2010/08/11

303【歴史・文化】南海の海中で世界遺産となった旧日本群の戦艦

 さきにビキニ環礁が世界遺産として登録されたことを書いた。
 昨日、読んでいたものの本に、そこには戦艦長門が沈んでいる旨が書いてあった。さっそくweb siteを探すといろいろ出てくる。

 日本海軍の軍艦の中で、太平洋戦争敗戦時に生き残っていた戦艦は「長門」のみであった。(戦艦に分類される軍艦が何隻あったのか分からないが、)
 1945年の日本敗戦でアメリカ軍に接収された戦艦「長門」(全長224.94m)と巡洋艦「酒匂」(174.50m)は、1946年3月に原爆実験のためにビキニ環礁に移動させられた。

 1946年7月、この月2回の爆発実験で、原爆の標的になる多くのアメリカ軍の軍艦とともに長門も酒匂も、もう戦わないただの鋼鉄の物体としてビキニ環礁の海中に沈んだ。
 第2次大戦敗戦の軍艦は、次なる冷戦のお役に立ったのだ。

 その後も何回も実験はあって冷戦終了と共に実験停止、そして2010年、ビキニ環礁は原爆実験の場であったことをもって世界文化遺産として登録された。
 そこには原爆が生まれる前の日本の戦争の歴史を背負い、戦後の冷戦の歴史も背負った2つの証人も含まれているのである。

 長門は海面下50mの海底に逆さに沈んでいて、高度な水中ダイビングで沈黙のその姿を見ることができるらしい。
 日本で保存されている水爆被爆の第5福竜丸も、3つ目の日本の船の世界文化遺産であるといってよいだろう。
●参照→300南海の苦楽園世界遺産

2010/08/10

302【世相戯評】今年の暑さが特別なのか

 やっぱり暑さのことを書いておこう。
 ロシアでは自然発火した泥炭が燃えつづけて、大煙霧が広がり、火はチェルノブイリ事故で放射能汚染した森に及ぶかと心配されているそうだ。
 日本も今年は特に暑い暑いと人も言うし、新聞やTVニューズでもいう。

 だが、と、へそ曲がりは言わなければならない。
 今年は、わたしの部屋の冷房機をめったにつけることがない。去年よりは明らかに少ない。だって、けっこう風があるんだもの。もしかして歳のせいで鈍感力が増大したからであって、いまに室内で熱中症か、干物か、、。
 7階という高みにあるせいか、バルコニーのドアーを半分開けて寝ると、ときには風邪を引くかと思う涼風もあり、目覚めてあわてて薄物をかける。
 事実、一回風邪をひいてしまって、ようやく元に戻ったところである。夏風邪は治りにくい。

 本当はいつもの年とそう違わない暑さかもしれない。暑い暑いというのが新聞屋テレビ屋の仕事であるのに乗せられている。
 晴れた夏の空を見ると、鎮守の社の森の木々でぎざぎざに縁取られた境内広場の上の狭い空から落ちる真っ白な陽光の中を、大人たちが黙々とラジオ放送を聴き、黙々と森を出て行ったあの日を思い出さずにいられない。
●参照→166夏の日の鎮守の森で

2010/08/06

301【横浜ご近所探検】ご近所心霊スポットは昔は小学校だったのが、、

 横浜関外のわたしの住いの近くに、横浜市立大学の病院がある。
 いっときわたしは足が不治の難病となって通院していたときに、その近くにある廃墟の汚い5階建てのビルの前をとおっていた。
 今は廃墟だが、かつては横浜市立大学医学部であったのだと、つい最近になって知った。
日本建築家協会(JIA)が主催して、旧日吉小学校の見学会があるというので見に行ったら、なんとその廃墟がそうであった。
   ◆
 なんでも元はといえば、1926年に建てられた由緒ある小学校の建物が、戦後は市立大学になったのだそうだ。それがもうすぐ取り壊しになるという。
 建物は特にデザインが特徴あるようなものではないが、入って驚いたのは、解剖室があったことだ。
 ドアに解剖室と書いてあって、中は総タイル張り、傍らには冷蔵庫のような扉があって、中には死体を入れるラックが錆付いておいてある。
 まさかこれが小学校教室であるはずはないから、小学校の建物を医学研究用に改造したのだ。
 ほかにも寄生虫学教室とか動物飼育室とか書いてある。
 最近廃墟探検が流行らしいが、都心の廃墟の心霊スポットとしてピカイチ物件かもしれない。
 わたしは心霊スポットに興味あって行ったではなく、行ってみて初めて知ったのであった。
 そんなことで侵入者が絶えなくて、防犯上で問題があるらしく、町内会から市に対して取り壊しの要望が出たそうだ。
   ◆
 なんにしても区役所に建替える予定で、今月中には壊すとかで、建物の保存を要望していた建築家協会がお別れの見学会をしたのであった。
 わたしは保存する建築家団体メンバーでもないのだが、保存要望した建築家達がこの建築をどう評価して保存したいのか、そこに興味があった。
 だが、わたしが見学して考えた歴史的評価とは、ずいぶん食い違っていた。
 なお、不治の難病との診断は、治癒する病の誤診で、治療もせずに自然治癒した。
 参照→歴史の証言としての建築記録保存

2010/08/05

300【歴史・文化】核兵器実験による南海の苦楽園は人間の醜さの記念として世界遺産に

 最近、世界遺産に太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁を、文化遺産として登録したという。
美しい珊瑚礁を自然遺産ではなくて、核爆弾実験場として人類の負の文化遺産だそうである。
 ここで1946年から1958年まで、アメリカは水爆の実験を含めて67回もの実験を行なった。
 今はマーシャル諸島共和国だが、その当時はアメリカが国連信託統治していたから、島民と協定して実験場にしたのであった。
 南海の楽園に見えるが、実験のために持ってきて破壊沈没させた多数の戦艦、爆発跡の巨大クレーターなどが、美しい珊瑚礁の中にできものの如くちりばめられている。
   ◆ 
 今では残留放射能は低減しているそうだが、現地の農水産物はあぶない。いまだに米軍基地らしいから、観光気分で世界遺産訪問はできないようだ。
 南海の楽園ならぬ苦園である。見た目が美しいだけに一層その苦の世界が痛ましい。
 世界遺産委員会のサイトに「its paradoxical image of peace and of earthly paradise」と書いてあるように、まさに矛盾の世界である。
   ◆
 ビキニといえば思い出すのは、第5福竜丸事件である。
 1954年、マーシャル諸島の海でマグロ漁をしていた日本の漁船が、水爆の放射能を含む灰を浴びて、乗組員1人が死亡した。
 このときはマグロは食ってはいけない魚になって、日本漁業に大きな影響を与えた。
 日本に保存してある第5福竜丸も、ビキニ世界遺産の一部とするって考えはなかったのかしら。
 同時に、マーシャル諸島の住民も放射能の灰を浴びた。それは日本の原爆症と同じ問題をいまだに抱えているようだ。
   ◆
 このような人類の負の文化遺産の世界遺産登録は、ナチスのユダヤ人収容施設、アフリカの奴隷輸出施設、広島の原爆ドームがある。ほかにもあるかもしれないがよく知らない。
 今年の新規登録の中のひとつに、オーストラリアとタスマニアの刑務所群がある。
 18~19世紀にかけてイングランドの犯罪人を、遠くオーストラリアに流刑して収容したところである。そこで囚人達に植民地建設をやらせたのであるが、そこでは原住民のアボリジニを追い払ったのであった。
 アボリジニにとっては、イングランドと戦争したわけでもなく、その災禍はビキニの原爆実験と同じある。
 これも負の遺産なのだろう。
   ◆
 考えてみると、歴史的文化遺産は、それを築いた王朝か支配者が作った施設が多いのだが、そこに至るには戦いがあって多くの血が流れたに違いない。
 京都は先の戦争といわれる応仁の乱があったし、登録待ちの中世都市鎌倉も地中から多くの中世人の白骨が今も出てくる血なまぐさい戦乱の地であった。
 人類の発展の証しと唱える文化遺産の陰には、人類の負の遺産が隠されていることを、ついつい忘れそうになる。
   ◆
 ビキニといえば、あの布切れの水着である。
 あのような衣装は昔からあったのだが、なんでも、1946年にビキニ原爆実験のものすごさを知ったフランスの下着デザイナーが、「ビキニ」とネーミングしたら売れたのが元だそうな。
 1945年の「ヒロシマ」ではないのは、どうしてなのだろうか。ヒロシマとビキニの間に横たわるなにかに、心がひっかかる。
●関連→210鎌倉の世界遺産

2010/08/02

299【怪しいハイテク】机上の地球goole earthにはまる

 マニアではないが地図や航空写真が好きである。都市計画をやっていたから、仕事としても好きを生かすことができた。
 インターネットに、地図のウェブサイトが沢山できている。あれこれ情報が入っているのはよいが、いらない商売情報が多い。
 その一方で、地形や土地利用という地図としての基本的な情報が欠けているのが、気に入らない。
 やたらに道路ばかり出てくるのだが、そのくせ細い歩けるだけの道になるとほとんど登場しない。要するの自動車でなにかにアクセスするために使うようにできているらしい。
    ◆
 カーナビゲーションの地図がまさにこれである。あそうか、あの地図屋がカーナビゲーションをやっているのだから当りまえか。
 カーナビゲーションの普及で、運転人間はだんだんとバカになる。カーナビゲーションの中のオバサンの声に導かれて目的地に着くから、途中のことは何も知らなくても良いことになってしまったのだ。
 それまでは運転する人は地図を自分の頭に読みこんで、方向感覚とか地形の目印とかを覚えていたのだが、もうそんなことは不要になった。
 もしも災害かなにかで車を使えなくなったら、迷子だらけになるだろう。
 地図はやっぱり国土地理院のものがいちばんすばらしい。
    ◆
 航空写真は地図とは異なる情報が満載されていて、どこのでも見飽きない。
 古いものは国土地理院のサイトの空中写真だが、新しいものはいまやgoogle earthの衛星写真である。
 google earthサイトはわたしにとっては机上の地球である。世界のどこにでも一気に飛んで行ける。
 海外旅行で訪問した街に、空から懐かしい訪問もできる。そこにgoogle streetがあれば、街並み歩きもできる。
 故郷の生家の前にも、中国での父の戦場跡(1933年)にも、アイガー北壁の途中にも、フィリピンでの叔父の戦場跡(1945年)でも、、、、いや、まったくすごいもんである。
 そのうちに弱ってきて動けなくなったら、これで旅行三昧の徘徊老人に浸ろう。
   ◆
 でも喜んでばかりいられないことに気がついた。
 ところどころ、妙に塗りつぶしてあるようなところがある。どうも軍事施設らしい。その筋からイチャモンが入って墨塗りしたらしい。
 ということは、もしかしたら写真自体に偽造がされているところもあるに違いない。本当は陸なのに海になっていたり、建物があるのに山の緑になっているとか、、。
 景観戯造はわたしの遊びだが、これはまさに景観偽造である。
 衛星写真だから真実を写しているなんて、うっかり信じてはいけないのだ。
   ◆
 日本が中国やアメリカを相手に戦争していた頃、軍事施設のある町の風景写真絵葉書には、軍のお達しで手を入れて一部偽造していたことがあった。例えば、横須賀のその頃の写真を見ると、あるはずの山がないとか、奇妙なところがある。
 もちろん地図も軍事施設のあたりは偽造していた。
 そういうことがgoole earthにも行なわれていることは、十分に考えられる。
 それも怖いことだが、写真の精度が上がってくると、青空の下ではうっかり変な真似はできなくなる日常の怖さがある。立ちシ●●ベンは、木の下でやりましょう。
 この衛星写真といい、街にはびこる監視カメラといい、どこでもいつでも監視されて、住みにくいケチな世の中になったものである。気をつけなくっちゃ。

2010/08/01

298【怪しいハイテク、故郷高梁】机上で故郷の生家を訪問できるなんて、、、

 わたしの生まれ故郷は岡山県の高梁市である。
 もう20年も前のこと、ハイデルベルクに遊びに行って驚いたことがある。まるで高梁とソックリなのである。
 まちの中を歩いていて、デジャビュに襲われてしまって、どうしてなんだろうと気分がモヤモヤしていたが、アッ、ここは生まれ故郷の高梁なんだと気がついて、晴れ晴れとしたことがあった。
 このことは前にも雑誌に書いているのだが、最近、高校同窓会誌にもそれを書いた。
参照→異国で発見した故郷
参照→高梁:日本のハイデルベルク
    ◆
 ところで、goole streetなるサイトがあって、ここで高梁の街並み見物ができるのである。
わたしの生家は神社なのだが、その鳥居、参道、鐘楼がいまも健在である姿を、机の上で懐かしむことができるのである。
 生家の近くの武家屋敷町も、なんだか映画のセットのようにきれいに見える。高校生が自転車で走っているのも見えるから、絵葉書ではない楽しさがある。
 この高梁は、映画の「男はつらいよ」寅さんシリーズで2回登場する。
 その寅次郎の義弟、つまり妹さくらの夫の生家が、この武家屋敷町の中にある設定になっているからだ。珍騒動の舞台も見える。
 日本各地で撮影車を走らせているgoogle street屋さんて、これでなにをしようとしているのだろうか。
 まあ、便利は便利だが、ただ便利がっていてよいものかしら、、なんだか不気味でもある。

2010/07/29

297【横浜ご近所探検】共同住宅ペンシルビル

 近くにある小さな空き地で工事が始まった。お知らせパンフレットを見ると、8階建ての共同住宅である。
 典型的なペンシルビルで、間口を1スパン、奥行き2スパンで、これを縦割りにして各階に2戸のワンルーム型の住宅とする。最上階2階分が建て主の住居らしい。
 既に3方を共同住宅ペンシルビルで囲まれていて、残りの道路側も向いは10階建てビルである。
 道路側から午後の短時間だけ陽が当たる。そのような住宅でも需要があるのだろうか。
    ◆
 気の毒なのはCの共同住宅ペンシルビルである。これがこの一角でいちばん最初に建ったらしく、各階が何戸あるか分からないが、いずれもバルコニーを隣地のAとBの側に設けている。Bにビルがない頃は十分に陽があたっていただろう。
 その後に建ったBビルで、7割がたのバルコニー面はふさがれている。写真②でみるように、バルコニーの先に建築基準法で言う「窓先空地」がまったくないのである。規模から見て違法ではないだろうが、実態としては真っ暗住宅である。
今度はAのビルで、このCビルは残りの3割がたの採光面もふさがれることになる。どういうわけか南の道路側にほとんど開口部がない。
 隣の土地にビルが建つ可能性は当然にあるのに、これはCの設計が悪い。
いまさらではあるが、ABCDの土地を共同開発すれば、住み良い共同住宅ビルになったであろうに、と思う。
      ◆
 こんなことが都市の真ん中ではあちこちでおきつつある。こういう共同住宅は今後どうなるのであろうか。
寿町の簡易宿泊所(通称ドヤ)のビル群が、まさにこの状況である。
あれは住宅ではなくて、一時滞在を前提とするホテル旅館だから、法的には許されている。しかし実態は日常的に暮らしている低所得者住宅である。立体スラム住宅街の感がある。
 共同住宅ビルがこのように日照通風が悪くなると、住み手がなくなって空き家ビルになっていく。そうなると空き家を埋めるために、寿町ドヤのようなものに変化していくのだろうか。
 できの悪い都市の不良資産は、立体スラム化するおそれが十分にある。

2010/07/25

296【横浜都計審】ついに市民委員をクビになったらしく遺言を言えないまま退任かよ

 今日、横浜市の都市計画課から、先日の都市計画審議会関係の追加書類が来た。
 都市計画行政のプロである市民委員のMさんが、これでは資料不足であると指摘した磯子三丁目地区計画について、事業者提案と横浜市案との比較対照一覧表と、一括指定している散在する緑地の各位置と面積の詳細資料である。
 審議会の席では、横浜市は資料に遺漏はないようなことを回答していたが、やっぱり気になったのであろうか。

 それはそれでまあよいとして、送り状に次の審議会は11月と予告が書いてある。
 ということは、わたしは2年の任期がそのときは終わっていることになるから、いまや既にクビになっているのであった。
 なんだよ、9月にやるのかと思っていたら、今年度は都市計画審議会開催がそれまでの年度よりも1回少ないのであるか、、。

 次回は引退試合となるから、きちんと遺言の挨拶をしようと思っていたのに、そのまえにクビになって残念である。
 では近いうちにわがまちもり通信サイトで、横浜都計審総括論文を書くことにしようっと。
参照→都市計画審議会を改革せよ

2010/07/24

295【あやしいハイテク】血出痔のTVって?

 語感が悪いぞ、チデジ、血出痔なんて。ホント無神経である。
 その血出痔TVへの対応ができていない日本全国の世帯数は、今のところ約2割あるそうだ。へえ、もう8割もが血出痔になったのか。
 わたしのところは2割のうちである。2割といったって1100万世帯もあるのだから、数にすればかなりなものである。
 TVはめったに見ないから知らないが、新聞に血出痔TVに買い替えろとのたびたびの脅迫広告。
 今の受像機はゴミなる。なんとその廃棄量は約1,712万台とご関係当局の発表。でも、これはどう考えても少なすぎる。だって2割で1100万世帯なら、10割なら5500万世帯、一世帯一台としても5500万台になる計算。
 なんにしてもエコロジー時代に反する。まったくもってケシカラン、政府とTV屋が結託して、勝手に今のTVを見えなくする陰謀をして、こちらのお金で高い機械に買い換えろなんて、全くもってケシカラン。
    ◆
 では血出痔TV機械を買ってきてアンテナをつなげばいいのかっていうと、どうもそうではないらしくて、なにやら別に金がかかるらしい。ますますもってケシカラン。
 ではどうすればよいのかNHKが教えに来たかというと、全くそういうことはない。聴視料金だけはとるくせに、。
 先日、NTT光回線屋から電話が来て、光回線につないで毎月3000円でTV放送を見ることができるからどうだという。そんなことしなくても、現に今もTV放送は見えてるよ、大きなお世話である。
 ウェブサイトで調べてもわたしの家ではどうすれば分からない。
 うちではどうもCATVで見ているようなのだが、ここでは2015年までアナログに変換して放送を続けるらしい。それならまだまだデジタル機械に買い換える必要がない。
 だけど、そんなことは偶然見つけたWEBサイトの片隅に小さく書いてあっただけで、新聞にも何も書いていないのはどういうわけだ。
    ◆
 血出痔にすると双方向通信も可能とか宣伝している。大きなお世話、今のままで結構。今にカメラつきTV機械が出てきて、双方向通信をつかって家の中がTV局のほうでは丸見えになっている、てなことが起きるぞ。
 血出痔にすると今よりチャンネル数が多くなるという。バカ言え、いまでも見てもしょうがない番組だらけなのに、これ以上なにを放送するのか。
 まだ1年さき(あるいは5年先か)のことだが、わたしはその日はTV放送のご臨終場面を見届けようと思う。録画しておこう。
 もしも今度の衆議院選挙で、血出痔反対マニフェストの「アナログ党」ってのが出てきたら、わたしは投票する。

参照→145血出痔の準備    124地デジ血で痔   011血出痔問題

2010/07/21

294【法末の四季】地中から湧き出る赤い水で染める「法末赤渋染め」を開発したぞ

 中越震災復興支援中の山村の法末集落に、田圃の草取りに行ってきた。稲は青々と育っている。
 5月末の田植えの最中に、白い帽子を泥田に落として汚してしまった。そのとき思いついて、これを泥染めにすることにした。昨年の田圃仕事で着衣にはねてついた泥が、その形のままに泥土色に染まっているからだ。
 ならばこの愛用のアメリカ製のホワイトハットを、泥で染めてみよう。積極的に染めるならばこの田圃の泥土色の泥ではない、もっと良い色にしたい。

 ちょうど、わたしたちのいる家の近くの崖地から、朱色の泥を含む水が湧き出ているのだ。
 多分、鉄分を含んでいるのだろうが、朱色とクロームオレンジの中間ぐらいの鮮やかな色である。このままの色に染まると実に美しいに違いないと思いついた。

 さっそくに朱泥を採集してきて、バケツに入れて水で掻き混ぜる。その朱色の溶液に白い帽子をもみながら漬け込む。
 しばらく置いておいて、もうよいかなと引き揚げて洗うと、朱は流れていって、あとはまだら薄黄色汚れみたいで、どうも調子が悪い。
 泥水につけて真っ赤になったと喜んでも、洗うとただのまだら黄色汚れになるというくり返しばかり。
    

 その日は横浜に帰宅するので、帽子は泥をしっかりつけたままに室内に干してきた。乾燥させてるうちに染まるだろう、ってなもんである。
 じつは泥染めという言葉は知っていたが、やったことはない。単に思いつきだから、赤い泥をつければ赤く染まるだろうくらいのいい加減さであった。
 簡単には染まらないもんだとわかって、そこは工業大学の卒業だから化学や繊維学の専門の知人がいる。かれらにいろいろメールで聞いてみたら、染料とか顔料とかいろいろ教えてくれた。

 こちらは染料も顔料も区別がつかないのだが、わかったことは、朱泥の粒を1ミクロン以下にすれば、繊維の間に入って定着するらしいことであった。
 粒子には大小があっても、泥水の上澄みにはそれくらい微細な粒子が入っているので、それで何回も染めればよいらしい。
 さて、その超微粒子をどうやってつくるのか。そういう精密機械はあるらしいが、高価なものらしい。

 これに米作り仲間の1人がおおいに興味を示してくれて、磁器性の乳鉢を買ってきた。採取した赤泥をこの乳鉢で乳棒で細かに摺りつぶすと、1ミクロン以下になるというのである。
 そんなこんなで2ヶ月がたち、今回の草取りでの法末行きである。このまえ室内に干しておいた赤泥つき帽子は、仲間が一度洗って干してくれていた。

 原料の朱泥のようにはいかないが、それなりに渋い赤と黄色の中間ぐらいに染まっていて、それはそれでけっこう良い仕上がりである。
 手染めのようなムラもあって好ましい。洗濯機にかけてみたが、色落ちもしない。よしよし。
    
 見れば囲炉裏のほとりには、例の乳鉢と採取した泥の塊がおいてある。今日は来ていない仲間が用意しているようだ。
 それではと、赤泥を乳鉢に入れ、ゴリゴリと陶磁器のスリコギで練っていく。ねっとりとした粘土状の赤泥になる。
 これをポリバケツの中で水で溶いて濃い赤泥液ができた。

こんどはティーシャツ作りである。ザブンと漬けて揉んで揚げて、また漬けて揉んでを繰り返す。いつだったかどこかで見た藍染めの仕事を思い浮かべる。
 適当なところで物干しに吊り下げると、おお、いい色である。だが乾燥すると粉が吹いたようになり、水をかけるとまだら黄色になってしまう。

 そうか、藍染めのように何回も繰り返すしかないのだなと、漬ける干すを繰り返していると、指が朱色に染まってくる。おお、これでは朱屋高尾だなって、次第に職人気分になってくる。
 この染がうまく行くなら、法末土産に赤染ティーシャツをつくりたいねと、仲間と話している。
 ネーミングはさしずめ「法末赤渋染」か。
    
 この法末にくることになったきっかけの2004年に中越地震があり、そのあと2007年の中越沖地震もあって、それら2度の揺れで、わたしたちの拠点としている民家の内壁も一部が剥落している。
 米作り仲間たちが、その剥落した塗り壁の修理をする壁塗りプロジェクを始めたのである。それは集落の人たちにも公開して、左官仕事のプロの指導も受けつつ、進めていった。

 その床の間の壁の仕上げの漆喰に、帽子を染めた朱泥を混合したところ、なんともいえず趣味の良い黄色味を帯びた良い色となったのである。もとはあまり品のよくない緑色の模造ジュラク壁であったのが、実に品よくなった。
 問題があるとすれば、今の住人の仲間達が、この床の間を床の間として使っていないことであろう。ついつい物置のようにしてしまうのである。
 2階の床の間も剥落があるのだが、一箇所くらいは震災記念に剥落のままにしておくこともよいと、わたしは思っている。

(追記)化学を専門とする友人が、朱泥を微細粒にする方法を教えてくれた。
 「ボールミル」なる器具があるそうで、それは乳鉢に代えて磁器製の蓋付容器を、乳棒に代えてゴルフボール大の磁器製塊状物数個を用いるものである。普通は電力でまわすのだが、水路でごろごろ回す水車式芋皮剥装置にボールミルを仕込んで、法末の水路に据えるのだという。
 なるほどそれは面白い、やってみたい。実は足湯のそばで水車がまわっているのだから、それにボールミルを取り付けさえすればよいのだ。
 次の問題は、そのボールミルをどこからタダで仕入れてくるかである。


参照→中越山村・法末集落の四季