2016/10/06

1219【くたばれ乗用車】そこのけそこのけお車様だぞ、目が悪い奴は気をつけろ~、なんて威張る自動車屋はくたばれ~

 今朝の新聞に、電気自動車に人間に近づいたら、「おい、そこの歩いてるやつ、注意せ~よっ」って警告音を出すように、義務付けするってニュースが乗っている。
 「ドケ、ドケ~、轢かれてもしらねーぞッ」っと怒鳴るのを、義務付けるのだそうである。なんというバカなことをさせるんだよ、根本が間違ってるぞ。

 歩行者のすぐ脇を電気自動車がいきなり脇を通過するとアブナイのだそうだ。
 あのなあ、その責任は、「すぐ脇を通過する」側にある。あんな鉄の箱が「すぐ脇を通過すること」がそもそもいけないのである。
 「すぐ脇を通過される側」が注意するべき義務も責任も無いぞ。
 トラックがバックして来る時、「バックします、注意してください」って、機械女の声がするが、バカヤロ、そっちが注意するべきだろッ。
 
 それをなんだよ、乗用車がすぐそばを通過するときに、警告音を出して注意してやるんだというのである。聴覚障害者を引き合いに出して、いかにも福祉のためぶるなよ。
 おためごかし
 要する、「ドケドケッ」って言うのでしょ、思いあがっちゃいけないよ、自動車業界さんよ。

 自動車の及ぼす公害は数々あるが、その中で大気汚染問題が電気自動車で解決するってのは嘘っぱちだが、騒音が解決するのは本当だから喜んでいたが、なんとまあ、こういうことでやっぱりわざわざ騒音を出すのか。
 騒音公害は続くのか~、ガッカリ。

 やるべき義務付けは、こうでしょ。
①電気自動車に限らず自動車の走行は、歩行者から2m以上離れなければならない。
②歩行者から2m以下の範囲で走行するときの速度は、当該歩行者の速度を超えてはならない。

 それを警告音でドケドケッなんて言わせるって、どこまでバカで威張ってるんだ、自動車屋は、。
 警告音を出していたのに轢いてしまったら免責されようなんて考えるんだろうけど、そりゃ穢いぞ。
 あのなあ、障害者が近づきすぎて危ないと思ったら、運転してるひとが窓を開けて、「恐縮ですが、通して下さい」って、口でお願いするもんでしょ。

 近ごろ、乗用車のデザインが日に日に悪相になって、「オラオラぼやぼや歩くんじゃねえぞ、ドケドケ~ッ」って顔になっていると思ったら、自動車屋の本性もそうであったか、この威張り様は日本帝国軍なみで、困ったもんだ。

 思い出せば、この警告音義務化という歩行者への責任転嫁は、かつての横断歩道橋による交通対策と同じだなあ。昔、「横断歩道橋は素晴らしい」、なんてエッセイを書いたことがある。
https://sites.google.com/site/machimorig0/hodokyo

参照:http://datey.blogspot.jp/2009/08/161.html

2016/10/04

1218【法然院方丈襖絵事件】おや法然院の重文襖絵作者が狩野光信から孝信に変ったらしいがそれでもおかしいなあ

 春と秋の京都では、いつもは非公開の文化財を短期間だけ一斉に公開する行事がある。
 わたしには、観に行きたい懐かしい文化財がある。法然院の重要文化財の襖絵である。
 大学時代の卒業研究材料の一部であり、現地でしっかりと若いこの目で、建築を測り襖絵を鑑賞したのであった。

御西院御所八百姫御殿を法然院方丈へ移築したときに
柱位置を変更して襖絵を一部書き替えているので画像復元してみた

●襖絵の画家の名前が違ってるぞ

  今日の新聞にこの秋の特別公開の広告が載っている。法然院もあるかと見れば、あるにはあったが、気になる記述があるのだ。
 法然院の公開文化財を、「狩野孝信襖絵 重」と書いてあるのだ。「重」とは重要文化財のことであろうが、「狩野孝信」とあるのが引っ掛かる。
 たしかに法然院には重要文化財の襖絵があるが、それは「狩野光信」作として指定されているのだ。それがどうして孝信なのだろうか

 法然院公式サイトに、襖絵のある方丈の解説にこう書いている。
1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]を移建したものである。狩野信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている[夏期は収蔵庫に保管]。」http://www.honen-in.jp/HONEN-IN-001.html#B

 法然院には重文襖絵はこれしかないから、新聞広告の「狩野孝信襖絵」とは、誤記だろうか。
 さっそくネット検索をして、今年の公開に関する新聞社の記事を見つけたら、ここには狩野孝信と書いてある。
http://www.asahi.com/and_travel/articles/SDI2016090262661.html
法然院 11/1(火)~11/7(月)の公開
 金地著色「桐に竹図」・「若松図」・「槙に海棠図」、狩野信筆襖絵
 後西天皇の皇女誠子内親王の御座所を下賜され移築した方丈の上之間、次之間に広がって描かれ、この桃山時代の絵があることから「桃山の間」とも呼ばれる。
 
 昨年秋の公開に行った人が書いたブログページがあった。なかなか興味あることが書いてあるので引用する。
http://blog.livedoor.jp/enjoy_kyotokentei/tag/%E6%B3%95%E7%84%B6%E9%99%A2
2015年11月12日00:16【オフ会報告】京都検定で非公開文化財を楽しむ会(法然院編)
 この作者は狩野光信とパンフレットには記載されていましたが、説明員の方の話では狩野信の作と説明されていました。狩野光信は狩野永徳の長男。 狩野孝信は狩野永徳の次男で、狩野探幽の父に当たります。 
 なんでも、一度光信作とされていた法然院の別絵画を国立美術館に貸し出したところ、これは孝信の作品である、と鑑定されたそうで、それであれば同じ作調のこの襖絵も狩野孝信の作であろう、という認識に変わってきた、とのことでした。 そうでしたか~。

●狩野光信も孝信もどっちも怪しいぞ
 
 さて、狩野孝信とは、いつの人だろうかとWIKIをみれば、1571年生れ、1618年没だそうである。ふむ、法然院サイトが書くように、桃山時代に活躍したのであるな。狩野永徳の次男で、光信の弟、探幽の父である。
 ところが、せっかく狩野光信に替わって登場したこの孝信も、わたしの建築歴史考証によると、かなり怪しいのである。

 ここでは要点だけを記すが、わたしの建築史調査研究からの考証では、法然院サイトの(襖絵のある方丈は)「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]を移建したものである」の記述は、かなり髙い確率で間違いであり、実は江戸時代の1675年の建築である。
 御西院上皇の御所として1675年に新築した中の皇女八百姫の御殿であったものを、後に法然院に移築して方丈に造り直したのであるから、1595年の建築ではないのである。

 「もと伏見にあった」とは秀吉が築城した伏見城のことだが、そこは地震で倒れて別のところに城を建て直し、江戸時代に入って廃城になり建物をあちこちに移転したうちのひとつがこの方丈という意味らしい。
 とすれば方丈になる建物は、震災、建て直し、廃城、移転の4度の大波を潜り抜けて、京都の上皇御所の姫御殿に移築されて生き残ったことになる。
 しかも、その上皇の御所は一度は火災で丸焼けになり、1675年に新たに建てたのである。とすれば、この火災も潜り抜けて後に法然院に移築して今に至るという、まことにもって何回もの災難を潜り抜けた稀有な奇跡の生き残り建築になるのである。ありうるだろうか。
 法然院の言う1595年建築説には、なんともはや無理がある。

 したがって、この襖絵ができたのも1675年だから、1618年に没した孝信はもうこの世にいないのである。そして狩野光信も1608年に没しているから、光信も孝信もこの襖絵を描くことは不可能だ。
 絵の考証をわたしにはできないが、建築考証からすると襖絵を光信作とするのも孝信作とするのも、なんとも無理過ぎるのである。
 まさか1675年の上皇御所の造営に、法然院のサイトがいうように80年も前の古建物と古襖絵(1595年に秀吉がつくった伏見城の遺構)をもってくるなんて、造営スポンサーの江戸幕府が常識はずれなことをしたはずもない。

 というわけで、法然院の襖絵の謎は、いまだに明快に解けないのである。だからといって、公開日に合わせて現物を観に行っても、わたしの絵を見る眼力では見破れないしなあ。
 まあ、素人の楽しみとしては、謎がず~っとと謎のまま続くといいなあ。
 詳しい考証をお読みになりたいなら、こちらをどうぞ。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in

◆続報を参照 1220【秋の京都文化財特別公開:続報】

◆まちもり通信の参照ページ
遺構による近世公家住宅の研究(大学卒業研究論文1960)
   東京工業大学理工学部卒業研究の生まれて初めての論文
   上記研究の一部を日本建築学会に論文発表(1961)
京の名刹 法然院の謎ー建築と襖絵の出自を探る2015)
   上記論文の一部のドキュメンタリー風エッセイ



2016/10/03

1217【豊洲新市場騒ぎ】できあがるまで当事者たちの誰もが建築現場を見なかったらしいお粗末などの疑問と不思議

 東京都の住民ではないからどうでもいいのだけど、ヒマだし面白いから勝手に口を出す。
 そういえば、新国立競技場も関係ないけど(納税者として少しは関係あるが)、勝手に口を出したなあ。

●不思議その1:関係者の誰もが現場を見なかったとは

  例の東京都豊洲新市場で、建築に地下空間があったことを知り、そこには盛土がないと新発見した新知事が騒ぎ、尻馬マスコミの尻馬に乗って、当事者たちも知らなかったと言う「だれも現場を見ていなかった新市場事件」である。
 わたしには、どうしても不思議なのである。今になって建物の地下に盛土がなかったって、だれもかれもが騒いでいるけど、これまで誰ひとり新市場の現場を誰も見てなかったのかしら。
 敷地に盛土したって、それを掘って地下室をつくれば盛土はなくなるって、小学生でもわかる常識である。だから地下空間つくるところは盛土しなかったろうね、盛り土してまた掘りだすなんて、超ばかばかしいから。

 こんなでかい地下空間(配管ピットらしいが)があることを誰も知らなかったということは、建設中にだれも現場を見に行かなかったんですな。
 昨日今日できた地下空間じゃなくて、1年以上も前から土を掘って建設作業してたんでしょ、現場を見りゃ盛土がないって小学生でもわかるでしょ。 
 新市場用地に盛土するって決めたナントカ委員会の先生たちも、そうせよと言っただけで、現場を見て盛土したことを確認してないという、無責任な人たちなんですね。

 都議会議員たちも、この東京都が行うビッグプロジェクトの視察を、一度もしなかったんですね。
 もちろん都知事も見てないだろうし、それどころか市場長さえも現場を見ていないという、摩訶不思議なことなのである。
 そしてまた、新市場に入って仕事する市場の業者たちも、自分たちの移転先の建物を一度も見なかったんでしょうね、見てれば今になって騒ぐのじゃなくてもっと前に騒いだはずだもんねえ。
 まあ、マスコミ連中が現場を見て、こんどのようなことに事前に気が付くほど利口じゃないから、そっちはどうでもよろしい。

●不思議その2:最も事情通のはずの建築家が沈黙とは

 この騒ぎでいろいろ言っている人たちがたくさんいるらしいが、こういう場合にいちばん事情を知っているのは、その計画と設計に関わった人たちである。
 このような公共ビッグプロジェクトの場合は、基本構想、基本計画、実施計画、基本設計、実施設計と、順番を追って詳しい設計内容をつくって行き、どの段階にも各種の専門家が関わる。その専門家たちは、ほとんどが行政の外部にいて、業務として彼らに委託する。

 最後は建築物になるのだから、多くの専門家のなかでも建築設計に関わる技術者、つまり建築家がもっともよく事情を理解しているはずである。
 なかには最初から最後まで関わっていて、ヌシのような専門家がいることもある。このことはわたしは体験的に知っている。
 もちろん行政側の技術者もいるが、それらは2年ほどで定期異動するから、いちばんよく事情が分るものは、担当する民間の専門家である。

 さて、ここでは誰が計画設計をしたのか。新聞によれば設計は日建設計だそうである。日建設計と言えば、例の白紙撤回される直前まで新国立競技場の設計に携わっていた、日本では規模がトップの都市計画や建築設計の組織(住友系)だ。
 計画段階がだれであるかの報道は無いが、ネットを探したら、みずほ総研がソフト的な部門、ハードの土木は日本工営、建築は佐藤総合計画とするページがあった。他にもいるかもしれない。
 
 だからここで問題になっている事情を、日建設計がもっともよく知っているはずである。でも、日建設計に関する報道はないし、日建設計からの説明もわたしは知らない。
 そこで思い出すのは、新国立競技場問題であり、あのときも設計がほぼできたところで、首相から白紙撤回されるなんて、建築家としては超屈辱的なことをされても、日建設計は黙りこくったままであった。

何も悪いことをしているのではあるまいに、黙りこくったままとは、マスコミが取材に行かないのか、取材完全拒否か、それとも発注者との契約に問題には沈黙せよと記されているのだろうか。
 建築家とは、そんな程度の社会的な位置づけにある職能なのだろうか。ここのところが、新国立競技場でもそうだったが、なんとも不思議なのである。

 それにつけても、新国立競技場で日建設計と共に屈辱を味わった梓設計が、やり直しコンペにゼネコンと組んで参加して、平然とまた違う設計で復帰していると言う、はたから見るとなんとも節操のない様子だから、まあ、建築家ってそんなもんだろう。


2016/10/02

1216【平塚初訪問:半端な歴史文化景観軸】八幡宮表参道が鳥居前で突然ブチ切れて門前払いを食らってビックリ


2016年の平塚八幡宮

 あれっ、神社直前で参道が突然に途切れた、こんなことっていいのかい?
 平塚市美術館で旧友が絵画展に出品するとて、鑑賞にでかけた。行ったことのない都市だから、事前にネットでその場所を調べたら、平塚駅から北にまっすぐに平塚八幡宮への参道を登っていくと、八幡宮の裏あたりにあるらしいと分かった。

 ふむ、なかなか歴史的な街の構造を維持しているんだな、駅から神社までの長い参道は、歴史的な門前町の賑やかな商店街なんだろうなあ、大昔は海まで参道がつづいていて神輿が海に入るなんてあったかもなあ、なんて想像しながら出かけた。
 見事に外れた。駅からわずかな区間が商店街だったが、あとは芸もないただの街だった。
突き当りに平塚八幡宮の鳥居と森が見える大門通り(表参道)
それでも昔は賑やかだったのだろうなあと、想像を逞しくしながら歩く。
 参道の突き当りには、朱塗りの鳥居とその背後に緑濃い社叢林が待ち構えていて、見事に街のランドマークを形成している。
 初めて訪ねる美術館は、あの裏あたりだなと、迷わずに進むことができる。街並み景観はともかくとしても、景観構造としてはなかなかよろしい。

 やがて鳥居が近づいてきたが、その手前の道の真ん中に、何やら黄色い看板が立っている。
 「横断 禁止」、エ~ッ、ここまで参道を真直ぐにやってきたのに、鳥居の直前で参道がブチ切れなのかい、そりゃないでしょ、右に50mほど迂回して交差点からまわれというのかい、しかもそこは横断歩道橋しかないのだから、こりゃひどいよ。
ウワッ、横断禁止とは、、、参道が途切れて門前払い
この酷い道は、国道(酷道か)1号である。できたのは戦後だけど、平塚八幡宮よりも偉いらしい。
 わたしは宗教にまったく関心がないが、ここは歴史的に先に存在していた平塚八幡宮に礼を尽くして、参道を優先してせめて横断歩道を設けるべきでしょ。
 歴史的景観とは、みた目だけじゃなくて、その景観構造の中での人間の歴史的行動の継承にもあるのだと気が付いたのであった。
 神社参拝する気はないが、ここまで平塚のランドマークを目指して歩いてきたのに、とつぜん文字通りの門前払いとはねえ。
国道を横断して境内に入り振り返って参道を見る
今、ネット検索していたら、こんなことが書いてある。どうやら元旦の初詣の時は、特別にここに警官が立って手信号で横断できるらしい。http://www.hiratsuka-daimon.net/
×のところで参道ブチ切れ

「表参道が復活します」平成28年元日も平塚警察署からご協力(警察官の手信号)頂き、国道1号線を横断できることとなり平塚八幡宮と大門通りが昔の姿を取り戻します。
 1300有余年の歴史を誇る平塚八幡宮、初詣には毎年およそ2万5000人の参拝者が訪れます。しかし国道1号線の整備により八幡宮と表参道である大門通りを分断されてから、鳥居を仰ぎながらの参拝ができませんでした。
 8年程前から、大門通りの商店会である大門会では参道型商店街としての賑わいを復活させる為に様々なイベント活動などを行っています。また大門会は活動の目的の一つである「八幡宮と参道を繋ぐ横断歩道設置」の要望活動を平塚八幡宮、自治会と協力して行っています。」(12月 23rd, 2015 by hiratsukadaimon) 

 八幡宮の社叢林を抜けて、美術館を目指す道にでた。この道は八幡宮の裏参道にあたる位置にある。平塚美術館は立派な施設だった。その手前には平塚博物館もある。
 だが、それらを結ぶ裏参道は、博物館の裏と工場の脇を抜けるなんだか裏さびれた路地の様子であった。
 駅から八幡宮をへて美術館までは、八幡宮の表と裏の参道上に位置しているので、都市軸としてそれなりの景観形成がされているのかと思ったが、これも期待が外れた。
 これだけの文化資産がありながら、もったいないまちづくりである。
裏参道から美術館への道
八幡宮の隣りにある横浜ゴム記念館の洋風建築を見てきた。20世紀初めの、イギリス人の設計で海軍火薬廠にあったものを、戦後に火薬廠が横浜ゴムの工場となり、2004年に市の施設としてここに移築したのだそうだ。
 風通しの良い日陰を作るベランダコロニアル建築は、ヨーロッパ人が日本を熱帯風土と誤解して設計したのであった。北海道でさえもベランダをつくるありさまだった。それをまねした日本の大工たちが、あちこちでベランダと塔のある擬洋風建築を作った。
横浜ゴム記念館(1912年前後) 設計:カリー及びウィルソン
最初は日本化薬(㈱)の外国人宿舎として建設、後に海軍火薬廠の将校クラブ
1952年の平塚市街

2016/09/27

1215【首相所信表明演説】国会が警察力や軍事力に頼る危ないスタンディングオベイションのなかで「カニボコ」宣伝演説かよ

 昨日(2016年9月26日)、国会で総理大臣所信表明演説があり、中途で議員たちによるスタンディングオベイションがあったそうだ。
 演説の中で首相は、海上保安庁、警察、自衛隊の働きぶりに触れた後に、こういったらしい。「今この場から、心からの敬意を表そうではありませんか」
 こう呼びかけて自分で拍手を始めたので、これを受けた自民党議員らが起立して拍手を約20秒間続けたそうだ。

 ネットではいろいろとスズメが騒いでいて、アベサンへの賛辞ならば、こりゃすごい時代が来たなとかってあるが、それもあったのだろうとも思う。
 でも私が思うには、今、このように国会が警察力や軍事力に頼ることを、議場で称賛して表現しなければならないほどに、政治家たちの「政」を「治」める能力が劣化状況の時代なんだなあと、これはまことに空恐ろしい時勢であることを物語っているのだ。
 
 もうひとつ、所信表明演説に、面白いことがあった。カニボコ宣伝演説である。
 カニボコって、昔は軽蔑と感嘆の対象だったよなあ。これが出始めた40年ほど前の頃は、料理や弁当についてくると、みんな箸でつまみあげて、これって本物の蟹を食えない貧乏人のためのニセモノなんだな、それにしてもうまく作ったなあ、日本人はコピー芸術職人だよなあ、なんて話し合っていたものだ。

 カニカマともいう。蒲鉾の製法で、蟹の身とそっくりに作るのだ。原料は蟹じゃなくてタラらしい。蟹の身の形だから、本物の蒲鉾と違って、板についていない。
 偽物と軽蔑されていても、マーガリンや人造キャビアのように、時間が経つと本物と肩を並べるものがある。このカニボコが典型だろう。

 なにしろこの度の総理大臣所信表明演説で称賛されたのだから、これはもう、れっきとした政府お墨付きのニセモノ、いや、コピー食品となった。
 それにしても、コピー食品を国会で宣伝するとはねえ、どんな基準で首相はこれをとりあげたのだろうか、「100年前に誕生した1軒の蒲鉾店」とは、七尾のスギヨのことだろうか。

 今やコピー食品は、ニセモノじゃなくて堂々たる食材らしい。人造イクラもあるらしいし、お世話になっている発泡酒もそうかな。
 安い肉を薄く切って何枚か貼り付けてビフテキにもする整形肉ってのもあるらしい。まるでべニア板である。
 あ、そうだ、べニア板も昔は本物の板の代用品だったのが、いまやこちらが主流派になってしまった。

 まあ、将棋打ちがAIなんてニセモノにとってかわられる時代だから、なにが本物で、なにがニセモノかわからないよなあ、今じゃあ。
 人間もボケちまっても生きていられる世の中だから、ボケたわたしと今のわたしのどっちが本物かわからない。どっちも本物だというのは、明らかに欺瞞だ、ボケた俺は俺のニセモノだぞ。



2016/09/26

1214懐かしい味の小豆アイスバーとチキンラーメンに出会った夏が過ぎていった

 夏がとうとう過ぎ去った。この夏はついに冷房をしないで、アイスバーを舐めてしのいだぞ。
 夏をもしのぐ強力アイスバー、それは「井村屋小豆アイスバー」であった。いろいろな氷菓を試した末に、これがわたしの消夏材に落ち着いたのだ。朝昼晩と舐めた。
 これは昔のけっこう高かった小豆味のアイスキャンデーを思い出させて、懐かしい。

 この小豆バー6本入りの箱を、いろいろな店で何回も買っているうちに気が付いたが、値段が200円台から400円台まで、さまざまでずいぶん差があるのだ。
 暑くなるほど高くて、寒くなるほど安くなるのか?

 そういえば、箸に突き刺した竹輪状のアイスキャンデーは、今はどこで売っているのだろうか。
 昔々、自転車の後ろに乗せた木箱に入れて(参考写真)、チリンチりんとなる鐘の音と共に「キャンデー、キャンデー、アイスキャンデー」の売り声を、炎天下に響かせながら、道を売り歩いていたものだ。一本5円だったかしら、そのなかで小豆アイスは7円か10円だったかな。

 いつもは食品店なんて酒を買うしか用事はないのだが、このアイスバーを買うために他の売り場に出入りして、ひょいと見つけたのが「日清チキンラーメン」の袋である。
 ふむ、ふむ、聞いたこと見たことあるような、懐かしいような気がする、買った。

 ネットで調べると、安藤百福がチキンラーメンを世に出したのは、1958年8月25日とある。横浜にはチキンラーメン博物館がある。 
 とすると、わたしがインスタントラーメンを初めて食ったのは、1959年になるはずだ。
 それは大学山岳部の食料として合宿に持って行ったのである。多分、携帯食料として山行きに可能かどうか試したのであろう。
 日本アルプスでの合宿中のある日の夕食にそれを食った。その日は部員の誰かの誕生日だったので、特別食だった。美味かった記憶があるが、それ以後にチキンラーメンを合宿で食べた覚えがないのは、コストと携帯効率が不十分なものだったのだろう。

 その後もチキンラーメンを食った記憶はあるが、もうずっと昔に縁切りになって忘れていたのを、アイスバーを買った店で出会って思い出した。
 昨日のブランチに、それを料理?して食った。ふむ、この麺のワラワラとした姿、どこかワサワサする歯ごたえ、ちょっとゲスっぽい味、そうだったなあ、うん、うん、昔もこんな味だった、今も同じなのか、すごい。
 それは、とにもかくにも、不味かった、、だめだ、こりゃ、でも食い物のない時代に育ったので残さず食ってしまった、うーむ、マズイ口直しにアイスバー

2016/09/25

1213【新聞博物館:ニュースパーク】古新聞コピーパネルばかりで興味が湧かない面白くもない展示だったなあ

 ヒマなので勉強に出かけた。最近リニューアルした「新聞博物館」(ニュースパーク)である。 
 しかし、古新聞コピーのパネル展示ばかりで、実につまらなかった。古新聞を見るなら図書館に行けばよい。
 時節柄、オリピック競技という企画による古今の競技大会の新聞だったが、わたしはオリンピックにまったく興味ないから、どうもしょうがない。

 いろいろな賞を得た記事が麗麗しくパネルにしてあるのは、それはそれでよいのだが、逆に、報道における誤報という都合の悪いことは、全く扱っていないのには、なんとなく白けた感になった。また、戦争やテロ報道のような、難しくその態度も議論のあることも、展示の中にはなにも見えない。
 ようするに新聞ジャーナリズムの持つべき主張とか批評精神とかが見えないのが、つまらない原因だな。

 新聞写真で1枚だけ、わたしにはおぞましくも懐かしい展示があった。1960年10月12日、浅沼稲次郎暗殺現場写真である。
 このときわたしは大学生で、床屋で髪を刈ってもらっていた。たまたまTVで実況撮影したその場面が、繰り返し放送されて、おぞましい思いでそれを見ていた、強烈な記憶がある。

 この瞬間を撮ったカメラ記者には、「写真撮る前にカメラを投げつけて殺害を防ぐべきだった」と、非難の新聞投書がたくさんあったものだ。
 今ならネットでボロクソだろう。

 体験型展示は、オリジナル新聞つくりと、新聞記者になって取材ゴッコだそうで、どちらにもスタッフから誘われた。
 記者ゴッコはグループでやるらしいので、キムツカシイ年寄りには面倒なので遠慮した。

 オリジナル新聞つくりは、PCを使って製作するそうだ。できあがり見本を見せてくれたが、その中の写真(それも向うが用意するもの)と十数字のコメントだけがオリジナルで、そのほかはテンプレートのまま既製品だというのである。
 わたしが今日撮った写真を入れたいし、できればわたしの誕生日の新聞をつくりたいと言ったら、それはできませんという。つまらないから遠慮した。
 参加型ミュージアムの時代だが、参加するこちらが気難しくて参加しづらい。
ニュースパークサイトhttp://newspark.jp/newspark/



2016/09/20

1212【マンション撲滅論】全部無料で建て替えできる条件でさえも全員同意できない名ばかりマンション建て替え

 ようやくのことに例の大問題共同住宅建て替え決議が成立したたそうである。去年の半ばから大騒ぎだった、横浜市内にある大規模区分所有共同住宅(名ばかりマンション)のビルが傾いてきた事件である。
 施工不良であったことが原因と分り、販売した三井不動産レジデンシャルがすべて責任を取って、買主に全額補償して立て直すことにした。
 買った方はバカバカしい事件に巻き込まれてやりきれないことであろう。察するに余りあるが、そのバカバカしさは、名ばかりマンションなるものの宿命なのに、世間は気がついていないのだ。

 揉めて揉めて一年後の昨日のこと、ようやく法に基づく建て替え決議が成立したが、それでも議決権数711件中賛成709件だから、全員同意ではないらしい。区分所有者数でも635件中633件が賛成だから、どうやら二人の頑強な反対者がいるらしい。
 もっとも、賛成者の数の内には、かなりの数の事業者買取り戸数もあるだろう。それでもこれだけ多くの権利者たちが、たったの1年で建て替え決議の通過に持ち込んだのは、原因者が建て替え費用を全て負担し慰謝料も出すという、非常にまれな特殊な事例だからである。
  
 一般的にこれだけ権利者が多いと、二人くらい(もっと多く)の反対者が居ても不思議ではないが、それにしても権利者たちには金銭負担が一切ないこのような建替え事例でも、全員同意にはならない。
 ましてや、これが震災や火災あるいは老朽化によるような、管理組合による自主的な事業として、各自負担による建て替えならば、とてもこうはいかないだろう。
 反対の2戸分をそのままでは建替え不可能だから、これから説得、買い取り、強制代執行とか、大変だろうと思うが、三井不動産レジデンシャルがやるのだろう。そこも自主建て替えと大いに違う。

 さて、熊本でも震災があったが、被災区分所有型共同住宅(名ばかりマンション)は、どうしてるのだろうか。
 相かわらずの超高層巨大共同住宅が建ちつつある東京圏、例えばにわか名ばかりマンションニューヨーク武蔵小杉とかでは、これから起きる大地震では、どうなるのでしょうねえ。わたしは借家住まいだから、そこのところは気楽だけどね。

参照:くたばれ名ばかりマンション論議
・1150【マンション撲滅論①:買ってはいけない7か条】こんな不安定な資産なのに世の人は大借金してまでなぜ買うのだろうか
http://datey.blogspot.jp/2015/12/1150.html
・1139【横浜名ばかりマンション傾き事件】真犯人は設計も監理も施工もグルでやった三井住友建設とようやくわかったぞ
http://datey.blogspot.jp/2015/10/1139.html
・1138【横浜名ばかりマンション傾き事件】根本問題は基礎杭の欠陥工事じゃなくて「マンション」という区分所有方式共同住宅という欠陥システムにあるんだけどなあ
http://datey.blogspot.jp/2015/10/1138.html
・1136【横浜名ばかりマンション傾き事件】基礎杭インチキ事件の真の責任者は孫請けか元請けか工事監理者か設計者か謎ばかりニュース
http://datey.blogspot.jp/2015/10/1136_22.html
・968【くたばれマンション】だから言ってるでしょ、名ばかりマンション区分所有共同住宅ビルをやめろって
http://datey.blogspot.jp/2014/07/968.html
・・808「名ばかりマンション」をいまどき売る人買う人の気がしれない
http://datey.blogspot.jp/2013/07/808.html
・664くたばれ名ばかりマンション屋!大ウソつきがばれたぞ
http://datey.blogspot.jp/2012/09/664.html
・くたばれマンション
https://sites.google.com/site/machimorig0/#tosikyoju

2016/09/18

1211毎年ふらふら変わる敬老の日は今年はいつなのか軽老朦朧老人にはさっぱり分からない

 空中陋屋の窓から祭囃子が聞こえる。バルコニーから見下ろすと、このあたりの鎮守社であるお三宮神社のお祭りで、神輿渡御の行列が行く。
 行列といっても20人もいたろうか、肝心の神輿は車に曳かれているから、ワッショイワッショイの景気よい声はないし、囃子も録音をラウドスピーカで流している有様。
 雨もよいだから神輿は透明プラスチックレインコートを被っている。なんだか寂しいが、町内を神輿が渡御するだけでも、良しとしようか。

 このあたりは中高層建築の共同住宅群の街である。わたしがそうである如く、各住宅ビルの各バルコニーから住人たちが顔を出して、道行く神輿を見下ろしている。
 ほう、こんな人たちが住んでいるのかとそちらを眺めていて、おやおや、爺さん婆さんばかりだよ、いや、もちろんこちらも爺さんだけどね、休日というのに子どもの顔が見えない。

 むかしむか~し、公団の住宅団地に住んでいた頃、こういうときにバルコニーから顔を出す人々は、だれもかれも若かったし、子どもの顔もたくさんだったことを思い出した。
 そうか、明日は敬老の日だな、むかしむかしはそんな祝日はなかったよなあ、その後に年寄りが増えつつつある時代になって、敬老の日なんてのを発明したものだった。

 いまや年寄りが増えすぎて、敬老よりも軽老へと時代の空気は変らざるを得ないよなあ。
 その証拠には、敬老の日ってのは昔は9月15日に決まっていたのに、今じゃあ毎年毎年ふらふらふらと日取りが変って、今年は9月19日だそうだ。
 ネットで調べたら、去年は9月21日、来年は9月18日だそうだ。

 これって、人々の老いを敬う精神を高揚するするために、記憶の中に敬老の日として定めておくのじゃなくて、連休にしてしっかり遊びたいとか、観光業が稼ぎたいってことですよね、まあ、いいけどね、それでも、、、どうせ老人はジャマでショ。

 そうだ、「子どもの日」ってのをもっと大切にしてはどうですか。あんな大連休の中に埋もれさせてしまうから、子どもを大切にって精神が忘れ去られてしまって、少子時代になったんでしょ。
 あそうだ、「女性の日」を新設してはどうですか、あ、そうだ、あわせて「おんな子どもの日」がいいか。

 参考までに、父の軍隊手帳によれば、1930年当時の祝祭日はこうだった。赤字の日付は名前を代えて今に続く。
 四方拝(1月1日)、元始祭(1月3日)、新年宴会(1月5日)、
 紀元節(2月11日)春季皇霊祭(3月21日)、神武天皇祭(4月3日)、
 天長節(4月29日)秋季皇霊祭(9月24日)、神嘗祭(10月17日)、
 明治節(11月3日)新嘗祭(11月23日)、大正天皇祭(12月25日)

2016/09/10

1210【本つくり趣味】この夏は趣味の本つくりで「歌集」に没頭していて暑さを忘れていた

 今朝起きたら、ツクツクボーシの鳴き声がする、おお、秋だなあ。
 今年はとうとうわが書斎兼工房兼寝室を、冷房しないままに秋が来てしまった。
 この夏は冷房しないで過ごそうと決めたのは、うまくいけば、熱中症でポックリとなるだろうって期待をしたのだ。ついでに電気代も少ないエコ生活にもなるという一挙両得?も。

 ところが、意外というか残念というか、あまり暑い日がなかったし、暑い日は風が吹き抜けて、なんとか過ごしてしまった。だからポックリの目論見が外れた。
 もっとも、本当は暑い日があったのかもしれないが、歳とると気温に鈍感になって、暑さが身に応えなくなったのかもしれない。それはそれでエコな体質でよろしい。
 
 もうひとつ冷房しなくても過ごした大きな原因は、この夏は趣味に没頭していて、暑さを心がはねのけたのかもしれない。
 その趣味とは「本つくり」である。この夏はその趣味を生かして、他人様の「歌集」をつくったのだ。6月から編集にかかり、7月に校正、8月に入ってから100冊を造本した。
 これにかかりきりの夏は、心頭滅却すれば火もまた涼しの心境で、暑さも逃げたらしい。

 3人の幼馴染が、それぞれの趣味を持ち寄って、歌集を作ったのである。
 ひとりは歌を詠み、ひとりは花をつくるのが趣味であり、わたしは本をつくるのが趣味だが、3人は全く別々の遠隔地に住むので、一度も顔をあわせることなく、インタネットで結んでの作業であった。いつもは自著の本しか作らないのに、珍しくも他著の本つくりである。

 歌つくり、花つくり、本つくりという、それぞれの趣味を生かして、薔薇の花が彩る可愛らしい歌集が生れた。
 今月になり、その歌集を遥か西の地の二人に送りとどけたら、いつのまにかミンミンゼミが去ってツクツクボーシの鳴く秋になっていた。
歌集『ぽかりぽかり 2007~2016』
歌つくり:藤本孝子、花つくり:定森治子、本つくり:まちもり散人

 その歌集に書いた「あとがき」を載せておく。その歌集の出自を書いておいた。

               ◆◆◆

 (あとがき)  本つくり        まちもり散人(伊達 美徳)

 日常の只事をそっと掬い、はらり羽化させると言霊の蝶になり、軽やかに舞う翅はしばし花に休らう、そんな歌に花を添える歌集の本をつくりたかった。 
 本つくり…これがわたしの趣味、書斎机の電子道具と百円文具を操って、原稿書きから編集装幀印刷製本へと独り愉しむ紙工作の手芸である。
 できた自著自作本を、ひとさまに読めよ観よと押しつけるのも愉しく、そのなかに高梁盆地オマージュ本の『美しい故郷へ』もある。
 他著自作本も稀に手がけるので、幼馴染の媼二人に押しかけ勧誘メールをした。

  近作の歌花集め書に編まむボケの雲霧湧きくる前に

 かくして高梁三原横浜なる歌人花人散人の文芸園芸手芸を電網に結んで編めば、春楡の樹の下にぽかりまたぽかりと歌集が三年に二つ生れ出た。
 はからずも喜寿傘寿記念にもなり、お互いおめでたくてホッとしている。折りから高校卒業還暦同期会にて、これが旧友たちへの挨拶がわりにもなれば、造本担当としてもぼっこー嬉しい。

               ◆◆◆

関連ページ
◆「まちもり叢書」自家製ブックレットシリーズ
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1007短歌を詠んだがいつもは詠む趣味はないから突然の歌人
http://datey.blogspot.jp/2014/10/1007.html