2014/11/09

1023【怪しいハイテク】自分のブログを自分で見ることができない故障中、修理の仕方教えてください

 このわたしのブログ「伊達の眼鏡」に、わたしがアクセスできなくなった。わたしのPCで、わたしが書きこんだページを見ることができないのだ。
 <伊達の眼鏡>http://datey.blogspot.com/にアクセスると、こんなお知らせが出てくる。

 で、その「詳細」をポチすると、こんなお知らせが出てくる。

 で、これを読んでも、まったくチンプンカンプンである。よくまあ。こういう文章を書けるもんだと思う。
 しょうがないから、DNSナントカカントカをネット検索したが、そこを読んでも何のことかわからない。
 グーグルってところは、日本語を知らん奴を雇っているらしい。あ、自動翻訳かな、うん、児童翻訳にちがいない。小学児童なみの翻訳だ。

 もう、わたしのブログを誰も読んでくれないことになっちまったか、、、。
 でも、もしかしてわたしのPCだけのことかもしれないと、息子にメールしてスマートフォンで見てもらったら、ちゃんと見えているという。
 う~ん、ってことは、わたしのPCのせいなのか、でも、どうしてそうなるのかなあ、あ、あの怪しいサイトを覗いたせいかなあ、、、、。

 不思議なことに、ブログ書き込みするページは出てくるので、今、これを書きこんでいる。
 でも、暗闇で店先に看板を吊っているみたいで、ここに書いたページが、どんなふうにブログに見えているのかさっぱりわからない。まあ、なんとかなるでしょう。

 もしも、うまく読めたなら、どなたか修理の仕方を知っているお方が読んで、教えてくださるかもしれないと期待を込めている。
 よろしくお願いいします。

追記:アッ、出た、治った、どうしてかなあ、何もしないのに、でもよかった、お騒がせしました、ごめんなさい





2014/11/07

1022【言葉の酔時記】「徘徊」じゃなくて「ひとり歩き」と言えってまたもや「痴呆」につづく老人言葉狩り

 また言葉狩りが始まったらしい。こんどは「徘徊」だそうである。
 今日の新聞に『「徘徊」言い換えませんか」の見出しで、「ひとり歩き」と呼び替えようとある。
 なんでも、徘徊は差別用語なのだそうである。「徘徊」とは「意味もなく歩き回る問題行動」で、いけないのだそうである。

 へえ~、わたしは「徘徊老人」を自任しているのに、なんとまあ、驚いた、いけないのかあ、困るなあ、意味もなく歩くのが大好きなのになあ、。徘徊大好きで、しょっちゅうやっている。
 意味もなく歩く徘徊が、結果として意味を持つことはある。徘徊中になにか発見することもあれば、思い出して買い物したりもする。
 わたしは徘徊をしたいのだから、そういう時はいったん戻ってきて、あらためて買い物やら発見に出かけなければならない。でないと徘徊ではなくなってしまう。面倒なことである。

 ちょっと前に、ボケ老人とか痴呆症がいけないないとて、「認知症」なる言い換えになったことがある。
 これもなんともはや妙な用語である。認知することが病気の一種なのかしらねえ、認知できないことが病気でしょ、ならば「認知不全症」あるいは「認知病」というべきのように思う。

 例えば、懐胎した母の子を、自分の子であると認知した父は「認知症」なのかしら。あるいは向こうから歩いてくる人を、自分の知人であると認知したわたしは「認知症」なのかしら。

 言葉を言い換えるのは、いろいろ現場の事情で仕方ないことかもしれないが、間違いやすい言葉に言い換えないでほしいものだ。
 まあ、そのうちに「認知症は差別用語」だから、なにか別の言葉に言い換えようってことになる時が来るだろう。

 言葉を言いかえると、とりあえずは何かいいことしたような気分になる人もいるだろうが、それはどうぞその人が勝手におやりください。よそにまで言い換えを強要しないでほしい。
 つまり、わたしが自分のことをボケ老人とか徘徊老人とか言うのはケシカランなどと、糾弾しないでいただきたく、なにとぞよろしくお願い申し上げまする。


2014/11/03

1021【新聞広告イチャモン】いまどきデコン建築かとみれば歴史建築保存も絡むロンドン再開発

 なんだか奇妙な建物の絵が新聞広告に乗っている。新規開発不動産を売ろうとして、その完成予想図らしい。ひん曲がっていて、童画みたいである。
 3・11の記憶がまだ生々しいいまどき、もう建築界はデコンデザイン復活かと見れば、ロンドンのことだった。

 数日前にもこの広告を見たので、ちょっと気になって読んだら、バタシー・パワーステーションと書いてある。ロンドンの有名な歴史的建築物の発電所である。

 あの堂々たる発電所が壊されて、こんなへナチョコビルになるのか。いったい誰が設計なんだと観れば、さすがグレートブリテンの広告で、建築家の名前フォスターとゲーリーが書いてある。このひん曲がりはゲーリーのデザインだな。

 どうも気になるので、貧者の百科事典(ウェブサイト)でbuttersea power stasionを探したら、あった。この発電所跡地を再開発して、住宅とショッピングなどの街にするらしい。
 なんとそのデベロッパーがマレーシア資本だそうだ。アジアの旧植民地国が、ヨーロッパの旧宗主国に開発資金を投じる時代になったのだ。
 
 そしてゲーリーの描く絵も見つけた。ふ~ん、なんだかすごいね、ないなに、flower buildingだってさ、そうか花咲き乱れビルってのか。
 これって、普通のビルの形で模型を作って、その途中をギュッと握ったらこうなりそうだな。ゲーリーはそうやって設計するのかなあ。deconstructivismだな。
 デベロッパーの話が載っているが、アパートメント(あちら「マンション」とは言わないんだな)は、その住戸ひとつひとつが独立しているようにする、という。ふむ、それでゲーリーは立体的に街並みにしたのか。

 日本でもどこでも共同住宅ビルが、多様な中身を持ちながら、ひとつのビルとなって退屈なズンベラボーである。一戸建てが並べば街並みになるが、一棟にまとめるとつまらない風景になる。それが並ぶとますます退屈になる。
 そこでこれを縦方向に街並みにしたってことだろう。香港の九竜城を思い出した。あれには暮らしがにじみ出ていたから面白かった。

 そういえば、戦後に急増した日本の団地も、洗濯物がひるがえり、色とりどりの布団が出て、なかにはバルコニーに風呂場を増築したりして、ビルの表面に生活がにじみ出ていていたから、あれは立体街並みだった。
 近ごろの高層共同住宅ビルは、景観がドウタラコウタラうるさいから、つまらない退屈なノッペラポーになってしまった。

 ロンドンでは、それを超えて立体街並みをゲーリーがデザインするって、このフニャフニャデコン建築を好き嫌いは別として、それもありだろう。九竜城の超貧困層や団地の安月給取りじゃなくて、こちらは億ション階層向けだけどね。
 どうだろう、日本にこういうのを建てたら、大地震が来てあちこち傾いたりひびが入ったりしても、もともとそうなのだから分らない。阪神淡路でお目にかかった風景、3・11で悪夢の風景だから、そうなっても七難隠していいかもしれない、いや、よくないか。
本物のデコン風景 1995年阪神淡路震災の神戸三宮にて

 この歴史的建築のバタシー発電所の保全について、大論争が起きているらしい。結局は安全上の問題で取り壊すこちになったが、同じ外観デザインで、特にこの建物のシンボルである4本の大煙突も復元するのだそうだ。オフィスなどに使うらしい。
 この4本の角を持つゴツイ煉瓦造りの大発電所建築を核にして、まわりにフランクゲーリーとフォスターの超モダン建築が建つことについても、その対比を良しとするか、けしからんとみるか、論争があるようだ。
 それにしても、近代工業社会のシンボル的な機能の発電所が、現代消費社会のお化けヘナチョコ建築に蚕食される風景は、文化史的に興味深いものだ。
フランクゲーリーによる新デコン風景か 右が発電所
単なる広告から歴史的建築の保存の本質的な話にも行き着いて、面白い。ここにいろいろと絵が出てくるので、その中の3枚を引用した。
 なお、プランナーはラファエル・ヴィノリであることも分かったが、日本の都市再開発でプランナーがネット検索で分るなんてことは、ありえないよなあ。日本のプランナーはいつも陰の人。
 とにもかくにも、歴史的建築の発電所に敬意を表したらしく見えるプラニングが、なんともスゴイ。




2014/11/01

1020【横浜ご近所探検隊が行く】横浜山手ぶらぶら長屋門の名残らしき建物を見つけた

 横浜ご近所探検隊は、江戸時代の建物かもしれない長屋門を「発見」した。
 元町から山手に向かって、代官坂を登る途中の道沿いに、赤いトタン屋根の平屋が2棟並んで建っていて、その間に奥の住宅に入る黒い門がある。

 トタン屋根でしかも赤いから見過ごして通り過ぎようとしたら、縦格子つきの窓の寸法とその並び方、その上の小庇の反り具合、建物の長さが、なんだか長屋門に見えるのである。
 2棟のうちの一方は寸詰まりなのは、切ったのだろう。同じようなものが建っていたら、あるいは続いていたら、まさに長屋門である。

 そばに何やら案内版が建っている。代官坂のいわれで、このあたりに横浜村名主の石川特衛門が居たとある。門を見ると表札に「石川」と書いてある。
 ということは、ここが名主の家でその後裔の方が今も住んでおいでなのだろう。これは昔の長屋門が改造されて、今に続いている名残の建物なのだろう。


 そう推測して戻ってきて、ネット検索したらこんな絵が出てきた。

 まさにわたしが「発見」した長屋門の、昔の姿とみてよさそうだ。今は屋根がかなり変わっているし、右の建物はちょん切られているが、わたしが推測したとおりに、長屋門の面影は色濃い。
 ただ、絵と比べてよく分らないのは、今あるのは絵の道沿いにある3棟の内、左の2棟なのか、それとも右の2棟なのか判定しにくいことである。
 せめて赤トタンだけでも瓦屋根に葺き替えてくださると、このあたりの幕末史の歴史的雰囲気に深みがでだろう。
         ◆◆
 ちかごろ足が弱って来た感じである。昔山岳部としては足だけは大丈夫と思っていたが、歳には勝てない。3時間も歩き続けると、なんだかヨロヨロしてくる。いかん、いかん。
 で、ちょっと山手まで散歩の足を延ばした。中村川から尾根上の山手本通りまで標高差31m、坂道や階段を直登するのは、けっこう息が上がる。だらだら坂が嫌なので、ついつい細い階段道にはいるから、余計につかれる

 でも登りつつ見渡せば、その坂というか、むしろ崖にへばりついている住宅群が、このあたりでは普通の姿である。
 住んでいる人は、上り下りの毎日で脚が丈夫になっているだろう。

 それを見ていて思い出したのは、わたしの生家が丘の中腹にある神社だったから、参道の石段を上り下りするのが日常であったことだ。少年は歩いて上り下りは平気だったが、自転車の上げ下ろしにはさすがに閉口したものだ。
 横浜のこの辺は、埋立した関内と関外の周りに坂道崖にへばりつく住宅地が広がっている。景色はよいが、北下がりの住宅地も多い。年とると坂の家は住めなくなる。
 急な坂を登りつつあたりを見ると、そこここに空き家がある感じである。

 高級住宅地としての山手のイメージは、現実はかなり限られたエリアだけだろう。
 そこで山手のかぎられたエリアに、共同住宅ビルが建ち並びつつある。当然のことに緑濃い山手の屋敷町の雰囲気はビル街に変わり、遠望する山手の稜線も緑の樹幹に替わって建築物のごつごつした姿になってきた。
山手本通り
エリスマン邸に展示してあった山手の模型

2014/10/29

1019久しぶり訪問の愛宕山から虎の門ヒルズあたりの森には蛭と虎が跋扈していた


 地下鉄日比谷線の神谷町駅を降りて、裏道に入る。この道はちょっと昔、日本都市計画家協会に通った道であるから、懐かしい。
本日の徘徊マップ
  裏道に出て虎ノ門方向を見ると、なんだかうっとおしいのは、行く手の空にドデンと幅広く高く突っ立つビル、あ、そうか、ここからあの虎ノ門蛭巣がこう見えるのか。
 なんだか、あたりがスカスカの感じなのは、だんだんと地上げされてるかららしい。モリ蛭かモリ虎による都市開発が進行しているらしい。
行く手にドデンと虎ノ門蛭巣
そうなると、今日のわたしが期待する、この道の先の右にあった木造2階建ての、いかにも下町風借家風の4軒の建物は、今もあるかなあ。
 かつて通りすがりにいつも眺めては、その古色蒼然たる健在ぶりを鑑賞していたものだった。特にその後ろに建つモリ蛭モリ虎ビルとの対比が面白い。
 お、あったぞ、いや、1軒しかない。3軒は壊されて空き地駐車場になっている。ふーむ、虎ノ門蛭ズのお膝元になって、いよいよ消え去る時が来たか。

今回の徘徊では1軒だけ健在

2010年の徘徊のときは裏にあるのも入れて4軒あり、後ろに共同住宅ビルが建った

2003年の徘徊時は4軒とも健在であった、後ろに森虎と森蛭のビル
  もう少し歩いて、愛宕下のあたりに来ると、ますす虎ノ門蛭巣が迫りくる。おお、通っていた日本都市計画家協会事務局が入っていた愛宕チャンピオンビルは、まだ建っておるな。よしよし、。
 ところが、そのビルはモリ蛭の地上げで、店子の家協会はつい2か月前に神田に引っ越していった。
 このあたりの中小ビル群も、その裏路地にある愛宕下の小住宅群も、もうすぐ壊れて愛宕蛭巣(たぶん)になるのだろう。以前にこう書いているので参照のこと。

虎ノ門蛭巣の下敷きになった元JSURPが入っていたビル

裏路地の木造住宅地も地上げで取り壊し工事がそばに迫っていた
  
 それにしても、近くで虎ノ門蛭ズの工事をしていたことは前から知ってはいたが、できてみるとこんなすぐ隣であったとは、それだけ蛭がド太いのだった。
 ビルの姿に重ねて、あの太さと高さで蛭が立ちあがっている姿を想像すると、いやあ、おぞましい。
 あ、わたしは開発がいけないと言ってるんじゃないですがね、なんともデカすぎるのが、不気味で気持ち悪いだけです。

 さて、この後はやはり話題の虎ノ門蛭巣に入ってみようかと思ったのだが、ヘソが曲がったので横目で通り過ぎて、新虎通りなる環状2号線を通ってみたのであった。
 この道については、作っているときから興味あってウロウロしていたから、なんだよ、この道のつくりかたは、もうちょっと何とかなるだろ、広けりゃいいってもんじゃないよ、とかって、いろいろ言いたいことがあるが、日が暮れたので次の機会にする。
この地下にも重ねて2階建て道路だから、もてあまし気味に広すぎる新虎通り(環状2号線)





2014/10/28

1018ゲンペイさんが消えた、サテ今度は…ドコを乗取ろうかナ?

サイタ サイタ サクラガ サイタ 
アカイ アカイ アサヒ アサヒ

 赤瀬川原平さんが逝った。わたしには憧れのような妬ましいような才の人であった。
 もちろん一面識もないが、いつ頃からこの人の名を知っただろうか、同じ時代の空気を吸っていた人である。
 ハイレッドセンター東京ミキサー計画か、千円札訴訟か、朝日ジャーナル事件か、きっかけは忘れてしまった。たぶん零円札事件が最初だろう。妙に気になる人になってしまった。

 上に引用したのは、「朝日ジャーナルの時代1953…1992」(朝日新聞社1993年発行)の639ページの、ゲンペイさんのイラストのなかの言葉である。イラストはこれである。

 そしてこのイラストに添えて、こう注意書きがある。
【回収号】朝日新聞社は「朝日ジャーナル」1971年3月19日号(イラスト特集)を発売後、回収した。ヌードをあしらった表紙、一部のマンガも問題とされたが、赤瀬川原平作・画の「櫻画報」、その中の「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」のコピーがとくに問題視された。(「朝日ジャーナルの時代1953…1992」朝日新聞社1993年発行638ページ)
 
 で、「表紙と一部のマンガ」はこれである。(いずれも上記の本から引用)


 この朝日ジャーナルは、わたしの学生時代からの愛読誌だったから、ゲンペイさんのイラスト連載を面白がっていたし、それが「アカイアサヒ」事件となったのも、同時代の出来事で興味深いことだった。
 朝日新聞社は、このところ二つの吉田証言誤報と池上寄稿不掲載のお詫び事件で騒がしいが、この43年前のアカイアサヒ回収事件でも、編集長更迭、大人事異動、一時休刊となった騒ぎであった。
 だが、時代の空気がどうも違いすぎる感がある。なんなんだろう?

 路上観察学会で仲間をつれての登場には、喝さいを送ってしまい、以後その著作が出ると読もうとしたが、あまりに多作で変幻自在・玉石混交・古今東西・上下逆転・神社仏閣?の出版物を、どれもこれも追いかけるのは到底できるものではなかった。
 あの持って回っていながら持って回っていなくて、意表をつきながら意表をつかず、するりと逃げ去るようで逃げない、オトナの手法を何とかして盗もうと憧れたものだ。

 ゲンペイさんのもとにはヘンな人たちが集まり、育っていたようだが、その人たちが出した(と思われる)「頓智」という雑誌があった。1995年10月から96年7月まで、10冊出して突然休刊した。
 ヘンな雑誌だったが、わたしの趣味に合って毎号楽しみだったので、がっかりした。わたしの本棚にそれが今もおいてある。

 昨年、丸の内の東大博物館で、零円札に初めてお目にかかって感激したものだ。そういえば、あれはどこだったか、昨年、ハイレッドセンター活動の回顧展のようなものも観に行った。
 それなのに、わたしの意表をついていなくなってしまった。ゲンペイさんらしいのだろうか。羨ましい死に方で、やっぱり妬ましい。
 実は死んでみてのあの世の路上観察記を書いて(シンボーかテルボがゴーストライターで)いずれ出版するに違いないと、期待している。

 書棚から「芸術言論」を見つけたので、今夜はこれを読もう。

2014/10/27

1017【福島東電核毒地帯徘徊9】バス内はいま十マイクロシーベルト車窓の街が溶けて流れる

 こんな歌が今朝(2014年10月27日)の朝日歌壇に載っている。

   枝道を鎖して入れぬ区間あり長い六号線息止め走る
                   (福島市)青木崇郎

 わたしも9月に、まさにこの体験をしてきた。青木さんには無粋をお詫びしつつ、この歌の風景を写真でお見せする(2014年9月20日撮影)。

双葉町の帰宅困難区域内の国道6号には両側がバリケード20140920撮影

これは双葉町と大熊町の福島第1原発のすぐそばを通る国道6号の一部で、普通なら核毒濃度が髙くて立ち入り禁止の「帰還困難区域」のなかを、特別に通り抜け許可区間である。
 しかし、核毒が国道だけ薄いってことはあり得ない。通る車は窓を閉め切っておかなければならないし、もちろんバイクや自転車は走行禁止である。どの車も全速力で走り抜ける。
 その時のことを、わたしのブログにこう書いている。
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1005.html

 そして、わたしもその国道区間のことを歌に詠んでみたのである。

双葉町にて     まちもり散人

バス内はいま十マイクロシーベルト車窓に街は溶解しつつ

帰還さえ困難という異界にておののきおののき疾走に疾走

国道は左右に連なるバリケード核戦争の市街戦なるらし

 そのほかにこんな歌を詠んだ。

浪江町にて     まちもり散人

破れ船核毒の荒野を漂えば舳先のかなたは壊れ原発


海嘯に弄ばれたる死者の群いまだ雑魚寝の核毒の荒野


雲低き核毒牧野に群れる牛一瞬の陽光降りてまた閉ず


核毒の里にも秋の実りあり茸に落ち栗ひろいて食らわん

 この浪江町で見たことはこう書いている。
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1003.html
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1004.html
http://datey.blogspot.jp/2014/10/1006.html

飯館村にて     まちもり散人

肥沃土を剥ぎとる除染の黒袋稔りなき田に鄙の賑わい


秋深く核毒の荒野ひろごりて眼閉ずれば黄金の穂波

人は逃げ鳥も蝶も飛び去りて核毒の地には介護老人

見わたせば人も稲穂もなかりけり核毒村の秋の夕暮れ

飯館村でのことは、こう書いた。
http://datey.blogspot.jp/2014/09/999.html
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1000.html
http://datey.blogspot.jp/2014/09/1002.html

参照⇒地震津波核毒オロオロ日録

2014/10/24

1016ルイス・カーンvsエドモンド・ベイコン激論が面白い志水英樹さんの回想記


◆F・L・ライト&L・ルイスカーン建築巡礼の旅1995
 ルイス・カーン(1901-74)という建築家がいた。その建築家のもとで、1964年から67年まで働いた建築家の志水英樹さんの講演を聴いた。
 わたしは1995年の夏、志水さんにくっついて、カーンとライトの建築を見てUSA東西をめぐる旅に行ったことがあった。志水さんは建築学生たちをひきつれていたが、わたしは建築を見る趣味のみの気楽で楽しい旅だった。

 カーンの弟子の志水さんには悪いが、フランク・ロイド・ライト(1867-1959)の建築を見るのがわたしの目的の第1で、カーンは第2だった。
 ライトの有名な建築、例えば落水荘、ジョンソンワックス、ユニテリアン教会、マリン郡庁舎とか、おお、これがあの写真の本で見ていた現物か、やっぱりライトの造形力はすごいもんだと、それはもうナイヤガラの滝でも見るような完全に観光気分であった。日光東照宮を見る様に、とは日本建築史の素養が邪魔をして言えないが、まあ、一般的にはそう言ってもおかしくない。
 たしかにライトの建築は、だれが見ても楽しむことができる。使い勝手が悪そうだ、なんてだれも言わない。観光対象になる。
マリン郡庁舎 1995撮影
Falling Water 1995撮影

  それに引き替え、カーンの建築はそうはいかない。すなおに観光させてくれず、ちょっとは考えざるを得ない。玄人好みである。
 このライトとカーンの違いが、建築あるいは建築家というものの社会性を考えさせてくれる。

 わたしが建築学徒だった頃の昔、雑誌で見て読んで形と理論に感激した、彼の初期のリチャードメディカルセンターに出会って感激と共に、その第2期の仕事の凡庸さに首を傾げ、更にその使い手の研究者たちの言う評判の悪さには困惑した。
 有名なソーク研究所を見て、この立地環境でこれってどういうことなんだろと思ったり、評判の高い晩年のキンベル美術館を見て、なんだか退屈な繰り返しだなあと思ったり、ライトとは違って建築を批評的に考えたのだった。
リチャーズメディカルセンター 1995撮影

フィッシャー邸 1995撮影

ソーク研究所 1995撮影
エクセター図書館 (志水さんが担当) 1995撮影

カーンへのオマージュの志水英樹著「回想1,2,3」
 さて、今回の志水さんの話は、この2月に上梓した「回想1,2,3」なる著書をもとにした講演であった。その本は、彼が建築家へと急な坂道を勢いよく駆け上がる頃の自伝的な物語である。シアトルとフィラデルフィアでの1961年から67年のことであった。

 回想の第1話は、シアトル万博の噴水デザインの国際コンペに勝ち抜いて、現地でその実施にあたっての奮闘出世物語である。若者2人がシアトルで噴水の制作に右往左往しつつも見事に成し遂げる。

 第2話は、ペンシルベニア大学に留学し、シビックデザインコースでの奮闘学業物語で、そこでルイス・カーンとエドモンド・ベイコンの二人の大家に才能を認められる。志水さんは、さすがに学者であるから、そのコースのカリキュラムを詳しく紹介している。

 第3話は、それをステップにしてカーン事務所に入り、巨匠のもとでの建築デザイン奮戦物語である。カーンの変幻自在のアイディアを、志水さんが平面に形態に翻訳していく過程とか、カーンの素顔の挿話が興味深い。ルイス・カーンへのオマージュである。

 わたしが面白かったのは、カーンのフィラデルフィア美術大学設計案について、エドモンド・ベイコンが、カーンに直接にイチャモンをつけて変えさせる話である。
 フィラデルフィア市の都市計画を牛耳っていたベイコンは、周辺の建築群に対応したバロック的なカーンのデザインが気に入らなくて、ここでは都心のシンボル的なダイナミックな空間を創るべきと言う。
 この大物二人がカーン事務所の中で対峙して、どちらも顔を真っ赤に大声の大論争の末、とうとうカーンが「YOY ARE RIGHT!」と言って負けた。志水さんはちょうどその場に居合わせたそうだ。ラッキーな人である。

 ペン大で教えてもいたベイコンは、学生だった志水さんがシビックデザインの課題で提出したフィラデルフィア都心部再開発計画を高く評価し、志水さんは市役所に入れと誘われた。
 カーン事務所に入ることが決まっていたいた志水さんはそれを断ったが、ベイコンはこの美術館の担当をさせるようにカーンに推薦したという。
 そこでカーンのスケッチをもとに志水さんは奮闘する。何回も作り直したプランと模型によるデザイン検討の努力は、ベイコンのOKとなったのだが、このプロジェクトは資金的事情でボツになったままだそうだ。
 
 行政都市計画家の見識と立場の強さに、洋の東西の違いを思うのである。エドモンド・ベイコンは、後に映画マイ・アーキテクトのなかでカーンについて語っているが、カーンの息子の面前で遠慮会釈なくこき下ろしている。
 この映画は、カーンとその愛人(のひとり)の間に生まれた子息ナサニエル・カーンが、亡父の作品と関係ある人たちを訪ねるドキュメンたりーで、なかなか面白い作品である。ネットで見ることができる。
 不幸なことに、カーンはペンシルベニア駅の便所で心臓発作により突然に生涯を閉じた。多額の借財が遺されたそうだ。
MY ARCHITECT  http://vimeo.com/9418890
https://www.youtube.com/watch?v=WAICbcFPRVo

 カーンについてわたしは興味が特にあるわけもないから、香山寿夫とか工藤国男の書いたカーン論を読んだことはない。
 しかし、志水さんの案内でカーン作品にいくつも出会った20年前の体験、数年前に見たカーンの息子制作の映画、そして志水さんの回想が今ようやくにして本となり、建築趣味人のわたしとしてはこれで十分に面白い建築家像が脳内に組みあがった。

「回想1,2,3」志水英樹 市ヶ谷出版社 2014 1500円

2014/10/21

1015【終活ゴッコ】暇つぶしに「終活」プロジェクトとて所蔵書籍資料書類等廃棄に取り組みつつあるけど、、

 たくさんの書類を捨てた。自分の仕事で作ってきた報告書類やら資料集である。
廃棄書類の一部の記念写真、重いからぎっくり腰にならぬように捨てに行く
プランナーなる職能で、都市や建築にかかわる企画や計画の仕事を長年やってきた。その作業中で作った資料や成果としてまとめた報告書類が山ほどある。デジタル化が当たり前でない時代のものである。
 これまでもオフィスや自宅を引っ越したり閉じたりした機会に、何回も整理して捨てるべきものを捨ててきた。そのなかで、これはまだ置いておこうと所蔵していた書類が書棚にある。だが、それらを使って昔のことを書く需要もなくなった。

 世の中には人生を終了する活動なるものがあり、それを「終活」というらしい。わたしも終活をやってみたくなったので、まずは、それらの仕事関係の代物をやり玉にあげて廃棄することにした。
 書棚の奥からほこりを払いつつ引っ張り出して並べると、その仕事をした頃のことを思い出すが、腹の立つことも思い出すから、捨てるのが惜しいなんてことはない。中身を見ないでどんどん捨てることにする。

 もっとも古いヤツは、1964年度「名古屋港地区再開発基礎調査」なんてのが出てきて、B4版、ガリ版印刷の本編と手書き青焼きの資料編であった。これがわたしの初めての都市計画仕事であったかと、感慨深い。
 当時の日本住宅公団からの委託研究だったが、その研究会のメンバーを見ると、石原舜介、服部千之、植田一豊、長峰晴夫、玉置伸俉など、だれも生きていないよ、う~む。
 あ、いかん、読んでたら捨てられなくなるよ。

 建築家の仕事ならば、建物の形でその場に残っているが(もちろん失敗もそのまま残る)、プランナーのやった仕事は、多くの場合はその場に行っても、それをやった当人しか仕事の形は分からない。
 計画したことが建築となっているとしても、プランナーの名前が表に出ることは、ほとんどない。
 手もとにある報告書やらパンフレットだけが、その仕事にわたしが携わった証拠品だが、そんなものを持ち続けてもしょうがないと思う歳になったことが、まさに「終活」の時期を迎えたことである。

 ということで、第1次終活プロジェクト・作成報告書類廃棄をやったので、次は第2次の収集資料類廃棄にとりかかろう。
 自分がつくった資料や報告書類はさっぱりと捨てても、あちこちから蒐集した関連資料の中には、けっこう高価なものや、貴重な古本的価値もありそうなものもあり、うまく捨てられるかなあ。

 更に第3次は、スライド用にマウントした35mフィルムである。1970年代からのもので、何千枚あるだろうか。デジタル化もボチボチやってきたが面倒で進まない。これはセンチメンタルにならざる得ないだろうから、見ないでエイヤッと捨てるしかないだろうなあ。
 第4次は、書棚全部の本の廃棄である。これまで何度も廃棄し、それでも何千冊だろうか、う~む。

 終活初心者はまだまだ迷うのである。
 迷う終活プロジェクトは面白い暇つぶしにはなるが、適当なところで終活の極意を会得したいものである。
 終活免許皆伝になれば、自分自身をエイヤッと廃棄可能になるのだろうか。

2014/10/20

1014神奈川大学初期キャンパスデザインについて近藤正一さんの話

 横浜にある神奈川大学の建築学科創設50周年とて、記念の講演会を聴きに行ってきた(2014年10月18日)。講演者は、近藤正一さんと槇文彦さんであった。
槙さんのお話は、ご自分が設計してきた数多くの大学キャンパスの建築について、名古屋大学豐田講堂から始まり、この講演会の会場であるセレストホールまでの解説であった。
 さすがに日本の東西はもちろん世界東西にわたっての仕事である。偶然にも、わたしはこの二つだけを見ているが、そのほかは見ていない。

 近藤正一さんの話は、かつて山口文象が率いるRIAが、神奈川大学のキャンパス計画コンペに当選して以来、営々と校舎の設計に携わってきた歴史物語である。
 そのお話をかいつまんで書いておく。なお、講演はは中井邦夫さんとの対談形式であった。

 1953年、神奈川大学キャンパスの綜合計画が指名コンペになった。指名されたのは、山口文象のRIA,久米権九郎の久米事務所、吉原慎一郎の創和設計であり、審査は神奈川県建築部営繕課の人であった。
 1953年は、山口文象、植田一豊、三輪正弘の3名でRIAの発足の年であるから、この3人でコンペに勝ったのだった。

 3人の建築家は、戦後民主主義の嵐の中で、建築家共同設計集団として歩もうと、Research Institut of Architecture(RIA)なる不遜な名称をつけたのであった。戦前に建築界では名を成していた山口の名を冠しないところに覚悟ほどが見える。
 もちろんこれは山口文象の師であったW・グロピウスがアメリカに亡命して組織したThe Architects Collaborative(TAC)に倣ったのであった。

 こうして山口文象は戦後の出発をしたが、3人の誰も財界のバックはなく、あるのは意気込みだけだった。庶民の小住宅設計で、ほそぼそと動き出す。
 そのRIAが神奈川大学の仕事を得たことは、歩み始めるにおおきな出来事だった。神奈川大学がRIAを、ゆりかごから育てたのであった。

 キャンパス全体の配置計画である「神奈川大学綜合計画」は、何段階かの変容をしていく。中庭や広場を考えながら、幾何学的な形態で構成していく。現代のキャンパスデザインにみるような曲線を使うことはなかった。
 山口文象のデザインの真髄は、コンポジションとプロポーションの厳格さ美しさにある。考えていくうちにしだいしだいにそぎ落とされて行く。
 「プレーンソーダのようなさわやかさ、後味の残らないデザイン」と、山口文象が言っていたことを近藤は思い出す。 

 1954年からほぼ1年おきに校舎が立ちあがるという猛スピードであり、1969年に一段落する。
 はじめの10年くらいは綜合計画に寄りながら進められたが、後半はかなり乱れて、前半と後半ではかなり違うことになっているようだ。それは大学の急速な拡大に対応するために、とにかく建てなければならなくなり、粗製乱造気味になった。

 1955年にできた3号館(2012年取り壊し)は、山口文象の担当によるものである。集団設計を標榜したRIAでは、山口文象も担当者に一人になるのだった。
 コンクリート造なのに細いフレームで木造の木割のような表現である。この構造設計は岡隆一で、バランスドラーメンと言われる方式だった。
 実はRIAで山口文象が担当した建築は多くはないが、その中でも大規模なものがこの3号館であった。病気がちだったのであまり担当できなかったが、後に寺院や博物館の小品でその力量を見せている。
 
 1955年にできた5号館の担当は植田一豊だったが、そのもとで詳細を書いたのが近藤で、最も印象的な仕事だった。
 コンクリートなのに柱間が1間で並んでいて、禁欲的なデザインだった。階段に当時としては珍しいプレキャストコンクリートを使ったり、窓枠のスチールサッシュに凝った。普通の引き違いでガラス面に段差が出るのを嫌って、折れて開く特異なディテールを考え出した。このころは既製品のサッシュはなくて、鉄板を曲げて手づくりだった。

 1956年にできた図書館は、いまは6号館となっている。担当は富永六郎。
 1959年にできた本館(1999年に取り壊し)の担当は近藤であり、米田吉盛学長が建築趣味でいろいろな注文を出してきて困った。学長自ら図面を描くし、電話でこまごまと指示されつつ図面を描かされたこともある。
 大学の担当者は、事務長の小坂さんと施設課長の酒井さんで、学長と合わせて3人が建築担当だった。

 8号館、9号館と進んでくると、大学生も量産時代、施設も量産になった感じだし、メンテナンス重視へと移ってきて、オリジナルなデザインがなかなか難しくなった。
 1967年にできた体育館の構造設計は山家啓助で、近藤と共にRIAの役員だった。実はこの山家は、神奈川大学建築学科で都市計画の教鞭をとっている山家京子教授の父君である。偶然にして意外なつながりがあるものだ。

 RIAにおける山口文象は、集団共同設計という新たな方法を目指して戦後再出発をした。そして植田、三輪、近藤たちの若者にかなり自由にさせて山口文象+RIAの名で発表していたが、実は個人的にはかなり我慢をしていたようであり、建築家個人としてとしてやりたいことがあったようだ。内では言わなかったが外でそのようなことを言っている。

 神奈川大学ではRIA初期の集団設計の試みの事例のひとつである。RIA内部もそうだが外部の構造設計たちとも共同して設計を進めて行った。その集団共同設計の試みは、今もRIAでは実験が続いていると言ってよい。
 米田吉盛学長の意気込みが、戦後日本の教育も建築も復興へと進む社会的上昇気分の中で育ってこのキャンパスができて行った。
1960年頃
植田一豊担当の5号館(1956)

左・近藤正一担当の旧本館(1959-1999)、右・山口文象担当の3号館(1955)

現在のキャンパス
正面は旧図書館の現・6号館、右は5号館
5号館

●参照⇒神奈川大学建築学科デザインコース作品集「RAKU」2011年度
・神奈川大学総合計画案
http://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/02-17.pdf
・近藤正一 インタビュー
http://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/18-21.pdf
・3号館解体現場調査レポート
http://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/22-24.pdf

●参照⇒山口文象+初期RIAサイト
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html