2025/05/20

1887【故郷の浦島気分】もう30年も唱える「高梁盆地≒アルトハイデルベルク説」は故郷に通じなかった

●故郷高梁盆地訪問

 久し振りに泊りがけで故郷訪問してきた。岡山県の高梁盆地である。高梁市であるが、わたしが過ごした幼少年時代とは、市域は膨大に拡張しており、単に高梁が故郷であると言ってもどこであるのかわからない。そこで近年は故郷は高梁盆地であるということにしている。

 巾着袋というか餃子というか、サツマイモというか、まあ、空から見るとそんな形をした盆地である。四方を小高い山並みに囲まれているから、季節によっては盆地は湖の底のように雲海に深く沈む。雲海からようやく頭を出す備中松山城の天守がほぼ唯一の歴史的観光資源である。わたしは雲海の城を見たことはない。

 少年の頃はこの袋の中から雲を突き抜けて、何とかして逃れ出たいと思っていたものだ。夢ではも空を飛んで逃げだそうと何度もしたものだ。
 大学に入る口実で遂に東京に逃れてから、後年に都市計画を専門とする大人になって初めて、高梁盆地の価値が分かったものだ。なかなかに捨てたものではない良い街だと気づいても、もう戻れなくなっていた。

 その後に何度か引越しをしたが、どちらも20年以上を居住した旧鎌倉横浜関外の地は、規模と地形が高梁盆地にどことなく似ているのであった。意識せずとも故郷の環境と景観が脳内にインプットされたままでいるらしい。

●高梁≒ハイデルベルク説

 それを特に意識させられた”事件”が起きたことがある。ドイツのハイデルベルクのオールドタウン(アルトハイデルベルク Alt-Heidelberg )を訪ねたのは1996年の5月だった。
 そこは高梁盆地とほぼ同じような山に囲まれた盆地地形であり、ネッカー川が高梁川のように流れている。街を歩くと街路や路地(小路)から向こうに必ず山並みの緑を見通すことができる。

 例えば上の写真(左ハイデルベルク、右高梁)のような風景が到るところで出現してくる。わたしは初めて来たのに再来の気分になってきた。覚えのないデジャビュ(既視感)に襲われて、変な気持ちになった。

 街からネッカー川を渡って右岸に行った。岸辺近くから山がたち上り、その中腹を川に沿う道があり、哲学の道と名付けられている。そこから街を見下ろして、おお、ここは高梁盆地だよ~、と、わたしはいっしょに行った4人の友人たちに叫んだ。街で起きた変な気分の理由が分かり、頭ががすっきりとしたのだった。

 ではどれほど似ているか、わたしが撮影した俯瞰写真を比べよう、そっくりだ。

写真(上)はアルトハイデルベルク、ネッカー川右岸の哲学の道から望む1996
写真(下)は高梁盆地の旧城下町、高梁川右岸の蓮華寺への山道から望む1997

 そのアルトハイデルベルク景観は、高梁盆地の天守がある臥牛山、城主館(御根小屋)、旧城下町、方谷橋と川そして背後を囲む山並みが作る景観とそっくりなのだ。色彩は異なる。
 わたしはこれ以後、チャンスあるごとに「高梁盆地≒アルトハイデルベルグ説」を唱えている。(参照「異国で発見した故郷2010.07」)

 このブログに何回もそのことを書いており、高梁市で大勢の市民対象の講演(2012年)の機会にも話したし、高梁高校の同窓会誌にもこの話を寄稿したりして、自分としてはけっこう宣伝したつもりだったが、だれからもこれに乗ってくる話は一向にないのである。

●再び故郷にハイデルベルク景観を求めて

 今回、久しぶりの故郷訪問(たぶん最後)だから、この景観の確認をしておきたかった。以前に写真を撮った高梁川の右岸の山の中腹にある蓮華寺に期待して登りついた。おお、なんとまあ、展望台を設けてあるだ、感激した。もしかして、「ここからハイデルベルグと同じ景観眺められます」、なんて掲示板があるかもと思ったくらいだ。

 その展望台で撮った写真がこれ↓、ガックリ~、なんだよ、はるばる来たのに~。

蓮華寺から高梁盆地を望むも肝心のお城山、旧城下町、方谷橋など左方は全く見えない

  がっかりしてとぼとぼと蓮華寺からの山道を下っていたら藪の切れ目があった。
藪の切れ目から下に方谷橋、正面にわたしの生家があった御前神社の森が見える


上の写真の中央部ズーム、わたしの生家があった御前神社参道の脇に立つ鐘楼がみえる

 蓮華寺や方谷林あたりの山腹を探せば、どこかに旧城下町全部を俯瞰できるところがあるかもしれないが、老体で山道を登り降りや藪をかき分けるのは無理だからあきらめた。
 蓮華寺から北へだらだらと下ったあたりで、ようやく藪が切れて旧城下町が見える。位置が低すぎるけれども、ここから眺めてがまんしよう。
 これ↓が今の日本のアルトハイデルベルクである。
左は松山城天守がある臥牛城山、正面が旧城下町、秋葉山、右に方谷橋、愛宕山

もう一度、高梁盆地≒アルトハイデルベルグを空中から見よう、そっくりである。


 というわけで、わかったのは、わたしの唱える「高梁盆地≒アルテハイデルベルク」説の宣伝は何の効果もなかったということだ。
 ハイデルベルクと言えばドイツでも日本でも有名な古都だから、高梁盆地観光の種になるかもと思わないでもなかった。でも今や学生王子の小説や映画やミュージカルさえも誰も知らないよな。

 高梁盆地≒アルトハイデルベルク説をひっこめる気はないが、歳と共に薄くなった故郷の街への思いいれらしきものが、これでさらさらと溶け去った。
 そこで思うのだが、都市や地形を景観的な視点で認識するのは、わたしのような建築や都市計画を専門としたものでなければ、眼で見ても気が付かないかもしれない。誰もが気が付くだろうとの思いは、専門家の一方的思い込みで誤謬のようだ。
 それが証拠には、高梁生まれのわたしの弟でさえも、ハイデルベルクに行ったけど高梁と似ていると気が付かなかったというのだから。
 そうだ、どこか別の日本のハイデルベルク説が有効な城下町を探そうか、さてどこだろうか。

●高梁盆地の観光目玉は今

街にもホテルにも山田方谷幟旗ヒラヒラ
 ところで、目下の高梁盆地観光の大きな売り出し目玉は、山田方谷らしい。方谷は幕末に備中松山藩を立て直した陽明学者であるようだ。街に中のあちこちに山田方谷と大書するヒラヒラ幟旗が立ち並ぶ、売り出し軽薄風景であった。

 街のあちこちに方谷に由来する”遺跡を発掘”している様子だった。地元銘菓にも「方谷柚餅子」があり、友人への土産に買ってきた。猿煎餅があったから方谷煎餅とか方谷饅頭もあるだろう。

 山田方谷を主人公にしたNHK大河ドラマ実現運動をやっているらしい。方谷さんが司馬遼太郎の小説の一部に登場することは知っているが、ミーハーにも受けるほどの全国的有名人であるとは知らなかった。

 わたし個人としては、幕末ドラマにしてみたいと思う主人公は、方谷が仕えた藩主板倉勝静である。幕末の幕府老中首座として開国騒動から戊辰戦争の渦中で右往左往、東北列藩同盟の参謀にされて榎本武揚と北海道へ逃避行なんて、この人のほうが方谷よりよほど面白そうだけどなあ。もっとも、わたしはTV嫌いで受像機ないけどね。
                       (2025/05/20記)

ーーーーこのブログの高梁・ハイデルベルク関連記事ーーーー


◎高梁:日本のハイデルベルクは今(1997.11)https://matchmori.blogspot.com/2021/08/takahasi1997.html

◎異国で発見した故郷ー高梁盆地そっくりのハイデルベルク(2010.07)
https://matchmori.blogspot.com/2021/09/taka-heide2010.html

◎ふたつのアルテシュタット(2012/01/17)
https://datey.blogspot.com/2012/01/572.html

◎高梁盆地とハイデルベルク(1)コンパクトタウン(2012.0120)
https://matchmori.blogspot.com/2021/07/takahasi1.html

◎高梁盆地とハイデルベルク(2)街と道(2012.0120)https://matchmori.blogspot.com/2021/07/takahasi2.html

*高梁:盆地の山並み風景(2012.01.13) https://x.gd/PS0ho

◎【望郷と忘却:『荘直温伝』読後感想2】高梁盆地を縦断した山陽山陰連絡鉄道(2020/08/22)https://datey.blogspot.com/2020/08/1486.html

●【ふるさと高梁論集あれこれ】
https://matchmori.blogspot.com/p/west-nippon.html

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伊達美徳=まちもり散人
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