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2024/08/16

1832【敗戦記念日定点観測】靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑に戦争残滓と予兆を探る徘徊

 8月半ばになっても暑い日が続く。それでも思い立って、昨日(2024年8月15日)のこと、東京九段の靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑を徘徊して来た。そう、参拝ではなくて徘徊である。

 5年前までは毎年のこの日、つまり太平洋戦争敗戦放送記念日に訪ねていたのが、この数年はコロナパンデミック老々介護に襲われて遠出することができず、2020年を最後に途切れていた。今年の夏はコロナも遠ざかったようだし、2年余の老々介護が終了したので、ようやく復活した。

 なぜそこを毎年8月15日訪れていたかといえば、そこに祀られる戦死者への参拝では決してないのだ。その日にこの二つの場に出現するあの戦争の残影を眺め、さらに次の戦争の予兆を探り観るためである。いわば社会見学的な野次馬見物である。
 4年ぶりの九段徘徊だったが、靖国神社には大勢の人出であり、それに比べて戦没者墓苑は静かなものであった。

九段坂上へ

 九段坂下の地下鉄駅から靖国神社に一番近い出口を地上に出ると、いきなりにぎやかな客引きの群れというか、ビラ配りというか、各種の政治的アピール集団が歩道の両側に並び、まことにかまびすしいのは例年通りだ。
 さまざまなその集団は、日本の右寄りの人たちばかりではなくて、台湾やチャイナからの政治的な訴えもあるようだ。ウィグル族の訴えがあったのは、これまでで初めてだ。





 それらの勧誘をかわしつつ抜けて、靖国神社境内の外苑に入り大鳥居をくぐると、一転して静かになる。10年ほども前まではこの境内の中にいろいろな訴えの集団がいて煩かったものだが、今は排除されてしまったので参道は広々としている。

 4年前まではこの広場にテントをはって、何か記念集会らしもの催されて、演説のようなものが聞こえていたものだが、それもなくなっていた。もっとも、その集会がなくなったのではなく、野外ではあまりに暑いのでどこか室内のホールにでも場所を移したのかもしれない。


 それでも毎年おなじみの軍服コスプレのおじさんたちが数人いて、日の丸や日章旗を掲げたりしているが、いっときと比べて勢いがない。

軍服コスプレおじさんたち

 十数人の集団らしきの男女たちが、何かの記念碑を囲んで国歌や軍歌の合唱をしている。靖国神社らしい音楽だ。
 前にはよく出会った見るからにウヨク集団らしいお兄さんたちに、今回は出会わなかったのは、いなくなったのではなくて、わたしが来るのが遅かったからだろうか。

君が代や軍歌を合唱する人たち

 内苑に入る二の鳥居をくぐると、神門から行列がはみ出している。拝殿まで続く参拝の待ち行列である。この暑い中をじっと立ち尽くしてそろそろと列が進むのに従っている。わたしは参拝者ではないので、その横を通りぬけて神門をくぐる。そして能楽堂を横に見て、遊就館に入る。

神門外に伸びる拝殿からの参拝者行列


拝殿前

遊就館展示

戦記物は戦意高揚の本ばかり

戦争コスプレさせている母と子

 ここまでいつものコースである。今年の様子を一応眺めたので、これでもう引き返すことにした。これまでと比べて、境内全体が少し落ち着いてきた感がある。それでも戦争の残滓の臭気が漂う。

千鳥ヶ淵へ

 南門を出て、千鳥ヶ淵に向かう。堀の沿った桜並木の木陰道は、この暑い日でも気持がよい。歩く人が急に少なくなってしまった。堀の向こうの森の上に、東京駅あたりだろうか、超高層ビルがたくさんに建ち並んで、でこぼこのスカイラインを見せている。しばらく来なかったら、森の上部の風景がずいぶん変わった。

千鳥ヶ淵の桜並木も老いてヨレヨレ

森の上に都心超高層スカイライン出現

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、いつものように靖国神社とは比較にならぬほどの少ない人である。これくらいの人、建物、緑の密度が最も気分がよい。
 六角堂には礼拝する人たちが十数人集まっている。その中で女性が立ち上がって何かしゃべり始めたが、拡声器付きやかましくい。雰囲気が壊れる。つい耳に入ったのはコリアヘイトスピーチであった。そうか、ここにもヘイト集団がやってきたとちょっと驚いた。これも戦争の残滓であろうか。

靖国神社と比べて静かな戦没者霊園にもヘイトスピーチ

 長居は無用と引き返して九段坂を下りつつ見れば、かつての軍人会館、今の九段会館が復元保全修復されて見え、その背後に超高層ビルが建っている。これもいわば戦争の残滓のひとつである。
左に菊竹清訓設計の昭和記念館、中央に旧軍人会館、右に九段会館新高層ビル

 九段坂下の交差点に来れば、おお、やっているよ今年も、ウヨクさんの演説である。通り過ぎようとして耳に入ったのは、ここでもコリアヘイトスピーチであったのは、今はこれが右方面では流行っているのだろうか。

九段交差点のウヨクさん

 日の丸デモ行進が来るかと思ったがが来なかった。しかし、戻ってからYOUTUBEを見ていたら、デモの映像が出てきたから今年もやったらしい。ずいぶん大勢の中年や若い男女が、こういうデモに参加するって、そういう時代が来たのかなあと、これは毎年8月15日に感じる戦争復活の気配である。
九段下の日の丸デモ(youtubeより引用)

 そうやって久しぶりの九段徘徊だった。靖国界隈の戦争の残滓と気配は、5年前と大きな変化はないようだった。戦死者賛美の空気は色濃く漂うのである。
 そこでいつも思うのだが、戦争兵員として殺されたものは、その一方で人を殺した可能性がることを、だれもが忘れていることだ。そしてあの戦争で死んだのは日本人だけではなく、それ以上の人々がアジア各地で死んだことも、これまた忘れていることだ。

 これまでの九段徘徊につてはずいぶん書いてきた。わたしが戦死者を悼まない理由も何度も書いてきた。今年で最後になるかもしれないので、これまでの一連の8月15日の思いをまとめておく。
 〇2005年と2013年・靖国神社815定点観測風景2005、2013
 〇2014年・終戦記念日の靖国神社の喧騒と千鳥ヶ淵戦没者墓苑の静寂
 〇2017年金モール軍服長靴の若者がスマホをいじる靖国の夏
 〇2018年・夏まつり森の社のにぎわいは今日も戦をたたえる見世物
 〇2019年敗戦記念日は東京九段の靖国神社に戦争の残影を見物に
 〇2020年・コロナ禍敗戦記念日の変わらぬ靖国神社風景が怖い
 〇2021年・この前はアメリカに敗れこの度はコロナに破れかぶれ
 〇2022年あの敗戦から77年の歳月に次々と戦争の日々が重なる 
 
2023年・敗戦記念日に戦争準備を叫ぶ政治状況に閉口するばかり

 それにしても、今年もいつものコースを歩きとおすことができたが、5年前には普通に歩いた道のりに苦労するようになり、来年があるかどうかわからない歳になってしまった。
 乗り慣れていた地下鉄の駅駅でうろうろ迷ってしまった始末は、わたしが老いたのではなくて、この間に駅改造や路線進展のためであると思いたい。次は東京駅周辺と渋谷駅周辺の徘徊に出かけなければなるまい。そう、浦島太郎気分で街で迷うのは楽しいものだ。

(2024/08/16記)

このブログ内の関連ページ
戦争の記憶を伝える

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伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
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2023/02/06

1669【チャイナ気球事件】 そのむかし風船爆弾はるばると 今チャイナ発スパイ風船

 USA上空を真ん丸な気球がふわふわと飛んでいく。チャイナが発した何か攻撃兵器ではあるまいかと、さわぎはアメリカ大陸をつぎつぎと移動する。大陸横断しきって海に出たところで、なんと大げさなこと、USA空軍機がミサイルで撃ち落としたのは、昨日のこと。

 チャイナの政府では自分ところから発したものと認めており、民間の気象観察気球が迷い込んだとのこと、うちのものを撃ち落とすとは乱暴な奴と怒っているとか。
 いっぽうのUSA側は、チャイナ軍が送り込んだ軍事偵察気球だと言う。これから落下物を海から引き揚げて調べるらしい。

 このニュースで、わたしがすぐに連想したのは、太平洋戦争末期の日本軍が飛ばした風船爆弾である。日本国内から飛ばして偏西風に載せ、約9300のうちアメリカ大陸に到達したのは約1000、少ないながら被害を与え、広く心理的な恐怖を与えたらしい。今のウクライナ各地に飛んでくるロシアミサイルのようなものか。

そのむかし風船爆弾はるばると 今チャイナ発スパイ風船

 日本軍の風船爆弾が、今回のチャイナ発スパイ風船の元祖である。もしかして、日本のあの技術をチャイナが研究して復活させたか。
 和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作った直径10mほどの巨大紙風船に、爆弾をぶら下げていた「ふ号兵器」は、1944年から45年にかけて飛んだ。今回のスパイ風船は紙ではなかろうが、大きさがバス2台分ほどというから、風船爆弾より少し大きいか。(追記を参照

 風船爆弾については、わたしの大学同期生たちの証言がある。同期生のうち40人ほどでeメイルネットワークを作り、あれこれ情報交換しているが、あるときそれを使って、戦争体験を23人が語り合ったことがある。その中に風船爆弾に関する話題も行き交った。
  参照:昭和二十年それぞれの戦さ(七~八歳児の戦争体験記憶簿)

 この同期生たちが戦争終結を迎えた1945年の夏は、年齢にして8±2歳あたりであり、迎えた場所は日本列島内だけでなくて、台湾や朝鮮そして満州であった。
 興味深いので概略を紹介する。日本軍の風船爆弾のために人生を(悪い方向と良い方向に)変えた人たちが、日本にもいたのである。

  • A君の場合(場所は高崎市内)
     高崎は焼夷弾にやられて散々だったが、それは高崎では「風船爆弾」を作っていたために攻撃されたと言われた。父親が高崎の女学校長をしていて、校舎を改装して外壁を真っ黒に塗り、校舎内で女学校生達に風船爆弾作りをさせていたとて、親父は新聞紙上で徹底的に叩かれて、もはや高崎にすみたくないと郷里に戻ってしまった。

  • B君の場合(場所は東京工業大学内)
     所属していた某研究室は、戦中には風船爆弾の研究をしていたとて、次のような先輩の手記がある(一部抜粋概要)。
     陸軍では風船爆弾を「○ふ」と呼んだ。気球の皮膜は、和紙にこんにやくマンナン水溶液をコーティングして調製した。この某研では、この調製条件と皮膜の機械的性質及び水素透過速度との関係を追求した。この頃、在宅の女子学生が工大の各研究室に大勢動員されて一斉に賑やかになり女子大に変身した。連日の実験で疲れ果てていた学生たちはにわかに元気を取り戻し、研究が加速された。やがて、お似合いのカップルが誕生し、めでたくゴールインした。

 今回の大陸東方から飛んだ風船は、日本列島上空を通過したはずである。その時に、日本ではこれに誰も気がつかなかったのだろうか。アメリカ大陸と比べると細いから、風船が横断する時間が短かったので気がつかなかったのか。

 近頃は急に軍備増強中らしい自衛隊も探知できなかったのか。風船さえも探知できなくて、どこかから攻撃してくるミサイルを探知して撃ち落とすなんて可能かしら、あ、そうか、だからこそ43兆円もかけて軍備増強するって、岸田さん言ってるのかあ。

 なお風船爆弾については、このような動画がある。https://youtu.be/MSHrAk3Jb28

(20220206記)

(追記2023/02/08)今朝の新聞ニュースに、今回のスパイ風船の大きさの図があったので引用する。高さ60mとあるが、直径60mのことだろうか、いずれにしても風船爆弾とは比較にならない巨大なものである。

2022/08/18

1640【二重汚染国家】外にはプーチン戦争におびえ内にはコロナとトーイツのダブル汚染を生きる

熊五郎:こんちわ、ご隠居、まだ生きてますね。

ご隠居:おや、熊さん、いらっしゃい、はいよ、まだ生きてるね。

:だんだん世間が騒がしくなってきますね。

:そう、だからあれこれ好奇心が忙しくて、死んでなんかいられない。

:そうか、コロナプーチン戦争安倍暗殺事件ですもんね。

:暗殺事件は日本政治家の宗教右派汚染問題に広がったね。酷いもんだけど、ヒマツブシにはもってこいだね。

●自民党にトーイツ派閥誕生か

:そうそう、このところコロナ汚染の広がりを、統一教会汚染がまねしているみたいに、自民党にトーイツウィルスが蔓延、コロナ並みに蔓延防止ナントカって適用かな。

:岸田第2次内閣の新大臣、新副大臣、新政務官たち、次から次へと統一教会との接点というよりも接線、もっと広い接面のある政治家が暴露されているが、自民党はコロナ並みの緊急事態だろうね。

:でもね、それでおたおたしてる人がいないみたいですよ、平然として同じような言い訳をしている、統一した言い訳をね。あれほどたくさんの汚染者がいるってことは、汚染者がそれなりに数の力を持つから、岸田さんも手を出せないかも。

「黒信号みんなで渡れば怖くない」キシンダ内閣トーイツ見解

:あ、そうか、自民党内に統一教会派という派閥ができてるんだね。そうか、安倍晋三がその派閥の親分だったのか、暗殺されて次の統一派閥親分は誰になるんだろうね。岸田内閣は文字通りキシンダ内閣だねえ。緊急って思うのは庶民だけ、当事者政治家はそれが普通なんだろう。

:軋しみに軋んだ内閣だねえ、なんにしても、コロナウィルスと同じで、統一教会思想に自民党は席捲されてしまい、撲滅どころかトーイツが党の基本方針になるかも、げんに憲法改定自民党案は統一教会の言説に酷似しているらしいですよ、怖いなあ、トーイツ汚染とコロナ汚染でダブル汚染国家になるのですかね。

:それが日本だけじゃなくて、USAでもなんだね。キリスト教福音派という宗教右派が共和党を支えていて、トランプの復活がありうるらしい。

:そうそう、あちらさんもなんだかトーイツ流の奇妙な思想が席捲しているのですね、こりゃあ地球温暖化が人間の脳に何か大きな影響をもたらしているとでも考えないと、つじつまが合いませんねえ、怖いなあ。

●コロナ世界ランキングでトップに躍進

:怖いねえ、そうそう、日本はコロナに席巻されたね、コロナ感染者がじゃんじゃん増えても、政府は今回は何の規制策も出さないから、庶民はもう旅行だって宴会だってやってよいのだと誤解してしまった。

:これじゃあますます感染者は増えるばかり、なんでもその増加する感染者数は世界一、死者数は第2位らしい。このところ世界ランキングから経済やら教育やら学術やら落ち続ける日本だけど、こんなところで挽回ですかい。感染しても病院が満杯で入れない人がどんどん増えてるらしいですよ。

自宅療養するそうだね。ようするに病院に行くよりも前に、医者から見放されるってわけだ。それほども増えてるってことは、実際の感染者数はもっと多くて、もう勘定しきれないってこと、お手上げってことかもねえ、そうだとしたら、怖いねえ、あたしは検査なんてしたことないよ。

:え~っ、ご隠居を怖くなった、なんて言ってるあたしも実は検査したことないですねえ、お互い様ですよ。

感染者数の波の具合が、世界と日本と違うね。日本の今の第7波は、これまでのどれよりも高いけど、世界全体では今の波はそうでもないんだねえ。ま、世界でも感染者数の勘定はかなりいい加減だろうけど、いちおうは傾向はわかる。

:日本の波がちょっと下がり気味でホッとするけど、これって、もしかしたらもう数えることが不可能なほど増えて、現場では勘定をやめた結果かもなあ。日本だけが投げやりだってことじゃないでしょうね。

:何だか心がうそ寒くなるねえ、外は暑いのに。

●止まらないプーチン戦争

:心が寒いといえば、未だにプーチン戦争が止まりませんよ、もう長期戦にするって決めたのですかね。いや、ウクライナの頑張りで、そうさせられているのか。

:ドンパチやっていることはニュースに毎日出るけど、どっちが勝っているのかねえ。でも、どっちが勝てばどうなるのか、さっぱり分からないよ。

:なんでも先日は、例のクリミア半島で大爆発が起きてロシア側に大被害とかで、ウクライナ側の破壊工作というから、正規軍のほかに地下組織軍もいるらしいですね。

:ますますだらだらと続く戦争だねえ、第3次大戦になるからうっかりまわりから直接に手を出せない、イライラしてるのだろうね、ヨーロッパ全部が、、。

:そのイライラが高じて、妙な次のステップが生まれるかもと怖いですね。

:8月は日本も戦争の月だ。わたしの父は日本の十五年戦争に、なんと念入りに3回も兵役についた。うち2度は満州での戦いだよ。その戦争手記が遺品にあったので、わたしはそれをもとに『父の十五年戦争』という戦記を書いて冊子にして、家族や親せきに配布したことがある。それをあらためて読んだら、日本軍の中国大陸侵攻は、今のロシアによるウクライナ侵攻と同じだね。父の手記の中にはロシア軍がウクライナのブチャでやったようなことを示唆する日本軍の暴虐を書いてあった。あの温厚だった父がねえ、と思ったよ。

:へえー、怖いですねえ、戦争になると人が変わる。

:それも含めて、わたしの戦争体験をかいつまんでブログに書いておいたから、読んでおくれ。(20220818記)

参照:まちもり通信サイトより



2022/08/15

1639 【戦争の記憶】あの敗戦日から77年の歳月には次々と戦争の日々が重なるばかり

●8月15日を祝日にせよ

 ふと思う、8月15日敗戦の日をなぜ国民の祝日にしないのか、あの超悲惨な十五年間もの戦争が終ったのだから、後世まで記憶して祝ってしかるべきと思うにだ。
 これを書いている今日は、その日から77年目の敗戦記念日である。人間なら長寿を祝うことだろう。

 8月10日山の日なんて、どうでもよい祝日をつくるのではなくて15日を敗戦記念日にするべきだ。
 何だか近頃はやたらと祝日や休日が増えて、しか毎年その日が移動するらしいから、毎日が休日を送る暇老人は、役所に出かけてその日が休日と突然に知って怒るばかりである。
 8月15日を祝日としようと、法制定の時に話題になったのか、あるいは山の日制定の時に国会は何も考えなかったのか。なんとも不思議である。

●靖国神社野次馬観察

靖国神社風景
 2005年に突然思い立って、8月15日に靖国神社に徘徊に行くことにした。参拝ではなくて、世相観察である。特に世の中で戦争をどうとらえているのか、この日にここに来れば、ある特殊な断面だろうが、観察できるのである。

 高齢者は次第に少なくなってきて、最近は若者が増えている。まるで真夏の初詣のような気分のカップルが多い。もちろんウヨクらしい青年たちもいるし、軍服コスプレのマニアもいる。それは夏祭りの幻想的な風景の一つとも見えてくるのが面白い。
参照:2005年+2013年 2014年 2018年 2019年 2020年

 一昨年は行ったのだが、去年はさすがにコロナに負けていかなかった。今年はプーチン戦争の影が、どう靖国神社に及んでいるか、そこのところを観察に行きたかったのだが、コロナにも年齢にも負けるようになってしまった。

●父の十五年戦争にプーチン戦争を投影

 一昨日のこと、大学同期ネット仲間十数人とZOOMで話をしたときに、わたしは父の戦争の話をした。『父の十五年戦争』というネットページを作っているので、それを見せながらかいつまんで、父の3度の兵役の話をした。

 話しながら、父の大陸に渡っての戦争は、今のプーチン戦争ロシアが日本で、チャイナがウクライナだなと気が付いた。父は日本の十五年戦争中に、満州事変、支那事変、太平洋戦争の3回の兵役で7年半も過ごしたのだった。

 父の兵役の最初は1933年2月から1年間弱、旧満州に侵略軍として入って戦った。いわばロシアによる2014年のウクライナのクリミヤ半島侵略である。
 2度めは1938年から41年まで北支(ノースチャイナ)の侵略地で戦った。いわば2022年からのロシア軍のウクライナ侵略である。3度目は1943年から45年までの太平洋戦争兵役だが、この時は国内にいたから侵略地には出かけていない。

食料略奪宴会写真 1938年熱河作戦
 最初の旧満州での戦いはかなり危険なこともあったと父の戦争手記に出てくるが、同時に侵略軍としての暴虐もノーテンキに書いている。
 一般人から巻き上げた紙幣だとして手記の手帳にはさんである。戦場で農家から貯蔵してある芋などの食料を略奪して、うまかったと写真付きの手記もある。
 さすがに殺した手記はないが、身近で砲火に死んだ戦友の話が詳しいから、当然にこちらからも砲撃して敵チャイニーズを殺しただろう。

●父を戦場に送り出して号泣する母

 わたしは日本の15年戦争の真っただ中に生れ、敗戦の時は国民学校3年生だった。中国地方山地の盆地の街だったが、都市のような戦争の直接的な衝撃はなかった。だが、子供には父がいないのは大きな被害だったし、直接的には戦争後の貧窮で腹ペコの日々こそが戦争被害だった。

 1943年11月父に3度目の召集令状が来た。これについて強烈な記憶がある。
 父が兵役に出かけるのを、鉄道駅まで母と共に送った。家に帰りついて玄関を上がり、畳の間に入ったとたんに母は前に倒れこんだ。両手で顔を覆って畳に押し付けて、突然大声で号泣し始めたのだ。

 幼児のわたしが泣くのは当たり前だが、大きな大人に目の前で泣かれているわたしは、なんのなすすべもなく、号泣に合わせて母の背にある帯の結び目が大きく上下するのを、呆然と見つめているばかりだった。
 やがて誰かが玄関にやってきて案内を乞う声が聞こえた。母は急に泣き止み、今泣いていたことを誰にも言ってはいけないと、わたしに厳しく言い渡して玄関へ出て行った。

 もう戻らないであろう戦場に行く父も大変だが、送り出し母も大変なこと、しかも嘆いてはならないタブーも世間にあった。その時母の胎内には半年後に生まれる第三

 幸いにして父は南方戦線に送られるのを姫路で待っていたが、制海権を失った日本は輸送船がなくなり、父は小田原で湘南海岸に上陸するであろう連合軍を迎え撃つ本土決戦の準備をしていた。その地で敗戦の日を迎えて、月末にはわたしたち家族のもとに戻ってきた。家族が一人増えていた。
 母は父を無事に取り戻すことができたが、実弟をフィリピン山中のジャングルで失い、その若妻と乳児が母の実家に残された。

●77年前の8月15日のこと

 その8月15日は、いかにも夏らしい晴天だった。わたしの生家は神社である。その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から兵庫県芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて滞在していた。盆地内のほかの寺社などに児童51名が疎開して来ていた。

 そのころはラジオのある家は限られていたが、その疎開学級が持っていた。社務所の玄関口に近所の人々が集まって、ヒロヒトさんの分かりにくい敗戦の詔勅を聴いていた。
 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、列になって黙々とぼとぼ参道の長い石段を下って行くのを、わたしは社務所縁側から見ていた。緑濃い社叢林の上はあくまで晴れわたり、蝉の声が滝のように降る暑い日であった。

 もちろん8歳のわたしには内容を分らない。その場の情景の記憶のみである。ラジオを聞いていた人たちがこれを敗戦と分かったのは、たぶん、疎開学級の教員がそれを伝えたのであろう。それから数日の後に疎開児童たちは芦屋に戻っていった。
 芦屋はその数日前に空襲を受けて大被災、中には親を亡くした子もいたという。あの子たちはその後どのように日々を送ったであろうか。

沈黙の湖になりたる盆の地よ昭和二十年八月真昼 
      (まちもり散人2014年詠)

 その半月後に、父が長い参道の石段を登ってくるのを見つけて、私は飛びついた。

●戦争の記憶を書き記す

 77年前にようやく平和が来たことを忘れそうになるので、毎年この日に同じようなことを書いている。
 だが、戦争はあの敗戦の日から地球上から消え去ったのではない。ちょっと思いつくだけでも、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、フォークランド戦争、湾岸戦争、ウクライナ戦争など、地球上は戦争に埋め尽くされている。人間がいるから戦争がある。

 ことしはプーチン戦争とでもいうべきウクライナへのロシア侵攻がはじまった。それはどこかなつかしい戦いぶり、つまり20世紀前半時代の戦争の感がある。
 そこで、わたしのブログのいくつかのテーマのひとつに「戦争の記憶」を立てて、これまでの記事などをまとめておくことにした。わたしの記憶にある過去と現在の戦争記録である。
 その中にはわたしの記憶だけではなくて、大学同期生たちの『昭和二十年それぞれの夏』、中越震災の村の長老『大橋正平戦場物語』という知人たちの戦争記憶もある。
 戦争記憶を書かなくてよい日が、いつか来るだろうか。それは私が地球上からいなくなった日であり、戦争がなくなった時ではないことは確かだ。(2022/08/15記)

参照:まちもり通信サイトより


2019/08/11

1414【戦争の八月(1)】広島核爆弾体験少女の短歌、本土と植民地で戦時体験少年たちの記憶簿、中国大陸と南方戦場の父世代の体験記録

アメリカ歌人が原爆被爆体験を詠む

 原爆証言聞きにしあともなお核が抑止力として要ると君らは

 原爆を日本がつくったと仮定して使ったかと問わる使ったと思う
         (アメリカ)大竹幾久子

 上に掲げた2首の歌は、今朝(2019年8月11日)の朝日歌壇の入選歌である。詠者の夫と兄がわたしの大学同期生である。
 この人は広島の被爆者であり、いまはその被爆させた国に生きて、被爆体験を語り、それを英語の本にして出版している。
 
●参照:『いまなお原爆と向き合ってー原爆を落とせし国でー』大竹幾久子著
     https://datey.blogspot.com/2015/10/1134.html

大学同期仲間たちが戦時体験記憶を記す

 今年も戦争を思い出す月が来た。1945年夏の真昼、雑音交じりのラジオ放送が晴れわたった日本列島を沈黙列島にした。
 わたしの年齢は、戦争の時を体験した最後の者にあたるかもしれないと思いついて、大学同期仲間たちの戦時戦後の体験記憶を集めた。
 仲間だけで読むのはもったいない、戦時の空気を後代に伝えたいと、ブログサイトを作って公開した。

 東京の大学に各地からやってきた若者たちの戦争体験の場は、日本列島の各地ばかりか、当時の植民地であった満州、朝鮮、台湾にも及ぶ。
 わたしのように静かな田舎町で敗戦放送の日のみ記憶鮮やかなものもいれば、植民地から内地にもどる過酷な旅をしたものもいる。広島で核爆発に被爆したもの、そのキノコ雲を遠くから眺めた者もいる。
 
●参照:昭和二十年それぞれの戦 七~八歳児の戦争体験記憶簿 
  https://kgr36.blogspot.com/2019/07/00520170711.html

父親世代の戦場体験を記録する

 日本は19世紀末から断続的に国際戦争をしてきた。大雑把に見ると次のようになる。
 1894~98年日清戦争、1904年~05年 日露戦争、1914年~18年第一次世界大戦、
 1931年~33年満州事変、1937年~45年日中戦争、1941年~45年太平洋戦争
 1950年~53年朝鮮戦争(直接参戦していないが兵站基地となり事実上参戦)、
 1990年~91年湾岸戦争(直接参戦していないが戦費1.2兆円負担して事実上参戦)

 このうちで国際的にも身近にも戦争の悲惨を未だにとどめているのが1931年から1945年までの戦争で、「アジア・太平洋戦争」あるいは「十五年戦争」ともいう。
 この十五戦争において実際に戦場体験をした二人の記録を、わたしはつくっている。ひとりは中越山村の長老であり、もうひとりはわたしの父である。

 中越山村の法末集落で90歳の長老・大橋正平さんに出会ったのは、2004年に起きた中越大震災の被災地であるその集落へ、復興支援の手伝いにボランティアで通っていたときあった。
 農作業の合間に話していると、正平さんはあの悪名高いインパール作戦の数少ない生き残りのひとりと知り、ぜひにと頼んでその家に上がりこんでじっくりと聞き記録した。
 兵役に出て行ったきり7年半も戻ってくることができなかった戦場体験を、その語り口を保ちながらオーラルヒストリーにした。
n
 参照●大橋正平戦場物語 インパール作戦戦場の悲惨j

 もうひとつは父の戦場体験記録だが、父から直接に聴く機会を逸してしまって、その遺品のなかに発見した自筆の戦場記録を、わたしが解読して書いたものである。
 父は十五年戦争(支那事変、満州事変、太平洋戦争)の間に、通算7年半にわたり3度の兵役に就いた。その間に結婚し、1人の娘を失い、3人の息子を得た。
 わたしはこの父の戦争記録を書いて、15年戦争を俯瞰することができたとともに、わたしの戦中史にもなった。8月15日体験も、このなかに記した。

 参照●父の十五年戦争神主通信兵伊達真直の手記を読み解く
https://matchmori.blogspot.com/p/15senso-0.html

わたしの戦後における戦争定点観測

 もうすぐ8月15日が来る。定点定時観測地点「靖国神社」に今年も見物に行って見るかなあ、でも暑いなあ。
  集る人たちを眺めて哂ったり考えたりする、夏休みの宿題レクリエーションである。ここでこの日に毎夏に、いかにもアナクロな現象が出現するので、もしかしてアナクロじゃなくて現実になりつつあるのかと、怖くなってきている。
 なお、どんな宗教施設でも墓地でも、わたしは礼拝することはない。
 
●参照:2018靖国神社https://datey.blogspot.com/2018/08/1157.html
    2017靖国神社https://datey.blogspot.com/2017/08/1282.html
    2015靖国神社https://datey.blogspot.com/2015/01/1045.html
    2014靖国神社https://datey.blogspot.com/2014/08/983.html
    2005年、2013年靖国神社
        ttps://sites.google.com/site/dandysworldg/yasukuni20130815

(追記2018/08/19)
 大竹幾久子さんが2019年8月18日朝日新聞朝日俳壇(選者:高山れおな)に入選している。
   板橋を渡り終えれば散る蜥蜴      (アメリカ 大竹幾久子)
 原爆歌人であることを知っていればこそ、この平和で平凡な風景を詠むことが、心に沁みる。
(追記2018/08/25)
 大竹幾久子さんが今週も原爆の歌で朝日歌壇に入選、選者は高野公彦と馬場あき子の2人。
   父は死に我は生きたり原子雲の下で二キロを離れただけで
 その父君は広島市内の兵営にいたはずだが、地上から消えてしまった。


2018/08/16

1157【靖国8・15定点観測】夏まつり森の社のにぎわいは今日も戦をたたえる見世物

 境内にスピーカーで放送が流れる。「間もなく正午です。みなさなご起立下さい。一分間の黙とうをささげます」
 まわりに人たちが、いっせいに立ち上がる。やがて時報、みんな頭を垂れている。やがて元通りの暑い日のざわめきがあたりに戻る。
 この間、わたしは腰を下ろしたまま、まわりを観察していた。こんなにも大勢の人間が時を停めている中に、ひとり時を動かしている自分、そばには大砲と戦闘機……、SF的風景。
 
 今日は8月15日、ここは東京九段の靖国神社境内、わたしは去年のこの日もそうであったように、今年も定時定点観測にやってきた。この日にここで、ある社会の断面を見るためだ。
 観測報告まとめは、今年も相かわらずの風景だった、ということ。境内にねっとり暑苦しく淀む空気のなかに、ここの地中に眠る戦争人形たちが目覚めて、いつもの夏のこの日のように今日も出てきている。真夏の暑さにボケる頭、真昼の光にしょぼつく眼、これは現実かまぼろしか。
 今年は暑さのせいだろうか、人の出が少ないようだった。

  夏まつり森の社のにぎわいは 今日も戦をたたえる見世物

 では2018年8月15日真昼の靖国神社風景をどうぞ。実は毎年の風景と繰り返しであり、それは神社境内は昔から芸能の場であったことを再確認するようなもの。

毎年おなじみ九段坂ウヨ屋台




 今年はいくぶん人出が少ない感じ、暑さのせいか


 境内の毎年おなじみコスプレ 


爺ちゃん婆ちゃんの代理参拝か若者が多い

 遊就館では小学生に描かせた兵器の絵の表彰展示

マスメディアのカメラがセンセイたちを待ち受ける

うって変わって千鳥ヶ淵戦没者墓苑は静寂そのもの 



 8月15日、1945年のその日は、わたしの人生の出発点あたりで、その前の時からみると超大方向転換が待ちうけた日である。その日から、民主主義すくすく世代に入り込んだ。
 暑い晴れたその日、城下町盆地にある森の中の神社では、近所の人たちや疎開女児童たちとが、一台のラジオを取り囲んでいた。わたしの生家である。
 聞き終わった大人たちは、一様に黙りこくったままの列で、参道石段をとぼとぼと暗い森の中から、明るい盆地の街に下って行った。
 
 春にやってきていた疎開児童たちは、数日の内に阪神間の都市に戻って行った。そこはアメリカ軍の空爆で焼け野原であり、疎開中に戦災孤児になった子もいた。
 その月末、わたしの父が兵役解除されて戻ってきた。1年8か月前、今度こそ帰れぬだろうと号泣する母に送り出された父は、満州事変、支那事変、太平洋戦争と、十五年戦争中に7年半3度もの戦場をくぐり抜けた強運の人であった。その子のわたしこそ強運である。

 毎年、そのことを想う。そしていまだに戦争賛美する人々がいて、その人たちがやって来る8月15日の靖国神社を、定点観測のように訪れて、観察する。
 わたしは神社に生れたが、神仏を拝むことは決してない。それは思想ではなくて、神とか霊とかの存在をどうしても認めることができないという、単にプリミティブな科学的合理主義に過ぎない。

 実はわたしの叔父が、靖国神社に合祀されているのだが、そのことを思い出したのは、たった今である。過去に何度か靖国神社にいたときにも、一度もそれを思い出さなかったなあと、それもいま思い出している。
 わたしを可愛がってくれた叔父は、若妻と乳飲み子を遺して、フィリピンの山中に消えた。わたしの「父の15年戦争」の記録とともに、その叔父の悲惨な戦場のことも書いておいた(「田中参三叔父の戦場」)。

参照:靖国8・15定点観測記録
靖国神社815点々観測2019】その1 2019
◎【靖国神社815定点観測2018】今日も戦を讃える見世物2018
◎【靖国神社815定点観測2017】軍服若者がスマホいじる2017
◎【靖国神社815定点観測2005-2013】靖国神社風景2005、2013

参照:「父の十五年戦争:通信兵神主の手記を読み解く

2017/08/18

1283【戦争を思い出す8月】悪名高い大敗北「インパール作戦」から生還した中越山村の最長老の物語

戦慄の記録 インパ―ル」という、つい先日の8月15日にNHKが放送したTV映像をネットで見た。
https://youtu.be/DTsRiFeTOIo
 この映像は海賊版だろうか。海賊版なら早晩消えるだろうが、「インパール作戦」という稀代の大敗北戦の悪名は、その企画段階から反対されながら、実行段階では部下から反旗を翻されても、途中で負けると分っても無理矢理に突き進んだ、牟田口廉也司令官の名と共に消えはしない。

2017/04/09

1260【花見と戦争】あの戦場に消えた人や戦場に送りだした人のことを改めて思う花の春の日だった

 久しぶりに日吉の慶応大学キャンパスを訪れた。花見ではなくて、戦争と大学についてのお勉強会である。
慶應大学福澤センター、戸倉武之さんの講演「大学は戦争の何を『引き継ぐ』のか?ー慶應義塾における実名と実物の継承の試みー」。
 慶應義塾関係者の戦争体験を、兵士となった本人はもとより、その周辺の家族や恋人など、ひとりひとり個人史としての戦争を追う研究をしているのだそうだ。その中間報告の講演会であった。

 これまでよくある政治や戦況や勇将による戦争史ではなくて、参加した兵士個人とその周辺人物が語る言葉と保存する実物からの視線で戦争の時代を問い直す研究は、この分野を拓いた白井厚さんの研究をひきついだのだそうだが、実に興味深い。
 慶應大学という広範で強力なネットワークをつかって、人間情報と実物情報の収集は膨大なものになるらしい。

 慶應大学の日吉キャンパス自体が、海軍地下壕遺跡という戦争を語る重要な物証であり、ここから戦争の現場につながっていることも、この研究を地に足が着いたもの入しているのだろう。この講演会主催者は、その「日吉台地下壕保存の会」であった。
 白井厚さんも会場のおられて、三田キャンパスが空襲で炎上したのだが、今はその跡が全く見えないないので、それを教えることも必要と発言しておられた。

 戦場に消えた人や戦場に送りだした人々の、いくつかのエピソードを聴かせてもらった。個人的な生々しい資料を発掘して、戦争を平地から見る視線には興味深い展開がある。
 例えば、学徒兵の遺稿集『きけわだつみのこえ』に登場する、自由主義者として死ぬと書いた特攻隊員の上原良司のことである。安曇野の上原家に保管されていた膨大な資料を発掘して、あの有名な「所感」をとりまく上原の家族の幸福と悲劇を、庶民史の断面として見せてくれる。

 もうあの時代を自身のこととして語る人たちはほとんどいなくなる中で、このような発掘仕事は困難なことであるらしいが、それでも意外に多くの人や物が貴重な資料として登場してくる。
 戸倉さんは、実名と実物に語らせることに大きな意義があるとしている。
戦争の呼称や期間が人によって論争になる

 情報収集の範囲は、慶應大学関係に限るとしておられるらしいが、他の大学でもやっているだろうか、あるならそれと連携することで新展開があるだろうか。
 戦争の研究となれば、右や左の喧しい人々が妙な口を出すのではないかと、ちょっと心配になるが、戸倉さんは心得ておられるようだ。
 終わりのない研究になるようだが、ネット公開するとのことなので、楽しみである。

 そういえば昨年、わたしの家族の戦争史とでもいうべき「父の十五年」をお読みになった、海外神社研究者からお問い合わせをいただいた。わたしも興味を持ってその公開研究会傍聴に行ったが、これもまた別の意味での戦争研究の新地平かもしれない。
 以前に戸倉さんの著述を読んで、『戦争に翻弄された大学とモダン建築ー谷口吉郎設計の慶應日吉寄宿舎』の一文を書いていたので、本日、それをプリントした冊子を渡して、お礼を言って辞した。

 外に出て、1970年代に住んでいた南日吉団地のあたりを久しぶりに歩いてきた。団地は建替えられて風景が変り、まわりの田園風景は密集する住宅地に変っている。
 なにしろ今では地下鉄の駅ができているのだから、変るのも当たり前だ。
それでも丘陵の裾あたりは、かつて子どもを連れて散歩した田畑と山林の入りまじる風景があり、いまちょうど満開の桜と菜の花が美しい。花だらけで食傷する名所の桜よりも、このような自然の樹木の取り合わせの素朴な風景が目に染みる。

2016/12/19

1240【父の十五年戦争】戦中の海外日本植民地にあった神社を研究すると意外に深く苦い歴史が露呈してくる

 わたしの生家は備中の高梁盆地にある神社である。父が宮司をしていた。わたしが後を継がなかったからか今は宮司不在だが、神社は今もある。
高梁盆地にある御前神社 写真:川上正夫 2015年

 父は1931年から日本の15年戦争中に3回も兵役につき、3回とも無傷で戻ってきた。最後に帰還した日は1945年8月31日であった。
 2度目の中国北部では通信兵の本務の傍ら、本職を生かして所属する軍隊での諸神事を司った。兵役に出る前に軍から指示があり、あらかじめ装束を持参して入営したそうだ。
中国の敦河で日本が作った神社(父のアルバムより)
流造らしい本殿が見える

中国の保定で日本が作った神社(父のアルバムより)
既存の廟建築に和風の向拜を付加したように見える

●戦争と神社

 わたしは父の遺品のなかに、彼の兵役中の記録を見つけた。それを『父の15年戦争』という戦中の家族の記録として本にまとめ、兄弟や親せきに配布し、全文を「まちもり通信」サイトに掲載している。
 この中の中国戦線での軍隊神事関係の記録を読んだお方二人から、去年と今年に問合せのメールをいただいた。どちらも戦場や植民地での神社や神道についての研究者である。

 そのような研究が今では行われているのかと初めて知り、若干の感慨をもってその方たちに父が遺したメモや写真のコピーを提供した。
 これまでにもわたしのサイトを見て、論文を書く学生や院生から都市や建築のわたしの仕事や歴史的研究についての問い合わせはあったが、異分野の研究者からとは珍しい。
 その研究者のひとり、中山郁さんはわたしの父の軍隊での祭祀行動を知りたいとのことだった。陸軍における戦場慰霊と「英霊」観』を書かれ、そこに父のことも一部引用してある。それを掲載した論文集『昭和前期の神道と社会』(2016年、坂本是丸編、弘文堂)をいただいた。
 
 またもうひとりの研究者の中島三千男さんは、日本の植民地にあった神社が、今はその跡地がどのようになっているか研究中とて、父の記録の中に出てくる中国での神社について知りたいとのことであった。
 中島さんから著書『海外神社の跡地の景観変容』(2013年、お茶の水書房)といくつかの論文集をいただいた。
 それらを読んで「海外神社」なるものにがぜん興味がわいて、中に紹介されている参考文献の『海外神社史上巻』(小笠原省三)、『植民地神社と帝国日本』(2005年、青井哲人、吉川弘文館)など何冊か読んだ。

海外神社とは、要するに外国において形成した日本人コロニーに、日本人がつくった神社のことである。
 とはいっても海外日本人コロニーは、現存するブラジルの日本人社会もあれば、現存しないがいまだに戦争後遺症をひく朝鮮半島や中国東北部の植民地もあり、その研究は意外に複雑多様なものらしい。
 沖縄もそれに含めるとさらに複雑になり、まことに興味深いものがある。

 かつての日本植民地における神社については、戦争と神道、植民地支配と神道、植民地都市計画の神社立地など、なかなか刺激的なテーマである。
 植民地と言っても、台湾、朝鮮、樺太、満州あるいは南洋諸島があり、そこでの神社のあり方も多様であるが、いずれにしても日本の敗戦でほとんど消え去ったということが、その意味をいちばん物語っている。
 特に朝鮮では日鮮一体化・皇民化政策に神社が使われたので、日本人コミュニティのシンボルの神社跡地は、憎しみのメタファーの危険性をさえはらんでいる。
 海外神社とはかなり特殊な時空に起きた現象かと思ったら、実は深刻な歴史をえぐりだす普遍の種らしい。

●海外神社研究
 
 中嶋三千男さんから案内状をいただき、神奈川大学での「海外神社研究会」なる会合にヤジウマ一般参加してきた(2016年12月17日、神奈川大学)。なかなかに刺激的な報告が続いて、実に興味深く聞いたのであった。
 太平洋戦争で日本軍が占領して悲惨な戦場となったフィリピンで、消え去った神社を探索した調査報告(稲宮康人氏)では、マニラ、ダバオ、バギオで4つの神社跡地を確認したが、今回はとにかく場所の確認作業だったようだ。
 面白かったのは、どこの神社跡地でも一部に土を掘り返した跡があり、聞けばそれは伝説の山下将軍財宝探しの山師たちの仕業で、今でも日本関係跡地を探しまわっているらしい。

 旧満州開拓団神社跡地の調査報告(津田良樹氏)は、加藤完治たちが送りこんだ数多くの満州開拓団コロニーは消え去っても、その共同体のシンボルとして開拓民たちが自ら作った神社の跡地について探索している。
 それはまるで時間をさかのぼるタイムマシーン秘境探検隊であり、いくつも特定に成功した努力に敬服する。
 だが津田さんは「今も重い気持ちが抜け去らない」という。ソ満国境に近くの入植地では敗戦時戦乱による開拓団民多数遭難死の悲劇があり、その一方で土地侵略者開拓団への中国側の今も続く憎悪があり、それに向きあわざるを得ない現地調査には辛いものがあったようだ。
 満州・朝鮮という日本植民地の神社跡地探索が小さな傷痕かとおもえば、実は後遺症を大きくえぐりだすかもしれないという、歴史の重さが研究者にのしかかっている。

 「植民地期満州における日本の宗教」と題するフランス人研究者(エドワール・レリソン氏)の発表も面白かった。
 宗教的人物からキメラ満州という特殊にして特定の時空を追うとして、明治天皇、松山珵三、水野久直、乃木希典、加藤完治、溥儀、新田石太郎、出口王仁三郎をとりあげて、ドクター論文を執筆中だそうである。この顔ぶれを論文にまとめるとは、すごいとしか言いようがない。
 わたしたち日本人は、満州に対しては日本特有の目(それをどういうか難しいが)を持っているような気がするのだが、それをひきずらない外国人には新鮮な何かがありそうだ。どう展開するのか興味がある。

 琉球・沖縄の神社に関する報告(後多田 敦氏)の報告も、実に興味深いものがあった。聞いてみると本土から進出した日本の神社は、沖縄ではまことにマイナーな位置であるようだ。
 琉球王国に於いて確立していた祭祀制度に対して、薩摩侵略、琉球処分、アメリカ占領というそれぞれの大政治的変革がどう影響を及ぼし、あるいは及ぼしえなかったか、社会史として面白い。

 沖縄では戦前戦中とも、日本国政府が台湾や朝鮮でしたようには、神道を押し付けえなかったそうだ。
 琉球時代からの聞得大君を頂点とするノロたちがよる女性祭祀システム地域にしっかりと根を張っており、彼女たちが拠るウタキの神社化を画策しても成功しなかったらしい。
 琉球王国を舞台の小説「テンペスト」(池上栄一)を、学問的方向からあらためて思い出した。沖縄と神道の関係は、近代日本植民地でのそれとは明らかに異なるフェーズであり、これも興味ある研究テーマのようである。

 私事である「父の十五年戦争」は、戦争という大きな公事に取り込まれた私事であるとは思っていたが、この様な回路の端っこに組み込まれているとは思わなかった。
 海外神社研究が、これからどう展開するのか楽しみである。わたしの関心は、朝鮮と沖縄のそれである。

●参照外部サイト:海外神社(跡地)データベース 
http://www.himoji.jp/database/db04/index.html

●参照まちもり通信サイト:父の十五年戦争
https://matchmori.blogspot.com/p/15senso-0.html