2013/11/05

853わたしの個人史と重なる共同設計組織RIAの職能拡大展開の軌跡を書いてみた

 戦前は有名建築家だった山口文象が、戦中戦後の10年間のブランクの後に起こした建築設計集団「RIA」は、個人名を排した共同体とした点で、同世代の他の有名建築家たちとは一線を画し、戦後民主主義の嵐の海に再びの船出をしたのだが……。

 建築家というと普通は個人の職能をさすだろうが、建築学会誌『建築雑誌』編集者からの依頼には、2013年11月号に『「建築家が問われるとき:自己規定の軌跡と現在』と題する特集を組むので、設計集団RIAの職能について書けとの注文である。

 ふむ、面白い、これまで山口文象につてはあれこれと書いてきたが、わたしが所属していたRIAについては、意識して避けてきた。
 でも、わたしももう歳が歳だから、このへんで自分の社会人としての位置を築いたRIAについて書いてもいい頃だろうと思えてきた。

 そこで、なんの資本的バックもない徒手空拳の建築家集団RIAが、戦後復興期の荒波中で新たな職能像を求めて苦闘を重ねた、1950~70年代迄の軌跡を書いてみた。いわば個人史と重なる建築設計組織の職能拡大展開の歩みの論考である。
 題して「RIAが選んだ建築家共同体組織とその職能展開の軌跡
 
 もちろん、いまやRIAのもっとも初期メンバー生き残りとなった建築家・近藤正一さんに話を聞き、古い雑誌記事などを読み、同輩に手助けしてもらって、ようやく書いた。
 自分のいた時代なのに、はじめて分かるようなこともあり、面白いことだった。
 英文の題名は、学生時代の同期生だった友人に決めてもらった。 
History of unique cooperative system in Research Institute of Architecture(RIA ) with some reference to expanded horizons of architects' professions

 なお、RIAの正式名称は「RIA建築綜合研究所」、現在は改称して「株式会社アール・アイ・エー」である。

●本文はこちらを参照のこと
「RIAが選んだ建築家共同体組織とその職能展開の軌跡」
https://sites.google.com/site/dateyg/ria1952-1979


2013/11/03

852建築家山口文象がデザインした家具を観に行った

「建築家と天童木工」なる家具の展覧会を、天童木工東京ショールームに観に行った。
会場には、山口文象、丹下健三、黒川紀章、坂倉順三、オスカー・ニーマイヤーなどの有名建築家たちのデザインした家具が展示してあった。もちろん、天童木工が製作したものだけである。
●「建築家と天童木工」展覧会風景

わたしのお目当ては、もちろん山口文象デザインの座卓である。
1961年第1回天童木工家具デザインコンクール金賞の作品である。展示の説明にこう書いてある。
整形合板を立体的に用い、美しい造形の座卓。特に甲板は水滴の波紋を連想させるようなカーブをしている。その美しさの反面、甲板に狂いが生じやすく平面を保つことが難しいため、商品化は見送られた。
●山口文象デザインの座卓


そしてまた、そのコンクールのことも書いてある。
1961年、民間では初めてとなるコンペを開催、審査員に剣持勇(審査員長)、丹下健三、豊口克平、渡辺力、長大作、建築評論家の浜口隆一など、豪華な顔ぶれが並ぶ。応募規定は「成型合板を一部または全体に使用したものであること」。

このテーブルがあることは知っていたが、現物を見るのは初めてである。山口文象やRIAの建築作品紹介の雑誌写真には、自分の設計した家具が登場してることがよくあるので、これを探したら、あった。
●山口文象邸のサロン風景(1969年発行『新訂建築学体系・木造設計例」彰国社より)
山口文象の自邸の写真の中に写っている。座卓としてではなくて、小テーブルとして使っている。その向こうの椅子も山口文象デザインかもしれない。
この写真は、1961年~1969年の間に撮ったのだろうから、とすれば、わたしは山口邸で見ているはずであるが、忘れていた。
展示室の係りの人に、この座卓は天童木工の収蔵品かと聞いたら、どこかのお宅から借りてきたが、それがどこか知らないという。では、山口邸から来てるのかもしれない。

山口文象はいくつもの家具デザインをした。新制作派協会展覧会にも出品している。1953年にRIAを結成してから、メンバーの近藤正一と組んでいるようだ。
この小テーブルの前には、1954年全国工業デザインコンクール最優秀賞をとった小椅子がある。二次元カーブのプライウッドを組み合わせた量産向きの家具である。
●小椅子(通称チリトリ椅子)
口の悪いRIAの連中は、「これは通称チリトリ椅子というのだ」、そして「椅子にもなるチリトリなんだ」とも言った(今やチリトリは死語かもしれない)。
RIAの会議室にいくつもあったが、二つのチリトリの接合部の金物が外れやすくて、そっくり返らないように座ったものだ。

戦前の山口文象の建築作品の写真には、彼のデザインした家具が写っていることが多い。既製品の洋家具がない時代だから、建築家が家具の設計をするのがあたり前であったらしい。
●1928年三宅やす子邸の家具
山口文象が石本喜久治の下にいたころに担当した住宅であるから、山口のデザインかもしれないが石本のデザインかもしれない。

●1934年日本歯科医科専門学校付属医院の家具

 ●1934日本歯科医科専門学校付属医院の手術見学教室の机

●1950年久が原教会の椅子と講檀(プライウッドによる簡素なデザイン)

●参照⇒建築家山口文象サイト(伊達美徳)
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html

2013/11/02

851【エッセイ版】あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている・独り相撲都計審委員物語

まちもり瓢論2013年11月号
エッセイ版
あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている

独り相撲都計審委員物語
(『建築の研究』2013年10月号掲載)

伊達 美徳
 
◆ひとりの市民として都市計画審議会の委員になったけど

 まちづくりは市民参加で進める時代です。これは、ひとりの市民が自主的に、巨大都市・横浜市の都市計画行政に愚直なる参画をして、多くの考えさせられる問題に直面した2年間の物語です。横浜市固有ではなく、日本各地の大都市の問題かもしれないと思うのです。

 わたしは長らく都市計画を専門としています。主として行政からの委託により、既成市街地の整備についての計画を市民と行政の間に立って進める仕事で、全国各地で経験を重ねました。
 続けていた日本都市計画家協会の常務理事事務局長を退任し、都市計画の仕事からも半リタイアして時間にゆとりができたので、純粋にひとりの市民として専門的な知識を生かして自分が暮らす地域社会に役立ってみようと思いつきました。

 そこで2008年、わたしの住む横浜市が公募していた都市計画審議会の市民委員に応募したところ、2人の枠に応募者30人で15倍もの競争率の中から幸運にも委員に選ばれました。
 都市の生活環境や生産活動の相互に問題が起きないように、土地の使い方に規制や誘導をし、道路や公園などの配置を決め、都市空間を整備するのが都市計画です。
 この都市計画法、都市計画法によって知事や市長が定めますが、決定するときには必ず、都市計画審議会に諮らなければなりません。横浜市の都市計画審議会 の委員は、市議会の正副議長と各委員長、関連分野の学識のある専門家、公募して選ぶ市民など25名で、年間に4回の審議会を市長が招集して議案を出しま す。

 わたしが任期中の2010年半ばまでの2年間に計7回の審議会があり、議題数は計50余、地区数は計150余でした。念入りに事前調査し、積極的に意見を述べ、議案のひとつやふたつに反対の挙手をして、20余人の無口な委員を相手に毎回たった一人の反乱のようでした。
 図らずも演じてしまった、ドン・キホーテあるいは車寅次郎のようなドタバタの独り相撲をお読みください。

続きの全文は「エッセイ版 あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている
https://sites.google.com/site/matimorig2x/essay-cityplanning

2013/11/01

850東京駅は丸の内の赤レンガだけじゃないよ、八重洲側の変貌が著しくて面白いよ

東京駅の八重洲側に久しぶりに出てみた。長らく続いた工事中のうっとおしい構内の囲いが無くなって、すっきりした。
表に出てみると駅前広場ははまだまだ工事中だが、すぐ頭の上にデッキがかかり、更にそのデッキの上には布の大きなテントが張ってある。
このテントはなんだろうか、雨除けか、日除けか、ただの格好つけか。
日除けにはなるだろうが、雨除けとしては、あまりに高いところに張ってあって、ちょっとの風で横から濡れそうだ。もちろん台風では役に立たないどころか、もしかしたら飛んでいくのではあるまいか。
格好づけとしては、真っ白な(そのうちに灰色になるだろうが)大きな横長の帆は、面白い。
●2013年10月東京駅八重洲口駅前広場の姿


さて、八重洲通りからの東京駅への眺めを、年代とともに追ってみよう。

●1987年8月東京駅を八重洲通から見た姿
真っ黒な壁のような鉄道会館が建っている。中には大丸百貨店が入っていた。
わたしは80年代半ばまで勤め先がこの近くだったので、通りすがりによく寄ったものだ。
このビルの上の方の階に、全国の自治体の出先の物産売り場や観光案内所が並んでいて、わたしが好きだったところである。
このビルは、はじめのころは途中まで建っていて、しばらくしてから上に増築したような記憶がある。まだ延ばすつもりだったかもしれないが、その前に取り壊されて、今のようにただのテントになってしまった。

これより前の写真は撮っていないのに、なぜこの年があるかと言えば、その頃、東京駅周辺地区再開発調査の仕事をやっていたからである。
仕事の大元の発注者は国土庁、建設省、運輸省、委員会は八十島義之助を長として、石原舜介、芦原義信、村松貞次郎などそうそうたるメンバーだった。
そのときが始まりとなって、丸の内赤レンガ駅舎の保全や八重洲側の整備などの基本方針が決まり、今に至っているのである。
●参照⇒東京駅周辺地区総合整備基礎調査報告書(1988年3月)

 わたしはその時の調査の知見をもとにして、丸の内赤レンガ駅舎の復元反対論を唱えて、ウェブサイトでも論考を書き、毎年の大学での講義で学生や院生を洗脳してきたつもりだが、残念ながら全く相手にされることなく、現物が復元されてしまって完敗した。
●参照⇒「東京駅復原反対論

●2009年3月東京駅を八重洲通から見た姿
鉄道会館が取り壊しになると聞いて、あわててて撮りに行った。真っ黒なビルが真っ白なビルに替わっていたのが面白かった。向うに、建て直した新丸ビルの上の方が見えている。

●2011年1月東京駅を八重洲通から見た姿
鉄道会館がすっかり消えて、新幹線がむき出しで見えるようになった。
丸ビルと新丸ビルが並んで見えるのだが、八重洲通りと行幸通りは一直線にとおっていないので、芯がずれて新丸ビルが真正面に見える位置に来る。
どうして、この二つの道路を一直線になるように、市区改正時代のプランナーは決めなかったのかと、不思議である。

●2013年10月東京駅を八重洲通から見た姿

 ヒラヒラの布庇がかかっている。この仮設的な雰囲気が、この風景の中では突然変異の感があって、このデザインを選んだ事業者の意図がどんなところにあるのか、興味深い。丸の内側が様式建築のガチガチなら、こちらはモダンなカルガルデザインというところか。
アメリカの建築家ヘルムート・ヤーンのデザインであるという。そういえば、丸の内側にある中央郵便局再開発のJPタワーの折り紙ヒコーキも、ヘルムートヤーンのデザインであるらしいから、東京駅周辺御用達米国建築家かしら。

では駅前のビルから見る八重洲駅前を見よう。
●1987年10月東京駅八重洲口駅前の姿

 これは住友信託ビルの会議室から撮ったような記憶がある。
 堂々たる鉄道会館健在で、その向こうに観光会館ビルも鉄鋼ビルも見えているが、どちらも今は消えた。その更に向こうには新日鉄ビルが見える。
新幹線の向こうには、今は無き元鉄道省、元国鉄本社のビルが健在である。

●2013年10月東京駅八重洲口駅前の姿

 八重洲ブックセンターから撮った。
 鉄道会館は布庇に替わった。向うの高いビルは、丸の内赤レンガ駅舎から容積移転して建てたJRのビル。その足元の鉄鋼ビルも消えて、今は建て替え工事中。

●2013年東京駅八重洲駅前広場正面の姿

 東京駅の八重洲側の駅前広場は、丸の内側に比べると貧弱である。外堀を埋めて作った道路の、ちょっとしたふくらみが駅前広場であった。
 そこにバス、自家用車、タクシーの乗降場ははもとより、地下駐車場やら長距離バスセンターなどもあって、交通処理がまことに不便であった。そこで鉄道会館をどかして、そこまで広場を広げることにしたのある。

 関東大震災のあとの復興事業で、八重洲側にも広い立派な駅前広場をつくり、赤レンガの駅舎も作る計画だったが、広場は地主の反対でできなかった。
八重洲側の赤レンガ駅舎もできなかったが、その構想の姿を両国の震災記念堂で見ることができる。

●2013年10月東京駅八重洲口駅前広場整備中の看板と住民

 駅前広場はただ今整備工事中であり、大きな説明看板が立っている。
 そのそばには、どうやらここの住人らしい方の住居がある。この人もそのうちに整備されるのであろう。移転補償はあるのかしら。

東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2013/10/31

849赤レンガ東京駅見物ついでに東大博物館を探検してあの「零円札」に遭遇して感動した

東京駅の夜景を、東京中央郵便局、じゃなかったKITTEの前から撮った写真で、お化粧前2005年とお化粧後2013年の比較をしてみる。
●お化粧前の2005年9月の姿

●お化粧後の2013年10月の姿

 さてどこが変ったか、背景に容積率を移転した高いビルが見えている。これはご自分の資産を一部身売りした先で、いわば分身ともいえるビルだから、一緒に見えて不思議ではないだろう。
 もちろんもっとも大きな違いは、角帽を丸帽に取り替えたことである。こうやって見ると角帽も白線を光らせてしゃれたもんだった。

 隣の中央郵便局も、上に東京駅から容積移転した紙ヒコーキ折り紙デザインのファサードを乗せて完成しているようだ。

 その中央郵便局の中に入ってみたら、KITTEという名のショッピングビルになっていた。ネーミングの由来は切手なんだろう。
 その一部に東京大学の博物館があったので、そこの窓から丸の内駅前広場を眺めた。広場の整備はこれからやるらしい。

 東大博物館は、種々雑多なものが脈絡もなく並べてあって、なんといおうか、なんだかかび臭い懐かしい変古珍奇型の博物館の趣があった。多分、学問の府の権威ある博物館だからとて、わざとそういう展示をしているのだろう。その展示の仕方そのものが博物館である。
現代的なビルの中なのだが、実は70年以上も前の建物である一角にあることも含めて、なんだか面白い場所である。

 世界中からどうやって集めたのか気になるが、それぞれのマニアが見たら垂涎であろうの代物がところ狭しと並んでいるのである。
 時間をかけてじっくりと眺めたなら、ずいぶん発見がありそうだ。
 なんとなく入りづらい、というか、入ってもしょうがない雰囲気だから、超一等地にありながら隠れた名所かもしれない。

 窓から東京駅の写真を撮るだけの目的で入ったわたしが、偶然にも発見して大興奮したのは、赤瀬川原平制作「零円札」である。
 この零円札裁判事件は同時進行で知ってはいたが、本物(画像はこちら)を見たのは初めてで、これはこれはとけっこう感動した。
 これがどうして博物館にあるのかと思ったが、なんと古銭類と一緒に並んでいるのであった。おお、なんという面白さだ!、原平さんが見たらなんと言ってこれを喜ぶだろうかと、気になる。

(追記)「零円札裁判」ではなくて「千円札裁判」であり、零円札と裁判は別らしい。

東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2013/10/30

848東京駅赤レンガ駅舎のスカイラインはどうもゴチャゴチャしている

東京駅に久しぶりに行ってみて、東京都道404号皇居前東京停車場線(通称・行幸通り)から真正面の風景を見た。
赤レンガ駅舎の3階に昔のコピー建築が乗っかったので、以前と比べて両肩が吊り上った感じである。
後ろの鉄道会館(大丸)が無くなって、赤レンガ駅舎のスカイラインがすっきりするのかと思ったら、意外にゴタゴタしている。
左の方から、新しい大丸の大きなビルが張りだしてきているし、八重洲駅前のネオン看板類がかなり明るすぎてハレーションを起こしている。
八重洲駅前はJR開発ではないから仕方ないが、JR開発の新大丸の建物は、せっかく大金をかけて赤レンガ3階をコピー再現した風景を邪魔しているよ。
もったいないことでしたねえ、この容積率を他に持って行ってでもして、ここは引っ込めてもらいたかったなあ。

●2013年10月の行幸通りからの見通し風景は、
赤レンガ駅舎のスカイラインが意外にゴチャゴチャしている
 
●2006年9月の赤レンガ3階コピー再現前の風景は
鉄道会館が赤レンガ駅舎のスカイラインを支配していた 

●独りキャンペーン:東京駅赤レンガ駅舎の復原反対
http://homepage2.nifty.com/datey/tokyo-st/

2013/10/25

84【五輪騒動】7神宮外苑の絵画館のアカアカと陰りもないライトアップの向こうに新国立競技場を幻視した

四谷に所要あっての途上、ふと思いついて、ただいま話題となっている国立競技場と聖徳絵画館のあたりを通り抜けて眺めてきた。
夕闇が迫る中、夜の絵画館のあたりは、どうにも騒々しいのは、あちらには赤々と照らされたゴルフ打ちはなし練習場の鳥かごがあるし、こちらには室内競技場やテニスコートがあって、車や人の出入りや騒音がするからである。
絵画館前広場は駐車場となっていて、ライトアップされた絵画館の全景を入れて写真を撮るのは邪魔であるが、こうやって、明治天皇のご聖徳のおかげで禁苑は開放されて、万民の一般市民が夜も楽しむことができる広場となっているのである。
絵画館はアカアカと一点の陰りもないナトリウム等のライトアップで、まるで外苑に横たわる仏壇のお燈明の列のごとく輝いている。建築を見せるなら、こんなに影なしライトアップはやりかたが違うだろうと思うが、お燈明ならまあ、よろしいか。
いやまてよ、これは明治大帝の陰日向無きご聖徳を象徴しているつもりだろうか。

このお燈明の向こうの森の上に見えるのが、国立競技場の照明塔であるが、2020年東京オリンピック主会場となるころは、新しい国立競技場が建ちあがっているだろう。
あの黒い森の上に、自転車ヘルメットのお化けのような曲線の綾なす小山が、光り輝くことであろう。
20世紀初めの日本帝国の残影と、21世紀初めのグローバル日本の新光、これらふたつの出会う皇紀二六八〇年、これまた明治大帝のご聖徳なるかや?




2013/10/20

846【五輪騒動】長屋談議2020年東京オリンピック新国立競技場はモノスゴイもんだ

この前の東京オリピックが残したもの

八五郎ご隠居、元気ですねえ、ストレッチ体操なんかやってて。まさか7年後のオリンピックまで生きようってんじゃないでしょうね。

隠居おお、八ッツァン、なに言ってんだい、あのな、わたしはオリンピックてのが嫌いなんだから、そこまで生きなくてもいいんだよ。

え、嫌いですかあ。

ああ、嫌いだねえ、あんな国威発揚運動会は大嫌いだよ。国際親善だから勝とうが負けようが参加することに意義があるだろうに、あのメダル競争はなんだい、国家代表じゃないのに国旗を揚げて国歌を演奏するって間違ってるよ、戦争がない時に戦争の好きな奴が代わりにやってるのかい、あれは。

まあ、まあ、まあ、興奮しないで。あっしは好きだねえ、わくわくしますよ、早く来ないかなあ。そういや、この前のオリンピックの時は、ご隠居はどうしました?

1964年東京オリンピックだな、やったってことは知ってるけど、見てないし、ほとんど何も覚えていないなあ、アベベってマラソンのヒーローがいたような。建築設計をやってた頃だから、代々木の国立体育館のできたのが一番の思い出だねえ。

あのオリピックを機会に東京の都市づくりが進んだんでしょ。高速道路とかね。

そうだ、あれは1960年か61年かなあ、東京の日本橋を渡っていたら、その川の中で工事しているんだよ。基礎になる杭を打ち込んでるんだけどね、なにしろメタンガスが臭うドブ川で、底にはヘドロが積もりに積もってるから、杭が自分の重さでズブズブともぐり込んでしまうんだよ。またその上に杭を継ぎ足してから機械ハンマーで打ち込むんだけど、はじめはスカンスカンなんて空振りしてて、そのうちにドカンドカンと本格的に打ち込むようになる。そうやってできたのが日本橋の上をまたいで、もうひとつの日本橋になった首都高速道路だな。

そうそう、あんまり不細工なんで、その高速道路をどけようって話が起きてるようですよ。

うん、だいぶ昔からその話が出ては消えてるな。まあ、首都高全部を取っ払ったとしても、日本橋の上だけでも門形にして高速道路を保存してもらいたいね
え、わざわざ保存するんですか、なんでですか。

隠▲
だってさ、戦後復興を乗り越えてオリピックに向かう日本の高揚期の記念物だし、その後の都市公害や景観破壊を引き起こした負の記念としてね。

以下、続きは
■国立競技場は神宮外苑にあるのじゃないよ
■新国立競技場案について有名建築家がイチャモンつけた
■法律違反計画を法律が後から追いかけて追認した
■歴史的文脈の中でやるなら国威発揚だよ
■こうなりゃ聖徳記念競技場だあ~


続きと全文は
⇒「長屋談議・2020年東京オリンピック新国立競技場はモノスゴイもんだ
https://sites.google.com/site/dandysworldg/newnationalstadium

参照⇒なぜ今頃になって建築家は新国立競技場に異議をいうのか
http://datey.blogspot.com/2013/10/842.html

2013/10/14

845初めての文楽見物で「生写朝顔話」を観てきて歌舞伎よりもちょっと面白かった

神奈川県青少年センターに文楽公演を観に行った。住処の近くだから、国立劇場に行くより便利である。
演目は「生写朝顔話」(しょううつしあさがおばなし)の、明石船別れの段、笑い薬の段、宿屋の段、大井川の段。
ストーリーは、恋する男女のすれ違い譚で、昔話「君の名は」である。あ、君の名はもいまや昔話であるよなあ。

実は文楽の実物を見たのはこれが初めてである。映像などで一応は知っていはいたが、舞台が大きいのには驚いた。人形劇だから小さいと思い込んでいたが、実物の7割くらいの大きさだろうか。

人形遣いの姿を見慣れないうちは気になるが、やがて慣れてきて気にならなくなった。
それにしても3人でひとつの人形を動かすのは、なかなかその息を合わせるのには厳しい修業がいるのだろうと思う。

竹本あるいは豐竹大夫の浄瑠璃は、それ自体が顔と声で泣き笑い怒り狂う演技であり、なるほど、昔はこれを美しい娘がやって大人気だったということが分るような気がした。

文楽のどこが面白いのか、これ見ただけではわからないが、初めての文楽は、それなりにおもしろかった。
人形の所作と浄瑠璃語りの面白さが、歌舞伎とは違う面白さのような気がした。歌舞伎のように人間が演じたら臭くなる演技も、人形にやらせるとみられるということもありそうだ。

演技者の中に浄瑠璃の豊竹咲大夫と三味線の鶴澤燕三がいたが、このふたりだけは知っている名であった。だいぶ前に、能楽師の野村四郎の謡かたり三人の会の公演に出ていた人である。

これを見て昔を思い出したのは、少年時代に読んだ講談本である。そのなかに朝顔日記というのがあって、これが本日の出し物の講談版であるらしい。
大井川のほとりで盲目の女が恋しい男を探してうろうろする話だった、覚えているのはこれだけ。

参照:謡かたり三人の会「隅田川」
http://homepage2.nifty.com/datey/nomura-siro/2005utaikatari.htm
参照:コラボレーション能「謡かたり隅田川」を見る
http://homepage2.nifty.com/datey/nomura-siro/nomura-utaikatari.htm

2013/10/13

844金木犀の花が香り銀杏の実が臭う公園で懐かしい記憶の中の嗅覚風景がよみがえる

 秋たけなわという今日の晴天、大通公園をふらふら徘徊していると、ウンコのにおいと金木犀の花の香りが同時に鼻を刺激してきた。オッ、これはなんだか記憶にある懐かしい組み合わせだぞ。

 昔々のこと、まだ下水道が普及していない頃、汲み取り便所の糞尿の悪臭をいくぶんか中和させようとて、金木犀の花の香りがする香料を入れた壜を便所に置くことが流行した。今それが秋晴れの公園に漂っているのだ。
 ああいうことをされると本当に困る。わたしの嗅覚の記憶は、金木犀はウンコに臭いになってしまった。
でも、こんな都心で汲み取り便所はもちろんなくて、これは毎年のことだが今の季節に実がなる銀杏が落ちて、あの糞尿そっくりのにおいをばらまいているのだ。
 たまたまその銀杏の木の下に、金木犀の花が咲き誇っていて、これまた香りを競って振り撒いている。嗅覚で懐かしいと思うことは少ないが、今日はそれに出会った。
  
 ネットで調べたら、エステー化学株式会社で販売し、70年代初頭に出して90年代前半まで主流商品だったそうだ。さらにネット検索したら、金木犀の香水があるようだ。
 それはそれはなんともはや、金木犀の香りの女性に出会ったら、わたしは逃げざるを得ませんな。バスやエレベーターの中だったら途中下車だな。それとも「お懐かしい!」と近づくか。
 ま、ご当人は知らぬが仏だけどね。