2017/12/16

1307【山口文象設計茶席常安軒】紅葉の浄智寺谷戸に傘寿越す茶席建築を卒寿の建築家と訪ねる

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その1
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

●北鎌倉に山口文象設計の茶席建築を訪ねる

 秋も深まり初冬になり、北鎌倉に紅葉狩りに行ってきた。いや、実は行ってみたら紅葉が美しかった結果なので、真の目的は山口文象和風建築狩りであった。
 わたしがそれを訪ねるのは2度目だが、1976年以来の40年ぶり、その時の同行者には、設計者の山口文象がいた。そして今回は山口の一番弟子ともいうべき和風建築の名手である小町和義さんが一緒だった。

 40年前に来た目的は、山口文象(1902~78)の作品集をつくるために、評伝を執筆する佐々木宏、長谷川堯、河東義之の各氏たちも一緒だったが、山口はその2年後に急逝した。その本は1983年に刊行になった『建築家山口文象・人と作品』(RIA編)である。わたしはRIAに在籍していて、この本の編集執筆担当だった。
 山口文象がこの茶席を訪ねたのは、その時が40年ぶりと話していた。気が付けば、その時の山口文象よりも、わたしも小町さんも年寄りになっていた。そうか、二人とも山口文象よりも長生きしているのであったか。

2017/12/03

1305【余談:安藤忠雄展雑感談議】直島プロジェクトの模型や映像を観ていて昔々この島に消えた大量の釣鐘を思い出した

安藤忠雄展雑感長屋談議】【】【続々】のつづき
直島は昔から金属工場の島 観光リゾート安藤建築は島の南

●少年のころに直島を訪ねた大昔記憶
 国立新美術館に建築家の安藤忠雄展を観に行ったのだが、大勢の入場者に驚いた。建築家ってこんなにもてるものなのかい?、いいなあ、都市計画家もそうなりたいものだ。
会場の中央に安藤流の卵があって、それは瀬戸内海の小島の直島で長期にわたるプロジェクトを、ジオラマとパノラマ映像で見せる見世物小屋だった。ベネッセという企業と組んでいて、安藤さんの営業力を見る感じだ。
直島プロジェクト見世物小屋
その安藤の建築のことは別に書いているから、ここではわたしが昔々に直島を訪ねた想い出を書くのだ。ほう、いま計算したら、それはもう70年も前のことである、すごいなあ、そんな大昔がこのわたしにあるなんて、どうにも信じられない気持ちだ。

 太平洋戦争が終わった次の年の1946年の夏、わたしは直島を訪ねた記憶がある。草木のひとつも見えない荒れ果てた岩や赤土が剥き出しの島だった。港から坂を登って行き、丘の中腹を切り拓いたらしい広い空き地にでる。
 そこには無数の釣鐘の群れが、土の上に延々と並んでいた。これがこの島訪問の目的である。光景を思い出せば、たぶん2~300個はあったろうだったろう。
 少年のわたしの背よりも高いものがほとんどだったが、中には小さなものもある。夏の太陽に照らされた坊主頭の大群衆が、緑青や茶褐や漆黒の肌を光らせて、黙々と立ち尽くしているのだった。
 想えば、シュールリアリズムの絵画のようであり、子ども心にも異様であり、これだけがわたしの記憶にある直島風景である。

 直島を訪れたのは、その6年前に戦争のために金属供出した釣鐘を探す旅だった。父が連れて行ってくれた。ほかに父方の伯父と1歳上の従兄もいた。
 わたしの生家は神社であり、父は神社の宮司であった。その高梁盆地の御前(おんざき)神社には、17世紀半ばから城下町に時刻を知らせるために、時の鐘として鳴らされていた釣鐘があった。

 それが1940年に政府に召し上げられ、兵器となるために溶かして鋳直す工場がある直島に渡ったのだ。金属鉱山の無い日本が戦うための武器をつくるには、街や家庭にある既製品の金属製品を回収して原料にするほかなかった。
 直島の三菱精錬所には、各地から釣鐘類が集められていたが、戦中に兵器にするべく鋳潰されるはずが、運よく残っていたのがわたしたちが見た釣鐘の群れだったのだ。
 たぶん父は供出した釣鐘の行方を調べて、ウチの鐘も残ってるかもしれないと思って直島に出かけたのだろう。

●少年のころの釣鐘の記憶
 鐘にはこのような銘が鋳てあった。

吾移住当城之後為教城下之士庶十二時候課干冶工鋳鳧金以奉納槨内御前大明神之賽前蓋知時即寺社不忘其勸矣時則四民不勤其業近境順法遠境効焉所冀天長地久国家安全除災與楽将来千億
       慶安四歳次辛卯九月吉祥日
        城主水谷伊勢守勝隆 敬白
          冶工當国小田郡高草
           惣領 彦之丞藤原守重

 慶安4年とは1651年であり、その9年前に転封してきた城主水谷勝隆が奉納したとある。この鐘は供出するまで290年もの長い時を刻んできて、高梁盆地の城下町に時刻を教える鐘の音が響いていたのだった。
 兵器となるべく直島に蝟集した無数の釣鐘群の中には、もっと昔のものもあったに違いない。

 探しているその釣鐘は、岡山県の高梁盆地の丘の中腹にある御前神社の鐘撞堂(かねつきどう)に吊るされ、朝な夕なの時刻を知らせる時の鐘だった。昔は鐘撞き専門の職がそばに住んでいたらしい。
 鐘撞き堂は、木造の高楼建築で高さが3階建てほどだった。撞くべき時刻が来ると宮司の父が撞き、父が不在の時は母が撞いていた。その時刻が何時であったのか記憶にないが、父の不在中の夜中に母が出かけるとき、3歳幼児だったわたしはひとりでの留守番を怖かった記憶がある。夜中の鐘撞堂の梯子のような急階段を、幼児をおぶって登るのは不可能だったのだろう。

 もうひとつのおぼろげな幼児期の記憶だが、家に騒がしく出入りするひとたちがいて、鐘の音が連続して聞こえていたような気がする。しらべてみて、これは1940年紀元2600年記念に、その元日に2600回連続して鐘を撞くイベントの時であったようだ。今に残るわたしの人生最初の記憶である。
 城下町に響く時鐘は町民に愛されていたらしく、1940年の金属供出で鐘が出ていくとき、それを送り出す盛大なイベントがあったことが、当時の写真で分る。このとき父は中国戦線で兵役についていた。金属供出例は1941年に出されているから、これは自主的供出だったのだろうか。
1940年12月 時鐘供出祭
左に地上に降ろされた釣鐘と祭壇
 
 直島の鐘の話にもどる。父は1943年から3度目の兵役についていたが、このときは国内勤務だったので、戦争が終わった1945年8月の末日に帰宅してきた。
 4人で釣鐘群の迷路の中を、夏の日に照らされながら捜し歩いたが、そんなにたくさんありながら目的の鐘を見つけられなかった。父も伯父もガッカリしたことだろう。

 荒涼とした島の風景の中にたたずむ死を免れた釣鐘群は、それまでにもっと大群が兵器となって戦争の泥沼に沈む旅に出ていくのを見送ったことだろう。
 生き残った釣鐘は、その後にそれぞれの故郷に戻って行ったのだろうか。戻るべきところも戦争でなくなっていたかもしれない。故郷を失った鐘は鍋や釜になったのだろうか。

●リゾート観光地の直島に戦争の記憶は
 わたしたちの探していた釣鐘はそのまま帰ってこないが、鐘の故郷の高梁盆地にある御前神社には、いまも鐘撞堂がすっくと立っていて、戻ってくる鐘を待っている。
 だが木造高楼建築は、寄る年波には勝てないらしく、倒壊の恐れありとて、登ることはもちろん近づくことも禁止の注意書き札が立っている。
 鐘が戻ってきても、もう吊るすこともできない。もっとも、いっときのことだが寄付する人がいて、プラスチック製の釣鐘がぶら下がり、テープ録音の鐘の音が響いたこともあるらしい。
1940年末から今日まで鐘の帰りを待つ鐘撞き堂も老いてしまった

 わたしの直島の記憶は上に書いた場面だけなのだが、その帰りにどこかの海辺で海水浴をした記憶が鮮明にある。従兄と2人で泳いだのだが、白砂青松の浜辺がひろがり、泳ぐ向こうの遠くない海上に、可愛らしいお椀を伏せたような松の繁る小島が見えていた(確証はないが、たぶん牛窓の海岸のようだ)。
 この海にそそぐ高梁川の中流部の高梁盆地で育ち、その川で泳ぎを覚えたわたしには、初めての海水浴だった。海の水は辛く苦いものだと、まず舐めて確かめた記憶がある。

 海水浴を楽しむにはまだ貧しすぎた時代だからか、わたしたちの外に誰もいなかった。父と伯父は、たぶん船か列車の待ち時間に、その子たちを遊ばせたかったのだろう。
 それがどこだったのか、直島航路の宇野港に近いあたりの海水浴場を、ネットで探しても見つからない。いまでは小島もろともに埋め立てられて産業地になり、砂浜はなくなったのだろうか。
 もう、父も伯父も従兄もこの世にいない。

 金属産業の直島はいま、企業のベネッセによる事業として、建築家安藤忠雄の建築で有名な観光リゾートの地に大変身して、煤煙で島を丸禿にしていた三菱の工場はエコアイランドの核となっているという。
 かつてこの地が各地から社寺の釣鐘を集めて、兵器をつくるための島だったことは、忘れ去られているだろうか。釣鐘ばかりか、そのほかの多様な金属も来ていただろう。あの頃、各地の金属製の文化財も失われた。
 直島にもあった戦争の記憶を、今の島のどこかに残しているだろうか。直島町史あるいは三菱マテリアル社史に載っているだろうか、あの光景の写真があるだろうか。
 思えば、あの荒野の白日の下の釣鐘群の姿は、戦争直後に幻のように出現して消えた現代美術インスタレーションだったような気がしてきた。
 


2017/11/29

1304【続々・安藤忠雄展雑感長屋談議】歴史建築段ボール模型迫力に吃驚讃嘆、大仏生き埋めラベンダー山景観に感歎爆笑


●模型の段ボールがよかった

長屋の大工の熊五郎:安藤忠雄展を観てきて、ご隠居は褒める作品は無いんですか。
長屋の隠居徘徊老人:うん、模型という作品なら、パリの「ブルス・ドゥ・コメルス」とヴェネチアの「プンタ・デラ・ドガーナ」の古建築活用計画模型がいいね、特にその模型の段ボールがよかったねえ。
:建築じゃなくて模型を褒めてんですか、それも学生たちの涙の結晶ですね。
:だって模型の作品展なんだもの、これがダンボールで作ってあって、その質感と言い量感と言い、なかなかいいんだねえ。

2017/11/27

1303【続:安藤忠雄展雑感長屋談議】独学神話修業伝説など山口文象に似てるけど戦争の有無が大きな違いだな


●“安藤ランド”でもつくるのかしら?

長屋の大工の熊五郎:ありゃ、ネットにこんなこと載ってますよ。安藤さんが「住吉の長屋」のコピー建築をつくろうとしてるんだって。(『ニセ「住吉の長屋」が問うもの』)
長屋の隠居徘徊老人:ほお、面白いねえ、あ、そうか、あの展覧会に出した見世物教会も、展覧会が終ったらその隣に持ってきて移築するのかもなあ。
:そのほかにも昔のものをたくさん再現して建てて、“安藤建築ランド”をつくるとか、やればいいですね。
:そりゃ面白い、明治村ならぬ安藤村か、ヤレ、ヤレ~。
:設計したけど実現できなかった建築とかね、そうだ、安藤委員長が選んだのに安倍首相にボツにされた、ザハ・ハディド設計の新国立競技場もつくるとか。
一等当選でもボツになったお騒がせザハハディド新国立競技場案
:ワハハ、そりゃすごい。でもねえ、住吉の長屋再現で、あのコンクリ箱だけ独立して建てるってのなら、実につまらないね。既存木造長屋の中の一軒を壊して建てるなら面白いけどね。
:新しい三軒長屋を先ず建てて、次にその中央の家を壊す、そしてあのコンクリ箱を建てるとかね。建築イベントだ。
:それも面白いねえ、あの箱の居住機能ばかりアレコレ言われるけど、その本質的なすごさは、密集市街の中の木造長屋の中間に、あれを無理矢理はめ込んだところにあるんだな。
:その無理矢理具合が景観的にも社会的にも実に興味深いですよね。そうだ、今どきの長屋は中高層共同住宅ビルでしょ、ご隠居が言うところの“名ばかりマンション”ですよ、その古いヤツのなかの一戸を壊して、そこにに住吉の長屋を突っ込むと面白いですねえ。
:うん、いいね、あちこちの既存共同住宅ビルの空き家に、ゲリラ的に安藤流の箱やら卵やらが突っ込んである風景を想像すると楽しいね、空き家対策にもなるし。
:そういえば安藤の初期の仕事は、密集木造住宅地の中のあちこちの狭い裏宅地に、小さな住宅をたくさん設計していて、それを「都市ゲリラ」と称していますね。
引用 https://www.pen-online.jp/feature/art/ANDO2017/3/
:おお、ゲリラってかい、そういえば展覧会にそんなゲリラ模型があったな。裏宅地の接道してない違反建築ばかりだねえと、見物仲間と話したもんだよ。
:いまや安藤はゲリラどころか、正規軍の将軍になってしまいましたね、なんせ天皇が呉れる勲章をもらったし、こうやって国立施設で個展やるんですもんねえ。ゲリラ時代が懐かしくて、あんな小箱をまた自分で建てるのでしょうかね。
:あ、そうだ、こんどの展覧会で建てた「光の教会」の原寸模型って、ありゃ都市ゲリラだな。会場の中じゃなくて外の屋上に増築ってところがゲリラっぽいね。
:そうか、生まれながらの正規軍だった黒川記章が設計した国立新美術館に、ゲリラとして殴りこんだ、ハハ、いまに都市伝説というか安藤神話になるかもしれませんね。

●修業伝説独学神話建築家2人のこと

:神話と言えば、建築は独学というのも、まさにそうだね。工業高校出てるし、大阪で都市や建築に幅広く活動していた水谷穎介さんの下で働いたことあるらしいから、完全なる独学かどうか怪しい感もあるけど、なかなか面白いね。
:そういや、ご隠居が追っかけやってた山口文象って建築家も、その出自とか独学とか、彗星のごとく世の出たとか、似たところあるような。
山口文象
:おっ、来たね、うん、そうそう、安藤と山口は40年の差があるけど、なんだか似てるね。山口は職工徒弟学校までの学歴、あとは逓信省のいちばん末席の製図工からオンザジョブで自分の才能を磨いて、時代の潮目をよく見て30歳代であっというまに頭角を現したのだよ。
:安藤はまだ健在だけど、どこか伝説的な感もありますね。
:安藤さんの出自や修業のことをよくは知らないが、山口が語った独学神話とか修業伝説とか似てるらしいね。安藤にはないようだが山口には左翼伝説がある。安藤と比べて山口文象が不利な人生だったのは、40歳代の最も働き盛りに戦争にぶつかったことだよ。学閥も門閥もないから仕事も来ない、その10年余りを逼塞せざるを得なかった。その点では平和が続く時代の安藤は幸せだな。
:山口文象は戦争が終わってからどうしたのですか。
:戦前は個人名事務所だったのを、戦後再起を個人名を排したRIAという協同設計集団に賭けたんだな。小住宅のまさに都市ゲリラとして、50歳代になって再出発したよ。でも戦後に山口文象としての見るべき建築作品は無いね、その集団が都市計画と建築設計の立派な組織となったから、これが山口の戦後最高の作品だね。
:安藤さんは1941年生れの76歳、今も盛りの仕事ぶりですが、作風は個人アトリエそのものですね。大勢のスタッフがいるようだけど、先々どうなさるのかなあ、おおきなお世話だけど気になりますね。
:そうだねえ、おお、76歳と言えば山口文象が他界した歳だよ。そういえば、新国立競技場でひどい目にあって死んだザハ・ハディドも個性的な建築家だったけど、あの事務所はどうしてるんだろね。
:天才の個性的な建築家の場合は、後継者というか組織というか難問でしょうね。
:う~む、丹下健三とか前川国男とか菊竹清訓の事務所は、どうしてるのかなあ。組織事務所として大変身をするのかなあ。

●六甲の集合住宅は環境破壊だな

:ところで肝心の安藤建築については、原寸模型教会の話ばかりだけど、ほかの感想はいかがですか。SNSによると会場でのイアフォン解説が安藤さん自身の録音で評判ですけど、どうでしたか。
:エッ、そんなものあったのかい、そうか、あの行列見物人たちは、みんなその解説を聴きつつ順路を進んでたんだね、あんな大勢なのに静かに整然と歩くのが不思議だったよ。
:え、ご隠居たちだれもイアフォン借りないのか、ケチ、どうしてたんですか。
:仲間5人とね、混んでない面白そうなところを見つけて、あっちへこっちへフラフラと勝手に動いて、勝手に批評しつつ楽しんだよ。
:なんだつまみ食いかよ、年寄りばかりで声も大きいから、喧しいと怒られたでしょ。
:いや、怒られないよ、他の人は耳がふさがってて、わたしたちの声が聞えないんだろ。余計な解説無しだから、仲間それぞれ勝手な解釈を言いあって面白かったよ。あらかじめなにか知ってたら面白くなかったね。
:ふ~ん、まあ、ご隠居にはお祭りの屋台や見世物巡りだから、順序なんていらないですね、面白いのありましたか。
:「六甲の集合住宅」って共同住宅ビル群が、大きな模型で出てたよ。
引用元 http://www.tokai-build.com/blog/archives/7158
上の模型と同じ角度の空中写真 google earth
:ああ、神戸の斜面地に開発した最初の棟から、隣りへ隣りへと増殖して行った共同住宅群ですね。
:そうだ、これの最初のものが建築の雑誌に発表されたのをみて、これはひどい、神戸の自然環境として重要な斜面緑地をこうやって切り取り、背中が崖の風通しの悪い住宅なんてどこがいいのだ、と思ったけど、それにもかかわらずこうも増殖して腹立ったね。
:模型を観つつ大声でそんな悪口を言ってたんじゃないでしょうね。
:もちろん仲間と大声でしゃべっていたよ。でも、最近の安藤さんは緑の回復なんてプロジェクトにも精出してるから、六甲の反省をしてるのかねえ。

2017/11/23

1302【安藤忠雄展雑感長屋談議】安藤神社の秋祭で縮尺模型の屋台が大量出店、原寸模型の見世物小屋もあった

●ミーハーに好かれるようになったか建築家も

長屋の住人・大工の熊五郎:こんちわ、ご隠居、なんだか疲れてるみたいですね。
長屋の住人・隠居徘徊老人:おお、熊さん、いらっしゃい、まあ、おあがりよ。うん、昨日、東京の乃木坂の国立新美術館に徘徊に行ってね、それで脚が痛いんだよ。
:美術館なら徘徊じゃないでしょうに、なにを見て来たんですか。
:安藤忠雄という建築家の展覧会だよ。会場が広くてたくさんの展示があり、2時間余りも歩きまわって疲れたよ。
:ああ、安藤忠雄ね、よかったでしょうね。
:エッ、熊さんでも安藤忠雄の名を知ってるのかい、おどろいたね、どうりで平日なのに観客が多いのでびっくりしたよ、へえ、今どきは建築家もミーハーに好かれるのかい。
:そうですよ、あっしだって知ってますよ、他に藤森照信って名も知ってますよ。ちかごろはミーハーネエチャンオバサンが、そんな建築見物観光旅行に行ってますよ。
:ホントかなあ、そうかい、日本も建築家って職業を世間が認知する時代にやっとなったか。

●原寸模型で現物体験というけれど環境が違い過ぎる

2017/11/17

1301【FACEBAKA掲載与太話】10月後半~11月前半:衆議院選挙、企業犯罪、トランプなどなど

【FACEBAKA掲載与太話10月後半~11月前半】

11月9日・新語・流行語
わたしの聞いたことある言葉は、このうちの6割だけ、
でも意外に多く知っている感もある。


11月7日・トランプ
ふ~ん、、

2017/11/15

1300【癌かもしれない日々・7】日光角化症クリーム塗布治療の後半戦を開始で面倒だけど暇つぶしにはなる

癌かもしれない日々・6】のつづき
 わたしは日光角化症のことをぜんぜん知らなくて、
ある日偶然のきっかけから治療することになったのです。
この報告が、まだ日光角化症を知らない人たちに
役立つことを期待しています。

 顔面の一部が前癌症状の日光角化症となり、ベルセルナクリームを塗る治療を始めて2か月、クリーム塗布休止4週間の後の2017年11が15日、横浜市大センター病院皮膚科(伊藤亜希子医師)の診察を受けた。
 ベルセルナクリームによる治療は、4週間塗布、4週間休止、その後また同じことを繰り返すのだが、うまく行けば前半だけでおしまいになるとて、そうなればいいなと期待しながら診断を受けに行ったのだった。

2017/11/13

1299【黄金町バザール・4】アート制作のために地域に入っていくアーチストたちって街づくりコンサルタントに似て非なるもの

黄金町バザール・3】のつづき

 それにしても、これらわけのわからない作品を、手間と時間をかけて制作し、展示しているアーチストたちは、いったいどうやって日々のおまんまを食っているのだろうか。
 制作費をどうやってひねり出してるんだろうか、みんな富豪の人たちか、それともなにか別に本業を持って稼いでいるのか?

2017/11/01

1298【黄金町バザール・3】みなさ~ん黄金町でも戦争はようやく終りましたよ~

黄金町バザール・2】のつづき

●『みなさ~ん、戦争はもう終りましたよ~』
 おお、そうだ、ここ黄金町でもそう叫んでくれよ。いや、この映像作品が今ここにあるということは、毒山が黄金町でも叫んでるつもりかもしれない。
 毒山凡太郎が、沖縄の各地で『戦争はもう終りました、War is over』と叫んでいる映像をしばらく眺めていて、そう気が付いた。
毒山が「戦争は終わりました」と叫ぶ沖縄各地