2010/06/07

273【文化・歴史】木喰上人作の栃窪薬師堂にある仏像群は集落民の群像にちがいない


 木喰仏はやはり里の仏であり、庶民の家の仏であった。
 これまでにいくつか木喰仏のことを書いているが、このたび改めてそう思った。
 遅い春が終わったと思ったらいきなり夏の日照りの6月6日、栃木県鹿沼市の栃窪集落に、木喰仏を訪ねる機会があった。木喰上人の末裔、伊藤勇さんが企画してくださった。
 栃窪あたりは、関東平野が北にいたってそろそろ尽きようとする地域で、低い丘陵まじりののどかな田園地帯である。点在する集落ごとに今も寺や社が見える。
    ◆
 栃窪の薬師堂には、薬師如来、日光・月光両菩薩、十二神将など15体の木喰作の木彫像がある。1780年、木喰行道が弟子の白道とともにふらりと立ち寄って、50日間滞在したときの作品である。
 木喰は全国廻行の旅の途中、泊めてもらったもてなしに応えるべく仏像を彫って、世話になった人たちに、あるいは集落においていった。
 栃窪にその頃あった寺に滞在し、薬師堂を建立して15体の木彫仏像の群像を置いていったし、3軒の個人宅にも4体をおいていった。
 このたび、それらを守り伝える地元の人たちが薬師堂に集めてくださって、一度に見る機会があった。 

    ◆
 1780年といえば木喰上人は63歳である。仏像を彫り始めてからまだ3年、後の微笑仏と比べればいかにも古拙とも言うべき出来である。3体の墨書には弟子の白道の名もあるそうだから、共作であろう。
 薬師堂の段に居並ぶ十二神将たちの顔が、実は栃窪集落の人たちを写したのであろう、との解説を聞いた。それが証拠には神将たちは、それぞれ鎌や鋤、火縄などを持っているのである。
 中にはバアチャンにも見える素朴にしてリアルな十二神将の表情は、なるほどそのせいであるのかと納得する。世話してくれた人たちへの似顔絵ならぬ似顔彫刻とすれば、その子孫が薬師堂で仏を拝めば、そのまま先祖の面影に再会することもできることになる。これは栃窪集落民の群像彫刻である。
    ◆
 集落内の家に伝わる木喰仏も見せていただいたが、これらは普段は仏壇に安置するのだろうが、家の人たちが抱いたり磨いたりするし、子どもの玩具にもなったという。
 薬師堂仏と家仏と比べて面白かったのは、薬師堂仏は初期木喰仏のどこか無骨さをみせているのに対して、家仏はながらく人の手に触られて黒光りし、彫りの鑿跡も丸みがついて、どこか後の微笑仏につながるやさしさが加わっていたことだ。
 そして家仏として大小二つの大黒天という福の神を遺しているところが興味深い。庶民には教義の難解な真言密教の仏よりも、日常の冨をもたらす福の神である。
 薬師堂の木喰仏たちも、多分、かつては抱かれ、遊びに使われてもいたのであろう。それがまさに木喰仏らしい信仰の仕方とも言える。
    ◆
 この薬師堂と木喰仏は、いまや24戸となったこの小さな集落民たちで維持している。薬師堂とその前にある神社、そして神社境内にある公会堂、これらは一体となった集落のコミュニティセンターであるようだ。
 薬師堂の木喰仏は県の文化財指定となって、かつてのように自由に触ることはできない。しかし文化財を守るために大谷石で囲われる耐火の御堂を、県からの補助金を入れて建てることができた。
 集落ではこの薬師堂で「天然仏」という毎年の民俗行事の祭礼をおこなっているそうだ。そのときは薬師堂も神社もひとつのイベント会場となる。祭例をつかさどるのは、近くの寺院の僧侶であるという。
 ここの木喰仏の現代における大きな意味は、集落共同体の象徴となって、コミュニティーの継続に寄与していることであろう。かつては信仰とはそういうものであったのだろう。
    ◆
 大正末期の柳宗悦による木喰仏発見によって美術となった後と、それ以前の無名の里の仏とでは、木喰仏のイコン性は社会的には大きく変わった。
 ここ栃窪集落でも、県文化財指定によって里におけるイコン性に微妙な変化があっただろう。全国各地でどのような変化があったか知りたい気がする。
 仏像や神像には、堂宇の奥深く安置されてめったに見ることもましてや触ることもできないものもあれば、全く逆に家庭の仏壇や神棚に置かれて日常的に目に触れ手にとるものもある。その間にはいくつもの段階があるだろう。
 木喰仏ははじめは後者であったのだろうが、今ではほとんどが前者になりつつあるようだ。
 栃窪の薬師堂の仏像群も、創建時は狭いお堂の中で手にとるようにしていたかもしれない。それが壇に飾られ、箱に入れられ、今では仏像群だけを隔離する鉄の扉の向うに安置される。
 江戸時代に一宿一飯のお礼に木彫をおいていく旅の勧進僧(勧進は乞食と同義語になった)を、集落や商人たちがマレビトとして歓迎したようだ。絵描きもそうやって旅をしていたし、俳諧の松尾芭蕉も似たようなものだ。
 マレビトを迎えた集落の人たちは、そのもたらしてくる見知らぬ外の世界の情報に耳をかたむけていたのだろう。その人と情報のイコンとして木彫像は後世にまで伝えられた。
    ◆
 鹿沼栃窪の薬師堂に行くときは車に乗せてもらったが、帰りは鹿沼駅まで2キロあまりを歩いた。
 日本各地を行脚した木喰上人が見た田園風景を、木喰上人と同じ視線と歩みでみてこそ、木喰仏の里の仏としての意味が分かるかもしれないと思うのである。
 現代のスピードで木喰仏に行き着き、仏像を鑑賞だけしただけまた現代のスピードで立ち去っていては、あまりに見えないことがありすぎる。
 木喰上人を接待し、木喰の仏像を大切に守ってきた集落の田園、家屋、寺院、神社など、木喰の風景をゆったりと見たかったのである。
 もっとも、歩く道には自動車が行き交って、うるさく危険であり、本当なら田圃の中の畦道を通りたかったが、道不案内では仕方なかった。
 次の3回目に丸畑に行くときは、あの静かな林の中の坂道をゆっくりと歩いて登ってみたい。

◆参照
3つの展覧会http://datey.blogspot.com/2008/07/blog-post_11.html
木喰微笑仏の微笑とはhttp://datey.blogspot.com/2009/04/115.html
木喰の風景https://sites.google.com/site/machimorig0/mokujikibutu

2010/06/03

272【世相戯評】鳩から豆鉄砲を撃たれてしまった選挙民

 わたしが小学生のころは首相といえば鳩山一郎、吉田茂とだれでも覚えていたものだ。この20年くらいは、子どもはもちろんだが大人も覚えていられない。
 ましてや外国のお方は、日本に首相はいるのかしら、なんて。
 まあ、それでも日常生活はかわらないから、政治はわたしには遠いものである。沖縄の人はそうは行かないだろうけど、。
 またまた、またもや、こんどもまた、総理大臣をおとりかえ交換する選挙民は、いったいどういうおつもりなんでしょうかと、選挙しなかったわたしは思うのだ。

 それにしても民主党も変った姓の人が多い。このところTVニュースを見ているので、政治家の名前の読み方も分かったのだ。ま、小沢とか岡田とか陳腐な姓の方もいますけどね。
 鳩山なんて姓というよりも雅号ですな。ハトヤマキュウザンなんてしゃれていると思うけどなあ、引退して名乗ってはいかがですか。あ、逆にして鳩山山鳩、サンキュウでは、、。

 菅というのも読みに困る。スガって政治家もいたな、友人にスゲさんがいる。
 そして樽床とは超珍しい、テレビ見たからタルトコとわかった。知床を連想して北海道の方かと思ったら、言葉に関西訛りがある。
 ところで、今回の辞職ってイシュウが分かりやすいなあ、オバマさんのアメリカに対するあてつけ、いや抗議のハラキリか。
 それなら選挙民はハトを責めるのじゃなくてオバマを責めなくっちゃ。

2010/06/02

271【横浜ご近所探検】バスバー

 もう3年も前(2007年)の夏、寿町のホステルビレッジに友人たちと泊まった。ドヤ街のドヤをヤドにしているところ。
 その頃の経営はファニービーという会社で、ステキな女性リーダーと、奇妙なオジサンが居た。今はどちらもいないしファニービーも消えて、コトラボ会社の経営である。

 さて、泊まった晩のこと、そのお二人の案内でわたしたちは奇妙なバーに行った。
 本牧あたりの先で街の灯は消え去り、高速道路の高架をくぐって、草ぼうぼうの埋立地の先、物揚場らしい岸壁の上に出た。横浜の秘境か。
 先方に青色のボロバスがとまっていて、これがバーである。暗い岸壁の上に木のテーブルとベンチもある。バスの中も怪しい雰囲気である。

 岸壁の上で飲んでいると、背中から高速道路の高架から騒音と排ガスが降ってくる。目前には暗い入り江があって、向こう岸には高層団地住宅の灯がきらめいていて、こちら側の殺伐たる風景と対照的である。
 まあ、普通の常識では営業はありえない場所であった。もちろん非合法営業だろう。
 だがこちらとしてはその場所といい、非合法をいい、アジールそのもので、酒の味がいちだんと美味いのであった。大げさに言えば、禁酒法時代の酒飲みの秘密のタノシミと冒険の感もあった。
 参照→http://jsurp.net/machikan/yokohamareport.pdf


 さて今年3月末、そのときに一緒に行った仲間が近くを通りがかりに寄ってみたら、消えていたとのことだった。
 そしてまたそのすぐ後に、そのときの別の仲間から、BANKART・NYKに近いうちに営業再開するとの情報をもらった。

 気になっていたがようやく今日、BANKART・NYKに行ってみたら、青バスが岸壁にとまっていた。おお、これか~、BANKARTも粋なことやるもんだな。
 BANKART喫茶コーナーの女性に聞けば、4月からここで再開、夜8時から午前2時まで営業とのこと。
 バスを見れば、ボロではあるがえらくきれいなのは、塗り替えたのかしら。その女性は前のバスバーに行ったことないが、持ってきたと聞いているとのこと。

 今度は非合法であるはずがない。なにしろ日本郵船の土地だし、市が運営するBANKARTの敷地の中なのだから。その上、隣が神奈川県警本部であるのだ。
 だからバスは綺麗になったし、風景もMM21の超高層やら横浜港のベイブリッジが見えたりして、前がB級というかC級だったのに、今度はA級に格上げである。
 管理された非合法?になってアジール性はすっかり消えたようだが、まあ、アートだと思えばそれでよいか。
 いつか夜になって寄ってみたい。
●参照→横浜B級観光ガイド:関外地区


(追記100612)
 BANKART-NYKで2010年6月12日午後から夜にかけて、昨年暮に急逝した北沢猛さんを回顧してこれからの都市デザインを考える会があった。250人もの大勢が集まった。
 会が終わって岸壁側に出て、バスバーに寄った。
 
いろいろとあちこちから聞くと、前のところを立ち退きとなって、常連の人たちがあちこちに移転先を探しているうちに、BANKARTの関係者に話が届き、そこはアートの世界であるから、面白い、やろうと一気に進めてしまったのだそうだ。

 マスターはあんまり忙しいのは嫌だから、宣伝はしないでと頼んでいるから、世に知られていないが、常連やら面白がり屋やらがやってくる。今夜もいっぱいであった。
 海面に映るミナトミライの灯が見えて、A級穴場になってしまったが、中に座れば雰囲気は前のままである。

2010/05/29

270【言葉の酔時記】はずかしがりもせずにヘノコヘノコと辺野古談義

 ヘ〇コと書くなんてイヤラシイ、ワタシャミントーメンとフクシマさん。
 オレにたてつくとはフテだってハトヤマさん。
 まったくもってキナワメーワクだってナカイマさん。
 久しぶりにTVを見たら、ニュースでそのいきさつをやっていた。
 ヘ〇コ、ヘ〇コと男女が口々にいう。聴いてるこちらが恥かしい、まあ、いろんな意味でね、。
●参照→212辺野古仕分け分別

 わたしがそんな政治ニュースをTVでわざわざ見るし、つい先日もPCで仕分け作業のNET中継を見てしまったくらいだから、新政権は目に見える政治にしたことは、少なくとも前政権とは大きな違いがある。
 これは功績だと思う、内容についてはいろいろとイチャモンはあるがね。
●参照→263民主党は77万票失うか 167時代遅れの民主党公約

2010/05/25

269【法末の四季】山村の棚田で今年も田植えをしてきた

 中越の棚田で、仲間10人と田植えをしてきた。久しぶりの法主集落である。
 この冬は、この豪雪地の住人たちさえも話題にするほどの、まれに見る大雪だった。
 行く道の回りにある杉林のあちこちに、幹が途中から折れた跡が、白く痛々しく見えている。
 わたしたちの拠点の民家も、屋敷周りに植えてある杉の木のうちの2本が、根元近くからボッキリ折れた。モウソウ竹も何本も折れ曲がっている。
 北隣との境のケヤキの木は、雪で危ないので隣の方が伐った。庭木の松ノ木も、支柱にしていた竹が支えきれなくて倒れた。
 母屋と土蔵とを結ぶ廊下が、震災で少し傾いていたのが、雪の重みで傾きが進んだようだ。次の冬も大雪になったら倒壊するかもしれない。
 それでも春がくれば、スギナの草原になった庭には、花が咲いて風情がでてくる。タケノコやらウドも生えてきて、美味い料理になった。
   ◆
 田植えする棚田は合計で5段で5枚ある。昨年までは3枚で、今年は2枚増えた。
 さすがに5枚もとなると、あわせて2000平米近くなって、これまでにように遊びでやっているのだから田植えも稲刈りもなんでも人力でやってみよう、ってわけには行かない。
 3枚は田植え機で、広い2枚を手で植えたのであった。手で植える田には、あらかじめ六角という6角柱の木の梯子のような道具を転がして、碁盤目を土につけておく。その交点に植えていくのだが、なにしろ水中にあるから歩くそばからにごって見えなくなるので、ある程度は適当にやることになる。実はいい加減間隔に植えると、あとで困ることがあるのだが、まあいいや。。
 ウグイスを聞きながらの田植えは、腰の痛いのは兎も角としても、なかなかに風流なものであった。
 新たに増えたのは、その持ち主の住民の方から、もう疲れたのでやってくれないかと仲間に話があったので、できるだけ支援してみることにしたのだ。
 限界を超えた集落だから、このようなことが次第に起きてくるだろう。農業後継者がまれな時代だから、集落では珍しいことではなくて既にあちこちで起きていることである。たまたま今回はわたしたちが話を受けてやることになったのだ。
   ◆
 考えてみれば、この集落にはじめて仲間が来てからもう6年目、米作り体験も4回目の季節に入った。
 こうやって話を持ってきてくださるのは、仲間の努力で集落の方たちから信用される立場になったということであろう。
 しかし、農業技術があるわけではないし、毎日いるのではないから、作業方法や日常管理は地元の方の指導に頼らざるを得ない。
 これから米つくり体験の場を増やすわけにもいかない。増やすなら他から人を連れてくるしかない。仲間の中にはそんな実験を始めようとしているものもいる。
 しかしこれから先、どの棚田も誰かが耕作継承とか支援をすることはできないから、放棄棚田は増えてくるだろう。そのままにしておけば、草が生え木が生えて次第に森に還っていくのが、日本の自然の強さである。
 自然はそれでもよいと思うのだが、人間の高齢化は元に還ることはないから、集落はどうなっていくだろうか。集落縮退計画なるものが必要だろうか、あるいはそのような計画がありうるものだろうか。思案する。
●参照→●中越山村・法末の四季
    ●中越法末・四季物語

2010/05/17

268【本作り趣味】新しい趣味として自家製本づくりを始めることにした

 新しい趣味を始めようと思い立った。思い立ったら書いておかないと忘れるから、ここに書く。
 しかも、道具をすぐに揃えたから、思うだけでやらないってわけには行かないハメに、自分自身を陥らせたのである。
 製本というか装丁というかブックデザインというか、そういう手仕事をやってみることにした。

 早速に図書館からそのための本を借りてきた。栃折久美子著「ワープロで私家版づくり」と同じ著者の「装丁ノート」である。
 読んで基本的なことは分かった。そこでWEB検索したら、ここにも製本の方法を書いたサイトがいくつもある。
 WEBサイトでわかったのだが、自分史を書いて本にしたり、ブログに書いたことを本にするのが流行しているらしい。

 それは自費出版もあるけど、製本趣味で本にすることも流行しているようだ。製本趣味の教室もあるらしいし、NHKで趣味の放送もあったとか。
 なるほど、そういう時代なのか。
 栃折さんの本を読むと、製本はけっこう大昔からあった手仕事で、それなりに面白そうで、奥も深いようだ。
   
 わたしが突然に製本を趣味にしようかと思いついたのは、「父の十五年戦争」なる長文の記録を書いて、キンコーズでプリンター印刷し、ステップラーで中綴じしたA5版冊子を数冊つくり、従兄妹と息子たちに配ったことに端を発する。

 一応は配布し終えたのだが、そうか、表紙をつけてもうちょっと格好よい本にすることもあるなと気が付いた。しかも自分の趣味で一冊一冊異なるデザインにするのだ。いいぞ。
 そうやって、東急ハンズと100円ストアーであれこれと材料と道具を買ってしまったのだ。

 では早速に本にしようかと、新たな紙に新たなインクで印刷をして、5折りの本文(ほんもん)はできた。これを糸で綴じるかと眺めているうちに、もっと厚いほうが立派になるなあ、なんて、欲が出てきた。
 そうなると、ほかの原稿も取り出して編集することになる。それはそれで面白そうだ。やってみようと思いついた。

 だが、まだ始めていない。ほかに先にやるべきことが、それなりにある。
 楽しみは6月になってからだ。趣味は急ぐことはない。問題は忘れることだけだ。だからここに書いておく。

参照⇒◆「まちもり叢書」自家製ブックレットシリーズ

2010/05/16

267【各地の風景】鎌倉鶴岡八幡宮の大銀杏が消えた風景

 久しぶりに鎌倉に行った。今日のお目当ては、鶴岡八幡宮の大銀杏である。この3月に参道大石段脇にあった大銀杏が強風にあっけなく倒れた。
 数百年を越えて聳え立つていたから、永遠に立つものと誰もが思っていたから、そのあっけなさに驚いたものだ。
 あれは生き物であったのだ。遠くから見れば狂気の逆髪のごとく枝葉を天に乱し広げていたし、近くに寄れば巨大な胴周りに気根が牢爺人の瘤か老婆の垂れ乳のごとくにぶら下がり、そろそろ妖怪変化銀杏になる生き物の雰囲気を宿していたものだ。
大銀杏があった頃の景観

大銀杏がなくなった今の景観

 わたしは八幡宮の正面からの写真を、四季に応じてけっこうたくさん撮ってきている。大銀杏が目当てではなくて、社叢森の生態的変化をとらえたいのだ。
 大銀杏が消えた八幡宮の正面の風景は、大銀杏が左半分隠していた随身門が、今は全部見えるようになった。さてこれをどう評価するか。
 この大石段上の随身門は、若宮大路の南方の遠くからも望むことができる。銀杏がある頃よりもよく見えるようになってランドマークの性格が強くなった。
 西欧的な意味ではこれのほうが良いのだろう。

 しかし日本のランドマーク性は、むしろ奥深くに見えないところに隠すことによって深まるのだ。伊勢神宮内宮にしても天皇の居所にしてもそうなのである。
 その点では銀杏によって見え隠れする八幡宮のほうが日本的な象徴性を持っているのである。
 もっとも、それは日本の古代的な思潮であり、仏教が輸入されてからは大伽藍を造って顕示型になったとすれば、八幡宮もながらく八幡宮寺であったのだから、現在のような視覚に仰々しいほうが正しいのだろう。
倒れた大銀杏の根からひこばえが育つのを待つ

●参照→大銀杏の死 

2010/05/10

266【老い行く自分】さくらんぼ狩りをして少年時代の神社境内の生り物の味覚を思い出す

 サクランボを木から直接とって食べ放題、そんな贅沢をした。近くに住む友人の庭木である。実の付いた枝を折ってもらってもちかえった。
 太陽の下で、赤い実を一粒づつつまんでは口に入れていると、思い出したのは少年時のこと、生家の神社境内にあったユスラウメを同じようにして食っていた。
 そういえばその頃、本当にサクランボを食ったことを思いだした。参道の石段沿いに山桜と八重桜があり、そのなかに花が散ったあとで大きめの実をつけるものがあった。
 濃い紫色になる頃に食べると、口の中が紫色になった。ただし美味くはなかったから、味を試す程度だった。今のようなサクランボがあることを知らなかった頃のことで、これをサクランボといっていた。
   ◆
 境内の広場の周りや山林には、いろいろな木の実、果実が四季に応じて勝手に実った。何の手入れもしていないが、そういうものであった。
 戦後の食べのもののない頃は、腹の足しにするおやつでもあった。子どもはそれで四季を知る。
 春の桃は数個が生った。昨今の店に並ぶものと違って、歯ごたえがあり、ほんのり甘くほんのり酸っぱかった。懐かしい味だが、もう出会えそうにない。
 梅の実はたくさんなった。母が梅干を作っていたこともあった。
 広い斜面の竹やぶには、マダケのタケノコがたくさん生えてくる。ちょっととって来てと台所から母に言われて、崖上から身を乗り出しタケノコを折りとった拍子にヤブの斜面をずり落ちたことがあった。
   ◆
 夏になるとユスラウメとグミである。たくさんの実をながい間にわたって食べさせてくれる。グミといわず違う名であったが、思い出せない(追記100620 これを読んだ高校同期の女性がメールをくれて、30分考えて「ぐいび」といったと思い出して教えてくれた)。
 秋は銀杏の巨木から、たくさんの臭い実が落ちてきた。拾い集めて樽に入れてかき回して皮と種を分離する。種を干しておいて貯蔵し、ホーロクで炒って食べた。そういえば焙烙なる素焼き陶器の台所道具は、今もあるのだろうか。
 林の中の一角にキノコが群生していて、これは食べられたが、なんと言うキノコだったのだろうか。
 山栗のイガがはじけて落ちてくる。朝早く拾わないと、散歩に来た人に拾われてしまう。鎮守の森の山林のあちこちに栗の木があるのだが、これはその場所を知っている境内の住人のわたしの秘密の場所である。
 甘柿渋柿2本の柿ノ木には、1年交替でたくさんの実がなった。渋柿はゆでて甘くした。
   ◆
 冬はなにかあったろうか。そうだ柚子があった。濃い緑の葉の独特の香りと、棘を思い出す。葉を食って育った大きな毛虫が、そのまま柚子の葉のにおいを発散していた。
 父が京都の苗木屋から取り寄せて植えた果実の木があった。その名は「チンカポポー」。幼児の耳にも覚えていて、どんな実が成るかたのしみだった。だが、この木は大きくなるばかりで、一向に実がならないままだった。チンカは珍果であったらしい。
   ◆
 ずっと後に鎌倉に住むようになり、庭にユスラウメとグミを実らせたのは、思い出の再現である。
 庭に実生で生えてきた枇杷の木を大きくしたが、これは実が出るとすぐにリスに食われてしまって、めったに人間の口に入らなかった。
 その裏山には栗の果樹園があった。栽培中は入れないが、終わると入れたので枯葉のなかに拾い残しを拾った。キノコも沢山出ていたが、さすがにこれは採集する気にはなれなかった。
   ◆
 サクランボの友人の庭にも、たくさんの実のなる木があった。梅、ヤマモモ、甘夏、みかん、柿、キウィ、ユズなど、味で四季を感じさせる。この元プラスチック技術者は、玄人大工はだしのDIY趣味の延長上で果実作りもやっている。
 韮崎にいる友人もいろいろな果実をつくっているが、こちらは庭ではなくて広い畑である。ここのサクランボはまだならない。リンゴ、ソルダム、栗などとともに、何種類もの野菜も植えていて、この情報工学の専門家はロボット盲導犬の開発に忙しいが、農作にも忙しい。

 参照→136小屋を建てる 025今もし失明したら

2010/05/06

265【各地の景観】醜い景観を醜くなかった頃の景観に復元して遊ぶ景観戯造ごっこ

 インターネットのウェブサイト作りは、高齢社会のボケを防止する有用な道具であると思う。
 まちもり通信サイトで「景観戯造」というシリーズを始めた。
 これは美しい都市景観や自然景観をみていて、あれさえなければもっと良いのにという景観の中の異物を取除くという、景観を偽造する遊びである。

 本物の景観から取除くことはできないが、画像ならそれなりにできることがある。
 ある景観の画像をいじって、要らないかもしれないものを取除いてみると、意外な姿が現れることがある。
 あういは期待に反して、たいして違わないものが現れることもある。
 そんな遊びのような、景観スタディのような、現実ではできないけど画面ではできること、そうやって風景を偽造してみるのだ。

 江戸の名園の今と昔のありえたかもしれない姿、美しい山岳風景とその昔に見えたかもしれない風景など、いくつかの戯造した景観を載せる。
 ご覧になって、さて、あなたはどちらの風景をお好きですか?

題して
景観戯造


その1例をどうぞ

このほか多数あり

今後、ヒマにまかせて随時に追加していきます。

2010/05/02

264【各地の景観】スイスアルプスのアイガー北壁

 ドイツ映画「アイガー北壁」を見てきた。
 映画館に入ったのは何年ぶりだろうか。
 シネなんとかっていう、いくつも映写ホールのある映画館だが、スクリーンがずいぶん小さいし、客席も100人もはいるだろうか。8割くらいのいりこみだった。
 老人料金は1000円であった。さてこれは高いのか安いのか。もうちょっと待てば、近くの貸しディスク屋で老人料金200円で1週間かりられる。

 どうして見に行ったか。
 大学時代の山岳部仲間から、面白かったというメールが来たこと、昔々、この映画原作となっているハインリッヒ・ハーラー著「白い蜘蛛」を読んだ記憶があること、そして2006年6月にわたしはアイガー北壁を登ったことがあるからだ。
 登ったとは、北壁の中のトンネルをユングフラウ登山鉄道で登ったのである。
 それにしてもこんなところを電車を通すなんて、ものすごいことをやるものである。今なら環境保護派が承知しないだろう。
 長いトンネルを掘ったズリを、北壁の横にあけた穴から下に落としたのだそうで、途中の駅でその穴から外をのぞき見ることができる。

 ユングフラウ・ヨッホからの帰りには、トンネルを出たところのアイガーグレッチャー駅で途中下車し、歩いて下山を始めた。
 左にメンヒとユングフラウを眺めつつ、アイガー氷河に沿って下る。氷河の末端部が滝のように崩れ落ちる巨大さやら、その汚れやらに驚嘆する。
 とにかくあらゆる風景がスケールが雄大であり巨大であることに驚いている。

 放牧の牛の糞だらけの草原を下って、クライネシャイデック駅につく。ここのホテルが、北壁と共にもうひとつの映画の舞台であった。
 北壁の雪と氷と岩の壁に宙吊りとなって苦闘するトニー・クルツたちの苛烈な風景の映像が突然に一転して、暖炉の火の燃える温かく優雅なホテルの内部に替わる。
 この極端なる対比を映像は狙っていたのだろうが、ちょっと常套的すぎる。

 対比といえば、当時(1936年)のナチの台頭による政治的な様相を、オーストリア併合の問題も含めて、このアイガー北壁登攀に絡ませていることも、違和感があった。
 もちろん原作にはそんなことは書いてないのである。
 ただ登りたいだけのアルピニストに、政治を絡ませるのは映画としてはありうることだ。ただし、描き方がどうもとってつけた感があり、どこかしっくりこなかった。

 クライネシャイデックで一息入れて、右に方向を変えて下っていく。今度は右にアイガー北壁の正面をいつまでも眺めていられる。
 下のほうはよく見えているのだが、上方の「白い蜘蛛」辺りから上は雲の行き来が忙しい。あまりに巨大すぎて、見上げる首が痛い。足元に注意しつつ真正面から見上げるアイガー北壁を堪能する。
 これだけでかいと日本の山の岩登りはものすごく小さく思えて、ルートハンティングの勝手がおおいに違いそうだ。
 なんだかどこでも登れそうだが、はっとスケールを勘違いしていることに気付き、どこも登れそうにないと見えてくる。
 
 赤い断崖の下あたりや、その左あたりにいくつかの穴が見える。左の穴は窓になっていて、アイガーヴァント駅のところで、登りには途中下車してそこからこちらを見下ろしたことろだ。
 右のほうの穴は、最後にトニー・クルツ救助隊がここから北壁に取り付いた。
 悲劇の主人公トニー・クルツの恋人はここから出て、トニーを励ましつつ、氷の岸壁で夜を明かしたし、目の前にぶら下がるトニーの死を見つめることになる(原作にはない)。
 この女性を登場させるのも、映画の常套手段として、もっともらしいことであるとは思った。
 トニークルツに肩入れしたい昔山岳部としては、彼女をもっと純粋な形に登場させてほしかった。

 さて、たっぷりと北壁の眺めを味わいつつお花畑を下っていった。仲間は咲き乱れる花にしゃがみこんだりしているが、わたしはもっぱら見上げているばかり。
 そうやってアルピグレン駅まで歩き、また登山電車でグリンデルヴァルトに下った。

 映画の原作といっている「白い蜘蛛」を、昔々わたしは読んだ覚えがあるのだ。学生の頃だろうか。
 その中にあった一枚の写真、トニー・クルツがザイルで空中にぶら下がる姿に、強烈な印象をうけたのだった。救助のために出た坑道辺りから撮った書いてあった(ような気がする)。

 映画を見てきて、「白い蜘蛛」を県立図書館から借りて再び読んだ。奥付を見ると、1938年に初登攀したハイリッヒハーラーが1958年に出版した「DIE WEISSE SPINNE Die Gschichte der Eiger-Nortwand]で、日本では「白い蜘蛛-アイガーの北壁」と題して1960年に横川文男訳で出版している。
 ところが不思議なことに、そのトニー・クルツの写真がないのである。ということは、わたしの読んだのは別のなにからしいが、いったいそれは何だったろうか。

 岩壁登攀の映像は、かつて岩登りをしていたことがあるものから見ても、なかなか迫力があった。
 「アイガーサンクション」という映画があったが、岩壁登攀映像はインチキ臭くて、見るのがバカらしくなったものだ。
 ただ、岩登りをしていたものや、登攀ルートの知識のあるものには興味深いが、それだけに物足りない感がある。
 もっと事前のルートハンティングや、現場でのルートファインディングの苦労を見せてほしいものである。

 逆に、岩登り知識のないものには、場面場面の迫力はあるが、なぜそうなるのか全然分からないだろう。自然は厳しいものだなあ、てなくらいなものだろう。
 まあ、娯楽映画はそんなもんだ、といえばそうなのであろう。
 日本の山岳映画として最近評判になった「剣岳 点の記」よりははるかによかった。「点の記」はストーリーがなってないし、風景映像は美しいが順序がでたらめ、下界でのあれこれ場面がなんで必要なのかさっぱり分からなかった。

●参照→昔山岳部●参照→・ヨーロッパアルプスは棚田だった(2006)
http://homepage2.nifty.com/datey/swissalps.htm