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2023/02/06

1669【チャイナ気球事件】 そのむかし風船爆弾はるばると 今チャイナ発スパイ風船

 USA上空を真ん丸な気球がふわふわと飛んでいく。チャイナが発した何か攻撃兵器ではあるまいかと、さわぎはアメリカ大陸をつぎつぎと移動する。大陸横断しきって海に出たところで、なんと大げさなこと、USA空軍機がミサイルで撃ち落としたのは、昨日のこと。

 チャイナの政府では自分ところから発したものと認めており、民間の気象観察気球が迷い込んだとのこと、うちのものを撃ち落とすとは乱暴な奴と怒っているとか。
 いっぽうのUSA側は、チャイナ軍が送り込んだ軍事偵察気球だと言う。これから落下物を海から引き揚げて調べるらしい。

 このニュースで、わたしがすぐに連想したのは、太平洋戦争末期の日本軍が飛ばした風船爆弾である。日本国内から飛ばして偏西風に載せ、約9300のうちアメリカ大陸に到達したのは約1000、少ないながら被害を与え、広く心理的な恐怖を与えたらしい。今のウクライナ各地に飛んでくるロシアミサイルのようなものか。

そのむかし風船爆弾はるばると 今チャイナ発スパイ風船

 日本軍の風船爆弾が、今回のチャイナ発スパイ風船の元祖である。もしかして、日本のあの技術をチャイナが研究して復活させたか。
 和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作った直径10mほどの巨大紙風船に、爆弾をぶら下げていた「ふ号兵器」は、1944年から45年にかけて飛んだ。今回のスパイ風船は紙ではなかろうが、大きさがバス2台分ほどというから、風船爆弾より少し大きいか。(追記を参照

 風船爆弾については、わたしの大学同期生たちの証言がある。同期生のうち40人ほどでeメイルネットワークを作り、あれこれ情報交換しているが、あるときそれを使って、戦争体験を23人が語り合ったことがある。その中に風船爆弾に関する話題も行き交った。
  参照:昭和二十年それぞれの戦さ(七~八歳児の戦争体験記憶簿)

 この同期生たちが戦争終結を迎えた1945年の夏は、年齢にして8±2歳あたりであり、迎えた場所は日本列島内だけでなくて、台湾や朝鮮そして満州であった。
 興味深いので概略を紹介する。日本軍の風船爆弾のために人生を(悪い方向と良い方向に)変えた人たちが、日本にもいたのである。

  • A君の場合(場所は高崎市内)
     高崎は焼夷弾にやられて散々だったが、それは高崎では「風船爆弾」を作っていたために攻撃されたと言われた。父親が高崎の女学校長をしていて、校舎を改装して外壁を真っ黒に塗り、校舎内で女学校生達に風船爆弾作りをさせていたとて、親父は新聞紙上で徹底的に叩かれて、もはや高崎にすみたくないと郷里に戻ってしまった。

  • B君の場合(場所は東京工業大学内)
     所属していた某研究室は、戦中には風船爆弾の研究をしていたとて、次のような先輩の手記がある(一部抜粋概要)。
     陸軍では風船爆弾を「○ふ」と呼んだ。気球の皮膜は、和紙にこんにやくマンナン水溶液をコーティングして調製した。この某研では、この調製条件と皮膜の機械的性質及び水素透過速度との関係を追求した。この頃、在宅の女子学生が工大の各研究室に大勢動員されて一斉に賑やかになり女子大に変身した。連日の実験で疲れ果てていた学生たちはにわかに元気を取り戻し、研究が加速された。やがて、お似合いのカップルが誕生し、めでたくゴールインした。

 今回の大陸東方から飛んだ風船は、日本列島上空を通過したはずである。その時に、日本ではこれに誰も気がつかなかったのだろうか。アメリカ大陸と比べると細いから、風船が横断する時間が短かったので気がつかなかったのか。

 近頃は急に軍備増強中らしい自衛隊も探知できなかったのか。風船さえも探知できなくて、どこかから攻撃してくるミサイルを探知して撃ち落とすなんて可能かしら、あ、そうか、だからこそ43兆円もかけて軍備増強するって、岸田さん言ってるのかあ。

 なお風船爆弾については、このような動画がある。https://youtu.be/MSHrAk3Jb28

(20220206記)

(追記2023/02/08)今朝の新聞ニュースに、今回のスパイ風船の大きさの図があったので引用する。高さ60mとあるが、直径60mのことだろうか、いずれにしても風船爆弾とは比較にならない巨大なものである。

2022/08/18

1640【二重汚染国家】外にはプーチン戦争におびえ内にはコロナとトーイツのダブル汚染を生きる

熊五郎:こんちわ、ご隠居、まだ生きてますね。

ご隠居:おや、熊さん、いらっしゃい、はいよ、まだ生きてるね。

:だんだん世間が騒がしくなってきますね。

:そう、だからあれこれ好奇心が忙しくて、死んでなんかいられない。

:そうか、コロナプーチン戦争安倍暗殺事件ですもんね。

:暗殺事件は日本政治家の宗教右派汚染問題に広がったね。酷いもんだけど、ヒマツブシにはもってこいだね。

●自民党にトーイツ派閥誕生か

:そうそう、このところコロナ汚染の広がりを、統一教会汚染がまねしているみたいに、自民党にトーイツウィルスが蔓延、コロナ並みに蔓延防止ナントカって適用かな。

:岸田第2次内閣の新大臣、新副大臣、新政務官たち、次から次へと統一教会との接点というよりも接線、もっと広い接面のある政治家が暴露されているが、自民党はコロナ並みの緊急事態だろうね。

:でもね、それでおたおたしてる人がいないみたいですよ、平然として同じような言い訳をしている、統一した言い訳をね。あれほどたくさんの汚染者がいるってことは、汚染者がそれなりに数の力を持つから、岸田さんも手を出せないかも。

「黒信号みんなで渡れば怖くない」キシンダ内閣トーイツ見解

:あ、そうか、自民党内に統一教会派という派閥ができてるんだね。そうか、安倍晋三がその派閥の親分だったのか、暗殺されて次の統一派閥親分は誰になるんだろうね。岸田内閣は文字通りキシンダ内閣だねえ。緊急って思うのは庶民だけ、当事者政治家はそれが普通なんだろう。

:軋しみに軋んだ内閣だねえ、なんにしても、コロナウィルスと同じで、統一教会思想に自民党は席捲されてしまい、撲滅どころかトーイツが党の基本方針になるかも、げんに憲法改定自民党案は統一教会の言説に酷似しているらしいですよ、怖いなあ、トーイツ汚染とコロナ汚染でダブル汚染国家になるのですかね。

:それが日本だけじゃなくて、USAでもなんだね。キリスト教福音派という宗教右派が共和党を支えていて、トランプの復活がありうるらしい。

:そうそう、あちらさんもなんだかトーイツ流の奇妙な思想が席捲しているのですね、こりゃあ地球温暖化が人間の脳に何か大きな影響をもたらしているとでも考えないと、つじつまが合いませんねえ、怖いなあ。

●コロナ世界ランキングでトップに躍進

:怖いねえ、そうそう、日本はコロナに席巻されたね、コロナ感染者がじゃんじゃん増えても、政府は今回は何の規制策も出さないから、庶民はもう旅行だって宴会だってやってよいのだと誤解してしまった。

:これじゃあますます感染者は増えるばかり、なんでもその増加する感染者数は世界一、死者数は第2位らしい。このところ世界ランキングから経済やら教育やら学術やら落ち続ける日本だけど、こんなところで挽回ですかい。感染しても病院が満杯で入れない人がどんどん増えてるらしいですよ。

自宅療養するそうだね。ようするに病院に行くよりも前に、医者から見放されるってわけだ。それほども増えてるってことは、実際の感染者数はもっと多くて、もう勘定しきれないってこと、お手上げってことかもねえ、そうだとしたら、怖いねえ、あたしは検査なんてしたことないよ。

:え~っ、ご隠居を怖くなった、なんて言ってるあたしも実は検査したことないですねえ、お互い様ですよ。

感染者数の波の具合が、世界と日本と違うね。日本の今の第7波は、これまでのどれよりも高いけど、世界全体では今の波はそうでもないんだねえ。ま、世界でも感染者数の勘定はかなりいい加減だろうけど、いちおうは傾向はわかる。

:日本の波がちょっと下がり気味でホッとするけど、これって、もしかしたらもう数えることが不可能なほど増えて、現場では勘定をやめた結果かもなあ。日本だけが投げやりだってことじゃないでしょうね。

:何だか心がうそ寒くなるねえ、外は暑いのに。

●止まらないプーチン戦争

:心が寒いといえば、未だにプーチン戦争が止まりませんよ、もう長期戦にするって決めたのですかね。いや、ウクライナの頑張りで、そうさせられているのか。

:ドンパチやっていることはニュースに毎日出るけど、どっちが勝っているのかねえ。でも、どっちが勝てばどうなるのか、さっぱり分からないよ。

:なんでも先日は、例のクリミア半島で大爆発が起きてロシア側に大被害とかで、ウクライナ側の破壊工作というから、正規軍のほかに地下組織軍もいるらしいですね。

:ますますだらだらと続く戦争だねえ、第3次大戦になるからうっかりまわりから直接に手を出せない、イライラしてるのだろうね、ヨーロッパ全部が、、。

:そのイライラが高じて、妙な次のステップが生まれるかもと怖いですね。

:8月は日本も戦争の月だ。わたしの父は日本の十五年戦争に、なんと念入りに3回も兵役についた。うち2度は満州での戦いだよ。その戦争手記が遺品にあったので、わたしはそれをもとに『父の十五年戦争』という戦記を書いて冊子にして、家族や親せきに配布したことがある。それをあらためて読んだら、日本軍の中国大陸侵攻は、今のロシアによるウクライナ侵攻と同じだね。父の手記の中にはロシア軍がウクライナのブチャでやったようなことを示唆する日本軍の暴虐を書いてあった。あの温厚だった父がねえ、と思ったよ。

:へえー、怖いですねえ、戦争になると人が変わる。

:それも含めて、わたしの戦争体験をかいつまんでブログに書いておいたから、読んでおくれ。(20220818記)

参照:まちもり通信サイトより



2022/08/15

1639 【戦争の記憶】あの敗戦日から77年の歳月には次々と戦争の日々が重なるばかり

●8月15日を祝日にせよ

 ふと思う、8月15日敗戦の日をなぜ国民の祝日にしないのか、あの超悲惨な十五年間もの戦争が終ったのだから、後世まで記憶して祝ってしかるべきと思うにだ。
 これを書いている今日は、その日から77年目の敗戦記念日である。人間なら長寿を祝うことだろう。

 8月10日山の日なんて、どうでもよい祝日をつくるのではなくて15日を敗戦記念日にするべきだ。
 何だか近頃はやたらと祝日や休日が増えて、しか毎年その日が移動するらしいから、毎日が休日を送る暇老人は、役所に出かけてその日が休日と突然に知って怒るばかりである。
 8月15日を祝日としようと、法制定の時に話題になったのか、あるいは山の日制定の時に国会は何も考えなかったのか。なんとも不思議である。

●靖国神社野次馬観察

靖国神社風景
 2005年に突然思い立って、8月15日に靖国神社に徘徊に行くことにした。参拝ではなくて、世相観察である。特に世の中で戦争をどうとらえているのか、この日にここに来れば、ある特殊な断面だろうが、観察できるのである。

 高齢者は次第に少なくなってきて、最近は若者が増えている。まるで真夏の初詣のような気分のカップルが多い。もちろんウヨクらしい青年たちもいるし、軍服コスプレのマニアもいる。それは夏祭りの幻想的な風景の一つとも見えてくるのが面白い。
参照:2005年+2013年 2014年 2018年 2019年 2020年

 一昨年は行ったのだが、去年はさすがにコロナに負けていかなかった。今年はプーチン戦争の影が、どう靖国神社に及んでいるか、そこのところを観察に行きたかったのだが、コロナにも年齢にも負けるようになってしまった。

●父の十五年戦争にプーチン戦争を投影

 一昨日のこと、大学同期ネット仲間十数人とZOOMで話をしたときに、わたしは父の戦争の話をした。『父の十五年戦争』というネットページを作っているので、それを見せながらかいつまんで、父の3度の兵役の話をした。

 話しながら、父の大陸に渡っての戦争は、今のプーチン戦争ロシアが日本で、チャイナがウクライナだなと気が付いた。父は日本の十五年戦争中に、満州事変、支那事変、太平洋戦争の3回の兵役で7年半も過ごしたのだった。

 父の兵役の最初は1933年2月から1年間弱、旧満州に侵略軍として入って戦った。いわばロシアによる2014年のウクライナのクリミヤ半島侵略である。
 2度めは1938年から41年まで北支(ノースチャイナ)の侵略地で戦った。いわば2022年からのロシア軍のウクライナ侵略である。3度目は1943年から45年までの太平洋戦争兵役だが、この時は国内にいたから侵略地には出かけていない。

食料略奪宴会写真 1938年熱河作戦
 最初の旧満州での戦いはかなり危険なこともあったと父の戦争手記に出てくるが、同時に侵略軍としての暴虐もノーテンキに書いている。
 一般人から巻き上げた紙幣だとして手記の手帳にはさんである。戦場で農家から貯蔵してある芋などの食料を略奪して、うまかったと写真付きの手記もある。
 さすがに殺した手記はないが、身近で砲火に死んだ戦友の話が詳しいから、当然にこちらからも砲撃して敵チャイニーズを殺しただろう。

●父を戦場に送り出して号泣する母

 わたしは日本の15年戦争の真っただ中に生れ、敗戦の時は国民学校3年生だった。中国地方山地の盆地の街だったが、都市のような戦争の直接的な衝撃はなかった。だが、子供には父がいないのは大きな被害だったし、直接的には戦争後の貧窮で腹ペコの日々こそが戦争被害だった。

 1943年11月父に3度目の召集令状が来た。これについて強烈な記憶がある。
 父が兵役に出かけるのを、鉄道駅まで母と共に送った。家に帰りついて玄関を上がり、畳の間に入ったとたんに母は前に倒れこんだ。両手で顔を覆って畳に押し付けて、突然大声で号泣し始めたのだ。

 幼児のわたしが泣くのは当たり前だが、大きな大人に目の前で泣かれているわたしは、なんのなすすべもなく、号泣に合わせて母の背にある帯の結び目が大きく上下するのを、呆然と見つめているばかりだった。
 やがて誰かが玄関にやってきて案内を乞う声が聞こえた。母は急に泣き止み、今泣いていたことを誰にも言ってはいけないと、わたしに厳しく言い渡して玄関へ出て行った。

 もう戻らないであろう戦場に行く父も大変だが、送り出し母も大変なこと、しかも嘆いてはならないタブーも世間にあった。その時母の胎内には半年後に生まれる第三

 幸いにして父は南方戦線に送られるのを姫路で待っていたが、制海権を失った日本は輸送船がなくなり、父は小田原で湘南海岸に上陸するであろう連合軍を迎え撃つ本土決戦の準備をしていた。その地で敗戦の日を迎えて、月末にはわたしたち家族のもとに戻ってきた。家族が一人増えていた。
 母は父を無事に取り戻すことができたが、実弟をフィリピン山中のジャングルで失い、その若妻と乳児が母の実家に残された。

●77年前の8月15日のこと

 その8月15日は、いかにも夏らしい晴天だった。わたしの生家は神社である。その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から兵庫県芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて滞在していた。盆地内のほかの寺社などに児童51名が疎開して来ていた。

 そのころはラジオのある家は限られていたが、その疎開学級が持っていた。社務所の玄関口に近所の人々が集まって、ヒロヒトさんの分かりにくい敗戦の詔勅を聴いていた。
 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、列になって黙々とぼとぼ参道の長い石段を下って行くのを、わたしは社務所縁側から見ていた。緑濃い社叢林の上はあくまで晴れわたり、蝉の声が滝のように降る暑い日であった。

 もちろん8歳のわたしには内容を分らない。その場の情景の記憶のみである。ラジオを聞いていた人たちがこれを敗戦と分かったのは、たぶん、疎開学級の教員がそれを伝えたのであろう。それから数日の後に疎開児童たちは芦屋に戻っていった。
 芦屋はその数日前に空襲を受けて大被災、中には親を亡くした子もいたという。あの子たちはその後どのように日々を送ったであろうか。

沈黙の湖になりたる盆の地よ昭和二十年八月真昼 
      (まちもり散人2014年詠)

 その半月後に、父が長い参道の石段を登ってくるのを見つけて、私は飛びついた。

●戦争の記憶を書き記す

 77年前にようやく平和が来たことを忘れそうになるので、毎年この日に同じようなことを書いている。
 だが、戦争はあの敗戦の日から地球上から消え去ったのではない。ちょっと思いつくだけでも、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、フォークランド戦争、湾岸戦争、ウクライナ戦争など、地球上は戦争に埋め尽くされている。人間がいるから戦争がある。

 ことしはプーチン戦争とでもいうべきウクライナへのロシア侵攻がはじまった。それはどこかなつかしい戦いぶり、つまり20世紀前半時代の戦争の感がある。
 そこで、わたしのブログのいくつかのテーマのひとつに「戦争の記憶」を立てて、これまでの記事などをまとめておくことにした。わたしの記憶にある過去と現在の戦争記録である。
 その中にはわたしの記憶だけではなくて、大学同期生たちの『昭和二十年それぞれの夏』、中越震災の村の長老『大橋正平戦場物語』という知人たちの戦争記憶もある。
 戦争記憶を書かなくてよい日が、いつか来るだろうか。それは私が地球上からいなくなった日であり、戦争がなくなった時ではないことは確かだ。(2022/08/15記)

参照:まちもり通信サイトより


2019/08/11

1414【戦争の八月(1)】広島核爆弾体験少女の短歌、本土と植民地で戦時体験少年たちの記憶簿、中国大陸と南方戦場の父世代の体験記録

アメリカ歌人が原爆被爆体験を詠む

 原爆証言聞きにしあともなお核が抑止力として要ると君らは

 原爆を日本がつくったと仮定して使ったかと問わる使ったと思う
         (アメリカ)大竹幾久子

 上に掲げた2首の歌は、今朝(2019年8月11日)の朝日歌壇の入選歌である。詠者の夫と兄がわたしの大学同期生である。
 この人は広島の被爆者であり、いまはその被爆させた国に生きて、被爆体験を語り、それを英語の本にして出版している。
 
●参照:『いまなお原爆と向き合ってー原爆を落とせし国でー』大竹幾久子著
     https://datey.blogspot.com/2015/10/1134.html

大学同期仲間たちが戦時体験記憶を記す

 今年も戦争を思い出す月が来た。1945年夏の真昼、雑音交じりのラジオ放送が晴れわたった日本列島を沈黙列島にした。
 わたしの年齢は、戦争の時を体験した最後の者にあたるかもしれないと思いついて、大学同期仲間たちの戦時戦後の体験記憶を集めた。
 仲間だけで読むのはもったいない、戦時の空気を後代に伝えたいと、ブログサイトを作って公開した。

 東京の大学に各地からやってきた若者たちの戦争体験の場は、日本列島の各地ばかりか、当時の植民地であった満州、朝鮮、台湾にも及ぶ。
 わたしのように静かな田舎町で敗戦放送の日のみ記憶鮮やかなものもいれば、植民地から内地にもどる過酷な旅をしたものもいる。広島で核爆発に被爆したもの、そのキノコ雲を遠くから眺めた者もいる。
 
●参照:昭和二十年それぞれの戦 七~八歳児の戦争体験記憶簿 
  https://kgr36.blogspot.com/2019/07/00520170711.html

父親世代の戦場体験を記録する

 日本は19世紀末から断続的に国際戦争をしてきた。大雑把に見ると次のようになる。
 1894~98年日清戦争、1904年~05年 日露戦争、1914年~18年第一次世界大戦、
 1931年~33年満州事変、1937年~45年日中戦争、1941年~45年太平洋戦争
 1950年~53年朝鮮戦争(直接参戦していないが兵站基地となり事実上参戦)、
 1990年~91年湾岸戦争(直接参戦していないが戦費1.2兆円負担して事実上参戦)

 このうちで国際的にも身近にも戦争の悲惨を未だにとどめているのが1931年から1945年までの戦争で、「アジア・太平洋戦争」あるいは「十五年戦争」ともいう。
 この十五戦争において実際に戦場体験をした二人の記録を、わたしはつくっている。ひとりは中越山村の長老であり、もうひとりはわたしの父である。

 中越山村の法末集落で90歳の長老・大橋正平さんに出会ったのは、2004年に起きた中越大震災の被災地であるその集落へ、復興支援の手伝いにボランティアで通っていたときあった。
 農作業の合間に話していると、正平さんはあの悪名高いインパール作戦の数少ない生き残りのひとりと知り、ぜひにと頼んでその家に上がりこんでじっくりと聞き記録した。
 兵役に出て行ったきり7年半も戻ってくることができなかった戦場体験を、その語り口を保ちながらオーラルヒストリーにした。
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 参照●大橋正平戦場物語 インパール作戦戦場の悲惨j

 もうひとつは父の戦場体験記録だが、父から直接に聴く機会を逸してしまって、その遺品のなかに発見した自筆の戦場記録を、わたしが解読して書いたものである。
 父は十五年戦争(支那事変、満州事変、太平洋戦争)の間に、通算7年半にわたり3度の兵役に就いた。その間に結婚し、1人の娘を失い、3人の息子を得た。
 わたしはこの父の戦争記録を書いて、15年戦争を俯瞰することができたとともに、わたしの戦中史にもなった。8月15日体験も、このなかに記した。

 参照●父の十五年戦争神主通信兵伊達真直の手記を読み解く
https://matchmori.blogspot.com/p/15senso-0.html

わたしの戦後における戦争定点観測

 もうすぐ8月15日が来る。定点定時観測地点「靖国神社」に今年も見物に行って見るかなあ、でも暑いなあ。
  集る人たちを眺めて哂ったり考えたりする、夏休みの宿題レクリエーションである。ここでこの日に毎夏に、いかにもアナクロな現象が出現するので、もしかしてアナクロじゃなくて現実になりつつあるのかと、怖くなってきている。
 なお、どんな宗教施設でも墓地でも、わたしは礼拝することはない。
 
●参照:2018靖国神社https://datey.blogspot.com/2018/08/1157.html
    2017靖国神社https://datey.blogspot.com/2017/08/1282.html
    2015靖国神社https://datey.blogspot.com/2015/01/1045.html
    2014靖国神社https://datey.blogspot.com/2014/08/983.html
    2005年、2013年靖国神社
        ttps://sites.google.com/site/dandysworldg/yasukuni20130815

(追記2018/08/19)
 大竹幾久子さんが2019年8月18日朝日新聞朝日俳壇(選者:高山れおな)に入選している。
   板橋を渡り終えれば散る蜥蜴      (アメリカ 大竹幾久子)
 原爆歌人であることを知っていればこそ、この平和で平凡な風景を詠むことが、心に沁みる。
(追記2018/08/25)
 大竹幾久子さんが今週も原爆の歌で朝日歌壇に入選、選者は高野公彦と馬場あき子の2人。
   父は死に我は生きたり原子雲の下で二キロを離れただけで
 その父君は広島市内の兵営にいたはずだが、地上から消えてしまった。


2018/08/16

1157【靖国8・15定点観測】夏まつり森の社のにぎわいは今日も戦をたたえる見世物

 境内にスピーカーで放送が流れる。「間もなく正午です。みなさなご起立下さい。一分間の黙とうをささげます」
 まわりに人たちが、いっせいに立ち上がる。やがて時報、みんな頭を垂れている。やがて元通りの暑い日のざわめきがあたりに戻る。
 この間、わたしは腰を下ろしたまま、まわりを観察していた。こんなにも大勢の人間が時を停めている中に、ひとり時を動かしている自分、そばには大砲と戦闘機……、SF的風景。
 
 今日は8月15日、ここは東京九段の靖国神社境内、わたしは去年のこの日もそうであったように、今年も定時定点観測にやってきた。この日にここで、ある社会の断面を見るためだ。
 観測報告まとめは、今年も相かわらずの風景だった、ということ。境内にねっとり暑苦しく淀む空気のなかに、ここの地中に眠る戦争人形たちが目覚めて、いつもの夏のこの日のように今日も出てきている。真夏の暑さにボケる頭、真昼の光にしょぼつく眼、これは現実かまぼろしか。
 今年は暑さのせいだろうか、人の出が少ないようだった。

  夏まつり森の社のにぎわいは 今日も戦をたたえる見世物

 では2018年8月15日真昼の靖国神社風景をどうぞ。実は毎年の風景と繰り返しであり、それは神社境内は昔から芸能の場であったことを再確認するようなもの。

毎年おなじみ九段坂ウヨ屋台




 今年はいくぶん人出が少ない感じ、暑さのせいか


 境内の毎年おなじみコスプレ 


爺ちゃん婆ちゃんの代理参拝か若者が多い

 遊就館では小学生に描かせた兵器の絵の表彰展示

マスメディアのカメラがセンセイたちを待ち受ける

うって変わって千鳥ヶ淵戦没者墓苑は静寂そのもの 



 8月15日、1945年のその日は、わたしの人生の出発点あたりで、その前の時からみると超大方向転換が待ちうけた日である。その日から、民主主義すくすく世代に入り込んだ。
 暑い晴れたその日、城下町盆地にある森の中の神社では、近所の人たちや疎開女児童たちとが、一台のラジオを取り囲んでいた。わたしの生家である。
 聞き終わった大人たちは、一様に黙りこくったままの列で、参道石段をとぼとぼと暗い森の中から、明るい盆地の街に下って行った。
 
 春にやってきていた疎開児童たちは、数日の内に阪神間の都市に戻って行った。そこはアメリカ軍の空爆で焼け野原であり、疎開中に戦災孤児になった子もいた。
 その月末、わたしの父が兵役解除されて戻ってきた。1年8か月前、今度こそ帰れぬだろうと号泣する母に送り出された父は、満州事変、支那事変、太平洋戦争と、十五年戦争中に7年半3度もの戦場をくぐり抜けた強運の人であった。その子のわたしこそ強運である。

 毎年、そのことを想う。そしていまだに戦争賛美する人々がいて、その人たちがやって来る8月15日の靖国神社を、定点観測のように訪れて、観察する。
 わたしは神社に生れたが、神仏を拝むことは決してない。それは思想ではなくて、神とか霊とかの存在をどうしても認めることができないという、単にプリミティブな科学的合理主義に過ぎない。

 実はわたしの叔父が、靖国神社に合祀されているのだが、そのことを思い出したのは、たった今である。過去に何度か靖国神社にいたときにも、一度もそれを思い出さなかったなあと、それもいま思い出している。
 わたしを可愛がってくれた叔父は、若妻と乳飲み子を遺して、フィリピンの山中に消えた。わたしの「父の15年戦争」の記録とともに、その叔父の悲惨な戦場のことも書いておいた(「田中参三叔父の戦場」)。

参照:靖国8・15定点観測記録
靖国神社815点々観測2019】その1 2019
◎【靖国神社815定点観測2018】今日も戦を讃える見世物2018
◎【靖国神社815定点観測2017】軍服若者がスマホいじる2017
◎【靖国神社815定点観測2005-2013】靖国神社風景2005、2013

参照:「父の十五年戦争:通信兵神主の手記を読み解く

2017/08/18

1283【戦争を思い出す8月】悪名高い大敗北「インパール作戦」から生還した中越山村の最長老の物語

戦慄の記録 インパ―ル」という、つい先日の8月15日にNHKが放送したTV映像をネットで見た。
https://youtu.be/DTsRiFeTOIo
 この映像は海賊版だろうか。海賊版なら早晩消えるだろうが、「インパール作戦」という稀代の大敗北戦の悪名は、その企画段階から反対されながら、実行段階では部下から反旗を翻されても、途中で負けると分っても無理矢理に突き進んだ、牟田口廉也司令官の名と共に消えはしない。

2017/04/09

1260【花見と戦争】あの戦場に消えた人や戦場に送りだした人のことを改めて思う花の春の日だった

 久しぶりに日吉の慶応大学キャンパスを訪れた。花見ではなくて、戦争と大学についてのお勉強会である。
慶應大学福澤センター、戸倉武之さんの講演「大学は戦争の何を『引き継ぐ』のか?ー慶應義塾における実名と実物の継承の試みー」。
 慶應義塾関係者の戦争体験を、兵士となった本人はもとより、その周辺の家族や恋人など、ひとりひとり個人史としての戦争を追う研究をしているのだそうだ。その中間報告の講演会であった。

 これまでよくある政治や戦況や勇将による戦争史ではなくて、参加した兵士個人とその周辺人物が語る言葉と保存する実物からの視線で戦争の時代を問い直す研究は、この分野を拓いた白井厚さんの研究をひきついだのだそうだが、実に興味深い。
 慶應大学という広範で強力なネットワークをつかって、人間情報と実物情報の収集は膨大なものになるらしい。

 慶應大学の日吉キャンパス自体が、海軍地下壕遺跡という戦争を語る重要な物証であり、ここから戦争の現場につながっていることも、この研究を地に足が着いたもの入しているのだろう。この講演会主催者は、その「日吉台地下壕保存の会」であった。
 白井厚さんも会場のおられて、三田キャンパスが空襲で炎上したのだが、今はその跡が全く見えないないので、それを教えることも必要と発言しておられた。

 戦場に消えた人や戦場に送りだした人々の、いくつかのエピソードを聴かせてもらった。個人的な生々しい資料を発掘して、戦争を平地から見る視線には興味深い展開がある。
 例えば、学徒兵の遺稿集『きけわだつみのこえ』に登場する、自由主義者として死ぬと書いた特攻隊員の上原良司のことである。安曇野の上原家に保管されていた膨大な資料を発掘して、あの有名な「所感」をとりまく上原の家族の幸福と悲劇を、庶民史の断面として見せてくれる。

 もうあの時代を自身のこととして語る人たちはほとんどいなくなる中で、このような発掘仕事は困難なことであるらしいが、それでも意外に多くの人や物が貴重な資料として登場してくる。
 戸倉さんは、実名と実物に語らせることに大きな意義があるとしている。
戦争の呼称や期間が人によって論争になる

 情報収集の範囲は、慶應大学関係に限るとしておられるらしいが、他の大学でもやっているだろうか、あるならそれと連携することで新展開があるだろうか。
 戦争の研究となれば、右や左の喧しい人々が妙な口を出すのではないかと、ちょっと心配になるが、戸倉さんは心得ておられるようだ。
 終わりのない研究になるようだが、ネット公開するとのことなので、楽しみである。

 そういえば昨年、わたしの家族の戦争史とでもいうべき「父の十五年」をお読みになった、海外神社研究者からお問い合わせをいただいた。わたしも興味を持ってその公開研究会傍聴に行ったが、これもまた別の意味での戦争研究の新地平かもしれない。
 以前に戸倉さんの著述を読んで、『戦争に翻弄された大学とモダン建築ー谷口吉郎設計の慶應日吉寄宿舎』の一文を書いていたので、本日、それをプリントした冊子を渡して、お礼を言って辞した。

 外に出て、1970年代に住んでいた南日吉団地のあたりを久しぶりに歩いてきた。団地は建替えられて風景が変り、まわりの田園風景は密集する住宅地に変っている。
 なにしろ今では地下鉄の駅ができているのだから、変るのも当たり前だ。
それでも丘陵の裾あたりは、かつて子どもを連れて散歩した田畑と山林の入りまじる風景があり、いまちょうど満開の桜と菜の花が美しい。花だらけで食傷する名所の桜よりも、このような自然の樹木の取り合わせの素朴な風景が目に染みる。

2016/12/19

1240【父の十五年戦争】戦中の海外日本植民地にあった神社を研究すると意外に深く苦い歴史が露呈してくる

 わたしの生家は備中の高梁盆地にある神社である。父が宮司をしていた。わたしが後を継がなかったからか今は宮司不在だが、神社は今もある。
高梁盆地にある御前神社 写真:川上正夫 2015年

 父は1931年から日本の15年戦争中に3回も兵役につき、3回とも無傷で戻ってきた。最後に帰還した日は1945年8月31日であった。
 2度目の中国北部では通信兵の本務の傍ら、本職を生かして所属する軍隊での諸神事を司った。兵役に出る前に軍から指示があり、あらかじめ装束を持参して入営したそうだ。
中国の敦河で日本が作った神社(父のアルバムより)
流造らしい本殿が見える

中国の保定で日本が作った神社(父のアルバムより)
既存の廟建築に和風の向拜を付加したように見える

●戦争と神社

 わたしは父の遺品のなかに、彼の兵役中の記録を見つけた。それを『父の15年戦争』という戦中の家族の記録として本にまとめ、兄弟や親せきに配布し、全文を「まちもり通信」サイトに掲載している。
 この中の中国戦線での軍隊神事関係の記録を読んだお方二人から、去年と今年に問合せのメールをいただいた。どちらも戦場や植民地での神社や神道についての研究者である。

 そのような研究が今では行われているのかと初めて知り、若干の感慨をもってその方たちに父が遺したメモや写真のコピーを提供した。
 これまでにもわたしのサイトを見て、論文を書く学生や院生から都市や建築のわたしの仕事や歴史的研究についての問い合わせはあったが、異分野の研究者からとは珍しい。
 その研究者のひとり、中山郁さんはわたしの父の軍隊での祭祀行動を知りたいとのことだった。陸軍における戦場慰霊と「英霊」観』を書かれ、そこに父のことも一部引用してある。それを掲載した論文集『昭和前期の神道と社会』(2016年、坂本是丸編、弘文堂)をいただいた。
 
 またもうひとりの研究者の中島三千男さんは、日本の植民地にあった神社が、今はその跡地がどのようになっているか研究中とて、父の記録の中に出てくる中国での神社について知りたいとのことであった。
 中島さんから著書『海外神社の跡地の景観変容』(2013年、お茶の水書房)といくつかの論文集をいただいた。
 それらを読んで「海外神社」なるものにがぜん興味がわいて、中に紹介されている参考文献の『海外神社史上巻』(小笠原省三)、『植民地神社と帝国日本』(2005年、青井哲人、吉川弘文館)など何冊か読んだ。

海外神社とは、要するに外国において形成した日本人コロニーに、日本人がつくった神社のことである。
 とはいっても海外日本人コロニーは、現存するブラジルの日本人社会もあれば、現存しないがいまだに戦争後遺症をひく朝鮮半島や中国東北部の植民地もあり、その研究は意外に複雑多様なものらしい。
 沖縄もそれに含めるとさらに複雑になり、まことに興味深いものがある。

 かつての日本植民地における神社については、戦争と神道、植民地支配と神道、植民地都市計画の神社立地など、なかなか刺激的なテーマである。
 植民地と言っても、台湾、朝鮮、樺太、満州あるいは南洋諸島があり、そこでの神社のあり方も多様であるが、いずれにしても日本の敗戦でほとんど消え去ったということが、その意味をいちばん物語っている。
 特に朝鮮では日鮮一体化・皇民化政策に神社が使われたので、日本人コミュニティのシンボルの神社跡地は、憎しみのメタファーの危険性をさえはらんでいる。
 海外神社とはかなり特殊な時空に起きた現象かと思ったら、実は深刻な歴史をえぐりだす普遍の種らしい。

●海外神社研究
 
 中嶋三千男さんから案内状をいただき、神奈川大学での「海外神社研究会」なる会合にヤジウマ一般参加してきた(2016年12月17日、神奈川大学)。なかなかに刺激的な報告が続いて、実に興味深く聞いたのであった。
 太平洋戦争で日本軍が占領して悲惨な戦場となったフィリピンで、消え去った神社を探索した調査報告(稲宮康人氏)では、マニラ、ダバオ、バギオで4つの神社跡地を確認したが、今回はとにかく場所の確認作業だったようだ。
 面白かったのは、どこの神社跡地でも一部に土を掘り返した跡があり、聞けばそれは伝説の山下将軍財宝探しの山師たちの仕業で、今でも日本関係跡地を探しまわっているらしい。

 旧満州開拓団神社跡地の調査報告(津田良樹氏)は、加藤完治たちが送りこんだ数多くの満州開拓団コロニーは消え去っても、その共同体のシンボルとして開拓民たちが自ら作った神社の跡地について探索している。
 それはまるで時間をさかのぼるタイムマシーン秘境探検隊であり、いくつも特定に成功した努力に敬服する。
 だが津田さんは「今も重い気持ちが抜け去らない」という。ソ満国境に近くの入植地では敗戦時戦乱による開拓団民多数遭難死の悲劇があり、その一方で土地侵略者開拓団への中国側の今も続く憎悪があり、それに向きあわざるを得ない現地調査には辛いものがあったようだ。
 満州・朝鮮という日本植民地の神社跡地探索が小さな傷痕かとおもえば、実は後遺症を大きくえぐりだすかもしれないという、歴史の重さが研究者にのしかかっている。

 「植民地期満州における日本の宗教」と題するフランス人研究者(エドワール・レリソン氏)の発表も面白かった。
 宗教的人物からキメラ満州という特殊にして特定の時空を追うとして、明治天皇、松山珵三、水野久直、乃木希典、加藤完治、溥儀、新田石太郎、出口王仁三郎をとりあげて、ドクター論文を執筆中だそうである。この顔ぶれを論文にまとめるとは、すごいとしか言いようがない。
 わたしたち日本人は、満州に対しては日本特有の目(それをどういうか難しいが)を持っているような気がするのだが、それをひきずらない外国人には新鮮な何かがありそうだ。どう展開するのか興味がある。

 琉球・沖縄の神社に関する報告(後多田 敦氏)の報告も、実に興味深いものがあった。聞いてみると本土から進出した日本の神社は、沖縄ではまことにマイナーな位置であるようだ。
 琉球王国に於いて確立していた祭祀制度に対して、薩摩侵略、琉球処分、アメリカ占領というそれぞれの大政治的変革がどう影響を及ぼし、あるいは及ぼしえなかったか、社会史として面白い。

 沖縄では戦前戦中とも、日本国政府が台湾や朝鮮でしたようには、神道を押し付けえなかったそうだ。
 琉球時代からの聞得大君を頂点とするノロたちがよる女性祭祀システム地域にしっかりと根を張っており、彼女たちが拠るウタキの神社化を画策しても成功しなかったらしい。
 琉球王国を舞台の小説「テンペスト」(池上栄一)を、学問的方向からあらためて思い出した。沖縄と神道の関係は、近代日本植民地でのそれとは明らかに異なるフェーズであり、これも興味ある研究テーマのようである。

 私事である「父の十五年戦争」は、戦争という大きな公事に取り込まれた私事であるとは思っていたが、この様な回路の端っこに組み込まれているとは思わなかった。
 海外神社研究が、これからどう展開するのか楽しみである。わたしの関心は、朝鮮と沖縄のそれである。

●参照外部サイト:海外神社(跡地)データベース 
http://www.himoji.jp/database/db04/index.html

●参照まちもり通信サイト:父の十五年戦争
https://matchmori.blogspot.com/p/15senso-0.html

2016/08/22

1209【敗戦忌】父は三度の戦地から三度とも生還したが兵器となった釣鐘は戻らないまま

わたしの生家の御前神社にある釣鐘のない鐘楼  2015年
 鐘楼の鐘も戻らぬ敗戦忌   (いすみ市)菊地正男

 今朝の朝日俳壇入選句に、わたしの目がとまった。
そうだ、わたしの生家の神社の鐘楼がまさにそうだった。

 もう敗戦忌から一週間も経ったか、今年は靖国神社に野次馬見物にも出かけない夏だったので、いつも書くのに忘れていたが、やっぱりあの日のことなど書いておこう。
 
 わたしの生家は、城下町の高梁盆地をとり囲む丘陵の中腹にある神社であった。
 長い石段の参道脇に、木造で3階建てほどの髙さの塔状の鐘楼があり、時の鐘が吊るされていた。
 その鐘は、17世紀半ばに鋳造されてそこに釣られて以来、神社代々の宮司が毎日定時に撞いて街の人々に時を知らせる「時の鐘」であった。
 太平戦争が始まる前年の1940年末に、その鐘は兵器となるために政府に供出されて出て行き、そのまま戻らない。 鐘楼だけが、いまだに立ち尽くしている。
1926年の鐘楼の写真(高梁高校創立記念写真集56より)

 その鐘楼の1926年の写真があるから、少なくとも90年以上も前の建物だろう。
 多分、かなり老朽化しているだろうに、今もすっくと立って、その役割を失ってからも、帰らぬわが子を待ち続けるかのように、よくぞ立ち続けているものである。
 今年も「鐘楼の鐘も戻らぬ敗戦忌」であったはずだ。
 
 鐘が出て行った1940年は、その鐘を撞く役割を勤めるべきわたしの父は、日中戦争で中国の北部にいた。戦場でも戦死者の祭祀を司っていたらしい。
 1938年に神社を出て大陸に渡り、戻ってきたのは1941年の5月であった。父の兵役はこの時が2度目であり、最初は満州事変のとき、更に3度目が太平洋戦争のときだった。
1940年元旦、紀元2600年記念で
鐘を2600回撞いた
父が不在の時には、母が鐘楼に登っていた。母は3歳幼児を連れて高い鐘楼に登ることはできないから、わたしをひとり家に残して出て行ったが、夜の留守番役は怖かった記憶がある。

 1943年、3度目の召集令状で出て行った父を、母はわたしを連れて駅に見送った。
 そして家に戻るやいなや、いきなり泣き伏した。ひとり畳に伏して号泣する母のそばで、幼いわたしは意外な母の行動におどろき、ただぼう然とするばかり、12月のことだった。
 父は南方に送られるべく姫路城にある兵舎で輸送船舶を待っていた。時々は母と面会に行ったし、時には父が休日に戻ってきたりしたのは、未だ戦火が国内に来ない頃だったのだろう。

 1945年の7月、戦火を避けて集団疎開児童が神社にやってきた。芦屋市精道国民学校初等科6年女生徒20人と職員1名が、社務所の中で暮らすようになった。
 この子たちがいない間の芦屋は、アメリカ軍の空爆で大被災し、なかには孤児になった児童もいたようである。

 そして8月15日の真昼、社務所玄関前に近所の人々と疎開児童たちが集まり、一台のラジオ受信機をとりまいた。
 森の中に降りしきる蝉しぐれとともに聴く、音の悪いラジオ放送が終わると、近所の人々は黙りこくって一列となり、石段を下って鐘のない鐘楼のそばを通り、神社の森からとぼとぼと抜け出て行った。

沈黙の湖になりたる盆の地よ昭和二十年八月真昼 
          (まちもり散人2014年詠)

 疎開児童たちは芦屋に戻って行き、街には戦場から戻る人たちがぼつぼつと増えていった。
 わたしも父が戻ってくるかもしれないと、石段の上から参道を見下ろして毎日毎日待ち受けていた。ある日、鐘楼のそばの石段を登ってくる父を見つけて、飛びついた。
 後に調べると、それは1945年8月31日のことだった。父はその年の初めから、小田原に移っていた。制海権を敵に取られて、姫路で待っていた南方への輸送船はやってこなかったのだ。

 小田原では本土決戦とて、湘南海岸から上陸してくる敵兵を迎え撃つべく、丘陵に穴を掘って戦場陣地の構築をしていたのであった。
 8月15日の小田原空襲ものがれて、無事に戻ってきたきたわたしの父は、3度の戦場を生き抜いた強運の人でああった。
 わたしの身内では、母方の叔父が戻ってこなかった。父と違って運悪く輸送船が間に合ってしまい、フィリピンルソン島マニラの東方山中の戦場に消えた。後に若妻と乳飲み子がのこった。

 戦争が終わって、父は戻ってきたが、鐘は鐘楼に戻ってこなかった。
 むなしい鐘楼を何とかしたいと父は思ったのであろう、1946年の夏、その鐘がまだあるかもしれないと、父と伯父は各息子を連れて、瀬戸内海の直島にさがしに行ったことがある。
 各地からこの島に集めた鐘を、島にあった製錬所で溶融して兵器にしたらしい。樹木がひとつも生えていない丸禿げの島だった。

 集められたまま熔かされないでいた無数の釣鐘の群れが、野天の荒れ地に累々と並んで夏の太陽に照らされていた有様は、子ども心にもなんともシュールな風景であった記憶がある。
 背丈より高い釣鐘の林を歩き回って探したが、生家の神社のそれは見つからなかった。
 その直島の製錬所は、いまは三菱マテリアル直島製錬所となり、工場見学もできるそうだが、戦争と鐘の記憶を伝えているだろうか。

 それからかなりの後に聴いた話で、わたしも父も盆地を離れてからのことだが、その鐘楼にプラスチック製の釣鐘を寄附した人がいた。
 その鐘は、テープレコーダとスピーカにつながっていて、録音の鐘の音が定時に自動的に街に鳴り響いて、時を告げていたそうだ。いまはその鐘もない。
 そういえば、とっくに100年を超える本殿と拝殿は今も健在だが、疎開児童が暮らした社務所は建替えられたし、わたしが育った宮司の住宅も今はもう無い。
 あの鐘楼は100年の命を保つことができるだろうか。

◎関連するわたしのサイトページ『父の十五年戦争
https://matchmori.blogspot.com/p/15senso-0.html

2014/12/08

1034太平洋戦争開始記念の日に思い出す母の号泣と父の十五年戦争

 今日は12月8日、1941年に日本が太平洋戦争に突入した日、もちろん幼児のわたしのその日の記憶はない。平和な田舎町だったから戦災はなかったが、戦後の飢餓の日々が戦禍であった。
 だが、わたしにはひとつだけ、この戦争に関して強烈な記憶がある。

 1943年12月27日、わたしの父は戦いの場に召集された。家族や親戚あるいは神社関係者で、兵役に赴く父が出発する鉄道駅まで見送りに行った。わたしの記憶はその直後のことである。
 家に戻った途端、母が突然に号泣しだした。和服の羽織も脱がずに畳にうつ伏して、顔を両手で覆って声をあげて泣いている。
 幼児のわたしは、そのそばでなすべきこともわからなくて、呆然と座っているばかり。

 父は、その前の兵役、つまり1937年に始まった日中戦争(支那事変)から、1941年の5月に帰還したばかりだったのだ。
 実はその前の戦争である「満州事変」でも、父は兵役に就き中国戦線に行ったのだから、これで3度目の戦争である。この年には3人の子の父となろうとしていた。
 1931年からの15年戦争に、念入りに3度も出かけた人だった。しかもただの一兵卒として。

 その頃は戦局は危ういことは、身の回りに戦死者が多くなったことから一般人もうすうすは分かっていた。
 そんなときにまたもや兵役召集だから、父も母も覚悟が要ったことだろう。それが母の号泣となったにちがいない。
 しばらくして、表に客の声がした。母はさっと立ち上がり、涙をぬぐいつつわたしに言った。
「今、泣いてたことは、言っちゃいけないよ」
 銃後の母は、泣いた悲しんだりしては、非国民なのだ。
 幸いにして父は1945年8月末日に帰宅した。姫路で南方戦線に行きを待っていたが、輸送されるべき船がなくなって免れ、小田原に行って本土決戦に備えていたのだった。
1945年8月の敗戦を、父は足柄平野を見下す台地で
上陸してくる米軍を本土決戦とて迎え撃つ陣地作りの穴掘りをしていたらしい
毎年、戦争の記念日が来ると、このことを思い出す。
 あのことのあとは、ひもじい日々が続いたことが、わたしの記憶の中の戦争の悲惨さであるが、あんなに母を泣かせるようなことは、幸いにしてこの年までなかった平和な日々だった。
 だが、記憶が遠くなった日々、そしてあの時代を知らない人たちがリーダーとなった世の中、なんだか大丈夫かと言いたい気分ではある。
 とにかく、あの母を号泣させるようなことは、2度とゴメンである。

関連ページ  ◆「少年の日の戦争」    父の十五年戦争

2014/01/21

887叔父が他界した太平洋戦争激戦地フィリピンルソン島の渓谷からのメールに今の平和を想う

 フィリピンのpinsanという方からメールがやってきた。知らないお方である。
 わたしのインタネットサイトに掲載したこの記事を読んだとある。
    父の十五年戦争  付・田中参三叔父の戦場

 メール全文を引用する(個人情報をはずした)。

 投稿された父の15年戦争読ませていただきました。私はフィリピンケソン市に住み、毎週土曜日か日曜日には散歩にワワ渓谷に出向いています。
 wawa渓谷近郊には通いなれたせいか住民たちと良い関係です。気軽に声をかけあう存在です。
 貴殿が書かれた文書を参考に、現在のワワ村落と日本軍心魂記の写真を主にして、書かせていただきます。
 いい加減なグロブですが(笑)
https://blogs.yahoo.co.jp/takeshi_pinsan/folder/1590979.html


 
 このpinsanさん紹介のフィリピン渓谷と山々の写真は、わたしの母方の叔父が1945年に戦死した地の今の姿である。あの悲惨な太平洋戦争の激戦地のひとつであった。
 叔父のいた軍隊は、この山中で連合軍とゲリラに追われて、食べ物も武器もなくなって、ジャングルと渓谷を逃げ回りさまよい、敗戦で投降した。

 だが、叔父はその前の5月5日に、小高い山の上で戦いの中で亡くなった。1948年4月15日にそう書いた戦死公報がきたが、何もその死を証拠づけるものはなかった。
 戦いの混乱の中で本当にその日でその場所であったか、確かめようもない。

 pinsanさんのブログに載せられている今の平和な姿に、長い日々が過ぎたことを想うだけである。
 叔父が戦場に行く前に別れたきりになった乳飲み子のひとり娘は、すくすくと育ち、いまは年老いた媼となって、更に老いたその母親、つまり叔父の妻を守りつつ、静かに暮らしている。

 インタネット時代だからこそ、このような海を隔てた地の見知らぬ方からの便りがやってきて、亡き叔父と父の戦争、そして今もどこかでやっている戦争への想いをかき立てられることがあるのだ。
 あのような悲惨な戦いで叔父はなぜ死なねばならなかったのか、そしてまた、巻き込んだフィリピンの膨大な非戦闘員市民たちをなぜ死なせねばならなかったのか、想いは広がる。

 pinsanさん、ありがとうございます。
 これからも、良いご関係を保って、平和にお過ごしください。

これはgoogle earthからわたしが探し出した叔父の戦場だった地
(叔父はの千秋山で死んだと公報が来た)

 わたしは太平洋アジア戦争でのもうひとつの悲惨な戦場物語を採集している。悪名高いインパル作戦に参加して、奇跡的に生還した農民のオーラルヒストリーである。
大橋正平さん戦場を語る(法末集落長老の回想)

2010/10/30

343【父の十五年戦争】続・父の遺品の蛇腹写真機の製作出自が判明した

 昨年4月にこのブログに「118父の遺品の蛇腹写真機」を掲載した。
 それをご覧になった方からメールをいただいた。承諾を得てその一部を引用する。

ご尊父の遺品のカメラですが、戦前に私の祖父が経営していた山本写真機製作所の製品の錦華ハンドカメラに間違いないと思います。1933年ごろの製品です。神田小川町に所在し、近くの錦華公園に因んでKINKAと名付けたようです。山本」(抜粋)

 おお、そうであったか。「日本製だろうか」と書いたけど、れっきとした国産であったか。身元がわかって嬉しい。
 さっそくウェブサイト検索したらCamerapediaというサイトがあり、そこにKinka plate foldersなるページがある。はじめのほうにこう書いてある。

The Kinka (錦華カメラ) 6.5×9cm plate folders were made in the early 1930s by Yamamoto Shashinki Kosakusho. One source says that they were released in 1931. The company later made a number of other cameras under the Kinka brand: see Kinka Lucky, Kinka Roll and Semi Kinka.」

 これによると錦華カメラは、1930年代に山本写真機工作所が製造販売したらしい。
そこにカメラ雑誌の「アサヒカメラ」1932年6月号に載っている広告の画像があるので引用した。
 このFAMOSEを辞書を引いても分からないが、FAMOUSの書き間違いだろうか。
 父がカメラを買ったのは、多分、初めての子が生まれた1935年だろうから、山本さんのメールにある1933年ごろの製品とすると年代的には合う。

 ここに載っているカメラと父のカメラとは、形はソックリだけど、部品はちょっと違うようだ。
 父のカメラのレンズは、Munchenとあるからドイツ製らしいが、シャッターはELKA T.B.C.T.とあって、Camerapediaで調べると製造所はよく分からないが日本製とある。

 値段もわからないが、広告にあるものと大差ないとして30余円だろう。
 物価の差を調べてみると当時の葉書が1銭5厘、今は50円だから3333倍、とすると30円の3333倍は10万円か、高いようにも思うが、今と違ってカメラは珍しい頃だからそのようなものだろう。

 父はどのようにしてこれを買ったのだろうか。昔、高梁の新町に写真機店(店名を忘れた)があったから、あとあと乾板を買う必要もあるからそこで買ったのだろう。
 現像と印画は家でやっていたようだ。薬や印画紙がたくさんあったが、少年のわたしが玩具にして露光させてしまった。
 なんにしてもインターネット時代はすごいものである。普通なら古物写真機マニアにしか分からないことが、こうやって分かるのだから。


2010/08/17

305【父の十五年戦争】戦後60年の靖国神社に野次馬で行ってきた

 戦後65年目の今年の8月15日は暑すぎた。戦後60年目の8月15日に、わざわざ靖国神社に行ったことがあった。
 そのときの感想をまちもり通信に書いたのだが、どこに分類したか分からなくなったので、ここに再掲しておく。
 以下2005年の8月15日の記。
    ◆
 今年は8月15日、野次馬で東京九段の靖国神社に行ってみました。
 このところ総理大臣が参拝して近隣諸国が怒りアレコレあって、有名になりました。
 戦後60年目の節目の年(科学的な根拠はないでしょうが)とかで、どんなことが起きてるのかなあと興味津々、
 でも、実はたいしたことはありませんでした。
 起きてるだろうなあと思ったことが起きていたのは、終戦60年国民大会なる例の単純論調の絶叫が続く集まり、そしてこれも戦争懐古賛美らしき本やら映像やらの販売、無宗教の慰霊施設設置反対署名運動、みんなで参れば怖くない国会議員の集団参拝、日の丸を振る軍服の一団など。

 これらは当然やってるだろうと予想しましたが、ちょっと気になったことは、野次馬らしくない若者たちの姿が多いことでした。
 大勢の若者カップルが賽銭箱の前で手を合わせていて、もしかしたら初詣と間違えているんじゃないかしら、間違えているのならともかく、どこか不気味な感もありました。

 死者を貶めたくない遺された生者の心理と戦争暴力とがないまぜになると、このような社会現象がおきるのかなあと思うのでした。
いずれにしても戦死者を讃えると戦争駆動装置にならざるを得ません。いや、駆動装置だからこそ讃えるのか。
 南海に没した叔父もここに合祀されているのでしょうか。
 それにどんな意味があるのか理解できません。(050824)

   ◆

 上に「南海に没した」と書いた叔父は、フィリピンのマニラ東方山地で1945年5月に戦死したと、1948年になって戦死の公報が、名前を書いた白木の位牌のみ入った骨壷と共に届いた。
 そして遺族が、そのほぼ全滅となった悲惨な叔父の戦場を知ったのは、なんと1987年、死後42年も経ってからであった。
 わずかな生き残りの中の部隊長が、ようやく重い口を開いて手記を送ってきたからであった。そこにはジャングルを「転進」し続けながら、劣勢の中で戦ったことばかり書いてある。フィリピン戦線の悲惨さは悪名高いから、奇妙に思った。

 そこで傍証となる戦記を探したら、同じ戦場で兵站病院の衛生兵であった人の手記が出版されているのを見つけた。その中の一部に叔父の部隊の敗残兵たちの、あまりに無残な様子が書いてある。そこに叔父がいたかどうか知りようがないが、遺族が読むのは苦しい。
 これは父の十五年戦争執筆の、あまりに重すぎる副産物であった。

2010/04/10

258【父の十五年戦争】小田原に花見に行ってきたが実はそこは父の戦場だった

 昨日もまた花見に行って来た。小田原城を訪ねると花盛りをすぎて散りかけている。それもまたよし、花の下で生ビールである。
 そしてまた、小田原から酒匂川を遡って足柄平野の北の松田山を訪ねたのだが、ここの河津桜は緑の葉桜になって、枝垂れ桜が見ごろであった。
 だがしかし、だがしかし、そんなものを見に行ったのではなかったのだ。

 今から65年前、1945年の5月から8月まで、この足柄平野は血走った兵士たち大勢がやって来て占拠されたのであった。
 太平洋戦争の末期、大本営はここを本土決戦の戦場としようとしたのであった。湘南海岸に上陸してくるアメリカ軍を迎え撃つのである。

 その軍の兵士の中に、わたしの父も居たのだ。住民たちも動員してあちこちに銃砲の陣地を作って、上陸に備える準備をしていた。父は松田の山中で穴掘りをしていたという。
 だが、アメリカ軍が上陸してくるよりも前に、敗戦となって穴掘りも陣地つくりも中止、兵士たちは引き揚げていった。跡には掘りかけの穴がたくさん残った。住民たちは疲弊した。

 もしもアメリカ軍が上陸してきたら、武器は足りないし兵は老兵の日本軍ができることは、肉弾戦しかなかったのだ。悲惨な沖縄戦の再現であり、確実に父は死んでいただろう。
 その父が1945年の夏に、はるか遠い岡山県の片田舎の三人の幼子と妻を思いつつ眺めたであろう足柄平野の風景、それを65年後のわたしも眺めてきたのだった。

 今のあまりにものどかで平和な風景では、父のそのときの心境を想像することさえできなかった。
 参照→「父の十五年戦争」全文公開

2010/03/13

249【父の十五年戦争】父と叔父の戦場

 十五年戦争中に、父親が3回延べ7年半の兵役についた記録をまとめた。
 満州事変での父の激戦地である中国河北省「界嶺口」、太平洋戦争で叔父が戦死したフィリピンマニラ東方の山地が、いったいどこであるのかインターネットのgoogle earthで探してみた。
 正確な地名が分からないし、山の中の辺境もいいところだから、探し当てるのはかなり苦労したが、あれこれやっているうちに両方とも見つけた。
 1933年、22歳の父が最前線に出て銃弾をかいくぐった「界嶺口」は、河北省北部の万里の長城の関所だったみたいな村であるらしい。
 なるほどよくみると万里の長城が、峰を伝ってえんえんと延びているのがgoogle earth画像に見える。それをどんどん伝っていくときりも無い。まったくもって人間がつくった最大のものといわれることが分かる。
 今の山村風景からは想像できない戦場であったのだ。
    ◆◆
 1945年、31歳の叔父の終焉の地は、「千秋山」と生き残った部隊長の戦記には書かれているのだが、これは日本軍が勝手につけた名だから検索しようがない。
 モンタルバン、ワワダム、マリキナという地名が出てくるので、これでまず検索したら日本からの観光旅行の記事が出てきた。
 戦場であったことを知らないでいた人もいれば、慰霊に訪問した遺族の記事もある。ただし、そのままではgoole earth検索のキイワードにならないので、適当にローマ字を当てて何度も検索をくり返し、地形をたどっていたら遂にあたった。
 ここはダムがあって、今はマニラ郊外の観光地だそうだ。
 現地に行かなくてもこんなことが分かるのだ。goole earthはほんとにすごい。こんなことができる時代にわが人生が間に合ってよかった。
 そうそう、グーグルストリートで、わたしの生家の神社が出てきたのには驚いた。

父の15年戦争

2010/02/19

241【父の十五年戦争】1945年の血なまぐさいオリンピック

 バンクーバーでオリンピックをやっているらしい。日本選手が勝たないことを願っている。
 だって、勝ったら新聞の読むところがぐ~んと減ってしまうんだもの、新聞代を負けろ!。

 ところで2008年8月にもオリンピックをどこかでやっていた。そのとき、このブログで「オリンピック作戦 operation olympic」なるコラムを書いた。
 1945年はじめ、日本はアジア太平洋戦争の敗北が続いて末期的症状にあり、4月には沖縄本島にアメリカ軍が上陸して、次は本土に上陸して戦闘になることを避けられないとして、本土決戦の準備に入る。

 一方アメリカ軍は、「ダウンフォール作戦」と名づけた日本本土上陸作戦を立案していた。
 それは二つの作戦からなり、九州上陸が「オリンピック作戦」で、関東上陸が「コロネット作戦」であった。
 実際は原爆によって、この作戦計画実行よりも早く日本が降伏したので、作戦は日の目を見なかった。

 時は移り2008年10月、わたしの母親が死んで、遺品から父親の戦争日誌が出てきて、それを解読していたら、父は「コロネット作戦」と危ない関係にあったことがわかったのだ。
 このブログに2008年8月「オリンピック作戦 operation olympic」を書いた時は、そのことをまだ知らなかった。
   ◆◆
 1945年1月、大本営は現実味を帯びてきたアメリカ軍の本土上陸に備える、最後の決戦に臨むことにした。4月には沖縄本島にアメリカ軍は上陸した。
 わたし父は、1944年はじめから姫路にある第84師団にいて、南方戦線のラバウル島に行く船を待機して通信隊の教育に携わっていた。
 しかし戦況は不利になるばかりで、制海権制空権は徐々にアメリカ軍に奪われてゆき、輸送船の調達も郵送そのものも難しくなる。

 では台湾へとか沖縄へとか朝令暮改するうちに、幸なことに父の師団は国内にとどまり、神奈川県松田町に移駐することになる。
 この松田町が「コロネット作戦」の中心地にあったのである。関東上陸作戦の中心地が相模湾沿岸であり、松田町は上陸後に東京に侵攻するルート上にある。

 わたしが鎌倉に住んでいた頃、海岸部の崖にたくさんの穴があり、それは戦争末期に掘ったもので、そこに砲をすえつけて連合軍上陸に備えていたのだと聞いてはいた。
 それがわたしの父親にも関連しているとは、思いもつかなかった。
   ◆◆
 1945年1月、大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」で本土決戦の方針を出し、軍組織を改め、大動員をかけた。しかし、これには訓練を受けていない兵や老年兵が多く含まれ、武器もそろわず、かなり無理な計画であった。
 3月には大本営は「国土築城実施要綱」で各地に陣地を造って戦場とする準備を命令、3月には「国民義勇隊」の結成を閣議決定し、これは国民全体を本土決戦の要員としようとするものであった。

 4月に「決号作戦準備要綱」を大本営は発表して本土決戦部隊を日本各地に派遣、上陸が予想される関東や九州の海岸で重点的に、アメリカ軍上陸を迎え撃つ陣地構築が始まった。
 そして第53軍(司令官赤柴八重蔵)が本土決戦作戦の神奈川担当となり、第84師団はその編成下に入り、5月に相模湾上陸の敵に備えるために小田原に配備されて司令部を置いた。7月には松田町に司令部は移動した。

 この部隊は相模川以西の沿岸地域の担当で、海岸と後背地に陣地を構築して、ノルマンジーのように上陸してくるかもしれない連合軍と刺し違えて、止めようもない侵攻を遅延させる作戦であった。
   ◆◆
 第84師団に属する父の岡山201聯隊は、5月から移動して当初は沼津で陣地の構築作業をおこない、6月には松田町の松田国民学校に駐留した。
 町民や中学生も動員して陣地構築など行なった。松田山に穴を掘って司令部を移転する陣地の構築を進めた。あちこちに穴を掘って上陸軍を撃つ陣地構築も進めた。
 海岸では砂浜に兵士1人づつが入る穴をたくさん掘って、上陸してくるアメリカ軍の戦車の下に爆弾を抱えて飛び込む自爆作戦であった。

 おそらく父もそれらのどこかで穴掘りをやっていたらしく、「松田の山中で穴掘り中に終戦」と手記に書いている。
 このころは通信隊であろうが工兵隊であろうが隊の任務に関わらず、あらゆる仕事に携わっていたようである。
 部隊の食糧は自給自足であったので、田畑を作っており、これに住民たちもかりだされた。
   ◆◆
 コロネット作戦は、千葉県の九十九里浜と神奈川県の相模湾湘南海岸に上陸して、双方から東京に侵攻するもので、太平洋方面のアメリカ軍の総力を結集して、日本に対するとどめの攻撃となるはずであった。
 重点は相模湾側にあり、ここから北に攻め上って東京へと進むのであるから、小田原平野の北端部にある松田町はその進路のひとつにあたることになる。

 もしも本当にここで本土決戦の戦いがあったら、質量共に豊富なアメリカ軍に竹やり肉弾戦法の日本軍が勝てたはずはないから、わたしの父もここで果てたにちがいない。
 実際には、1945年6月に原子爆弾の開発が成功したことにより、コロネット作戦は保留となり、原爆の投下によって必要がなくなったのであった。
 その意味では、原爆が多くのアメリカ軍兵士の命を救ったというアメリカ流の原爆の意義解釈を、父にも適用できるかもしれない。

 それにしてもアメリカ軍上陸作戦地を日本軍がよく知っていたものであるが、諜報活動の結果か、それとも誰が考えてもそうなるのだろうか。
 8月15日敗戦、8月25日には部隊は引き上、父は郷里に8月31日に戻った。
   ◆◆
 ゆるゆると1年ほどかけて資料を調べながら解読した父の戦争の手記を、「父の十五年戦争」として、わたし足の解説をつけて一応のまとめを一段落した。
 1931年から1945年までの十五年戦争の、最初の年から断続して3回の召集を受けて、兵役で7年半を過ごした記録である。
 副産物として、フィリピンで戦死した叔父の戦場、悪名高いインパール作戦の生き残りの中越山村の長老の戦場のことも知ることができた。

 おかげであの戦争をはじめから最後まで、父が行かなかった南方戦線までも追うことができた。上の文は、その最後の兵役時代の要約を載せたのである。
 父の十五年戦争記録は弟たち息子たちには見せるが、ほかにどうするわけでもない。わたしの人生の宿題のひとつが、ボケないうちにできたと言うことである。次は残りの宿題にかかろう。

◎参照→父の十五年戦争

参考文献
・「相模湾上陸作戦―第2次大戦終結への道」大西比呂志ほか 有隣新書 1995
・「小田原地方の本土決戦」香川芳文 小田原ライブラリー 2008
・「茅ヶ崎市史 現代2 茅ヶ崎のアメリカ軍」茅ヶ崎市 1995
・「松田百年」松田町 2009
・「戦史叢書 本土決戦準備(1)関東の防衛」防衛庁防衛研究所 朝雲新聞社

2009/08/11

164【父の15年戦争】石原莞爾の「世界最終戦論」を古本屋で見つけて買ったら

 野毛坂の古本屋で変な本を見つけて、つい、買った。
 石原莞爾著「世界最終戦論」(第一改定版1940立命館出版部発行)である。
 父の十五年戦争を追っていて、満州国に興味が深まった。満州というキメラには前から興味はあったのだが、そこに身内が命を懸けたとわかると、それなりに興味の湧き方も深まるものだ。

 徘徊老人のいつものコースの横浜ご近所古本屋探検は、ちかごろは105円棚の充実する伊勢佐木町ブックオフで思いがけない掘り出し物に凝っているのだ。
 特にこのところの十五年戦争関係資料の掘り出し物は、「日中戦争」児島襄の第1巻と2巻であったが、この類はブックオフにはめったに出ない。

 やはりブックオフでは奥が浅いので、古典古本屋にも回帰しつつあり、今回の石原莞爾である。
 ときには古典的な紙魚の香りがする古本屋さんにもいかないと、禁断症状が出る、ということもある。
 満州のことについてなにを読んでも教祖様の如く石原莞爾が出てくるし、とくにその「世界最終戦論」は、彼の満蒙植民地化論のバイブルみたいに書いてある。その後の世界の構造を予言したとも書かれている。

 気になっていたが特に探す気もなかったのに、偶然にその論の本に出会ったのだ。四六判、100ページ足らずで定価40銭、古本価格は1000円であった。
 1940年9月10日初版5000部発行、すぐに20日には増刷5000部、更に重ねて買った改訂版まで合計3万1千部発行である。
 大ベストセラーである。時代の空気をどう読むべきなのだろうか。

 たまにこのような戦前戦中の古い本を買うことはあるが、これまではほとんど建築か都市系の本であった。
 いよいよ老人趣味になってきたか、、、もっとも、初版本や稀覯本をあさるような古書趣味は全くない。

追記:その後、青空文庫に「世界最終戦論・戦争史大観」という石原の著書があるのを見つけた。買わなくてもよかったのだ。インタネット時代はすごい。

2009/07/28

159【父の十五年戦争】戦場はかくも悲惨だったのか

 父の遺品の中にあった、1931年から45年までの兵役時代の手記や記録類を解読して、「父の十五年戦争」としてまとめる作業をしている。
 そのために5月ごろから、満州事変から日中戦争のいろいろな戦史・戦記を読んでいる。

 関連して母方の叔父が戦死したと聞いていたので、その娘の従姉妹にどこで、いつなのかと聞いたところ、1945年フィリピンのマニラ近郊であった。
 なんとその戦場がわかったのは戦後も40年経ってから、部隊長だった人からの手紙であったそうだ。遺族としては、どう受け取ったのだろうか。
 この叔父は1944年7月、わたしの父は1943年12月、共に戦局のきわまりつつある時に充員召集され、叔父は南方戦線に送られ、父は輸送船が無くて内国勤務と、運命を分けている。

 わたしが棚田の米作りに行っている中越の山村の法末に、90歳の元気な長老がいる。
 この人も戦争体験者だとて、先日の夕方、ひとり暮らしの自宅に夕飯持参で訪ねて、話を聞いた。こちらは中国の宜昌作戦と、ビルマのインパール作戦に参加したのであった。

 叔父のマニラの戦いと、法末長老のインパールの戦いは、ともにアジア太平洋戦争のなかでも特別に悪名高い負け戦であった。それらの関連資料など読むと、あまりにも悲惨きわまる非人間的な戦場であり、それらが元はといえば作戦計画のずさんさからきているのが、まったくやりきれない。
 これまで興味が無かったが、こうして初めて戦記や戦史あるいは戦争文学を読んでみて、人間そのものへの不信感と嫌悪感がわきでてくるのをどうしようもない。人間同士で文字通り相食むのだもの、、、。
   →131戦争情報を下さい

追記:ここに書いた叔父と長老の二人の戦争に関する記録を、下記に載せた。
父の十五年戦争(附:田中参三叔父の戦場)
村の長老・大橋正平さんが語ったビルマの戦場

2009/05/20

131【父の十五年戦争】父が兵役に就いた3つの戦争の記録をつくっているので戦争情報を下さい

 父の戦争日誌解読のために、資料を漁っている。
 これまで専門(都市、地域計画)や趣味(建築史、能楽)などについては、長い間に集めた書籍資料が書棚にあるが、戦争に関してはほとんどそれらしいものはなかった。
 この3ヶ月、いちから資料をあさることをやっていて、あらためてインターネットはすごい、これにわが人生が間に合ってよかったと、つくづく思っている。情報集めの能率は、昔と雲泥の差である。
 戦争資料はもちろん山ほどあることが分かるが、問題はそこから父に関連するものを拾い出すことである。これもインターネットの検索機能に改めて感心している。 しかし、ピンポイント情報は見つからない。

   
 父の兵役については、父の書いた履歴書と兵役の日誌である程度は分かるのだが、所属隊などを正確に知るには、軍人だったものひとりひとりの「軍歴」が公的に管理されていると、これもインターネットで知った。
 市役所に行って聞くと、陸軍は除隊時に本籍のあった都道府県に、海軍は国にあるという。
 さっそく父の軍歴を岡山県庁から取り寄せて、詳しいことが分かったのであった。どうも、軍人恩給支給の元になっているらしい。
 父の自筆記録とその軍歴とでわかったことを簡単に記す。

●父・伊達真直の兵役
・1931・現役兵として岡山歩兵第10連隊第2中隊
・1932・留守隊第11中隊
・1933・満州派遣軍第10連隊第11中隊通信班、中国・熱河作戦の界嶺口戦闘、除隊、帰郷
・1938・充員召集、歩兵第10連隊補充隊、北支第7師団通信隊、中国へ、天津・保定・石家荘・順徳付近で戦闘と通信任務
・1939-40・保定、石家荘に駐留
・1941・召集解除、帰郷
・1943・臨時召集、姫路第54師団通信補充隊
・1944・第84師団通信隊、内国戦務
・1945・帝都防衛隊、神奈川県松田で終戦、召集解除、帰郷
 結局、姫路から南方戦線に送られるはずが輸送船が次々と沈没して不可能となり、敵兵上陸対策に関東に出かけていて終戦、8月31日に帰郷した。3度の兵役を生きて戻れたのは、通信兵という立場もあっただろうが、幸運だった。 わたしの近親では母方の叔父が、若妻と娘一人を残して南方戦線で没している。
   
 さて、資料であるが、これまで読んだもの、読みつつあるもの、これから読みたいものなど、自分の覚えのためにここに記しておく。

●関連WEBサイトで気になるもの
・ウィキペディアの各サイトはもちろんすごく役に立つhttp://www.wikipedia.org/・戦争を語り継ごうリンク集http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/
・はい 青木です! (岡山歩兵第110連隊)http://ww32.tiki.ne.jp/~yamikato1952/index.html
・サーチナ > 中国地図 http://searchina.ne.jp/map/
・日本軍の基礎知識http://www1.odn.ne.jp/tobu7757/J_wsd/weekly/file00.htm
・新編・新編・父の青春(4)熱河作戦の中で http://www2r.biglobe.ne.jp/~kosanhp/myway/newfather004.htm
・近現代日本の写真・画像(本編)http://www5b.biglobe.ne.jp/~leaper/kingenphotoikkatu.htm
・支那事変http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/sinojapanese%20war.html
・歩兵第10連隊http://www.geocities.jp/bane2161/hohei10rentai.html
・「岡山郷土部隊」と「三光作戦」http://park17.wakwak.com/~ueba/sankousakusen.1.html

●日中戦争関係書籍
・兵隊たちの陸軍史:新潮文庫:伊藤桂一:新潮社:2008
・満州事変から日中戦争へ:岩波新書:加藤陽子:岩波書店:2007
・昭和史1926-1945:半藤一利:平凡社:2007
・日中戦争(計3巻):児島襄:文藝春秋:1984
・熱河討伐及熱河事情:世界知識増刊:新光社編:新光社:1933
・近代日本戦争史第3編満州事変・支那事変:同台経済懇話会:1995
・戦史叢書・北支の治安戦:防衛庁防衛研修所戦史室:朝雲新聞社
・アジア・太平洋戦争史:山中恒:岩波書店:2005
・皇軍兵士の日常生活:講談社現代新書:一ノ瀬俊也:2009
・昭和の遺書・十五年戦争・兵士が語った戦争の真実:仙田実・仙田典子:文芸社:2008
岡山県郷土部隊史:岡山県:1966
岡山歩兵第百十聯隊史:岡山歩兵第百十聯隊史編纂委員会編:1991年
歩兵第十聯隊史:歩兵第十聯隊史刊行会編:1974
歴史不会忘記:保定市政協文史資料委員会編:1995

 図書館はもちろんだが、重要な戦争資料のありかとして、防衛省防衛研究所 史料閲覧室がある。厖大な戦争資料があるようで、一度たずねたが、開架は少なく、書庫内資料の何を見ればよいのか検索方向がまだよく分からない。

 こう書いておくと、地球上のどなたかが役に立つ資料を教えてくださるかもしれないと期待できるのが、インターネットのすごいところである。

2009/05/18

129【父の十五年戦争】戦場は実は人糞の臭いに満ち満ちているらしい

 父の戦争日誌を解読するべく、日中戦争を勉強している。
 児島襄『日中戦争vol.3』に、1937年12月の例の南京大虐殺に至る南京城攻略戦に、「糞攻め」なる話(180ページ)があり、興味を持ったので引用する。

『日本軍が難儀したのは、以上の事情のほかに、もうひとつ、いわゆる“糞攻め”なる環境があった。
 第六師団と第百十四師団が攻める雨花台は、中国軍第五十一、第五十八、第八十八師が守備するが、約四万人をこえる中国兵の排泄作用のおかげで、その陣内、陣外は糞便におおわれている。
 敵弾をさけて伏せれば鼻先に「糞の山」、鉄条網めがけてほふくしようとすれば、それは“糞海”を泳ぎわたるにひとしい。
 しかし、といって、立って歩けば間違いなく敵弾にみまわれる。
「ええ、没法子(メーファーズ)」
 やむを得ぬ、と、ほふくをつづければ鉄帽から靴の先まで“糞まみれ”になる。(以下略)』

 これは、ある兵隊の述懐をもとに書いてあるのだが、日本兵も中国兵もそれは同じであったろう。
 別のところには、屍の腐臭と糞尿臭とが入り混じった猛烈な臭いが戦場にたちこめて舞い上がり、補給物資投下に来る飛行機の操縦士たちも嗅いだことを書いている。
 通信兵だった父の1933年の日誌に、争奪戦闘中の最前線の長城に通信電線を附設する記述があるから、あるいは糞まみれ経験があったかもしれないが、それは日誌に書いてない。
 これまで気がつかなかったが、考えると大昔から戦場は糞だらけであったはずだ。だから伝染病も蔓延しただろう。
 いま思い出したむかしむかし読んだ糞攻め話、楠正成の守る千早城に攻め登りくる敵兵に、糞尿を煮え立たたせて上から浴びせて防いだ、、、さぞや臭くて熱くて、、、ウ~ップ、。