁と共にもうひとつの映画の舞台であった。
 北壁の雪と氷と岩の壁に宙吊りとなって苦闘するトニー・クルツたちの苛烈な風景の映像が突然に一転して、暖炉の火の燃える温かく優雅なホテルの内部に替わる。
 この極端なる対比を映像は狙っていたのだろうが、ちょっと常套的すぎる。

 対比といえば、当時(1936年)のナチの台頭による政治的な様相を、オーストリア併合の問題も含めて、このアイガー北壁登攀に絡ませていることも、違和感があった。
 もちろん原作にはそんなことは書いてないのである。
 ただ登りたいだけのアルピニストに、政治を絡ませるのは映画としてはありうることだ。ただし、描き方がどうもとってつけた感があり、どこかしっくりこなかった。

 クライネシャイデックで一息入れて、右に方向を変えて下っていく。今度は右にアイガー北壁の正面をいつまでも眺めていられる。
 下のほうはよく見えているのだが、上方の「白い蜘蛛」辺りから上は雲の行き来が忙しい。あまりに巨大すぎて、見上げる首が痛い。足元に注意しつつ真正面から見上げるアイガー北壁を堪能する。
 これだけでかいと日本の山の岩登りはものすごく小さく思えて、ルートハンティングの勝手がおおいに違いそうだ。
 なんだかどこでも登れそうだが、はっとスケールを勘違いしていることに気付き、どこも登れそうにないと見えてくる。
 
 赤い断崖の下あたりや、その左あたりにいくつかの穴が見える。左の穴は窓になっていて、アイガーヴァント駅のところで、登りには途中下車してそこからこちらを見下ろしたことろだ。
 右のほうの穴は、最後にトニー・クルツ救助隊がここから北壁に取り付いた。
 悲劇の主人公トニー・クルツの恋人はここから出て、トニーを励ましつつ、氷の岸壁で夜を明かしたし、目の前にぶら下がるトニーの死を見つめることになる(原作にはない)。
 この女性を登場させるのも、映画の常套手段として、もっともらしいことであるとは思った。
 トニークルツに肩入れしたい昔山岳部としては、彼女をもっと純粋な形に登場させてほしかった。

 さて、たっぷりと北壁の眺めを味わいつつお花畑を下っていった。仲間は咲き乱れる花にしゃがみこんだりしているが、わたしはもっぱら見上げているばかり。
 そうやってアルピグレン駅まで歩き、また登山電車でグリンデルヴァルトに下った。

 映画の原作といっている「白い蜘蛛」を、昔々わたしは読んだ覚えがあるのだ。学生の頃だろうか。
 その中にあった一枚の写真、トニー・クルツがザイルで空中にぶら下がる姿に、強烈な印象をうけたのだった。救助のために出た坑道辺りから撮った書いてあった(ような気がする)。

 映画を見てきて、「白い蜘蛛」を県立図書館から借りて再び読んだ。奥付を見ると、1938年に初登攀したハイリッヒハーラーが1958年に出版した「DIE WEISSE SPINNE Die Gschichte der Eiger-Nortwand]で、日本では「白い蜘蛛-アイガーの北壁」と題して1960年に横川文男訳で出版している。
 ところが不思議なことに、そのトニー・クルツの写真がないのである。ということは、わたしの読んだのは別のなにからしいが、いったいそれは何だったろうか。

 岩壁登攀の映像は、かつて岩登りをしていたことがあるものから見ても、なかなか迫力があった。
 「アイガーサンクション」という映画があったが、岩壁登攀映像はインチキ臭くて、見るのがバカらしくなったものだ。
 ただ、岩登りをしていたものや、登攀ルートの知識のあるものには興味深いが、それだけに物足りない感がある。
 もっと事前のルートハンティングや、現場でのルートファインディングの苦労を見せてほしいものである。

 逆に、岩登り知識のないものには、場面場面の迫力はあるが、なぜそうなるのか全然分からないだろう。自然は厳しいものだなあ、てなくらいなものだろう。
 まあ、娯楽映画はそんなもんだ、といえばそうなのであろう。
 日本の山岳映画として最近評判になった「剣岳 点の記」よりははるかによかった。「点の記」はストーリーがなってないし、風景映像は美しいが順序がでたらめ、下界でのあれこれ場面がなんで必要なのかさっぱり分からなかった。

●参照→昔山岳部●参照→・ヨーロッパアルプスは棚田だった(2006)
http://homepage2.nifty.com/datey/swissalps.htm

2010/04/27

263【都市と地域】民主党は100万票失うか

 民主党政権が政府事業の仕分けをしていて、都市再生機構(UR)が槍玉に上がったとか。
 詳しいことは政府のそのページに書いてあるが新聞報道も見ると、第1に都市再生事業を縮小すること、第2に賃貸住宅事業を縮小すること、第3に関連会社への随意契約発注を廃止する、この3点らしい。
    ◆
 まず、第1の都市再生事業の件だが、これは縮小すると言うよりも方向を変えるべきと、わたしは思う。
 これまでURが行なってきた都市再生事業の中心である都市再開発事業(区画整理、市街地再開発事業)に関してみると、どうも政府、自治体系のなにかの施設の跡地(空き地)を狙って事業をやって来ている傾向が強い。
 都市再開発の本質は、過密で燃えやすいような密集市街地を改善することにある。
 しかし、URのやってきたことはその方向ではなくて、やりやすい大規模跡地を区画整理して大規模ビルを建てるとような仕事が多い。はっきり言えば、やるべきところよりも、やりやすいところばかりである。
 最近のURは、建物を建てて売ることができない制度になったとかで、土地だけ整理して民間事業者に卸売りする方式であるらしい。
 跡地整理ならはじめから民間でできるし、いや、民間事業者がやるほうが効率的である。
 URがこれからやるべき都市再開発は、民間企業ではなかなか取り組めない、息の長い採算性に乗らないような、しかし社会政策として取り組むべき事業である。
 例えば木造密集市街地、あるいはドヤ街のような環境の悪い居住地を改善するような事業である。それらは自治体ではとても無理なので、政府の社会政策として取り組むべきことであるからだ。
    ◆
 第2の賃貸住宅のことだが、報道では高級賃貸住宅はやめて民間に売却せよ、高齢者や低所得者対応賃貸住宅は公営にせよ、ということのようだ。
行政刷新会議のサイトを見るとこう書いてある。
「全員の意見は、高齢者・低所得者向け住宅の供用という政策目的の部分と市場家賃部分は切り分ける、その上で政策目的部分は自治体あるいは国、市場家賃部分は民営化/民間に売却/段階的に民間にシフトしていくべき、ということに集約されているので、その方向で整理していただくということを我々のWGの結論としたい。」
 これにはわたしは大反対である。なにか根本的な誤解か無知があるとしか思えない。
 民間賃貸住宅に仕分け人は暮らしたことがあるのだろうか。あの契約関係のひどいこと、管理のいい加減なこと、高額でしかも礼金を取ること、まったくもってどうして民間に任せろなんていえるのか。
 高級賃貸住宅というが、2LDKで18万円もするとは、高級なのは家賃だけなのだ。
 そのような高額にして狭い賃貸住宅を供給しなければならないようなURという公的事業体の仕組みこそが、日本の住宅政策の貧困であるのだ。
 質の良いものを安価に供給させるようにURを改めることこそ、民主党が自民党とは異なる政権としての事業仕分けのはずだ。
 仕分け人の言うことを住宅政策として翻訳すると、民間賃貸住宅が質が悪いから、UR賃貸も民間にせよと言っていることになるのだ。本末転倒もは甚だしい。
 住宅は社会資本であり社会政策であるということが、民主党になっても分かっていない。
 URが1955年から営々と供給してきたような、質の高い住宅が今こそ必要なのである。今の民間住宅はほとんどが、住宅公団以来のUR賃貸住宅のノウハウの上に立っているのだ。
 せっかく戦後に住宅公団から築きあげてきた室の高い住宅の供給体制を、低質な賃貸住宅がはびこる民間に移行するのは愚の骨頂である。
 民間任せの住宅政策、経済政策として住宅政策が、貧困ビジネスの繁栄に手を貸していることは、先般の暮から正月にかけての派遣村が見事にそれをあぶりだしたのだが、政治家は分かっているのだろうか。
 あるいは横浜寿町のドヤ街に行ってみれば、住宅政策の貧困がまさに現在の貧困ビジネスを支えていることがよく分かるはずだ。
 アフォーダブル賃貸住宅供給事業こそが、URの進む道であり、政策はそのように展開するべきだ。
 URが持っている77万戸の賃貸住宅のストックを、生かす道もそこにある。
 55年体制を危うく思想になった公団住宅住民の革新系への肩入れを、公団住宅の賃貸から分譲住宅への転換で阻止しようとしたと私は見ている。小さな財産を持った庶民は保守よりになる。
 そしてそうなって自民党政権を支えた。それが民主党政権で振り子は元に戻るのかと思っていたら、なんとこれでは民主党が55年体制の仕上げをする役割になるのだ。
 今回の仕分けによるUR賃貸住宅の縮減策は、もしかして、77万戸入居者の約100万票を民主党は敵にしたかもしれない。
 仕分け人たちは、住宅の需要側の視点で社会政策として事業を見るべきなのに、供給側の経済政策としての視点で見てしまっている。
 誰もが必要である住宅という基本的人権にかかる社会政策を、市場任せにするようでは民主党は自民党と同じである。
 参照→187民主党の居住・住宅政策は?
   ◆
 第3の関連会社への独占的発注であるが、これは昔わたしが仕事をしていた頃から、奇妙なことだと思っていた。
 わたしはURの仕事をしたことはないが、周辺からいろいろと聞いていた。
 例えばURの発注する建物の工事監理となると、かならずある特定会社が独占していた。八王子の多摩ニュータウンで起きた大規模な欠陥住宅事件も、工事監理がしっかりしていれば起きなかったことだが、この会社がやっていたような、。
 あるいは計画や設計に関しても、ある特定の会社はURのみからの受注で経営しているらしいのだ。しかし、そこの内部だけでは仕事をこなす能力が足りないので、他の設計事務所やゼネコンから人を派遣させて仕事をこなしていることもあった。
 URにも民間会社から派遣されている技術者が多いことは、聞いたことがある。
 なんでもかんでも一般競争入札による発注が良いとは決して言い得ないが、これまでのやり方が問題がありすぎたと、はたから見ていて思った。

2010/04/24

262【都市と地域】新白河駅前計画のアイデアコンペに入選した

 東北新幹線の新白河駅前の土地を持っている企業が、その活用についてアイデア募集コンペをやっていることを、WEBサーフィンしていたら偶然に見つけた。
http://www.sankinkk.co.jp/compe.htm

 2004年に起きた中越震災の被災地に復興支援のまねごとで、2005年秋からのちょくちょく行くようになっていた。
 地域おこしの事業に関わって連続して山村に行っていると、都市と同じ問題を抱えているが、もちろん都市における地域振興とは違った視点での問題が見えてきた。
 そのあたりことは「法末の四季」に書いている。

 山村地域振興政策について、現状に疑問を感じていて、新たな展開方法があるように考えるようになった。
 それは地域を振興することと、地域を閉じることを対にして考え、そういう政策が必要だということである。
 そこで、地方都市の中心とその周辺の過疎地域を結んで、地域の企業がそのような政策に対応する事業を、ソーシャルビジネスとしてできることがあるだろうと考えた。

 コンペの対象地になっている駅前に、そのソーシャルビジネスの拠点を設けて、「さとまち両全事業」となずけた事業展開することを提案応募した。
 結果は、いくつかの入選のひとつに入ったのであった。優秀賞ではなかったが、アドバイザー特別賞として、優秀賞と同じ賞金6万円である。
 アドバイザーの後藤春彦さんが認めてくださったのだろうと、嬉しい。
http://www.sankinkk.co.jp/ipan-koukai-shinsa-keka.pdf

 わたしの提案内容をわたしのサイトに掲載するには主催者の許可が要るだろうが、審査結果発表があったばかりだから、まだ掲載しない。
 とりあえずはコンペ入選なんてものに縁がなかったわたしの、ささやかな喜びを書いておくのだ。
提案書全文掲載(100502)→https://sites.google.com/site/machimorig0/sirakawa

2010/04/21

261【言葉の酔時記】腹立ち猜時記

 コンピューターを毎日いじっているが、まったくもってこんな役に立つ機械は無いと思う。わたしの人生がこれに間に合ってよかったとつくづく思う。
 その一方で、こんな未完成なものを売りつけてけしからん、そのうえ使い方の説明の日本語がまったくもってなっとらんと、腹が立つ毎日である。
 コンピューターばかりか、世の中分からんこと、なっとらんこと、そして危ないことが増えてくる。
 例えば、電気自動車なんてものをもてはやすのが分からない。
 電気自動車は排気ガス出さないけど、電気を製造するときにガスも核廃棄物もどしどし排出しているから、これはちっともクリーンじゃないぞ、なっとらん。
 もうひとつ例えば、大規模超高層マンションである。
 あんな危険きわまる代物を、どうして世間では売り買いするのか、まったくもって理解できない。阪神淡路大震災であれほどその危ないことを証明されたのに、もうわすれたのかしら。
  ◆
 アラウンド古稀のわたしはアラコキというらしい。ウソコキも上手になった。
 アラコキほどの馬齢を重ねると、そしてそれなりに知識は多く積み重なってくる。
 そしてまた、それなりに枯れてきたり、余裕の心になってくるはずである。
 ところが、わたしの知識と世の中の知識が、どうもずれて来ている様子があるのだ。
 だから、世のものごとがどうもおかしなこと、わからないことが多くなり、それが腹立つのである。
腹立つ方向は、なにも人様ばかりではなく、自分自身に対して腹立つことも多い。
 食い物に関しては、年とると不幸なのは、どんなに美味いものを食っても、どこかでこれより美味いものを食ったなあ、思い出すことである。
 若い頃はなにを食っても美味いと思っていたのに、不幸になった。
 変な言葉遣いをする若いやつらに出会うと、そんな口の利き方は無いだろうよと言いたくなるが、そこは我慢して腹が立つ。
 そう思って腹を立てる自分に腹が立つ。もっと素直に、美味いもの食ったときは真直に喜び、若者の感性を理解しろと、自分に言い聞かせる。
 あ、いかん、年寄りの愚痴を言うのではないのであった。
   ◆
 そんなことを「伊達な世界」ブログ「まちもり通信」サイトに、グダグダだととりとめもなく書き連ねてきた。あまりぼう大になったので、その中でいくつかを採り上げて、カテゴリーごとにまとめて編集してみた。
 実は5年ほど前にも同じようなことを考えて、そのときは書籍にして出版しようかと考えた。
 だが、これだけインターネットが普及すると、紙情報よりもこちらのほうがよさそうな感じになってきた。
 売れなくて抱え込むことは無いし、わたしが死んでも絶版は無いし、何時でも追加訂正できるし、制作費も送料もほぼただ同然である。
   ◆
 というわけで、題して「腹立ち猜時記」である。
第1章 自分のPCなのに分からん
第2章 ブログが分からん
第3章 ハイテクITが分からん(業界編)
第4章 ハイテクITが分からん(言葉編)
第5章 デジカメが分からん
第6章 電気自動車が分からん
第7章 電話もテレビもおかしい
第8章 日本語がおかしい(会話編)
第9章 日本語がおかしい(単語編)
第10章 医療がおかしい
第11章 マンションがあぶない
第12章 東京駅があぶない
   ◆
 ところで、これについて面白いことがあった。
 WEBサーフィンで偶然に「作家になろう」というサイトを見つけた。サイトの管理者はインテルとあるから、アメリカのハイテク企業らしい。
 小説とかエッセイとか日記とかの原稿を、そのサイトにあるシステムに投稿すると、そのサイトの中で書籍のような形にして読むことができるのである。
 もちろん投稿すればそのまま公開されるのではなくて、管理者のインテル側で審査して、公序良俗違反とか特定宣伝とか誹謗中傷とかあれば、公開掲載不可となって書き直しを求められる。
 そこで、この「腹立ち猜時記」を投稿したのである。各章ごとに審査をするのであるが、結果は見事にどの章も公開不可となった。
 いくつかの章はコンピューター屋を罵倒しているから、あちらから見れば誹謗中傷に読めるのであろうから、それはしかたがない。ほかの章がどうしてNOなのかは分からないが、それなりの企業判断があるのだろうから、それもしかたがないか、。
 そこで、ためしに「横浜B級観光ガイド」を投稿してみたら、これも全章が公開不可の通知が来たのであった。
 う~む、オレはそんな無茶を書いているのかなあ、、、世の中が分からなくなった。