2023/02/25

1674【プーチン戦争一周忌】東西対立泥沼戦争弱体国連膨大戦費軍拡日本こいつぁ春から縁起悪いや~

 今日はプーチン戦争1周忌である。2月24日は昨年のこの日に、ウクライナでプーチン戦争が再開した日、つまりすでにクリミアで2014年に始まった戦争の延長戦開始日であった。
 すぐに決着するとプーチンは考えて始めたのだろうが、もう1年経つが泥沼で先は見えない。まるで日中戦争だ。ウクライナ軍が押し気味なのは、西軍(USAやEUなど)からの武器支援などがあるからだろう。

去年半ばから8か月間の戦況変化 左現在、右去年

 国連は機能をその失おうとしつつあるが、それでも1年を機に総会でロシア軍撤退の決議をした。賛成141で圧倒的多数、反対は7でロシアベラルーシ北コリアなどはわかるが、中国インドという主要国が棄権して、消極的反対に回る。


 これまで何度も同様を決議はしているが、効果がないのは国連の力が衰えたか。安全保障理事会が、ロシアとチャイナの拒否権で機能不全になってもうかなり長いだろう。これを契機に新たな改革をするのだろうか。


 この戦争で毎日死傷者が発生しているが、懲りないのが戦争というものである。新聞にはロシアとウクライナの銃後の人々の悲しみや心意気のことを書いている。そこには私も経験する日本の戦争中の銃後の様相が垣間見える。
 送り出した心意気と死に面する悲しみとが、ないまぜになる銃後の人々、勇んで戦場にカラ元気で行く男たち、戦争はいつも同じ顔を見せている。
 わたしの戦中の記憶に、家々の玄関先の柱に「出征兵士の家」と書いた紙が貼り付けてあった。ロシアとウクライナにもあるのだろうか。

 それにしても戦争には膨大な費用が掛かる。ロシアは自国で賄うことができるから戦争仕掛けたのだろうが、ウクライナはたまったものではない。
 西側諸国はロシアに経済制裁を加えて戦費調達の邪魔をしようとする。そしてウクライナに戦費や新鋭の武器を供与してきてるが、それも巨額である。いつまでも続けられるものではあるまい。支援疲れとの声もあるらしい。
 日本も支援額が70億ドルにもなるとか、G7議長国となって見栄を張っているらしい。この巨額が実質的には戦争のために消える金とは、むなしいことだ。



 日本は不戦を誓う憲法があるから、戦争当時国への支援不可かと思えばそうではない。もちろん復興等の民生での援助はありうるが、武器援助であると疑わしい支援もあるらしい。例えば、復興のために自衛隊のドローンを供与したというが、簡単に戦場に生かすことができるだろう。弾除けに防弾チョッキも供与したとかだが、兵員の戦場使用もすぐにできる。 

 それよりも怖いのは、この際とばかりに現在の保守政治の安全保障に対する考え方の行方が、どんどん戦争可能な方向へとに限りなく近づいていることだ。要するに日本再軍備である。憲法を変えるまでもなく、解釈変更で可能となりつつある。そんな芸当を生んだのが安倍晋三だったなあ。生きてるともっとひどかったかもなあ。
 日本もこのところ国家予算における軍事支出が巨大になってきて、近いうちに世界第3位になるらしい。すごいことになってきた。ロシアのおかげか。


 その裏には兵器産業が日本でも世界中でも暗躍していることだろう。ロシアには戦争を請け負う民間企業があり、ウクライナでも活躍しているそうだ。国家間ではロシアへの武器供与はしないとしても、世界の兵器産業は企業取引として事実上のロシアへの武器援助をしているかもしれない。
 そういえば、ビジネスジェット機にも宇宙ロケット打ち上げにも失敗した三菱重工は、兵器生産が本業なんだなあ。
 
 庶民の身に迫って怖いのは、このところ物価がどんどん上昇することだ。ロシア制裁の影響は、国際間のエネルギーと食料の取引価格上昇を招いてきて、いまやわれらが庶民の懐に及びだした。
 わたしの身に及んできた実質値上げは、食費光熱費はもちろんだが、年金額が今年から減ったうえに、医療費負担も2倍になった。
 ウクライナ騒ぎに政治が便乗しているのは軍備ばかりではなくて、老人の生活費に及んでいる。まったく驚くばかりである。

 
 食料自給が不可能な現状日本は、エネルギー自給も不可能だ。そこで再エネで時給へと政策が進むかと思ていたら、政府の方策はなんとまあ、あの大災害を生んだ核エネで自給しようとの方向を選びつつある。
 核発電炉の新設が難しいなら、耐用年数を無限に延長すればよいてことにしてしまった。ボロ核発電炉が日本中に散らばり、これこそ安全保障上の根本問題をはらむはずなのに、おかしなことである。
 なんだか世の中を理解できなくなて来たのは、わたしの老衰のせいだろうと思うしかない。

 いやまあ、こいつぁ~春から縁起悪いわい~。この後にあまり長くこの世にいてもよいことはなさそうだ。コロナに戦争に地震に値上げに猛暑にと、ろくでもない最晩年を迎えているのだ。
 近頃何とかという若い学者が、老人の集団自決こそが多老化対策である、なんてマスコミで言ったとて、SNSでけちょんけちょんに言われているが、あれって政府の本音だろうね。
 それが正式な政策になって、自決支援金が支給されるとなると、喜んで受給して自決したいものである。たぶん痛くない自決方法が制度になることだろうからね。わたしが老衰で死ぬ前に自決政策を実行して下さいね。

 戦さする中に生まれて戦さ過ぎいま死ぬ時に戻りくる戦さ

 乱のうちに春は来にけりこの年を戦前とや言はむ戦中とや言はむ

  年のうちに春は来にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ
                   (在原元方 古今和歌集)

(20230225記)




2023/02/23

1673【未来へのバトン】熊本の歴史的都市生活空間を次世代へ継承するNPO活動がすごい

1993年撮影 旧第一銀校熊本支店

 上の写真は、わたしが1993年に熊本市内で撮った赤煉瓦ビルである。1919年に旧第一銀行熊本支店(設計者は西村好時)として建てられた。この時は「熊本中央信用金庫」の看板がかかっている。

2022年 PSオランジェリ (「未来へのバトン」よりコピー)

●NPO熊本まちなみトラストの活動記録が来た

 そして先日送られてきた熊本市のまちづくり活動団体のNPO「熊本まちなみトラスト」(KMT)による冊子「未来へのバトン」(2023年)に、上の写真のような現在の姿が載っている。「PSオランジェリ」の名で民間企業の施設として、立派に生きて使われている。

 その冊子には、この建物の二つの写真の間におきた社会変動や地震災害(2016年)による取り壊しの危機をくぐりぬけて、継承に成功した市民活動の歴史が語られる。
 そしてその保全と活用の活動は、ひとつの建物から複数へ、そして地域まちづくり活動へと、熊本市中心街全体にわたる歴史的な生活空間の保全と活用に展開する。これは日常生活空間の記憶を未来への継承である。

KMT活動年表の一部
 
 その多様な歩みの報告を見ることができるが、それらはこの建物の様に成功したものもあれば、あえなく消えたものもある。熊本市の中心部の歴史的な生い立ちと経緯を踏まえつつ、次の世代に街を継承していこうという、市民の自発的な活動である。

 NPO設立からちょうど四半世紀、そのまえの任意活動団体時代も入れると、37年も続いてきている。その25周年記念誌が、事務局長の冨士川一裕さんから送られてきた。A4判でカラー刷り、100ページ近い立派な書籍である。
 記念誌のタイトルは「未来へのバトン」とある。まさに記憶の継承」を基本コンセプトにする、このNPOの人たちが愛する歴史ある熊本の街を、豊かな形で次世代市民へ手渡していこうという、活動の心根がこもる言葉である。

 その活動について大勢の活動参加者たちが文を寄せている。城下町の生活と生業を支えてきた歴史ある都市空間を、時代に対応させつつ生かして、次の世代も使っていくことができるように伝えていこうと、その当事者として動いた市民たちの寄稿である。
 特に熊本市は2016年に巨大地震で、次世代に伝えるべき都市の歴史や生活資産の多くが被災したために、その継承に多大多様な活動をして困難を乗り越えた貴重な体験を持っているのが、大きな特徴である。そこにはそれまでの20年にわたる活動の蓄積があったからできたのであろう。

 都市の歴史的資産の継承に、いわゆる伝統文化保存の面からだけではなく、都市生活の継続という面からも評価して取り組む活動がすばらしい。都心市街地における保全と再開発の軋轢は、古くて新しい問題であり、このNPO熊本まちなみトラストの活動の動きが、全国各地の先導となるものであろう。

冨士川さんからの送り状と25年記念活動振り返り講演記録のページ

 この記録集が上梓された裏には、活動の資料をきちんと整理保全していた冨士川事務局長の努力とその能力がある。それこそが記憶の継承の基本である。

●冨士川一裕さんとわたし

 さてこの冊子を送って下さったのは、KMT事務局長の冨士川さんである。ここからはわたしと冨士川さんと熊本をめぐっての回顧譚である。わたしの覚書として記しておく。なお、わたしは富士川さんよりも一回り年上である。

 冨士川さんは都市計画家である。実質的にはこのNPOをとりしきって来られた大番頭さんらしい。修業時代の後は生まれ故郷の熊本に腰を据えて活動して来られている。わたしはその地域密着主義に大いに敬服している。
 同じ都市計画家として私は根無し草で、冨士川さんのように生まれ故郷の地域に足を付けて活動しては来なかったので、彼を畏敬し、引け目を感じている。

 実は冨士川さんとわたしとは、時期は違うが若い時の数年間を、藤田邦昭さんという同じ師匠のもとにいたことがある。日本の都市再開発の草分けであった藤田さんは、まさに地域に入りこみ、地域の人々とひざを交え語りこむ地域第一主義の人であった。弟子の端くれのわたしもそれを心がけたが、冨士川さんには及びもつかない。

 わたしは冨士川さんとはいつから知己となったか、覚えていないほど老いてしまった。そこでPCの中の写真ファイルを探したら、1993年6月が熊本で最初の撮影で、冒頭はその1枚である。それが初めて熊本訪問であったようだ。
 その後にも96年と98年に訪ねているので、3回とも冨士川さんに世話になっているはずだ。どんな用事だったか当時のメモ手帳を繰ってみた。

 93年は熊本には九州の他の地から(臼杵、久木野など)の寄り道であって半日いただけだから、冨士川さんには会っていないかもしれない。会っていれば初対面である。
 だがこの時に、この冒頭に載せた赤煉瓦建物の写真を撮っている。記念誌の冊子によれば、この保存問題に取り組み始めたのは97年からとあるが、それは冨士川さんの案内であったからだろうか。当時は単に美しい赤煉瓦建築だから撮ったのだろうか。

 メモ手帳によると1996年5月と6月に熊本訪問しており、どちらも1泊して冨士川さんと会っている。
 6月には熊本ファッションタウン協議会の講演会に、冨士川さんと一緒に参加している。「ファッションタウン」とは、そのころ経産省と国土庁の政策の中に、産業振興計画(ものづくり)と都市計画(まちづくり)を融合して地域振興を行おうとするもので、「ものまちづくり」とも言った。全国のいろいろな都市を対象に調査計画を策定していた。熊本市もその一つであり、冨士川さんもわたしも関係する委員だった。

1996年5月23日撮影 住友銀行 現在は民間企業施設として保全再生

 この時は打ち刃物職人の街・川尻にも案内してもらった。伝統的な職人町は伝統的な町家の連なる景観で、これは熊本ファッションタウンそのものだと思った。今も川尻はその伝統が続いているのだろうか。
 ファッションタウン計画を策定して進めようとした都市は、熊本、今治、倉敷(児島)鯖江桐生、墨田区など多くあったが、多くは目に見える成果は少なかった。むしろ各界の市民参加の計画策定の過程そのものが地域振興活動であった。産業政策と都市政策の融合はむつかしい。熊本はどうなったのだろうか。

 98年1月の熊本訪問は、「まちなみ・建築フォーラム」という雑誌の編集者として、冨士川さんに取材したのだった。古町の街づくりについて記事を書いてもらった記憶があるが、手元にその雑誌が見つからない。
 その雑誌は、創刊から5号まで発行して休刊した。建築とまちづくりを融合した専門誌と一般誌の中間雑誌にしたかったのだが、失敗した。その原因は、専門家船頭が多すぎたことで内容が専門的な方向になりがちで、一般読者を得られなったことだと私は思う。

1998年1月17日撮影 清永産業 地震被災後に修復保全再生

1998年1月17日撮影 富重寫眞所 現在もあるのか

 その後はわたしは熊本に一度も行っていないが、冨士川さんとは日本都市計画家協会の共に理事としての付き合いは続いた。その2021年の協会主催の全国まちづくり会議を、冨士川さんは熊本に誘致して開催したが、その手腕と意気込みに驚嘆した。

 冨士川さんは最近はカフェ「雁木坂」のマスターになり、ますます地域との密接な関係を築くべく空間を創出して、日常としてのまちづくりへの歩みを進めているようだ。
 実は、私と彼とはもう10年以上も会っていないが、フェイスブックを通じて氏の日常をなんだか知っている感がある。同様に氏もわたしを知るに違いない。
 私は横浜都心隠居して約10年、足腰維持のために街を徘徊して眺めるだけの日々である。冨士川さんの活動を自分のものとして勝手に置き換えてみる楽しみがあり、フェイスブックを今日も開く。

 ところで、ここまで書いて気がついたのだが、冨士川さんは霞を食ってNPO活動に身を捧げてこられたのではあるまい。あ、もしかしたら大富豪だろうか。
 冨士川さんは熊本に根差す都市計画家として建築家として、人間都市研究所主宰者としては、どんな仕事をなさってきているのだろうか。それをほとんど知らないし、ネットにも情報がない。それを知りたい、そうだ、熊本に生きる都市計画家として本を書いてもらいたいものだ。

(20230223記)
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2023/02/20

1672【頼久寺庭園】江戸初期小堀遠州作の名園は借景に時の変化をどう表現するか

 本棚からもう忘れていた昔の写真のプリントとかフィルムが出てきた。もうずいぶん前に、古いアルバムからはがして、PCスキャンしてデータ化したから、もう捨ててもよいものだが、ついつい瀬k実の写真プリントを見てしまった。

 それらの中の一つに、わたしの生まれ故郷である高梁盆地で、1960年に撮った頼久寺庭園があった。もちろんモノクロだが、今の庭園の姿とは異なる。作庭当時とは景観が違うのである。名勝指定になったのは、この写真より後の1974年とある。

 この庭園は江戸幕府の作事奉行であった小堀遠州の作庭であり、江戸初期にこの備中松山藩の代官をしていた若い彼は、この頼久寺を住まいとしていたのだった。

 小さな庭だが、庭園外の遠くにある愛宕山の山容そのものを借景にとりこんでいる。庭園内のサツキの丁寧な大刈込みと対比的に、外の森や山の借景はラフな自然景である。
 この1960年に私が写した写真の特徴は、庭園のサツキ大刈込みの向こうに瓦葺き屋根の大きな建物があることだ。つまり庭園の緑の連なりが遠くの山まで視線が途切れることなく通るのではなく、いったんは庭の外で視線が断絶する。当時のわたしの記憶ではこの建物を養老院と言っていたような気がする。今は大学のキャンパスの一部となって校舎が建つ。

 もちろんこのような建物が遠州の作庭時の17世紀初めにあったのではなく、森が続いていたか、あるいは農村の田畑の風景であったろう。それが庭園は変わらぬように維持されてきたが、その外の景観は時代と共に変化する。
 1960年当時は外の建物がそのまま見えているのだが、現在はどうなっているだろうか。

 そこでネットで最近のこの庭園の写真を探して、わたしの撮った1960年庭園写真と同じアングルで同じにトリミングして比べてみた。
 現在では瓦屋根建物は見えず、その手前の庭園内の境界線上に沿って背の高い高い樹木が並べて植えられており、建物を見切る高さで水平に頭を刈られている。

 さてこれをどう見ようか。見ようによってはもう一つ大刈込みが高い位置にできた感もある。だが、この植込みの厚さがないので、もうひとつ迫力がない。
 向こうの森と調子を合わせて大借景との調整役になっているかと言えば、そのスケスケぶりと形が幾何学的で、いかにも目隠し感がありすぎる。見ようによっては、この目隠し植樹帯を区切りにして、向こうの森や山とこちらの庭園とは違いますよと、借景を否定してるような感があるのだ。

 いや、もしかしたら、わざとそうしているのだろうか。これは遠州の作庭にはなかった植栽だから、明らかにそれと分かるような姿につくったのだろうか。なるほど、それは歴史的庭園保全のひとつの考えであるともいえよう。実情はどうなのだろうか。

 上の二つの写真をしばらく見ていたら、1960年写真の方が借景が生きているとも見えてきた。もちろんあの瓦屋根のスケールには困るのだが、あの屋根がいくつかに分節して、高さに変化があるとよいかもしれない。もちろん今の建物が1960年のそれではないだろうが、航空写真を見ると今も同じような建物があるようだ。
 庭園の外に建物などが見えても、庭園に対応したそれなりのスケールや色彩ならば、それも借景にした方がむしろ適切かもしれないと思う。時代の表現である。

 2011年の写真にみる境界目隠し植栽体を、分節するとか目隠しラインを自然に刈るとか、一部に屋根が見えてもよいからそれなりのデザインをして、総合的に内外を合わせた景観を考える現代の作庭があってよいようにも思うのだ。
 もちろん、文化財としての名勝指定による保全の在り方が決まっているのだろう。それは遠州作庭の姿を守ることが基本だろうが、時代による景観変化を生かすという考えがあってもよいだろう。

 なお、これは以前に調べて知っているのだが、この借景の範囲に高層建築が見えないのは、庭園からこれ以上は建物が見えないように建築物の高さ制限を、高梁市の都市計画行政として定めているからである。これについては既にこのブログにこのように書いている。


 借景で有名な庭園は、頼久寺より少し遅れるが同じ江戸初期作庭の京都岩倉の圓通寺である。ただしそこも借景のお手本というには、かなり難がある景観になっている。後水尾天皇が作った時はもっとおおらかだったはずだが、比叡山の手前の市街地化で雑多な風景となり、ここも垣根や植樹がおおらかさを失わせてしまっている。


(20230220記)

●参照*高梁盆地:小堀遠州作の名園の借景を守る(2011/10/22)
 ◎京都岩倉:怨念の景観帝国ー円通寺と後水尾上皇(2009) 


2023/02/16

1671【小説読後感想】久しぶりに面白い戦争小説『同志少女よ、敵を撃て』/積読退治終活

『同志少女よ、敵を撃て』2021年 逢坂 冬馬 早川書房

 久しぶりに面白い長編小説を読んだ。感想を書いておく。
 合法的殺人を許す戦争において、普通は集団としての戦いの中で人を殺すものだろう。多くの兵員が団体となって殺しあう戦場においては、敵も味方も個人としてではなく集団の一員として殺人を行う。

 集団だから誰を殺したか分からないから、兵員たちは殺人に麻痺してくる。個人的な殺戮は原則としてないのだろうと思うが、かなり特殊な場合としてスパイ潜入とかで、個人を殺すことも合法的なのだろう。

 ところがこの戦争小説の主人公たちは、狙撃兵という地位にあって、戦場で大勢の中から一人を選んで打ち殺すという、顔の見える戦争を行うのである。しかもその数をカウントして、殺人数の実績を競うのである。もちろん多いと勲章に値する。
 その戦争殺人を戦争時の社会が許しても、個人の中の葛藤を克服するのは、狙撃兵として訓練を受けてもなかなかに難しい。その人間としての葛藤がこの小説の底流にある。

 この小説は、第2次世界大戦のドイツ・ソ連戦争(ソ連では「大祖国戦争」と言った)が舞台になっているから、ロシアもウクライナもソ連という一つの連邦国家であった時代のことである。
 しかし小説そのものが書かれた時は、ソ連は崩壊してロシアと幾つかに分かれた国家になっていたし、更にまた今起きているウクライナ危機が始まる前年に発表されたことが、読者には興味深いことになっている。

 今のロシアとウクライナの関係を知っているわたしたち読者がこれを読むとき、敵国同士となっている両国のことを文中に探してしまう。そして、その期待に応えてくれるシーンがあるのだ。もちろん著者はそれを予測していたのではないのだが、逆に言えば著者が予想しなかった深読みを読者にさせるのである。

 ソ連が多様な民族を抱え込んだ人工的な国家であったので、兵員の出身地による民族間の差別や軋轢が、戦いの中にも浮かび上がってくる、そこにウクライナの民族的位置の話もあり、それもまたこの小説の読みどころである。

 民族差別とともに、もっとも主要なテーマの一つに、戦争と女性の関係がある。
 古来、戦争は男の仕事とされてきたが、この小説は若い女たちが、銃による狙撃という特別技能を持つ兵員となって戦うのだから、男たちから畏敬と侮蔑がないまぜになった標的にされる。その内部の戦いは現代の問題である。
 基本的には、第2次大戦の独ソ戦争の中での一人の少女の復讐戦物語であるが、独ソ戦争歴史物語であり、多くの伏線と回収で起伏ある冒険小説として、読者を飽きさせない。

 これまで読んで超面白かった長編戦争小説は、Ken Follet[The Century Trilogy]三部作であった。それとはスケールは異なるが負けない面白さである。わたしは一度読んだ小説を読み返すことはしないのだが、これは2度読みしておおいに満足した。歳とって一度では理解不能になったのかもしれない。

●積読本退治の老後

 ところでわたしはこの本を県立図書館から借りてきて読んだ。予約してから借り出すまでに、なんと4カ月も待ったのであった。暇だからいいようなものだ。
 予約するときに市立図書館も検索したのだが、県立の何十倍もの予約者がいた。図書館利用はもう10数年やっているが、このような借り方をしたのは初めてであった。新本2000円ほどで本屋にたくさん積んであるから、いつでも手に入るのに買わないで我慢した。

 実は10数年前に、わが人生でもう新本も古本も一切購入しないと決断したのであった。人生終末期に近いのに増えるものがあり、その一番は本であると気がついたのだ。うちの本棚にある書籍をもう増やさないどころか減らすことにしたのだ。いわゆる終活である。

 それよりも前に、東京に構えていた小さな仕事場と仕事用住まいを閉じるときに、たぶん千冊以上はあった本を処分してしまったが、幾分かは自宅に持ってきた。
 その自宅にあるおおくの本を、友人たちに押し付けたり差し上げたり、チャリティ寄付したりしてきたのだが、それでも300冊くらいだろうか書棚にまだある。

 それらをうちに残しておいたのは、時間がたっぷりとあるが体力がなくなる老後の暮らしのなかで、毎日読み耽ろうと考えたのだ。買うときにいつか読むぞと積ン読にしておいた本が多くあるのだ。老後の楽しみは積読本退治である。

 からだの方は徐々に積読退治体制になってきたのだが、その現実の道程はいっこうにはかどらない。それはついつい品ポン古本を買うからだったので、十数年前のある日のこと自らに新旧本とも購入禁止命令を下した。
 だから調べものは本の購入でなくて、市や県の図書館に通うようになった。ただし問題は、そのついでに面白そうな本をついつい借りてきてしまうので、一向に積読本の消化に至らない。この小説の様に4カ月も待って借りるよりも、うちにあるものを先に読めよと、われとわが身に言い聞かせるているのだが、。

 実のところ、うちの本棚にある本の冊数はどれくらいだろうか、数えたことはない。一冊づつ勘定するのは面倒だ。
 そこで今、本棚にスケールを当てて、本が並んでいる背中の総幅を計ってみることにする。そして背幅というか本の厚さ合計は約2690cmとわかった。
 一冊当たりの平均値はわからないが、1.5cmとしたら約1800冊となる。え、300冊なんてものじゃないのかあ、そんなにあるのかあ??、本当かなあ?、これじゃあ死ぬまでに読み切れないなあ、、、まあ、いいけど、、。

本棚の一部
 この今勘定した蔵書数1800冊が正しいとすれば、東京に仕事場を持っていたころは、この5倍くらいは本を持っていたから、え、1万冊??、そんなにあったのかあ、。。
 今はほとんど処分してしまった専門書や、自分が作成した報告書類、行政関係書類などの書籍があったからなあ、思えば読みもしない読めもしない読む気にならない読めばよかった本もたくさんあったなあ、もったいないことしたなあ、いやいや、だれかれに押し付けて貰っていただいたから、無駄ではなかったと思うことにしよう。

 今ならばネットから多くの情報を得られるから、本を買うことは少なくなっているのだろう。でも、本を集めるという趣味に陥っていた可能性もあるからなあ、それが今は本を作るのが趣味になっている。

(20230217記)

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2016/01/11 https://datey.blogspot.com/2016/01/1162edge-of-eternitey.html
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2021/10/31 https://datey.blogspot.com/2021/10/1594.html
1594【老人とコロナ】ひっそりと次々と知人たちが消えていっているらしいが、

2023/02/16 https://datey.blogspot.com/2023/02/1671.html
1671【小説読後感想】久しぶりに面白い戦争小説『同志少女よ、敵を撃て』



2023/02/08

1670【トルコ・シリア大震災】複雑な紛争地域を含み国境を挟んだ両国にまたがる国際大震災の被災者はどうなる?

 2月6日にトルコ南部のシリア国境近くで巨大医師人発生、両国で1万人以上の死亡者とかの報道。



 今どきらしく直ぐに現地の動画による状況が、ツイッターにたくさん登場する。ビルに押しつぶされようとする被災者自身による、その時の動画があるのには驚いた。
 建築物などの倒壊の有様を見れば都市型の震災らしく、1995年の阪神淡路の時にTVで見た報道写真とよく似ている。

 このような国境を挟んでの被災には、救助とか復興とかに大きな障害がありそうだ。特にシリアは内戦中であり、しかも被災地域がその中心的なところだという。
 反政府勢力地域とか、クルド族地域とか、トルコ支配地域とか、複雑に入り乱れているらしい。外国からの救援の人も物資も、入るのを拒否される有様とかとかである。

 それに比べるとトルコは政治的安定があるようだし、もともと地震国で日本並みにこれまでも大震災の経験があるようだから、救援や復興はそれなりに進むのだろう。
 トルコとシリアの間にも紛争があるから、共同してのの救援復興はむつかしいのだろう。トルコ側にはシリアから紛争を逃れて難民が多くいるとのことで、それらの被災者はどうなるのだろうか。

 そんな人間模様が難しい地域に、自然災害の巨大大地震とは、地球はどこかおかしいようだ。異常気象と関係があるのだろうか。
 トルコの北には黒海を挟んだ向こうのウクライナでロシア侵略戦争中である。このあたりの歴史や地理には詳しくないが、遠くから眺めると何やらこの辺りは人間も自然も複雑極まるように見える。(202302008記)

(追記20230209)
 コーランを燃やした事件があったスウェーデンに対して、トルコが対立していたにも関わらず、スウェーデンがトルコ震災復興支援を行うとしたとの新聞記事。さらに長らく対立するギリシャも復興支援するとのこと。
 このようなことで国際間緊張が融和するように、シリアの内戦問題も解決方向に向かうことがあるだろうか。更にウクライナ危機にも影響するだろうか。

(追記20230213)
 発災から一週間後の今日のニューズでは、トルコシリア合わせて死者が33000人以上となったとのこと。崩壊建築の下敷きになっているものが数多く残されたている。両国合わせて被災者数は2300万人にもなるとのこと。

(追記20230214)
 死者は3マ500人を超えるとのこと、トルコ側はある程度正確に判明しても、シリア側は実際は世食わkらないらしい。内戦地域だから政治的に複雑な様相で、支援救援が被災地に入ることさえ難しいことがあるらしい。天才に人災が重なっている。

 今朝の新聞に載る各種の震災資料









2023/02/06

1669【チャイナ気球事件】 そのむかし風船爆弾はるばると 今チャイナ発スパイ風船

 USA上空を真ん丸な気球がふわふわと飛んでいく。チャイナが発した何か攻撃兵器ではあるまいかと、さわぎはアメリカ大陸をつぎつぎと移動する。大陸横断しきって海に出たところで、なんと大げさなこと、USA空軍機がミサイルで撃ち落としたのは、昨日のこと。

 チャイナの政府では自分ところから発したものと認めており、民間の気象観察気球が迷い込んだとのこと、うちのものを撃ち落とすとは乱暴な奴と怒っているとか。
 いっぽうのUSA側は、チャイナ軍が送り込んだ軍事偵察気球だと言う。これから落下物を海から引き揚げて調べるらしい。

 このニュースで、わたしがすぐに連想したのは、太平洋戦争末期の日本軍が飛ばした風船爆弾である。日本国内から飛ばして偏西風に載せ、約9300のうちアメリカ大陸に到達したのは約1000、少ないながら被害を与え、広く心理的な恐怖を与えたらしい。今のウクライナ各地に飛んでくるロシアミサイルのようなものか。

そのむかし風船爆弾はるばると 今チャイナ発スパイ風船

 日本軍の風船爆弾が、今回のチャイナ発スパイ風船の元祖である。もしかして、日本のあの技術をチャイナが研究して復活させたか。
 和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作った直径10mほどの巨大紙風船に、爆弾をぶら下げていた「ふ号兵器」は、1944年から45年にかけて飛んだ。今回のスパイ風船は紙ではなかろうが、大きさがバス2台分ほどというから、風船爆弾より少し大きいか。(追記を参照

 風船爆弾については、わたしの大学同期生たちの証言がある。同期生のうち40人ほどでeメイルネットワークを作り、あれこれ情報交換しているが、あるときそれを使って、戦争体験を23人が語り合ったことがある。その中に風船爆弾に関する話題も行き交った。
  参照:昭和二十年それぞれの戦さ(七~八歳児の戦争体験記憶簿)

 この同期生たちが戦争終結を迎えた1945年の夏は、年齢にして8±2歳あたりであり、迎えた場所は日本列島内だけでなくて、台湾や朝鮮そして満州であった。
 興味深いので概略を紹介する。日本軍の風船爆弾のために人生を(悪い方向と良い方向に)変えた人たちが、日本にもいたのである。

  • A君の場合(場所は高崎市内)
     高崎は焼夷弾にやられて散々だったが、それは高崎では「風船爆弾」を作っていたために攻撃されたと言われた。父親が高崎の女学校長をしていて、校舎を改装して外壁を真っ黒に塗り、校舎内で女学校生達に風船爆弾作りをさせていたとて、親父は新聞紙上で徹底的に叩かれて、もはや高崎にすみたくないと郷里に戻ってしまった。

  • B君の場合(場所は東京工業大学内)
     所属していた某研究室は、戦中には風船爆弾の研究をしていたとて、次のような先輩の手記がある(一部抜粋概要)。
     陸軍では風船爆弾を「○ふ」と呼んだ。気球の皮膜は、和紙にこんにやくマンナン水溶液をコーティングして調製した。この某研では、この調製条件と皮膜の機械的性質及び水素透過速度との関係を追求した。この頃、在宅の女子学生が工大の各研究室に大勢動員されて一斉に賑やかになり女子大に変身した。連日の実験で疲れ果てていた学生たちはにわかに元気を取り戻し、研究が加速された。やがて、お似合いのカップルが誕生し、めでたくゴールインした。

 今回の大陸東方から飛んだ風船は、日本列島上空を通過したはずである。その時に、日本ではこれに誰も気がつかなかったのだろうか。アメリカ大陸と比べると細いから、風船が横断する時間が短かったので気がつかなかったのか。

 近頃は急に軍備増強中らしい自衛隊も探知できなかったのか。風船さえも探知できなくて、どこかから攻撃してくるミサイルを探知して撃ち落とすなんて可能かしら、あ、そうか、だからこそ43兆円もかけて軍備増強するって、岸田さん言ってるのかあ。

 なお風船爆弾については、このような動画がある。https://youtu.be/MSHrAk3Jb28

(20220206記)

(追記2023/02/08)今朝の新聞ニュースに、今回のスパイ風船の大きさの図があったので引用する。高さ60mとあるが、直径60mのことだろうか、いずれにしても風船爆弾とは比較にならない巨大なものである。

2023/02/02

1668 【神宮外苑再開発問題】実質開園済都市公園に都市再開発法の異次元適用とその意図は?


●ようやく再開発事業開始へ

 東京の神宮神宮外苑地区再開発について、最近また世間が騒がしくなった。
 この再開発騒ぎの初めは2013年、オリンピックメイン会場となる国立競技場の建て替え事業であった。その主たる事業者はJSCであるが、これにいくつかの団体会館やら民間共同住宅やらが関連していた。なんだかんだとあったが、現在はいずれも計画通りに完成している。

 今回の騒ぎは、国立競技場騒ぎのあった土地の隣のまさに外苑そのもので、市街地再開発事業をやるということがテーマである。
 その再開発事業内容が、都市計画の変更環境アセスメントの行政手続きに乗ってきて、内容が世間に分かってきた。それと同時にその問題点の指摘が各方面から上がってきたのである。

 現段階で大きな騒ぎの主な点は二つあり、ひとつは再開発事業によって外苑名所のイチョウ並木が切り倒されるという話の流布であった。もう一つは超高層ビルが建つという、外苑の公園機能の縮小と景観変化への反対論である。

●樹林樹木保全問題と環境アセス

 イチョウ並木の問題は、更に他の樹林の保全問題へと話は広がり、これに並行してランドスケープアーキテクトの石川幹子さんが、専門家として自主的に植生調査を行って問題点を検証し、イコモスの委員会の立場で指摘をした。更に進めて事業者の作成したアセス評価書の植生に関する調査に誤りと虚偽があり、再審議をアセス審議会に提言したのであった。
  参照:イコモス緊急提言

 その指摘の内容については、わたしは専門家でないからコメントできないが、読んでみると虚偽であるとまで言われているのだが、それを作成した事業者側の専門家はどう対応するのか気になる。
 このアセス作業を行ったのは、形式上は再開発事業者だが、実質はアセスコンサルタントだろう。それは日建設計だろうか、そして植生調査担当者はなんというお方だろうか、専門家の矜持が問われているのだから答えてほしい。

 東京都アセス審議会は、よくある緑好き市民おばさんたちによる,感覚的反対一点張りではなくて、専門家から詳細な現場調査をもとにしたアピール、しかもイコモス委員会からとて、無視できなくなったのであろう。アセス審議を完了ではなく、継続審議するとしたのである。今月の審議会で、事業者はイコモスからの指摘へに対応する調査を提出せよとなったらしい。
 その背景には多様にして多数の一般市民からのアピールがあり、一部国会議員等の政治家も動いてきたからだろう。

 このイコモスの提言を作成した石川幹子さんは、かつて国立競技場の建設においてもその立体公園について問題を指摘したアピールを行ったことがあるが、都市計画審議会は完全に黙殺したのだった。
 あの時にもしもアセスが必要であったなら、今回のように事業者JSCは対応させられていただろうか。今回も都市計画審議会は、地区計画の変更を樹木問題には全く触れないで通してしまった。ふたつの審議会の違いが興味深い。

 さて、事業者はそのアセス評価書の記述を、石川幹子さんに「虚偽」だらけであるとばかりに指摘されているが、果たしてどう反論するのか興味津々である。当然に正しい評価書であるというだろうが、アセス審査会はどう扱うだろうか。

●非都市計画個人施行再開発事業

 今回は都市計画としての形式上は国立競技場建て替えの延長上だが、内容を見れば事実上は単に隣の土地の再開発である。なぜあの時にひとつの地区計画にして都市計画決定したのか分からない。あの時には、今よりもっと分らなかったのに、なぜ都市計画審議会は審議できたのか、それが分からない。
 参照:2013/12/07【五輪騒動】都市計画談議(その5)

 もしかして、オリンピック計画中のどさくさにまぎれて、こちらも合わせて都市計画決定すれば、あれこれ指摘されないで済むと考えたのかもしれない。この2013年の都市計画についての諸問題は、今になって初めて言うのではなく、わたしはあの時すでに書いている。
 参照:2013/12/03【五輪騒動】都市計画談議その1その9

 今回は宗教法人明治神宮を主たる事業者とする神宮球場と、独立行政法人JSCを主たる事業者とす秩父宮ラグビー場の、場所入れ替えによる建て替えである。そしてそれに隣の伊藤忠商事ビルもまき込んで、市街地再開発事業(都市再開発法に基づく法定事業をいう)に仕立てるとする。

 国立競技場の場合は隣の土地も取り込んでの公共用地だけによる建て替えだった。しかし今回は土地権利者が4者の複数である。神宮とJSCの土地建物の入れ替え建て替えと、伊藤忠ビル建て替えをひとつの事業として合わせ技で建設にする。
 実のところ、外部の者には建築物等の空間的な配置や形状は事業者の発表資料である程度分かるのだが、事業の進め方や内容は部外者にはまことに見えにくい。
 しかも、市街地再開発事業個人施行、非都市計画事業)という、ある種のブラックボックスの中で進むから、ますます見えにくい。

 秩父宮ラグビー場は国の機関JSCによる公共施設だから、この建て替え移転事業が市街地再開発事業の中で行うとしても、ブラックボックスでは困る。国民にいつも見えるように事業を進めてもらいたい。 

 一方、その他は民間事業者の施設だから外に見えなくても良いだろう、と言われても困る。伊藤忠ビルはともかくとしても、野球場などの神宮のスポーツ施設は、多様な人が利用するのだから、できるだけオープンに事業を進めてもらいたいものだ。
 そもそも神宮外苑の土地が戦後に明治神宮の所有になったのは、国有地であったのを特別に市価の半額で買い受けたのだから、半分公共的な土地である。であればこそ都市計画公園指定になっている。

 ラグビー場はPFIで建設するとて、すでにその民間事業者もコンペで鹿島グループに決定しているそうだ。その設計者の中に国立競技場審査員だった建築家の内藤廣さんがいるのが興味深い。
 このラグビー場の当初建設業者が鹿島だったから、そうなるだろうと言われていた通りだ。鹿島のPFIコンペ入札価額が他のコンペチタ―たちと比べて飛びぬけて安く、鹿島が意地で取ったとの噂である。

 ついでに言えば、国立競技場は大成建設だったが、これも最初からそうだった。まだきまらない次の大物は神宮球場だが、これも同様な理由で大林組になるだろうとの噂とて、日本の建設業界の伝統というか慣習というか、見事なものである。

●UR都市再生機構の登場

 さてそのラグビー場と市街地再開発事業との関係だが、あの地権者たちとは違ってちょっと特殊な立場になるらしい。
 それについては業界新聞記事で最近知ったのだが、市街地再開発事業について施行認可申請を、個人(4者共同)施行として、施行者は明治神宮、伊藤忠、UR都市機構だそうである。JSCの名が消えているのはなぜだろう。

 それに代わってURが登場する理由をよく分からないが推測すれば、JSCは再開発事業のためにURに土地信託をするのだろうか。いわゆる土地土地権利変換で敷地を決め、その敷地に建てるラグビー場は特定建築者制度でPFI事業者が建設するのだろう。これも推測である。

 とすれば、市街地再開発事業にJSCは全くノウハウがないので、こういうとき独立行政法人でありかつ市街地再開発事業のノウハウを持つURを起用したのであろう。UR起用で国立競技場の時のような大ドジをしない心構えなのだろう。そういえば、早い段階ではこの事業全体をUR施行としようとの検討もあったと、某筋から聞いたことがある。

 生き馬の目を抜く東京の民間不動産屋の手練手管に、ナイーブな国家機関のJSCが手玉に取られて、国民の財産であるところの現資産を損しないように、むしろ得をするように、うまく立ち回ってほしいものだ。
 その点でURを引き込んだのは良いことである。どれくらい頼りになるのか知らないが、。実は私は以前にURの起用について2019年ブログに書いたことがある。
 参照:五輪便乗再開発

●なぜ法定再開発か

 でも、なぜ市街地再開発事業に持ち込んだのか。
 普通の再開発事業の様に、権利者たちが敷地や建物を共同化する、なんてこと全くやっていないようである。それぞれの敷地別に容積率の移転はすでに地区計画で決めてあるから、それぞれ権利者間で土地を交換したりして、それぞれの敷地にそれぞれ建物を建てればよいではないか。
 それは当然ながら、市街地再開発事業にすることが事業者に大きなメリットがあるからだ。一般にそのメリットデメリットがいくつか言われるが、ここではデメリットはないようだ。

 だが、都市再開発法第3条にある市街地再開発事業発事業とするためにいくつか要件があるのだが、それにどうも抵触する可能性があるのだ。これは事業そのもののデメリットとは言えないが、事業者にはそれを前提とするにはリスクがあったはずだ。重要なことなので一応デメリットとして書いておく。

 その要件であるが、都市再開発法3条にこうある。「三 当該区域内に十分な公共施設がないこと、当該区域内の土地の利用が細分されていること等により、当該区域内の土地の利用状況が著しく不健全であること」。

 ところが外苑の現地をだれがどう見てもこれらに該当するとは見えない。道路公園などの公共施設は整っているし、権利者4者の土地はいずれも広くて細分化されいない。
 建っている現建物は、ラグビー場も野球場も耐震改良が済んでいるし、歴史的価値さえある。1980年建設の伊藤忠ビルはどうか知らないが、すでに高容積高層高度利用建築である。いずれも不健全土地利用とは言えない。
 土地利用状況が著しく不健全どころか著しく健全だから、都市再開発法の適用は不可能としか見えない。これを都知事が施行認可するには法解釈で通り抜けるしかないが、それはもう都市計画というよりも政治的な何かが必要であったかもしれない。

 不可能なように見えるところを可能なように見て、東京都知事の認可を受けるのは、かなりの難物であるだろう。ネットで見る限りは、港区から都への認可進達はすでにあったようだが、未だ都知事による施行認可は降りていないようだ。
 だか、ここまで来るには当然に根回しやら会議やらで、事前に認可可能との判断が出ているのが通常の行政手続きである。

 一般的に市街地再開発事業と言えば、その事業前も事業後もかなり複雑な土地建物であるが、ここでは拍子抜けするほど前後共に超簡単であるのが特徴だ。
 市街地再開発事業特有の複雑な権利変換手続きは、事実上は不要に等しいだろう。つまり市街地再開発事業とする意義が感じられない。流行語で言えば異次元再開発だな。

市街地再開発事業のメリット

 では市街地再開発事業とする事業者にとってのメリットは何か。
 ひとつは事業への一般会計補助金の交付があることだ。つまりただ貰いの税金からの支出を事業者は受け取ることができる。
 実のところは、わたしは現在の国や都が定める市街地再開発事業への一般会計補助要領を知らないので、不適用かも知れない。
 もしこの事業が補助要領に適合するならば、かなりに額の補助金が国と都から事業者に交付される。計算方法は簡単ではないが、前例的にはうまく行けば事業費の3分の1くらいになる。なお、JSCはもともとが国の税金を原資として成り立つ独立行政法人だから、補助対象とならない。

 ふたつめのメリットは、税制優遇である。市街地再開発事業によって土地や建物の権利関係が動いて建設されるが、これらの不動産取引にかかる租税が免除や減額される。
 あの立地であれだけ大きな土地が動き、あれだけ大きな建物を建てるとしたら、それにかかる取得税や固定資産税などは税額は巨額であるはずだ。これの税減免措置が市街地再開発事業適用の主目的かも知れない。

 とくに最大の地主であり最大の建築者である明治神宮には、大きなメリットがある。これがあることが再開発事業への動機になっているに違いない。
 もちろんそれは三井不動産とか再開発コンサルタントでもある(らしい)日建設計などの入れ知恵であろう。なお、JSCは免税団体だからこれは関係ない。

 メリットの第3は、事業区域内の敷地間で容積移転(正確は容積の適正配分)ができることである。これが事業者にとって最もメリットがありる。
 ただし、これは正確な言い方ではない。容積移転は市街地再開発事業によって可能になるのではなくて、その前提となる特定地区計画によるものである。だが、事業の前提であるからメリットとして挙げておこう。

 外苑地区市街地再開発事業区域は、大部分が都市計画公園地域内であるために、そこに他から容積率移転しても公園規制で超高層建築が不可能という特徴がある。
 そこで事業化の前提として公園指定を削除するという荒業の都市計画変更をしたのである。形式的にはともかくとしても、実態としては都市公園内に超高層地区を設定したのである。

 外苑地区市街地再開発事業区域が、イチョウ並木の東に沿って何も建築しない細長い尻尾を出しているのは、その部分の容積率をイチョウ並木の上空を飛ばして、公園指定削除した超高層地区に持ってくるためである。いわゆるゲリマンダーになっている。このような区域設定は、都市計画道路整備がある場合のほかは珍しい。

 公園指定を削除した範囲も、ゲリマンダー形態をしている。実のところ今回の事業の最大目的は公園指定解除であったらしい。そのために公園まちづくり制度を作り、都市計画変更し、市街地再開発事業の持ちこんだのであろう。ここまで持ち込むに10年以上かけての新解釈再開発戦略展開に、ほとほと呆れつつ感心する。

●事業者たる地権者たちの顔が見えない

 さて、事業が目に見えて動き出すようだが、この事業者のうちの宗教法人明治神宮は、最大権利者であり、できあがる施設の最大の持ち主、運営者となるはずである。つまりこの事業における社会的責任が最も重いはずだ。

 それなのに、この宗教法人はこの再開発事業に関して、全く姿も形も見えず声も聞こえない。明治神宮はこの再開発の影響を受けるのに、何をしているのかと心配してあげるという、まさに実情を知らない人もいる。明治神宮こそが、この再開発の主役なのである。影響を受けるのではなくて、与える側にいるのだ。
 その明治神宮ウェブサイトには、全く再開発のことを書いていない。何を考えているのだろうか。これは宗教活動ではないから良いのだとか、神様だからというわけでもあるまいに、どうしてだろうか。

 最も世間が問題にしているのは、法的にはクリアしたとしても事実上は公園内に超高層ビルを建てることであり、それは実質的に神宮の事業である。実はもう一つの問題となっている保全すべき樹林も、神宮の所有地である。それなのに当事者が全く知らぬ存ぜぬの体で、三井不動産に任せきりでよいものだろうか。

 わたしはもうひとりの権利者の態度にも不満がある。東京都心に作ると都市計画で決められていた広い公園が、この事業のために削除されたのだが、それには文科省が大きく加担したことである。そのあたりを関係者はどう思っているのだろうか。

 もしかして公園まちづくり制度に従っているから良いのだと思っているとすれば、都市計画公園廃止に寄与する制度に国が与してはいけない。それは法ではなくて東京都独自の制度に過ぎない。しかももしかしてこの外苑再開発事業のために作った制度であろうかと、わたしは疑っているのだ。参照:五輪便乗外苑再開発

●公園緑地に都市再開発法適用の荒業

 なんにしてもこの件で、元都市計画家のわたしが違和感と疑念を抱いている一番の点は、すでに整備され利用されてきた公園緑地を、都市再開発法を適用して公園施設の建て替えをすることである。
 それはこの方が立法時にも今も予測していなかったであろう。この意表を突く手法の案出は、この地区の最初の地区計画指定をした2013年よりも前のことのはずだ。同時にセットで公園まちづくり制度も案出したのだろう。そして10年以上かけて前代未聞の市街地再開発事業として、ここまで持ち込んだのである。

 その手法を案出した専門家は、多分、再開発プランナー資格を持つ都市計画家だろうが、それはどなただろうか。日建設計か都市計画設計研究所か三井不動産かに所属するお方か、あるいは東京都のインハウスプランナーだろうか。
 思いもつかなかったわたしは、その都市計画家に嫌悪と畏敬を抱くのである。そしてその手法を節税方法を選んだ地権者たちにも同じ思いである。
 立法から54年、都市再開発法は意外な方向に、大きく変貌変質したのである。

                      (2023/02/01記)

参照:国立競技場及び神宮外苑問題瓢論集(伊達美徳)https://datey.blogspot.com/p/866-httpdatey.html