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2025/05/26

1888【大阪駅で浦島気分】大阪駅乗降プラットホーム上空大屋根の巨大架構による大空間が凄い

 ●西方旅行の途中で大阪駅へちょっと途中下車

 5月半ばに西への旅の帰りに途中下車して、1時間ほど大阪駅から街を眺めてきた。
 大阪へは、市内に住む伯母の家を、少年時からよく訪ねたものだ。
 長じて、社会に出てすぐの60年代に2年ばかり、70年代も2年ほどを大阪駅近くの勤務先に通ったことがある。

 その後はめったに大阪に用もなかったので長いご無沙汰である。だから今度の米寿記念ともいうべき旅で、大阪へも最後かもしれないと、大阪駅あたりだけでも見ることにした。何年振りだろうか、大きく変わっているに違いない、浦島太郎気分が高まる。

●全く見も知らぬ大阪駅表口風景

 大阪駅の表口とでもいう南側の駅前風景は、昔と全く違う見も知らぬ風景になっていた。超高層ビル林立で空を見るには首が痛くなるほどに風景は大きく変わっていた。

 昔はせいぜい30~40mくらいの高さのビルばかりだった。丸ビルと名付けた円筒状のホテルがちょっと高かったくらいのものだった。そういえば駅前でよく入った店は「旭屋書店」だったと思い出したが、どこにも見えない。

大阪駅南の駅前で西方面街並みを眺める

大阪駅南口前から東方を見る 左に阪急?、右に阪神?

大阪駅東口前の阪神百貨店はこんな形になっていた

 少年の頃に伯母の家を訪ねるためには、大阪駅南口から阪神電車に乗り替えた。それには阪神百貨店の地下に入った。阪神電車駅は今もその位置らしいが、百貨店ビルは超高層に建て替わっていた。そういえばその地下にあった全国名産品店街とか薄暗い飲み屋街はあるかしら、階段横の串カツ屋はどうだろう?
 とにかく駅前の広場や道は、昔の通りの位置や広さらしく見えるのだが、どこもかしこも超高層ビルが道路際までいっぱいに建っていて、緑や空が見えなくて実にうっとうしい風景になっていた。

 緑らしきものは御堂筋にある梅田吸気塔の周りの樹木群だけのようだ。この村野藤吾デザインの吸気塔が今もその形で立っているのが、なんだか不思議であった。まさかこれも超高層にはなるまい。

村野藤吾デザインの梅田吸気塔と樹木

 歴史的近代建築としてどうなったかちょっと気になっていた大阪中央郵便局も、超高層建築に建て替わっていた。東京駅前のそれと同じKITTEとネーミングだそうだから、同じように下半身には元のデザインを生かしているかとみれば、つまらぬビルになっていた。遠目で見て、近くに行く気にはならなかった。

大阪中央郵便局舎が建て替えられてKITTE大阪に

 そんな大阪駅前に建って左右を見渡していたら、東京のKITTEのように昔の姿を継承しているビルがひとつだけあった。かつての阪急百貨店が超高層ビルになっているが、その下半身にはかつてのビルのイメージをかなり上手に生かして継承している。その阪急百貨店うめだ本店だけは、そこに昔は何が建っていたか、わたしにも思いだすことができて、浦島太郎気分ひとしおであった。

阪急百貨店が建て替えられて阪急梅田本店ビル

●大阪駅北側の操車場跡地開発もチラリ眺めた

 そうやって懐かしい表口をながめ、かつては無かった裏口(北口か)も眺めてきた。こちらは広大な鉄道操車場があったこと、その一部が開発されて梅田スカイビル(原広司設計)だけが建っていたころの風景までは知っているが、その後は全く知らない。

 しかし最近その再開発ができ上ったらしく、ネットにその風景がちょくちょく登場する。それには巨大商業ビル群、超高層ビル群、広大公園緑地空間が見える。なんだかよくある開発風景で、もう実物を見なくても分かった気になってきている。

 ここは再開発といっても事実上は新開発だから、昔の姿を思い出して、浦島太郎気分を楽しむことができなくて、つまらないのである。そこが表口とは大きく違うのだ。駅裏(北)に建った駅ビルから、チラリと眺めて見て引き返した。

大阪駅北の操車場跡地開発をちらりと遠望

●大阪駅プラットホーム空間再開発が素晴らしい

 実を言えば裏口の操車場跡地開発を見る前に、大阪駅そのものの再開発に大いに惹かれてしまったのだ。結論を先に言えば、大阪駅あたりの再開発で、もっとも感銘を受けたのが、大阪駅そのものの再開発であった。表も裏もホンのちょっとだけ見てそう言うも気が引けるが、いや、まったく大阪駅こそ物凄い再開発だった。

 大阪駅の沢山の列車乗降プラットホーム全部を、はるか上空に大屋根をかけて覆ってしまうとは、じつに大胆である。京都駅のコンコース大屋根もすごいと思っていたが、こちらはプラットホーム全部だからすごい。

鉄骨の架構がダイナミックに上空をよぎる コンコースのしつらえがチャチに見える


コンコースが中間にあるためにプラットホーム迄全体を見下ろせないのが残念


 外国の鉄道駅では、大きな鉄骨ドームをかけた駅は、ハンブルグ駅やミラノ駅などいくつか利用した経験はあるが、日本では初めてだろう。なんと2011年完成だそうだから、14年もわたしはそれを知らなかったのだ。浦島太郎である。

 上記の例のような外国のそれと違うのは、こちらはホームと大屋根の間に広いコンコースが架かっていることだ。だから鉄道の出入りや乗降客の動きが、大屋根の下に一目で見渡せないのが惜しい。あの大空間であの頻繁な鉄道列車の動きがあると素晴らしいダイナミックな風景になると思う。ヨーロッパで見たあのおおらかな空間ではないのが惜しい。

 それでもホームとコンコースを全部まとめて上空に架かる大屋根の架構のもたらす空間のダイナミックさにほれぼれした。文章でも写真でもとても表せない。体験するしかない。
 ともかくもこ こに途中下車して眺めた大阪駅とその周囲の景観ベスト3ランキングをしよう。もちろん駅とその周りでわたしが1時間ほど眺め体感した範囲の偏見と独断である。

 第1位:JR大阪駅プラットホーム上の大屋根空間(設計:JR西日本)
 第2位:阪急うめだ本店ビル(設計:日建設計)
 第3位:御堂筋の中に建つ梅田吸気塔(設計:村野藤吾)

(2025/05/26記)

このブログ掲載の西への旅日記

・2025/05/20・1887【故郷の浦島気分】もう30年も唱える「高梁盆地≒アルトハイデルベルク説」は故郷に通じなかった https://datey.blogspot.com/2025/05/1887.html

・2025/05/18・1886【わが設計の父母旧宅】築60年モダンリビング木造小住宅が今は古民家民泊施設として生き残るとは! https://datey.blogspot.com/2025/05/1886.html

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2025/03/25

1874【日吉で今浦島気分】平和な卒業式風景のキャンパスの森の奥と地下には太平洋戦争の記憶が今も

●慶應義塾日吉キャンパスは卒業式

 ようやく春がやって来てうららかな暖かい日、横浜北部の日吉には、慶應義塾大学の日吉キャンパスがある。2025年3月24日はは義塾の卒業式とて、若者たちとその家族らしき人たちで溢れていた。
 未だ桜は咲かないが、いつもは静かな木立の丘の上は、和服で袴の晴れ着や仕立て下ろしのような背広姿の若者たちが、春の気分を浮き立たせている。それは懐かしいような平和そのものの風景である。

日吉駅前からキャンパスの公孫樹並木道は若者たちでいっぱい

●平和なキャンパス風景の裏に戦争の記憶が

 さて、この晴れやかなキャンパスが、実は先の太平洋戦争の末期において日本の重要な軍事基地であったことを知る者が、いったい何人いるだろうか。このキャンパスには不幸な歴史があるのだ。

 ここは戦争末期はキャンパスのほとんどを日本海軍に占領されていたのだった。1944年9月から、ここには連合艦隊司令部があり、戦争末期に太平洋の艦隊に作戦司令を無線通信で発していた。その結果は誰もが知るとおりである。キャンパスの地下には、海軍の軍令部基地としてのトンネルが蜘蛛の巣のようにはりめぐらっていた。それは戦争遺跡として今も残っている。

 太平洋戦争が終わったら日本海軍と交代のように、日本に駐留してきた戦勝国のアメリカ軍に、キャンパス全部を接収されてしまった。日吉キャンパスの戦争時代が続く。キャンパスがようやく教育の場に戻ったのは、1949年10月であった。戦争がようやく終わった。

 そんなこの地の悲劇を、この祝うべき日に思ってしまうのは、わたしが世界大戦を知る最後の世代であり、このところ世界大戦が再来しそうな世相であるからだ。折から新聞報道に、自衛隊が統合作戦司令部を発足させるとある。陸海空の3自衛隊を統合するのだそうである。今の世界情勢を見て、あの戦争の失敗に鑑みて、次の戦争の準備に違いない。

 その孫の慶応ボーイにも会ったので、日吉キャンパスの戦争史を知っているかと訊けば、聞いたことがない、知らないという。そこで用意してきた自作の小冊子「戦争に翻弄された大学とモダン建築」を、読め読めと手渡した。これにこのキャンパスとモダン建築の寄宿舎が蒙った太平洋戦争史の一部とでもいうべき事件を書いたのである。これまでも慶応大学に関係ありそうな知人たちに渡してきた。

この森の奥に太平洋戦争時に連合艦隊司令部となった記憶のモダン建築

●30歳代の記憶の日吉を訪ねて

 そうして卒業式に向かう知人たちと別れたわたしは、キャンパス奥の森の中にあるモダン建築を健在をちらりと眺めてから、丘を下って懐かしいところを訪ねてきた。昔、私は30歳代の10年ほどを、このキャンパスの南にある住宅公団の団地に住んでいたことがあるのだ。時にはこのキャンパスに子供を連れて散歩に来たこともある。

 団地は昔は5階建て共同住宅群の街だったが、今は建て替えて中高層共同住宅ビル群がゆったりとあるのが、一般市街地と比べてなかなかよろしい。高齢者用の施設も建っているのが時代の変化を思わせる。周りの街も中高層の共同住宅ビルになっていたし、緑の丘も斜面を高く大きな擁壁にして、その上に高層共同住宅ビルになっていた。
 何しろ、昔のドブ川が広域幹線道路となり、地下鉄の駅がある街になったのだから、それは当然かもしれぬと、今浦島の感慨を持ったのである。

5階建てから8階建てに建て替わった供養度住宅ビル群の団地

1973年の団地風景

(2025/03/25記)

このブログ記事に関連する冊子(PDF)
戦争に翻弄された大学とモダン建築
―谷口吉郎設計・ 慶応大学日吉寄宿舎の変転ー

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2025/03/13

1872【鎌倉徘徊】久しぶりに第二の故郷鎌倉を早春の徘徊ミニミニセンチメンタルジャーニー

 


 初春ながら青空が広がっているを見て、突然に思いついて鎌倉へ徘徊に行くことにした。動機はどうでも良いが、まあ、第2の故郷を久し振りに見るか。調べたら5年ぶりだ。今日は平日だから、鎌倉もあまり混雑していないだろう。

 鎌倉駅東口に降り立ったのは11時、駅前の様子は変わったかな。おや、真ん前の銀行が「御代川」という和食屋さんの店舗に変わったな。その右隣の書店(「松林堂書店」と言ったような)が閉店している、あの鎌倉でも書店が成り立たないご時世か。


 若宮大路に出るまえに右の路地に入り、あの市場があるかどうか確かめによれば、あった、小さな店が集るミニ市場の「丸七商店街」はまだ健在だった。ここで何かを買った記憶があるのだが何だったかしら。


 そして若宮大路に出て、向かい側の「農連市場」も健在である。でもまだ時間が早いのかしら、店の数が少なすぎるのが寂しい、

 さて八幡宮に向かって大路を歩こう。未だ桜には早いが段葛あたりを見れば(参照:桜咲く段葛風景)、なんだか大路の真ン中に、凱旋門のような真っ白な建物が立っている。なんだ、これは、。どうやら、「二の鳥居」のあの真っ赤なペンキの塗り替えか、それとも建て替えかの工事用囲いらしい、なかなか堂々たる姿で、ちょっと見栄えがする。


 その二鳥居の横には、奇妙な形のビルが建っている。はて、ここにはこれまた奇妙な形の鰻屋のビルが建っていたはずだがと、しげしげと見れば、どうやら元の鰻ビルの構造体を残して、全面的に改装したしたらしい。面白いけど別によくなったとは言えないよなあ。


そうそう、こんな「浅羽屋」という鰻屋ビルが建っていたのだ。妙なデザインであった。2010年撮影

 このあたりの若宮大路に向いての店舗群には、けっこう昔の物があったが、次第になくなて行く。木造の民家や町家建築が結構あって、擬洋風の建築のもあるし、昔を想起させる。





 若宮大路で一番の意匠の建物と思っているのが、この「三河屋本店」である。和風の堂々たる構えで実にプロポーションもよい。だが、お酒屋さんもやってゆけないのだろうか、閉店している。


 店先にはこんな表示が出ているから、建て直すのであろうか、保全策を講じてあるのだろうか、気になる。

 この数寄屋風に凝った建築の表具屋さんは健在だった。

 この2軒並び木造も健在だ。左の蕎麦屋の「峰川」はそれほど古い建築ではない(建築時の姿を知っている)が、町屋の和風の良さを見せている。右隣は店先に妙な庇のようなものを付加しているのが気になるが、まあよいか。

 では三の鳥居をくぐって八幡宮境内に入る。正面の赤い随神門の裏山は、今は冬も緑が繁る常緑樹の森だが、戦争直後までは松の疎林だった(参照:大昔の八幡宮裏山)。山林は燃料の補給源だったから、人が定期的に山に入って木を伐り出していたからだ。今では誰も山に入らないから、植生の自然遷移が進んで常緑の森に変わってしまった。

 上の写真では随神門が全部見えているが、15年前までは左半分は大イチョウの葉張りの陰に隠れて見えなかった(参照)。銀杏が倒れてしまった今では全容が見えるが、そう遠くないうちにまた銀杏が戻ってくるだろう。倒れた銀杏の木の後継の木が今ようやく育ちつつあるのだ。石段のそばの白い枝張りの木が後継銀杏である。

 さてこのあたりで昼飯時なので、駅前東急で買ってきたパンの弁当を、源平池のそばで水鳥を眺めながらのんびりと食べたが、昔ここはよく来たところで懐かしい。
 昼飯を食って、今度は小町通を駅に向かって戻ろうかと思っていたのだが、まだ13時半、足が元気な様子なので、では金沢街道を東へ歩こうか、そうだ、できたらわたしの旧居がある十二所まで行こうかと思いつき、よろよろと歩き出した。途中でダウンしたらバスに乗ればよい。

 街道の表道をできるだけ避けて細い裏道を行く。昔に住んでいたころしょっちゅう歩いていたからよく知っている懐かしい道だ。
 若宮大路の桜はまだだが、荏柄天神参道の梅並木は赤白の花が満開である。このあたりは住宅街で、じわじわと変わっているような、変わらないような。

 報国寺へ登る道の滑川とそのほとりの桜は、花の季節には実に美しいのだが、まだ早い。
あ、そうだ、報国寺まで街道の南側にある小道「田楽辻子の道」を来ればよかったなあ、懐かしい路だ、まあ、いいや、帰りはそちらを歩こう。

 浄明寺あたりからは街道の北の住宅街の細い路を東へ東へと歩く。住宅の生け垣が続いていて美しい。

 このあたりに建築家・武基雄先生の旧宅があったと思い出して見回すと、記憶が不確かだがこれがそうだったような気がする。武先生はここに住んで後に極楽寺に移転された。もうここが武先生の自邸であったことは忘れられているだろう、

 住宅の向こうに衣張山が見える。ここの20世紀の風景は田んぼが広がっていた。今のように住宅が立ち並んだのは、21世紀の初めころから宅地開発されてからのことだ。衣張山はそのままだ。
 わたしはここを「浄妙寺田んぼ」と勝手に名付けて、四季の変化を楽しんでいた。散歩道の田園風景がなくなるのを惜しんだものだ。そしてその風景の変遷をまとめてネットサイトに載せている。参照:鎌倉浄妙寺田んぼの四季

 昔よくこのあたりをうろうろしたから、観光客は絶対に通らない道も知っている。そのひとつ、この幅50センチほどの裏道が今もあるだろうかと行ってみると、あった。住宅と住宅のはざまを抜けて金沢街道に抜け出る。住宅は建ち替わっていたが、超細道は健在だった。

 そうやって懐かしい十二所にやってきた。23年前までほぼ四半世紀住んだところだ。谷戸の奥深くに自分で設計した小さな木造住宅には、今は写真家の夫妻が住んでいる。明石谷戸道をだらだらと奥に歩けば、あの家が真っ白な姿で立つのが見えた。新築から46年も経つが健在らしい、よしよし。

 さてもう15時か、八幡宮から3キロほど、よろよろ歩いて3時間か、歩行速度時速1キロの老体になってしまった。駅まで返り道はここからまた懐かしい別の裏道をとの考えは、さすがにやめた。幸いなことに足腰が痛むことはない。でも年寄りにはもう無理かもれないと慎重を期して、バスに乗って金沢街道をさらに東へと、朝比奈峠を越えて金沢八景へ。 
 結構なミニミニセンチメンタルジャーニーだった。
(2025/03/12記)
このブログの関連記事<鎌倉フォトエッセイ集>
鎌倉十二所伊達自邸(現・大社邸)

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2024/11/02

1847【渋谷浦島太郎気分・4】赤クレーン骸骨お化けに襲われて渋谷はハロウィンお休みします

(【渋谷再開発浦島太郎気分・3】から続く)

●渋谷のハロウィン

 東京渋谷駅あたりでは、毎年10月末日には、若者が集まってきてハロウィン騒ぎが起きる。わたしはハロウィーンがなぜ渋谷なのか、その理由を知らない。まあ、若者が集まって騒ぎたいなら、渋谷でも新宿でも池袋でも構わないのだろう。

赤クレーン骸骨お化けに襲われて渋谷はハロウィンお休みします

 「NO 渋谷は、ハロウィンをお休みします

 あまり騒ぎになって暴動並みの事件があってから、もう来ないでくれとの施策が打たれるようになったらしい。今年の渋谷駅前には「渋谷は、ハロウィンを休みします」という大きな垂れ幕を出している。それでも集まってきて困ったらしい。


 わたしはこのハロウィンなるものがなんであるか全く知らないが、集まってきて仮装行列とか、ハロウィン音頭なんてのを歌ったり、ハロウィン踊りとかやるのだろうか。ただ集まるだけではつまらないだろうに、。
 この新聞記事で渋谷区長が言うには「仮装しているのは外国人が多かったのが、昨年と大きく変わったところ」とあり、そしてその外国人とは外来観光客が多いと記事にあるのが、なんだか可笑しい。

 その外来観光客たち(印旛饂飩=インバウドンというらしい)は、渋谷でハロウィンやりたくて日本に来たのだろうか。いつもは自国でハロウィンをやっているが、たまたま日本でハロウィンの日に当たったのか。それとも、渋谷ハロウィン騒ぎが観光案内書に載っていて、わざわざ狙ってやってきたのか。
 そういえば、先日のこと、例のハチ公広場に超久しぶりに立ちよた。外国人観光客と思しき多様な大勢の人たちが、あの犬の銅像を取り囲んで、記念写真を撮りっこをしていた。こんな平凡なところをなぜ観光客が好むのかしら。
外国人ばかりがハチ公記念写真撮り


 まあ、何でもよいが、観光客を呼び込むのに苦心惨憺している街もあれば、渋谷のようにもう来るなと追い返すのに苦心惨憺している街もあるのが可笑しい。どこか過疎地にハロウィンランドなんてのを作って、一年中ハロウィンやってるってのは、どお?

●工事だらけ迷路だらけ坂だらけの渋谷

 その渋谷はいま、あの狭い谷の中の街のそこらじゅうをほじくり返し、工事中の板囲いだらけ、階段だらけで、迂回路だらけ、迷路だらけ、クレーンだらけ。これがもう7~8年も続いていて、全くもってハロウィンお化け出現にお似合いの街である。
坂の街を再開発しても坂だらけ もっと楽しい坂を作ってくれ!


工事現場の中の西口広場

ビルは建っても広場は無茶苦茶

東横デパートがなくなって空中に地下鉄高架が現れた

地下鉄を支えてきた古い構造物が露出

ボロボロ渋谷駅舎と板囲い通路

懐かしい暗く怖く汚い3Kガード下をぬけて桜ケ丘地区へ

広場の頭の上をなんだかんだと塞がれてうっとしいことよ
 
 都市再開発というある面では新たな美しいビルや広場で、華やかさがある写真が一枚も無いのは、撮らなかったのではなくて、撮ったけど見てもつまらないから載せなかったのだ。ハロウィンというお祭り騒ぎの足元は、実はこんな前近代的地獄的風景であることを言いたかった。

 それにしてもよくまあこんなごたごたの街に、こんなに大勢がやってきても事故がないのが不思議だ。こんなに広範囲で多様な再開発を、だれが全体を総合的に計画して、事業間の調整役をやっているのだろうか、知りたいものだ。
(20241102記)
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