2013/03/30

748震災核災3年目(15) これほどの分散型復興でコンパクトシティ時代に逆行する理由を知りたい

「747震災核災3年目(14)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 ここに南三陸町の地図がある。「南三陸町土地利用構想図」(2013年2月13日公表)とあり、これは南三陸町のウェブサイトに掲載されている震災復興計画図のひとつである。
 志津川湾の周りにいくつもの黄色の丸があり、矢印がつないでいる。これは実線黄色丸は被災した集落や街で、点線黄色丸は新しくつくる集落や街であり、矢印は移転する元と先を結んでいるらしい。

●南三陸町土地利用計画図

 移転先の点線黄色丸の数を数えたら30か所ある。ということは、これから30か所に大小のニュータウンを造成して、三陸町の被災移住民たちが集団で大移動するのである。
 いや、すごいことである。移動住民が何人になるのかわからないが、町の作った復興計画書を見ると被災者総数は町民の55%、9800人弱だから、その全部ではないにしても、大変な人数である。それが30か所で起きるのである。
 町民にとって津波、避難につづく巨大イベントである。

 人口が1万8千人もいない小さな町で、どうしてこれほどたくさんのニュータウンをつくる分散型復興計画にする必要があるのだろうか。
 図面を見ると、リアス式海岸の小さな入り江ごとにある集落それぞれにニュータウンをつくるからだと読むことができる。
 つまり津波で壊滅した集落を社会をそのまま近くに再現するという、復旧優先であるようだ。このあたりの人たちは、それほどにも、いわゆる「絆」につながれた暮らしをしてきていて、これからもそれを求めているのだろうか。それは世代に関係なくそうなのだろうか。

 おおぜいが集まるニュータウンならまだしも、少人数のニューヴィレッジならば、人口減少の波をかぶって、早晩消えざるを得ないようにも思う。
 そう、人間自身が起こす人口減少という津波が、いま日本列島を襲っている最中なのである。
 南三陸町の人口はこれまで減少に減少を重ねてきていて、被災直前は17666人、その55.2%も被災してしまった。被災後もこの町に、その集落に住み続ける人たちは、どれくらいの数だろうか。
 災害が人口減少のスピードを早めるのは、わたしは中越震災復興の現地で見聞きした。

 南三陸町だけが人口が減らない、ということはありえない。復興計画にはこれからも減少していくが、2021年の町人口総数を14555人に見込んでいる。そこには政策的な意図も入っている。
 しかし、国立社会保障・人口問題研究所が2013年3月に発表した日本の各市町村の将来推計人口のうち、南三陸町の2020年の値は14448人で高齢化率35.3%、そして2030年には12385人で41.3%になる。

 これから超高齢化して減少する町の人口が、ばらばらと散らばって暮らすのは、どういうことになるだろうか。
 自然の豊かさを享受する生活と言えば聞こえはよいが、20年後に高齢人口が35.9%(町復興計画)になると、そうはいかないことが起きてくることは目に見えている。
 これほどに分散型となる生活圏を復興という名目で作り上げても、南三陸町は大丈夫なのだろうか。

 どうせ移動して新しい街、集落、家にすむのだから、これほど分散しなくて、ある程度に集まる方が、これからの生活のためにはよいだろうとおもう。
 そう思うのは、現地事情を全く知らないものの言い分であることは承知している。地域共同体の緊密さ、三陸漁業のありかたなど、まったく知らない。
 なにかそれらの地元固有の文化や産業のありようが、この分散型復興計画が出てくる所以なのだろう。それを知りたいのである。

 海岸近くの多くの場所で、しかも短期間に同時に、これほどの大土木工事を進めても、海には影響がないものだろうか。
 先般、三陸町の人から聞いたのだが、南三陸町の母なる志津川湾は、養殖漁業が発達していて、一年中なにかが水揚げされていたが、近年はそれゆえにかなり汚れていた。
 ところが先般の津波が、海底にたまっていたヘドロを沖に持ち去ってくれて、この海は若返って生産力が復活したそうだ。

 これだけ一度にニュータウン工事をすると、その湾のまわりの土木造成による土砂が流れ込むように思うが、大丈夫なのだろうか。
 せっかく復活した海が汚れるかもしれないと、わたしは遠くから机上でよけいな心配をするのである。
 どこか3、4か所くらいに、まとまることはできないのだろうか。そのほうが土砂流出対策もしやすいだろう。

 そしてまた、分散型よりもまとまりのある生活圏を構成するほうが、なにかと便利なはずである。コンパクトシティ、コンパクトタウンがこれからはあるべきまちづくりの方向だとされている時代に、せっかくそれを実行することができるチャンスなのに、これほども逆行するには何か特別の理由があるに違いない。
 もちろん、各小さな入り江ごとに分散する生活を否定するものではないが、それには覚悟が要るし、お金も要りそうだ。(つづく

●地震津波原発日誌コラム一覧

747震災核災3年目(14)大被災した南三陸町の応急仮設住宅地を衛星写真で見て心配になった

「745震災核災3年目(13)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 三陸津波被災地の南三陸町の一枚の地図がある。
 応急仮設住宅地の位置が記してあるのだが、その箇所数の多さに驚いた。人口がさぞ多いからだろうと思ったら、被災直前は1万8千人弱の町である。
 なぜこれほどの分散しているのだろうかと、google earthの衛星写真と照合してしげしげと見ていった。

●南三陸町応急仮設住宅位置図(南三陸町ウェブサイトより)

 
 リアス式海岸特有の大小の入り江ごとの狭い平地に街や集落があって、それらがほとんどすべて被災して壊滅したようだ。
 そこでその街や集落がチリジリになりながらも、できるだけ元の位置に近いところで、仮設住宅を建てるために、津波に襲われなかった近くの台地の空き地を応急的に探したので、これほどたくさんの場所になったらしい。

 そのとき、壊滅した元の平地さえも狭いのに、台地の上はさらに狭いから、まとまることもできずに、これほどたくさんの位置に配置せざるを得なかったということなのだろう。
 もちろんあくまで、わたしの勝手な推測である。 

 
 衛星写真でそれらひとつひとつの場所を見ていくと、心配なことが出てくる。
 生活の拠点であった集落が一切なくなったのだから、もちろん生業の場もなくなり、日常の買い物の場もなくなったのだろう。山の中に10数戸で孤立しているような仮設住宅もある。
 日常生活はうまく成り立つのだろうか。病院通いはどうするのだろうか。

●南三陸町波伝谷地区の仮設住宅(2012年2月22日撮影google earth)
 
 衛星写真で仮設住宅を探すのは難しいだろうなあと思いながら見はじめたら、すぐに仮設住宅とわかる特徴を見つけた。
仮設住宅地は、真っ白な(茶色もあるが)な屋根の細長い建物が、平行してびっしりと建ち並ぶから、まわりの山林や戸建て住宅地とは際立って異なるのである。一か所だけ例外があったが、いずれも狭い隣棟間隔で同じ向きに平行して並ぶのである。
 土地がどこもかしこも四角というわけでもないし、学校の校庭とか公共施設のような広い敷地でも、大昔の公営住宅団地を彷彿させる並び方である。

●南三陸町 志津川小中学校あたりの仮設住宅(2012年2月22日撮影google earth)
左の仮設住宅地だけが例外的に平行配置ではない。
 
●上と同じ位置の震災直後(2011年3月30日撮影google earth)
 これで見ると左の仮設住宅地は津波被災地であるようだ。
 
これは応急仮設住宅設置の補助要綱とかにそうせよと書いてあるに違いない。でなければこれほどまでに右へ倣えということはあるまい。
 でも、一か所だけ例外的な平行でない配置もあったから、必ずしも制度上の縛りではないのかもしれない。
 同じ敷地でも、もう少しは暮らしやすそうなプラニング技術が、この時代にはありそうなものである。
 あるいは実例があるので言うが、被災した土地でもよいならもっと楽に建てられるところがありそうなものである。
 南三陸の人たちは、いくら狭い入り江の奥の谷戸であっても、これほど狭い路地に好んで暮らしていたので仮設住宅もそうしたいとの希望であったとは考えにくい。
 どうも、土地がここにある、とにかく機械的に配置して行こう、そうしたとしか思えないのだ、どうなのだろうか。

 南三陸町では事実上は初めての応急仮設住宅ではあるだろうが、日本で初めてではあるまい。
 日本ではやむを得ない大災害がかなりの頻度であり、災害時の応急仮設住宅に経験のある専門家とか建設業者がいるだろうと思うのだが、同じ戸数を入れるにしても、こういう時の配置のあり方のノウハウ蓄積はありそうなものだ。
 わたしはその暮らしの実態は何も知らないのだが、これで快適なのだろうか。応急だからこれでいいのだと、そういう慣習というか制度かもしれないと思うと、心配である。

●南三陸町 歌津地区平成の森仮設住宅地(2012年2月22日撮影google earth)
町内最大規模の246戸を詰め込んでいる
 
●同じく津波から1か月後の平成の森(2011年4月6日撮影google earth)
 
実はわたしは南三陸町に行ったことはない。たまたま先日、南三陸町の住民の方を東京に招いて話を聞く会があり、そこに参加して若干の現地情報を得たので、いろいろ考えることがあった。
 そこで、これまでは一般論的に心配ごとを書き連ねたが、これからはケーススタディ的に考えることにしたのだ。

 わたしは生れは岡山県で、東北には縁者も知り合いもなし、引っ越しは多かったが住んだことはなし、仕事では秋田県内のいくつかの都市にかかわったが、そのほかは全く縁がなかった。
 三陸というからには、リアス式海岸だから岩手県と思ったら、ここは宮城県であったというお粗末なレベルである。
 しかし、今度の震災で被災直後の壮絶なる風景を新聞やネットで沢山観た中で、南三陸町のボロボロの姿は最も強烈に脳内に残っている。それで町の名前だけは覚えた。

 google earthで被災地を南から北まで見るのが日常になっていたが、地理不案内のわたしにはどこも同じように見えて、地上のその場の惨事と結びつけるのが難しい。要するに岡目八目で、本当の悲惨さはちっともわからないのである。
 それを承知の上で、岡目八目のもつ意義もなにほどかはあるだろうと勝手に思い、よそ者の心配事を書き連ねる日々である。(次は復興計画を考える。つづく

2013/03/28

746玉久三角ビルから東横デパートへと渋谷の変わりゆく姿を追う

 駒場から渋谷まで、なんの用もないけどふらふらと歩いた。
 駒場公園の旧前田侯爵邸をちょっと見た。デザインは悪いが昔のお殿さまってのは金持ちだったんだと思った。
 40年ぶりくらいで日本民芸館に入った。大昔に入った時のほうが感動があったが、今回は柳宗悦というひとも金持ちだったんだなあ、なんて思い、わたしは年寄りになってひがみが出たらしい。

●三角ビルのある町
 住宅街をふらふらと行くと、おっ、三角の家だ。横尾忠則が好きそうなY字路の角に、鋭角そのままに見せて建つ家である。

  ▼三角住宅とその空中写真


せまい土地に建つこんな家は大都市では珍しいわけではない。思いついて渋谷までの間に三角ビルを探して歩いた。
 元は四角な土地だったのが、都市計画道路で斜めに切り取られて残ったのが三角土地になり、やむを得ず三角ビルを建てる。そういうのは探せばいっぱいある。
 好きで三角の建物をつくる人は、まあ、いない。変形土地では建物の設計に苦労すると思うが、建築家の中にはそういうのに意欲を燃やす人もいる。
 この写真の家を設計した建築家もそうだろうと思う。

 三角ビルで有名なのは、新宿駅西にある住友三角ビルである。
 土地は三角でもないのにわざわざ三角の平面の超高層ビルである。オフィスビルとしては使いにくいだろうと思う。
 最近は超高層ビルだって平気で壊すから、これもあまり長くない運命かもしれない。

 ▼空中写真による渋谷三角地帯の三角ビルふたつ
「クロサワ楽器店」(左上の円の中)と「玉久」(右下)

 ▼クロサワ楽器店

●玉久三角ビル
 わたしが渋谷で昔から知っている三角建物は、「玉久」ビルである。三角ビルになる前の三角木造平屋時代から知っている。
 むかしむかし、このあたりは恋文横丁とよばれる三角地帯で、戦後バラックそのままの店が連なる狭い路地が錯綜していた。学生時代にウロウロしたことがある。
 その頃のことについては、「50年代の渋谷三角地帯」というページに、よく調べて細かく書いてある。
http://tokyo.txt-nifty.com/tokyo/2003/04/50_39c7.html

  
 玉久(たまきゅう)は、その一角で表通りにあった。外も中も汚い木造の平屋の店だったが、三角地帯の中でこの建物そのものが三角であった。
 汚いながらも実に美味い魚を食わせていて、お値段もけっこう高かった。渋谷の放送局関係者のふところ暖かい連中が、粋がって常連だったようだ。

 この玉久もある三角地帯を地上げして、東急が109ビルを建てたのは1979年だった(ウィキペディア)。竹山実設計の銀色にかかがやく建物は、戦後バラックイメージをさっぱりと払しょくした。
 工事が終わったら玉久もなくなるのか、109ビルに入るのだろうと思っていたら、周りはそうなったが玉久だけは残った。

 109のアルミ板壁にペタッとくっつく真っ黒な木造建物には緑の葉が茂る1本の木が立っていて、それらの取り合わせが奇妙に面白い風景であった。
 格好よく言えば、変わりゆく渋谷の象徴的な点景であった。そのころ気になる風景として、わたしが撮った写真がどこかにあるのだが、みつからない。
 ネットに昔の玉久の絵と写真があるから紹介する。
http://www.makoart.com/Report/reportImages111027/Report1110-5.jpg
http://www.hachiyamayumi.mydns.jp/~hachiya/19930320tokyo45091.jpg

 ずっとこのままでいてくれるといいなあ、なんとなくそう思っていたが、あれは何年ごろだったか、玉久ビルになってしまった。
 今見ると109ビルと合体したかのように見えるが、実は隙間があって、三角木造店は独立した三角ビルになっているのであった。三角鉛筆ビルである
 ビルになって8階あたりの高みに登ったらしい玉久には、いまだ入ったことがない。値段も高みに登っていそうだから。

 ▼玉久(ガラス張りビル)と109(アルミ板張りビル)

 ▼上のと反対から見上げると二つのビル間に隙間が見える

●渋谷東横デパート
  渋谷東横百貨店を見上げたら、「さようなら東館」と壁に大きくかいてある。そうか、これを壊すのか。東横線が地下に入って地上も大改造計画のはじまりか。
 このあたりの風景の変化は、わたしが生きているうちに間に合うだろうか。無理だな。
 ▼東横デパート東館 

 ついでながら東横線が地下鉄に乗りいれして、これまでは横浜から座って寝ていれば渋谷に到着していたのが、今やうっかりすると秩父の山奥まで連れて行かれるらしい。
 渋谷で井の頭線に乗り換えるのに15分も歩いたぞ。横浜でも中華街まで連れて行かれてしまうし、まったく不便になったものだ。バリヤーだらけになった。
 偶然だが、新聞博物館で「東横百貨店開店披露大売出し」の広告を見つけた。日付は1934年10月31日らしい。ということは79年前である。

 ▼東横百貨店開店時の新聞広告
 後に西館と南館を増築(設計は坂倉順三)したが、そちらはまだ解体しないらしい。
 この東館と西館をつないで山手線の上をまたぐのが中央館である。4(5?)階建ての橋のような建物で、東西二つのビルを足場にして架かっている。東館が無くなれば片方の足場が消えるから、ここもとり壊すのだろう。
 1950年代としてはかなり珍しい建築構造方式で、その構造設計はわたしが大学時代に教わった(が単位は落した)二見秀雄教授であったと、なにかで読んだ記憶がある。

2024年4月13日追記)今や東横デパートはすっかり消滅、まったく違う風景の渋谷となった。わたしはもう4年も訪ねていないが、もうすっかり浦島太郎である。

2013/03/27

745震災核災3年目(13)まちづくりの一環として中心街に復興公営住宅を建設することに期待する

「744震災核災3年目(12)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 実は発災直後の2011年3月20日に、わたしは自分のブログに「内陸母都市に疎開定住公共賃貸住宅を」と題して、次のようなことを書いた。

「これから、ぜひとも公共賃貸借住宅を災害疎開者のために建設してほしい。新たな住宅建設のための負担を、持家優遇政策で被災者に借金させてはならない。
 それも被災した地域の内陸にある母都市の中心部に、疎開者の元のコミュニティ集団に対する単位として建設するのだ。
 こうすることで、災害疎開者のコミュニティの継続と、空洞化する地方都市の再生とをセットにする震災復興都市計画、いや震災再生国土計画とするのである。
 繰り返すが、災害復興政策として持家建設やマンション購入ばかりを優遇する金融や税制を優先するのではなく」


 2013年3月6日の報道(NHK NEWS WEB)にはこう書いている。 
「政府がまとめた住宅再建の工程表によりますと、集中復興期間に当たる平成27年度までに、被災した住宅を自力で再建できない人のための災害公営住宅を、岩手県では計画の9割に当たる5100戸、宮城県では計画の7割に当たる1万1200戸を建設するとしています。
 一方、津波に加えて原発事故による影響を受けている福島県では2900戸を建設するなど、3県合わせて2万戸近くを建設するとしています。
 さらに、住宅の高台への集団移転事業などについて、ことし9月までに、岩手県では計画の6割の、宮城県では計画の7割の宅地の整備を進捗させるとしています。」


 つまり、2016年3月までとしても、これから3年間である。3年で3県に計2万戸も公営住宅を建てるというと、これは忙しい。
 もちろん必要なことは分かるし、わたしは賃貸借居住主義者だから、大賛成なのだが、どうも気になる。
 あまりに建設の速度が早すぎてしかも大量だから、わたしが期待するような公営住宅ができるのだろうか。

 公営住宅政策は長らく日陰者だったから、自治体に計画、建設、管理のノウハウはあるのだろうか。
 よい交通立地、よい生活環境、よい買い物や地域施設が整うのか、よいプラニングになるのか、よい景観になるのか、そしてよい管理体制が整うのだろうか。土地の手当てができるのだろうか。
 大急ぎでつくるから、とりあえず取得できた土地にとりあえず造る、なんてことになっているかもしれないと危惧する。
 あるいは公営住宅は公営住宅だけ、民間住宅は民間住宅だけ、商店街や公共施設はまたそれ独自に、それぞれの別個のゾーニングの範囲でのみ計画して建設するかもしれないと危惧する。これではまちづくりにならない。

 日本のこれまでのような経済政策としての「住宅政策」ではなく、これからは社会政策としての「居住政策」として、今後の模範となるような、公営住宅ができることを期待しているのだが、現場はどうなのだろうか。
 新たな都市づくりのひとつとして公営住宅建設をしてほしい。特に内陸部の被災しなかった中心市街の空洞化対策と連携して、その既成市街地の中に埋め込むように建設してほしいものだ。
 その方がインフラ整備の必要がないし、居住者の生活も便利で、高齢化時代に対応するとともに、コンパクトタウン形成になるからだ。
 あるいは被災地から集団移転する台地上の新市街地につくるとしても、ミックスコミュニティとすることや、戦後ニュータウンのような寝るだけの街にしないようにしたい。生業が成り立つ新たな街を作ってほしい。
 公営住宅はその街づくりのリーダーとなってほしい。

 賃貸の公営住宅の良いところは、計画的に良い環境住宅をつくり、一体的に管理してよい環境を維持できること、次世代へ円滑に継続することなどがあるのだから、それらに力を注ぎ込んでほしい。
 わたしは今、都心の公的賃借住宅に住んでいる。ここを積極的に選んだのは、上のようなことを期待しているからである。賃料を除けば、ほぼ満足している。

 とにかく、戸数消化主義が今は求められているようだが、場当たりの土地、場当たりの計画、場当たりの入居制度、場当たりの管理になって、結局は住みにくくて元の津波被災地に戻るってことにならぬように、頑張ってほしいものだ。

 関東大震災のあとで同潤会によって建設した共同住宅は、のちのちまでも都市住宅の模範であり続けた。
 東北地方の復興公営住宅も、地域における模範となる共同住宅となってほしい。(次につづく)

2013/03/26

744震災核災3年目(12)震災復興シンポでの専門家論についてはデジャビュ感があった

741震災核災3年目(11)」からのつづき
   (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

 大地震で大被災した南三陸町の復興状況の話を聞いた。
 日本都市計画家協会と東京大学が、町民4人をまねいて、シンポジウムを開催したので、聞きに行った(2013年3月24日、於:東京大学生産技術研究所)。
 会場には100人あまり、ほぼ全員がいわゆる専門家とよばれる人たちだったろう。わたしも元がつく専門家ということにしておこう。
 
 来ていただいた4人の人たちから聞く復興の諸課題は、当然のことだろうが、どれも深刻なることばかりである。
 興味深く聞きつつも、これまでここに書いてきたように書斎で机上心配するだけのわたしなのに、意外なことと思うことは少なくて、これまでの心配が深まることばかりであった。

 会場からの専門家たちの発言には、どうももうひとつピンとこなかったものがおおい。
 これは、まあ、専門家たちが悪いのではなくて、予期せぬ発言者を指名していったコーディネーターのせいだろう。

 被災者の方の話に、復興計画について行政と地元住民との間の意思疎通に齟齬があり、地元住民の中に入ってきて住民の立場で行政に対抗することができる知恵を授けてくれる専門家をほしいとの訴えがあった。
 既成市街地での都市再開発・まちづくりの世界では、もう昔からこういうことがあって、それなりにアドボケイトプランナーが育ち、それに対応する支援制度が動いていたはずだ。
 そのノウハウ蓄積が被災地では生かされていないのだろうか。それとも被災地があまりに広くて、人材が足りない、制度が追い付かない、ということだろうか。

 いろいろな情報によると数多くのプランナーが各地に入っているらしい。
 そのなかにはアドボケイトのベテランもいるはずなのに、いまだにこのようなことを言われているのかと、不思議というかデジャビュ感があった。

 専門家に対する住民のいらだちに対応して、専門家のあり方について、個別の専門家を束ねてコーディネートする能力のある専門家が要ることの発言が、大学研究者からあった。
 むかしむかし、わたしはコンサル・コンサルタントとひそかに自称していたので、これもデジャビュ感が強かった。そのような人材はいっぱいいたと思うのだが、どうなっているのか。
 会場から、専門家は地元にボランティアで行けとの発言があり、これもまちづくりの世界では昔から聞かされ、専門家はカスミを食って生きるのかとの反発も、デジャビュ感があった。

 それにしても、日曜日の朝早くから、こんな不便な会場に、専門家たちがおおぜい集まったこと、そして若い人たちが多いことを見て、まちづくり人材が育っていることに明るい希望を持ったのであった。
 もっとも、会場で久しぶりに出会ったある知人に聞けば、相変わらず食っていけない世界のようだが。

 さて、復興計画そのものについてだが、会場でいただいた復興計画図を見ると、数々の心配が湧いてきた。これで南三陸町の将来はどう展望できるのだろうか? (次回につづく

(追記0328)
 もう8年くらい前のことだったか、国交省の都市計画課で、まちづくり人材リストをつくったことがあった。かなり大掛かりにやったから、その後も活用しているはずだが、どうなっているのだろうか。

●参照→「地震津波火事原発コラム一覧」

2013/03/25

743能「隅田川」の眼でオペラ「カーリューリバー」を見る

●オペラ「カーリューリバー」
ベンジャミン・ブリテンの作によるオペラ「カーリューリバー」を、神奈川芸術劇場で見た。演出が日本舞踊家の花柳寿輔というのが意外である。だが、オペラの演出はかなり自由が許される世界であるらしいから、不思議はないだろう。
 その自由な演出のオペラの元になっているのが、かなり不自由な演出しか許されない日本の伝統芸能の能「隅田川」であることが面白い。
 B・ブリテンは1956年に日本に来た時に、この能を見て感動し、翻案してオペラをつくったそうだ。初演は1964年。
 カーリューとは鳥のシギの一種らしい。隅田川の都鳥をこう置き換えたのだ。
 カーリューリバーの基本的な話の筋は、能「隅田川」にほぼ忠実であるといってよい。もちろん隅田川に出てくる念仏を唱える仏教から、かの地のキリスト教に翻案していて、教会堂で演じる宗教奇跡譚の仮面劇になっている。
 舞台の構造も能とは違って、螺旋のような形であるらしい。ユーチューブにいくつかのこの公演実写映像が登場するが、なかにひとつだけこの形のものがある。
http://www.youtube.com/watch?v=zDrcgTKmGbc&list=PLA393D79883D4C185
 今回見た花柳寿輔演出での舞台は、真四角な白木の床の能舞台であった。もっとも、4本の柱はなく、橋掛かりは下手奥からではなくて客席を縦に貫通する花道状に渡した。

●続きの全文は「能「隅田川」の眼でオペラ「カーリューリバー」を見る」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/opera-curlew-river


2013/03/23

742近年は季節がドカンドカンと突然に変わるので四季遷移の情緒がない

 今日、わたしの空中陋屋のある共同住宅ビルの外に出てビックリ、ピンク色に明るい、おお、道が桜の花で満開だあ。
 ヘンだなあ、昨日だって外に出たのに、気が付かなかったぞ。わたしがボケていたわけではなくいて、これは昨晩中に突然に咲いたにちがいない。

わたしの空中陋屋のある共同住宅ビルも花で飾られている。
 
 この数年は、冬からいきなり春にドカンとなってしまう。徐々に春めいてくるってことがなくて、なんとも情緒にかける。
そしてちょっとしたらドカンと夏がやってきて、また、ドカン、、、の繰り返しであるようだ。
 なんだか四季というよりも、2季か3季のような感じがしてならない。

 空中陋屋から見下ろす中学校の入り口に、黒い服の男たちがたまっているので、何事かと近づいて見れば、校門の門柱に「閉校式」とかいた立て看板が立っている。
 え、閉校するのか、式参列でいらしたお偉いさんたちらしい。
 この中学校では、去年になにかおおきな工事していると思ったら、仮設のプレファブリケーション校舎が建った。校庭グラウンドは半分くらいになった。

 どうもそれまでの校舎が耐震性で問題があったらしい。そちらを建て直すので、狭い校庭と安物仮校舎で、しばらく不便をしのぐのだろうと思っていた。
 それが閉校ということは、1年後に要らなくなるけど、東日本大震災の余震の大地震がもしも去年中に来たら危ないという判断であったのか。
 それはまあ慎重でよろしいが、結果としては無駄遣いであったことになる。

 空中陋屋からまた別方向を見ると、こちらには新しい共同住宅ビルの建設が始まって、高い工事用クレーンが建っている。
ふーむ、あのクレーンほどの高いビルができるのか、日陰にはならないが、視界の邪魔だなあ。
 むこうの山手の丘に咲く桜も、あのビルで見えなくなるのか、残念。
 でも、こういうのが建つと、小中学生が増えて、廃校中学校をまた再開校することになるかもしれない。
●参照→「ニッサンバカ広告が消えたと思ったらまたビルが建つらしい」

2013/03/22

741震災核災3年目(11)被災者が移転する先が高地価になってアベインフレ政策成功かしら

  昨日の「738地震津波火事原発3年目(10)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)
 
 先般、今や日本民族は津波を恐れて内陸に大移動だと書いたら、今日の新聞に地価公示(2013年1月1日現在)が載っていて、すでにその傾向が地価に表れたそうだ。
 東日本大震災被災地では、特に内陸部や台地上の土地の価格が上昇しているらしい。あたりまえながら、そちらに移転する需要がたくさんあるから、地価が高くなる。

 仙台都心部では共同住宅(いわゆる分譲マンション)が売れて、高額になりつつあるという。石巻では高台の住宅地が飛びぬけて高額になった。
 困ったことである。これでは被災者は2重に苦を蒙ることになるのだが、それへの地価抑制政策はどうなってるのか。
 アベノミクスではそのへんはどうなっているのだろうか。あ、インフレ政策だから高地価は政策どおりなのか。困ったもんだ。

 関東では今、超高層共同住宅ビルがにょきにょき林立中の川崎・武蔵小杉の地価上昇がものすごい。困ったものである。そもそも高層の共同住宅ビルは地震に根本的に弱いのであることがわかっているのだろうか。
 このことの問題は別にくどくど書いているからそちらに譲る。
http://homepage2.nifty.com/datey/kyodojutaku-kiken.htm

 地価抑制策がないどころか、地価が上昇して景気がよくなったと喜んでいる向きが多いらしい。不動産屋とか土地を担保に金の貸し借りする企業や金融業はよかろう。
 だが、地価が高騰して金のない庶民は、ますます津波危険地域に住まざるを得ないことになる。
 家ってものは借金して買わなければ日本では暮らしが成り立たないって、ヘンなことになっている。もっと公的な賃貸借住宅を教習するべきである。

 そして高地価に関係なく庶民が民族移動して、津波や災害から逃れる都市づくりをするべきと思うのだが、被災地ではどうなっているのか。
 被災地では大量の災害公営住宅の供給画があるようだ。これなら地価には関係なく移住できるからよろしい。わたしは賃貸借居住主義者だから喜ばしいことであると思う。
 公営住宅に入居者するひとびとが、家が買えないからやむを得ずそれを選ぶのではなく、積極的に選んで住む時代になってほしい。
 どうか負け組意識になってほしくない。賃貸借住宅のほうがよいのだと、自治体はそのような公営住宅の供給をしてほしいものだ。

 70年代から持ち家政策が進んで、賃貸借住宅政策がおろそかになり、公営住宅供給もどんどん細ってきている。
 それが賃貸借住宅の質的低下をもたらすと同時に、持ち家も価格を下げるためにミニ開発と郊外地立地で、こちらも質的低下である。価格を下げるために戸数を稼ぐ高層巨大共同住宅ビルも同様である。

 
 いまようやくにして社会政策として、公営住宅が再登場してきたことを喜ぶのだが、巨大災害がその機縁であること悲しいし、一般政策には広がる気配がないのも悲しい。
 とりあえずは、その災害公営住宅に移り住む人たちが、防災集団移転事業による自力建設の住宅と同じがそれ以上に良い居住環境になって、賃貸住宅として続いていくことを期待している。(明日の記事につづく

●参照「地震津波火事原発コラム」一覧
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm


2013/03/21

740歴史は下手な小説よりも虚構に満ち満ちていて面白い

 わたしの書斎兼寝室兼居間兼晩酌室には、壁4面の本棚に未読本がものすごくたくさんある。
 金はないけど、閑はある、せっかく買ったのに読まないままに死ぬのはもったいないから、もう書店で本を買いこむ癖をやめて、それら未読本制覇にとりかかった。 

 どれからにしようかと考えて、思いついて日本史を読みながら、いろいろと他の本も並行することにした。
 日本史の本は「週刊朝日百科『日本の歴史』」である。A4版、全133冊だが、一冊は32ページで図版写真が多いから、気楽に読める。
 1985年の刊行だから、現代史ではもう古くなっていることや、近頃の研究で内容が変わっている事項もあるだろう。

 でも、この30年でどう歴史の叙述かかわったかそれも面白いだろうと、「宇宙と人類の誕生」編から読み始めた。
 これは猿人とか旧人とかが出てくるところまでで、今では違う学説もあるかもしれないが、まあ、よろしい。

 次は「原ニホン人と列島の自然」の巻、フムフム、そんな昔から日本列島に人間はいたんだなあ。
 え、30万年も前からいた可能性があるって、え、座散乱木遺跡って、アレ、なんだ引っかかるなあ、なんだっけ、あそうだ、これって以前に大スキャンダルニュースで騒ぎになった旧石器遺跡捏造事件で聞いたことあるぞ、あれだあれだ。
 なんだ、2巻目にしてもう歴史が変わる事件にぶつかってしまった。
 
 さっそく書棚にあるはずの、スキャンダル発掘暴露した毎日新聞が書いた本を探すのだが、みつからない。
 昔なら図書館にでも行くところだが、いまや貧者の百科事典ウェブサイトのお世話になる。あるある、いっぱい出てくる。
 昔の本に書いてあったこと以上に、裏の裏まで書いたものもある。全く便利になったものだ。

 それによると、捏造事件発覚は2000年11月のことであった。
 藤村なにがしという遺跡発掘の専門家が、発掘のたびにあらかじめ発掘する石器を地中の何十万年も前の地層に埋めておいて、発掘時に「新発見」をし続けたという事件である。

 このなかに座散乱木遺跡があったのだが、おかげで遺跡が遺跡じゃなくなった。ほかにも40ほどの発掘で捏造をして、石器どころか遺跡そのものが捏造だったという。
 捏造遺跡にしたがって、何十万年も前から日本列島には石器をつくることができる人間がいたという、考古学会のおとぎ話が構築されていて、この本にも写真解説付きで載っている。


 それにしてもあれは変な事件だった。
 たった一人の石器アマチュアが嵩じて発掘屋になった男が、発見の名誉心にかられて、日本中の石器時代遺跡でほかで拾った石器を埋めては、自分で発掘する「新発見」を続けて20年余、その間、専門家のだれひとり見抜けなかったというのだ。
 一部に見抜いた人がいたが、その人たちは学会から村八分にされたそうだ。

 あの当時も呆れたが、いまネットでいろいろ読んでてさらに呆れた。
 30万年も前にそんな精巧な石器(実は弥生時代の石器)をつくったり祭祀遺跡を持つところは、世界中になかった。日本だけで文化を持った旧石器人が発見されたのだ。
 そこで日本の考古学者たちは考えた、日本人はそれだけ文化的に優秀な民族だったからだ、と。そう発見当時に語っているのであった。
 これって、日本民族は世界にぬきんでて優秀だから、鬼畜米英には負けない高い文化国家なのだって、まるっきり戦中のおハナシだよなあ。

 で、その後の考古学の世界では、あのスキャンダルを藤村ひとりに全部押し付けて、誰も責任は取っていないのだそうである。
 さすがに当時藤村のそばにいつづけてその新発見を学問的業績にした学者たちは、わが身の不明を謝ってはいるが、学界の重鎮のままらしい。
 さらに疑問は続いているらしく、あんな一介の発掘屋の(こういう差別的な言い方もどうかと思うが)藤村ひとりでできるはずはない、実はストーリーをつくってやらせた学者がいる、そこには学会の勢力争いが裏にある、なんて話もある。こちとら庶民を面白がらせてくれる。

 思い出したが、昔、永仁壺事件てのがあったなあ。現代の名工がつくった古びた壺を、文部省は永仁期の本物とまちがえて重要文化財に指定してしまったのだった。あれもおかしかった。
 歴史は面白い。下手な小説よりもまことに虚構に満ち満ちている。
 このあと読んでいてどんな虚の歴史が出て来るか、楽しみになってきた。

739震災核災3年目(10)これを機に日本の住宅政策を経済政策から社会政策に転換せよ

 昨日の「738地震津波火事原発3年目(9)」からのつづき
     (現場を知らない年寄りの机上心配繰り言シリーズ)

●日本の住宅政策の欠点を大災害が暴露した

 朝日新聞の資料の一覧を見ていて「災害公営住宅」がかなり多くなっていることに、興味をひかれた。記事にもこの公営住宅希望者が増加しつつあるそうだ。
 東北被災3県合わせて、2万戸近くを建設するそうである。そんなにも建てなければならないのか、これまで公営住宅に空き家の余裕はなかったのか。

 その希望者が多い理由は、どこにあるのだろうか。
 高齢者が多くなっていて、新たに借金して建てても返済できない、ということは金融機関が貸してくれない、そのようなこともあるだろう。とくに今回の被災地は高齢者が多い。

 持ち家の自宅を建設することが資金的にできなくて、公営の賃貸住宅のほうを選択しているのだろう。資金的にできなければ借り入れる方法もあろう。
 だが問題は、借りようにも、被災してなくなってしまった住宅建設のためにすでに借り入れていて、いまだに返済が終わっていない、借金返済だけが残っている、2重借金はできない、どうもそういう例が多いらしい。
 
 そうであろう。日本では一生かかって返すほどの借金を負わないと、自分が住む家がないという政策の国なのだ。

 住宅というものは、基本人権の生存権とセットになっているはずだが、日本の住宅政策は社会政策ではなくて経済政策になっているのだ。
 自分が家族と暮らすための家を得るのに、日頃見たこともないほどの大借金を抱えなければならない。その金を返すためには20年30年とかかるから、その間は一生けんめいに働く。借金を返し終えたころは、疲れた老人になっている。

 言葉は悪いが、家の借金を返すために遊里苦界に身を沈めた遊女のごとく、借金に追いまくられて働く人生である。じつはわたしもその道を歩んできた。
 わたしは賃借住宅主義者である。なのに50歳で借金住宅を建てたのは、賃貸住宅に適切なものがなかったからである。
 それは、賃貸住宅政策は冷遇され、売り家住宅政策ばかり厚遇されているので、立地、家賃、広さなどが適切な住宅がなかなかないのだ。だから無理しても借金住宅になる。

 賃貸住宅冷遇の証拠は、東京区部にドーナツ状の広大な木造住宅密集地域にあるアパート群である。家を建てられない、つまり借金できない層が暮らす、いわゆる木賃住宅群である。
 需要に応じて土地持ちが庭先に無秩序に建てていった木造2階建て共同住宅群が、いつの間にか東京都心部を取り囲むドーナツ状になり、災害には最も弱い地域をつくっている。
 社会底辺からの需要があるのに、住宅政策が対応していない結果である。
今になって首都圏直下大地震で、被害甚大地帯になると騒いでいる。もっと前にわかっていたことだが、後回しになった。
 
 そのような借金住宅政策が、公営あるいは公団や公社等の公的賃貸住宅を縮小させて行き、民間賃貸住宅も供給が少なく質的低下もまねき、それが大災害を機に一挙に矛盾を暴露したのだ。
 公的住宅が多くあれば、被災者の避難先として、その空き家を柔軟に対応することができただろう。
 公的賃貸住宅政策が行き渡っていれば、2重借金問題は少なかったはずである。

 住宅は持ち家でなければならないという政策をつくったのは、戦後高度成長期1970年代からのことである。国民に少額でも土地建物という財産を持たせて保守化して、保守政権を維持させようという政治戦略であった、と、わたしは思っている。

 その前の戦後の時代は、公団住宅が典型のように戦後も借家は当たり前だったし、戦前の日本は借家が普通だった。
 戦後しばらくは住宅政策は社会政策だったが、それを保守安定政権維持のために経済政策に転換してしまったのが、あまりに乱暴すぎるのである。

 衣食住というが、衣はファッションとなり、食はグルメとなったが、住はいまだに問題を引きずっていることは、この災害が露呈した。
 あの大戦争から立ち直る時期には、住宅を社会政策としてつくってきたことを思い出し、この大災害からの立ち直りも住宅をしっかりと社会政策としてつくり、それは災害復興のための一過性の政策ではなく、これからの日本の基本政策に転換してほしい。(明日の記事につづく

●参照→「賃貸借都市の時代へ」(まちもり瓢論)