2015/11/21

1146【終活ゴッコ:懐かしい品々処分:カメラ編】戦前から今日までの7個の古カメラをもう捨てようっと、、

 今年になって蔵書の処分という終活をダラダラと続けている。ほかにも処分するべきものがあったなあと思い出したのだが、どうでもいいのに、なんとなくとっておこうと、どこかに放り込んでいた懐かしい品々である。
 まず、カメラが7個も出てきた。うち2個(①と②)は父親の遺品であり、③~⑦の5個はわたしのものである。試していないが、電池を入れると①と⑦のほかは使えそうな感じもある。

●父のカメラ
 戦前のカメラの①「KINKA HAND CAMERA」については、かつてこのブログに掲載したら、読んだ方からその由緒を教えてもらったことがある。http://datey.blogspot.jp/2009/04/118.html 

 珍しいものだろうが、もうボロボロで、今日もこの撮影用に引っ張り出したら、あちこちポロポロと欠け落ちる有様である。
 わたしがカメラなるものに触ったのは、これが最初であった。小学生の頃にこれを引っ張り出してもてあそんでいた。中学生になってから何とかして写せるようにしたいと、近所のカメラ屋さんに相談したが、なにしろガラスの乾板なんてものは、戦後の貧しい時の田舎町には存在しなかった。
 父がこのカメラを買ったのは1935年、わたしの姉がが生まれたときのようだ。その姉は3歳で夭折してしまった。このカメラは1942年まで使ったらしい。たぶん、もう遊び用には、ガラス乾板も印画紙も無くなったのだろう。

 もうひとつの父のカメラ②「FORMULA SF-D」は、戦後に買ったものであるが、いつごろのものか知らない。楽天オークションにジャンクで1380円とある。

●わたしのフィルムカメラ
 戦後しばらくはカメラは高価なものものだったから、今のように誰でも持っているものではなかった。父のもう写せないカメラをいじっているうちに、なんかして本当に移すカメラをほしいと思って、小さなおもちゃに毛が生えたくらいのカメラを買ったことがある。たぶんそういう思いを持つ少年向けのものだっただろうが、詳しいことは忘れた。
 大人になってから、カメラを借りて写すことはあったが、自分で買ったのは1967年だったような気がする。吉祥寺で仕事をしていて、知り合ったカメラ屋さんで買ったのが、当時はじめて世に出たコンパクトカメラの「コニカC35」であった。
 これは吉祥寺の街の変化を記録するのが主な目的で買ったのだが、以後、あちこちの街の変化をカラーリバーサルフィルムで記録する癖がついた。

 この次に買ったのは③「オリンパスXA」である。発売が1978年、これを買った理由の第1は、日付がはいるからであり、第2はデザインがすばらしいことである。気に入ってずっと使った。

 だが、街の風景の記録にはカメラレンズが広角であるほうが便利なので、それを待っていた。
 コンパクトカメラで28mm広角が出たのは1994年、⑤「FUJIFILM CARDIA MINI TIARA」であり、日付も入るので、直ぐに買った。小さくてポケットにも入る大きさなので、便利に使った。

 その後で28mmから90mmまでズームできる1994年発売④「ペンタックスESPIO928」も買ったのは、ちょっと勇み足だった。これはコンパクトよりは大きすぎる。

 ここまでがフィルムカメラである。使ったフィルムが一体いくつくらいかわからないが、ほとんどがカラーリバーサルフィルムで、スライドマウントしているのだが、その量が膨大である。たぶん3,3万枚はあっただろうが、だんだんと捨ててきた。それでもまだ5000枚くらいはあるだろうか。これの処分を思案中である。エイヤッと全部捨ててもよいのだが、、、。

●わたしのデジタルカメラ
 そのうちにデジタルカメラが出てきたが、買うかどうか思案していた。28㎜の広角がでたら買おうと待っていた。2004年についにズームの広角デジタルコンパクトカメラ⑥「RICOH CAPRIO R1」が出たので買った。これは單3電池も使えるのがよい。

これが故障したので、⑦「CANON IXY900 IS」を買ったのが2006年である。

 これを水の中の落していっとき故障したが、なんとか回復してだましだまし使っていた。でも、2010年にどうにもダメになったので、古カメラ屋で同じものを買った。今、ここの写真を写しているカメラである。実は、この他に2個のデジタルカメラを買った記憶があるが、詳細を忘れた。
 いずれにしても、広角、日付入り、コンパクト、視覚ファインダーつき条件のカメラであり、街の風景の記録をするためののもので、カメラ収集趣味も写真撮影趣味もない。
 デジタルカメラになって、フィルムはたまらないのがいいが、PCの中に画像が一体何枚ある事か、一応は整理してあるが、場所も重さもないからいいようなものだが、貯めておく必要がほとんどないなあと思いながらも溜めこんでいる。

 さて、もう書いて記録を残したから、この7個のカメラを近いうちにゴミに捨てようっと。(カメラ収集癖のある方で、ほしければタダで差し上げますよ)

(20200927追記)2010年に中古で買ったキャノンのカメラが、今日壊れた。よく働てくれた、感謝である。さて次のカメラをどうするか、普通なら携帯電話機にカメラがあるから要らないのだろうが、私はなにしろガラケーである。さて、さて、年取るといろいろと壊れるなア、このカメラといい、ガラケーは息絶え絶えだし、パソコンはよたよた、健全なのはタブレットタイプパソコンだけだなア。そろそろ持ち主を処分するほうが早いか。

2015/11/09

1145【横浜ご近所探検隊が行く】ヨコハマ港名所「象の鼻パーク」に本格的空き家廃墟コンセプトの新名所ができたらしい

みなとヨコハマ名所「象の鼻パーク」、謎の新名所か

明るい港のそこだけ土地は草ぼうぼう、蔦がからまる木造2階建て、
屋根のセメント瓦は崩れ落ちそう、真っ赤に錆びた高いポール、
ちかごろ日本全国で評判の空き家廃墟をコンセプトにした
 新名所に違いない、これは面白そう、

行ってみようとて、近づけばますます本格的廃墟デザイン、
アンテナにカラスがとまっているところもニクイね、

振り返れば海にオドロオドロな龍がいたりして、
ますます雰囲気を盛り上げる。

 港側には入口がなさそうなので、
表にまわって大桟橋通り側から眺めると、
おお、入口両側にはレトロな街並みを従え、
後ろにランドマークタワーを控えさせて堂々たるものだ。


いよいよ路地を入って近づけば、
蔦のからまる壁にCLOSED、
あ、今日はお休みの日なのか残念、
レターポストの上に黒猫が眠っているのもニクイねえ、
ドアのガラス越しに見る室内は、いかにも廃屋っぽいインテリアで
壁は汚れ、床にはなにやかや散らばっていて、本格的雰囲気だ。

こんど開店しているときに来よう~ッと。

2015/11/06

1144【神宮外苑あたり徘徊③】なんだか懐かしい風景の霞ヶ丘都営住宅団地を消滅させる外苑都市計画提案は実は都住宅マスタープランに背反していたのでは?


●どこか懐かしい風景の霞ヶ丘都営住宅団地へ

 銀杏並木から消えた国立競技場そしてと体育館へと歩いてきて、消えた明治公園四季の庭に沿って外苑西通りを南へ、半分消えた明治公園霞が丘広場、そして霞ヶ丘都営住宅へとやってきた。

 この都営住宅はまだ建っているが、いずれ新国立競技場のトバッチリを受けて、消える運命にある。トバッチリ組の霞ヶ丘広場がここに移ってくるからである。都営住宅を地区内のどこかに建てるのかと思ったら、完全に消えるらしい

 なんとも懐かしい団地風景である。5階建てだけどエレベーターがなくて、階段で上り下りする。給水塔があるのも懐かしい。わたしは1970年代に10年ほど、このような団地に住んでいたことがある。
 庭には今、たくさんの果樹があり、柿やミカンや柚子等がたわわに熟している。いまどきのキレイに刈り込んだ造園ではなくて、草も繁っているのだが、なにやら懐かしく成熟感がある。


●建て替えられた北青山都営住宅団地

 実はここによる前に、外苑銀杏並木の東隣にある北青山1丁目都営住宅に寄ってきたのだ。
 そこはかつてはここと同じような低層棟が建ち並んでいたのだが、いまは高層住宅に建て替えられている。
 その周りはここと違って、いかにも造園デザインの風景で、キチンとしているのである。いまどきで言う高級マンションのようだ。立地条件も高級住宅地並である。
北青山1丁目都営住宅

 霞ヶ丘都営住宅だって、ほとんど同じ立地条件である。建て替えすれば、暮らしやすい良い住宅になるだろうに、なぜトバッチリで消滅させるのだろうか。
 代替の都営住宅として、JSC・日本青年館ビルに高層都営住宅を併設したってよさそうなものを、もったいないと思う。

 いま、空き家問題やマンション問題が起きている。大災害で住宅難民が大量に出ることが予想されている。東北地方では大震災後に大慌てで大量の公営住宅を建てている。
 そういうことから分るように、いまこそ公的賃貸住宅が重要な時なのである。遊びの場の競技場のトバッチリで、こんな良い立地の公的住宅が消えるなんて、なんともやりきれない。

●霞ヶ丘団地を消す地区計画提案は都マスタープラン違反

 そこでちょっと調べてみた。東京都や新宿区には都市マスタープランとか住宅マスタープランとか呼ばれる、まちづくりの基本計画がある。そこにこの霞ヶ丘住宅のことをどう書いてあるか。
 外苑地区計画を提案したときの書類「地区計画企画提案書」に引用してある「東京都住宅マスタープラン」には、「霞ヶ丘地区の都営住宅建て替え事業が特定促進地区として指定」と書いてある。新宿区の都市マスタープランにも同じことが書いてある。
 そして引用の図には『「低中層個別改善地区」地区の特色を考慮した良好な住環境へと改善するために地区計画等を活用して整備する』と記入がある。
 つまり霞ヶ丘団地も、北青山団地のように、建て替えをすることに決めてあったのだった。

ということは、ここの地区計画を提案内容には、もちろん霞ヶ丘都営住宅が競技場のトバッチリで消えるようになっているから、これは上位計画に背反している提案である。
 う~む、それを受け取った東京都は、自分のところで作ったマスタープランと違う内容なのに受理したのであったか。
 受けとってからマスタープランを変更したのかしら、行政裁量として適切だろうか。

参照
◆【五輪騒動】新国立競技場建設と神宮外苑再開発瓢論集

2015/11/04

1143【神宮外苑あたり徘徊②】今日は祭神の誕生日の明治節、神社境内の外苑は祭礼の見世物小屋群で賑わっている

●自然を無理に仕立てる銀杏並木

 神宮外苑を訪れたのは、一昨年の秋に来て以来だ。また同じことを書きそうだが、あの時と違うのは、国立競技場が消えたことである。
 正面ゲートの青山通りから銀杏並木を入っていく。東京は暖かいから、未だ並木の銀杏は黄葉を迎えていない。
 葉張りが隙間があり過ぎるし、樹幹の先端あたりが妙に細く細く立ち上がっているのは、最近になって剪定をしたのだろう。


 銀杏の木の自然の姿は、絶対にこのようにはならない。ばらけて四方に広がるのが自然なのに、ここではわざわざ剪定して不自然な円錘形の銀杏並木をつくるのである。
 それは絵画館(小林正紹デザイン)という明治日本帝国の記念碑に、一点透視で視線を集める仕掛けのひとつとして重要な造園景観なのだ。ヨーロッパに学んだ造園家・折下吉延のデザインである。

 ここではいわば絵画館が神殿であり、参道が銀杏並木である。
 明治天皇の後に立った大正天皇では、カリスマ性の形成がおぼつかないために、明治政府が一生懸命に作り上げた明治帝国という仕掛けが崩れかねない。そこで明治天皇を神に仕立てて明治神宮を作り、その境内地の外苑がここである。
 外苑の土地はほとんどが官有地だったが、土木、建築、造園等の整備の費用は、全国から寄付と人力奉仕を集めた。その方法は官僚機構を使って地方各地に割り当てが及ぶことで、明治国家の末端への浸透を意図する国家事業であり、明治神宮は国営施設であった。
 また、青年団活動を起して勤労奉仕も求めることで、その団体活動は強兵づくりの基礎となった。
 相撲場や競技場を作ったのも、青年たちが兵士として壮健な肉体を養う場としてであり、それはここの前身である青山練兵場の歴史を受け継ぐものである。

●祭神誕生日の祭礼で見世物小屋が立ち並ぶ境内

 さて、今日は、まさにその明治天皇が生れた「明治節」の11月3日、お祭りの日であろう。神社で祭りならば、境内に屋台や見世物が出てきて賑やかなはずである。
 おお、そのとおり、絵画館前広場にはたくさんのテント小屋が立ち並び、なにやら芸事の披露大会をやっているようだ。この賑わいこそが神社境内らしさなのだ。妙に気取った銀杏並木と絵画館のパースペクティブ景観なんて、お呼びでないのである。
 見れば絵画館の右後ろに、なんだか背が高い(名ばかり)マンションのようなビルが建っている。一点透視の焦点が乱れた。東京都都市景観計画の規制は、役に立たなかったのか。
 

 今日は仮設の小屋がたくさん出ているが、ここには常設の見世物小屋もたくさんある。絵画館、神宮球場、第2球場、そして国立競技場(いまは外苑施設ではないが、かつてはそうだった)、ラグビー場が5大見世物小屋である。
 それらはいずれも巨大すぎて、じつは都市計画の風致地区の高さ制限に違反しているのだが、いずれも風致地区指定(1970年)以前に建ったから、既得権がある。
 そのほかにも観客参加兼用見世物小屋として、水泳場、ゴルフ練習場、テニスコート、草野球場、バッティングセンタなどなど、神社境内らしく雑多に立ち並ぶ。

 肝心の絵画館も、その威容を見せるための周囲に階段や噴水や植え込みでデザインしたオープンスペースは、平らなところはどこもかしこも駐車スペースになっており、威容をいや増しに見せるどころか、これも雑多な神社境内風景らしくなった。
 
 この前来た時は、絵画館にむかって左に眼を転じたら、森の上に何やら鉄骨造りの無粋な代物がいくつも立っていて、それはこの境内で最大の見世物小屋だった国立競技場の夜間照明等であった。
 そして今日はそれが消えている。5年後にはまた立っているのだろうか。
2013年には向うに国立競技場の照明塔が見えていた

●外苑の聖なるモニュメントは駐車場扱い

 あまり知られていないようだが、絵画館の真後ろには、聖なるモニュメントがある。ここが神宮外苑となる前の青山練兵場で明治天皇の葬式を行った時に、その棺を安置した葬場殿跡を記念している場所である。
 そのモニュメントは、丸い石組の草の生えた基壇の上に、大きくその葉を茂らせている楠が一本立っているだけである。絵画館の裏庭の、しかも駐車場の中にあって、その雑多なる風景には聖なるモニュメントの風情はない。
 だが実は、外苑の銀杏並木から絵画館への真直ぐなる軸線上の頂点に位置するこここそが、明治神宮の祭神である明治天皇へのフォーカスポイントなのである。



 そこに神殿を設けずに常緑の大樹としたのは、いかにも日本的信仰の形らしい。これは外苑のプランナーであった建築家・佐野利器の考案であったという。
 そのモニュメント大樹のまん前にひろがる絵画館は、いわば絵馬を飾った拝殿みたいなものである。この拝殿は、いかにも西欧王権的な大仰さである。

●2020年再登場する外苑最大の見世物小屋は

 聖なるものは森の中に隠れて奥に居ますべきとする日本的信仰の姿(神宮内苑)と、西欧近代に追いつき追い越せの明治帝国を露骨にプレゼンテイションする姿との間のギャップが、秋の日の外苑の見世物小屋群の喧騒なる風景に見事に現れていて、妙に面白かった。

 さて、2010年に再び姿を現すはずの巨大見世物小屋は、どんな形を見せるのだろうか。ザハ・ハディド案の未来宇宙船が没になったからには、日本の神社境内にふさわしいとして、檜皮ぶき屋根が乗っていて玉垣に囲われて登場するのだろうか、まさか。 
これはわたしの戯作
 しかし、見世物小屋はしょせん見世物小屋、伝統的なテントやヨシズ張りの小屋掛けがいちばん似合う。そんな軽~いデザインを伊東豊雄か隈研吾(どちらもただ今ゼネコンとグルになって準備中)が見せてくれるだろう。
 あ、そうだ思い出した、1964年オリンピックに、神宮内苑の脇に建った代々木の国立体育館(丹下健三デザイン)は、まさにサーカステント見世物小屋そのものであった。
代々木国立体育館

キグレサーカス

(つづく)
参照
◆【五輪騒動】新国立競技場建設と神宮外苑再開発瓢論集


2015/11/03

1142【神宮外苑あたり徘徊①】消えている今だからこそ見える束の間の風景を探しに消えた国立競技場を観に行く

●東京体育館と絵画館が呼応する期間限定風景

 秋晴れの日、東京ひとり徘徊は、神宮外苑あたりへ、消えた国立競技場を観に行った。
 消えたものは見えないが、消えたからこそ観える風景、5年先には変ってしまうから今でなければ観ることができない束の間の風景を探しに行ってきた。

 まずはこの風景はいかがですか。向うに見える坊主頭は、言わずと知れた神宮絵画館、手前左に大きくかぶさる丸がいくつも重なる建築は、これまた言わずと知れた東京体育館である。傾いている四角な箱は、ゲージツらしい。

 もう少し引いてみるとこうなる。

  東京体育館と神宮外苑絵画館の位置関係はこうである。

●渋谷川の明治公園が消えた

  東京体育館を背にして、消えた国立競技場を観るとこうなる。絵画館の坊主頭から神宮球場まで見える。この風景は、今でなければ見ることはできない。
 つい半年ほど前までは、この向うに国立競技場が立っていて、この風景ではなかったはずである。残念ながらそのころの写真を撮っていない。
 体育館との間には渋谷川が流れている谷間に、明治公園四季の庭があるはずだが、いまや白い板囲いの中の工事現場になっていて樹木を撤去しつつあるようだ。川はどうなるのだろうか。

 この写真に見える黒い庇や階段は、もちろん体育館である。向うの坊主頭の手前の大きな空き地が、消えた国立競技場である。2020年には、ここに新国立競技場が建っていることであろう。

 上の写真を撮っている位置は、下の写真(google street)の外苑西通り左のコンクリート壁上にある東京体育館の裏出入口から右を見おろしている。
 こうやってみると渋谷川の谷間に擁壁を立てたという地形的なせいもあって、体育館も実際にはかなり高い建物になっている。


●現れた懐かしい未来都市のような期間限定風景

 では逆に、坊主頭絵画館の側から東京体育館を見るとどう見えるか。
 絵画館を背にして、競技場撤去工事の板囲いにある透明プラスチック板を通して覗き込んだ。
 おお、消えた国立競技場の跡地の向うに、今だからこそ観えるのは、ロケットと宇宙船そして高層ビルが林立する未来都市だよ~、、、これって、わたしが少年時代の雑誌で観たデジャビュ感のある風景だなあ。
 今や幻となった新国立競技場ザハ・ハディド案も未来型宇宙船であったが、東京体育館は既に地球に降り立った前世期型宇宙船というところか。
 
NTTのタワーとの取り合いが絶妙で、ヘンに懐かしいような。

では、ちょっと悪戯して


●没になったザハ・ハディド案は東京体育館に良く似合う

次は、東京体育館の正面にまわって、千駄ヶ谷駅前の側から眺めると、ふむふむ、こちらから見るともうちょっと近代的宇宙船かもしれない。
 宇宙船つの体育館を大いに意識して、一義的にはこちらとの調和を求めたのであったらしい。
 一方、クラシックな絵画館との関係は、むしろ極端に対比することで記念性をさらに高揚させようと考えたのであろうと、いまさらながら確認したのである。
 実はこのことは、神宮外苑地区地区計画の企画評価書に、それらしいことを記してある。その評価書は、都市計画家の関口太一が書いたのであろう。

これが幻のザハ・ハディド案と東京体育館の並ぶ模型写真
よく似た仲良し母娘みたい

 つぎは、絵画館の方にもいってみよう。(つづく)

参照
◆【五輪騒動】新国立競技場建設と神宮外苑再開発瓢論集

2015/11/01

1141中央アジアのキルギス共和国で活動する国連機関ユニセフ現地事務所代表の杢尾雪絵さんによる現地報告を興味深く聴いた

●中央アジア・キルギス共和国

 中央アジアのキルギス共和国で活動する、国連機関ユニセフ現地事務所代表の杢尾雪絵さんによる現地報告『若者を戦いに行かせないために』を、10月30日に東京のユニセフハウスで聴いた。
 2010年の民族紛争を経て中央アジアで初めての民主主義共和国を築いたが、貧困差別と国境をまたぐ民族紛争の中で、青少年を平和へとどう育成するか、心を砕きつつ活動をしている。

 この日本列島には、地続きで接する他の民族の国はないし、各種多様な民族が住んでいるわけでもないことで、民族紛争や国境紛争は無い。もっとも、国境紛争がない譯ではなく、千島列島の一部と日本海の孤島をめぐって線の引き方で諍いはあるが、人が死ぬような紛争はない。
 ところが、ユーラシア大陸では多民族がつばぜり合いしながら住む地域や国がいくつもあり、紛争が絶えない。中央アジアのキルギス共和国もそのひとつである。
キルギス共和国の位置
キルギス共和国と紛争地のフェルガナ盆地
 杢尾雪絵さんは、キルギスで国連機関のユニセフ事務所の代表として昨年から赴任している。その前はウクライナ代表だったが去年転任した。
もう20年も各国の国連機関で仕事をしている国際活動家である。
 転任直前の去年4月にも、一時帰国して紛争真っ只中のウクライナで、子どもの被害の状況といかにして救うかという現地報告を聴いた。
 そして今年、こんどはキルギスでの活動報告である。この貧困で多民族の国における、子どもや青少年の課題とユニセフができることを語った。

●キルギスの貧しさと日本の豊かさ貧しさ

 キルギス共和国の2014年の人口は583万4000人、人口一人当たりGDPは1299$であり、一人当たり1000$以下とされる低所得国をようやく抜け出して中低所得国になった。これは世界国別比較で158位に位置し、近隣諸国と比較して見る。
アフガニスタン    650$ 174位
・タジキスタン    1113$ 159位
・キルギス      1299$ 158位
・パキスタン     1343$ 152位
・ウズベキスタン  2046$ 136位
・中国         7589$  80位
・トルクメニスタン  8270$  73位
・カザフスタン   12183$  60位
(日本        36332$  27位)

 日本人の1人当たりGDPはキルギスの30倍、それほどに日本は豊かな国なのである。日本の子どもは豊かなんだろうと思う。
 ところが、2014年の子ども貧困率を比較すると、キルギスでは45%の高率であるが、日本でも16%と意外に髙いのである。
 しかも日本の子ども貧困率は、1985年の11%からしだいに上昇している。つまりどんどん貧乏になっている。アベノミクスとかって浮かれているのは、どこのことなのだろうか。

 ソ連崩壊まではその一員のキルギス・ソビエト社会主義共和国であったが、1991年の独立後はキルギスタン共和国となり、ロシアとは独立国家共同体 (CIS) の集団安全保障条約のもとにある。
 2005年のチューリップ革命、2010年の反政府運動の大騒乱を経て、今は国会が主導権を握る議院内閣制となり、大統領は象徴的な地位になっている。
 中央アジアの近隣諸国が大統領による独裁制の中で、この民主主義体制は珍しいという。
 だが、産業がないこの国の最大の産業は、ロシアへの出稼ぎだそうだ。国民所得の3割に相当するくらいの基幹産業とか。

●貧困格差がまねく民族紛争の中で

 貧困が格差と差別を生み、それが民族間の争いになり、歪んだナショナリズムを生み出す。
 かつてソ連時代は、各民族は平等にという国家政策だったが、ソ連崩壊後に起きた混乱と貧困が民族対立を生み出し、それが民族間紛争を招いている。
 キルギス南部のウズぺキスタンとの複雑な国境地帯にあって民族が入り乱れるフェルガナ盆地あたりでは紛争が絶えない。

 それに近ごろは宗教過激派が青少年をリクルートすることも多くなり、穏健なキルギスのイスラムも原理主義へと染まる傾向もあって、紛争は国際化する。国際紛争も伴う民族間紛争は、いったん起きてしまえば憎悪が憎悪を生む悪循環構造となる。
 そのような中で、国連機関のユニセフの活動は、次の世代に民族間紛争が起きないように、子ども、少年、青年たちを教育することが最も大切なことと考え、大きく動くよりも小さなできることを地域ごとに、たくさん積み重ねていく方針でやっているという。

 例えば、紛争国境を挟んだ両方の地区に同じ教育施設をつくって、両方で同じような活動をすることで、教育を受けた若者たちが次の平和を築くことを期待する。
 そのために、国連ユニセフのキルギス事務所代表としての杢尾さんが、直接に折衝し連携する今の政府の教育担当閣僚は、若いやる気のある女性であり、期待できるという。

●いくつもの紛争国で仕事してきた国際人の杢尾さん
 
報告会の会場には、100名くらいの聴衆が来ており、若い人たちも多くいて、積極的に質問している姿をみて、杢尾さんの後を追う世代があることを頼もしく思った。
 そして、わたしの仕事仲間だった彼女が、こうして今、中央アジアの貧しい国で子どもの幸福のために、平和のために活動していることを、わたしは誇りに思い、嬉しいことである。
 彼女がわたしの仕事場から、湾岸戦争のクルド族難民キャンプ支援にトルコのUNHCRへ飛んで行ってから、アメリカ留学を経て国連へ、あれからもう四半世紀にもなるだろうか、月日は早く経つ。

 これまでトルコ、モンゴル、コソボ、モンテネグロ、タジキスタン、ウクライナなどの国情が複雑で、時には戦火が及ぼうとする地域で活動する彼女は、なにしろ若いころはスカイダイビングなんて空を飛んでいたくらいだから、やっぱり肝っ玉姐御だからできるのだろう。今は可愛い娘もやさしい夫もいるから、肝っ玉母さんか。
 わたしは何もできないが、北部の首都ビシュケクに住みながらも、紛争地域の南部にも月に2,3回は行くという彼女の身に、危ないことが起きないようにただ祈るだけである。 (2015/11/01)
杢尾さんが赴任した国々

ユニセフによる杢尾雪絵(もくお ゆきえ)さんのプロフィル
 ユニセフ・キルギス共和国事務所代表。
 大学卒業後、都市計画建築コンサルタントとして就職後、青年海外協力隊員(JOCV)や国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の国連ボランティア(UNV)を経て、1991年から1994年末まで米コーネル大学地域計画学科に留学。
 国連食糧農業機関(FAO)ローマ本部インターンを経て、1995年にジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(JPO)としてユニセフ・モンゴル事務所に勤務。ユニセフ・コソボ事務所長(1997年~)、モンテネグロ事務所長(1999~2001年)、タジキスタン事務所代表(2001~2008年)、ウクライナ事務所代表(2009~2014年)を務めた後、2014年7月より現職。

参照:
タジキスタンで活躍するユニセフ杢尾雪絵さん(2002)
https://sites.google.com/site/matimorig2x/mokuoyukie-tajik
紛争地ウクライナの国連機関ユニセフで活動する杢尾雪絵さん(2014)
http://datey.blogspot.jp/2014/04/918.html


外部関連ページ
◆いつも心に青空を ユニセフ タジキスタン代表・杢尾雪絵(NHKオンライン)
http://www.nhk.or.jp/professional/2006/1130/