2012/12/31

701新年になっても手帳を持たなくてもよい身分になりたいようななりたくないような

本年の締めくくりは、自作1年手帳の制作である。3年前から手帳を買うのをやめて、自分でMSWORDで編集、卓上で印刷して綴じる。裏表冊子印刷でたったの16ページ、1か月が1ページである。
 百円店で買ってきたカードフォルダーなるビニルのカード袋がいっぱい綴じこんで手帳に、自作手帳を合わせて綴りこんだだけである。
 材料原価は120円くらいか、とりあえず見た目はそれなりに立派である。

 カード入れに諸カードやら名刺を入れるとけっこう分厚い。カードの数を勘定したら、なんと25枚もある。
 オレはカード嫌いなのにいつの間にこんなに、、、医院、図書館、銀行、電器屋、学会などなど、今や何でもカードである。
 自慢じゃないがと自慢するが、乗り物カードは持っていないのだ。あ、1枚あるなあ「横浜市敬老特別乗車証」、タダじゃないよ、市内の地下鉄バス乗り放題で年間8000円である。

 4年前までは、だれもするように毎年の暮れに文房具屋で買っていた。今から考えると、もっと前から自作してもよかったはずだが、知恵がなかった。
 わたしは1974年からの手帳を39冊を保存している。39年分の簡単自分史である。
 それよりも前にも手帳を持っていただろうが、その年から勤め先の経理システムができて、何の何をいつ何時間やったか記録することになったので、手帳を克明につけ出した。

 もちろん仕事の記録だけではなくて、いろいろな行動記録がある。日記をつける習慣を持っていなかったけれど、この手帳を見ればほぼその日に何をしたかがわかる。
 ただし、ほとんど符牒書いてあり、その符牒が何であるかもう忘れているので、その頃何をしたのか手帳を見て思い出そうとしても困ることが多い。

 毎年買ってきた手帳の仕様は、大きさだけは一定だが、中身は毎年のように違うものを買っている。
 要するに毎年気に入らなくて、毎年今年こそは適切なものをと、毎年探していたのである。自分の行動を自分流に書き込む手帳は意外にないものである。
 それでいつかは自作をしようと思っていたのだが、技術がなくてできないままできて、今頃になってようやくできる様になったのだ。

 だが、今はもう仕事をほとんどしていないから、昔のように毎日びっしりと書き込むことがない。
 かつての手帳は原則として1週間が2ページであったのが、今や1か月が1ページで済むのが、嬉しいような情けないような。だから自作手帳も簡単で済むのだ。
 技術的には市販品のようなあれこれと付録をつくることもできるのだが、今や電話帳も地下鉄路線図も、その他あれこれも不要であるのが悔しい。

 そのうちに手帳そのものが不要な身分、というか境遇になるだろう。その日は近い。
 とりあえず今年は終わり、来年の手帳もできた。あと1時間半で2013年となる。
 今年は世は右回りになってイヤな年であった。身には歯と眼と手の故障があった。
 ここまで生きてくると、まあ、年が明けようが明けまいが、ほとんど気にならない。

 
 では、これをお読みいただいたあなたに、来年はよいことありますように。

2012/12/29

700海軍聯合艦隊司令部として戦争に翻弄された谷口吉郎設計の戦前モダン建築

◆丘の上のモダンデザイン建築
 横浜市の北に位置する日吉に、慶応義塾大学日吉キャンパスがある。広大なキャンパスの南に半島状に張りだした台地の端に白亜の建築が見える。1937年に建った慶応義塾日吉寄宿舎である。
建築史の専門家には、日本の戦前モダンデザインのはしりの典型的な建築として、その設計者とともに知られていたが、慶應関係者は別にしても一般には全く知られていない。  ここでこれをとりあげるのは、現代の視点で見ると、実はただ物でない歴史を背負っていると知ったからである。

 これは日本近代史上において、教育機関としての慶應義塾としてはもちろんだが、日本の近代建築史においてばかりか、太平洋戦争において実に重要な役割を果たした記念的な建造物であり場所であるのだ。

 もしかしたら、復原前の東京駅赤レンガ駅舎と並ぶ戦争記念碑かもしれない。戦争及び戦後復興記念碑としての東京駅赤レンガ駅舎は、復原という仕業で記念的造形が消えてしまったが、この日吉寄宿舎も同じ轍を踏むかもしれないのが心配である。
 所有者の慶應義塾大学が、老朽化していたこの建物を再評価し、2012年からその一部をリニューアルして現代的な学生寮として再生したと聞いて、興味をもっていろいろと調べたのである。

(以下全文は下記へ)
第1章<戦前>慶応モダンボーイの日吉新キャンパス
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi
第2章<戦中>海軍中枢の秘密基地となった日吉キャンパス
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi/hiyosi2
第3章<戦後そして今>戦争の傷を癒しきれない日吉寄宿舎
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi/hiyosi3

2012/12/19

699選挙結果を見ると福島県の人たちも実は原発推進であったのか、ガックリ

 あれっ、え~っ、そうなのお~、もう、これにはビックリした。
 新聞で今回の衆議院議員選挙の結果について福島県の欄を見たら、なんとまあ、福島県の方々も原発推進党の方々をわんさと当選させているんですね~、ほお~ッ、へえ~ッ。

 今回は原発推進党のひとたちがめちゃめちゃたくさん当選したが、わたしは福島県だけはそうなってないだろうと、勝手に思い込んでいた。
 ところが大違い、どうしてこうなったのか、ぜんぜん分からないけど、わたしがお人よしであることだけは分かった。

 だって、福島県が策定した「福島県復興計画」(第1次)2011年12月の基本理念にはこう書いてあるんだもの(4ページ)。

基本理念
 復興計画は、復興ビジョンで掲げた以下の基本理念の下に復興を進めるものとする。
Ⅱ 基本理念
○ 「脱原発」という考え方の下、原子力に依存しない社会を目指し、環境との共生が図られた社会づくりを推進。このため、国及び原子力発電事業者に対し、県内の原子力発電所についてはすべて廃炉とすることを求める。


 そしてまた、今年の11月には、東京電力に課してきた核燃料税を今年限りで廃止したそうである。
 億の単位の金が入るのをやめるのだから、原発頼りの財源を絶って、その覚悟のほどがわかる。

 それなのに、ああ、それなのに、この選挙の結果はどういうことなのだろうか。
 その筋の消息通はいろいろ解説はできるのだろうが、解説してもらっても、結果は結果でそれが物を言う。

 福島さえもこれなんだから、日本全体が原発推進党に票を入れたのもわかるけれども、うん、だけれどもである、どうしてなの?、ねえ、どうしてなの?

 今、わたしがわかることは、わたしがもう世間のことが分からなくなったボケ老人である、ということだけである。
 認知症って言葉は嫌いだが、どうやらわたしは世間不認知症になったらしい。

参照→弧乱夢「地震津波火事原発」

2012/12/16

698浦島太郎の選挙風景(追記あり、翼賛選挙大成功)

 
 40数年ぶりに選挙なるものをやってきた。
 向かいにある中学校の体育館が投票所である。3つもの紙に記入するのに、案内がてきぱきとして円滑であった。

 大昔の投票では、候補者の名前だけを書いていた様な気がするが、へ~、今は政党の名前も書くんだなあ。
 その候補者名とか政党名とかの一覧表が、投票の記入ブースに張り付けてある。
 で、40数年ぶりの投票が無効になってはたまらんから、超正確に書こうとして、しっかり一覧表を見ながら、一字一字を写して書いた。

 ここで、当惑したのは、全部の漢字に振り仮名がついていることだ。
 ということは、振り仮名も合わせて候補者名であり政党名だろうから、これも書かないと無効になるんだろうなあと、面倒ながらこれも写した。

 さらに戸惑ったのは、政党名には略称というのも、正式名称の下につづけて書いてある。これもご丁寧に振り仮名つきである。
 さて、これも書かなければ無効投票になるんだろうかと、しばし思案した。
 案内係の人に聞こうかと思ったが、どうもいい年寄りが初めて投票するようなことを聞いては、恥ずかしいような気がした。周りに大勢いるしなあ。
 まあ、常識として、正式名称と略称の両方を書くことはあるまいと、思うことにした。

 さて、一連の投票が終わって校門を出ようとしたら、若い女に呼び止められた。
「出口調査にご協力ください」
 え、たしかにおれは入るときは西門からで、今出ようとするのは南門、それっていけないのかい。
 それとも、どこの門が出口として一番使われているか、今後の投票所の設計のために調べてるのかい。

 そうじゃなくて、なんでもNHK放送局が、投票所から出てくる人に、どこのだれに投票したか聞くのだそうだ。
 じゃあ、出口調査してんじゃなくて、投票調査してんだろうが。
 大きなお世話である。そんなプライバシーをタダで教えるもんか。

 じゃあなにかい、入り口調査ってものもやってるんだろうな。
 入るときに考えてた投票先を、投票所の中でどう変更したか、あるいは変更しなかったか、そんなことを調べて、どうするんだい。

(12月16日23:00追記 開票速報を見て)
おやおや、これはこれは、なんともはや。
この前の政権交代選挙の裏返しですか、ふ~ん、オセロゲームかよ。
政治評論家は、あの時の言を、民主と自民を入れ替えればよいのね。
またもや恐怖の翼賛選挙で、もう、ほとほと世の中をイヤになった。
また、「棄権党」を再結成して総裁に就任することにしました。

まあ、後は若いもんで勝手にやってくれい、
原発が事故ろうと、中国と戦争しようと、わしゃ知らんわい、
若いもんが選挙で選んだ道だものね、
 ♪この道はいつか来た道、あ~あ、そうだよ~お、
   ほ~ら、右に下る坂道~、


というわけで、開票速報見てもしょうがないので、
もう、ふて寝するもんね。

(追記2012.12.17 朝の新聞を見て)
 今朝の新聞を見たら、なんと自民公明で320議員を越えたそうな。これで衆議院だけで物事を決めることができる。そういう選択を選挙民はしたのであるか、ふ~ん、。
  わたしのアンチ翼賛票は、見事に死んだのであった。

 昔々投票に行ってたまだ若いころ、毎度毎度死に票を投じる結果となって、もうバカらしくて選挙投票に行くのはやめた。
  今回はその棄権主義を反省したのじゃなくて、あまりにひどい右翼への翼賛選挙となる予想に反発して、40数年ぶりに投票したが、やっぱり死に票となった。


 まあ、投票と言えば競馬の勝ち馬投票みたいなもんで、ギャンブルだから、結果は残念だけど、みんながお選びなんだから、しょうがない。
  だが、わたしの今回の投票したことへの痛恨は、憲法違反に加担したことである。
  さて、この違憲状態の選挙による政権は、正統性をもっているんだろうか。
  この選挙をした57,134,678人、みんなそろって憲法違反したような。

 日本の総理大臣は一年交代主義の伝統があるらしいし、この伝統の始祖が今回また首相になるお方である。
 だから、来年の今頃はその伝統に従っておられることでしょう。

(追記2012.12.18 福島でも、、) 
 今朝の新聞で、じっくりと各地の当選者を見て、ガックリ。
 あの福島県でも、しっかり原発賛成党が当選者を占めている翼賛選挙だったのですね。
 もう、日本のことがよくわからなくなったので、世の中から本格的に引退することにしま~す。

 あ、どこか外国でも行くか、ネパールか、それともブータンがいいかなあ。

697みんなが揃って一定方向に流れるのが我慢できないへそ曲がりの性分が騒いで

2012/12/15

697みんなが揃って一定方向に流れるのが我慢できないへそ曲がりの性分が騒いで

 明日は衆議院議員選挙である。
 わたしは、もう40年以上も「棄権党」の党首(党首兼党員ひとり)を務めてきた。
 今回、棄権党を解党して「へそ曲げ党」を設立して、投票に行くことにした。
 長い間の選挙しない主義の節操を破るのは残念だが、今回の選挙についてアホメディアの予想が、自民党大勝というにのに、カチ~ンと来たからだ。

 なんだよ~、またかよ~、小泉郵政選挙の時に翼賛選挙であとで困ったろうがよ~、この前の政権交代選挙で翼賛選挙して今また困ってるじゃんかよ~、え、わかってんかよ~。
 昔々戦争してた頃に大政翼賛会をつくって翼賛選挙した結果が、あの悲劇だったろうがよ~。
 日本の選挙民は何やっとんじゃあ~。

 あの右翼のオッサンどもに政権をとられてたまるもんかってんだあ。
 てなことで「ごまめの歯ぎしり党」というほうが正しいが、アンチ右翼票を入れるだけのために、40数年の棄権党党首としての節操を破ることにした。

 と、いかにも格好良い言い方をしたが、実の本音は、みんなが揃ってある一定方向にダダ~ッと流れるのが我慢できないって、へそ曲がりの性分が騒いでいるのである。

●参照⇒
172またもや翼賛選挙(2009年8月のブログ)
http://datey.blogspot.jp/2009/08/172.html
695憲法改正で戦争可能になると核兵器がいるので原発推進して核開発するのか
http://datey.blogspot.jp/2012/12/695.html

2012/12/11

696日本で地震からも津波からも核毒からも米軍基地からも逃れる地域はどこだろうか


●疑わしくても罰しないのが原発だって
 今朝の新聞には、国の原子力規制委員会が敦賀原子力発電所2号機の真下を走る断層が、活断層の可能性があると発表したというニュースがある。
 ということは、この原発はかなり危ないってことであるらしい。

 原発事業者は、そんなことは絶対ないと否定し、敦賀市長は、可能性あると言ってるだけだからまだ黒じゃない、疑わしきは罰せずだ、と言っているそうだ。
 この疑わしきは罰せずって、ここで言うのがすごいと思う。普通はこういう時に使うもんじゃないよなあ。明日、敦賀地震が来たらどうなるのか。

 それにしても、今や日本では原発近くに住むってのはかなり勇気がいると思う。
 それは、地震の津波で襲われるとわかっていながらも海岸地域に住むのと似ている。
 こうなったら思い切って、原発から20㎞か30㎞圏に住むことを法律で禁止してはどうか。建築基準法第39条の「災害危険区域」に指定するのである。

●東北では津波被災で災害危険区域を決めた
 今、東北地方の被災地では、津波で被災した地域に、法律による災害危険区域を定めて、かなり広い範囲の土地に、これからは居住禁止を強制することにした。
 その指定区域内では、住宅を造って住むのは禁止だが、工場や店舗はよいのだ。

 たとえば宮城県山元町では町域の3分の1がそうなっている。それだけ津波被害が広かったということである。
 だからその地域に住居のある人たちは、他に移転しなければならない。安全のためには仕方ないが、移住のための法的な支援措置があっても、あれこれ大変なことである。

 それはそれで気になるが、わたしがもっと気になるのは、そうやって居住禁止した土地は、これからどうなるのだろうかということである。
 住宅でなければいいというのだが、それでは工場や店舗の事業者が、そんな危険なところを選んで立地してくるだろうか。
 地域の人たちだって、そういう危険な地域で働くのも考えものだし、買い物に行くのも気になるだろう。

 ショピングセンターの事業者は、喜んでやってくるかもしれない。彼らは2年くらいで投資を回収するから、それまで津波が来なければよいのである。まあ、10年くらいは来ないだろうよなあ、?、いや、つい3日前にも津波騒ぎがあったなあ。

        (津波が来た街)
でもそうなると、今の日本各地で問題になっている中心街の疲弊、つまり生活圏の便利さが失われていくことが、ますます進むだろう。
 となると、せっかく計画的に作った移住先の街も、また住みにくくなるかも知れない。

 多分、空き地のままの災害危険区域が広がっている風景となるだろう。
 防災集団移転促進事業によって移住した跡地ならば、公有地になるから公園にする案もあるだろう。しかし、何か施設を造ってもそんな広くては、維持管理が大変である。
 田畑にして耕作するのが一番良いだろうが、農業振興の問題が横たわっている。TPP問題もあれば農業人口の高齢化問題もある。

 その土地はもとはと言えば海だったところである。自然の持ち物だった海を埋め立てて、人間が使うようになったのである。津波はいわば自然からの返却命令である。
 ならば、いっそのこと海に戻してはどうか。浚渫して出てくる土で陸のかさ上げをし、掘り込んでできた内海は港や養殖漁業の場とするのだ。

●太平洋岸はどこも災害危険区域でしょうに
 ところで、東北の被災地では今になってあわてて災害危険区域を指定しているが、同じように津波での災害危険区域ならば、茨城から鹿児島まで太平洋岸全部がそうであるはずだ。
 こっちはどうなっているのだろうか。

                 (これから津波が来る街)
東海、南海、なんとか大地震が言われているのだが、地震津波が来てから災害危険区域を指定しても、遅すぎやしませんかねえ。
 こちらの津波で危ない海岸地域全部に、あらかじめ指定しておいて、津波が来る前に移住するようにするのが、あるべき防災政策と思うのだけど、そうはいかないのだろうなあ。
 なにしろ、現実にあまりに多くの人が住んでいて、それを移住させるとなると超大問題になって、とても区域指定できないのだろう。わたしが日ごろ唱えているマンション禁止と同じである。

 つまり、大津波が来て何万人何十万人も死んでから、おもむろに災害危険地域を指定するってことにならざるを得ないと、これはとても科学的判断じゃなくて、いわば政治的判断ですな。
 日本は人柱が立たないと、前に進まないのである、昔から。
 実はかく言うわたしが住んでいるところも、海抜2~3m、港から2km足らずだから、もうその時はその時である、歳だって先は長くないことだし、。
 ある人から聞いたのだが、海岸地域に住む人が次第に内陸に移転しているそうだ。持ち家の人は簡単じゃないが、借家の人は好んで海辺に住むことはないから、とうぜん内陸に移住するだろう。

 原発の近くも災害危険区域その指定をして、これから廃炉になり、地震が来ても核毒が漏れないようになるまで、指定解除はしないことにする。
 沖縄の嘉手納基地周辺なんてのも、災害危険区域の資格が十分にあるように思う。ここも移住するなら防集事業である。もっとも、基地のほうが移住するべきだろうが。

●地震津波核毒基地から安全な地域はどこだ
 津波海岸から遠く、地震の巣から遠く、原発から遠く、そして軍事基地からも遠く、かつ学校病院文化施設や飲み屋から近い、そんなところに、わたしは住みたい。
 ということは、そういうところが日本の中にあるならば、そしてそこが人口減少で悩む地域ならば、それを宣伝すると地域再生になると思いますが、いかがですか。

 実は、先ごろそう思って、あれこれ調べていたら、わたしの生まれ故郷(岡山県高梁市)がそれにぴったりとわかったのであった。


  まずこれを見てください。高梁のあたりは地震が少ない。
  日本全国広域 最新30日間の震央分布図 (独立行政法人防災科学技術研究所)
 http://www.hinet.bosai.go.jp/hypomap/

 そして今の一番怖い四国沖での南海大地震が起きても、何とか大丈夫のよう。もちろん津波はここまでは来ない。
  中央防災会議資料
 http://www.jjjnet.com/image/shindo_nankai.gif

 上の地図だと島根県あたりのほうが安全に見えるけど、そこには島根原発がある。島根原発は高梁に一番近い原発だがそれでもかなり遠い。下記のサイトで島根原発のところの図を見てください。
  全国の原子力発電所の周辺人口(2005年)埼玉大学谷謙二研究室
 http://ktgis.net/tohoku_data/genpatsu/

 南海やら東海やら大地震が起きてもなんとかなるだろうし、津波が起きても瀬戸内海から高梁川をさかのぼるには遠すぎるし、島根原発が核毒まき散らしてもここまでは来ないだろうし、富士山が爆発するらしいけど高梁まで灰が降ってくることはなかろうし、一番近い米軍基地は山口県岩国だからかなり遠い。

 というわけで、故郷はよいところと分ってはいたけど、こういう意味でよいところと今頃になって知ったのである。
  もう何年も減り続けている人口が、これを日本全国に宣伝すると、増える方向になるでしょうね、多分。
 故郷の方々、いかがですか。

2012/12/05

695憲法改正で戦争可能になると核兵器がいるので原発推進して核開発するのか

●コロコロ変わるから選挙に行く気がしない
熊五郎 寒い時に選挙になりましたねえ、ご隠居。
ご隠居 おお、熊さん、よく来たねえ。寒いと選挙に行く人が減るかもなあ。
熊 そんなことないでしょ、大事な選挙なんだから。
隠 まあねえ、でも実はね、わたしはもう40年以上も選挙に行ったことはない、えへん。
熊 あのね、いくらご隠居がへそ曲がりだといっても、威張ることじゃないでしょ。
隠 そのとおりだがね、政治には興味ないんだよ。棄権もわたしの意思表示なんだ。まあ、格好よく言えば無政府主義者ってところだな。はやく言えばめんどくさい、わからない。
熊 ふ~ん、でもね、今回の選挙にゃ、あれやこれやいっぱい政党があり、政策のようなものが右翼から左翼まで、同じように並んでて、あっしにも何のことかわかりませんや、こりゃ棄権しようかな。
隠 うん、うん、それに政党の代表者が言ってることが、コロコロと変わるらしいな。
熊 そうそう、それなんですよ、うっかり投票したら、次に日にコロッと変わるかもなあ。なんだか、ご隠居の危険じゃなくて棄権思想がうつったなあ。

●一票の重みに大差あってもよいと憲法改正か
隠 今回の選挙でなんといっても一番すごいことは、憲法違反状態って最高裁判所が言ってるのに、な~にかまうもんかって選挙するってことだな。
熊 あのね、それで思うんですが、憲法を変えようって言ってる政党があるでしょ、あれって選挙の違憲状態をなくすために、投票一票の重みがいくら違ってもよろしいって、憲法を変えようってんでしょ。
隠 まさか、う~ん、そうかもなあ。それにしても、むかしは選挙で、憲法改正って大声で言ってるのは、右翼の泡沫候補に決まってたのが、今回は大政党の党首が堂々と言ってるんだね。なんだか世の中すごいことになってきたね。
熊 面白いのは、憲法改正というひとは、たいてい原発賛成と言ってるんですね、何か関係があるのでしょうかね。
隠 そうだなあ、憲法を変えて戦争できるようにするとなると、現代の戦争は核兵器が必要だ、だとしたら核技術が必要だ、日本の核技術は原発に支えられている、だから原発賛成だって、多分、こうなるような気がするけど、どうだろう。
熊 な~るほど、憲法変えると原発栄えるって、風が吹けば桶屋が儲かるよりも、はるかにわかりやすいや。

●さてこんどは選挙民はどっちに流れ着くか
隠 またまた翼賛選挙になるんだろうなあって、ますます選挙に行く気が無くなってるんだ。
熊 なんです、その奥さんの選挙ってのは。
隠、そうじゃないんだよ、翼賛てね、戦争中に誰もかれもが体制賛成派になっちまって、一億戦争につっこんだんだよ、あれみたいにだ~っと選挙のたびにどこかに傾くんだな。
熊 わかった、小泉さんの郵政解散の時にありましたね。それから民主党が3年前にトップになった時もね、あっしたちゃそんときの気分で右でも左でも見境なく流れて行くんですねえ、ほら、え~っと、ポッポのリズムって。
隠 なんだいそりゃ、ポピュリズムだろ。今回はどうなんだろね、民主党がヘマしたから、今度はまた自民党だって、どっど~っと翼賛するんだろうかねえ。
熊 いや、もう原発はこりごりだって、どどっと未来党に偏るとか、、。それにしてもこんなにいっぱい政党があるとなんて書いていいかわかりませんね。
隠 そうだろ、だから私は考えたんだよ、こういう名の政党をつくりゃいいんだよ。
『日本民主自民公明国民生活維新共産社民大地改革社大減税反TPP脱原発消費増税凍結太陽未来みんなみどりたちあがれきづなさきがけ緑風農民新自由愛国労働雑民スマイル幸福諸派無所属党』
ってね、どうだ、無敵の政党名だろ。
熊 ウワッ、そんなの覚えられっこないですよ。
隠 あのな、政党は選挙で略称を使ってもいいんだよ、そこでこういうんだよ『日本ちゃんぽん党』

●参照→またも翼賛選挙

 

2012/12/03

694藤沢の海岸にある中国国歌作曲者の聶耳(ニエ・アル)の碑は山口文象設計  

   
●湘南海岸の森の長城
 東北の津波被災地に行ってから、森の長城のことが気になり、鎌倉の世界遺産ワークショップでも、そのことをしゃべった。
 その森の長城のモデルケースが、藤沢から平塚にかけての海岸は湘南海岸沿いにある幅広で長大な防砂林である。
 砂丘の上に松林を主としながらも常緑広葉樹との混交林であるところが特徴的で、震災復興で「森の長城」を提唱している植生学者の宮脇昭先生の指導でつくった森である。
 よくある白砂青松の疎林の松林ではないのは、砂が飛ぶのを防ぐ目的だからだ。同時に、津波が来たら密な植生はその水の勢いを幾分かはそぐだろうとも思う。

 先日その森の長城を見に行ってきた。その森のことを書く前に、そこで思いがけなく建築家・山口文象の作品に出会ったので、そのことを書く。
 その東西に長い樹林帯が東の端で切れるのが、藤沢市の引地川の河口部であり、その海岸の向かいに江の島が見えるところである。


●中国国歌作曲者の記念碑
 この河口部にある公園の中に「聶耳記念広場」がある。真ん中に四角な1m角ほど、高さ60センチばかりの石のモニュメントがあり、周りを低い塀と生垣が取り囲む。
 モニュメントは陸側から海側にむかって眺めるように配置され、その背景の一部に2m角ほどの壁がたっていて、若い男の顔のレリーフがはめ込まれている。
 その男の名は聶耳(ニエ・アル 1912~35)、中国の音楽家であり、日本に来ていた1935年に この海で泳いでいて溺死した。まだ23歳であった。
若くして異郷で死んだにもかかわらず、「義勇軍行進曲」の作曲者として有名な人であるらしい。彼の故郷の昆明には、彼の名をつけた公園があるという。
 その「義勇軍行進曲」が、1949年に中華人民共和国の国歌となったのを記念して、藤沢市民の有志からその海で死んだ聶耳を記念する事業を行おうとする運動が起こり、1954年に碑を建てたのであった。
 まだ日本と中国とは国交が開いていない時代だったが、除幕式には中国からの要人も出席した。その後も今日まで中国の要人がくるという。

 その碑の設計者が、建築家の山口文象であった。
 雑誌「新建築」1955年4月号に山口文象が設計者としての言葉を書いているのを読んでみても、聶耳ととくに親交があったようでもない。何が故に山口文象がデザインすることになったのかはわからないが、社会党系の文化人に知り合いが多かったことから、その方面からの紹介だったのかもしれない。
 1954年の山口文象のデザインの範囲は、碑、秋田雨燕による碑文、敷石とその周りの砂利敷きを縁取る石までであるようだ。サルスベリの木のことを「思わぬエフェクトを創り出してくれました」(設計者のことば「新建築1955.4」)と山口は書いているので、周りの造園は彼の設計ではないだろう。

 碑のデザインは、ムクの稲田石を四角に切って、耳の字をモチーフの切り込みと突起をつけている。謎解きのようで面白いが、こういう類の記念碑がほかにあるだろうか。
 このころ記念碑デザインの第1人者は、建築家谷口吉郎であった。山口文象と谷口は親交があったが、こういうもののデザインについては、山口が谷口を意識していたであろう。
 それが「私は今までの定型化された碑の概念を捨てようとしました」(設計者のことば「新建築1955.4」)となっているのだろうが、果たして谷口の向こうを張るほどのものになったと言えるだろうか。

●変転した配置と位置
 1958年に関東を襲った狩野川台風による高波で碑は流されて荒廃していたが、1965年に再建された。この時に山口文象が関わったかどうかわからない。
 さらに1986年に再整備がされているが、この時は山口文象は他界しているから関係はなさそうだ。RIAも関係していないことは、わたしが知っている。


 
 新建築1955年4月号に載っている写真や配置図と比べると、現在はずいぶんと変わっている。ネットに登場する写真で見ると、何回も配置も造園もデザインが変わっているようである。しかし、碑そのものは作り直されることもなく変わらずに中心にある。

 秋田雨雀による銅板の碑銘は、1954年の当初には碑の前に浮くようにあったが、いまは周囲の壁にはめ込まれている。
 なお、この碑文は、一部に誤りがあったので1986年に井上靖が手を入れて訂正して作り直したという(「聶耳歿後60周年記念講演」葉山俊1995年)。
 新たな記念物として、碑の背後に聶耳のレリーフ(作:菅沼五郎)がはめ込まれた壁が建っている。これは1986年の整備の時に設けられたとある。

 この再整備の時に、元は引地川の西にあった碑を、東側に移動した。
 引地川河口部の見晴らしの良い公園の中にあって、明るい雰囲気である。
 気になったのは、いろいろな碑文やら解説版やら標識やらが建っていることである。再整備の時や何かの記念行事の時に増えていくらしいが、環境デザインとしては煩瑣になってきていることだ。

●中国との友好な時代はどこへ
 
 ところで、、昨今話題となっている東南海大地震による津波のことを考えると、引地川は津波の遡上のルートとなるだろう。
 ここには防波堤も防潮林もないから、津波に一番に持って行かれるだろう。この碑だけではなくて、海に裸で向かっている無防備なこのあたりの市街地全部がそうなるだろう。

 もう一つの大波も気になる。このところ尖閣列島事件以来、日本と中国の関係が不安定である。この碑が国交のない時代から日中友好の役割を持っていたことを、いま思い出す人がいるのだろうか。(2012.12.02)

詳しくはこちらを参照のこと
●参照:1954聶耳の碑