2016/03/25

1182【大原美術館コレクション展】六本木で懐かしの泰西名画鑑賞センチメンタルジャーニーの眼福

●少年期の思い出の懐かしい名画に出会う
 
 昔懐かしい絵画にたくさん出会った。絵を懐かしいという気分で見るのも、けっこう楽しいものだ。
 春の気配が濃くなってきてもまだ寒いけれど、ちょっと花見気分も起きてきて東京六本木に、国立新美術館で開催中の大原美術館コレクションの出開帳を観に行ってきた。
国立新美術館(設計:黒川紀章)
ボテ腹デザインを見上げる
ちょん切られた旧東大生研校舎

 大原美術館は倉敷にあるのだが、わたしの故郷の高梁盆地から近いので、少年時から何度か行ったことがある。長じて、後に妻となる女性がこの美術館の近くに住んでいたので、一緒によく行った。そしてお決まりコースの喫茶店エル・グレコでお茶を飲むのであった。
大原美術館が見える倉敷の街
大原美術館のコレクションは、有名ないわゆる泰西名画が多くある。少年時に接した体験で、いくつか心に焼き付いている絵があり、それらがあるかとセンチメンタルジャーニーの気分で出かけたのだが、見事にその期待に背かなかった。
 
 おお、これこれとうなずきながら観たのであった。ここにちょっとリストアップして見よう。
ジョヴァンニ・セガンティーニ『アルプスの真昼
エル・グレコ『受胎告知
ポール・ゴーギャン『かぐわしき大地
アメデオ・モディリアーニ『ジャンヌ・エビュテルヌの肖像
フェルディナント・ホドラー 『木を伐る人
ピエール=オーギュスト・ルノワール 『泉による女
ポール・セザンヌ『水浴
ギュスターブ・モロー 『雅歌

 倉敷の大原美術館の入り口両側に建つロダンによる二つの彫刻は、少年時から目に焼き付いている。さすがにこれらは来ていなかったが、上野の西洋美術館に行けば出会うことができる。
ロダン 「洗礼者ヨハネ
ロダン 「カレーの市民―ジャン=デール

 ところが、わたしの記憶にあるのに、今回の展覧会で観ることができなかった絵画のことが気になった。ジョルジュ・ルオーとファン・ゴッホである。
 今回は来なかったのか、それともわたしの記憶が間違っているのかと、大原美術館サイトのコレクションリストのページを見た。
 ルオーはリストにあるから、これは来なかったのだろう。

●ゴッホの懐かしいあの糸杉の絵が偽物とは、、

 しかし、ゴッホ作品は大原美術館のリストに一つも載っていない。おかしいなあ。
 わたしの記憶では、よじれ立つあのゴッホ流糸杉が2本ある絵と、カフェテラスの夜景の2枚である。もちろん記憶があやふやなこともあるが、いや、たしかに観た覚えがあると、そこは貧者の百科事典をググったら、いくつかの情報が出てきた。

 糸杉の絵の名は『アルピーユへの道』とわかったが、なんとまあ、驚いたことに、これは贋作との鑑定が出たのだそうだ。だから大原のリストにのっていないのだ。
贋作とわかった『アルピーユへの道』だが
わたしには懐かしい感動のある絵だから贋作でも結構
中学生の時に、一緒に行った友人と感動して観ながら、こんな風に描いてみようかな、なんて会話した記憶があるのだから、あったことは確かだ。
 へえ、あれがまあ、偽物とはねえ、懐かしい偽物の記憶ってことになった。

 わたしには好きな絵だったが、好きな絵と偽物の絵とは、玄人にはともかく、一般普通の人が鑑賞するには、全く別のことである。真贋はどうでもよいことだ。
 それは負け惜しみの言ではなく、60年以上も前の中学生がゴッホなる画家のことを今のような世間でいう価値で知っていたはずがないから、作家の名前で絵の価値が決まるなんて、大人の世界ではなかったので、わたしたちは素直にその絵に惹かれたからだ。絵とはそういうものであるべきだろう。 

 そして、あの懐かしい糸杉の絵を、いまではもう見ることができないのかと思ったら、新館の地下に福田美蘭の作品と並べて展示してるそうだ。そのいわくはこちらをどうぞ。
 大原がこの絵を買ったのは1935年だそうだから、以来、これをゴッホの作品としてみんなが素直に興味を持って観てきたのだから、それはもうひとつの文化史である。
 偽物とわかったとしても、少年の時に惹かれた絵を見せてほしいから、隠したりしないでいるのが嬉しい。福田美蘭に感謝、こんど大原を尋ねたら新館地下の糸杉に逢いに行こう。

 もうひとつの記憶のゴッホの絵は『夜のカフェテラス』と分かったが、これは贋作事件はないらしいから、大原にあると思ったわたしの記憶違いなのだろう。
 でも、この絵をたしかに美術館で見た記憶があるのだが、どこだったのだろうか。ゴッホ展なるものを観に行った記憶はないだが、。

●懐かしい仲間たちとともに

 少年の頃の美の記憶は、意外に引きずっているものだと、われながら感心した。
 内外の焼物、彫刻、絵画と盛りだくさんの名作を見て、センチメンタルジャーニーもして、すっかり眼が満腹になり、これはまさに眼福であった。それにしても大原美術館は、現代アートのコレクションもなかなかすごいものであると知った。
 大学同期仲間6人で誘い合って行ったのだが、絵描き趣味人もいるし、甲州の鄙の地からやってきた閑人もいて、それぞれに楽しい見方をしていた。

 見終わってついでに花見をしようかと、近くの檜町公園にぶらぶら行ってみたが、東京の櫻は寒さに未だちじこまっていた。
 それでも面白いのは、その公園にはひとりの同行仲間の息子・森詩麻夫氏が片腕となっている安藤忠雄設計の美術館があるので入って観て、また別の仲間の甥である高須賀昌志氏がデザインした公園遊具を鑑賞したのであった。
 ついでに、わたしが昔に計画した六本木駅上の『アクロス六本木』ビル(設計:RIA)も眺めてきた。まだ建っていたが、中身はがらりと変わっていた。 
檜町公園の高須賀正志デザインンの遊具
檜町公園の高須賀昌志デザインの遊具
実はこの展覧会には、岡山の名士の畏友から招待入場券をいただいたので、懐かしく行ってきたのだ。彼とは故郷で共に少年時代を過ごし、一緒に大原美術館に行ったことがある。「ダッチャン(わたしの少年期のあだ名)は、もうながらく観てないだろうから、、」と、幼馴染だからこその思いやりが実に嬉しい。
 

2016/03/18

1181【横浜ご近所探検】南区新庁舎はこの土地が持つ歴史継承や環境向上について都市デザインが足りないただの箱

●まわりの樹木をすっかり切り払ったのか~ 

 おや、ちょっと見ぬ間にこんな箱が建ってしまったか。 
2016年3月新規建築移転してきた南区総合庁舎
下の写真は、同じ街角の2010年の姿である。あのころは緑が多かったなあ。
かつては戦後復興期にできた横浜市立大学医学部キャンパスだったし
その前は関東大震災復興で建てた三吉小学校だった
 ここは横浜市南区総合庁舎(設計:石本建築事務所)、つい先ごろできたばかりである。う~む、あの緑の木々で囲まれていたキャンパス跡は、さっぱりとした箱になっている。
 ここにはかつては戦後復興期に造られた横浜市立大学の医学部のキャンパスがあったし、その前には関東大震災復興期に造られた小学校があったという、都市の歴史をもつ土地である。
 そのような土地の歴史を、この箱のような新庁舎はどう継承したのだろうか。 

 敷地の周りを取り囲んで木々が繁っていたし、木々の間からちょっと格式ばった医学部本館が顔を見せていて、都心の景観を引き立てていた。
それにしても、これはさっぱりあまりにすぎる。あの木々を伐り倒してしまったのか。近づいてみると、玄関前に2本だけを残しているようだ。イチョウの木らしい。あの豪快な緑の壁がなくなったのが惜しい。
北側玄関前に2本だけ残ったイチョウの木
西側の道路わきに建物との間にバス停と合わせて植栽帯をつくってあり、何本かの桜の木がつぼみをほころばせつつある。だが前と比べると、緑の量がどうにも貧弱である。これから育つには、植樹帯の幅が狭い。
西側道路わきの植樹帯
2007年3月31日撮影、市大歯学部の建物がまだあった
2012年8月16日撮影 駐車場になったがまわりの樹木はまだあった
2015年11月29日撮影 敷地目いっぱい南区役所などが建った

●環境デザインが足りないよなあ

 なにしろ都市デザイン行政の実績を誇る横浜市のつくる行政庁舎だから、それなりの都市デザインを観ることができるだろうと、期待しつつ外回りをぐるりと見てまわった。
 建築デザインとしては、かなり平凡なものである。奇抜が良いとは言わないが、それしても大手建築事務所の無難なデザインというものだろうか、なにかを訴えるようなところもないし、ランドマーク的な様子もない。

 まあ、建築としてはそれはそれでも仕方ないが、環境デザインとしてはどうだろうか。
 上に書いたようにあの樹木をバサッと気前よく切り倒したのは、なんともいただけない。都市景観の継承をしていないのだなあ。やっぱり、あの敷地まわりの大きな樹木の列を残してほしかったなあ。再現するにはセットバックが足りないから無理だろう。
 緑の景観ばかりか、ちょうど角地に顔を見せていた市大医学部本館をイメージさせるランドマーク性の再現も見えない。どこかにあのイメージを継承してほしかった。

 最も気になった環境デザインは、中村川への対応である。なにしろ中村川は、上に高架高速道路がかぶさっていて水面は暗いし、騒音と排ガスをふりまいていて、横浜都心最悪都市環境デザインのひとつである。この高架道路は、もともとは大通公園上空に造る計画を変更してここに持ってきたのだが、田村明の横浜都市づくり遺産である。
 最悪であればこそ、そこに接して横浜市が作る庁舎だから、積極的に川との関係をもって環境を改善するデザインがあるだろうと期待した。特にここには浦舟水道橋という第一級の歴史的建造物もあるのだ。橋、堤防、植樹帯、道路、庁舎を一体にした環境デザインがあれば、この最悪環境も何とかなるだろう。

 最近、日ノ出町の再開発事業では、大岡川と一体にした都市環境デザインをやったから、こちらも何かやっているだろうと期待した。
 だが実は、そちらにまわってみても、特になにもなくて、いかにも裏口然としているのだった。こちら側が車のアクセス玄関なのだが、いかにも裏口から入る感がある。
 かつてはこの川沿いの敷地側には緑の木々が茂っていたから、むしろ悪くなったと言える。建物西側に造った植栽帯をこちらまで廻して、道と川沿い植樹帯と合わせると、豊かな緑を生み出すことができるだろうに。

 とにかく無骨極まる高架道路に対抗するには、地上面で中村川を越えて川の南側の街とこちらをつなぐ仕掛けが必要であろう。ちょうどそこに浦舟水道橋があるのだから。
中村川側のクルマアプローチまわりがいかにも裏口、右が中村川
中村川の南側から見る浦舟水道橋と高速道路高架と南区総合庁舎

●この地の歴史継承がこれでよいのか
 
 南区民じゃないけどヤジウマで中に入って見た。ふむ、ロビーが広くてよろしいが、吹き抜けがないのか。
 おや、その一隅になにか背の高いショーケースがあって、中に骨董品らしきものが展示してある。だが、照明がヘタクソで、ガラスにロビーが写りこんで中の展示品を見ることが難しい。
ホールにある歴史資料展示ケース

 しょうがないので説明書きを見れば、これを建てる前にあった建物の、階段手すりと玄関にあった照明器具を置いてあるのだそうだ。
 この手すりは小学校の思い出、照明器具は市大医学部の思い出のつもりらしいが、う~む、まあ、保存の努力を認めるけど、なんだかいい加減なやり方だよなあ、こういうのは。建築ってのは部品じゃないんだよなあ。

展示してある医学部本館玄関についていた2つの照明器具(左)と
三吉小学校の階段手すりの一部(右) 

 ホールの片隅に、二つの墓石のようなものがごろんと寝転がしておいてある。説明書きを見れば、学校中庭にあった記念樹の石碑だそうだ。奇妙な展示方法である。しょうがないかから、ここにおいたか。
床にごろんとおいてある中庭にあった記念植樹の石碑

それで思いだした。あれは2010年の夏、ここを見学したことがあった。まだ以前の建築が建っており、それが関東大震災からの復興小学校であり、珍しい建築としてJIAが壊される前に見学会を開いたのに参加した。
 展示してある手すりも玄関の照明器具も、その時にわたしは写真に撮っていた。
(旧)三吉小学校校舎の階段

市大医学部本館の玄関入口と照明器具(展示してあるものはこれだろう)

(元)市大医学部本館玄関
 見学したときは既に廃墟だったが、そうなる前の用途は横浜市立大学の医学部キャンパスであったのだ。
 その元は復興小学校(1926年新築)であり、小学校が廃校(1944年)の後にはその校舎も活用しつつ、運動場跡に新たに校舎を増築)もして(1950年、市大医学部に使っていたのだ。
戦前と戦後の小学校と大学の教育の場として生きてきた、多くの人材をここから巣立たせたことであろう、長い歴史を刻むこの建築における人間と空間のありかたに、わたしは感銘を受けたものだった。
市大医学部校舎中庭側
市大医学部校舎として使っていた三吉小学校校舎
市大医学部校舎の解剖室として使っていた三吉小学校教室

 そのことに関しては「歴史の証言としての建築記録保存ー横浜市震災復興小学校の建物を見て」と題して、わたしの「まちもり通信サイト」に書いている。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/miyosi-syogakko
 そして、この建築群の歴史的意義については、わたしはそこでこう書いている。
その歴史的意義を認めるならば、単に旧三吉小学校の建築形態のハードウェアとしての記録のみではなく、市大医学部となったときどのように改変して使ってきたのか記録しておいてほしい。
 それは当然のことに1950年新築の大学医学部校舎についても同じであり、この小学校敷地全体の歴史を、時代に応じて重層的に記録するものであるべきと考える。
 そこには、震災復興と戦災復興の記念碑的な歴史の証言者としての二つの建築ということもある。」

 ところが説明パネルには、三吉小学校のことは詳しいが、市大医学部のことはほとんど触れていない。どうしてであろうか。
 どうも建築保存となると、どこでも古いほど価値があると思い込むらしいのだ。戦前復興建築の三吉小学校は価値があるが、戦後復興建築の市大医学部には価値を認めないらしい。
 建築家は、ここで何が行われてきた歴史があるか、ではなくて、ここにいかに古いものがあったかだけに注目する傾向がある。
 それの典型が東京駅赤レンガ駅舎の復元である。戦前の形態ばかりに目が行って、戦後復興の意匠に意義に注目しないで、戦争記念碑としての価値を滅してしまった。この南区庁舎新築にあたっても、その土地のもつ歴史価値についても同じことらしい。
 でも横浜の都市デザイン行政は、そろそろ1950年代建築に価値を見出して、その景観保全に手を出してもよさそうな気がするけどなあ、まだらしいなあ。
部品展示ケースにある三吉小学校の説明パネル、
でも市大医学部については説明がない


 最後にちょっといたずらを。
 外観のどこかに、市大医学部本館をイメージさせるデザインを
再現してほしかったなあ
(例えば↓)。
これはわたしのいたずらによる景観戯造、どこを戯造したか分るかな?


●これが設計方針だそうである
http://www.city.yokohama.lg.jp/minami/upimg/chousyaiten/120906kurenkaishiryou.pdf

●参照
歴史の証言としての建築記録保存ー横浜市震災復興小学校の建物を見てー」(伊達美徳)
https://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/miyosi-syogakko

2016/03/11

1180【震災核災5年目】福島核毒の地には野生動物たちが高濃度の放射性物質を摂取しつつ生きつづける

●福島核毒の森に生きるイノブタはどうしているか

 3年前にこんなニュースがあった。
東京電力福島第1原発事故で立ち入り禁止となった地域で豚舎から逃げたブタと、野生のイノシシが交配して生まれたとみられるイノブタの目撃情報が、原発周辺地域で相次ぎ、福島県が今月下旬から実態調査を行うことが16日、県への取材で分かった。(産経ニュース 2013.1.16 08:44)」

 わたしはこれを読んで、このブログに福島核毒の森に生きるイノブタのことを書いた。
 http://datey.blogspot.jp/2013/01/708.html
おやおや、がんばって生きてますねえ、ブタとイノシシが協力して子孫を残そうって、涙ぐましいなあ。東電原発から降り注いだ核毒にまみれながら、ちゃんとやることやってるんだ。どっちが雄でどっちが雌なんだろうか、どちらの組み合わせも再生産可能なんだろうか。
 でもこのニュースの続きには、増えすぎると農地を荒らすので、駆除するのだそうだ。可哀そうだなあ、その努力は虚しいんだ。鉄砲で撃っても、核毒にまみれているから、福島名物イノブタ鍋ってわけにもいかないしなあ。ウシもヤギもイヌも核毒の地をさまよっているから、ヤギウシとかウシイヌとかできるって、それはないか。ウナギイヌはどうか。

 そのイノブタは今どうしているだろうかと、TV番組「被曝の森~原発事故5年目の記録~」(NHK)を見た。福島核毒の地に生きる動物たちの今をレポートしてくれた。その宣伝文句は次の通り。
福島第一原発事故によって、今なお7万人もの住民が避難して生まれた広大な無人地帯。5年の歳月で、世界に類を見ない生態系の激変が起きている。
 植物が街や農地を覆いつくすほどに成長。イノシシの群れが白昼堂々と街を歩き、ネズミやアライグマが無人の家に侵入して荒らすなど「野生の王国」化が進む。
 降り注いだ放射性物質は、特に“森”に多く残留していることが判明。食物連鎖を通じて放射性物質が動植物に取り込まれている実態も明らかになっている。“被曝の森”で何が起きているのか。世界中の科学者が地道な調査を続けている。

●元家畜は野生動物にはなり得ないらしい 

 でもTV映像には、野生化したブタもイノブタも登場しなかった。
 その一方で、イノシシはたくさん登場した。人が絶えた集落や田畑が草地へ森林へと還っていく核毒の地に、5頭もの子を連れた夫婦イノシシが、放棄された住宅を棲家にして、昼日中の道や畑をうろうろと走り回っている。
もともと野生のイノシシは生き残っても、元家畜のブタが生きるには困難な環境なのであろう。
 それにしてもイノシシたちだって、かつては人間の作物を横取りすることで生きていた面が大きかったはずだから、田畑が放棄された今、木の芽や草や虫を食って生きるのだろうか。

 そういえば2年くらい前までは、ブタに限らずウシやヤギや飼犬も放棄されて、無人の地を放浪していたニュースがあったが、彼らにも野生になることはできない環境なのだろう。それらの死体は他の逞しい野生動物の餌になったのだろうか。
 他に登場してきた動物は、サル、ネズミ、ハクビシン、アライグマなどだった。これらは人間に寄生しなくとも、野にあっても生きることができるのだろう。
 野生で一般によくいるはずのタヌキ、キツネ、ウサギ、イタチなどはどうしているのだろうか。

●高濃度放射線で野生動物ジュラシックパークか

 ところで、一度は高度の放射線を浴びたし、また高度の放射性物質を含む野山の果実や草木を食している彼らには、異常はないのだろうか。
 そう、ゴジラのように異常成長したイノシシは居ないのか、アナコンダのように巨大化したマムシはどうか、不謹慎ながらジュラシックパークを期待したが、そんなことはなかった。

 動物の異常を調査する学者たちの研究も紹介されたが、捕まえた動物の内臓等を調べると、高濃度の放射性物質が蓄積されつつあるという。だだし、5年くらいの短期間ではまだどう影響するのか分らないらしい。
 チェルノブイリでもいろいろ調査されているらしいが、ニホンザルはあちらにはいないし、人にいちばん近い動物だから、福島でのサルの調査は貴重なものになるらしい。

 ツバメの二つに分かれる尾羽の形が、左右でアンバランスになる異常が多く見られるとする動物学者もいる。植物学者によると、アカマツの枝の成長には明確に異常が見えるという。これらはどちらもチェルノブイリで見られる異常に似ているそうだ。

 映像の作り方が、動物相という地域の生態系に目を向けていなくて、特定の種の特定の個体の行動を追っているで、全体像が分からない。植物相についても、核毒地の植生調査をしている学者はいないのだろうか。
 生態系がどう変化しつつあるのか、その変化が異常なのか一般的なのか、その辺のことを知りたいものだ。もっとも、核毒まみれで調査するってのも、無理なお願いですね。

●野生の王国化した核毒の地は人間の地に戻る時が来るか

 さて、核毒の地に生きる動物たちの生活圏は、森林のある産地ではなくて、人間が放棄した住宅や田畑のある平地であることが分かったそうだ。それは捕まえたイノシシに発振器やカメラをつけてまた放して、行動圏を調べたのだ。
 そのイノシシが撮ってくれた映像に、除染をしている人間が写っているから、イノシシは人間を避ける必要がもうないとして、近寄って好奇心いっぱいで眺めているらしい。夜中に畑に出てくる動物ではなくなっている。

 空き家にはイノシシもハクビシンやアライグマも棲んでいる。たしかに野生とはいっても、地下の洞穴や木の洞に棲むよりも、チャンと屋根があったほうがいいだろう。
 こうやって集落は次第に野生動物の森になっていく。人間が田畑を作り住みつく前は、彼らの棲家だったのだから、還っていくと言った方がただしいかもしれない。
一昨年秋に浪江町で見た核毒で放棄された田畑が自然植生に覆われていく風景
この地の放射線量が減衰して、再び人間が戻ってきて住みつくことができる地になるのは、いつのことか分らないが、住みつくためにはなりの投資が必要であろう。
 果たしてそういう時が来るのだろうか。

2016/03/10

1179【震災核災5年目】3・10東京空爆を忘れまい、3・11福島核災を忘れまい

 2016年3月9日、なんと福井の核発電(高浜原子力発電所3、4号機)に稼働ストップの仮処分決定が大津裁判所から出されたそうだ。
 あの3・11事件以来、核発電所問題はようやくここまで来たのか、これで何かが変わるのか、いや、また別の判決が出てひっくり返るんだろうが、そうやって繰り返しつつ核発電所禁止へと進むのだろう。
 いやいや、その前に、もうひとつ大事故が来ないと変わらないかもしれない。広島長崎・福島と来て、三度目の正直で変わるのだろうなあ。

●3・10と3・11という二つの記念日

 明日は5年目の3月11日(東日本大震災)である。
 そしてその前の今日は、71年目の3月10日(東京大空襲)であることも忘れたくない。前者は2万人、後者は10万人の命が一気に奪われた事件だ。
 この二つの大災害の原因は、前者が天災であり後者が人災である大きな違いがあるはずだったが、前者に核発電所の事故による大災害を伴って、どちらも人災になった。

 3・10は東京だけの被災だが、3・11は東日本と言う広大な地域の被災であると、それらの違いを言う人がいるかもしれない。
 だが、3.10もじつは日本各地の都市が被災した空襲のひとつであったのだから、3・10よりも被災範囲は広かったし、被災期間も長かった。
 3・11では被災地に対する救援が、他の地域や他国からも行われたが、3・10とその前後の被災地は、他からの救援を受けることができなかった。どこもかしこも被災したし、国際的に孤立していたからである。平和な時のありがたさが分る。
 だが、地球上では今も空爆の日々の地があり、それを逃れようと脱出する人々がいるのが現実である。
 参照:無差別空襲の日々 
    http://datey.blogspot.jp/2011/08/475.html

 3・11の福島核毒拡散事件は、3・10東京大空襲の延長上にある8月に起きた広島と長崎の核爆弾投下事件につながるだろう。
 そして8・15となるのだが、とにかくそこから立ち直るには、わたしたちは15年もかかった。もちろん、広島と長崎の被曝者たちは、それで終わることなく、未だに引きずらざるを得ないままに生きて死んでいく。
 福島核毒被災者たちも、そうなるのであろうか。

●あれから5年目の対照的な二つのTV番組

 久しぶりにTV番組を見た。
 ひとつは、5年前の3月、あの福島原子力発電所がもたらした核毒拡散で、人影の絶えた広大な町や村の跡に復活しつつある野生の地、そこに生きる多くの野生動物たちの姿を映す「被曝(ひばく)の森~原発事故 5年目の記録~」(NHK 20160308)である。
 人間が入り込んで町や村を築くまでは野生の地であった土地が、いまや人間が放棄して再び野生の地に還りつつある風景である。
 人の営みのはかなさを思った。

 もうひとつは、5年前の3月、あの巨大津波がもたらした海辺の市街地の壊滅で、人影が絶えた広大な街の跡に復活しつつある新生の街、そこに再び生きようと帰還する人間たちの姿を映す「史上空前のまちづくり~陸前高田」(NHK 20160308)である。
 かつては野生の地や海を、いったんは人間の地にしたものの、津波によって再び野生に還った地になったのだが、これを再び人間の土地に還そうとする風景である。
 人の営みの強引なる強靭さを知った。(つづく)

参照
地震津波核毒おろおろ日録

2016/02/27

1178【確定深刻の季節】日本列島は増え続ける空き家群というマイナス資産津波に沈没寸前らしいがなにかがオカシイ

 毎年、この季節は深刻になる、いや、そうじゃなくて申告である、そう、所得税確定申告をやるのである。
 昔は、この年度末の忙しい時に面倒なことして金取られるなんてと、本当に深刻になったけど、いまは春先のヒマツブシ行事である。うまくすると、還付金なるお小遣いが戻ってくる。

 今年もその季節だが、いつもとちょっと違うのは、今年のわたしには絶対にお小遣いが戻ってこないどころか、ちょっとした金額を払わなければならないので、気が重い。
 昨年、わたしが父から相続した家と土地を売り払ったので、譲渡所得税なるものがかかるのだ。これまでの申告にはない手続きの用紙を作るのが、よく分らないし、めんどくさい。
 
 でも、そこは毎日日曜日で暇つぶしに困っている身だから、これ幸いと急ぐことなく申告書づくりに準備中である。準備とは、要するに譲渡所得なるものの勉強である。
 いまどきだからネット社会にはそれに関する情報があふれているから、そのお勉強をしているが、それだけでは心もとない。バーチャルじゃないリアルなお勉強をしたい。

 そんなところに税務署から、「譲渡所得の申告についてのご案内」なるものがやってきた。おお、アチラさんは、とっくにお見通しなんだなあ、わたしが申告しようとしてるって。油断も隙もない、怖い世の中である。
 そこに「申告書作成会場のご案内」とあって、なんと直接相談にも対応してくれるらしい。これまではPCで作って、郵送していただけだから知らなかったが、アチラさんもそれなりに対応しているんだな。
税金を納めたい善男善女の群

 そこで先日、その会場に行ってみたら、おお、税金を納めたい大勢の善男善女が行列を作っているのであった。いろいろな相談コースがあるらしい。
 PCもたくさん置いてあって、ここで打ち込んで作るらしいが、わたしは家でやるから、相談だけでいいのだ。
 わたしは行列を大嫌いで、飲食店でも並んで待つなら、食べるのをやめるか、不味くても空いている店がいいと思うくらいだが、税務署は替りがないからしょうがない。
 待つこと30分あまり、黒い背広のお兄さんがこちらへどうぞとて、立机に案内されて相談にのってくれて、譲渡所得の計算について教えてもらった。

 大方はネットで調べた通りだったが、建物価額だけは初めて知ったことがある。
 48年前の家を建てた当時の工事費が書類がなくて分らないのでどうすればよいか聞いたら、その当時の単位面積当たり標準工事費が税務上の計算のために用意してあるから、それを面積にかければよいとのこと。
 それで工事費が分かったのはよいのだが、そのまま計算に使うのじゃなくて、その5パーセントを使えと言う。要するにこの家は償却期間がとっくに過ぎたので、税務上の価値はいまやそれだけしか残っていないのだ。
 
 まあ、しょうがないけど、これでいろいろ考えさせられた。
 父から相続したあの古家を買ってくれた人は、「50年も経った家とは思えないほどしっかりとしている」、だから改装して貸家にするのだそうだ。そう、わたしが若い時に真面目に設計したんだからね。
 それならば、実際はたったの5パーセントの残存価値じゃないんだけどなあ、譲っても5割くらいはあるんだけどなあ。そういうものかなあ。

 だが一方では、こういう現実もあった。実は残存価値は5パーセントどころか、マイナス100%だったのだ。つまり、売却価格は土地代から古家を撤去する費用を差し引いておかないと、市場では流通しないと仲介不動産屋が言うので、そうしたからだ。
 実際には買った人は、撤去しないでリニューアルするというから、撤去新築よりも投資が少なくて済んだはずだ。わたしは損をした気分だが、まあ、それは素人が市場取引に負けたのだから仕方がない。
父が引退後の生活の場として1966年に建てたこの家も、その後は年々減価して今やマイナス価額
というわけで、不動産とは言いながら、土地の価格は減価しないが、建物はどんどん減価消費していって、ゼロどころかマイナス価格になってしまう世の中なのであった。
 日本に増えてきて今や820万戸もある空き家は、そこにあるだけでマイナス資産だし、それがそのままマイナス度合いを深めている上に、空き家そのものの数が増え続けているというから、もうマイナス資産の総攻撃を受けている。マイナス資産の津波に日本列島は沈没しつつあるのか。

 これって、なんだか根本的にオカシイような気がする。
 まあ、とにかく、マイナス資産の税金を払うためのヒマツブシ申告作業を始めようかな。




2016/02/25

1177【言葉の酔時記】また言葉狩りで「ボケ」、「障害」につづいてこんどは「徘徊」がダメになるのか

 またもや”言葉狩り”らしい。「徘徊」が差別用語に認定されたようだ。「目的もなくうろうろと歩きまわること」は、いけないことだそうだ。
 そんなの困りますよ、わたしなんぞ毎日のように、何の目的もなく、ウロウロとそのあたりを歩き回ってるんだからね、そのうちに警官に逮捕されるんだろうか。
 いいから放っておいてくださいよ、誰にも迷惑かけてはいなんだから。

 どうも、認知症老人が徘徊して戻れなくなっちまうのを、介護者が探しに行かなけりゃならないので、それが迷惑だというのであるらしい。
 でもなあ、だからといって「徘徊」って言葉を目に敵にしたって、解決にならないでしょ。おかしいなあ。


 ずっと前に「
ボケ老人」という言葉狩りをされて、「認知症老人」になった。でもねえ、「認知不全症」ならわかるよ、それを「認知症」って、いったいなにを認知するんだよ。
 民法799条の非嫡出子の「認知」をしたら、その男は認知症なのかい。


 「
障害者」も言葉狩りにあって、今じゃあ「障がい者」と書くのだそうだが、これこそ奇妙である。だってさ、「障」ってのは、邪魔と言う意味だよ、かな書きにすればよいのだって言うなら「しょうがい者」にしなさいよ。
 そうか、「徘徊」も「はいかい」って書けばいいのかな。


 このように意地悪く書くのは、わたし自身が「ボケ」「認知症」「徘徊老人」、そして腰椎骨折で「障害者」になったので、堂々とその言われる立場から反論できる身になったからである。

2016/02/21

1176【能楽鑑賞】能「仲光」を観て演技は素晴らしかったがストーリーがなんだか歌舞伎狂言的で違和感があった

 能舞台上で演じるフィクションの死が、実はひとりの能楽師のリアルな死につながっていた。その死を想いつつ、舞台を観たのであった。
 2016年2月20日、テーマ「生と死のドラマ」の横浜能楽堂企画公演には、能「仲光 」のワキに宝生閑が出演の予定であった。だが、この名人はこの2月1日に他界した。
 わたしは、この演能がもしかしたら宝生閑最後の舞台かもしれないと、ひそかに思っていたのだが、現実の方に追い越された。見ること叶わなかった最後の演目は何だったのだろうか。

 企画公演には識者の講演が付く。今回は能楽研究家の西野春雄氏が登場した。話の要点は、今回の能「仲光」には、これまでになかった新しい演出をしたとのこと。
 正確に言えば新しいのではなくて、古い演出を復活してみたのであると言う。配布プログラムの「仲光」の小書きのところに「古演出による試演」と書いてある。予告パンフにあった小書きは「愁傷之舞」だった。
 
 プログラムの一部を引用する。
「観世流の「仲光」(他流では「満仲」)は江戸期に上演が中絶していたようで、明治12年に梅若実により復局されました。今回は、能楽研究家の西野春雄氏の監修により、現行観世流の台本を活かしつつも、松井文庫所蔵の謡本「まんちう」(観世流節付)を基に、下掛り古写本も参照して、現在では仲光が舞う演出を、本来の美女丸が舞うように戻すなど、不整合を正して、試演します。」

 能楽は600年もの伝統的古典芸能ではあるが、その間に変らないのではなく、継承しつつもその時代時代に新たな演出を加えて、次第に変容してきている。
 それらいろいろな新演出のなかで、特に後世に継承するべきと評価されたものには、「愁傷之舞」のように名前を付けて、演目名に「小書き」として書き添える。
 だが、今ある能には、よく分らないヘンな演出も伝えられているそうだ。どうやら、この仲光もそのひとつで、ストーリーと演出が整合しないところがあるらしい。
 それを今回は考証し直して、昔はこうであったろうと戻して演じるというのである。そのほうが分りやすいのだそうだ。
 
 新演出と言っても、ストーリーはそのままであり、最後のあたりの舞い手を、これまではシテの仲光がやっていたのを、子方の美女丸が舞うようにしたのだ。
 そのほうが状況的にも詞章にも適切であるとのことだが、わたしは「仲光」を見るのは初めてであるから、それがどう違うのか深くは分からない。 
 西野は、今回の演出が今後どう継承され、そしてまたどう変化されるかわからないが、この演出が正式の小書きをつけられて舞台に乗る基本となるならば、今日の観客は、古典芸能の変容の歴史的瞬間に立ち会うことになるだろうと言うのであった。 

 ところで、この「仲光」のストーリーは、なんとも能楽らしくなくて、どちらかと言えば歌舞伎的なのである。能のストーリーは、どちらかと言えば単純であるが、仲光は人間臭いお芝居になってしまいそうなのである。
 その歌舞伎的とは、『一谷嫩軍記』3段目「熊谷陣屋」と『菅原伝授手習鑑』4段目「寺子屋」において、他の身代わりに自分の子を殺す悲劇がテーマになっているが、この「仲光」もまさにそうであるからだ。
 
 能の前段は、多田満仲なるバカ殿がいて、留学させてた息子の美女丸が戻ってきたので、聞いてみるとスポーツばかりやっていて勉強してないと分って激怒して、刀で切り殺そうとする。家臣の藤原仲光が、まあまあとなだめて止めるのだが、それならおまえが美女丸を切れとバカな命令をする。
 この10世紀ごろは、主君の命令はどんなことでも実行するルールがあったらしく、仲光は命令と憐憫の狭間で困って悩むのである。それを見かねた仲光の息子の幸寿丸が、それなら同じ年頃だから私を切って首を持っていけば、分らないでしょうと言う。仲光はますますどちらを切るか大いに悩み、結局は自分の子を切るのだった。
 
 美女丸は自害するというのをなだめて遠くの寺に逃がし、主君には切ったと報告する。すると満仲が、自分の跡継ぎの子がいなくなったから、お前の子の幸寿丸をくれと言う。どこまでバカ殿か。困った仲光は、幸寿丸は世をはかなんでどこかに立ち去ってしまったという。
 後段は、そんなところへ、美女丸を連れた僧都が、バカ殿を訪ねてやって来る。この坊さんが宝生閑が務める役であった。僧都は美女丸と仲光を許してやれと、バカ殿を説得する。それで丸く収まって、祝いの舞を美女丸が舞うのである。

 つまり、仲光が主君の命で、主君の子の美女丸を切るか、身代りに自分の子の幸寿丸を切るかと悩みに悩んだ末に、自分の子のを殺すという悲劇である。
 だがこれは主君満仲が大馬鹿としか思えないし、仲光がその馬鹿殿になぜ従うのか、さっぱり納得がいかない。
 後段にも、なぜ簡単に美女丸が戻るのか、なぜそれがメデタイと舞うことになるのか。仲光の苦悩を見せるのが狙いだろうが、ストーリー展開にかなりの無理がある。
 舞台の演技に心を預けて鑑賞したいのだが、この納得のいかなさがはじめから最後まで心に引っかかっていて、安心して能にハマっていけないのである。
 新演出なら、いっそのことそれらの無理筋も直してもらいたい。新作にしてもいいと思う。

 野村四郎の演技は、能よりも歌舞伎狂言に近い、とまでは言わないにしても、直面(ひためん)に感情を現しつつの悩みの所作は、どこかリアルな演技に見えてきた。
 子方の二人のどちらかを切るかと悩むとき、最後の美女丸の舞を見て嘆き悲しむとき、この2大山場の演技は、能の持つ抽象性による様式から、歌舞伎の具象性の様式に引っぱられたように見えた。
 このあたり能としてみるか、歌舞伎としてみるか、などと余計なことを考えるからいけないので、もっと素直に見ればよいのであろう。

 最後に、生き残った主君の子の美女丸が舞うのだが、これを家臣の仲光が見ながら、切り殺した自分の子の幸寿丸も生きていたら、二人の子が一緒に相舞をするのであろうにと、ふかく嘆き悲しむところで、この能は終わる。
 この舞の終わりころに立ち上がって、橋掛かりに座り込んでの深いいシオリ、舞台に戻ってから、こんどはほんとに両膝を折って座り込んでのまた深いシオリ、このながい嘆きは歌舞伎的であった。
 この深い嘆きの場面は、バカ殿の前で行うのだから、考えようによっては、これは理不尽な主君満仲への抗議の意味もあるかもしれない。

 わたしは観ながらふと思ったが、この日の「仲光」のワキは宝生閑の予定だったのだから、この今いない死んだ子への仲光の嘆きは、実はこの舞台にいるはずでいない宝生閑への嘆きに重ねているのかもしれない。
 そこに演技にリアルさが見えたのだろう。これが野村四郎の新たに切り拓く能楽かも知れない。最近は、ロミオとジュリエットなんて芝居もやったそうだから、年取るほど新しいことをやっている。

 能楽での様式的演技とリアル演技については、狂言の「武悪」のシテ山本東次郎の演技をすごいとみたのである。実は「武悪」も初めて見た狂言である。
 前段においてのシテは武ばった様式的な演技であって、笑いの対象とはならないが、その所作のいちいちがいかにもの感じで、引き込まれた。

 それが後段では一転して、幽霊を怖がって震え上がる喜劇的演技になり、ビックリして転げるという漫画的な演技もあって、様式を逸脱する。怖がりながらも武張るおかしさを、自在に行き来する演技をして、東次郎はスゴイ。
 そしてその後の仲光における四郎の演技と並べて考え、能楽における様式演技とリアル演技をどう行き来するのか、興味を持ったのである。

 それにしても能役者野村四郎は80歳になるはずだが、観世流で舞台に登場する現役最高齢者だろう。近ごろそのお顔が、長兄の萬そして父6世万蔵に似てきた。ちっとも枯れない演技を続けるどころか、芝居に色気を見せる。今回は新演出のために、その美しい舞を見ることができなかったのは残念だった。
 山本東次郎79歳、こちらも枯れないでますます磨きがかかる。宝生閑は、枯れてきていた感じだったが、83歳で逝ってしまった。

 わたしが能楽を観るようになったのは、野村四郎師に入門した1991年からである。四半世紀も前であったか。
 今回の舞台では、四郎師のひとり息子の野村昌司も地謡にいたが、しっかりした中年顔になっている。地頭の浅井文義はこんな年寄りになったかと自分の目を疑った。
 ツレの観世銕之丞は、立派な貫禄になって、でも太り過ぎですよ、舞台では。太り過ぎと言えば、ワキの殿田謙吉もそうである。
 そして、子方の二人は10歳と12歳だそうだが、キチンと務めた。特に美女丸の長山凛三は、謡も舞もすばらしかった。新演出が生きたのは、この長山君のおかげである。地謡にいた長山桂三の子息であろうか、役名通りの美少女のようであった。


●横浜能楽堂企画公演  (当日プログラムより)

「生と死のドラマ」 第3回 「『忠』と『情』の選択」 2月20日(土)14:00~17:05
能・狂言が花開いた中世。それは、「生」や「死」が今よりもずっと近しい時代でした。
それを象徴するかのように、能・狂言の作品には様々な生や死が描かれています。
人は死後も霊として現れ、草木などの自然にさえ人格が宿ります。
そして生きる者は、「生」「死」の問題に直面し一喜一憂します。
この能・狂言に見られる死生観は、600年以上経った今なお「生きること」「死ぬこと」を
永遠のテーマとする私たちに、何を示すのでしょうか?
能・狂言の作品と講演による4回シリーズを通じて迫ります。

講演:西野 春雄(能楽研究家)
狂言「武悪」(大蔵流)
 シテ(主)     山本東次郎
 アド(太郎冠者) 山本凜太郎
 アド(武悪)    山本 則秀

能「仲光」(観世流) 古演出による試演
 シテ(藤原仲光)  野村 四郎
 ツレ(多田満仲)  観世銕之丞
 子方(美女丸)   長山 凜三
 子方(幸寿丸)   谷本悠太朗
 ワキ(恵心僧都)  殿田 謙吉
 アイ(満仲の下人) 山本泰太郎
 
 笛 :一噌 庸二
 小鼓:曽和 正博
 大鼓:國川 純
 後見:浅見 真州  谷本 健吾
 地謡:浅井 文義  岡田 麗史
     馬野 正基  北浪 貴裕
     野村 昌司  長山 桂三
     安藤 貴康  観世 淳夫

2016/02/18

1175【尻餅老人起臥戯録11】腰椎圧迫骨折治療で医者が替わったら同じ診断で同じ薬なのにこれまでの医者とは違うこと言われてビックリ

【尻餅老人起臥戯録10】の続き

●いつもの医者が休んで代診だった

 え~っ、この前までの医者の言ってたことと違うのは、いったいどういうこと?
 昨年5月初めの尻餅第4腰椎圧迫骨折事件から、いまや9か月半、本日(2016年2月18日)、9回目の病院行きで、おやおやってことに出くわした。

 いまや、治ったと言えば治ったし、治らないと言えば治らない感じである。日常生活は支障なくなったが、腰を曲げると痛みを感じるし、長く椅子に座っていると痛くなってくるから、完治はしていない。
 X線撮影と診察、9時に入って10時に出たから、これまでと比べて格段に早かった。この前と同じ薬である。

 さて、本日の診察は、これまでのいつもの医者が休んで、代診の医師だった。
 あれッ、予約したのにそんなことあっていいのかい、違う医者が経過も知らないで診て、分かるものだろうか。
 だが、このような特殊でもない負傷なら、誰が診察しても同じだろう。まさかと思うが、もしかして違う診断をされたら、それはそれでセカンドオピニオンを受けたようなもので、面白いことになるな、と思った。
 
 ここで思い出すのが、医者が替わったら、まさかと言う事件が起きた経験を、わたしは持つのだ。2003年に起きたわたしの足についての誤診事件である。医師が替わったら、それまでの不治の病が別の病名になって、全治したのだ。 
https://sites.google.com/site/machimorig0/handicapped


●同じ診断で同じ薬でも医者が違うと治り方が違うんだ

 そのまさか、と言う事件がまた起きたのだ。さすがに、第4腰椎圧迫骨折が別の名前になることはなかったが、その治療についてはこれまでとはずいぶん違うことを言われて、ビックリしたのであった。
 で、今日のX線写真と初回のそれとを、PC画面で見比べつつ、こんな問答をやったのである。今日はカメラを忘れたのでPC画面を写してこなかったが、X線写真の結果は前と変わりなかった。
最初の2015年5月の第4腰椎圧迫骨折MRI画像

毎回の第4腰椎圧迫骨折X線画像だが、ちっとも変化がない

医師:見ての通り、X写真の骨の状態は変わりませんね。
:え、最初と今日の比較がこれですか、ええ、変らないですね。でもね、毎日毎週、薬を飲んでるのに、なぜ変わらないんですか。前の先生は、骨が戻ってきてますよと、毎度言ってくださいましたよ。
:いや、この圧迫骨折した第4腰椎部分は、もう元に戻らないんですよ。
:え~っ、前の先生は戻ると言って、ほらここのところ、白い状態が進んで固まってきてるでしょ、なんて、X線を指さして言いましたよ、もっとも、わたしには変化が見えなかったのだけど、医者には分るのかなあと思ってましたが、。
:いやいや、戻らないんです。

 実はX線写真見てのわたしの疑問は、以前(2015年10月8日)に、こんな風に書いているのだ。http://datey.blogspot.jp/2015/10/1131.html
「今日はその医者通いの6回目であった。
 X線撮影の映像を見れば、圧迫して凹んだ第4腰椎の治り具合は、はかばかしくないように見える。骨が回復するって効能書きの、高い薬を飲んでいるのになあ。
 だが、医者は「ほれ、このあたり、骨が白くなってきて固まってきてますよ」と、励ましてくれるのであった。
 「はあ、そうですかあ、、」、医者がいうのだから、たぶん、治ってきているのだろう。」

 で、今日の代診医者との会話の続き。
:じゃあ、なんで薬を呑まされてるんですか、治りもしないのに、、。
:それはですね、こうやって腰椎のひとつが傷ついたら、健全な他の腰椎も、なにかのショックで傷つき易くなる可能性があるんですよ。あなたの骨密度検査の結果は正常ですから、これ以上悪くならないように、ビタミンDとか骨粗鬆症の薬で、骨全体を丈夫に保つようにするんですよ。
:え~っ、そうなんですかあ、わたしはこのつぶれた腰椎をもとに戻すように治す薬とばかり思っていましたよ、違うんですかあ、へえ~、そうなんだあ。
:ええ、そうなんです。
:で、この残存する痛みは、いつ消えるんでしょうか。
:完全に消えるとは言えませんね。


●どっちがヤブ医者なんだろうか

 この前までの若い女性医師の言うことと、この若い男性代診医者の言うことがずいぶん違うぞ、どういうわけだよ。
 あの女ヤブ医者メ、いい加減なことを言いおって、と思ったが、まてよ、この男医者の方がヤブかもしれないなあ、どっちがヤブかわからないよなあ、これがホントの藪の中。
 まあ、どっちがヤブなんですか、なんて医者相手に余計なことを言って怒らせるのは、患者にとっては得策でないと気が付いたので、それ以上の深入りをやめた。

 考えてみると、これまでの女性医者は、腰椎が復元して治る方向にあると希望を持たせてくれたのだが、今回の男性医師は、その希望を明確に打ち消してくれた。
 物理的と言うか医学的にどちらが正しいかはわからないが、患者にとっては心理的精神的には復元して治る希望を持つ方が、医者通いに意義を感じるものだ。

 このあたりは、患者の医療行為への対応もあるけど、病院の経営学方面への対応の問題でもあるよなあ、あの女医はこの病院の経営者のひとりなんだろうか。
 いやいや、患者を積極的に治療へと励ますための、高等なる治療作戦かもしれないなあ。病は気からと言うもんなあ、。

 と言うわけで、これはもう完治しない傷を背負ったままに、このあと死ぬまで骨薬を飲みつつ老いていくしかないらしい。
 痛みが完全に消えないのに、死ぬまで骨薬を毎日1錠と毎週1錠を飲み続けるのもバカらしい感じもある。いつ止めるかなあ。
3か月分の薬 1350円
それにしてもなあ、治らないのかあ、、まあ、先は長くないから、どうでもいいや、死ねば治るさ。
 
(追記:2017年8月11日)
 この骨折事件に関するブログ記入は、上記の11回目で中断してしていたが、本日、これを読んで追記しておく。
 その後も3カ月に1回のインターバルで医者通い、交代した医師が診ていた。でも、X線写真は変化なし、痛みは次第に消えていく。2016年の8月から医療費負担がそれまでの1割から3割になった。どうせ先は長くないのだしと思うと、もう無駄のような気がして、病院通いをやめた。現段階では圧迫骨折部の痛みは完全に消えた。腰が痛いこともあるが、年齢相応だろう、まあ、これで良しとしよう。
 ただし、別の病気で別の病院通いがはじまる、ヤレヤレ。(終り)
 
・尻餅搗いて突発寝たきり老人になったが、、、2015/05/05~


2016/02/17

1174【言葉の酔時記】酒屋で酒を買おうとしたらこのわたしを未成年と見破った店員が年齢確認ボタンを押せと言う

酒の小売店にて
店員:いらっしゃ~いませ。
:あ、このウィスキー下さい。これ2000円ね。
:はい、ありがとうございます。では、ここんところボタンを押してください。
:なんだい、そりゃ、、、眼鏡がないのでよく見えないけど、20なんとかって書いてあるような。
:はい、年齢確認です。お客様が20歳以上かどうかの確認です。
:おお、お世辞をありがとよ。もっと上手なお世辞を言いなさいよ。
:いや、そうじゃなくて、ここを押してください、確認ですから。
:おや、本気かい、君ねえ、見りゃわかるだろ、この白髪頭と皴くちゃ顔なのを、君は未成年に見えるのかい。
:お願いします、年齢確認ですから。
:あのね、それを私が押して20歳以上かどうか自分の年齢を確認しなくても、わたしは自分の歳を忘れるほどボケてないから安心しなさい。
:いや、そうじゃなくて、でも、、、
:じゃあ聞くけど、誰が、誰の歳を確認するんだい。
:あのー、未成年に酒の販売をすると、罰せられるんです。だから確認を、。
:ということは、わたしが自分の年齢確認するんじゃなじゃくて、酒屋の君の方が客のわたしの年齢を確認するんだろ。
:はあ、ええ、まあ。
:じゃあ、君が見破った通り、わたしは未成年だからね、そのわたしが押して、君が酒を売ったら、君が罰せられるよ。
:えっ、そうですかあ、そうかなあ、、。
:そうだよ、そうなるんだよ、だからね、君がわたしを見て20歳以上と確認して、君自身で押すべきなんだよ。
:あ、そうかなあ、そうかもなあ、う~ん、じゃあ、ぼくが押します。
:うん、それでいいんだよ、これからのお客にはそうしなさい。
:はい、ありがとうございます。
:ところで君は何歳だい。
:はい、19です。
:おいおい、未成年が酒を売ってもいいのかい。
:う~ん、え~と、、、そうだ、ぼくが売る前にこのボタンを押して、自分の年齢確認してから売ればいいのですね。
:ボタンのやつが文句言わないのかい。

2016/02/12

1173【五輪便乗都市計画】岸体育会館と外苑ハウスの計画が分ったがなんで土地区画整理事業なんだろうか


【1172五輪騒動】の続き
http://datey.blogspot.jp/2016/02/1172.html

 ネット社会で趣味の都市計画ゴタクを並べていると、さすがにネット時代はすごいもので、たちまち疑問を解く情報提供のお方たちがでてきた。ありがたいことだ。
 昨日の五輪騒動ブログで、外苑ハウスや新岸体育会館(正しくは「(仮称)日体協・JOC新会館」というらしい)のあたりが、どうもよく分らないことを書いたら、それらの地元説明会の資料を教えてくださったお方がいた。 
岸体育会館説明資料の一部
外苑ハウス説明資料の一部
そこでこれら3図を合成してみたら、こうなるのかとよく分かった。

  外苑ハウスは、原則的には現在の敷地の中で建て替えるらしいが、スタジアム通りからのアクセス通路部分を、新岸体育会館敷地の一部に入れるらしい。
 外苑ハウスはスタジアム通りからの車アクセスはなくなって、外苑西通りのみからアクセスにする、というわけか。
 土地区画整理事業をやるそうだから換地するのであろうが、北側の都営住宅が無くなって公園になって環境が断然よくなるから、外苑ハウスの土地評価はぐんと上昇するだろう。とすればそのアクセス部分の土地は減歩対象か。

 新岸体育会館の説明資料に、計画地10000㎡と書いてあるのは、地区施設の三角広場1000㎡とJSC新ビル敷地も含むのであろう。
 これら3つの施設(三角広場、JSC新ビル,岸体育会館)をひとつの敷地にして、岸体育会館はJSCビルの増築扱いにするのか、それとも敷地は別だけど計画は一体ということか。三角広場は敷地か敷地外か、そこのところがわからない。

 なんにしてもこうなると、地区計画のAー3及びAー4地区の変更が必要である。
 Aー3とA-4の間の外苑ハウスアクセス通路部分をA-4に組み入れ、元こもれび広場部分をA-3から切り離して、A-4に組み入れて、面積変更をすることになるだろう。
 先の都市計画公園の変更の時に、こもれび広場部分を都市公園から除外した理由が分らなかったのだが、そこを新岸体育会館の敷地に組み込みたかったのが、その理由らしい。今になってようやくその下心と言うか”陰謀„の意図が分かった。

外苑ハウスの土地については、新たに再開発等促進区と地区整備計画の記述が必要になる。
 しかし、再開発等促進区のような緩和型地区計画で、最初にその内容がないままに再開発等促進区のみを定める地区計画ってのは、違法ではないが不適切であると、わたしは思う。これはこれから出て来るであろう神宮外苑と青山通り沿いの土地についても同じである。
 つまり、緩和するってだけ決めて、なぜ緩和するのか、緩和に見合う地域貢献は何かについてきめるのは後回しってのは、都市計画の決め方として、オカシイでしょ。

 ところで、どうして土地区画整理事業なのか、いまだにわからない。
 土地区画が変るのは、外苑ハウスのスタジアム通りからのアクセス通路が、岸体育会館敷地に組み込まれるだけである。
 これだけのために土地区画整理事業ということは、なにか税務上の都合でもあるだろうか。

 まあ、わたしとしては、遠くの街の、なんの関係もない、どうでもいいことに、自分の都市計画趣味で、なんの役にも立たないことを言っているのだが、唯一役に立つのは、わたしのボケ進行の遅延策にはなることだ。まことにありがたいことだ。


(追記1 2016/06/16)
 右のような図を東京都から情報公開によって手に入れた方(Masazumi Atsumiさん)がおられて、ネット公開されたので、その図を引用します。
 これを見て、なぜ土地区画整理事業とするのか、その理由を次のように推測します。
外苑ハウスの敷地は、東側の接道がスタジアム通からできなくなって、西側の区画道路が前面道路になるのだけど、建て替えのためにはこの狭い区画道路の幅を広げる必要がある。
 それには、現在都市計画公園決定している都営霞丘住宅の土地の一部を、拡幅道路として取り込む必要がある。
 そうすると都市公園の一部廃止が必要になる。しかし都市公園法第16条は、公園の廃止を禁止している。
 そこで同条第1項を適用、つまり都市計画事業としての土地区画整理事業を行うことで、例外措置により一部廃止をする。

●都市公園法第16条 
 公園管理者は、次に掲げる場合のほか、みだりに都市公園の区域の全部又は一部について都市公園を廃止してはならない。
1 都市公園の区域内において都市計画法 の規定により公園及び緑地以外の施設に係る都市計画事業が施行される場合その他公益上特別の必要がある場合
2 廃止される都市公園に代わるべき都市公園が設置される場合

(追記2 2016/05/25)
Masazumi Atsumiさんのフェイスブック経由情報によれば、区道拡幅部分は都市公園指定範囲外とわかった。予め拡幅予定部分を外して公園指定してあった。だから都市公園法上の問題はないと分かった。都市計画決定時の図が小さくて、それを判別できなかったわたしの誤りでした。
 土地区画整理事業とする理由を推測すると、換地によることで、外苑ハウスの土地に関する負担をなくするためでしょう。

新国立競技場建設と神宮外苑再開発・2020五輪運動会騒動瓢論集(まちもり散人)
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html