2018/04/15

1328【2018花見旅その1】関東の桜が散ったので甲州の桃源郷へ


 今春の花は、去年よりも10日くらい出足が早くて、慌てた。いや、慌てるほど重要なことでもないが、うっかりすると1年待つことになるから、どうも慌てたくなる。
 なにしろ来年があるかどうか怪しい歳になったのだから、できる能力あるうちにやっておくのだ、なんでもね。
 まずは3月25日、北鎌倉に宝庵開きに行き、ついでに明月院にも寄ったが、ちょっと早すぎた。谷戸の奥の春は遅い。 
宝庵春景色

 次は母校キャンパスで去年よりも1週間早い3月28日、これは満開だった。
母校キャンパスの静かなにぎわい

 その次が4月1日、隅田川の堤に行ったが、ほとんど散って葉桜だった、早すぎる。カメラにSDカードが入ってなかったドジ。
 そして4月3日、横浜三渓園に花吹雪を見ようと出かけたら、まさに散る花びらが美しく、でも枝垂れ桜はちょうど満開、なかなか良かった。
わたしが好きな三渓園ツインタワー風景、桜が池に吹雪に散る

 もう近場での桜の花見をあきらめて、4月10日に甲州の穴山に桃の花見に出かけた。ここらあたりは桃源郷である。見上げると視界は桃の花でピンクに染まり、足元は菜の花の黄色で染まる。更に梨の花が真っ白に咲き誇る。
塩山あたりの梨の花

 桃の花は花見のために咲かせるのではなくて、桃の実を栽培するために咲かせる。そのためには目いっぱい咲いた花を適当に間引きする。その摘花後は花の密度が下ってちょっと薄くなるが、それでも一面の桃源郷である。
桃の木を手入れ採取し易く横に広げ、摘花して粗い花密度にする

 毎年、昔仲間が集まって、花の下の菜の花の草原で、自前の天ぷらを揚げながら、山賊の花見宴会をするのだ。もう何年やっているだろうか。
 そうそう、初めのころは駅から1キロ余り歩き、更に高さ50mくらいの新府城址に登って、ピンクに広がる桃源郷を見下ろし、雪の八ヶ岳を遠く望みながら、天ぷら宴会をやっていたものだ。
元気に新府城跡に登っていた頃の宴会場からの桃源郷風景

 そのうちに城跡まで登るのが辛くなってきて、その麓の畑の中でやるようになった。
 それがいまでは、駅近くの畑の中でやっている有様だから、歳は争えないとはこのことである。
花見宴会場全景  菜の花の中に座り込む


実は毎年の穴山花見のホスト役をやってくれる森博士は、視覚障碍者道案内ロボット研究者だから、花見はその一年間の研究成果の発表会になっている。花見で遊ぶだけではないのだ。
 ロボット開発の始めはコンピューターつき自走式電動車椅子だったのが、研究が進むにつれてコンピュータつきは変わらないが、手押し式車椅子になり、手押し式3輪車になり、今は手押しババ車になり、次第に軽装簡易化する進化過程を経てきている。
森博士による路上走行実験と資料検討する花見男たち
毎年の花見をいつも同じところでやっていると、花は毎年同じでも、こちらは確実に変化していることを自覚する。動きが鈍いのだ。
 昔の人が言ってたなあ、「年々歳々花相似 歳々年々人不同」ってね。この漢詩の意味は、花見とは自分の老い具合を見に行くことだ、と覚った。
 実はこの後につづいて信州の花見に行くのだが、そこでもこれを感じたものだ。
つづく

2018/04/05

1327【FACEBAKA与太記事2018年3月後半)雪見、花見、茶席「宝庵」開き、ガンモドキ治癒、アホバカスマホ、

2018年3月後半 フェイスバカ与太記事まとめ


3月19日
ある四半世紀差の風景
(いいね!のひと15人、悲しいね!のひと2人)


3月20日
「日光角化症」の塗り薬治療、去年から8カ月も続いたけど、19日に最後の診察で治癒との診断、ヤレヤレ、やっと終わった。別に辛い治療じゃないけど、一定ルールで長期間にわたって薬を塗るって、面倒だし気になるし憂鬱だった。
 でもなあ、陽を浴びたのがいけない、それが癌の元になるから治せなんて、今ごろ言われてもなあ、昔は太陽にあたれって言われたもんだぞ。
 まったく偶然に発見したガンモドキ、陽に当って遊んだあなたもアブナイかもよ。

3月21日
おお、雪だよ、吹雪だよ、お彼岸の中日だってのに、
政治のあまりの乱れに、天も嘆いて氷の涙を降らせるか、、



3月23日
ふ~ん、どこか知らないけど、投票するひとたちって、
なんだか奇妙な面白いお方を、当選させるものだねえ、

3月25日
また言葉狩りかよ~、痴呆を認知と変えて妙なのに、こんどは徘徊をいけないという、
迷い人とでも言うかい?、徘徊を目的に歩く私はいけない人?

3月25日
【北鎌倉 宝庵】プレオープン
幸せな茶室建築である。1934年にできてから84年、、初代オーナー関口さんと2代オーナー榛沢さんに愛され、大切に維持され使われてきたが、このたび3代目のオーナー浄智寺さんもこれを愛し、日本の伝統文化の活動の場として、一般に公開して活用なさるとて、化粧直しをして今日はプレオープン、4月1日正式オープン。
●宝庵由来記(伊達美徳)https://sites.google.com/site/dateyg/houan

3月26日
上手い答弁

スマホアホバカ

3月27日
【茶席宝庵開き茶会】それにしても、客も裏方も女性ばかり、男はわたしの連れが3人、他にチラホラ見えたが、圧倒的に和服アマゾネス軍団であった。茶会とは今やそういうものなのか。
 たしかに、歌舞伎も能楽や文楽も見物やお稽古には、圧倒的に女性が多いから、日本伝統芸能文化は女性によって支えられていると言って過言ではない。
 そのアマゾネスのひとりに、山口文象ファンがいたのには驚いた。デザイン系の学生という可愛い乙女は、久が原の山口邸を訪れる機会があって、それを契機に文象ファンになったという。
 建築家山口文象そのものが忘れられるときに、これはまた通の好みだねえ、良い趣味だねえと、ちょうど一緒にいた山口文象高弟の小町和義さんと共に、老爺ふたりは嬉しくなり、大いに褒め讃えたのであった。
https://datey.blogspot.com/2018/03/1326.html



3月27日
ウチの桜も御室の桜、花(鼻)低く過ぎて、眼下に見下ろす




2018年3月28日
 昨日は絶好の花見日和でした。
 母校キャンパスは花盛り、ウッドデッキの花の広場は、若い母親に連れられた幼児たちが走り回っています。車椅子の老人たちもいます。わたしたちのようなヨロヨロ老人もいます。頭にすっぽりとムスリムのスカーフをかぶり、華やか色彩の民俗衣装の女性たちもいます。
 上野の山のような非日常の超俗っぽい花見もキライじゃないけど、この花のキャンパスは、なんだかいつも桜が咲いてる日常の場のようで、ゆったりとする空間です。満開の花の狂気が薄い。
 咲くには咲いても、さすがに齢60数年の老化著しいヨレヨレ桜のせいか、花の密度が薄い感がします。花と花の間が透けていて空が見えすぎるのです。まあねえ、歳だもんなあ、しょうがないか。

2018/03/26

1326・2018年4月に開く茶席「北鎌倉 宝庵」は山口文象作品では「黒部川第2発電所」と並ぶ幸せ建築だ


初代オーナー関口泰氏自筆の夢窓庵の図(色紙)
●春の谷戸に茶席「宝庵」を開く

 北鎌倉の浄智寺谷戸の奥に、「宝庵」(ほうあん)と名付けた茶席が、このたび公開された。1934年に山口文象設計で建った茶室建築2棟、一般公開して茶会等の催しに貸し出すことになった。
 2018年4月1日からの正式オープンに先駆けて、3月25日プレオープンに招かれて行ってきた。
 昨年12月に40年ぶりに訪れた時は、紅葉が美しかったが、今は若葉が芽吹き時、椿の花が美しいから、「椿茶会」と名付けてのプレオープンイベント、天候も絶好の春日和、もてなしが行き届き、招いてくださった島津克代子さんに感謝。

2018年3月の宝庵
2017年12月の宝庵

 常安軒の四畳茶室で、久しぶりに抹茶の席に連なった。ところが、謡の稽古経験20数年だったから、普通にできていたはずの正座をしようとしたら無理無理、謡いを止して長いからなあ、しょうがないから椅子を使ったのであった。なさけない。
 この四畳間は、初代オーナーの関口泰氏が、書斎として使っていたようだ。広椽に出ると左向うに、梅の古木を透かせて吉野窓の夢窓庵を見る。
 あの丸窓から吉野太夫のような、美しい女性が顔を出すことを妄想したのは、その日のわたしではなくて、昔日の関口氏だった。この日は、多くの美しい女性がいたから、待っていれば関口氏に代って、その願望をかなえたかもしれない。
夢窓庵

●山口文象ファンという乙女に出会い喜ぶ

 午後には常安軒の8畳間で、煎茶のお点前を鑑賞し、味わったのであった。こちらは立礼だから脚の問題はないのがありがたい。
 煎茶の席は初めてだったが、このような茶道の流儀もあるのだと、歳のゆえに遠慮がないから、興味津々の質問を宗匠にしたのであった。同席の女性客たちに哂われた。
 それにしても、客も裏方も女性ばかり、男はわたしの連れが3人、他にチラホラ見えたが、圧倒的に和装アマゾネス軍団であった。茶会とは今やそういうものなのか。
 たしかに、歌舞伎も能楽文楽も見物やお稽古には、圧倒的に女性が多いから、日本伝統芸能文化は女性によって支えられていると言って過言ではない。

 その和装アマゾネスのひとりに、山口文象ファンがいたのには驚いた。デザイン系の学生という可愛い乙女は、久が原の山口邸を訪れる機会があって、それを契機に文象ファンになったという。
 建築家山口文象そのものが忘れられるときに、これはまた通の好みだねえ、良い趣味だねえと、一緒にいた山口文象高弟の小町和義さんと共に、老爺ふたりは嬉しくなり、大いに褒め讃えたのであった。ゴホウビにわたしが作った冊子「宝庵由来記」(まちもり叢書別冊)を差し上げた。

●実はこの茶室建築にも変転があった

 昨年暮に来たときと比べて、季節の変化は当然だが、庭師が入って谷戸がずいぶんさっぱりしていた。斜面に繁っていた蔦や潅木類が切り払われて、切り岸とよばれる岩壁も現われたら、俄然、鎌倉谷戸風情になった。
 関口氏のときの作庭らしい崖途中の横井戸、そこからの滝、そして庭に引き込む小川などの跡が現れた。でも、滝も小川も一日で枯れてしまったとの話だそうだ。

 庭師の松中さんからいろいろと聞いた話が面白い。松中さんは、2代目オーナーだった榛沢さんと少年時から親しく、この茶席の話をいろいろと聴いている。
 初代関口氏による配置は全体に東よりだったが、関口氏亡き後、今の別棟を関口夫人が建て、また敷地の南東の一部を他に分割のため、常安軒だけを西寄りの現在位置に移築したとのこと。
 1970年頃に2代目オーナーになった榛沢さんは、常安軒の南西の今の位置に夢窓庵を移築し、どちらも解体修理して、復元修復を1972年頃に完成したしたとのこと。
 つまり、二つは対の関係にあるのに、アサッテに向いた状態がしばらく続いたらしい。それを関口氏が常安軒から眺めたように夢窓庵を移して、配置関係を復元したとのことで、これには驚いた。
これは当初の2棟の配置(位置は変わっても配置は今も保たれている)
この茶席建築は当初のままにここに建っているとばかり思っていたが、この谷戸小宇宙の中で移動して、かなりの変転の運命を辿っていたのであった。
 だが、わたしが1976年に当初設計者の山口文象さんについてここに来たときに、彼はそのことにまったく気が付かなかったらしいのは、その訪問時に言わなかったし、後に雑誌に喋っている記事からもわかる。
 それは一方では、榛沢さんの渾身の復元手腕のものすごさを物語るものである。
 例えば、解体移築修理となれば、当初材料は傷んだものも多いから、あちこち似たような材を探して入れ替えるのが当たりまえ。
 山口が見つけた時の苦労話をしている四畳茶室の赤松の床柱は、榛沢さんの時には傷んでいて使えなかったので、実は同じようなものを苦労して見つけてきて替えたものだそうである。
 そうやって、山口作品は今に伝わっているのであった。
常安軒四畳茶室の赤松床柱

●山口文象作品では黒部と並ぶ幸せ建築だ

 プレオープンイベントで大勢の人たちが茶室に出入りする風景を観ていて、ここの建物のスケールが、実はかなり小さいことに気が付いた。
 人がいないときには、普通の大きさに見ていたのだが、人がいると普通の建物よりも軒が低く屋根もずいぶん低く見える。実際に建物の脇を歩くと、分っていながらも軒先やら雨どいやらに頭をしょっちゅうぶつける。
 別棟も入れて3棟とも、全体プロポーションとしては普通の大きさに見えるのだが、実際はかなり小さな建築であることを知った。大きいと思ってみていた夢窓庵の茅葺屋根も、実はプロポーションから見て大きいのであり、現物としては小さなものだ。
 わたしは常安軒四畳茶室に椽から入ったのだが、入る時はよかったが、出るときに吊り障子に頭をぶつける無作法をやってしまった。 

左:常安軒    右:夢窓庵
それにしても、これは幸せな茶室建築である。
 1932年にベルリンで関口泰氏がこの茶室づくり構想を山口文象氏に語り、1934年に完成してから84年、初代オーナー関口さんと2代オーナー榛沢さんに愛され、大切に維持され使われてきた。
 それが、このたび3代目のオーナーとなった浄智寺の朝比奈恵温さんもこれを愛し、日本の伝統文化の活動の場として、鎌倉古民家バンクの島津克代子さんの運営で一般に公開して活用される。
 山口文象の戦前木造作品で現在も当初の姿の建築は林芙美子邸があるが、今はその小説家の記念館となっている。もちろんそれは意義のあることだが、本来の使い方ではない。
 それに比べてこちらは、こちらは茶室本来の使い方が続くのだから、山口文象建築作品の中では、いちばんの幸せ建築と言えるだろう。木造ではないが当初の姿で本来用途が今も続く建築には、黒部川第2発電所もある。

参照関連ページ
宝庵由来記 https://bunzo-ria.blogspot.com/p/houan1.html
山口文象アーカイブス https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html

2018/03/20

1325【癌かもしれない日々・最終回】ようやく治癒したガンモドキ「日光角化症」

「日光角化症」の塗り薬治療、去年から8カ月も続いたけど、19日に最後の診察で、「治癒した」との診断、ヤレヤレ、やっと終わった。
 別に辛い治療じゃないけど、一定ルールで長期間にわたって薬を塗るって、面倒だし気になるし憂鬱だった。
この歳だから、癌になってコロッと逝くのって、歓迎するようなもんだけど、皮膚ガンってのは、汚いし、痛いし、なかなか死なないらしい、しょうがないから治療した。

 でもなあ、若いころ陽を浴び過ぎたのがいけない、それが癌の元になるから治せなんて、今ごろ言われてもなあ、昔は太陽にあたれって言われたもんだぞ。
 わたしのこのガンモドキは、こちらがはじめに医者に診てもらったのは別のデキモノなのに、まったく偶然に発見されたのだから、このブログを読んでくださる貴方も、若いころ陽に当って遊んだでしょ、アブナイかもよ。

●2018年8月19日 市大センター病院皮膚科 長嶋真由美医師

医師「その後いかがですか、痒いですか」
私「ハイ、診てください、いや、痒くありません」
 医師は何やら片眼鏡のようなものを出して、わたしの顔面にくっつけて、患部だったところを観ている。
医師「すこしざらついているところもありますが、総じて日光角化症は治癒しています。以前に気にしているとのお話があった頬のシミやホクロについては、日光角化症のように悪くなることは起きません。」
私「でもそれも治るものなら治したいけど、どうするのですか」
医師「ホクロはメスで切りとり手術、シミは液体窒素凍結除去します」
私「鼻左のホクロは生まれたときからあるけど、右ほお、左ほお、左まゆのホクロは、その後に生じて膨れたのですから、取りたい気があります。それらもこちらでやっていただけるのですか」
医師「ホクロの手術はこちらですが、シミの凍結除去は街の皮膚科医院です。長者町クリニックに報告書を書きましょうか、そのほうがこれまでの治療内容がよく分って医師もやりやすいでしょう。ただし、有料です」
私「すごく高いと困るけど、いくらですか」
医師「3割自己負担で750円です」
私「わたしは1割負担ですから、書いてください」
 てなことで、250円負担で書いてもらったので、本日の支払いは診察代70円と合わせて計320円。
 さて、一応は治療が成功して終わった。とりあえず、めでたしめでたし。
 でも、シミ取りやホクロとりをやるかなあ、どうしようかなあ、もうこの歳だから明日死ぬかもしれないのに、無駄だよなあ、、、250円惜しいけど、、、。


2018/03/16

1324【FACEBAKA与太記事2018年3月前半】森友文書捏造事件ばかりだなあ、オリパラマスコット、、

2018年3月1日【オリパラマスコット】
オリパラって、ドーピングや南北合同チームやらで見るように、キツネとタヌキの国際的化かし合い大会なんだから、とうぜん、そのマスコットは「ウ」案しかないと思ってたけど、投票結果はダントツ最下位かよ~、やっぱり、小学生じゃあ無理だったか、まあ、小学生からキツネタヌキでもあるまいから、これでよろしいか。


3月2日【参議院予算委員会2018年3月1日審議】
エッ、国会って、こんな高尚なこと審議してるのかあ~、TV見ないし政治記事読まないので、知らなかったなあ、今朝たまたま目がついて、ほ~、このヨイショの二之湯さんて哲学政治家なんだね、どこの人かしら、それに応えて、「美しい国テツガク」を語る首相のエライことよ。


3月2日【森友文書捏造事件】
 こわっ、怖い、、上の方で逃げ回ってるうちに、
中間管理職ノンキャリあたりで死人が出ませんように、、


3月7日【オリパラマスコット】
この花柄ドテラオッサンが、オリパラマスコット当選デザイーナーだってさ、ほお、応募マスコットよりも、オッサンキャラのほうがいいじゃん、ご自身がマスコット役やったら、大当たりかもよ。

3月7日【花見の季節到来】
咲いたッ、満開!、大通公園オカメザクラ、いつも早いなあ。

3月9日【森友文書捏造事件】
次は人間が消える番だな、そいつに全部押し付けるんだよね、怖い、コワイ


3月9日【日本で政策が変わるには】
人柱が立つ、外圧がある、それではじめて変るって決まる。今回の財務省文書問題は、ついに人柱が立ったらしいが、さて何か変わるかな? 朝鮮半島問題は、アメリカ外圧で何か起きるかな?

3月10日【3月10日朝刊】
ドヒャ~ッ、昨日の朝、「今度は人間が消える番だな」って書いたら、本当に消えたよ、でも、その長官の上司の大臣はまだ消えないんだね。
 痛ましいのは、この世から消えた人も、ひとりいること3月2日に「死人が出ませんように」と祈ったのに、出ちゃったなんて、怖いなあ、この世は怖い、早くおさらばしようっ~と……

3月10日【東京大空襲記念日】
あすも大被災の記念日だけど、今日も実はそうなのだって、忘れないように。

3月11日 【森友文書捏造事件】
財務省の公文書のあちこちが消える例の事件が、こんどは財務省の人間が消える事件となっている、その震源地の最新風景です。
『例の小学校周辺を本日徘徊してきました。空から飛行機が突入?』と、大阪の知人から森友通信がきました。
 ふ~ん、こんな立派な建物かあ、こんどの事件の記念館として保存してくださいな、ねえ、財務省さん、「安らかにお眠りください、このような事件を2度と起こしません」と、誓いの言葉の碑もたててね。

3月12日【森友文書捏造事件】


3月13日【森友文書捏造事件】
われら忠実なる納税者たちよ!


3月15日【森友文書捏造事件】
佐川さん、ありがとう、くれぐれも、お体を大切にね!


2018/03/14

1323丹下健三勘違い設計の横須賀芸術劇場で観た宮本亜門演出「魔笛」は能と狂言の連続出し物と覚る

 ひさしぶりに横須賀訪問、京急汐入駅前にある横須賀芸術劇場で、オペラ「魔笛」を観てきた。宮本亜門演出である。
 去年も「魔笛」を県民ホールで観たが、それは勅使河原宏演出ミュージカル魔笛であった。宮本は演劇的に、勅使河原は舞踊的にと、それぞれ特徴があって面白い。


 今回の宮本演出の特徴は、舞台の上に立方体を斜めにおいて、客席から見える方の2面と天井を取り去った形をしていることだ。
 要するに、能舞台の目付柱の方から、つまり中正面を正面に持ってきたのである。能では目付柱が邪魔なので、中正面席が安いのだが、ここではそこが一等席である。
わたしの席はそれを右寄りから見たから、能で言えば正面席にあたっていて、よい席であった。ただし、5階(建築としては8階)から見下ろすので、正面上空席と言おうか。
 困るのは3階から上には、自力で登るしかないことだ。客席内にも階段があるから、登ってきたのにまた下りて、出るときは登ってまた下りると、年寄りには大変だ。
 いや、足腰の運動のためにオペラ劇場に行くと思えばよろしい。

 そんな天井桟敷から見下ろす舞台は、当然小さすぎるのだが、魔笛は細かい演技があるのではないし、モーツアルトのあの名曲群を聴くには、音響的にはまことに結構なホールので、一向にかまわない。
 そしてまた、その能舞台の2壁面と床面に、プロジェクション・マッピング(PM)で大柄な映像を投射するのだから、十分に見ることができた。

 役者が2面の壁に設けたいくつかの穴やドアから舞台に出入りするのは、能舞台の切戸口や橋掛かりから出入りするのと同じようなものである。
 これだったら、ほぼそのままに能楽堂で魔笛公演をできるだろう。地謡席のバックに幕を張って、そこと松羽目にPMをやればよい。

 演劇の宮本らしいというか、序曲からいきなり舞台は始まるのだが、それは現代の平凡な勤め人の家庭の居間風景である。三代家族6人がごちゃごちゃと諍いらしい様子が、突然に暗転してオペラ魔笛が始まる。
 その現代のままにオペラに突っ込むのかと心配していたら、ちゃんと(?)わけのわからない支離滅裂オペラになって、おなじみ大蛇(映像)が登場して、安心した。
 一番ヘンだなあと楽しんだのは、3人の侍女の衣装鬘であった、ヘンナノ~。

 最後にまたその現代家庭になってフィナーレになのだが、この始めと終わりの風景にどんな意味があるのだろうか。平凡な日常世界から、あの支離滅裂お伽話オペラ世界に、観客を引きずり込むための策なのだろうか。
 でもなあ、この劇場にやってくるときから非日常世界を期待しているし、このホール空間デザインはかなりレベルの高い非日常空間だから、開幕前に心はかなり非日常化しているのである。
 だから、開園と同時にこれを見せられると、もういいよお~、と、気分がしらけるのだった。フィナーレだって、せっかくの非日常感を劇場を去るまで持っていたいのに、直ぐに覚めさせられてしまった。あ、そうか、それが宮本の狙いか。

 オペラ魔笛は、モーツアルトの曲は素晴らしいが、シカネーダーの台本は支離滅裂、これをひとつのストーリーだと思わずに、モーツアルトの曲が変るごとに楽しむしかない。
 そうだ、これって能と狂言を交互に連続して見ていると思えばよいのだ。パミーノやザラストロのときは能であり、パパゲーノやモノスタトスのときは狂言である。

 支離滅裂だから、演出もさまざまにできるという、他のオペラにはない利点があるのだろう。YouTubeに多くの魔笛が登場するが、どれもこれも舞台デザインにそれぞれに工夫を凝らしているのが面白い。出だしの大蛇からして、珍妙ぞろいである。
 それにしても、なんと美しい曲ばかりのオペラであることよ。


 外に出ると、この建築が丹下健三設計であることを思い出した。たしかにホールのインテリアデザインは素晴らしいし、外観も石膏模型の様に白く冷たく端正である。
 だが、この街に対して全く閉鎖的であることは、どうだろう。
 わたしはこの街とこの建築の基本構想と基本計画を策定した。それまで何年もかかわってきた街だから、周辺の条件を見極めて、将来の街づくりに対応する配置を提案しておいたのだった。
 だが、丹下にスッカリ勘違いされて、独善的な配置に変更されてできあがった。

 完成時に「日経アーキテクチャ」に紹介されたのをみて、それって間違ってるよと、異議申し立て投稿をしたら載せてくれ、丹下側の反論も載って、面白いことがあった。
 今、この建築と周りの街の様子を見ると、わたしが異議を唱えて危惧したことが起きている。それはまた別に書こう。