2013/03/17

735震災核災3年目(6)二股かけて復興まちづくりして虻蜂取らずになるかもしれない

 一昨日の「734地震津波火事原発3年目(5)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 悲観論ばかり言ってもしょうがないけれども、では、住宅移転してきた高台の街もできた、災害危険区域も店舗や工場がやってきて両立する街が復興できた、うまくいったとしよう。
 でも、どこの被災地でもこうはいくまい。わたしにはそれがどこかわからないが、それはかなり限られた都市になるだろう。

 さてうまく両立した復興の街づくりができたとしよう。そこからの問題は、巨大都市を除いて、日本のどこも人口減少であることだ。
 いま、日本の都市・地域問題は、21世紀の人口減少社会の進行において、20世紀に人口増加を前提とした社会の構造、あるいは都市・地域の構造が耐えうるかということである。
 そこで、いま流行しているのは、新たな人口減少に対応する都市と地域の構造として、拡大している20世紀の生活圏を、コンパクトな生活圏に再構成することである。いわゆるコンパクトシティである。
 
 この点から見ると、高台にも街をつくり、元の街も再建したのでは、コンパクトタウン化の逆方向であることは確かだ。
 人口減少が避けられない時に、人口増加型の都市・地域をいまさらにつくっていいのだろうか。
 高台の街が、交通にも買い物にも働くにも便利で安全に、しかもコンパクトに整っているならばよい持続するだろう。 

 だが、単なる住宅地であるならば、そのうちに人々は便利な元の津波で被災した街に戻ることだろう。それを禁止しても、止めることはできないだろう。高台の街は衰える。
 人間は忘れる動物である。忘れたころに津波はやってくる。二股かけた復興都市再生は、虻蜂取らずになるのだろうか。また悲観論になった。

 そこで思うのだが、やっぱり、災害危険区域は単に住宅禁止ではなく、土地利用そのものを禁止するしかないだろう。
 都市計画では市街化調整区域に指定変更してはどうだろうか。

 人口増加時代を前提とする現在の都市計画法は、都市の範囲を市街化区域と市街化調整区域に分けている。
 後者は人口増加で市街化の圧力が強い時代に、その抑制と計画的な開発を調整するという意味だが、一般に市街化予備区域としてとらられている。

 なお、都市計画法を決める初めの検討では、4つの区域を考えていた。既成市街地、市街化区域、市街化調整区域、保存区域である。保存区域は開発を一切しない区域である。
 災害危険区域を、この保存区域なみにしてしまうのである。もちろんそれには土地所有者からの公的買取請求を認めることになろう。それは現に防災集団移転事業では行っていることである。
 このように、津波の危険区域は都市的土地利用をしないとしたら、どうなるのだろうか、考えてみたい。

参照:自然と人間はどこで折り合って持続する環境を維持できるのか
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

参照:地震津波火事原発コラム一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#jisin
 

2013/03/15

734震災核災3年目(5)災害危険区域という広大な空き地は何かで埋めるのか

  昨日の「732地震津波火事原発3年目(4)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●災害危険区域という広大な「空き地」はどうするのか
 「災害危険区域」は津波に襲われて大被災した区域であり、指定後は人の居住が制限される。この指定区域一覧表にある各自治体の指定面積を足してみたら12492.1ヘクタールになる。岩手県は、たぶん、これから指定する予定の自治体もたくさんあるだろうから、もっと広くなるだろう。
 阪神大震災(1995年)では1市1地区1.59ヘクタール、新潟県中越地震(2004年)では2市14地区27.97ヘクタールの指定だったそうだから、今回はものすごい広大さである。

 災害危険区域に住んでいた人々は、区域外の高台や他の新旧市街地などに移転する必要があるから、そのあとには広大な空地が発生する。
 すでに津波によって広大な空地ができている。今は避難していても、元に戻って家を建てて住むわけにはいかない。住宅以外なら立ててもよいが、実際のところは店舗や工場などが、どれほど建つだろうか。
 郊外型大型小売店舗ならべつにしても、人が住まない街で普通に商売するのは、なかなか難しいだろう。

 問題は、住むことを禁止しても、商工業や農林水産業あるいは公園などに再利用することはできるということである。
 大ショッピングセンターができたり、大規模遊園地ができたら、住んでいるよりもはるかに多くの人がいることになる。住んでいて津波で被災することは防ぐことはできても、買い物や働きに、あるいは遊びに来た人の被災は防げないが、よいのだろうか。

 更に心配は、東北の太平洋沿岸地域に、南北数百キロにわたってばらまかれたこの広大な空き地に、いったい何が立地するのだろうか。
 たとえば、宮城県山元町の災害危険区域は、行政区域の3割以上の広さを指定、津波前の可住地の8割以上が非可住地になったようだ。
 津波で一切が失われた荒涼たる跡地は、いったい何がありうるのか。農業も田畑の塩害で簡単には立ち直れないだろう。草ぼうぼうの空き地ばかりとなるだろう。


 空き地がなにかで埋まるのか。
 この「空き地を埋める」という言い方は、「開発」的な考えが基本にある。土地は何か人間の日々の生活のために利用しなければならない、という強迫観念のようなものが、20世紀的な開発の基本にありそうだ。

 「復興」という言葉はまさにそれを一言で言い表している。
 震災復興、戦災復興、火災復興などどれもこれも、早く復興しなくては増える人口に間にあわない、産業の復興のためには広く開発していこう、そのためには公共投資をいとわない、復興さえすれば取り戻すことができる、これが近代の災害復興の思想であった。
 戦後復興期のまっただなかの人口増加時代を生きてきたわたしには、それがよくわかる。

 しかし、人口減少時代の今もそうなのか。
 
 反対に、「空き地は空き地のままでよろしい」という考え方は、あるのだろうか。つまり、人間の日々の生活のためにどこもかしこも土地は使わなくてもよろしい、とするのである。
 だって、人口が減る、地域は縮退する、高齢化して生活圏は縮む、そのような世の中である。そんなに土地を利用しなくてもよいではないか。
 いや、利用したくても利用できないかもしれない。(明日の記事につづく)

733この160年間の日本の災害で死者最多は空襲という人災だった

 建築学会の機関誌『建築雑誌』2013年3月号は、『「近代復興」再考』と題する特集号である(編集担当:中島、牧、村尾)。
 近代日本の災害復興の歴史をふりかえり、これからの復興のあり方を展望しようとする、なかなかに興味深い内容である。

 その表紙に1847年からの日本の大災害での死者と行方不明者のリストを、円の大きさで視覚化している。
 その数の上位から並べると、1位は太平洋戦争下の空爆被災(1944~45年、330,000人)、2位が関東大震災(1923年、142,000人)、3位が明治三陸地震津波(1896年、21,959人)、そして次の4位に今回の東日本大震災(2011年、18,587人)が登場する。


 こうやって一目で比較できるようにしてくれて驚くのは、戦争末期の空襲による死者の円が、はるかにとびぬけた大きさであることだ。
 天災ではなくて、まさに人災そのものの災害の巨大さに絶句する。

 これにはもちろん広島長崎の原爆死者(約20万人)も入っているだろう。
 空襲による死者の半分は原子爆弾によるものである。つまり、原子力発電と兄弟関係にあるのだ。
 なんとまあ、人間の文明災害は、自然災害よりも上を行っているのであったか。

 2年も前の原子力発電所の事故によって、いまだに17万人もの人が避難している現実がある。
 68年も前の原爆投下によって、いまだに死者が増え続けている現実もある。その数も加えると、死者の円の大きさはさらに巨大になる。

 原発事故被災はかなり異質の被災であると思ったが、実は原爆ですでに起きたことだった。あのときは誰も何も教えられず、事後避難もしなかったのである。
 地球上に人間がいるかぎり、災害はなくならないようだ。災害とは、人間が受ける害であることと、人間がひき起こす害であるという、二つの意味からである。
 

2013/03/14

732震災核災3年目(4)災害危険区域にショピングセンターができてもよいのか

  昨日の「731地震津波火事原発3年目(3)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●災害危険区域にショピングセンターができてもよいのか
 またこんな問題もある。災害危険区域から「防災集団移転事業制度」によって津波の来ない地域に集団移転する場合は、跡地を自治体が買い取る。
 しかし、全員が強制的に移転させられるのではない。なかには移転を待ちきれなくて、破損した住宅を改修したり、新築した人がいて住み続ける、あるいはどうしても住み続けたいと居座るとなると、法的には問題あるが例外的に危険区域にも住宅は存在し続けることになる。

 となると危険区域には、住宅でない施設、まばらな住宅、公有地となった住宅跡地とが、まだら模様になるのだろう。
 そのような公有地をどう使うのか。公共施設を建てるには、広くもない住宅跡地では使い勝手が悪いだろうし、そもそも危険区域に公共施設を建てることを、市民が許さないだろう。
 

 大きな商業施設が空き地になった災害危険区域に進出してくるのは、歓迎されるだろうか。そうなると、移転先の新住宅地につくるであろう商業施設が劣勢になって閉店、買い物のために毎日もと住んでいた街までやってくることになるのか。
 大規模商業施設を災害危険区域に建てることは、法的には問題ないらしいが、そのような不特定の集客施設を、災害危険区域内に設けることは理にかなっているのだろうか。
 おおぜいがショッピングセンターに買い物にやってきているときに、津波が来ないという保証はない。
 では、学校はつくってもよいのか。たとえば小中学校をつくろうとすると、これはもう市民が許さないだろう。なのに商業施設はよいのか。
 どうも、ヘンである。

 大型ショピングセンターは、災害危険区域を選んで進出することはない、なんてことはあるまい。あの類の施設は、土地は借りて安価な建築で、2年も営業すれば元を取るのだから、絶好の進出機会だろう。なにしろ危険区域だから土地代は安価にきまっている。
 買い物が便利となると、危険だったことを忘れて、平地に次第に人々が住むようになるかもしれない。それはもちろん災害危険区域では違反行為である。
 だが、法による指定は、法によって解除することもできる。かつて1933年の大津波の跡で居住禁止にした地域に、やはり戻ってきて住みついて、このたびの災害に会った人は多いはずだ。

 実は「災害危険区域」の指定は、防災集団移転事業とセットになっていることに、基本的な課題がありそうである。防災集団移転事業で移転すると、手厚い公的補助制度があるが、それには災害危険区域からの移転である必要がある。
 とにかく津波被災地から移転したい、それには補助金が入る事業を行うのがよろしい。となると防災集団移転事業だ、そのためには災害危険区域を指定した、いまは移転先のことで一生懸命で、移転跡の災害危険区域をどうするのか、そこまだまだ頭が回らない、どうもこのようなことであるらしい。

 現場を知らないものの勝手な推測だが、本末が転倒しているような気もする
 と書いて、怒られないように付け加えておくが、早期に災害危険区域指定をした自治体は、津波跡地の乱開発を防ぐための、とりあえずの政策意図であったことは確かであろう。(明日の記事につづく)

2013/03/13

731震災核災3年目(3)災害危険区域で住宅のみ排除する意味はどこにあるのだろうか

  昨日の「730地震津波火事原発3年目(2)」からのつづき
     (現場を知らないわたしの机上心配年寄繰り言シリーズ)

 それにしても「災害危険区域」という制度はよく理解できない。
 建築基準法によって、自治体の長が条例でその区域を決める。だから県知事あるいは市町村長と議会が決定権をもっていることになる。
 災害危険区域を指定すると、その範囲の土地から住居系の施設だけを追い出さなければならない

 事例を見ると追い出し方もいろいろである。
 住宅全面禁止して他の区域への水平的追い出しから、津波が来ない上層階なら住宅OKという垂直的追い出しとか、各種の決め方ができようだ。住宅だけの追い出しのほかに、ホテル、保育園、病院を禁止する例もある。

 いくつかの今度の被災地の自治体のウェブサイトで指定の事例を見たが、とにかくその区域指定した範囲が広いことに驚いた
 例:宮城県山元町の災害危険区域図  http://goo.gl/eaNKA
        岩手県宮古市田老地区の災害危険区域    http://goo.gl/gLd1w

 先般の津波で被災した区域を指定するのだから、平地の少ない三陸地方では、市街地があった平地のほとんどがその指定区域になるようだ。
 逆に平地部の多い宮城県南部では更に広大になる。山元町では市域の3分の1が災害危険区域である。

 この津波が来る前はそこが人々が生きていた拠点となる街であったろうに、それをそっくり指定してよいものだろうか。だからこそ指定したのかもしれない。
 状況変化によってあとで変更すればよいからと、とりあえずは津波が来た区域に住宅が建つことを制限しておこう、そういう戦術かもしれない。
 あるいは、高台移転の補助金支給のために、決めるということもあったかもしれない。
 それはそれでよくわかる。だが、それなりの問題もありそうだ。

 もちろん津波が来ても平気なように、街の土地全部を盛り上げて高くすれば、災害危険区域にしなくてもよいだろう。
 あるいは防潮堤を高く造って、街を塀の中に囲い込めば、指定は不要かもしれない。
 指定していても、そうなったときに変更してもよいだろう。

 どちらも金がかかりそうだ。
 もともとは海だったところ埋め立てたとちだから、その時にすでにかなりの造成費がかかっている。その上にさらに金がかかる2重投資である。
 津波が怖いからとて高台移転した後になって、移転跡地に土盛りや防潮堤をつくると、さらに3重の投資になる。
 命を守るという大義名分はあるが、未来に大借金を残さざるを得ないのが、難しいことである。

 津波被災地域は中小市街や集落ばかりだから、たいていのところは職住接近あるいは職住一体の町であったろう。商店はたいていが2階が住宅だったろう。
 つまり、それまでの中心的な仕事と生活の場から、住宅だけが強制的に追い出されるのである。職住分離を無理やり行うのであるが、それではさて、地方の小さな市街地はそれで成り立つのだろうかと、心配になる。
 住む人がいない街なんて、大都会のビジネス街か工業専用地域くらいのものであろう。

 居住空間だけの禁止という考え方は、どこから来るものだろうか。
 人々の日常の生活域を考えると、夜は住宅で寝ているが、昼は仕事や買い物あるは学校などにいる時間が多いだろう。ということは、寝ている夜の時間が確率的にはいちばん長い利用の生活空間から、そこに災害が発生しにくい土地利用ゾーニングをするということだろう。

 あるいは個人の財産である住宅を優先的に保護して、災害直後に路頭に迷うことのないようにするということかもしれない。
 企業の財産はよりも個人の財産優先ということは、それなりにわかるが、そういうものだろうか。

 では命を保護する面ではどうか。
 このたびの津波では、職場や店舗あるいは学校などで多くの人が命を落とした現実がある。住宅だけを排除することにどれほど意味があるのだろうか。
 よくわからなことばかりだが、不慮の災害とはそういうものだろう、とも思うにしても、、。 (明日の記事につづく)

2013/03/12

730震災核災3年目(2)次の巨大津波は迫っても事前危険排除都市計画は無いらしい


           昨日の「729地震津波火事原発3年目(1)」のつづき

●災害危険排除建築から津波防災地域づくりへ
 災害危険区域指定の制度について、ちょっと調べたのだが、どうもよくわからないことがある。
 この制度は建築基準法という、安全な建築をつくるための法律である。一つの建物が地震や火災に強いようにすることとともに、複数の建物相互の関係で環境が悪化しないようにすることを決める。

 その中に「津波、高潮、出水等による危険の著しい区域」を、災害危険区域として地方公共団体の長(県知事、市町村長、特別区長)が決めることになっている。
 ここの「等」には、何が含まれるのだろうか。「核毒」も含まれるとしたら、福島でも使えるだろうが、今のところそうしていいない。
 

 というのも、全国の災害危険区域の指定状況を調べる能力はないだが、ウェブサイトをパラパラと見た限りでは、どうもこれまでの指定状況は、いちばん多い例は、がけ地崩壊危険区域である。
 市街地の開発で崖地が崩れて死ぬ事件がおきたので、災害危険区域を指定したらしい。
 そのほかは河川の洪水による出水、例外的なのは伊勢湾台風による高潮地域がある。どうも津波による区域指定は、今回の東北地方より前では、奥尻島だけらしい。

 気が付いたことは、災害危険区域のどれもこれもが、実際に災害が発生して、死者とか負傷者とかが発生した地域だけらしいのだ。全部を調べてはいないので確信は持てない。
 指定条件の「危険の著しい」区域とは、「危険の著しいと予想される区域」とは違うのだろう。
 以前から思っていてこのブログにも書いたが、日本では人柱が建たないと政策は動かないのだが、やっぱりそうらしい。

 ここに「関東の津波リスク」という図がある(2013年3月3日朝日新聞朝刊から引用)。 

 これを見ると、いつの日か、いや、明日かもしれないが、やってくる東南海トラフの大揺れによる大津波を思うと、今のうち災害危険区域を事前的に指定するべきだろう。
 大津波がやってきて死人がでてから指定しても遅いのは、3・11津波で経験したとおりである。
 まあ、事前指定するにはいろいろ問題はあるだろう。事後指定した東北地方の被災地でも、指定反対がずいぶんあったらしい。なにしろ、そこにもう住めなくなるのだから。

 多くの地域で指定した目的は、防災集団移転事業という補助金欲しさのためという目先の必要性(それが悪いと言っているのではない)もあるらしい。
 そのことはこれから後に問題が見えてくるだろうが(これについては別に後述する)、今は、それどころではない、というのが現場だろう。

 
 ところで、2011年に「津波防災地域づくり法」という新法ができている。この法に「津波災害特別警戒区域」を指定する制度がある。これは県知事が決めることになっているのは、津波は市町村の範囲を超えてやってくるからだろう。
 この指定区域では建築の制限をすることができるので、建築基準法の災害危険区域と似たような制度であるが、もうすこし柔軟で広く使える制度らしい。

 建築基準法による災害危険区域は、区域の危険を排除するけれども、その区域を今後どうするのかという都市計画の視点が欠けていると思う。
 津波防災地域づくり法は、その名のごとく地域づくりの視点からの制度である。この違いについての考察は、更にしてみたい。

 しかし、WEBサイトで探したかぎりでは、現時点では津波防災地域づくり法による津波特別警戒区域指定したところは、まだ日本中にひとつもないらしい。
 事前指定すると住民が逃げ出して人口減少が進むだろうし、不動産価値が下がると文句言う人がいるだろうし、行政では難しいのだろう。

 でも早く決めて手を打たないと、今晩にでも明日にでも津波はやってくるかもしれない。それでは「防災」地域づくり法にならないけど、いいのだろうか。
          (明日の記事につづく)

2013/03/11

729震災核災3年目(1)震災復興取組が岩手と宮城でどうしてこれほど違うのか

 初めにお断りしておくが、わたしは何も東北の復興に役立つ行動をしていない。あれから3年目になっても、ただ心配しているだけの「復興心配書斎派」にすぎない。
 それでも、昨年の秋に小さなボランティア活動ついでに宮城県の被災地を見てきた。見れば、ますます心配が募るばかりである。聞いても募る。
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru
https://sites.google.com/site/dandysworldg/greatforestwall

 震災復興に関しては、2004年に起きた中越大震災の復興おてつだいで、長岡市の山村にしばらく通ったことはある。その程度の机上の心配である。素人の杞憂かもしれない。
 でも、言い訳がましく言うと、ほとんどの人たちが同じような心配をするだろうと思うから、今のうちにここにあれこれだらだらと書いておく。

 今日はあの大災害から3度目の3月11日にである。あれから2回四季がまわったのに、どれほどの回復ができただろうか。分からないことばかり。

●東北3県での復興取組状況の差に驚いた
 東北の太平洋岸側では、東日本大震災からの復興が進んでいるような、進んでいないような、地域差もあるような。
 あまりにも広い地域だから、いろいろ事情があるだろうが、どうも気になる。
 先日(2013年3月2日)の朝日新聞に、「見え始めた?仮設後 30自治体の再建状況」と題して、東北3県の居住環境復興の一覧表が載っている。
 被害が大きかった茨城県がないのはどうしてだろうか。
  

 北から南へと見ていて、ハッと気がついてショックだったのは、福島第一原発あたりの自治体は空白のまま、つまり復興はまったく手がついていないことである。
 それはそうだろう、半永久的に消えない核の毒をばらまかれた土地が、簡単に復興できるわけがないが、お気の毒の極みである。
 他の自治体だってそれほど進んではいないにしても、こうやって並べて比較するとこれがいつまで続くのか、核毒が抜けて復興ができるのだろうかと、つくづく疑問に思ってしまう。

 3県の状況を比較して眺めていて、これもショックだったのは、岩手県の自治体では「災害危険区域」の指定をほとんどしていないことである。他の2県と大きな違いである。
 宮城県ではほとんどすべての被災自治体で指定しているのに、この差はどうしてだろうか。自治体によって差があるのではなく、県全体がそうであるのはなぜなのだろうか。

 岩手県ではできないなにかがあるのだろうか、それとも積極的に指定しない県の政策なのだろうか。基礎自治体と県との間は摩擦はないのだろうか。
 岩手県の狭いリアス海岸の土地に災害危険区域を指定して、人が住まないところをつくるのは、地理的に現実的ではないのだろうか。
 それともどこの自治体も大防潮堤をつくるので、災害危険区域は必要ないという政策判断なのだろうか。

 しかし気仙沼や南三陸でも似たような地形だろうに、これほど違うのは県による政策選択に方向が違うのだろうか。それとも単に指定が遅れているのだろうか。
 それにしても、福島の遅れは分かるが、3県でこれほど差があるのが不思議である。

 ところで、福島の原発あたりこそ災害危険区域そのものだと思うのに、どうしてそうしないのか。もちろん制度が予想していないから、法的にその指定ができないってことはわかる。
 だが、ここで言いたいのは、これほど災害危険区域の立派な資格を備えているのだから、それ相当の制度を適用してあたりまえだろうに、とおもうのである。
                                                              (明日の記事につづく)

2013/03/09

728二川幸夫・伊藤ていじ「日本の民家」に53年ぶりに出会って年寄りになったと自覚して懐古譚

●本棚にある2冊の宝物本
 建築写真家の二川幸夫が1950年台前半に写した、日本の民家の写真展を見に行った。これはいろいろな意味で懐かしい。
 写真の風景そのものが懐かしいのはもちろんだが、実はその写真そのものが懐かしい。学生時代にその写真の民家に強烈に魅せられたことがあるのだ。そしてまた、その写真に民家の論考を書いた伊藤ていじ先生との出会いに、強烈な思い出もあるからだ。


 近頃はなんだか、昔の回顧展が多いような気がするが、そうじゃなくて老化して懐古趣味になったわたしが、そういう展覧会に目が向きやすくなったということだろう。
 歳をとるとしだいに原点回帰する現象が起きる。わたしは建築学を学んで大学を出た。卒業研究は建築史の研究室で、京都御所遺構に関する論文を書いた。
 社会に出て建築設計の仕事に就いたが、いろいろとあって30歳半ばころからしだいに都市計画に転向していった。建築家になれずに都市計画家になってしまった。
 そして建築史を趣味としたのである。これはなかなか品がよろしい。

 建築学生の時に、二川幸夫が発表した民家の写真を見て、そのあまりに美しい風景、建物のプロポーション、しつらえの良さに感激し、魅せられてしまった。二川は本物の民家を見て魅せられ、わたしは二川の民家の写真に魅せられた。
 わたしの魅せられっぷりは、卒業設計にいくつかそのデザインをパクッてアレンジした覚えがあるほどだ。
 倉敷の町屋は、少年時に見ていたから美しさをそれなりに知っていたが、二川の写真で再認識した。

 わたしの本棚に宝物のごとく鎮座する2冊の本、それが二川幸夫の写真と伊藤ていじの論考が載っている『日本の民家』(「陸羽・岩代」編、「山陽路」編、美術出版社 1958 各420円)である。
 420円という定価は、学食の昼飯定食が30円の時代だからけっこう高額である。貧乏学生がよく買ったものだと思うが、それだけ感激したということだろう。
 少年時代、学生時代に買った書籍類は、何回もの引っ越しで一冊も手元に残っていない中で、この2冊だけは表紙の背が切れてぼろぼろになっても、いまだに宝物のごとく持っている。
(追記:これを書いたときは忘れてたが、その後に思い出した重要なことを書いておく。この2冊の本は、のちにわたしの妻となる人からのプレゼントであった。)
 

 二川の民家写真の中でももっとも感激したのは、遠野の千葉邸であった。力強い中にやさしい茅葺の曲線があり、全体に均整のとれた配置にマイッたのでああった。
 ところが千葉邸にはまだいったことはない。今は保存公開されているとのこと、いつの日か訪ねる楽しみを、残り少ない人生にとっておくのだ。


●伊藤ていじ先生の思い出
 展覧会場のロビーで、二川幸夫にインタビューする映像を見せていた。
 美術出版社が二川の民家写真を出版してくれることになり、伊藤ていじと組んで全国を撮影に回った端緒について語っている。
 その始まりが1950年とすれば、伊藤ていじは28歳、その頃、死にそうになった大病(肺結核)がようやく治癒したばかりだった。二川は伊藤より9歳若い。

 二川は、写真に論考を書く相棒を、それまでの民家研究者や建築史家ではなくて、まだ若い研究者だった伊藤を選んだそうだ。後の伊藤のことを思うと、その人選は実に見事だったし、二川の眼力のすごさに驚嘆する。
 病み上がりの伊藤が全国行脚を渋るのに対して、二川は、どうせ一度は死んだんだから一緒に回って死んでも同じだろう、と、説得したのだそうだ。

 1960年の夏、わたしの所属する藤岡道夫研究室と東大の太田博太郎研究室の共同研究として、丹波の農村に滞在して民家調査をした。
 両大学から学生、院生、指導教官が集まって、毎日、手分けして民家を訪ねた。
 建ててから100年ほども経った大きな農家に上り込んで、間取りの現状と変化を調べ、天井裏に入って構造を調べる。囲炉裏から舞い上がって天井裏についている煤で、頭から真っ黒になってしまった。余談だが、それから48年後に越後の山村で、そのようなことをして懐かしかった。

 その指導教官に、伊藤ていじ先生がいらしたのであった。体力がないので、荷物は持たない、やむ得ず持つときは風呂敷ひとつであった。
 伊藤先生は毎晩よくしゃべった。それが実におもしろかった。若いみんなで聞き入ったものだ。けっこう与太話もあった。
 その話はもう覚えていないのだが、一つだけ強烈に覚えている話が、二川さんが映像で言っていた、ほとんど死にかけた病気のことだ。

 伊藤さんは、東大の院生の頃、肺結核で病院のベッドに伏して起き上がることさえできない日々、ほとんど死にかけていた。
 ある日、ふと目覚めると、ベッドの周りで何人もが泣いている。ははあ、自分は死ぬんだな、そう思っても、気力がないから何の感情もなく眺めていたという。

 肺結核は死の病であり、戦争直後の日本を、いまの癌のように席巻していた。
 その治療薬の抗生物質ストレプトマイシンが発見されたのが1944年、結核がこれの投与で治るようになった。
 ストレプトマイシンは戦後ようやく日本にも入ってきたが、初期だからそれを誰にでも投与するほどの数がない。

 そこで医者は優先的に投与する人を選んだのだが、その選に伊藤先生もはいったので、生き返ったのだそうだ。
 つまり、東大の将来ある学者としての立場がその選定の理由で、それで命は助かった。
 しかし、その陰には後回しにされて死んだおおぜいの患者がいる、その人たちに自分はおおきな借りがある、だからその人たちの分までもこれから生きるのだと、若い伊藤さんの熱のある話は、若いわたしの心を揺さぶった。

 わたしを魅了した日本の民家という名著ができたのも、ストレプトマイシンのおかげだった。そしてこんにち、それを懐古することもできたのだ。
 その後はわたしと伊藤先生とは縁はなかったが、個人的に尊敬する心の師匠として、出版されるご本を買ったものだ。
 記憶にはないが、もしかしたら丹波で伊藤先生の話にこの本のことをもあって、どうしても買いたかったのかもしれない。
 
 わたしが大学を出てからの伊藤先生との再会は、それから40年ほどたったころ、東京駅ステーションホテルの宴会場での何かのパーティーで出くわした。
 もちろん先生がわたしを覚えておられることはなかったが、しっかりをお礼を述べてあの時を思い出していただいた。

 ついでに、わたしの民家写真も一枚乗せておこう。

 
*「二川幸夫・建築写真の原点 日本の民家一九五五年」は、2013年1月12日(土)~3月24日(日)、新橋の「パナソニック 汐留ミュージアム」にて開催中。

(追記2013/0312)
 新聞報道によれば、二川幸夫さんは2013年3月5日に逝去されたとのこと。惜しいことです。
 
 それでふと思いついて、伊藤ていじ先生が亡くなられたときに、丹波の思い出を書いたような気がして、このブログ記事を探したら2010年2月に書いていた。伊藤先生も惜しいことであった。
 「236丹波の伊藤ていじ先生」http://datey.blogspot.jp/2010/02/236.html
 

2013/03/07

727津波の日からいまだに海水が引かない被災陸地もある

 
 昨年秋に東北被災地に、小さなボランティア活動に行った。仙石線にのって被災地を訪ね、東松島の惨状を見てこのようなことを書いた。
「地震津波被災地を見て思う」
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

 その記事の初めにこの写真を載せた。2012年11月11日に、仙石線東名駅近くの陸橋から南東方向に向いて、東松島市野蒜洲崎方面を撮っている。
 向こうに海のように見えるのは、実は2011年3月11日の津波から、いまだに居座っている海水である。
 ここから惨状をくみとって調べていろいろと書い たのだった。
ところが最近、ウェブサーフィンをしていたら、なんと、この写真の景色の真ん中の向こうのほうから、こちらにカメラを向けて写真を撮ったY.Oharaという人がいた。
 その写真ページには「許諾不要で自由に複製/再配布/二次利用/改変 OKの自由なライセンスです」と書いてあるので、コピーして拝借する。

 これはY.Oharaさんが2013年1月19日に撮ったパノラマ写真の一部を拡大した。中央あたりに陸橋が見えるが、そこからこちらを向いて撮ったのが、上のわたしの写真である。
 
 Y.Oharaさんのパノラマ写真の全景は下図である。上の拡大写真の陸橋があるあたりは、赤い矢印に下である。
わたしが撮った写真の中央上あたりの水上に建物がみえるが、それがY.Oharaさんの写真の中央にある黒い建物である。

 次の画像に、google earthの空中写真(2012/4/12)で撮影位置を示す。
 この赤色矢印の位置から撮ったのがわたしの写真、黄色○印がY.Oharaさんが撮った位置(推測)である。
 これを見ると、この区域は2011年3月11日の津波来襲から今に至るまで、ほとんど海水が引いていないことがわかる。

 
 そして下図は、津波前の2004年の空中写真である。
 一面に田畑があり、それに連なる集落がある。
 もしも津波前にY.Oharaさんがパノラマ写真を撮っていたなら、今は海面となっているところは田畑がひろがり、そのの向こうに家屋が立ち並ぶ街並みが写っていたはずである。
 
 そして、わたしも震災前に陸橋の上から撮っていたなら、海水ではなくて田畑の風景であったはずである。

 さらに詳しくは、Y.Oharaさんのパノラマ写真ページでどうぞ。
http://gigapan.com/gigapans/121827/
 このページは「助けあいジャパン|情報レンジャー」サイトにある。
http://tasukeairanger.heteml.jp/wp/

(追記)
今日のニュースで、今度はピロティ建築礼賛だそうである。
1995年の阪神淡路震災で、ピロティ建築が軒並みに崩壊、以後ピロティ建築はご法度。
ところが津波ではピロティ建築が効果的とか。津波が股下を抜けて行く。
あちら建てればこちらが建たず、なかなか世の中うまくいかないもんです。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130307/t10013027211000.html

2013/03/03

726震災津波による「災害危険区域」って人柱が建たないと指定しないのかしら

 また3月11日がやってくる。あれから2年、復興はどうなのだろうか。
 わたしが行っていた中越震災復興の長岡市小国町の法末集落の2年目、2006年を思い出せば、全戸避難した住民は7割くらいは戻って暮らし始めたが、まだ道や家の修理をしていた。
 それと津波被災地とを比べても意味はないが、それでもあれを思い出すと津波被災地は簡単ではないだろう。

 昨日と今日の朝日新聞朝刊から2枚の図を引用する。昨日は東北沿岸部の復興状況を示す図、今日は関東各県沿岸部の津波リスク図である。


 

 復興状況図をみていて「災害危険区域」指定の広大さに驚いた。広さを足してみたら1250ヘクタールにも及び、これから指定するところもあるから、もっと増える。
 早く言えば、これだけ広いところが津波で壊滅したということ、津波被害壊滅区域である。
 
 そして今日の関東各県の津波リスク図を見て、考え込んだのだが、要するに今後の津波による津波被害壊滅区域がこのあたりにしっかりとあるという図である。

 東北沿岸部の「災害危険区域」の指定は、大被害が出た後で指定したのである。
 関東沿岸部では、これから大被害が出るのである。そこは「災害危険区域」に指定するのだろうか。被害が出てからでは遅いから、その前に指定して対策をとるのが防災というものだろう。

 たとえば、わたしが住んでいた鎌倉とか、今住んでいる横浜都心とかは、いったん大津波が来たら「災害危険区域」となる資格は立派過ぎるほど備えているように見える。
 だとしたら、津波がやってくる前に指定してはどうか。指定するとどうなるかは、よく知らないが、なんでもそこに住んではいけないってことになるらしい。

 事務所、店舗や工場などは立地できるらしいが、でも、そこにも人間はおおぜいいるんだけど、それはどうしていいのだろうか。学校はどうなんだろうか。
 今の段階で指定したら、不動産業界は大恐慌だろうなあ、あ、そうじゃないか、高台や内陸に移転する人が増えて、災害前特需が生まれるかもなあ。
 災害危険区域には産業施設の立地はできるらしいが、それでもそんな危ないところから企業だって逃げるかもなあ。

 まあ、日本では昔から、なにか政策が大きく変わるのは、外圧と人柱によるものと決まっているから、実際に津波で人柱が建って初めて「災害危険区域」指定ができるのだろう。

●参照
瓢論◆絆を解いて民族大移住時代が来る
https://sites.google.com/site/dandysworldg/jinko-ido
弧乱夢◆地震津波火事原発
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm