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2025/03/25

1874【日吉で今浦島気分】平和な卒業式風景のキャンパスの森の奥と地下には太平洋戦争の記憶が今も

●慶應義塾日吉キャンパスは卒業式

 ようやく春がやって来てうららかな暖かい日、横浜北部の日吉には、慶應義塾大学の日吉キャンパスがある。2025年3月24日はは義塾の卒業式とて、若者たちとその家族らしき人たちで溢れていた。
 未だ桜は咲かないが、いつもは静かな木立の丘の上は、和服で袴の晴れ着や仕立て下ろしのような背広姿の若者たちが、春の気分を浮き立たせている。それは懐かしいような平和そのものの風景である。

日吉駅前からキャンパスの公孫樹並木道は若者たちでいっぱい

●平和なキャンパス風景の裏に戦争の記憶が

 さて、この晴れやかなキャンパスが、実は先の太平洋戦争の末期において日本の重要な軍事基地であったことを知る者が、いったい何人いるだろうか。このキャンパスには不幸な歴史があるのだ。

 ここは戦争末期はキャンパスのほとんどを日本海軍に占領されていたのだった。1944年9月から、ここには連合艦隊司令部があり、戦争末期に太平洋の艦隊に作戦司令を無線通信で発していた。その結果は誰もが知るとおりである。キャンパスの地下には、海軍の軍令部基地としてのトンネルが蜘蛛の巣のようにはりめぐらっていた。それは戦争遺跡として今も残っている。

 太平洋戦争が終わったら日本海軍と交代のように、日本に駐留してきた戦勝国のアメリカ軍に、キャンパス全部を接収されてしまった。日吉キャンパスの戦争時代が続く。キャンパスがようやく教育の場に戻ったのは、1949年10月であった。戦争がようやく終わった。

 そんなこの地の悲劇を、この祝うべき日に思ってしまうのは、わたしが世界大戦を知る最後の世代であり、このところ世界大戦が再来しそうな世相であるからだ。折から新聞報道に、自衛隊が統合作戦司令部を発足させるとある。陸海空の3自衛隊を統合するのだそうである。今の世界情勢を見て、あの戦争の失敗に鑑みて、次の戦争の準備に違いない。

 その孫の慶応ボーイにも会ったので、日吉キャンパスの戦争史を知っているかと訊けば、聞いたことがない、知らないという。そこで用意してきた自作の小冊子「戦争に翻弄された大学とモダン建築」を、読め読めと手渡した。これにこのキャンパスとモダン建築の寄宿舎が蒙った太平洋戦争史の一部とでもいうべき事件を書いたのである。これまでも慶応大学に関係ありそうな知人たちに渡してきた。

この森の奥に太平洋戦争時に連合艦隊司令部となった記憶のモダン建築

●30歳代の記憶の日吉を訪ねて

 そうして卒業式に向かう知人たちと別れたわたしは、キャンパス奥の森の中にあるモダン建築を健在をちらりと眺めてから、丘を下って懐かしいところを訪ねてきた。昔、私は30歳代の10年ほどを、このキャンパスの南にある住宅公団の団地に住んでいたことがあるのだ。時にはこのキャンパスに子供を連れて散歩に来たこともある。

 団地は昔は5階建て共同住宅群の街だったが、今は建て替えて中高層共同住宅ビル群がゆったりとあるのが、一般市街地と比べてなかなかよろしい。高齢者用の施設も建っているのが時代の変化を思わせる。周りの街も中高層の共同住宅ビルになっていたし、緑の丘も斜面を高く大きな擁壁にして、その上に高層共同住宅ビルになっていた。
 何しろ、昔のドブ川が広域幹線道路となり、地下鉄の駅がある街になったのだから、それは当然かもしれぬと、今浦島の感慨を持ったのである。

5階建てから8階建てに建て替わった供養度住宅ビル群の団地

1973年の団地風景

(2025/03/25記)

このブログ記事に関連する冊子(PDF)
戦争に翻弄された大学とモダン建築
―谷口吉郎設計・ 慶応大学日吉寄宿舎の変転ー

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伊達美徳=まちもり散人
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2025/03/13

1872【鎌倉徘徊】久しぶりに第二の故郷鎌倉を早春の徘徊ミニミニセンチメンタルジャーニー

 


 初春ながら青空が広がっているを見て、突然に思いついて鎌倉へ徘徊に行くことにした。動機はどうでも良いが、まあ、第2の故郷を久し振りに見るか。調べたら5年ぶりだ。今日は平日だから、鎌倉もあまり混雑していないだろう。

 鎌倉駅東口に降り立ったのは11時、駅前の様子は変わったかな。おや、真ん前の銀行が「御代川」という和食屋さんの店舗に変わったな。その右隣の書店(「松林堂書店」と言ったような)が閉店している、あの鎌倉でも書店が成り立たないご時世か。


 若宮大路に出るまえに右の路地に入り、あの市場があるかどうか確かめによれば、あった、小さな店が集るミニ市場の「丸七商店街」はまだ健在だった。ここで何かを買った記憶があるのだが何だったかしら。


 そして若宮大路に出て、向かい側の「農連市場」も健在である。でもまだ時間が早いのかしら、店の数が少なすぎるのが寂しい、

 さて八幡宮に向かって大路を歩こう。未だ桜には早いが段葛あたりを見れば(参照:桜咲く段葛風景)、なんだか大路の真ン中に、凱旋門のような真っ白な建物が立っている。なんだ、これは、。どうやら、「二の鳥居」のあの真っ赤なペンキの塗り替えか、それとも建て替えかの工事用囲いらしい、なかなか堂々たる姿で、ちょっと見栄えがする。


 その二鳥居の横には、奇妙な形のビルが建っている。はて、ここにはこれまた奇妙な形の鰻屋のビルが建っていたはずだがと、しげしげと見れば、どうやら元の鰻ビルの構造体を残して、全面的に改装したしたらしい。面白いけど別によくなったとは言えないよなあ。


そうそう、こんな「浅羽屋」という鰻屋ビルが建っていたのだ。妙なデザインであった。2010年撮影

 このあたりの若宮大路に向いての店舗群には、けっこう昔の物があったが、次第になくなて行く。木造の民家や町家建築が結構あって、擬洋風の建築のもあるし、昔を想起させる。





 若宮大路で一番の意匠の建物と思っているのが、この「三河屋本店」である。和風の堂々たる構えで実にプロポーションもよい。だが、お酒屋さんもやってゆけないのだろうか、閉店している。


 店先にはこんな表示が出ているから、建て直すのであろうか、保全策を講じてあるのだろうか、気になる。

 この数寄屋風に凝った建築の表具屋さんは健在だった。

 この2軒並び木造も健在だ。左の蕎麦屋の「峰川」はそれほど古い建築ではない(建築時の姿を知っている)が、町屋の和風の良さを見せている。右隣は店先に妙な庇のようなものを付加しているのが気になるが、まあよいか。

 では三の鳥居をくぐって八幡宮境内に入る。正面の赤い随神門の裏山は、今は冬も緑が繁る常緑樹の森だが、戦争直後までは松の疎林だった(参照:大昔の八幡宮裏山)。山林は燃料の補給源だったから、人が定期的に山に入って木を伐り出していたからだ。今では誰も山に入らないから、植生の自然遷移が進んで常緑の森に変わってしまった。

 上の写真では随神門が全部見えているが、15年前までは左半分は大イチョウの葉張りの陰に隠れて見えなかった(参照)。銀杏が倒れてしまった今では全容が見えるが、そう遠くないうちにまた銀杏が戻ってくるだろう。倒れた銀杏の木の後継の木が今ようやく育ちつつあるのだ。石段のそばの白い枝張りの木が後継銀杏である。

 さてこのあたりで昼飯時なので、駅前東急で買ってきたパンの弁当を、源平池のそばで水鳥を眺めながらのんびりと食べたが、昔ここはよく来たところで懐かしい。
 昼飯を食って、今度は小町通を駅に向かって戻ろうかと思っていたのだが、まだ13時半、足が元気な様子なので、では金沢街道を東へ歩こうか、そうだ、できたらわたしの旧居がある十二所まで行こうかと思いつき、よろよろと歩き出した。途中でダウンしたらバスに乗ればよい。

 街道の表道をできるだけ避けて細い裏道を行く。昔に住んでいたころしょっちゅう歩いていたからよく知っている懐かしい道だ。
 若宮大路の桜はまだだが、荏柄天神参道の梅並木は赤白の花が満開である。このあたりは住宅街で、じわじわと変わっているような、変わらないような。

 報国寺へ登る道の滑川とそのほとりの桜は、花の季節には実に美しいのだが、まだ早い。
あ、そうだ、報国寺まで街道の南側にある小道「田楽辻子の道」を来ればよかったなあ、懐かしい路だ、まあ、いいや、帰りはそちらを歩こう。

 浄明寺あたりからは街道の北の住宅街の細い路を東へ東へと歩く。住宅の生け垣が続いていて美しい。

 このあたりに建築家・武基雄先生の旧宅があったと思い出して見回すと、記憶が不確かだがこれがそうだったような気がする。武先生はここに住んで後に極楽寺に移転された。もうここが武先生の自邸であったことは忘れられているだろう、

 住宅の向こうに衣張山が見える。ここの20世紀の風景は田んぼが広がっていた。今のように住宅が立ち並んだのは、21世紀の初めころから宅地開発されてからのことだ。衣張山はそのままだ。
 わたしはここを「浄妙寺田んぼ」と勝手に名付けて、四季の変化を楽しんでいた。散歩道の田園風景がなくなるのを惜しんだものだ。そしてその風景の変遷をまとめてネットサイトに載せている。参照:鎌倉浄妙寺田んぼの四季

 昔よくこのあたりをうろうろしたから、観光客は絶対に通らない道も知っている。そのひとつ、この幅50センチほどの裏道が今もあるだろうかと行ってみると、あった。住宅と住宅のはざまを抜けて金沢街道に抜け出る。住宅は建ち替わっていたが、超細道は健在だった。

 そうやって懐かしい十二所にやってきた。23年前までほぼ四半世紀住んだところだ。谷戸の奥深くに自分で設計した小さな木造住宅には、今は写真家の夫妻が住んでいる。明石谷戸道をだらだらと奥に歩けば、あの家が真っ白な姿で立つのが見えた。新築から46年も経つが健在らしい、よしよし。

 さてもう15時か、八幡宮から3キロほど、よろよろ歩いて3時間か、歩行速度時速1キロの老体になってしまった。駅まで返り道はここからまた懐かしい別の裏道をとの考えは、さすがにやめた。幸いなことに足腰が痛むことはない。でも年寄りにはもう無理かもれないと慎重を期して、バスに乗って金沢街道をさらに東へと、朝比奈峠を越えて金沢八景へ。 
 結構なミニミニセンチメンタルジャーニーだった。
(2025/03/12記)
このブログの関連記事<鎌倉フォトエッセイ集>
鎌倉十二所伊達自邸(現・大社邸)

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伊達美徳=まちもり散人
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2025/01/31

1866【横浜徘徊】内外観光客で賑わう春節中華街の隣には寒空の公園での炊き出しに行列する貧困風景

  今年になって初めて久しぶ横浜都心徘徊、いつものコースの半分しか歩けなかった。それだけ足が弱ってきたということだ。街を歩くのを大好きだが歳が歳だから仕方ない、と、思うことにする。なんでも不都合なことは齢のせいにすればよいのだ。便利なものだ。

 今はチャイナ当たりでは春節という旧正月であり、横浜もチャイナタウンの中華街あたりは春節を祝う雰囲気で、内外からの観光客も多く、にぎわっている。
 その一方で、そこから100mほど離れた線路を隔てた南には、貧困者が密度高く多く住み着くドヤ街の寿町地区がある。その中央にある寿公園で炊き出しがあり、大勢の人たちが行列を作って今日の昼飯の配給を待っていた。中華街の人出とは全く対照的な風景である。

 寿町で毎年恒例の正月の炊き出しに出くわした。寿町地区の中央にある小さな寿町公園から長い行列が出てきて、街区を取り巻いていて、ざっと見たところ300人くらいいる。弁当か雑炊か知らないが、今日の炊き出しを待つ人々である。毎年のことであるが、その人数が減ることが無いのは、やはり世の中は不況なのである。

寿公園に並ぶ炊き出しを待つ人々の行列は300人くらいか

 この20年ほどの間、この街に時々徘徊に来て観察しているのだ。街は徐々に変化している。かつての港湾労働者の街で活気ががあり、汚かった。今はきれいにあったが、貧困高齢者たちが小さな安宿に身を寄せあって暮らす街になって、活気は全くなくなった。

 街の風景は大都市のビル街であるが、それらのほとんどはドヤと呼ばれる簡易宿所である。一泊1700円が相場で、多くの宿泊人が実は住宅として使っている。格好つけて言えばホテル住まいであるが、一室は5~8㎡、便所やシャワー室は共同である。1700円という金額は、生活保護費の算定による金額であり、市場価格とは異なるようだ。

 そんな部屋が5階建てや10階建てのビルに積み重なっているから、人口密度はかなり高く、たぶん1000人/haくらいだ。高齢者がほとんどだから介護を必要とする人の比率も高いに違いない。この10年ほどでそれらのビルの1階には、福祉看護関係事業者が軒を並べるようになった。

 古いドヤビルは建て替えが進む。それらは近代的な高層ドヤビルに建て替わるものが多い。4階建てドヤが12階建てドヤになったとしても、ドヤという営業形態に変わりはないから、ますます高密度になってくるのだ。

5階建てドヤビルが8階建て建て替わった

 ところが最近のドヤ建て替えは、徐々に傾向が変わりつつある気配が見えてきた。ドヤビルから建て替えると、共同住宅になる事例がちらほら出てきた。街の中央の寿公園斜め前の街区が工事に入ったと思って見ていたら、出現したのはどうやら賃貸借型共同住宅であるらしいのだ。

 寿町の最も寿町らしいあたりから典型的なビジネスモデル簡宿所が変わろうとしているのは興味深い。この立地に入居するのはどのような人であろうか。地区に無関係な生活をする若い人たちあろうか。この新ビルから寿町公園の炊き出し風景を眺め下すことができる。

寿公園の隣にドヤビルが建て替わって出現した賃貸借型共同住宅ビル

 それらしい建て替えはここだけはなく、寿町地区内とその周囲にいくつか発生しつつある。

5階建てドヤビルを10階建て賃貸借型共同住宅に建て替えた事例


寿町フリンジの長者町通りで戦後復興防火建築帯の4階建て店舗付き共同住宅を
賃貸借型共同住宅に建て替えた事例

寿町地区内でドヤビルを共同住宅に建て替えた事例

寿町地区内でかつての「下駄ばき公団住宅」を一般分譲住宅に建て替えた事例

 長らく空き地であったところが最近工事を始めた。その「建築工事のお知らせ」掲示板を見れば、「ホテル・旅館」と書いてある。実はドヤもホテルと称して営業しているところがあるがそれらは法的には簡易宿所と言わねばならない。工事の掲示は法的な定めの表示だから、ドヤすなわち「簡易宿所」ではなくて、必要な規模と設備を備えた「ホテル・旅館」であるらしい。

新しく建つホテル旅館の周りはドヤビルばかり

 それではドヤが減少しているのだろうか。既存ドヤビルが賃貸借型の高層共同住宅ビル、あるいはホテル旅館、あるいは一般分譲型共同住宅等に建て替えられるとドヤが減るが、その一方で建て替えでは高層化すれば室数が増えるはずだからドヤは増加するだろう。

 ということは、さしひきドヤは減っていはいないのかもしれない。増えてもいないのかもしれない。ということはドヤ需要は増えてはいないということだろうか。
 しかし、あの炊き出しに並ぶ大勢の人々の行列を毎年の正月に見ると、この世にドヤ需要階層が減っているとは思えないが、どうなのだろうか。じわじわと街が変わるのを定点観測するのは面白い。日本流のゼントリフィケイションというものがあるのだろうか。
空から見る寿町地区 見えるビルのほとんどが簡易宿所(ドヤビル)

 寿町地区のそんな風景を眺めてから、そこから100mほど隣と言ってよいほど近くにある横浜の観光名所「横浜中華街」に移って徘徊しようと、電車線路高架下通路を通り抜けようとしたら、ここにたくさんの財産を段ボールに抱えた自由人が独り住んでいるのに出会った。たぶん、一泊1700円を払えぬのであろう。先ほどの炊き出し行列に並んでいないとは、自由人となって間がないお方で炊き出し情報を知らないだろうか。教えてあげるべきだったかしら。

 さてチャイナタウンへ来てみれば、寿町と大違いの賑わいであり、派手な街である。外国からも日本中からも若い人も年寄りもやってきている。寿町とは大違いの街である。観光客が寿町を訪れることはあるまい。

内外の観光客たちで大賑わいの春節の横浜中華街

 またその隣には「元町商店街」という高級さを売り物する街があり、ここの賑わいは中華街とはまったく別種のものであるのが面白い。横浜の都心部は、「横浜港」あたりの観光名所、そして「伊勢佐木モール」あたりの中心商店街、あるいは「野毛飲み屋街」、あるいは「横浜橋商店街」という下町市場そのものの庶民的な賑わい、これらピンからキリまでの都市を一つの盆地状の狭い土地の中に収めて共存しているところが実に面白い。

 ここに住まうようになって23年、これらの街を歩いて一巡すると10キロくらいになる。それが日常の身近の楽しみだったが、今では足が弱ってもう半分も歩けなくなった。歩き残した町は次の日に歩いたり、バスを使うのだ。歳とっての街歩きは健康維持のためでもあるが、実は都市計画を専門としていたわたしには、脳力維持のオベンキョウであるのだ。

(20250131記)

このブログの寿町に関する瓢論記事はこちらをクリック

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2025/01/13

1861【LA大火事】森林から都市へ拡大した大火災の原因に異常気象があるとすれば他人事ではない

 


 ロス・アンゼルスで高級住宅地が大火事だそうである。7日発生から今日(20250113)現在も燃え続けていて、東京山手線内面積の倍以上も燃えたとのこと。
 データ的には、被災面積160平方キロメートル、死者16人、被災建物は1万棟以上、避難の指示や警告の対象になっている住民はあわせて30万人だそうだ。
 これでは山火事とはもう言えなくて、都市火災というべきだろう。

 昨夜はPCのSNS(youtubeとX)でいくつもの現地中継(LIVE)を見続けた。特に空中からの現場の火災進行実況は、まったくもって凄い、怖い、酷いものである。

 これはまるで炎の津波である。裏山から炎の横列の津波が下って襲い来るのを、なすすべもなく見る住民の気持ちを思うとやり切れない。ということは、あの大津波の時の沿岸の人々の気持ちもそうだったのだ。大自然からの攻撃に人間はなすすべもない。



 燃え広がる炎の空中写真を見ていて、ちょっと気になったのは、全く別の場所が何か所も燃えていることだ。飛び火とみるのは遠すぎる。同じ条件化なら自然発火するところが何か所もあるのか、あるいはいくつかは人為的な発火かとも思えるのだ。


 SNSには例のごとくに、陰謀論はもちろん、被災画像に人種差別的コメントとか、AI製の偽画像とか、怪しい書き込みがある。
 そんな妙なときにトランプは政権に就くのだが、どうするのだろうかと思っていたら、さっそくに民主党知事の失策だと言っているらしい。困った人だ。USAは大丈夫か。

 なぜこれほどに火災が拡大するのか。日本でも近年では2024年元日の能登輪島の朝市通りとか、2016年の糸魚川大火とかあるが、LAほどの大規模ではない。USAの住宅地の住宅の建て方(材料とか防火対策)とか、住宅地の都市計画(山林と住宅地の配置)とかに原因があるような気がするが、正確なところはわからない。

燃え尽くした山と住宅地

 LAの郊外には広大な住宅地がとめどもなく広がっている。まさに自動車社会の国である。緑に覆われた広い宅地に大きな住宅が、たぶん木造でびっしりと建てられている。燃えた跡の住宅地のあまりにもひどさに驚くしかない。画一的に作られた住宅地らしいが、全く画一的に廃墟になっているのが痛ましい。

 この森林火災の拡大から大規模都市火災への展開の原因を言う識者によれば、近年の異常気象によって森林が燃えやすい条件になっていたとのとこと。それが分かっているなら、森林火災拡大防止対策を取り入れた居住地づくりの都市計画があってもよいはずだ。


 例えば、延焼拡大防止のために、広い幅の空地の延焼防止帯を設けることが有効だろう。しかし、この写真に見るように、LAの郊外住宅地開発は野放図に森林を侵食している。特にキャリフォニアにおける乾季の山火事騒動は、毎年のことだからとっくに分かっていたはずだ。

ここは被災地ではないが広大な郊外住宅地が山を切り開いてい広がる

 そもそも森林地帯で人間が住むようなところじゃなかったのに、無理やり開発したのである。人がいなければどんなに森林が燃えても災害とは言わないだろう。
 そんなところに住み込んだ人間に、自然が土地を返せと迫っているのが、この大火災かもしれない。

 異常気象がこの大災害の原因ならば、日本列島も同じようなことが起きないとは限らない。太平洋を挟んだ対岸の火事ではなくなる。
 特に人口が減少しつつある郊外住宅地や地方小都市では、いったん燃え広がるとそれを止める人手がないから、拡大するばかりになるおそれは十分にある。
日本の都市の郊外住宅地開発も似たようなものだ

 コロナ禍は終わるらしいが、異常気象禍は今後ともつのるばかりのようだ。このところあちこちで戦争が多いのも、異常気象が人間の生存本能を掻き立てている現象かもしれない。右傾化する世界、強権国家の出現はまさにそうだろう。
 なんとも嫌な時代に生きることになったものだ。

 (2025/01/13記)

(2025/01/14追記)14日朝のNHK報道では、死者は24人に増え、避難指示や警告対象住民数は、ピーク時には30万人以上だったが、13日時点では18万人余りに減少。一方、LA近郊では14日早朝から15日正午ごろまでは「特に危険な状況」に風が強まるとのこと。

2025/03/05追記)他人事ではないと書いたら、まさに今、日本列島でも山林火災が燃え
広がる事件が起きている。岩手県大船渡市で2月26日に起きた山林の火事は、その後どんどん燃え広がっていて、いまだに消火できていないそうだ。なんとまあ、これまでに2900ヘクタールも燃えて、住宅78棟が焼失したそうだ。他人事ではない。キャリフォニアLA火災に比べるとその10分の1くらいの面積だが、国土の規模が違うから同様のレベルだろう。

大船渡市の山林火災(2025年3月5日読売新聞より)

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2024/11/27

1851【今どきの郊外開発・1】横浜市の西端の郊外駅前に新しい街ができたとて見てきた

 世の中から絶えて久しく見ることができなかった、郊外ニュータウン開発なるものを、久しぶりに見てきた感想を書く。人口減少のいまどきニュータウンかよ、と思いつつ、、。

●今どきの郊外大規模新開発の街を見に行った

 ヒマツブシに横浜の西の端っこあたりの郊外大規模開発を見物に行ってきた。用はないが単なる好奇心である。この人口減少時代にわざわざ街はずれの田畑の中に大規模新市街地開発をやるなんて、どういうことかと思う。

 もっとも、その答えは簡単、もっとずっと前に完成するはずはずが、ここまで遅れに遅れたらしい。何しろぜ円世紀末の1999年に、田畑と森ばかりの中に鉄道2本と駅も二つ作ってまで、4半世紀も開発を待ち構えていたのだから、いろいろ事情があったのだろう。初めに開発を構想したころとは大きく時代が変わっている。

 その時代遅れはどんな形なのかを見て、早い話がツマラン街をつくったものものだという感想であった。都市デザインとして実にどうもツマラン風景であった。でも、実際に住んだらつまらない生活かどうなのか、それはわからない。案外住みやすいかもしれないとも思った。それをおいおい書く。

 横浜と藤沢市の境に突き当たる西の端っこあたり、横浜地下鉄が行き着く西の果ての駅前に、新市街地ができたらしいので見に行ってきた。郊外のはずれとはいいながら、鉄道駅は横浜市営地下鉄「下飯田」駅と相鉄いずみ野線「ゆめが丘」駅の駅前である。このあたりは広大な農業地であったののを土地区画整理事業で市街化して、つい最近に巨大な駅前ショッピングセンターが開業したと聞く。

 実はわたしは10年ほど前にこの地を訪ねて、まだ田畑や草ぼうぼう空き地ばかりが広がる開発前の姿を見てきたことがあるのだ。このことはこのブログに記事を書いている(参照:2014/04/03/【横浜都計審】いまどきニュータウン開発かとおもえば郊外商業開発であるか)。今、それがどんな姿に変貌しているか、見に出かけた。

●こんな田舎に巨大な箱が建つとは 

 10年前には地下鉄ブルーラインの下飯田駅地下駅から地上に顔を出すと、周りは一面の畑であった。畑のモグラが顔を出した気分だった。もう一つの相鉄いずみ野線線は、畑の中の上空を鉄道高架が横切り、草原の中にポツンと駅があった。

 ところが先日に十年目に尋ねて地下鉄駅から地上に顔を出すと、目の前に巨大な壁が上下左右に行く手を阻むように立っている。白い箱の建物が駅前にドカーンと立ちふさがっているのだ。これはなんだ!。

 新しい街ができたからには、あの畑と草原だった駅前には美しい公園や広場が待ち構えているだろうとの期待は、もろくもくずれた。どうやらこの巨大な箱は、商業施設らししい。そうか、郊外型ショッピングセンターを建てるのがこの開発の目的であるらしいと、10年前に想定したとおりになっているのであった。

地下鉄駅から地上に出るといきなり立ちはだかる壁と箱

10年前に地下鉄を地上に出ると目前に広がっていた牧歌的風景

 新しい都市のへの期待はたちまちしぼんでしまった。ここは生活の場を作るのではなくて、商業の場を作るのであったか。広域幹線道路が通り、横浜都心とも結ぶ2本の鉄道の駅前だから、横浜市の西部と藤沢市の東部に広がる商圏を押えるのであろう。わたしは商業のことは知らないが、こんな都市の田舎の端っこに、こんな大きな商業施設を作っても成り立つのは、そういうことなのだろう。

●巨大商業ビルと巨大アパートビルの街

 全体構想を見ると分かるように、二つの駅間に大規模商業施設(一般にショッピングセンターと言う)と、これも大規模な共同住宅施設を建設して、その他に沿道商業等や住宅を従属駅に建てる。ニュータウンと言うよりも駅前再開発と言う方が近いだろう。
 なお、日本では共同住宅ビルのことを一般に「マンション」と言うが、わたしはこの不動産屋誇大広告的誤用外来語を使わないことにしている。建基準法では共同住宅と言うべきだし、あるいは格好つけても集合住宅と言うべきである。(参照:言葉の酔時期:マンション

開発構想のモンタージュ写真


開発の中心部の構想は巨大商業・巨大共同住宅・総合病院

全体土地利用構想図

 土地利用を見ると、全体に商業的利用が大きく占めていて、住宅系土地利用は従属的であることが特徴的である。この開発は郊外商業開発を主目的とすることが分かる。住宅過剰時代を反映しているのだろうかと思ったが、駅前には巨大な共同住宅会派tもやっている。
 それにしても、ゆとりある横浜郊外住宅地としての姿を、この構想に伺うことができないのはどうしてか。乱雑な郊外沿道開発を誘導しようとうする意図が見え見えである。
駅前広場の風景は自動車と壁だらけ

幹線道路はただただ道路の機能だけ

郊外ロードサイドの乱雑な看板類が立ち並びつつある

 では中心部から周りへ住宅街へと、新開発の街を見ていこう。この地域らしい特徴ある景観を生かした都市デザインに出会える期待を抱いて、とぼとぼと歩きだしたのであった。
(20241127記 つづく)

ーーこのブログ内の関連記事ーー

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