2011/11/10

527空に浮く生活・地に這う暮し

 晩秋の東京散歩である。東京駅から八重洲通りを歩き出して、中央大橋を渡った。
 この橋を渡ると20世紀末のバブル景気の産物「大川端リバーシティ」である。そのすぐ隣に細い運河を隔てて、佃煮の名前の発祥地・佃島である。
 前者が日本のバブル景気の超高層住宅群、後者が江戸から続く漁師町の密集木造住宅群である。
 どちらの土地も、隅田川の河口の島として江戸時代にあった。
 そのあまりに近くにありながら、あまりに異なる風景が対照的で面白い。
 それだけに、東京の都市問題を考えさせられる。

「大川端リバーシティ21」のある土地は、江戸時代の人足寄場の「石川島」であり、19世紀半ばから石川島播磨重工業(現・IHI)の造船所となり、戦艦をたくさん製造した。
 造船所が景気が悪くなって土地を売り、1985年ごろから大川端リバーシティの名で再開発をはじめて、2000年までに8棟の超高層集合住宅ビルが建った。約3800戸が住んでいるらしい。

 大川端を広辞苑で見ると、「隅田川の吾妻橋(大川橋)より下流の右岸一帯、特に両国橋から新大橋辺までの称」とある。とすれば、大川端リバーシティは位置的に新大橋の下流の左岸にあるから、これは詐称である。時代が変われば、湘南みたいに拡大するのであろう。

 公開空地に入ってみれば、ここは日本かしらと思うような風景である。
 日本かしらと思うのもおかしいが、要するに街として造っているんだぞって、そういうデザイナーというか開発者の意気込みが、ここもかしこもみえみえで、新聞折込のマンション広告パンフの写真みたいな風景である。
 そう、きれいなんだが、なんだか押し付けがましさ感がうっとうしいのである。公開空地の庭のあちこちに、入るとか登るなとか注意書きがあるのも気に食わない。

 見上げる空に超高層住宅が夕日に輝いている。はて、天空のあそこに人の暮らしがあるんだろうか、どんな人が暮らすのかなあと思う。
 あんな高いところに住み着くと、地上に降りるのに一仕事と思うような気がする。
 7階に住んでいる私でさえもそう思うのだから、まして30階もの超高層建築の上のほうでは、いくら超スピードエレベータがあっても、心理的な隔絶感があるにちがいない。

 リバーシティと隣の佃島との間には細い運河があって、昔からの形で隔てられている。
 島の西の隅田川から運河は入り込んで、住吉神社を角にして南に曲がると舟溜まりである。島の南にあった運河は佃大橋がかかって埋め立てになったから、佃島は今は3方が水である。

 佃島からリバーシティを眺めると、どこでも写真になる。その対比が「いかにも」の風景になるのである。わたしは15年ぶりくらいにきたのだが、その風景はほとんど変化がなかったのは、佃島は再開発されていないのである。

 佃島は昔の漁師町の町割りを今も継続して使っているから、大川端の大ブロック・超高層建築・広場のある西欧型近代都市計画とはまったく逆の、零細敷地・木造2階建て・路地という構成である。
 しかし、公共施設の道路や公園あるいは運河については、それなりにこざっぱりときれいに修景をしているから、清潔である。
 そして路地には生活観があふれている。リバーシティは開放的な都会の生活があるとすれば、ここには息ぐるしいほどの緊密な暮らしがある。
 小公園で大勢の子どもが声高に遊んでいるのが、下町らしい。リバーシティでは池の中(入ってはいけないと注意書き)で魚取りしていた子ども二人を見ただけだった。

 リバーシティではちょっと歩くと、まあこんなもんだろうと、見て歩く興味を失ったが、佃島ではあちこちの路地を抜け、神社境内に入り、運河を渡り、舟溜まりを覗き込み、川向こうの超高層建築群を見上げ、まことに興味がつきないのであった。
 ここには地に付いた暮らしがある。
 地についた仕事としての佃煮は、いまはどうなのか知らないが、「竹安」なる店で昆布・貝ひも・浅利の3種類各100グラム、金1820円を買い求めた。

 佃島からはずれて、夕暮れの月島商店街へと入れば、もんじゃ焼き観光街の様相はますます著しい。下町の近隣商店街の変貌は驚くばかりである。
 表通りは集合住宅ビルもいくつも建っていて佃島とはちがうが、裏に入ると佃島と同じような姿の路地の町である。

 商店街を通して勝どき方面を見れば、大きな超高層建築群が見える。
 20年ほど前に、東京都から依頼で、勝どき交差点角の再開発構想計画をしたときにはじめてきて、それからもういちど10年ほど前にきたことがあるが、こんなに超高層建築はなかった。
 ずいぶん変わったものだ。(2011.11.01)

2011/11/09

526【ふるさと高梁盆地】昔よりも短くなった方谷橋

 高梁盆地の高梁川には、現在は2本の橋が架かって、東西の町を結んでいる。
 下流側の「高梁大橋」は1972年に架けた、現代のありふれた鋼製の桁橋である。
上流側の「方谷橋」は、上に鉄骨アーチをもっていて特徴ある形態だ。これは1934年の水害の後、1937年に架けている。
 上のアーチから、下の路盤面を支える直線の鉄骨主桁を吊っている形式である。
 でもよく見ると、路盤側の主桁もかなり立派なものだから、アーチと直線の桁とでつくる半月形の構造体で、これをランガー形式というらしい。



 土木学会のサイトで図面を見ると、半月の弦の長さは56メートルである。
 アーチの両端部を、それぞれ橋脚が支えている。それに加えて路盤を支える主桁が、アーチの両端から4.4メートルはねだし形式(カンチレバー)でもちだして、それは皿という字の上を丸く描いた形である。土木の専門語で「下路カンチレバー状ランガー」形式というそうだ。
 その皿の下の一文字の先に別の桁が架かっていて、両岸と結んでいる。橋の総長さは99.9メートルだが、竣工時の図面では110.7メートルとなっている。


 
 方谷橋が竣工したときの1937年に写した記念写真がある。今の方谷橋と比べて見る。
 大きな違いはふたつある。ひとつはアーチの先の東側の桁が西側のそれと比べて、10メートルほど短くなっていることだ。
 橋の主桁についている工事銘盤に1972年3月とあるから、このときに東側の桁を短縮左右のバランスが崩れた。

 ということは、その年に川の東岸にある国道を10mほど拡幅したことになる。その拡幅分の川幅が狭くなるから、それまでどおりに流水量を確保するためには堤防を高くする必要があったのだろう。
 いまでは堤防の道からの立ち上がりが2メートルくらいは高くなって、 街から川は見えなくなってしまっている。昔はそれが1メートルくらいだった。
 川岸の国道は広く、堤防は高く、川と街は切り離されたようだ。

 もうひとつの違いは、かつてあったおしゃれな高欄親柱が、今はなくなっていることである。橋には欄干などで構成する高欄がどこでもある。その一番端っこには大きな柱を立てるが、これ親柱という。親柱は橋の玄関の門のような役割をする。
  関東大震災の後で多くの鉄の橋がかけられ、そこには都市の風景としてのデザインが加えられるようになってきた。
 方谷橋ができるころは、日本の橋のデザインもセンスがよくなってきたが、その片鱗を方谷橋でも見ることができる。

 ここでは当時の流行のひとつである表現派風の曲線が見えていて、アーチの曲線と共におしゃれなモダン風景である。
 それは両岸側共にあったのだが、今はどちらにもない。いつ頃なくなったのであろうか。無愛想なコンクリの塊に橋名板があるだけだ。
 高いコンクリ塀となった堤防を土塀コピーするのも、まあ、よろしいが、国道拡幅でなくした親柱を復元してはいかがか。

●全文は→ふるさとの川と橋
●関連→高梁の風景論集

2011/11/08

525新聞の話題ふたつ

 プロ野球に何の興味もないが、モガベーとかモベガーとかDeDTとか言う会社が、横浜のプロ野球を買収すると、新聞の社会面にあるのを読んだ。
 どうぞご勝手に。でもモゲバー・ベイズダーズなんて、語感が悪いよなあ。
 ネットでモガベーを検索すると、結構たくさん出てくる。
     ◆
 オリンポスなる会社が、なんだか変なことしたって、投資屋に申し訳ないとか言ってる。
 ガイジン社長が社内告発したら、逆にクビになっちゃって、イギリスに逃げて遠吠えしたら、マスメディアが喜んで食らいついたらしい。
 まあ、こちとらは投資なんて関係ないから、どうぞご勝手に。
 でも、外人が騒がなきゃそのまま臭いものにふたして、会社も社員も無事だったのになあ、余計なことしてくれたよなあ、って、そう思います。
 日本では納豆やなれ寿司のように、臭いものにふたをしておくとそのうちに発酵して美味になるってことを、ガイジンは知らないからなあ。
 で、これもオリンポスだから、ギリシャ発祥の騒ぎのひとつなんだろうなあ。

2011/11/07

524老婆の橋、少年の橋梁

 東京駅前から八重洲通りを八丁堀まで歩いて隅田川に出ようとしたら、その前の支流の亀島川に、なにやら鉄骨トラスの橋が見える。いまどき珍しい。
 近寄ってみると橋の入り口に門型が組んであって、「南高橋」なる銘盤が掲げてある。これはまあ、明治の頃にはやった形である。

 橋詰広場に案内板があり、隅田川に架かっていた両国橋(1904年竣工)の一部を、1931年にもってきて再利用して架けたとある。つまり震災復興の橋である
 震災復興で両国橋は新品に架け替えたが、ここには新規架橋なのにお下がりを頂戴して架けたというのである。おかげで、今も珍しい形を見ることができる。

 両国橋は最初は1660年に木橋が架かり、その後なんども流れたり焼けたりして架け替えがあった。1897年の川開き花火の見物客が大勢乗りすぎて崩落して死傷者を出したので1904年に鉄橋に架け替えた。

 橋に入る門型のデザインが、なんだか古写真で見た懐かしいというか珍しく眺めたのであった。
 亀島川よりも隅田川の方が広いから、3つあったトラスのうちの中央の一つを持ってきたとあるから、それに両端の門型装飾ををくっつけたけたのであろう。トラスにつける門型は、昔の吾妻橋の絵にもある。

 現代の鉄の橋はたいていは道の下に単純な梁が架かっていて、単なる道路の一部に過ぎないが、こういうトラス橋だと、さあ、向こう岸の別世界に潜り抜けて渡るぞって、そんな特別の気分になる。
 橋とは元来そういう役割を持っていたのだ。橋は民俗学的に面白いのだが、その話をするときりがない
 それにしても100歳を超える橋とは、品のよい銀髪の老婆に出会ったようだ。

 横浜にもこのような古いトラス橋がある。中村川にかかる「浦舟水道橋」で、水道管と歩行者を渡らせている。
 この橋も南高橋のように、他にあったものを持ってきたと銘盤に書いてある。それがなんとここに来る前にも一度引越しをしていて、最初の創建時は1893年とあるから、両国橋よりも古い。

 この橋の上には高速道路の高架橋があり、橋の下の橋となっていて、ちょっと気の毒な風景である。昔から橋の下は家なし乞食がいて、今はホームレスがいるところ、この橋もさまよってここに居を見つけたか。
 それでも真っ赤になって気張っているのが、老婆というよりもこちらは少女のようで、可愛らしい。


 横浜には桜木町に「汽車道」という歩行者専用の道が海のなかを通っているが、ここにトラス橋がある。1907年に臨港鉄道の橋として架かったものだそうだ。
 今はレクリエーションの道として、人だけが通るのだが、歩行面にしいた板の間にレールを見えるように残している。

 トラス橋は古いものばかりではなくて、東京品川区の天王洲には1996年に架かった、新しいトラス橋もある。これも人道橋である。
 これは天王洲再開発における新規プロジェクトのひとつであり、運河沿いの散歩道で島をつなげるのに、ちょっと面白くしようと、わざわざレトロデザインをしたのだと、ここの開発コンサルタントから聞いた。
 遊び心のレトロデザインはよいとしても、その名が「天王洲ふれあい橋」とは、味気ない。
 
 話を戻して、南高橋を渡って川沿いに歩き、隅田川にかかる「中央大橋」を大川端リバーシティへと渡る。
 こちらも1993年にできた新しい橋のごとく、名前は味気ない。
 超モダンな斜張橋の中央大橋は、主塔がたくさんのロープを引っ張って、そばの超高層ビルに負けないようにピンと突っ立っている。
 おしゃれを気取る不良少年のようで、先ほど渡った銀髪老婆の南高橋とは対照的である。(2011.11.01)

2011/11/06

523いびきをかくコンピューター

 この10日ばかり前から、机の上のPCがときどきイビキをかく。人間の寝息とちょうど同じ間隔で、グーッ、グーッと気持ちよさそうである。
 はじめは隣の部屋の連れ合いのイビキか、壁を隔てて聞こえるようでは大変、脳梗塞でダウンしたかと見れば、なんだ、居間でテレビを見ている。

 数年前にこのPCが妙にやかましくなったことがある。イビキではなくて鼻息荒いのであったが、しばらくしたらPCそのものが壊れた。
 中にホコリが溜まってファンが回らなくなったのが原因だった。ハードディスクを取り替えた。

 それから5年、今回はいびき程度だがよく起こるので、また壊れる前兆かと怪しみ、今日はふたを開けて、ファンの掃除にかかった。
 なるほど、ふたつのファンにはホコリがいっぱいついている。こんなにホコリをどこから吸い込んだのだろうかと思えど、わが書斎からであるに違いない。
 綿棒でぬぐい、掃除機でていねいに吸い取る。
 そして起動すれば、今のところイビキかかずに起きて働いている様子である。

 一度ハードディスクを換えたとはいえ、もう8年とはPCとしては十分に働いたXPであるが、持ち主と同様に、老いてももうちょっとがんばってほしい。
 XPのあとにVistaそして7とちがうやつが出てきているが、さてこいつが壊れたら次はどうするかなあ。

 XPの前にMeてのを買ったら、すぐにXPが出てきてMeはママコ扱いになってしまったことがある。Vistaもどうもそんな気配である。
 次はいっそのことMACにするかなあ、最初に買ったのがそうだったから、老いては昔に戻るのである。
 ただし問題は、慣れるまでに面倒だよなあ、でも、ボケ防止になるかもなあ。

2011/11/05

522紙ヒコーキ超高層

 丸の内の東京駅の斜め前では、中央郵便局舎の建て替え工事が進み、下半身の旧ファ
ザード一部保全工事部分はまだ梱包の中だが、上空にガラスのタワーが全部見えてきた。
おお、やっぱり、どうみても紙ヒコーキだよな、これは。あのガラス壁の折れ曲がりは、懐かしい折り紙だよ。

 ほぼできあがったガラスのタワーを横から見たら、ガラス面は一枚の折紙のように、ビル表面に浮いてくっつくディテールである。
 まさに巨大折り紙ヒコーキそのものである。

 去年、この再開発プロジェクトの完成予想図が公表されたのを見て、はて、これはデザインソースは紙ヒコーキだよなあ、そう思ったのだが、現実にそうなっているのだ。
 デザインを担当したという建築家ヘルムート・ヤーンはアメリカ人だが、これもよくあるガイジンが抱く日本イメージのひとつなんだろうなあ。

 そして、アッと気がついたのは、これはまさに9.11のパロディだぞ、ってことだった。そう気がついてすぐにこんなことをわたしのサイトに書いた。
「その絵をしげしげと見ていて、はっと気がついたのだが、この上部構造の超高層建築のデザインは、折り紙飛行機なのである。
 ガラス板で折ったヒコーキは今、下部構造たる中央郵便局舎に突っ込んできて、まっさかさまにブスリと突き刺さったのだ。
 次の瞬間、、、なにもおこりはしないが、ある幻惑にかられるのだ。超高層部は立ち上がっているのではなく、天から舞い降り突入してきたのだ。
 21世紀幕開けの年にニューヨークで起こったあの9.11事件、これはそのパロディにちがいない。
 かの地の業務中枢のマンハッタンとこの地の丸の内、最高に高いWTCとJPタワー、そしてガラスに託したヒコーキのメタファー、これはパロディであるかもしれないが、むしろ真正面からの文明批評と言わねばなるまい。」
全文は→東京中央郵便局舎の改築と建築保存の諸問題

 これは建築デザインによる文明批評に違いない。
 USAではそんなパロディは袋叩きだろうが、遠い日本ならパロディでもよいだろう、はたしてパロディと気がつくかどうかが問題だが、とまあ、こんなふうにへルムート・ヤーンが考えたかどうか、もちろん知らない。
 でもモダンアートは見るほうの心が決めることだから、ありうるのだ。

 ところで、下半身のほうは梱包が解けたら、どう見えてくるだろうか楽しみである。
 そのモダニズムデザインは、俗受けしないから東京駅ほどには保存運動は盛り上がらなかった。
 当時の鳩山総務大臣(元総理大臣の弟)が口出しして、マスメディアが面白がった事件があった。ちょっとだけ盛り上がったが、結局は駅前広場に面する2スパン分の保全が決まった。
 免震構造にするとかで、面倒な工事をしているらしい。

 東京駅丸の内駅前広場を囲む建築は、三菱ビル・丸ビル・新丸ビル・オアゾは21世紀の新築だが、日本工業倶楽部会館は1920年と2003年の重層で完成、そして東京駅が1904年と2012年、中央郵便局が1931年と2012年のそれぞれ重層となってできあがるのである。
 建築における歴史の重層的表現を、これからどのように評価するか、楽しみである。

 と同時に、東京駅赤レンガ駅舎といい、三菱1号館美術館といい、大金をかけて昔の建築をコピー再現する見世物小屋をつくるという、奇妙な退廃的爛熟気味の時代の面白さも楽しみである。(2011.11.01)

東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)


2011/11/04

521見世物建築ちょい顔見世

 東京駅と丸の内は、何十年ものわたしの定点観測地点である。
 今の赤レンガの東京駅舎は、クリストのアートのごとくに布で梱包されていて、復原という名目をつけて、歴史的風景の破壊工事中である。
来年半ばには完成らしいが、先日(2011年11月1日)一部の梱包がとりはらわれていて、コピー再現した建物の部分がちょこちょこと見える。

 中央郵便局寄りの角の尖塔のあたりが下から上まで見える。尖塔の頭の辺りはあんな形であったのか。
 図面でのイメージと違うと思ったのは、なんだか丸髷が椀をかぶったような鈍重さである。

 修復された壁や窓まわりのレンガや石の装飾をよく見ると、汚れたところときれいなところが混じっている。既存材と新規補填材との区別がつくようにしたらしい。

文化財の修理の考え方も、昔はできるだけ新旧がわからないように、わざわざ新材を古びさせる工夫をしたものだが、現代はその逆となったらしい。それは歴史の重層を表現して、まことによろしいことである。

 梱包の上の方から、丸いドームの頭が出ている。なんだか思っていたよりも全体に小さい。壁部分が赤色でなくて茶色であるのは、あそこは赤レンガではなかったのだろうか。
 丸い頭に細い避雷針のような尖塔が立つ形は、19世紀プロイセンの軍隊がかぶった鶴嘴鉄兜(ピッケルハウベ)を連想させる。

 工事囲塀に工事の内容と出来上がりの絵などが展示してある。そこに今回の修復前(1947年)と修復後(2012年)の比較の立面図が書いてある。
 立ち止まってしげしげと見ていて、ドームが小さく見えた理由がわかった。実際に小さくなったのであった。半分以下の大きさになっている。
 そうか戦災で焼ける前は、そうだったのか。

 そして思うのは、あの物資の極端にない敗戦直後のときに、簡単な屋根でも雨をしのぐことができたろうに、よくまあ鉄道省の建築家たちはがんばってこんな大きなドーム屋根を作ったものだ、ということである。
 ついでに言えば、ドームの天井内装も、ローマのパンテオンのモダナイズであるのも、なかなかすごいことだ。あの壮大な天井も消えるのであろうか、もったいない。

 大きなドームも壮麗な天井も、あれは戦後の仮設に過ぎないから、昔に戻すのだというのが復原の論理らしいがが、どうしてどうして、あれが仮設であるはずがない。
 だからこそ66年も保ち続けて、創建時の姿よりも長生きをしたのだ。

 そしてまたふたつの図を見比べつつ思ったのは、どちらかといえば、戦後修復デザインの方が、辰野金吾のオリジナルよりもメリハリがきいていて、プロポーションもよいということである。
 辰野デザインはただただ長く横たわり、尖塔やドームでメリハリつけようとするのだが、全体に鈍重である。辰野の設計の建物は、どれも西欧様式ディテールのアプライは得意だが、総じて建築デザインとしては鈍重である。

 国鉄の建築家(課長・伊藤滋)が戦災復興のために手がけた修復デザインは、台形ドームを載せるという近代建築の手法を様式建築にアプライして、非凡な腕を見せている。
 みればみるほど、日本の不幸な戦争とそこからの力強い復興の姿を、これほど如実に表現していた証人たる建築が、復原という美名に聞こえる宣伝の仕業で消え去ろうとしているのが、残念でならない。

東京駅丸の内側から八重洲側に移り、東京駅を背にして八重洲通りをまっすぐに歩く。

 銀座通りとの交差点でふりかえって見ると、道の真正面が真っ黒な新丸ビルである。丸の内の行幸道路とは一直線でなくて軸が曲がるので、こうなるのである。

 新丸ビルがこんな風に見えるのなら、都市景観としてはこんな中途半端な形態ではなくて、もっと正面性を持たせるデザインであった方がよかった。(2011.11.01)

*参照→東京駅復原反対論
http://homepage2.nifty.com/datey/tokyo-st/index.htm

2011/11/03

520鎌倉世界遺産登録推進第ワークショップ

毎年開いている鎌倉ワークショップへのお誘いです。
      
●鎌倉世界遺産登録推進第5回ワークショップ

【テーマ】『住んでよく、訪れてよい鎌倉のまちづくり』
「武家の古都・鎌倉」は日本の世界文化遺産としての登録を
ユネスコへ推薦されることになりました。
登録後を見すえた「歴史を活かすまちづくり」について、
みんなで語りあいましょう。
・主催 鎌倉世界遺産登録推進協議会
   http://www.shonan-it.org/KWH-kyogikai/
・共催 鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会

【ワークショップの進め方】
①下記のテーマごとのグループに分かれて自由に意見交換
Aグループ
  
交通問題:交通混雑への対策、望ましい回遊空間の整備
Bグループ
  
情報センター:世界遺産情報の発信とその内容、保護、管理
Cグループ
  
まちの姿:鎌倉の多様な空間要望に応える都市空間の整備
②意見や提案を付箋に記入、多様な考え方を一覧しながらグループごとにまとめる。
 意見や提案は必ずしも一つにまとまる必要はありません。
③中間で進行状況を発表、ゲストや運営側の感想や意見を聞く。
 さらに、グループとしての意見をまとめて発表。
*提案の成果は、事務局でできるだけ早くまとめて公表します。

【日時】平成23年11月27日(日)13:30~16:30<13:15開場>

【場所】鎌倉市役所・第三分庁舎講堂(鎌倉駅西口徒歩5分)

【参加料】無料

【申込締切】平成23年11月18日(金)必着
   先着50名様…結果は全員に通知いたします

【申込み先】
 〒248-8686(住所は省略できます)
 鎌倉市役所 鎌倉世界遺産登録推進協議会「11/27ワークショップ係」
 電話:0467(61)3849
 FAX:0467(23)1085 
 E-mail:sekaiisan@city.kamakura.kanagawa.jp

【申込方法】
 下記必要事項を記入、FAX・Eメール・はがき、
 いずれかでお申込みください。

=====参加申し込み=======
11月27日第5回ワークショップ参加申込書
・氏名(ふりがな)
・住所 〒
・性別   男性 女性(○をつけてください)
・電話番号
・FAX番号
・Eメールアドレス
・参加希望するグループ(○をつけてください)
  第一希望  A交通問題 B情報センタ Cまちの姿
  第二希望  A交通問題 B情報センタ Cまちの姿
  第三希望  A交通問題 B情報センタ Cまちの姿
・ご意見や話題にしたいテーマなど自由にお書きください。




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このブログの関連ページ→210鎌倉の世界遺産

2011/11/02

519価格ゼロ円の原発被災土地

 原発被災土地の地価がどうなるのか気にしていたら、こんな新聞記事が出た。
「国税庁は1日、相続税や贈与税の算定基準となる2011年分(1月1日時点)の路線価に、東日本大震災直後の地価下落を反映させる調整率(倍率)を発表した。(中略)第一原発周辺の警戒区域と計画的避難区域、緊急時避難準備区域(9月30日解除)については、放射性物質などの影響を算定できないとして、調整率の設定を見送り、税務申告の際、路線価の欄に「0円」と記せるようにした。国税庁は「土地の価値を0円と判断したわけではない」としている」(読売新聞2011年11月1日夕刊)

 路線価は税制上の値で、国税庁が「土地の価値を0円と判断したわけではない」と言っても、現実の土地取引価格に影響するのは常識である。
 地震津波被災では対応する調整率を示したが、原発被災地では示すことが不可能としてはいるが、実態は価格ゼロを不動産業界では意味するだろう。
 地震津波は天災だから、天災の影響を受けやすい土地の価格が低くなるのは、取引上ではあたりまえ。
 だが、原発事故被害は天災ではなくて人災である。

 これまでも人災による被害はあってもそのまま土地価格下落に影響することは、ないことはないだろうが、ほとんど一過性だっただろうと思う。
 原発の場合は、人災ながらもその影響の深刻さ、時間の長さ、範囲の広さがはなはだしいから、土地価格へも大きな影響が長期に響く。
 その公的な認知が、原発被災地の路線価対応でようやく始まったといえる。
 さて、その土地価格ゼロ円になった財産下落について、その原因者の東電はどう補償するのだろうか。
 いま行いつつある被害補償に、この項目もあるるのだろうか。多分、ないだろう。核毒の濃度、除染の具合、元に戻る期間など、算定条件があまりにも難しい。
 だからといってこの財産侵害を等閑視しておいてよいことでもない。

 そのいっぽうで、こんなことも考えるのだ。
 これは8月22日にこのブログに書いた記事21世紀の「谷中村」は「核毒の森http://datey.blogspot.com/2011/08/47921.htmlであるが一部再掲する。
『「菅政権は、東京電力福島第一原発の周辺で放射線量が高い地域の住民に対し、居住を長期間禁止するとともに、その地域の土地を借り上げる方向で検討に入った。(朝日新聞8月21日朝刊)」
 わたしでさえ予想していたのだから、その筋の業界のかたがたは、現地地権者との折衝に、すでに動いていらっしゃるかもしれない。
 こうなったら、政府は土地建物立木等権利移動凍結・価格凍結の施策を今すぐにでも打つべきである。
 もたもた遅れている間に、妙なことをする人々が介入してきて権利移動・価格高騰が起きると、結局は住民にも国民にも迷惑がかかることになる』

 つまり、住民がもう戻れないと見られる土地、つまり路線価ゼロ円の土地を、いまのうちに所有者から買い叩いて買占め、いずれ政府なり自治体なりに高額に貸したり売りつけようって、そういうアウトローなことが起きるのではあるまいかって、ことである。
 わたしの杞憂であれば幸いである。

(追記111103)
 相続税が減額されるってことは、国の税収が減るってことである。
 その原発によっての減額に関しては、その原因者の東電が、原発事故がなかったなら徴収できるとみなした差額の税金を、国に補填をするべきである。
 でないと関係のない沖縄の人までも被災することになる。
 同様に、固定資産税も減額になるだろうし、その他、土地取引にかかる諸税、事業所がなくなるに伴う諸税など、もろもろの減少についても同様である。

2011/11/01

518天日干し自作新米がやってきた

 さあ、今夜は自作のうまい米の飯だあ!
 中越の法末から新米コシヒカリが、先ほど届いた。
 わたしもメンバーの「法末棚田クラブ」の仲間たちで作ったものである。
 今回で6回目の収穫である。
 わたしは今年は、田植えと稲刈りの2回だけの参加だったが、実態は、会費さえ払えば、それだけで米ができるものではない。
 田植えの前の準備、田植えしてから水の管理と草取り、ハサつくり、稲刈り、天日干し、そして脱穀、精米、袋つめ、発送などなど、たくさんの仕事がある。
 指導してくださる地元の田の持ち主、ちょっと現地にはまって稲作をがんばってくれる仲間たちがいるからこそ、うまい飯に到達できる。感謝。
●参照→中越山村の四季