2013/06/14

793どうもピンとこないが日本は暑くなっているらしく先日は故郷の高梁が日本第2位になったとか

 ここ横浜はふつうに初夏であるのに、どうもおかしい。どうもピンとこないのだが、日本がもう猛暑になっているらしい。
 NHKnewsWEB 2013/06/12にこんなことが載っている。

日中の最高気温は、▽新潟県上越市で35度9分、▽岡山県高梁市で35度6分、▽兵庫県豊岡市で35度1分と、いずれもことし初めての猛暑日になりました。また、▽松江市では34度4分と、6月としては統計を取り始めてから最も高くなったほか、▽秋田県大館市で32度1分、▽北海道北部の名寄市で31度8分などと、広い範囲で30度以上の真夏日となりました。

 おお、高梁市とはわたしの生れ故郷である。
 惜しい、あと4分で日本一だったのに、へえ~、故郷はそういうことを誇る地位?になっているのか。

 関東に住んでいると、日本一は熊谷市とばかり聞いていて、内陸地の盆地が暑くなるんだとおもっていたが、そうか故郷も内陸盆地であった。
 居直って暑さで町おこししているらしい熊谷が暑いのは、新潟・群馬県境の三国山脈から乾いた熱い風が入ってくる地点にあるからだそうだ。

 ということは、高梁も中国山地から同じ現象が起きているのだろう。盆地の底に熱い風が吹き寄せられて溜まっているのだろうか。
 日本各地暑さランキングを見ると、なかなかすごいものである。故郷ももっと頑張って日本一になってほしい??。
 ということで、ふるさとのみなさま、早々と暑中お見舞い申しあげます。

 
 

2013/06/11

792【横浜ご近所探検】神奈川県庁舎屋上から港を眺めて歴史を生かすまちシンポでお勉強して収穫あり

 空梅雨で天気が良いし、暑くもなくて気持ちよい初夏である。ご近所探検隊も出動回数が多い。
 いつもの関内地区ぶらぶらで、神奈川県庁舎の前に来たら、今日は公開日ですと書いてある。

 え、公開?、昔、仕事してた頃は、県庁に用事あってしょっちゅう来たこともあるが、普通には入れたけどなあ。県庁は県民が用のあるオフィスだから、いつだって公開してるはずだよなあ。
 わざわざ公開しますなんてもったいぶっているのは、今は非公開にしたのかしら、おかしいよなあ。ああ、休日なのに公開しているという意味だろうなあ、それならわかる。

 まあ、よろしい、このところ県庁に用がないので長らく入ったことがなかったので、入ってみることにした。
 屋上に登って景色を見るのと、県知事の部屋を覗き込むのがちょっと面白いくらいで、ほかには特に面白くもない。廊下を歩き回るだけなら、平日に用ありげにやってくる方が立ち入り制限が少ない。

 この神奈川県庁の本庁舎の建物は、1938年にできた建物で登録文化財となっている。
 その姿は、いかにも権威主義的な帝冠様式といわれたデザインで、その当時のはやりの官庁建築である。戦前お役所建築の典型で、愛知県庁舎名古屋市庁舎静岡県庁舎も似たようなものである。

 これをつくる前に、公開競技設計をやって案を募集したとて、その応募案の絵が展示してあったのが面白かった。
 一等当選案もその他も、ほとんど同じように見える。まったく独創性のがないのが、時代の様相を見せていて、面白くもあるがなんだか怖くもある。
 

 屋上にのぼったのは初めてである。新館のほうはよく行っていたので、展望レストランから港を見ていたものだが、こちらの屋上は視野が広くてよい。
 真ん前に「象の鼻」が見えて、開港当時の港の風景をしのばせる。
 左前に見える塔が、「ジャックの塔」よばれる横浜税関である。

 この県庁舎の屋上に建つ塔が「キングの塔」で、近く開港記念館には「クイーンの塔」がある。

 3階の大会議室では、「明日の歴史を生かしたまちづくり」なるシンポジウムがあるとて、野次馬気分で出席、けっこう大勢の参加者であるが、見渡せば、横浜歴史まちづくりフリーク感のある仲間内的顔ぶれの感もある。

 わたしのこのシンポでの収穫は、発言された横浜の歴史的建造物の権威者たちの中のおふたりから、「歴史的建造物として、戦後復興期の防火帯建築をどう考えるか」という趣旨のおことばが、ほんのちょっとだけだが、とにかく発言があったことである。

 ようやく、すこし日が当たりそうかなあ、ぜひ歴史的建造物の仲間に、群としての防火建築帯も入れてやってくださいませ。
 わたしは保存原理主義者ではないが、せめて今のうちに何らかの評価をしてあげてほしい。一顧もされずに消えていくのは、さびしい。
 なお、「防火建築」という方が横浜には多いようだが、その街並みを作った根拠法の耐火建築促進法には「防火建築」と書いてある。

◆横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/yokohama-sensai-fukko
 

2013/06/09

791【金継ぎ】琉球の焼き物のマグカップが割れて伝統技法の金継ぎ修理してわが家宝になったのだが…

  「筒井筒とよばれる茶碗があるそうだ。朝鮮李朝期の焼き物で、重要文化財となっている名器だが、それがなんと割れたのを修理している代物だ。
 元は筒井順慶がもっていたが、豊臣秀吉の不興を買ったときに詫びに献上したもの。

 あるとき、秀吉の小姓がそれを割って、手打ちにされかけたのを、細川幽斎が能「井筒」にある和歌をもじってとりなし、事なきを得て金継ぎ修理したという物語がある。
 筒井筒 五つにわれし井戸茶碗 咎をば我に負ひにけらしな
 元歌は伊勢物語にある
筒井筒 井筒にかけしまろがたけ 生いにけらしな 妹見ざる間に
 だから重文になったというのでもないだろうが、面白い。

 話の出だしが格調高いが、わたしもそうなるかもしれない物語を持つ茶碗、というよりも湯呑、いやマグカップを持っているのだ(実は、正確には持っていた、だが)。
 物語の始まりは、いつか忘れたが沖縄に行ったときに、どこか忘れたが、幾らだったか忘れたが、この物語の主人公たる陶製マグカップを買ってきた。
 どうもこれでは出だしからして物語性に欠けるなあ。そこは庶民だから、しかたがない。物語を続ける。

 で、なんとなく日々の酒飲みに使っていた。この3月末のこと、洗っていたらポクッと欠けた。
 捨てようとして、かけらはひとつで簡単にはめ込むことができるので、ふと畏友のFが接着剤の専門家であることを思い出し、どんな接着剤を買ってくればよいか、教えてもらおうと考えた。

 翌日さっそく現物をもってFに会ったのだが、エライことになってしまった。
 日本古来の「金継」なる陶磁器修復方法の講義を聞かされてしまった。金継なる手法があるということくらいは知っていたが、Fがやっているとは思わなかった。
 そのFが物の状況を診断しつつ、1時間半ほどの金継方法を実におもしろく教えてくれて、すっかりその伝統手法でやる気にさせられた。

 ということで、金継師匠のFに弟子入りしたのである。Fにはこれに限らず、化学一般や白内障やらで弟子入りしている。白内障手術は、師匠は片目だけだが、わたしは両目やったから、師匠を越えた。

 さて、金継を始めた。といっても、道具も材料もF師匠に頼りっぱなしである。
 何段階もの工程があり、工程のほとんどはウルシの乾燥待ちである。なんと2カ月はかかるというのだが、急ぐことではさらさらない。
 もしかしたら入門した弟子にだけ教えるF師匠の秘伝の術かもしれないので、ここに細かいことは書かない。

 汚れを入念に落す作業が1週間、欠けたところのほかにある細かいひび割れの接着に2週間かかり、ようやくにして肝心の欠けた破片を元の位置に復して、継ぎ目に塗った漆に金粉を蒔いて最後の作業が終われば、いつしか春は過ぎて初夏になっていた。
 ここから3週間置いたままで乾燥して、仕上げはついている余計な金粉やらウルシやらを丁寧に真綿で磨いてとりされば、おお、金線輝くマグカップが再登場した。
 

 さて、わが宝物になった物語の込められたその琉球マグを、何はともあれ師匠に一番に使ってもらいたいと、これはやはり沖縄料理店で、沖縄ビールを飲むに限ると思って、共に店を訪ねると、昼日中でまだ準備中。
 しょうがないので安居酒屋にて、まずは師匠にできぶりを褒めていただき、黒ビールを飲んでいただいたのであった。
 めでたし、めでたし、、、と、、。
  ・
  ・
  ・
 さて、次の深夜のこと、読書しつつ、寝酒を金継ぎ家宝で飲む至福の時が過ぎていく。
 時計が零時を回った、もう寝ようかと立ち上がったら、ガチャンと足元の床で破壊音が、、、。みればわが宝物は、7つに分かれて転がっている、、、トホホ、、。
 

 ここで細川幽斎のように、なにか古歌を引いてしゃれたこと言いたが、、う~ん、と、
 割れても末に 買わんとぞ思う
 これは落語の崇徳院である、格調が低い。

 袖にからみ床に落ちたる金継碗 割れてももはや継がぬとぞ思う
 ま、このくらいか。

 というわけで、金継物語はあえなくこれでおしまいである。
 まあ、金継師匠にお褒めをいただき、お使いいただいた後であったことをもって、この物語はハッピーエンドとしよう。
  ◆
 東京駅の復原にいちゃもんつけ、高田の奇跡の一本松復元にその意味を問う、なんてことやってて、自分の茶碗の復元と破壊にはどう評価しようか、なんて思う。
 金継ぎ(金繕いともいう)という手法が面白いのは、元の割れる前の姿に復元をするものではないことである。
 割れて継いだその姿を、新たな創造とみてしまうのである。
 割れ目を縫うように蒔かれた金粉の線状を眺めて、それを「景色」とさえいうのだから、風流なものである。景色を作るためには、割れなかったところにさえ金線をほどこしてしまう。
 これが進んでくると、製作時の釜の中で割れた陶磁器は普通は捨てるのだが、それを金繕いして創作にしてしまう。嵩じると、割れるように焼いて、金繕いする。そのような名器があるらしい。
 建築の保存修復についても、その視点で見ると、面白いことがありそうだ。

2013/06/07

790【横浜ご近所探検】古建物の一部を残して新建築に貼り付ける歴史保存デザインの意味はどこにあるのか

 また昨日の横浜ご近所散歩の続き。
 神奈川県庁の近くに、大きな空き地ができて、建築工事をしている。
 いつもの散歩コースなのに、こうやって壊されてしまうと、ここにはなにがあったか思い出せないのが、なんだか悔しい。
 そういうことがよくあるが、どうも年寄りになって忘却力が増大したからではなく、昔からそういうことが多かった。知人に聞いてもそうだという。

 その工事空き地に、一枚の穴あき壁が建っている。幅3mくらい、高さが3階くらいの一枚のコンクリ板だから、鉄骨で支えてある。
 これから作るビルの一部を模型にして検討しているのかと思ったが、それにしては汚れているし、デザインが模型にして見るにはあまりに変哲もないのである。
 どうも、元ここに建っていた建物の一部を残す形で、その場で切り取ったままに立たせているらしい。これから作る新建築の一部にはめ込むのだろう。

 そうか、これは横浜市のがお得意?の歴史的建築保存の手法のひとつだ。
 馬車道の旧保険会社(元のビルから取り外した部品を新ビルに張り付け)とか、北仲通りの旧横浜銀行本店(玄関部分だけ本物曳家で他はレプリカ)とかのビルでやってきている。
 このビルは、銀行のような石で造った立派な代物ではなくて、変哲もないコンクリートの板であるところがちょっと面白い。これはモダンデザイン建築だったのか。

グーグルストリートで見る元の建物(2012年か)
 
2013年6月の風景 
 

   ネットで調べて分かった。
 1938年に竣工した「神奈川県産業組合館」であり、取り壊される前は「神奈川県中央農業会館別館」だったとある。なるほど日本モダニズムデザイン流入初期の建築であったか。
 戦前モダニズム建築と言えば、東京中央郵便局が1933年に竣工している。東京駅の隣にあって、赤レンガ東京駅はごてごて飾ってあって分かりやすいので、大衆的保存運動が起きたが、こちらは玄人筋だけの保存運動であったのが、興味深いことであった。

 この旧神奈川県産業組合館を、横浜市が「横浜市歴史的建造物」として認定しているのだが、それが今年の1月である。
 ということは、こわされる直前にでもあわてて認定したのだろうか。そして一部だけでも残すとなったのだろうが、その間のやり取りを聞いてみたい。
 それにしても、歴史的建築物としての一定の評価軸が、これまではごてごて飾り立てた様式建築ばかりにあてられていたようだが、ようやくこのような、いわば「町場のモダン」デザインにまで及んできたことを素直に喜ぶものである。

 横浜市のサイトにはこう書いてある。
「こうした意匠をもつ建物は1930年代に世界各国で建てられており、この建物は、同時代の建物の1つの典型といえる建物です。
 周辺の建物とあわせて、関東大震災以降の、戦前の横浜の都市形成の歴史を物語る貴重な遺構であるとともに、神奈川県の農協の歴史としても時代を画すモニュメントといえる存在で、今後、現在進められている隣接地も含む建替計画のなかで、壁面を一部保存しながら外観を復元し、歴史的建造物を保全活用していきます。」
http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/design/press/20130129183422.html

 わたしがこれを「町場のモダン」というのは、やがてこのようなデザインが木造の商店建築のファサードに及んで、現代の日本の都市風景を造ることになるからだ。
 その系譜はやがて戦災から戦後復興期の横浜都心をつくった防火建築帯にいたることになる。今の関内・関外の町場のモダン景観はそうやってできたのだ。
 さて、県庁隣の新しい農協ビルは、どのような現代町場モダンの姿を見せてくれるのだろうか。

 ちょっと気になることがある。
 いま工事現場に突っ立っている保存壁は、たしかに元の歴史的建築物の一部なのだろうが、それを現物として残すほどの価値がどこにあるのだろうか。
 現物として残すには、それが現在では希少であるとか再現が難しい技術とか材料で作られていて、学術的な意義があることが必要条件だと思うのだが、これがそうなのだろうか。もしもそうなら、それがわかるように見せてほしいし、キレイにしないで汚れて年季が入った姿で生かしてほしい。
 そのうちに1950年代の戦後復興期の建築も歴史的建築物になって、その一部を保存して建て替えにするときがくるだろうか。

参照:横浜ご近所探検隊の横浜風景散歩コラム
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#yokohama
◆横浜B級観光ガイドブック
https://sites.google.com/site/matimorig2x/yokohama-bkyuu-kankou-gaidobukku
◆横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか
http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/yokohama-sensai-fukko
◆歴史の証言としての建築記録保存
https://sites.google.com/site/dateyg/matimori-hukei/miyosi-syogakko
◆関内地区戦後まちづくり史
http://homepage2.nifty.com/datey/kannai200609.pdf

2013/06/06

789【横浜ご近所探検】北仲通北再開発が動きだしたが美しい景観出現にあまり期待し過ぎないようにしよう

 昨日の横浜ご近所探検隊報告の続きである。
 新港地区の運河パークから建設中の結婚式場と大観覧車を眺めて、頭をぐるりと左に回せば、運河越しに大きな空き地があり、何やら工事中である。
 ここは帝蚕倉庫と公団住宅団地などがあったところで、北仲通北再開発地区として事業計画があり、対応して地区計画もかかっているところである。

 帝蚕倉庫跡地は数年前に東京の不動産事業者が買収して再開発するはずが、リーマンショックで止まっていたのだが、動き出すらしい。
 WEBサイトで見たら、事業者が都市計画提案で計画変更を行政当局に出しているようだ。合計床面積33万平米もの高層・超高層建築が立ち並ぶらしい。

 ついこの間まであった公団住宅団地が消えている。
 今は正式には都市再生機構の住宅団地でUR団地とかいうのだろうが、やっぱり公団住宅団地という方がしっくりくるのだ。
 あの5階建て、階段アクセスの公団住宅は懐かしいとおもうのは、若いころに同じ形の公団住宅に住んでいたからだ。公団住宅団地は、戦後の先進的な居住環境づくりのリーダーであった。
 去年、団地の半分くらいは建て替えられて、高層住宅になっていたが、残りもいよいよ建て替えらしい。
2008年 昔の公団住宅がまだある
 
2012年 旧公団住宅が半分建て替えられた
 
2013年 公団住宅が全部なくなった
  空き地の一部に元帝蚕倉庫の赤レンガ建物が、2棟建っている。
これらは再開発の中において、保全再生して再利用することになっているはずだ。ほかにも2棟の赤レンガと白い建物が1棟あったのだが、取り壊された。

  このブロックには、国の出先機関が入っている庁舎があり、もとはそこに赤レンガの生糸検査所の建物があったのだが、これは取り壊されて超高層建築となった。その腰回りに、もとの外観をコピー再現された。
 その再現したデザインが、いま建っている元帝蚕倉庫の赤レンガ建物とそっくりであるのは、横浜の生糸関係の一連の建物だったからだろう。
 道を隔てた向かいには、元横浜銀行本店だった様式建築の一部が、一部曳家した現物だが、これもほとんどコピー再現されて建っている。
  
   複数の民間事業者のコンソーシアムであるらしい帝蚕倉庫跡地再開発と、都市再生機構の公団住宅建て替えの両事業は、この運河に面する横浜でも屈指の景観を誇る地区にあって、どのような姿で再登場するのであろうか。
 対岸で工事中の結婚式場が、横浜市の都市美審議会でそのデザインが揉めたのだが、こちらではどうなるのか、また揉めるのかもしれないと、変な楽しみがある。

 こちらは生糸検査所跡の再開発に見るように、近代開港時の歴史的デザインコードが低層部にはあるとみてよいだろう。そこから大きく外れるには、デザインの力量がいるだろう。
 でも、外れてもいいから、これは美しいと思うことができる空間の出現も期待する。同じような赤レンガコピーなら無難だとされるのも困る。

 問題は高層部、超高層部だろう。今ここに既に出現している国の合同庁舎も都市機構建て替え住宅も、高層部のデザインは良くも悪くもなし、はっきり言えば美しい風景が登場したわけではない。
 どうも、丸の内でも西新宿でも超高層建築群となると、群としての都市景観がさっぱり美しくないのはどうしてだろうか。てんでに勝手な方向を向いて、てんでに違う格好している。ちがっていてもよいのだが、なにかが欠けているような気がしていならない。

 わたしが超高層建築群を群として美しいとみた経験は、ニューヨークのバッテリーパーク開発によるフィナンシャルセンターだけである。
 北仲通り北地区の再開発によって、どんな素晴らしい風景が横浜港に生まれるのか、おおいに期待もするが、あまり期待してがっかりしないように心構えも必要である。

 ついでに、美しいばかりではなく、賃借都市主義者のわたしにとっては、UR都市機構にはアフォーダブルな賃貸住宅を建てることをお願いしたい。民間並みの家賃で貸すようでは、URの存在価値がない。
 日本の戦後の庶民住宅を引っ張ってきた伝統をわすれず、そこをがんばってもらいたい。
2008年 旧公団住宅とランドマークタワー
               ↓
2012年 同じアングル


2013/06/05

788【横浜ご近所探検】新港地区に景観で揉めた結婚式場のほかにも結婚式場が銀色の姿で登場

 日本各地で暑い暑いとのニュースだが、横浜は海風が吹くのか、初夏の心地よい日が続く。
 横浜ご近所探検隊は、港あたりに出かけて、面白い発見をいくつか連続掲載する。

 昨年の春から夏にかけて、「みなとみらい21地区」の新港地区に出された結婚式場計画が、その景観デザインが横浜市の審議会で否定されて、あれこれともめた(と言ってもいかにもギョウカイ的だったが)事件があった。(そのことはこちらの横浜港景観事件を参照

着工前の風景(2012年3月)
 
 現在それが工事の真っ最中である。コスモクロックなる観覧車を背景にして、大きな工事中の建物に青いシートがかかっていて、奇妙な風景である。
 
工事中の風景(2013年6月)
 
 

 現場の塀に看板がかかっていて、「都市景観形成行為のお知らせ」と書いた2種類の立面図が書いてある。
 そのひとつは、昨年に横浜市都市美審議会でもめた当初案であるらしく、もうひとつがそれを横浜市が協議して是正させた実現案であるらしい。
 
工事看板など
 
景観協議の前(上)後(下)の立面図だけを取り出して比較する
 
  その絵だけとりだして、どこが違うのか比較しても、違うとはっきりわかるのは、赤い屋根が何色かわからないが薄い色に変わったことだけである。
 形態も変わっているのかもしれないが、違い探しクイズの絵みたいで、見つけることができない。
 この建物では、景観を良くするのは色彩の是正だけだったようで、形態については是正の対象ではなかったらしい。

 はて、昨年もめた事件を思い出してみても、もめたのは色彩だったかしら。
 それもあったかもしれないが、それよりもむしろラブホテル的というか西洋様式コピーというか、その形態だったような気がするが、違ったかしら。
 ともかく、どんな形が現実として現れて、世間がなんというか楽しみである。

 新港地区には他にも新建築が姿を見せつつある。チキンラーメン発明者の安藤百福記念館の赤い建物の隣には、ここも結婚式場らしいが、なんと銀色の穴あき金属板が張り巡らされている。

左の安藤百福記念館と右のJICAは赤レンガイメージだが
新建築はアルミ穴あきパネル外装

 JICAとカップヌードルの両レンガ色に挟まれて、むこうには赤レンガ倉庫も見える位置なのだが、今度はすっぱりとレンガ色コンセプトは廃止にしたらしい。
 もめたほうの結婚式場が、赤レンガ倉庫と調和させて茶系統にするとかデザインの説明に書いてあった様な気がしたが、こちらの新結婚式場はそんなことは全く必要なかったというか、配慮しなかったらしい。
 横浜市も協議で求めなかったのだろうか。なんとなく気になる、興味がわく。

参照:横浜風景コラム
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#yokohama

2013/06/04

787陸前高田の「奇蹟の一本松」レプリカ復元保存はどのような意味を持つのだろうか

陸前高田市では、3・11津波によって、ご自慢の「高田の松原」が壊滅した。
その中で、1本だけ突っ立っていていて、感激させた松も塩枯れしたのだが、これを「奇跡の一本松」と名付けて、レプリカ復元工事が完了したそうだ(2013年6月4日のニュース)。
 そこには「奇跡」として、多様な被災者たちが、それぞれの多様な物語を、このレプリカに込めていればこそ、1.5億円もかけても復原したかったのだろう。
 松も土地もユースホルテルのものらしいが、だれが管理するのだろうか。

 その復原工事の最後に、ひと騒ぎあったとのこと。
  くだんの枯死した松は切り倒されて、どこかに持って行って、幹や枝はプラスチック注入強化され、鉄の心棒を差し込まれ、葉は(たぶん)プラスチックでコピー再現された。つまり松はサイボーグになった。
 そしてまた元の場所に戻ってきて、元の姿に組み立てられた。
 ところが、市民から異議が出た。枝ぶりの曲がり方が、以前とは違うというのだ。やり直してどうやら完成したようだ。

 どうも地元でも、これについては復元是非論があるらしい。余所者のわたしには、この一連の事件を理解することは難しい。
 どんな気持ちが込められているのか、一人一人違うだろうから、それを類推しても仕方ないのでよそ者なりの感想を書く。

 この続きは「東北に大津波被災地を訪ねて【陸前高田】」https://sites.google.com/site/dandysworldg/rikuzentakada


2013/06/03

786こんな英文借金お願いメールが来て国際的な振り込め詐欺に引っかかりそうになった

 5月29日のこと、下記のような金を貸せとのBccメールが来た。発信者は、1か月半ほど前に旅先で初対面の方である。

Unexpected Sad Trip!!! Need Your Help!!!

 I really hope you get this fast. I could not inform anyone about my trip, because it was impromptu. I had to be in Manila, Philippines for a program. The program was successful, but my journey has turned sour. I misplaced my wallet and cell phone on my way back to the hotel i lodge in after i went for sight seeing. The wallet contained all the valuables things i have. Now, my passport is in custody of the hotel management pending when i make payment.

 I am sorry if i am inconveniencing you, but i have only very few people to run to now. i will be indeed very grateful if i can get a loan of $2000  from you. this will enable me sort our hotel bills and get my sorry self back home. I will really appreciate whatever you can afford in assisting me with just let me know what you can afford. I promise to refund it in full as soon as I return. let me know if you can be of any assistance. Please, let me know asap. Thanks so much..

 このあとに、お名前と東京の住所が書いてある。
 発信者の方は大学名誉教授であり、弟子だけでも多くいらっしゃるだろうに、Bccであるにしても一回会っただけのわたしにまで、送金依頼とは常識的にみてもヘンである。

 ご当人をよくは知らないのだが、この英文をしげしげと読みかえしても、発信者を特定させるところが全然ないし、ホテルの名前さえもない。
 どうもこれはインチキ偽メールであるにちがいない。とは思えど、気にはなる。どうしようか、誰かに聞こうかなどと、少し思い悩んでいた。

 6月2日夜、ご当人からBccメールが来て、やっぱりインチキ偽メールで、メールアカウントを乗っ取られた結果だそうだ。
 アメリカで多発している国際的振り込め詐欺の一種という。返信したら振込先を教えてくるのだろうか。
 ま、気を付けましょう。と言っても、どうすれば、、。
 あ、6月2日のメールが本当にご当人からなのかしら、、なんて。

追記:(130604)
「外務省海外安全ホームページ」
http://www.anzen.mofa.go.jp/の「フィリピンに対する渡航情報(危険情報)の発出 2013年03月08日」という記事があり、そこにこう書いてある。
(4)その他(振り込め詐欺と思われる標的型メール)
 2012年以降,実際に存在する個人のメールアドレス(Yahooなどのウェブメール)を用いて本人になりすまし,その家族及び知人等に対して外国送金を依頼するといった振り込め詐欺と思われる事案につき報告が寄せられています。
 メールは英文で書かれており,その内容は,概ね,フィリピンを旅行中に強盗被害に遭い,所持金を盗られてしまい困っていると切り出した上で,帰国旅費,ホテル等の支払いにお金が必要であるとして,外国送金サービスや指定した口座に至急振り込みをして欲しいとするものです。
 万が一,この種の内容のメールを受信した際には,メールの内容を鵜呑みにせず,まずは本人に事実関係を確認する等十分警戒する必要があります。


2013/06/02

785めったに見ないTVを見たら5千年前の凍死男が素っ裸でいじくり回される映像にちょっとびっくり

 
 10年くらい前、「五千年前の男」という本を買って読んだことがある。
 日本だと縄文時代か、ヨーロッパアルプスの氷の中から、5000年間凍ったままの死体を発見した物語である。詳しいことは忘れた。
 昨夜,ふと新聞TV欄に「アイスマン」の番組があることに気が付き、久しぶりにきちんとTV番組を見た。
発見したのは1991年で、あれから冷凍保存してあったのを、このたび初めて解凍して、あれこれ調べて新発見があったという。
 その死体発見から解凍、検査などの一連のことを映像にした番組だった。本の写真で見ていた死体が、映像で生々しくでてきた。
 当時の生活という考古学的発見から、実は殺されたらしいなんて猟奇的発見など、類推も含めていろいろ興味深い事実がわかったらしい。
 それはまあ、現代科学技術で可能なことなのだろう。

 わたしはそんなことよりも、面白いというか興味持ってみたのは、素っ裸の死体がいじくりまわされ、切りとられる様子を、そのまま映像にして公開していることである。
 TV番組をほとんど見ないから知らないのだが、こういう類のTV映像は、今では当たり前なのだろうか。
 5000年前に死んで、たぶん、もう親類はいないから、プライバシー侵害だと抗議は来ないだろう。

 それにしても、死体をこうやってTVで見ることが、当たり前の時代になったのかしら。わたしはリアリストだから平気だが、世間一般に平気な時代になったのかと、ちょっと気になったのであった。
 今に、現代死人も何か珍しいことでもあれば、こうやって公開映像に出るかもしれない。いや、もう出されているのだろうか。
 TV界文化の進歩はすごいもんだ。


 
 

2013/06/01

784道端で変な人に言い寄られたがこれは押し売りとか詐欺とかのきっかけづくりか

 知人がFACEBAKAに、新手の詐欺師かなにかに出会った話を書いている。
 路上で呼び止められた人から、突然500万円の札束を見せられて、奇妙に思い急いで立ち去ったというのである。
 それでわたしも思い出した、似たような、似ないような話をここに書いておく。

 10年ほど前、東京虎ノ門近くのNPOの本部に出入りしていた頃のこと。
 歩道を歩いていると、すっと寄ってきた乗用車に中年男2人、「シャチョーシャチョー」という。
 他に人はいないので何事かと寄れば、窓から小さな箱を手で突き出している。
「近くにたくさん卸しに行ったのですが、余ったのでさしあげます。どうぞ持って行ってください」

 その箱の中には、高級万年筆のようなものが見える。押しつけてきて、「ちょっと他にもあるのですが見てください」とて、ごそごそして、「それをさしあげますから、こちらを安くするので買ってください」という。
 はは~ん、新手の押し売りかと、箱を投げ返して、すたすた逃げた。

 それから1か月くらい、同じところで車から「社長、社長」、…「あんたねえ、わたしを覚えてないの?」と言い捨ててすたすた。
 それからまた数日して同じことがあったが、こんどはゲラゲラ笑ってしまい、向こうも苦笑。

 そして今年2月、代官山を歩いていると、すっと寄ってきた乗用車の中年男二人、「社長、社長、これさしあげます……」
 おお、今はこっちに河岸を変えて、まだ頑張ってるのかい~、サイナラー。
 それにしても、わたしは、ひっかけやすい風体なのだろうか。5度目に出会ったら、じっくり聞いてみたい。