2016/03/25

1182【大原美術館コレクション展】六本木で懐かしの泰西名画鑑賞センチメンタルジャーニーの眼福

●少年期の思い出の懐かしい名画に出会う
 
 昔懐かしい絵画にたくさん出会った。絵を懐かしいという気分で見るのも、けっこう楽しいものだ。
 春の気配が濃くなってきてもまだ寒いけれど、ちょっと花見気分も起きてきて東京六本木に、国立新美術館で開催中の大原美術館コレクションの出開帳を観に行ってきた。
国立新美術館(設計:黒川紀章)
ボテ腹デザインを見上げる
ちょん切られた旧東大生研校舎

 大原美術館は倉敷にあるのだが、わたしの故郷の高梁盆地から近いので、少年時から何度か行ったことがある。長じて、後に妻となる女性がこの美術館の近くに住んでいたので、一緒によく行った。そしてお決まりコースの喫茶店エル・グレコでお茶を飲むのであった。
大原美術館が見える倉敷の街
大原美術館のコレクションは、有名ないわゆる泰西名画が多くある。少年時に接した体験で、いくつか心に焼き付いている絵があり、それらがあるかとセンチメンタルジャーニーの気分で出かけたのだが、見事にその期待に背かなかった。
 
 おお、これこれとうなずきながら観たのであった。ここにちょっとリストアップして見よう。
ジョヴァンニ・セガンティーニ『アルプスの真昼
エル・グレコ『受胎告知
ポール・ゴーギャン『かぐわしき大地
アメデオ・モディリアーニ『ジャンヌ・エビュテルヌの肖像
フェルディナント・ホドラー 『木を伐る人
ピエール=オーギュスト・ルノワール 『泉による女
ポール・セザンヌ『水浴
ギュスターブ・モロー 『雅歌

 倉敷の大原美術館の入り口両側に建つロダンによる二つの彫刻は、少年時から目に焼き付いている。さすがにこれらは来ていなかったが、上野の西洋美術館に行けば出会うことができる。
ロダン 「洗礼者ヨハネ
ロダン 「カレーの市民―ジャン=デール

 ところが、わたしの記憶にあるのに、今回の展覧会で観ることができなかった絵画のことが気になった。ジョルジュ・ルオーとファン・ゴッホである。
 今回は来なかったのか、それともわたしの記憶が間違っているのかと、大原美術館サイトのコレクションリストのページを見た。
 ルオーはリストにあるから、これは来なかったのだろう。

●ゴッホの懐かしいあの糸杉の絵が偽物とは、、

 しかし、ゴッホ作品は大原美術館のリストに一つも載っていない。おかしいなあ。
 わたしの記憶では、よじれ立つあのゴッホ流糸杉が2本ある絵と、カフェテラスの夜景の2枚である。もちろん記憶があやふやなこともあるが、いや、たしかに観た覚えがあると、そこは貧者の百科事典をググったら、いくつかの情報が出てきた。

 糸杉の絵の名は『アルピーユへの道』とわかったが、なんとまあ、驚いたことに、これは贋作との鑑定が出たのだそうだ。だから大原のリストにのっていないのだ。
贋作とわかった『アルピーユへの道』だが
わたしには懐かしい感動のある絵だから贋作でも結構
中学生の時に、一緒に行った友人と感動して観ながら、こんな風に描いてみようかな、なんて会話した記憶があるのだから、あったことは確かだ。
 へえ、あれがまあ、偽物とはねえ、懐かしい偽物の記憶ってことになった。

 わたしには好きな絵だったが、好きな絵と偽物の絵とは、玄人にはともかく、一般普通の人が鑑賞するには、全く別のことである。真贋はどうでもよいことだ。
 それは負け惜しみの言ではなく、60年以上も前の中学生がゴッホなる画家のことを今のような世間でいう価値で知っていたはずがないから、作家の名前で絵の価値が決まるなんて、大人の世界ではなかったので、わたしたちは素直にその絵に惹かれたからだ。絵とはそういうものであるべきだろう。 

 そして、あの懐かしい糸杉の絵を、いまではもう見ることができないのかと思ったら、新館の地下に福田美蘭の作品と並べて展示してるそうだ。そのいわくはこちらをどうぞ。
 大原がこの絵を買ったのは1935年だそうだから、以来、これをゴッホの作品としてみんなが素直に興味を持って観てきたのだから、それはもうひとつの文化史である。
 偽物とわかったとしても、少年の時に惹かれた絵を見せてほしいから、隠したりしないでいるのが嬉しい。福田美蘭に感謝、こんど大原を尋ねたら新館地下の糸杉に逢いに行こう。

 もうひとつの記憶のゴッホの絵は『夜のカフェテラス』と分かったが、これは贋作事件はないらしいから、大原にあると思ったわたしの記憶違いなのだろう。
 でも、この絵をたしかに美術館で見た記憶があるのだが、どこだったのだろうか。ゴッホ展なるものを観に行った記憶はないだが、。

●懐かしい仲間たちとともに

 少年の頃の美の記憶は、意外に引きずっているものだと、われながら感心した。
 内外の焼物、彫刻、絵画と盛りだくさんの名作を見て、センチメンタルジャーニーもして、すっかり眼が満腹になり、これはまさに眼福であった。それにしても大原美術館は、現代アートのコレクションもなかなかすごいものであると知った。
 大学同期仲間6人で誘い合って行ったのだが、絵描き趣味人もいるし、甲州の鄙の地からやってきた閑人もいて、それぞれに楽しい見方をしていた。

 見終わってついでに花見をしようかと、近くの檜町公園にぶらぶら行ってみたが、東京の櫻は寒さに未だちじこまっていた。
 それでも面白いのは、その公園にはひとりの同行仲間の息子・森詩麻夫氏が片腕となっている安藤忠雄設計の美術館があるので入って観て、また別の仲間の甥である高須賀昌志氏がデザインした公園遊具を鑑賞したのであった。
 ついでに、わたしが昔に計画した六本木駅上の『アクロス六本木』ビル(設計:RIA)も眺めてきた。まだ建っていたが、中身はがらりと変わっていた。 
檜町公園の高須賀正志デザインンの遊具
檜町公園の高須賀昌志デザインの遊具
実はこの展覧会には、岡山の名士の畏友から招待入場券をいただいたので、懐かしく行ってきたのだ。彼とは故郷で共に少年時代を過ごし、一緒に大原美術館に行ったことがある。「ダッチャン(わたしの少年期のあだ名)は、もうながらく観てないだろうから、、」と、幼馴染だからこその思いやりが実に嬉しい。
 

2016/03/18

1181【横浜ご近所探検】南区新庁舎はこの土地が持つ歴史継承や環境向上について都市デザインが足りないただの箱

●まわりの樹木をすっかり切り払ったのか~ 

 おや、ちょっと見ぬ間にこんな箱が建ってしまったか。 
2016年3月新規建築移転してきた南区総合庁舎
下の写真は、同じ街角の2010年の姿である。あのころは緑が多かったなあ。
かつては戦後復興期にできた横浜市立大学医学部キャンパスだったし
その前は関東大震災復興で建てた三吉小学校だった
 ここは横浜市南区総合庁舎(設計:石本建築事務所)、つい先ごろできたばかりである。う~む、あの緑の木々で囲まれていたキャンパス跡は、さっぱりとした箱になっている。
 ここにはかつては戦後復興期に造られた横浜市立大学の医学部のキャンパスがあったし、その前には関東大震災復興期に造られた小学校があったという、都市の歴史をもつ土地である。
 そのような土地の歴史を、この箱のような新庁舎はどう継承したのだろうか。 

 敷地の周りを取り囲んで木々が繁っていたし、木々の間からちょっと格式ばった医学部本館が顔を見せていて、都心の景観を引き立てていた。
それにしても、これはさっぱりあまりにすぎる。あの木々を伐り倒してしまったのか。近づいてみると、玄関前に2本だけを残しているようだ。イチョウの木らしい。あの豪快な緑の壁がなくなったのが惜しい。
北側玄関前に2本だけ残ったイチョウの木
西側の道路わきに建物との間にバス停と合わせて植栽帯をつくってあり、何本かの桜の木がつぼみをほころばせつつある。だが前と比べると、緑の量がどうにも貧弱である。これから育つには、植樹帯の幅が狭い。
西側道路わきの植樹帯
2007年3月31日撮影、市大歯学部の建物がまだあった
2012年8月16日撮影 駐車場になったがまわりの樹木はまだあった
2015年11月29日撮影 敷地目いっぱい南区役所などが建った

●環境デザインが足りないよなあ

 なにしろ都市デザイン行政の実績を誇る横浜市のつくる行政庁舎だから、それなりの都市デザインを観ることができるだろうと、期待しつつ外回りをぐるりと見てまわった。
 建築デザインとしては、かなり平凡なものである。奇抜が良いとは言わないが、それしても大手建築事務所の無難なデザインというものだろうか、なにかを訴えるようなところもないし、ランドマーク的な様子もない。

 まあ、建築としてはそれはそれでも仕方ないが、環境デザインとしてはどうだろうか。
 上に書いたようにあの樹木をバサッと気前よく切り倒したのは、なんともいただけない。都市景観の継承をしていないのだなあ。やっぱり、あの敷地まわりの大きな樹木の列を残してほしかったなあ。再現するにはセットバックが足りないから無理だろう。
 緑の景観ばかりか、ちょうど角地に顔を見せていた市大医学部本館をイメージさせるランドマーク性の再現も見えない。どこかにあのイメージを継承してほしかった。

 最も気になった環境デザインは、中村川への対応である。なにしろ中村川は、上に高架高速道路がかぶさっていて水面は暗いし、騒音と排ガスをふりまいていて、横浜都心最悪都市環境デザインのひとつである。この高架道路は、もともとは大通公園上空に造る計画を変更してここに持ってきたのだが、田村明の横浜都市づくり遺産である。
 最悪であればこそ、そこに接して横浜市が作る庁舎だから、積極的に川との関係をもって環境を改善するデザインがあるだろうと期待した。特にここには浦舟水道橋という第一級の歴史的建造物もあるのだ。橋、堤防、植樹帯、道路、庁舎を一体にした環境デザインがあれば、この最悪環境も何とかなるだろう。

 最近、日ノ出町の再開発事業では、大岡川と一体にした都市環境デザインをやったから、こちらも何かやっているだろうと期待した。
 だが実は、そちらにまわってみても、特になにもなくて、いかにも裏口然としているのだった。こちら側が車のアクセス玄関なのだが、いかにも裏口から入る感がある。
 かつてはこの川沿いの敷地側には緑の木々が茂っていたから、むしろ悪くなったと言える。建物西側に造った植栽帯をこちらまで廻して、道と川沿い植樹帯と合わせると、豊かな緑を生み出すことができるだろうに。

 とにかく無骨極まる高架道路に対抗するには、地上面で中村川を越えて川の南側の街とこちらをつなぐ仕掛けが必要であろう。ちょうどそこに浦舟水道橋があるのだから。
中村川側のクルマアプローチまわりがいかにも裏口、右が中村川
中村川の南側から見る浦舟水道橋と高速道路高架と南区総合庁舎

●この地の歴史継承がこれでよいのか
 
 南区民じゃないけどヤジウマで中に入って見た。ふむ、ロビーが広くてよろしいが、吹き抜けがないのか。
 おや、その一隅になにか背の高いショーケースがあって、中に骨董品らしきものが展示してある。だが、照明がヘタクソで、ガラスにロビーが写りこんで中の展示品を見ることが難しい。
ホールにある歴史資料展示ケース

 しょうがないので説明書きを見れば、これを建てる前にあった建物の、階段手すりと玄関にあった照明器具を置いてあるのだそうだ。
 この手すりは小学校の思い出、照明器具は市大医学部の思い出のつもりらしいが、う~む、まあ、保存の努力を認めるけど、なんだかいい加減なやり方だよなあ、こういうのは。建築ってのは部品じゃないんだよなあ。

展示してある医学部本館玄関についていた2つの照明器具(左)と
三吉小学校の階段手すりの一部(右) 

 ホールの片隅に、二つの墓石のようなものがごろんと寝転がしておいてある。説明書きを見れば、学校中庭にあった記念樹の石碑だそうだ。奇妙な展示方法である。しょうがないかから、ここにおいたか。
床にごろんとおいてある中庭にあった記念植樹の石碑

それで思いだした。あれは2010年の夏、ここを見学したことがあった。まだ以前の建築が建っており、それが関東大震災からの復興小学校であり、珍しい建築としてJIAが壊される前に見学会を開いたのに参加した。
 展示してある手すりも玄関の照明器具も、その時にわたしは写真に撮っていた。
(旧)三吉小学校校舎の階段

市大医学部本館の玄関入口と照明器具(展示してあるものはこれだろう)

(元)市大医学部本館玄関
 見学したときは既に廃墟だったが、そうなる前の用途は横浜市立大学の医学部キャンパスであったのだ。
 その元は復興小学校(1926年新築)であり、小学校が廃校(1944年)の後にはその校舎も活用しつつ、運動場跡に新たに校舎を増築)もして(1950年、市大医学部に使っていたのだ。
戦前と戦後の小学校と大学の教育の場として生きてきた、多くの人材をここから巣立たせたことであろう、長い歴史を刻むこの建築における人間と空間のありかたに、わたしは感銘を受けたものだった。
市大医学部校舎中庭側
市大医学部校舎として使っていた三吉小学校校舎
市大医学部校舎の解剖室として使っていた三吉小学校教室

 そのことに関しては「歴史の証言としての建築記録保存ー横浜市震災復興小学校の建物を見て」と題して、わたしの「まちもり通信サイト」に書いている。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/miyosi-syogakko
 そして、この建築群の歴史的意義については、わたしはそこでこう書いている。
その歴史的意義を認めるならば、単に旧三吉小学校の建築形態のハードウェアとしての記録のみではなく、市大医学部となったときどのように改変して使ってきたのか記録しておいてほしい。
 それは当然のことに1950年新築の大学医学部校舎についても同じであり、この小学校敷地全体の歴史を、時代に応じて重層的に記録するものであるべきと考える。
 そこには、震災復興と戦災復興の記念碑的な歴史の証言者としての二つの建築ということもある。」

 ところが説明パネルには、三吉小学校のことは詳しいが、市大医学部のことはほとんど触れていない。どうしてであろうか。
 どうも建築保存となると、どこでも古いほど価値があると思い込むらしいのだ。戦前復興建築の三吉小学校は価値があるが、戦後復興建築の市大医学部には価値を認めないらしい。
 建築家は、ここで何が行われてきた歴史があるか、ではなくて、ここにいかに古いものがあったかだけに注目する傾向がある。
 それの典型が東京駅赤レンガ駅舎の復元である。戦前の形態ばかりに目が行って、戦後復興の意匠に意義に注目しないで、戦争記念碑としての価値を滅してしまった。この南区庁舎新築にあたっても、その土地のもつ歴史価値についても同じことらしい。
 でも横浜の都市デザイン行政は、そろそろ1950年代建築に価値を見出して、その景観保全に手を出してもよさそうな気がするけどなあ、まだらしいなあ。
部品展示ケースにある三吉小学校の説明パネル、
でも市大医学部については説明がない


 最後にちょっといたずらを。
 外観のどこかに、市大医学部本館をイメージさせるデザインを
再現してほしかったなあ
(例えば↓)。
これはわたしのいたずらによる景観戯造、どこを戯造したか分るかな?


●これが設計方針だそうである
http://www.city.yokohama.lg.jp/minami/upimg/chousyaiten/120906kurenkaishiryou.pdf

●参照
歴史の証言としての建築記録保存ー横浜市震災復興小学校の建物を見てー」(伊達美徳)
https://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/miyosi-syogakko

2016/03/11

1180【震災核災5年目】福島核毒の地には野生動物たちが高濃度の放射性物質を摂取しつつ生きつづける

●福島核毒の森に生きるイノブタはどうしているか

 3年前にこんなニュースがあった。
東京電力福島第1原発事故で立ち入り禁止となった地域で豚舎から逃げたブタと、野生のイノシシが交配して生まれたとみられるイノブタの目撃情報が、原発周辺地域で相次ぎ、福島県が今月下旬から実態調査を行うことが16日、県への取材で分かった。(産経ニュース 2013.1.16 08:44)」

 わたしはこれを読んで、このブログに福島核毒の森に生きるイノブタのことを書いた。
 http://datey.blogspot.jp/2013/01/708.html
おやおや、がんばって生きてますねえ、ブタとイノシシが協力して子孫を残そうって、涙ぐましいなあ。東電原発から降り注いだ核毒にまみれながら、ちゃんとやることやってるんだ。どっちが雄でどっちが雌なんだろうか、どちらの組み合わせも再生産可能なんだろうか。
 でもこのニュースの続きには、増えすぎると農地を荒らすので、駆除するのだそうだ。可哀そうだなあ、その努力は虚しいんだ。鉄砲で撃っても、核毒にまみれているから、福島名物イノブタ鍋ってわけにもいかないしなあ。ウシもヤギもイヌも核毒の地をさまよっているから、ヤギウシとかウシイヌとかできるって、それはないか。ウナギイヌはどうか。

 そのイノブタは今どうしているだろうかと、TV番組「被曝の森~原発事故5年目の記録~」(NHK)を見た。福島核毒の地に生きる動物たちの今をレポートしてくれた。その宣伝文句は次の通り。
福島第一原発事故によって、今なお7万人もの住民が避難して生まれた広大な無人地帯。5年の歳月で、世界に類を見ない生態系の激変が起きている。
 植物が街や農地を覆いつくすほどに成長。イノシシの群れが白昼堂々と街を歩き、ネズミやアライグマが無人の家に侵入して荒らすなど「野生の王国」化が進む。
 降り注いだ放射性物質は、特に“森”に多く残留していることが判明。食物連鎖を通じて放射性物質が動植物に取り込まれている実態も明らかになっている。“被曝の森”で何が起きているのか。世界中の科学者が地道な調査を続けている。

●元家畜は野生動物にはなり得ないらしい 

 でもTV映像には、野生化したブタもイノブタも登場しなかった。
 その一方で、イノシシはたくさん登場した。人が絶えた集落や田畑が草地へ森林へと還っていく核毒の地に、5頭もの子を連れた夫婦イノシシが、放棄された住宅を棲家にして、昼日中の道や畑をうろうろと走り回っている。
もともと野生のイノシシは生き残っても、元家畜のブタが生きるには困難な環境なのであろう。
 それにしてもイノシシたちだって、かつては人間の作物を横取りすることで生きていた面が大きかったはずだから、田畑が放棄された今、木の芽や草や虫を食って生きるのだろうか。

 そういえば2年くらい前までは、ブタに限らずウシやヤギや飼犬も放棄されて、無人の地を放浪していたニュースがあったが、彼らにも野生になることはできない環境なのだろう。それらの死体は他の逞しい野生動物の餌になったのだろうか。
 他に登場してきた動物は、サル、ネズミ、ハクビシン、アライグマなどだった。これらは人間に寄生しなくとも、野にあっても生きることができるのだろう。
 野生で一般によくいるはずのタヌキ、キツネ、ウサギ、イタチなどはどうしているのだろうか。

●高濃度放射線で野生動物ジュラシックパークか

 ところで、一度は高度の放射線を浴びたし、また高度の放射性物質を含む野山の果実や草木を食している彼らには、異常はないのだろうか。
 そう、ゴジラのように異常成長したイノシシは居ないのか、アナコンダのように巨大化したマムシはどうか、不謹慎ながらジュラシックパークを期待したが、そんなことはなかった。

 動物の異常を調査する学者たちの研究も紹介されたが、捕まえた動物の内臓等を調べると、高濃度の放射性物質が蓄積されつつあるという。だだし、5年くらいの短期間ではまだどう影響するのか分らないらしい。
 チェルノブイリでもいろいろ調査されているらしいが、ニホンザルはあちらにはいないし、人にいちばん近い動物だから、福島でのサルの調査は貴重なものになるらしい。

 ツバメの二つに分かれる尾羽の形が、左右でアンバランスになる異常が多く見られるとする動物学者もいる。植物学者によると、アカマツの枝の成長には明確に異常が見えるという。これらはどちらもチェルノブイリで見られる異常に似ているそうだ。

 映像の作り方が、動物相という地域の生態系に目を向けていなくて、特定の種の特定の個体の行動を追っているで、全体像が分からない。植物相についても、核毒地の植生調査をしている学者はいないのだろうか。
 生態系がどう変化しつつあるのか、その変化が異常なのか一般的なのか、その辺のことを知りたいものだ。もっとも、核毒まみれで調査するってのも、無理なお願いですね。

●野生の王国化した核毒の地は人間の地に戻る時が来るか

 さて、核毒の地に生きる動物たちの生活圏は、森林のある産地ではなくて、人間が放棄した住宅や田畑のある平地であることが分かったそうだ。それは捕まえたイノシシに発振器やカメラをつけてまた放して、行動圏を調べたのだ。
 そのイノシシが撮ってくれた映像に、除染をしている人間が写っているから、イノシシは人間を避ける必要がもうないとして、近寄って好奇心いっぱいで眺めているらしい。夜中に畑に出てくる動物ではなくなっている。

 空き家にはイノシシもハクビシンやアライグマも棲んでいる。たしかに野生とはいっても、地下の洞穴や木の洞に棲むよりも、チャンと屋根があったほうがいいだろう。
 こうやって集落は次第に野生動物の森になっていく。人間が田畑を作り住みつく前は、彼らの棲家だったのだから、還っていくと言った方がただしいかもしれない。
一昨年秋に浪江町で見た核毒で放棄された田畑が自然植生に覆われていく風景
この地の放射線量が減衰して、再び人間が戻ってきて住みつくことができる地になるのは、いつのことか分らないが、住みつくためにはなりの投資が必要であろう。
 果たしてそういう時が来るのだろうか。

2016/03/10

1179【震災核災5年目】3・10東京空爆を忘れまい、3・11福島核災を忘れまい

 2016年3月9日、なんと福井の核発電(高浜原子力発電所3、4号機)に稼働ストップの仮処分決定が大津裁判所から出されたそうだ。
 あの3・11事件以来、核発電所問題はようやくここまで来たのか、これで何かが変わるのか、いや、また別の判決が出てひっくり返るんだろうが、そうやって繰り返しつつ核発電所禁止へと進むのだろう。
 いやいや、その前に、もうひとつ大事故が来ないと変わらないかもしれない。広島長崎・福島と来て、三度目の正直で変わるのだろうなあ。

●3・10と3・11という二つの記念日

 明日は5年目の3月11日(東日本大震災)である。
 そしてその前の今日は、71年目の3月10日(東京大空襲)であることも忘れたくない。前者は2万人、後者は10万人の命が一気に奪われた事件だ。
 この二つの大災害の原因は、前者が天災であり後者が人災である大きな違いがあるはずだったが、前者に核発電所の事故による大災害を伴って、どちらも人災になった。

 3・10は東京だけの被災だが、3・11は東日本と言う広大な地域の被災であると、それらの違いを言う人がいるかもしれない。
 だが、3.10もじつは日本各地の都市が被災した空襲のひとつであったのだから、3・10よりも被災範囲は広かったし、被災期間も長かった。
 3・11では被災地に対する救援が、他の地域や他国からも行われたが、3・10とその前後の被災地は、他からの救援を受けることができなかった。どこもかしこも被災したし、国際的に孤立していたからである。平和な時のありがたさが分る。
 だが、地球上では今も空爆の日々の地があり、それを逃れようと脱出する人々がいるのが現実である。
 参照:無差別空襲の日々 
    http://datey.blogspot.jp/2011/08/475.html

 3・11の福島核毒拡散事件は、3・10東京大空襲の延長上にある8月に起きた広島と長崎の核爆弾投下事件につながるだろう。
 そして8・15となるのだが、とにかくそこから立ち直るには、わたしたちは15年もかかった。もちろん、広島と長崎の被曝者たちは、それで終わることなく、未だに引きずらざるを得ないままに生きて死んでいく。
 福島核毒被災者たちも、そうなるのであろうか。

●あれから5年目の対照的な二つのTV番組

 久しぶりにTV番組を見た。
 ひとつは、5年前の3月、あの福島原子力発電所がもたらした核毒拡散で、人影の絶えた広大な町や村の跡に復活しつつある野生の地、そこに生きる多くの野生動物たちの姿を映す「被曝(ひばく)の森~原発事故 5年目の記録~」(NHK 20160308)である。
 人間が入り込んで町や村を築くまでは野生の地であった土地が、いまや人間が放棄して再び野生の地に還りつつある風景である。
 人の営みのはかなさを思った。

 もうひとつは、5年前の3月、あの巨大津波がもたらした海辺の市街地の壊滅で、人影が絶えた広大な街の跡に復活しつつある新生の街、そこに再び生きようと帰還する人間たちの姿を映す「史上空前のまちづくり~陸前高田」(NHK 20160308)である。
 かつては野生の地や海を、いったんは人間の地にしたものの、津波によって再び野生に還った地になったのだが、これを再び人間の土地に還そうとする風景である。
 人の営みの強引なる強靭さを知った。(つづく)

参照
地震津波核毒おろおろ日録