2013/02/27

725福島第1原発の現地調査段階の記録映画を今見ると実に興味深い

 おもしろい無料配信サイトにある記録映画を見つけた。
「黎明 福島原子力発電所建設記録 調査編」(1967年 企画:東京電力、製作:日映科学映画製作所)で、「科学映画館」サイトにある。
http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/350/

 製作されたそのころは日本が高度成長期にさしかかり、まさに発展途上国に足を突っ込んだ時代である。
 映画の雰囲気が、いかにもそれらしくて、なんだか懐かしくなる。今の若い人が見たら、これは中国の映画だ、と思うだろう。そういえば1950年代のソ連の宣伝映画がこんな感じだったな。

 映画は福島原子力発電所の工事にあたって、現地の地上、地中、海上、海中、空中、上空において、その綿密なる事前調査を行う様子を描く。地震、地盤、大気、水質、波浪などなど、こんなに入念に調査してるんだから安全だよと。

 さて、その中で「津波」がどう出てくるか、注意して聞いていたら、なんと、まあ、たったの一回のみであった。
 冒頭でこの用地の地域をこう紹介する。
数百年にわたって地震や津波などによる大きな被害を受けたことはない
 これだけ、あとは波浪は出るが津波はない。感無量になってくるよなあ。

 それにしても、あの原発用地の元の地形は、海岸からいきなり30m以上もの高さのある絶壁の上にある台地だったのですね。
 それを削って削って削って海岸に平地をつくり、そこに原子炉を置いたのだったとはねえ、、。
  
1966年当時の福島原発用地のあたりは絶壁海岸

映画に出てくる海から見た原発用地あたりの崖

 映画は、このようなナレーションで締めくくる。
かぎりない創造の夢はひろがり、人間のはかり知れない叡智は、輝かしい次なる文明段階へとつながり、今ここにひとつの偉大なる建設が成し遂げられようとしている

 ああ、あの頃、わたしの上に輝いていた未来、あの懐かしい未来は、いま、どこに行ったんでしょうねえ。

 今日の視点でこの映画を見ると、たまらなく面白いですよ(不謹慎ながら)。
 ついでにこれとセットで、開沼博著『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたか』を読むと、おもしろさが倍増しますよ。

●参照⇒地震津波火事原発オロオロ日
 http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2013/02/25

724再び唱える「福島第1原発を世界遺産に登録しよう」

―その登録運動自体が愚昧なる人類の悲劇を後世に伝える            

●福島原発跡の観光地化だって?
 若手の論客やアーティストたちのグループが、「福島第一原発観光地化計画」なる提案をしているそうだ。新聞でその紹介記事をざっと読んで、さっそくそのサイトを覗いてみた。
 サイトを見る前は、たぶん、原発反対運動のメタファーとして「観光化」なんて俗な言葉を使ってるのだろうと思っていた。


 ところが違った。真面目に観光化を考えるらしい。こう書いてある。
「福島第一原発観光地化計画、それは読んで字のごとく、福島第一原発の事故跡地を「観光地化」する計画のことです。…2036年の福島第一原発跡地に、どのようにひとを集め、どのような施設を作り、なにを展示しなにを伝えるべきなのか、それをいまから検討しよう、そしてそのビジョンを中心に被災地の復興を考えようというのが、計画の主旨…」
 そしていかにも建築家というか不動産屋が考えそうな観光計画らしい、俗な絵による提案もある。あら、若い人ってマジメなんだね。


 そこで年寄りも悪乗りして考えることにした。
 なにしろ2036年というと、わたしはそれを体験することは確実にありえないのだから、無責任になるはやむを得ない、という勝手な前提である。
 「フクシマ」がらみで観光というと思いつくのはなんといっても「常磐ハワイアンセンター」である。こう書いて、はてな、今もあるのかなと、さっそく貧者の百科事典ウェブサイトで検索したら、今では「スパリゾートハワイアンズ」と改名していて健在であると分かった。
 ここも石炭→石油へと燃料転換から生まれた跡地の観光化だから、福島第一原発事故による跡地の観光化は核燃料→自然燃料というこれまた似たような歴史をたどるかもしれないという点では、メタファー(暗喩)どころか、実に分りやすい直喩でさえある。


●福島観光ヌックリランド
 さてそれでは、“福島第一原発ハワイアンセンター”はどんなものになるのだろうか。常磐ハワイアンセンターができたころは、リゾートといえばハワイ、いや、リゾートという言葉もまだなかったな、“夢のハワイ”だったからハワイアンセンターだったのだろう。
 今は東京ディズニーランドもある時代だから、ここは「福島原発ランド」なんだろう。いや、もっと直截に「福島原発事故ランド」か、いや「核毒ランド」か、あ、「福島ヌックリランド」がいいか。

この続きと全文は
再び唱える「福島第1原発を世界遺産に登録しよう」
http://goo.gl/kEtO9
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hukusimagenpatu-worldheritage

2013/02/23

723横浜港景観事件(13)サーカス小屋のキリンが見ている横浜新港の観覧車と結婚式場工事

 いま、横浜都心で「木下サーカス」が公演中である。
 その隣のビルの窓から見下ろすと、真っ赤な丸いテントがあり、そのわきに出演動物たちの小屋も建っている。
おや、キリンが野外でウロウロしつつ、首を伸ばして海のほうの景色を見ている。

 木下サーカスねえ、懐かしい、としか言いようがない。少年時代を想い出させる。
 あれは生まれ故郷の町の稲荷神社のお祭りの日だったろうと思う。広い河原にたくさんの露天商の屋台群とともに見世物小屋もいくつか建っている。
 怪しげな蛇女とか首だけ人間とかの小屋もあるが、なんといっても素晴らしいのは大きなテントで堂々たる木下サーカスである。

 テント小屋の裏にまわると動物の檻がたくさんあって、ライオンやら象やらがいる。あたりに立ち込めるその糞尿のにおいも思い出す。
 金網で作った地球儀のような球体の中をオートバイがぐるぐると天地の境目なく走り回る、空中で男女が飛びながら手をつないでのブランコ、あまりに昔のことで、実はこれくらいしか記憶がない。 

 その横浜都心のサーカステントから、頭を港のほうにめぐらす。
 目の下の北仲通りの再開発はとん挫しているらしく、いまだにビルは建たないで、一面の駐車場になったまままである。
 2棟だけ残存している帝蚕倉庫の建物はどうなるのだろうか。

 その向こうの新港地区を見ると、サーカステントにお似合いの観覧車が回っている。
 お、あれはなんだ、おお、そうか、やってるやってる、これが例の景観騒動(世間では騒動でもないが、業界ではね)があった結婚式場の建物工事が進行中であるか。
 鉄骨骨組みが黒々と観覧車のふもとに建っている。これから白い外装がついてくると、これは結構大きい建物であるようだ。

 さてどんな景観が実物として現れるか、そして景観業界がなんというか、世間がなんと噂するか、ちょっと春が楽しみである。

●参照⇒横浜風景、横浜港景観事件

2013/02/17

722戦死者も津波被災死者も犯罪被害死者もひっくるめて犠牲者と呼ぶ風潮に引っかかる

 東日本大震災以来、妙に気になる言葉がある。「犠牲者」である。
 津波に襲われた死者も、テロで人質にされて殺害された死者も、通り魔に刺された死者も、いずれも犠牲者とマスメディアは書く。
 あるいは、これはずっと昔からのことだが、戦争の犠牲者とよくいう。
 ずっとなんだか引っかかっている。死んだ者は誰でも「犠牲」者なのか。

 そもそも「犠牲」とは、なにかとなにかがバーター関係であることがまず前提にあるはずだ。
 Aが有利になるためにBが不利になるのだが、このときBはAの立場を肯定して、やむを得ず、あるいは積極的に自分の立場を選んだ場合に、BはAのために「犠牲」になったというはずだ。

 スポーツの野球に「犠牲打」というプレイがある。
 あちこちの解説を簡単にまとめると「打者はその打撃でアウト(犠牲)となるが、それによって塁上にいる他の走者が進塁し得る打撃を指す」とある。自分はアウトになるのに味方チームの得点へのアクセスを容易になるように導く行為である。

 古典的には、牛などの生き物を神にささげて(生贄)、神の恩寵を得ようとする行為である。
 このとき牛は犠牲になる。もっとも、このとき牛は肯定していないだろうが、それを提供した飼い主が肯定していることになる。

 さて、津波に襲われた「犠牲者」は、何とバーター関係にあるのだろうか。
 津波は天然事象だから、それ自体は何かの目的をもっていはいないから、バーターは成立しない。
 ただし、こういう例では犠牲である。たとえば消防団の人で他人の避難を助けるための活動で、自分が避難に間に合わずにやむを得ずに落命した人である。他の人の命とバーター関係になっている。
 だれもかれも津波の犠牲者として言うのは、どうも引っかかる。

 同様に犯罪による死者は、何とバーターなのか。テロリストのいう目的とのバーターとか、アホバカ通り魔の言う理由とのバーターは成立しないことは明らかだろう。
 戦争の犠牲者という言葉も、どうも抵抗がある。戦争という行為を肯定しているからこそ戦死者を犠牲者というのだろうと、わたしには思えてくるのである。
 フィリピンの山中で非業の戦死をしたわたしの叔父は、あの悲惨な戦いを肯定してはいないだろう。ましてや遺族においておや。

 考えてみるに、近頃はどうも、いわゆる「非業の死者」はすべて「犠牲者」というようになったらしい。
 非業を非難しているつもりかもしれない。しかし、非業と死とはバーターにならないのだ。
 死者を悼むつもりでこの言葉を使うとすれば、使い方を間違っている。
 言葉は世につれて変ることは承知しているが、それにしても、「死者」と「犠牲者」はもっと慎重に使われるべき言葉であると、わたしは思う。

2013/02/13

721朝鮮半島地下核爆発と日本列島地上核毒バラマキはどっちが罪が重いか

 核実験と原発とは関係ないのかしら。
 どちらも原子核の分裂によるエネルギー発生を、装置として使ってるような気がするけど、違うの? 
 核実験はエネルギーを集中させて一気に使う、原発はエネルギーを徐々に出させて使う、こういう違いのような気がするけど、違うの?

 同じものを使いながら、核実験は「核」という言葉を使うのに、原発はどうして「核発電」と言わないのかしら、違うものなの?
 「核実験」はなぜ「原子力実験」といわないのかしら?
 あるいは「原子力発電所」は「核発電所」といったらどうなの?
 核実験で出てくる放射性物質は、福島原発から出てきたそれとは違うものなの?

 いま、世界でどれくらい原発があるんだろうとネットで探したら、こんなサイトを見つけた。
【地図】世界の原子力発電所からの【距離】
http://arch.inc-pc.jp/004/index_12.html


 あるわあるわ、いやまったくすごいもんだねえ、こんなにあるのかあ。お隣の韓、朝、中の各国にもたっぷりとそろっていて、かなりおそろしい。北東アジアは原発の巣かよ~。
 これらがエネルギーも作り出しているけど、同時に核毒ウンコもどんどん排泄していて、今のところその浄化槽はどこにもないから、多分、野積みなんだろうなあ。
 さらにかの発展途上大国では、もっともっと増設計画があるらしい。日本の原発密度を見たら、かの人口大国ではもっともっと必要でしょうね。

 あちらでは今、大気汚染の公害が著しいとのニュースが出回っている。日本が高度成長時代の事件と同じである。
 70年代には日本では誰もかれもがマスクをして暮らしていると、国際ニュースになったくらいである。
 それだけじゃなくて、偽物ブランド、無断コピー商品、安物衣料、安物電器などなど輸出して軽蔑されるって、昔日本がまさにそうだったよなあって、なんだか懐かしいニュースに思えてくる。

 
 で、原発であるが、アメリカとソ連という核爆弾と原発の先進国で原発事故が起きたように、日本もその後を追って原発事故を起こしたのである。
 アメリカの良いことも悪いことも倣って発展途上を抜けだしたと思った日本、やっぱり発展途上の大事故を起こした。

 さあ、次の原発事故はどこで起きるでしょうか。
 日本海や東シナ海の日本の向こう岸あたりで起きそうだなって、だれでも思うよなあ。
 近いうちに核毒まみれのPM2.ってえやつが降ってくるぞ。
 覚悟決めるしかないかもなあ、日本は、え、原爆を持つってことじゃないよ、原爆だろうと原発だろうと原子力だろうと、核抜き3原則でしょうよ。

 でもなあ、これだけたくさん作ったうえにもっと作り続けているのだから、もう引き返せないかもなあ。
 今に人類は自分がつくりだした核毒ウンコに埋もれて野垂れ死にするしかない、そう思えてきた。
 そのまえにこちとらは人間おさらばしているんだから、知ったことか、って言っていいのか、これって違うか?

(追記130219)
 先般、核発電装置(原発)の地図を発見してのせましたが、もっと探していたら、なんと核爆発の世界地図が見つかりました。
 地球上での核爆発の実績は、1945年から1998年まで、実に2054回、この後もまだやってるから、核発電装置とあわせて、いやはや、核の毒にすっかり侵されてしまった地球です。
 アーチストのさくひんだけあってメッセージ性のあるデザインです。
「"1945-1998" by Isao Hashimoto」
http://www.ctbto.org/specials/1945-1998-by-isao-hashimoto/

 

2013/02/12

720それにしても安倍さんにどうしてこれほど支持があるのだろう

 マスメディ屋さんたちがそろって安倍内閣支持率の世論調査。
 高い順に書くとこんな具合。
76.1%:TBS系(JNN) 2月11日(月)
71.0%:読売新聞 2月10日(日)
・64・5%:産経新聞社とFNN 1月26、27日
64・0%:NHK 2月12日
 なんかよくわからないが、いつも出だしのあたりは期待もあって支持率が高くなる傾向がある。調査方法にもよるのだろうが、ずいぶん差があるものだ。
 
 それにしてもどうしてこれほど支持があるのだろうか、安倍さんに。
 安倍さんになって起きたこと、株高・円安になっている数字だけはわかる。
 これをどういうわけか、アベノミックスと言うらしいが、株と円がミックスしてサンドイッチになってるのか。そういや昔、レーガノミクスってのがあったな。

 まあ、ミックスサンドでもミックスジュースでもよいが、景気がいいのは株屋と輸出屋だけで、株もなければ売るものもないこちとらには、な~んの関係もない。
 円安で海外旅行にも行けない。そのうちに円高になって旅行代金が安くなったころは、こちとらはヨイヨイになっていて、行きたくとも行けない。

 このところ大陸や半島あたりの国との関係で変なことが起きるたびに、それみろ、だから軍備拡大だ、軍隊派遣だ、憲法改定だとかって、政界も世論も安倍流に下司に盛り上がるのも支持率アップになってるんだろうが、それってかなり気味が悪い。
 

2013/02/11

719TV嫌いネット好きなわたしは浮世離れしすぎた年寄りだろうか

 NHKの研究所が毎年やっている調査らしいが、TVの見方について結果を発表している。
 世の年寄りはどう回答したのか興味あって、その中の一部をここに引用する。
 「あなたが欠かせないメディアは何か」という問いへの回答である。
まず、わたしの属する階層の「男70歳以上」では、どんな回答かしら?
 あれまあ、70パーセントもがTVを見なくちゃいられないよって、そんな回答をしている、驚いたなあ、ほんとかよ~?
 そしてまた、ウェブサイトはゼロであるらしいのには、もっと驚いたのである、まさか~?

 こうなるとTV嫌いでほとんど見ないし、ウェブサイトにかなりハマッているわたしは、つまり要するに、あまりに浮世離れしているってことになるのか。驚くこっちがおかしいのであったか。

 そういえば、FACEBAKAに書き込むのは、どいつもこいつも年下のやつらばかりかりだなあ、こちとらイイトシして恥ずかしいなあ、、。
 こりゃ、どうすればヒトナミの老後を過ごせるのかしらと、考え込んでしまうよなあ。
 せめて紙の新聞でも読んで、年寄仲間に入れてもらうしかないのか。
 でもなあ、ウェブサイトいじりは、庭いじりよりもボケ防止になると思うよ。
 そのうち老人ホームに入ったら、ウェブサイトいじりしようにも、そんな設備ありませんて言われそうだな、う~む、もっとボケが進むぞ。

 では若い奴ら「男16~29歳」の回答を見ようか。
 ウェブサイトが31パーセントで年代別ではいちばん多いが、意外に少ない感もある。
 驚くのは、たった2パーセントしか新聞に関心を示さないことである。これからは新聞は生き残れないのだろうなあ、だからせっせと電子新聞に切り替えろって宣伝してるんだな。でもそれって自分で自分の首絞めてるような。

 全体を俯瞰すると、活字メディアの新聞が、年齢とともに関心度が上がるのに対して、意外なのは本・雑誌・マンガが年代による大差がなくて、しかも少ないことである。
 男も女も50歳代になるとTV大好きになるようだ。これって、TVが普及進行する時代の世代であるような気がする。そこから下は普及しつくして、あるのが当たり前時代の世代だろう。

 ウェブサイトは、ただいま普及進行時代だから、このあとTVと同じような足跡をたどるのだろうか。
 今とは違うメディアが登場して、ウェブサイトを駆逐するとしたら、それはなにだろうか見当もつかない。
 まあ、かつてのTVもインタネットも今日ほどになるとは見当つかなかったのだから、わたしごときでは考え付かないのは当たり前だ。
 それに、そんなものが出てきたころは、こちとらはとっくにこの世に関係ないんだな、、、知ったことか、、。
 

2013/02/09

718茅ヶ崎美術館で村越襄+鈴木薫展を見て64年五輪ポスターは村越作品と知った

 茅ヶ崎美術館で開催中の二つの展覧会『村越襄 祈りのデザイン:蓮華幻相』と、『鈴木薫 作品展「蓮の肖像」』にいってきた。この二つの展覧会は密接な関係がある。

 村越襄(1925~96)は、1964年東京オリンピックのポスターのデザインをした人である。あの有名なポスターである。
 このポスターについては一般には亀倉雄策ばかりが有名だが、村越等と協同制作であると、わたしは初めて知った。
 村越は広告業界で写真を使ったデザイナーとして先駆者的な存在であり、有名写真家の早崎治、篠山紀信、吉田忠雄などと仕事をしていた。
 鈴木薫はデザイナーであるが、村越のもとで写真も撮っていた。

 村越は晩年、自分自身の作品を作るにあたり、蓮の写真をモチーフに選んだ。 
 その『蓮華幻相』として発表された作品の根源テーマは仏教思想にあって、般若心経と往生要集を元にする文章と、お釈迦様につきものの蓮の花や葉の画像との組み合わせである。
 いわば鈴木の画と村越の賛による構成であるが、実は両者は渾然一体となったアートである。

 こう聞くと、いかにも抹香臭くて敬遠したいが、実際に現物を見るとその密度の高いデザインの迫力に圧倒される。
 そのあまりにも迫りくる力を、経文と蓮の花が和らげてくれるとさえ思うのだが、その蓮さえも枯死しつつあるものさえあるのだ。
 『蓮華幻相』シリーズは、鈴木の撮影した蓮の写真の上に金や銀の箔を置き、経典の文字をレイアウトしてゆき、5年もの歳月をかけて完成したと、協同制作者の鈴木はいう。

 美術館で求めてきた図録も鈴木のデザインだが、ここにあらためて鈴木による構成、レイアウトされた作品を見ると、特に『蓮華幻相』の見開き絶ち落しは、また別の迫力があって目が離せない。
 実は図録にある解説をまだ読んでいない。読むとなにか影響されそうなので、読むまえに感想を書いた。

 『蓮華幻相』のために鈴木が撮りだした蓮の写真が、鈴木のデザイナーの延長上にある写真家としてのライフワークになっている。能の舞台写真もライフワークである。
 その蓮の写真だけを展示したのが「蓮の肖像」展である。平面が8角形の展示場の出入り口を除く7面に、各三枚の巨大な写真を天井からつりさげた和紙にプリントしてある。

 8角形の会場の中央に立ってぐるりと八つの花弁のごとき展示を見回すと、蓮は蕾、花、枯花、緑葉、枯葉など様々な姿を見せてくれていて、これはまさに輪廻転生である。

 村越・鈴木の『蓮華幻相』は一枚一枚が迫力をもちしかも連作として問いかけてくるのに対して、鈴木の「蓮の肖像」は展示空間を文字通りに「蓮の台(うてな)」に仕立て上げ、そこに輪廻転生の時間を見せようとしているのである。

 この二つの展覧会が同時であればこそ、このような興味深い見方を思ったのであった。
 この展覧会は2013年2月24日まで、茅ヶ崎美術館で開催中。ぜひお出かけあれ。

http://www.chigasaki-arts.jp/museum/exhi/2012-1209-224-murakoshi.html

2013/02/06

717あまり浮世離れしすぎてもいけないので代官山に行ってきた

 
 わたしは浮世離れしていると、天野祐吉さんに決めつけられてしまった。
白戸さんちが引っ越すという。こう聞いただけで分かる人はテレビの見過ぎ、わからない人はかなり浮世離れした人だが、ま、どうでもよろしい。(以下略)」(「CM天気図・白戸家の引っ越し」天野祐吉 2013年2月6日朝日新聞朝刊)

 TVのコマーシャルのことらしいが、TVを観ないし、たまに見てもコマーシャルになるとすぐに他の局に替えるから、知りっこない。
 これでおまえは浮世離れといわれては、へえ、そうでございますか、まさかそれほどでもないよ。
 天野祐吉のこのコラムは愛読者だし、辛口をうまくおっしゃる口ぶりをいつも学ぼうとしているが、まさかわたしがその辛口の相手になるとは思わなかった。

 浮世離れしすぎてもいけないので、昨日、東京目黒の代官山に行ってきた。今はなにやら先端的な街になっているらしいのである。
 行かなくても差しつかえないけど、無理に用事をつくって見に行ってきた。

 わたしは昔の代官山もちょっと知っている。
 大地主の朝倉家がヒルサイドテラスなる開発をする前の、この旧山手通りの緑が豊かな街並みの記憶がある。その写真も撮ったのだが、今探したけれども見つからない。
 そのかわり、開発初期の1975年の写真が見つかったので、ここに載せた。昨日とった写真と比べると、ほとんど変わっていない。
   1975年 ヒルサイドテラスの風景

   2013年 上とほぼ同じところの風景

 1975年にヒルサイドテラスを訪ねたときのわたしの感想は、なんとまあ、あの豊かな緑が無くなって真っ白な箱建物ばかりになったもんだ、いくら有名建築家の設計だといっても、こんなにハゲハゲになるのがよいのかしら、というものだった。
 いま、その昔の緑の豊かさの名残は、開発された旧山手通りから裏に入った南の斜面に見ることができる。ここも朝倉家の土地だろう。
 空中写真でこのあたりの移り変わり状況を見よう。

   戦前の1936年(国土地理院)

 戦後初期の1947年(国土地理院)

ヒルサイドテラス開発初期の1975年(国土地理院)

   1997年(google earth) 
   右上に同潤会代官山アパート再開発事業の敷地整備中

    2009年(google earth) 
   蔦屋書店はこの後に左上の空き地にできた

 そして今、旧山手通り沿いは、緑豊かなお屋敷の風景は消え去って、白い箱の建物が次々と並んでいる。
 それらの建物群が、ある一定の枠の中にあるデザインであり大きさなので、それが街並みの気持ち良さの原因であろう。それは開発オーナーの考えであるだろうし、地区計画がそれを支えている。
 そして開発オーナーが独自の考えをもっての用途構成も、代官山というブランドを作り上げているようだ。若い女性が多いのは、そういうターゲットなのだろうか。

 最近の開発の評判は、「代官山 蔦屋書店」であるらしいので、昨夜はそこで3時間ばかり過ごした。そのうち2時間はレストランでの打ち合わせだから、正味は1時間である。
 だが、面白いことにレストランやら書店やら分からない場所での打ち合わせであったことだ。図書館の中にレストランがあるような雰囲気なのだ。

 ジャンルごとに囲われたフロアの売り場があり、そのジャンルごとに店員のテーブルがあって、まるで図書館のレファレンス係(蔦屋ではホテル並みにコンシェルジェと言っている)のようである。蔦屋だからもちろんディスクもある。

 おやっと思ったのは、古本も置いてあることだ。
 新書と古書の両方が混じる本屋か、なかなかやるもんだ。
 あっ、まてよ、もしかしたら全部古本かもしれないなあ、、う~む、やるなあ。

 この書店は、全体に本屋というよりも開架式図書館の雰囲気である。本を売っている図書館といってもよい。テーブルや椅子もたくさんある。CDの試聴も自由である。
 これはなかなかよろしい。なにしろ、立ち読みならぬ座り読みしながら、コーヒーでもサンドイッチでも食ってよいのであるらしい。

 わたしが近くに住んでいたら、毎日ここにやってきて、そのへんの適当な本を抱えて座り込んで一日中すごすことができる。本は買わないのだ。
 もっとも毎日やってると気が弱いから買わざるを得なくなるかもなあ。

 レストラン、喫茶店、コンビニエンスストアも一体的に併設されているから、昼飯も食うことができる。どこの書店でも飲食お断りが普通の世の中で、これは意外であった。
 わたしがそうしたいと思うように、おおぜいの若者があちこちの椅子テーブルの座り込んで、本を読み、モバイル機器を操り、飲食をしているのであった。

 かなり実験的である。おいてある本も、わたしは好感を持ったが、かなり偏っている。どこかマニアックでさえある。売れるのだろうか。
 余計な心配だが、そのような書店が経営的に成り立つものだろうか。
 このあたりのことに詳しい知人に聞いたら、非上場会社オーナーの趣味に近いらしい。蔦屋というブランドの実験店なのだろう。
 昔々の京橋丸善の、洋書+バーバリー+ハヤシライスという古典的スノッブ取り合わせの、現代的翻訳が代官山蔦谷書店かもしれない。
 代官山は先進的、実験的な事業をしやすいところなのだろうか。

 先進的で思い出したが、この地には戦前の実験的・先進的な住居群があった。
 代官山同潤会アパートである。いまは再開発事業で超高層ビルと店舗群に建て替わったが、そのプラニングやデザインの先進性は有名であった。
 1975年に写したその風景を載せておこう。


2013/02/05

716こないだ勘三郎が逝ったと思ったら團十郎までも死んでしまった

 あれあれ、團十郎までも死んでしまった。こないだ勘三郎が死んだばかりなのに。

 で、ちょうど歌舞伎座建て直し中だから、もしかしたらこの建て直しが祟ってるのかも。
 なんて冗談を書こうとしたら、なんと筒井康隆が「偽文士日録」2月4日版に、「歌舞伎座を改築するときにちゃんとお祓いしなかったからいけないのではないか」なんて書いている。
http://shokenro.jp/00000882

 それにしても團十郎家は、薄命の家柄らしい。父親の11代目も役者にしては早逝だったといってよいだろう。美人薄命才子多病のたぐいか。気を付けようっと、あたしも、、、  ?。

 で、歌舞伎座である。4月のコケラ落し興業のサイトを見ると、團十郎の名が第1部と第2部に上がっている。
 差し替えてだれになるのだろうか。主役が突然いなくなって、松竹も困ってるのだろう。

 その建物の外観はどうやらでき上がったらしい。さて、5代目歌舞伎座はどんな姿になったか?
 え、なんだ、結局のところは、建て替え前4代目と同じ格好かよ~。石原慎太郎に風呂屋みたいってさげすまれたあの形である。風呂屋が怒ってるだろうが。

 建築家隈研吾も大資本が支配する伝統芸能の世界には、個性を持ったデザインで切り込めなかったのか。なら、なんで隈さんが必要だったのだろうか。
 超高層ビル(丸の内ビル群を見よ)と古典コピー(三菱一号館美術館を見よ)なら、三菱地所で十分どころか隈さんより得意だったろうになあ、なにかあったんだろうなあ。

 もっとも、隈さんてひとはどんなデザインもできますって器用な人らしいから(昔々、エーロ・サーリネンがプレイボーイアーキテクトと言われたみたいに)、別にモダンデザインじゃなくてこれでもやりたかったのかもしれない。

関連→093歌舞伎座の改築
http://datey.blogspot.jp/2009/02/blog-post_04.html
 

2013/02/02

715うちの本棚にある未読数とわたしの余命数とが釣り合ってきたようだ

 暮れと正月の閑な日々(実は毎日ヒマだけど世間なみに格好つけて)に読む本を、伊勢佐木町有隣堂の地下売り場で探していて、Jeffrey Archerの新作らしいペーパーバック2冊を見つけた。アーチャーの小説はこれまでほぼ読んだ。
 どっちか一冊でいいやと、安い方「Only Time Will Tell」を買ってきた。あまり面白い出だしではなかったが、途中から面白くなって最後の450ページまで一気に読んだ。

 ところがなんと話は終わらなくて、「The story continues in THE SIN OF THE FATHER」と書いてあるのだ。
 ここで主人公はイギリスからアメリカにわたり、ちょうど窮地に陥っている。どうなるか気にかかるところである。続巻が図書館にあるかと探したが、ない。

 しょうがない、正月が終わってまた有隣堂に、このまえ高くて買わなかった「THE SIN OF THE FATHER」を買いに行った。
 さて、主人公は窮地を脱してイギリスに戻り、またもや難題に直面、さてどうなるかと最後429ページ、ああ、またもや「 The story continues in REST KEPT SECRET」ときたもんだ。今年3月出版だってよ。
 もうういいや、これまでのアーチャーの作品と比べて、大して面白くもなかった。
 その間にジェフリー・ディーバーの新作を図書館で借りて読んだが、アーチャーのほうがだんぜん読みやすい。わたしの英語力ははまだちょっとたりないが、三文小説だから何とかなる。
 ケン・フォレットも読みやすい。フォーサイスはちょっと面倒だがまあまあ。イギリス作家の英語のほうが読みやすいのはどうしてだろうか。

 この数年前から、本は買うものではなくて、図書館で借りるものとしたのである。
 もうどうしても今すぐ読まなければならないような本があるわけもなし、金ももったいない、本棚の余裕もないし、というのが理由。

 その上、うちも本棚にはまだ読んでいない本がいっぱいあるし、読んでいたとしても忘れている本が山ほどある。これを片端から読めば死ぬまで続くと、ようやく気が付いた。つまり未読本の多さと、余命の短さとが釣り合ってきたということである。
 いっぽうで、もう読む気のない本がいっぱいあるのだが、これをどう処分するか。処分も金がかかる時代になったからなあ。

 ただいま図書館納入待ちのペーパーバックは、ケンフォレッの20世紀三部作の『Fall of Giants』 (2010)の第2巻『Winter of the World』である。まだかなあ。

●関連
182 Japanese knotweed
http://datey.blogspot.jp/2009/09/182japaniese-knotweed.html
535 千ページ英語小説一気読み
http://datey.blogspot.jp/2011/11/535.html

2013/02/01

714新聞がそのデジタル版広告を載せて購読料を取るのはけしからん

 今日の朝日新聞夕刊に2ページ見開きで、デジタル版新聞の広告を載せている。
あのなあ、それっておかしいよ、新聞に新聞自身の広告を載せるのなら、その分の新聞購読料を負けなさいよ。
 それもたまになら許せるが、最近しょっちゅう朝夕刊ともにその広告が載る。

 ほかにいっぱい広告があるのを我慢しているのは、その広告の掲載料収入でで新聞社の経営をしてるのだからと思っているからだよ。
 それがあんたのところの広告が2面も占めてるは、その分、広告料が入らなくても経営できるんだってことでしょ。
 ならば購読料をその分だけ引きなさいよ。

 さらに気に入らないのは、どう見ても広告そのものであるのに、「全面広告」って記載をどこにもしないで、一般記事を偽装していることだ。
 一般記事だから購読料の対象だって言いたいんだろうが、そりゃおかしいよ。

 さて、新聞がデジタル化して、紙でなくなるって時代はすぐ来るだろう。新聞が紙であったことが忘れられるだろうから、今のうちにそのことを書いておこう。

 昔々、新聞がまだ紙だった頃のことだとさ。
 新聞は、弁当の包装紙だった。うん、結構保温能力があるので便利だったし、弁当を食べるときに読んだものだ。
 新聞は、畳の下に敷く湿気防止用紙だった。大掃除の時に畳をあげてそとに干すのだが、つい古新聞を読んでて怒られるのであった。
 新聞は、八百屋の包装紙だった。野菜の大きさに対応して、いろいろに包んで売ってくれたもんだ。
 新聞は、便所の尻拭き紙(トイレットペーパーの正式名称)だった。家庭の大便所の中には、きれいに切りそろえた新聞紙が重ねてあったもんだ。あのころ日本人は肌が丈夫だったんだなあ。
 
 新聞は、保温材だった。大学山岳部のころ、雪山でのテントの中で寒さに対抗するには、ヤッケの下に新聞を着ると暖かいのだ。動くとガサガサやかましかった。
 新聞は、蠅たたきだった。丸めてバシンと打つ。あ、いまでもゴキブリにそうやってるな。
 新聞は、飛行機だった。大きな折り紙飛行機を、2階の窓から外にふわふわと飛ばしたものだった。そういえば、折り紙の兜も新聞の大きさだからできた。
 新聞は、薪を燃す焚きつけだった。風呂も焚火でも野営場の炊事でも、薪に火をつけるには新聞紙を軽く丸めて下のほうにおいて火をつけるのである。これは今もそうだろう。

 デジタル化するとこれらの使い方は出来なくなるのが寂しいが、でも、もうどれも過去のことばかりになっている。
 今じゃあ新聞紙を毎月のゴミにして出している有様だ。
 デジタル化すると、寝ころんで読むのは、まあ、携帯型あれやこれや電子機器でできるから紙新聞と大差はないだろう。
 寝ころんで天井に投影して読むと、手がつかれないだろうなあ、そういうのあるかしら。
 今にわたしもそうするときがくるだろうが、まだしばらくは紙で過ごそう。