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2024/02/14

1792【カリフォルニアの歌詠み】アリゾナの動くものなき荒野なる大岩割って初日登り来

  短歌を詠むのが今の流行らしい。わたしは短歌を詠むことはめったにしないが、狂歌をちょくちょく詠む。形式は短歌と同じだが、狂歌はダジャレと皮肉で時代を風刺するものと心得ている。

 短歌を読むことを好きである。各新聞が歌壇を設けて、読者の投稿欄としている。毎日曜日朝刊に載る「朝日歌壇」を読む。この2月11日の朝日歌壇に、知人が2首入選している。この人はちょくちょく入選する。

 まず、馬場あき子と高野公彦の二人の選者にダブル入選歌。

  動くものなきアリゾナの荒野なる大岩割って初日登り来
                 (アメリカ)大竹幾久子

 もう一首は永和弘選。

  戦禍にて生後三日で逝きし子のたった三日も人生とよぶのか
                 (アメリカ)大竹幾久子

 短歌は詠み人の口から出たら最後、その人の作品であってももう誰でもそれぞれの自己流の解釈で自由に読んでよいだろう。それが短歌を読む側の楽しみである。

 この二つの大竹幾久子作短歌を、わたし流に自由に読むことにする。それには前提がある。この作者が日本出身の人であり、今はUSAに市民権を得てカリフォルニア州に住んでいることだ。初日の歌のアリゾナは彼女の東隣の州である。その北にはネバダ州がある。

 「動くものなきアリゾナの・・」と初句と二句を七五としているが、普通なら「アリゾナの動くものなき・・」と五七順に並べるだろう(このブログ記事のタイトルのように)。この方がすらすらと読めるのに、この歌の破調は何を意味するのか、歌人の意図を勝手に考えて遊ぶ。

 アリゾナの北隣のネバダには核爆弾実験場があり、そこでは巨大爆発の火の球が、まるで太陽のように輝き、キノコ雲を天にめり込ませ、地を割って生じた大量の猛毒の放射性物質を、ネバダにはもちろん隣のアリゾナにもまき散らし降らせた。

 この歌が破調で揺らぐのは、このアリゾナの初日の出も核実験の巨大火の玉の暗喩と読むこちらの心だろう。歌人はそこを狙ったのかどうか知らない。かつて核実験初期には、このあたりの住民は、まるで遠花火を眺める如くに、核爆発火の玉やキノコ雲見物をしたそうだ。もちろんそれによる後遺症が続出したはずだ。

 そしてまたその暗喩が重要なことは、この歌人が1945年の広島で人類最初の戦争下の核爆弾を被爆している人であることだ。揺らぎつつ大地を割って昇りくる初日の出は、ヒロシマにもつながる火の玉かもしれないと、この歌人は詠んだのかと、勝手に深読みして遊べば、おめでたくない不吉な初日の出になるのだ。

 この歌人はその不吉さを詠んだとしたなら、もう一つの永田選の「戦禍にて・・・」の、たった三日の人生の赤子は、もしも生きながらえたとしても、核の火の玉のもとで逝く運命だったかもしれぬと、歌人は言外に詠んだのかも知れぬと、深読みをして遊ぶのだ。どこか不吉な遊びだ。

 このブログで大竹幾久子さんの歌について書いた記事は多い。その夫君と実兄がわたしの大学以来の畏友であるという縁がある。
●2011/09/26・カリフォルニア歌人…
   https://datey.blogspot.com/2011/09/500.html
●2012/07/31・日本人は5度目の…
   https://datey.blogspot.com/2012/07/648.html
●2012/11/12・原発事故調報告を読んだ… 
   https://datey.blogspot.com/2012/11/688.html
●2013/01/07・カリフォルニア歌人…
   https://datey.blogspot.com/2013/01/705.html
●2013/12/23・カリフォルニア閨秀歌人…
   https://datey.blogspot.com/2013/12/879.html
●2015/10/18・いまなお原爆と向き合っ…
   https://datey.blogspot.com/2015/10/1134.html
●2018/08/12・カリフォルニア夫婦歌人…
   https://datey.blogspot.com/2018/08/1156.html
●2018/12/23・カリフォルニアの旧友…
   https://datey.blogspot.com/2018/12/1175.html
●2019/03/03・カリフォルニア歌人登場…
        https://datey.blogspot.com/2019/03/1191.html
●2019/08/11・戦争の八月広島核爆弾…
   https://datey.blogspot.com/2019/08/1414.html
●2020/06/15・コロナ世界探検…
   https://datey.blogspot.com/2020/06/1469.html
●2022/10/03・朝日歌壇の歌人】カリフォルニア夫婦歌人
   https://datey.blogspot.com/2022/10/1549.html
●2024/02/14・アリゾナの動くものなき
   https://datey.blogspot.com/2024/02/1792.html

(20240214記)

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伊達美徳=まちもり散人
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2023/11/28

1751【Yahoo!LINEかよ~】LINEの裸淫とヤフーのヤプーとがつながって奇書が取り持つ縁かいな

 このブログに今月の初めにも採り上げた【LINE裸淫】についてまた書く。どうでもよいのにヒマだねえ。


 これについてはこのブログでずいぶん前から何度か面白がって指摘しているのだが(初出は2018年のコレ)、かいつまんで書くとこうだ。
 そのLINE発音の日本語イントネーションが、英語式ではなくて日本式「ハダカでミダラ」であるのを奇妙に思いオチョクリ面白がっていたところ、何故か使えなくなったので復活する操作が面倒なので、裸も淫も卒業したからもういいやと、全部アンインストールしたという話であった。

 さて、今日の新聞に「ライン情報44万件流出』との大見出し、使っていないから記事内容には興味がないのだが、「IT大手のLINEヤフー」と企業名が書いてるのに気が付いた。


 え、そうだったのか、ヤフーとラインは繋がっていたのか、知らなかった。これでまたオチョクリ種が増えたのが嬉しい。裸にして淫だからヤーにつながるのか、なるほど、。

  IT起業の「Yahoo!」の名を知ったのはいつだったか覚えていないが、「家畜人ヤプー」よりもはるか後だったことは確かだ。なる企業名を初めて見た時に、変な名前を付けるものだ、あの奇書「家畜人ヤ」から採ってきたのか、奇人が社長かしら、どんな人だろうと思った。日本法人のトップは孫正義だったから、この人が奇人かと思った。

 後にヤフーは外国企業と知ったので、奇書がもとではないと分かったが、日本企業としてはヤフーのままでよいのかなあと思っていた。それからヤフーが検索サイトなどでぐいぐいと伸びてきて、一時わたしもヤフーメールを使っていたこともあった。が結びつけられて語られたとは聞いたことがない。世間ではマイナーな奇書だったのか。

 しかしわたしはヤフーのネットサイトデザインが広告だらけで、実に汚らしいのでヤフーを嫌になった。そのうちにグーグルの方がサイトデザインがすっきりしていることに気が付いて、今ではそちらに乗り換えてヤフーとは縁が切れている。今も汚らしいようだ。

 さて、これをここまで読んで、「家畜人ヤプー」なる奇書をご存知ないお方にはちんぷんかんぷんであろう。今ではネット検索すればすぐ分るからここで解説しない。私がその奇書を読んだのは角川文庫本になってからずいぶんたった頃だから、1970年代後半だったか。

 あまり昔なのでもう内容をほとんどを忘れたが、寺山修司や澁澤龍彦が激賞するほどのSF、SM、エロ、グロ、冒険など満載の奇書であった。そのヤーイメージでヤーなる企業名に出会ったものだから、奇妙な偏見にとらわれたのであった。

 今調べたら「Yhoo!」の創設者によるネーミングの元は、スウィフト作「ガリバー旅行記」に出てくる野獣の名だと出てくる(Wikipedia)。そう言えばそうだ、朝日新聞にガリバー旅行記の新訳が連載されたのは5年ほど前だったろうか、「馬の国」でガリバーは「ヤフー」という退化した人間に出会う。ヤフーは理性ある馬「フイヌム」たちにこき使われれていた。

ガリバー旅行記 フィヌムとヤプー

 ガリバー旅行記はよくできた風刺小説であり、その時代としては一種の奇書だっただろう。そして「家畜人ヤプー」は、この元祖奇書がはるか後世に産み出した奇書であろう。
 やはり「YAhoo!」と「家畜人ヤプー」はガリバーを通じてつながっており、ヤフーは資本を通じて「LINE」とつながり、牽強付会で「裸淫」とつながり、メデタシメデタシ。

 ここで歴史的経緯(というほどではないが)をまとめておく。
 ・1735年 スウィフト「ガリバー旅行記」完全版の出版
 ・1956年 沼正三「家畜人ヤプー」が「奇譚クラブ」に初出現
 ・1996年 IT企業「ヤフー」設立
 ・2011年 SNS「LINE」出現
 ・2018年 まちもり散人 ブログ「伊達の眼鏡」で「LINE裸淫説」初出
 ・2023年 ヤフーとLINEが結びついた 

 というまことにもってどうでもよい話である。

(20231128記)

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伊達美徳=まちもり散人
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2023/11/20

1744 【まだやってる紅白歌合戦】TV見ぬ老人でも名だけ知る歌手10人、いまに紅青白歌合戦になるか

 個人的にはなにも感じないが、クリスマスとか年末が近いらしい。

 クリスマスが近いということについては印象深い記憶がある。
 あれは30年も前だったか、仕事でヨーロッパのあちこち訪問する旅があったとき、仕事とは関係のないウィーンに泊まった。11月25日の夜のこと、前の日までは静かだった街が、その夜から電飾がきらめき、街の広場は明るく照らされて沢山の屋台が出ている。

クリスマス市が立つウィーンの電飾 1994年11月25日

 クリスマスのちょうど1カ月前の今日から、クリスマス用品を一斉に売りだす習慣があるのだ。街のあちこちの広場に市が立つし、商店街はイルミネーションの飾りつけで明るい。それはクリスマスがもうそこにやってきたという、期待のある賑わいの雰囲気だった。
 そうか、キリスト教の国の街ではこうやるのか、さすが日本ではやらないなあ、日本のお正月飾りのようなものもあり、けっこう珍しくも楽しかった。最近は日本でもやっているのだろうか。

 日本では年末が近いとて、例の今年の新語流行語大賞候補の発表とか、年末恒例のNHK放送の紅白歌合戦出場者発表とかがあると、若干は季節の節目を感じる。
 だが、わたしはTVを全く見ないから、紅白歌合戦なんて忘れてしまった。今日の新聞の漫画にその話題が載っていて気が付いた。

 ネット検索して、今年の紅白歌合戦出場者名簿を探し出した。その番組を観ようというのではない。この漫画や新語流行語と同じで、わたしが出場者とかその歌とかをどれほど知っているかを調べてみたかったのだ。

 その結果は、意外と言うべきか、少しでも知っていた人たちがいたのが奇跡のような感である。
 全出場者数44人(組)のうち、名前を聞いたことがあり歌も何だったか聞いた記憶があるお方(印)はわずか3人である。
 名前だけは聞いたか読んだかした記憶があるが、歌は全く記憶にない人(印)が7人、後は全く名も歌も知らない。

 TV観ないから当然のことに惨憺たるものだが、わたしとしては少しでも聞いたことある人が、10人もいることが驚きであった。
 それにしても紅白歌合戦なんて、少年のころに聞いたような記憶があるが、何時からやっているのかしら。
 そう思ってネット検索したら、なんとラジオで1951年1月からとあるから、わたしの記憶は正しい。5球スーパーラジオだったかしら。

 さらに続くとすれば、近いうちに歌合戦になるだろう。男と女とを別の組にし分けて競わせることに、異議を唱える人たちが必ず登場してくるに違いない。世に性別で競う遊びや文化はたくさんあるが、これから面白いことになりそうだ。

(20231120記)

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2023/06/26

1694【能楽鑑賞】三十年ぶりに能「二人静」を観てきた

 横浜能楽堂で能「二人静」(ふたりしずか)を観てきた。この能を観るのは3回目である。最初は1993年2月4日青山の銕仙会舞台での公演で、シテ野村四郎、ツレ清水寛二だった。これが実に強く印象に残っていて、かなり細部まで覚えている。
 実はその時に密かに録音したテープもあり、もう100回くらいは繰り返して聞いている。もう一回はどこで観たか記憶がない。

 今日の「二人静」は、喜多流であった。初めに歌人の馬場あき子さんと古典芸能解説者との肩書の葛西聖司さんの対談があった。というよりも、葛西さんは馬場さんの話の引き出し役だった。葛西さんはむかしNHKTVの古典芸能担当の司会アナウンサーだった記憶がある。

 馬場さんの解説は、これまで何回かこの能楽堂で聞いていて、なかなかに含蓄があり、興味深いものがある。今日も面白かったが、馬場さんの解説の解説が入る葛西さんが邪魔な感もあった。
 ひとつどうも気に入らない彼の言動があった。何かの話の途中で、「ハイ、こちら95歳で~す」と、いかにも歳にしては若いだろうと言外の動作に込めて、笑いを取るのである。
 馬場さんはちょっと見には謙遜している様子にみえたが、あれは明らかに迷惑がっていると、こちらが超高齢者だからよく分かる。年寄りの癖に若くて何がいけないんだよ、大きなお世話だよ、文句のひとつもを言いたいのだ。

 ところで、馬場さんもこれまで「二人静」を観たのは2回だけとのこと、10歳も年上の馬場さんがわたし同じ回数とは、どうでもよいことだが、なんだか近しいと感じる。ということは、あまり演じられない曲であるのか。
 それにしても馬場さんは今95歳だそうだが、その博識や論評はもちろんだが、切戸口からの舞台登場と退場の所作も舞台上の椅子で語る姿勢もキリリとしていて、口調も滑舌であることにただただ見とれる。こうありたいと思わされる数少ない超高齢者である。

 今日のシテの佐々木多門(1972~)もツレの大島輝久(1942~)も初めて観る能役者である。横浜能楽堂の企画で、馬場さんが推した「この人この一曲」であるとのこと。わたしから言えば、能役者よりもこの曲と馬場あき子と組合せを気にいって観に来たのだ。

横浜能楽堂サイトより引用

 能役者の上手下手は、よほどの下手でないとわたしには見分ける能力がない。二人静の見せどころの相舞は、それなりに合致していたのだろうが、良し悪しを言えない。
 このたびの座席の位置が、脇正面の橋掛かりから3列目後方から2列目で、これほど隅っこで観たのは初めてだった。鏡の間の気配を感じるし、登場する役者やその装束をごく近くで見ることができて、それなりに面白かった。

 この席からは舞台を真横で見ることになり、能の見巧者には能役者の所作の良しあしがよく分かるのだそうだ。観られる役者にはいやなものであるらしい。今日はその席で観たのだが、舞台正面に向かった並んで舞うシテとツレのふたりの動きを、真横から観るとほとんど重なっている。ふたりの相舞がぴったりと合致するとほぼ一人に見える。逆に一致しないと、ばらばらに見えることになるが、それをいかに面白がるか。

 多分、基本はぴったりと重なるように舞うべきなのだろうが、実際に見ていると重ならない方が面白い。二人が同じ動きをするのだが、それが微妙に時間差があって位置がずれると、舞台に奥行きが生じてくる。その時、その動きの違いを計測するが如くに観ていると、舞台に深みが生じるようだ。 

 能開演前の馬場さんの、二人静について大昔こんなことがあったとの話のひとつ。
 不仲の師弟の役者がシテとツレを演じた相舞で全く反対の舞をしたという昔人の書き残した話題を述べて、それも小書きになると面白いのに、と笑うのだった。
 やはり正面からあの華やかな装束が二つも舞台に左右に広がって、同じ様にきらめきながら二つ蝶のごとくに舞い続ける姿を観る方が良いと思った。あるいは見巧者になると、脇正面から観てその相舞のずれ具合の美しさを楽しむようになるのかもしれない。

 30年も前に見たシテ野村四郎の「二人静」では、舞台上にいるツレが、橋掛かり途中に腰掛けるシテの動きに操られているように動く、いや、動かされる印象的な場面があった記憶がある。でも今回それはなかったが、そのような演出もあることを、事前の馬場さんの話にあったから、わたしの記憶は確かなものと確認した。

 そういえば思い出した。その野村四郎シテの「二人静」を見てから10年以上たっていたころだが、その謡を習うことになり、ようやく謡本の1級に到達したのだ。
 その稽古の初めにわたしはこの曲の師の舞台を観たことを得意げに話したら、すぐにわたしの一部記憶間違いを指摘された。そうか、観た方よりも舞った方がよく覚えているのは当然だろうが、プロは自分の全部の舞台を細部まで覚えているものなのかと、ちょっと驚いたことがあった。その師もコロナ中に去ってもういない。

能「二人静」(喜多流)   主催:横浜能楽堂主催

私が選んだ訳」 馬場あき子(歌人)、聞き手:葛西聖司

シテ(静の霊)佐々木多門
ツレ(菜摘女)大島輝久
ワキ(勝手神社の神職)大日方寛
アイ(従者)野村拳之介
笛: 一噌隆之
小鼓: 飯田清一
大鼓: 佃良太郎
後見: 塩津哲生  狩野了一
地謡: 出雲康雅、長島茂、内田成信、金子敬一郎
    友枝真也、塩津圭介、佐藤寛泰、谷友矩

 横浜能楽堂は、自宅から近くて都心隠居の身には願ったり叶ったりの所だったが、改装のために1年ばかり休場するとのこと。
 コロナでながらく休場状態だったのにまた休場とて、年寄りにはまことに困る。休場が明けたころには、こちらの足腰が立たなくなっている可能性があるからだ。
 コロナで逼塞させられている間に、年寄りは再起不能になってしまい、まだ動けるし好奇心もある晩年の貴重な時間を奪われてしまう不幸に出くわした。もう取り戻せないのだ。

(20230625記)

筆者の能楽鑑賞記録一覧「趣味の能楽鑑賞瓢論集


2023/04/03

1680【来年の花は?】まったくもって世の中に絶えて桜の無かりせば、、な春だ

 遂に4月も3日になって本格的な春到来、今年の桜開花は去年よりも早いようで、3月半ば過ぎからこちらの心が落ち着かずに、花ばかり気にしているのは、今の自分の年齢のこともあるが、なんとなくコロナ明けという世間の様子もある。

 ほぼ毎日徘徊に出かけるが、今日も根岸森林公園の桜を見てきた。近くの森林公園には何度も行っていながら、春の梅の花はみても桜の花見は初めてだ。もう盛りを過ぎていたが満開の時はかなりすごい風景と想像することができる。来年の花見をするなら、ぜひとも盛りの時に来よう。

根岸森林公園の桜、狂気のごとく咲く花というのもしらけるものだ

根岸森林公園の花見

 今年3月末からこれで花見を目的とする徘徊(徘徊定義は無目的だから正確には徘徊ではないが)に、もう5回も出かけたことになる。
 花吹雪は波もいいものだから、まだまだ花見徘徊やれそうだ。大岡山キャンパスには2回も花見に行ったし、横浜の近くの大岡川も掃部山ももちろん、わが家から見下ろす花見もあるのだ。

大岡川の花見

自宅下に咲く花には小さな布の花も咲く


大岡山のキャンパス花見

 桜の花見に心が急くのは、何しろ花の期間が1週間もないから、花に追いかけられている感があるからだ。
 来年もあるから急がなくてもいいよと言われそうだが、それがわたしの歳になるとそうはいっていられない。八十路半ばとなると、来年も花を見られるかなあと本気で思うことが、まわりから起きてくる。訃報である。

 同年の親友のひとりが重病でこの1年を送っているが、彼からのメ―ルに「来年も見られるかな」と一言あって、ズキンと響いた。もう10数年前にも、ある親友が病床で同じことを言い、次の花を見ることはなかった。
 わたしがそういう時はいつだろうかと思う。何かもっと格好良い言い方を、今の内から考えておこう。

 コロナがやって来た次の年の2021年春に、願わくは花のもとに春死なんその如月の望月のコロナと狂歌を詠んだ。そして22年もそう詠み、今年も詠んだ。
 いつになれば最後の「ナ」を言わなくて済むようになるか。いや、その時が来たらもとにもどって、狂歌でなくなるから詠まないな。

 実のところはコロナ禍であろうとなかろうと、今やわたしはこの心境である。西行は73歳でこの歌の通りに春に死んだそうだ。しかしこの歌が載る歌集が世に出されたのは死の5年前だから、この歌を彼が詠んだのは少なくとも死の5年以上前だ。つまり68歳以前だから、わたしよりも15年以上も若い頃だから、偉いものだ。いや、昔はいまより若くて死んだものだから、実年齢は同年くらいなんだな、と思うことにしよう。

 老いると桜の花見の視線が変わる。母校の大学キャンパスの花見を同期仲間と毎年やっているが、その桜の樹がもうヨレヨレの老木なのである。樹幹は広がっているから花は大きく広く咲く。もう70歳くらいの超老木なのに偉いものだ。
 だが、花の下の幹を見ると黒々とひと一抱え以上もあり、ごつごつとして左右に凸凹とし、そこからいくつもの枝が、自由自在に上下左右に伸びる。地を這うように横に伸びる枝もあるし、半分皮がむけて筋肉が見える枝もある。
 そんな老木が花お咲かせているのは、どうも無理やりやっているような、それはそのままわれらが老いの無理矢理姿に思えてしまう。花見ならぬ幹見をして、気の毒になる。

大岡山キャンパスの桜 老幹にも一輪づつ咲かせる健気さ

 今年の花見の時は、コロナ明けともいえる時期に重なったから、なおさら感慨深い。本当にコロナが明けたとは到底思えないが、とりあえずは政府がマスクはいらないよと言ったから(本当に言ったかしら)、いつもは政府嫌いなのに、こんな時ははいはいと便乗していうことを聞いてしまい、マスクを外して人に会って喜んでいる。

 言い訳すれば、じつはそれには切ない心情が裏にあるのだ。そう、花に来年は会えないかもと思うように、人にも同じ様に思うのである。
 3月から急に親しい知人たちに会う機会が多くなった(多くした)。リタイアした仲間同士では特に用事があるでもないが、花と同じでいま会わないと次がないかもしれないから、今のうちに会おう会おうと言いあう。これでコロナがぶり返すかもしれない。そうなると本当に会えなくなる。

 一緒に花見酒を飲もうよと言いあっている人も多いだろう。だが、わたしはコロナで逼塞中に酒飲む気がなくなってしまった。コロナ前にはよく一緒に飲んでワイワイとやる人たちも、互いに敬遠しあうしかなかった。
 その時期がこれほども長くなり、わたしはひとりで飲むのもバカらしいままでいたら、酒の美味さも誰かと飲む楽しさも、どうやら忘れてしまったらしい。

 先日、久しぶりに大学時代の山岳部仲間7人で飲み会やった時に、わたしはビールをグラス一杯だけで後はお茶を飲んでいたが、それで十分に楽しかった。これは年寄りには懐にも健康にもよいこと思うと、われながら殊勝げで、かえって癪に障る。まあ飲まないでいいや。
 でも、なんだか他人とじっくり話す方法も忘れたような感もある。これは年寄りのボケが進んだということだろう。

(2023年4月2日記)


2023/03/26

1679【大岡山花見2023】毎年恒例人生最後の花見を今年も雨中ながらも決行

 毎年、大学同期仲間数人と、春になると母校の花見で一杯の集まりをやってきた。コロナ中も人数は激減したが、欠かさなかった。
 今年はコロナ忌が明けたらしいのだが、仲間に誘いメールしても反応がない。そうこうするうちに花は待ってくれず、咲き出したらしい。とにかく下見にでも行ってくるかと、自由が丘に用事を作って、そのついでという名目で出かけた。

 大岡山駅に1年ぶりに下車、地上に出ると、おお、なんということ、本格的にザアザアと雨が降っている。駅前広場に何やら露店が出ているのは、花見客を狙ってか駅前商店街イベントらしい、雨で気の毒。篠原建築の百年館はキャンパスランドマークとして健在。

 
   

 模様替え中の校門を入ろうとすると、大きなキャンパス案内板の展示、フムフムこれが最新のキャンパスか、全体の形は昔と変わらぬが建物は激変。
 でもこれが近いうちにまた激変するとか、なんでも田町にある付属高校を緑が丘にもってきて、田町の高校跡地にの校舎や貸室の超高層ビルを建てて、こちらから一部学部など移転するとかで、建築系もこ田町に移すらしい。そうだ、近日中に大学名も激変らしい。





















 校門あたりから見る雨で何となくうす暗い風景の間に、桜の花の華やぎがほの見える。手前左にあるクマ建築が邪魔、お前のせいで桜も本館もろくに見えないぞ。















 
 本館の正面に回ってバックして階段を上って全体を見る。左のクマの滝プラザは変な格好だなあ、屋根に木を植えるなら、白壁にツタをまとわせてはどうか。中央に本館前桜広場、右に図書館。今年の桜は花は去年よりも何となく密度があり、まとまっているような。去年の老桜の枝枝はもっと暴れていた記憶がある。






















 本館前の花の広場は、花でおおわれてしまっている。今年の老桜はなんだか頑張っているみたいだ。何か老いを止める治療でもやったのか。





















 たしかに去年まではもっと暴れた枝があちこちに跳ね上がっていた。どうやらそれなりに剪定されたらしい。そしてそれに応じてどこやら行儀よく咲き誇ったらしい。雨が降りしきるのに合わせて花びらも散り敷きつつある。
 カメラもリュックサックも肩もズボンも雨に濡れる。まあ、花の下の暗がりでしっぽり濡れるのも悪くないと思うが、一人なのが残念だ。それにしても老桜の幹の迫力というか、けなげというか、老残というか、わが身を見るがごとき。


 左に列植してある若木の桜がこの老桜にとって代わる頃を、わたしが見ることはもちろんない。わたしがこのキャンパスに初めて来た頃、今の老桜があの若木であった。





















 スロープ下に2軍ともいうべき桜並木が色とりどりに咲き誇っている。

 スロープ途中から、谷口吉郎建築と清家清建築に敬意を表しつつ、雨中花見をする。


 緑が丘方面へとトンネルをくぐり、呑み川の橋を渡りつつ、坂を登りつつ宇宙花見を続ける。実のところは、雨に負けてもうやめたい気分でもあったが、ここまで来たらいつものコースを行くぞと、意地になってきた。






















 緑が丘上から呑川にかかる木造橋の手すりに触れるばかりに、土手に狂気のごとく咲きそろい、絶え間なく雫を垂らす花々を見つめる。濡れた妖気が漂う。
 緑が丘の上から裏門に向かって下る道から振りかえってみる。昔々大学寮からこの坂道を歩き下って、緑が丘や自由が丘の街に出かけたものだ。今はこの一帯は建築系のエリアらしいが、遠くないうちに付属高校になるとか。そうしたら建築系は入れ替わって、田町に移るらしい。いつ頃のことだろうか。

  裏門を出て街から振り返る。裏門というには立派過ぎるほどに大きくなっている。

   緑が丘の「緑が丘百貨店」という市場は昔もあった気がする。健在である。





















 緑が丘駅は立派な高架駅である。この効果の下をくぐって向こうに行けば、そちらにも裏門ができている。





















 これで今日の雨中単独花見はおしまい、また晴れた日に仲間と語らって出直し、花吹雪を浴びようか、それとも葉桜見物でもやりたいものだ。(20230325記)

(20230329追記)
 物好きにも3月29日に今年2度目の大岡山花見をしてきた。この前が雨だったので、晴れた日に見ておこうと、同期同クラス仲間も誘ったら5人が集まった。その中には私と同様に2度目が一人いた。晴れたり曇ったりだったが、桜はやはり雨より晴れた空のもとで見る方が美しい。





























 ついでに2018年の参加者も見よう。故人となったものが一人いる。



2021/12/28

1602 【紅白歌合戦】出場歌手も曲名もほとんど知らぬ中に両方共記憶にあるたった一人は

 TVを見ないから用が無いのだが、毎年暮れに恒例のNHK紅白歌合戦なるものが、世に存在するくらいの知識はある。昔々にTVを少しは見ていたころもあったが、紅白合戦を観た記憶はない。

 今日12月28日の新聞の社会面に、この暮れの紅白出場歌手名と歌う曲名の一覧表がある。ヒマなので眺めていたら、当然のことに総勢50数名50数曲の歌手名も曲名も、それらのほとんどがわたしの記憶にない。


 そのなかにたった一人だけ、どちらも記憶にある人を発見した。それは「石川さゆり・津軽海峡冬景色」である。

 たぶん、わたしが昔々まだTVを見ている頃、石川とその歌を何回か見聞きしたのだろう。表には石川の出場回数が44回とあるから、少なくとも44年前頃にはTVで何度か見聞きしたのだろう。まだ生きてるのか、自分のことを棚に上げてそんなことを思う。いやはや、たった一人だけとはねえ。

 ほかに歌手名だけ記憶(容貌をおぼろに思い出す程度)があるのは、「郷ひろみ、薬師丸ひろ子、松平健、さだまさし」である。それぞれどんな曲の記憶があるかと聞かれても無理である。

 一方、曲名だけ記憶(メロディーの一部をおぼろに思い出し程度)にあるのは、「有楽町で逢いましょう」。これって1950年代後期だったかにフランク永井が歌っていて、今はもうない「有楽町そごう百貨店」の宣伝歌だった記憶がある。ということは、石川さゆりよりも昔の歌だ。ちかごろ復活しているのだろうか。

夜明けの歌」も曲名に記憶がある。昔々に岸洋子なる歌手が歌っていが、その復活だろうか。「いい日旅立ち」って、昔々に山口百恵って歌手が歌ってた旅行宣伝歌だったような記憶があるが、これも復活か。

 わたしはもともと歌謡曲に興味ないし、カラオケ大嫌いだから、これだけでも記憶にふれる歌手名と曲名があるのが不思議なくらいである。まあ、長生きしたからね。

 ところで新聞の別の欄の記事に、ちかごろはLBGTとか性別が多様になり、単純に男女分類歌合戦に分類不能というか拒否する歌手もいるし、世間も男女色分け批判の潮流にあるので、NHKもこの分類を考えなおすかもしれない、ようなことが書いてあった。

 ではどう分類して歌合戦にするのか、白黒分け、美醜分け、貧富分け、老若分け、大小分け、、、どう分けてもあれこれ言われるなあ、そうか、くじ引き分け、じゃんけん分けしかやりようがないな。(20211228記)

2021/12/02

1597【今年も知らない流行語】いつものようにわが流行度を判定してみたらいつものように中間値の5点

  これは自慢して言っているのだが、毎年の流行語大賞に挙げられる言葉のかなりが分らない。自慢する理由は、そんなものどうでもいいじゃん、であるが、年取って来ると、世の中からどれだけ遅れているかということを、一種の自慢としたくなるからである。要するにへそ曲がり。

 今年2021年の「現代用語の基礎知識 選 2021ユーキャン新語・流行語大賞」のトップテン発表と(ユーキャンってなに?)、ネットや新聞に出ているので、いつものように眺めて、自分の知らない度合いを測定する。

 10語中で知っている言葉を1点、知らないと0点として採点する。
 これまでに記録によれば、実績は次の通り。https://datey.blogspot.com/2020/12/1506.html
 
2009年:5点、2011年:7点、2014年:2点、2015年:6点、2018年:4点、2019年:5点、2020年:5点である。平均5点というところ。

 さて今年2021年はどうか。○はわたしが(わずかでも)知っている言葉。

×「リアル二刀流/ショータイム」
〇「ジェンダー平等」
〇「親ガチャ」
×「Z世代」
〇「人流」
〇「黙食」
×「ゴン攻め/ビッタビタ」
×「スギムライジング」
〇「ぼったくり男爵」
×「うっせぇわ」

 というわけで、2021年は5点であるから、去年よりもボケているのでもないらしい。
 これらをどういう基準で選ぶのか知らないが、新型コロナウィルス流行関連用語が2語だけとは意外に少ない。去年は(少なくとも)4語あったから、2年目ともなるとショックがなくなったということか。
 なお、ノミネートされた全29語に対しては12点である。

 わたしがそれら流行語を知る情報源に、TVが無いことが一般世間と大違いである。紙情報は朝日新聞ひとつだけ、そのほかはネットのSNS(フェイスバカ、つい言ったあ、乱淫)情報である。

 当然のことに、世の中一般とは異なる。自分が興味のある情報しか読まない。藝能やスポーツには興味がない。だから、流行語で知らないものは、どれも藝能やスポーツの世界の用語であるらしい。

 知らなくて困ることは何もないが、身の回りに流行語を操る孫世代が居ないことに、ちょっと寂しい気もする。
 まあ、今年も5点で中間値であるということは、去年よりもボケているのでもないらしい、いやもう10年も前からボケているのかもしれない。(2021/12/02記)

参照:https://datey.blogspot.com/2020/12/1506.html

 

2021/10/22

1592【俺たちに明日はない】コロナ波底をとらえて久し振り老人飲み会で盛り上り生き返った

 このところ新型コロナウィルス感染の大波が静まってきたようだ。
 だが、それは人間たちがアレコレ努力したせいなのか、それともそれとは関係なくコロナの側の生態的都合なのか、どちらだろうか。

コロナ波浪とジタバタ対策禁酒法動向

 これまで、こちらがあれこれジタバタしても、実はあちらさんの都合だけで何度も波が来ていて、こちら人間はその波間をなすすべもなく漂っているだけ、のような気がしてならない。
 だとすれば、次の第6波も第7波もあるに違いない。次々と強力な変異株コロナ君が、選手控室に待機しているのだ。 
 そこで、それが来るまでの波底の今をとらえて、八十路老人は飲み会やっておかなくてはならないのだ。

 だって、老人はもう完全に大丈夫なんて時が来るまで待っていると、その前に死んじゃう恐れがあり、永久にできなくなるってあせっているのだ。健康に良くないのだ。
 つまり、老人には明日が無いのだからね、そうだ、昔、「俺達に明日はない」って映画があった、あれだよなあ、今の俺たちは、まさに、。

 絵画を趣味とする旧友のF君が、その画塾生たちの絵画展に出品するので、観に来いとの誘いが来た。ただし当人は持病あるため、コロナが消え去るまでは慎重を期して外出しないので、悪しからずとのこと。

 この展覧会は毎年の春秋の行事で、一昨年まではF君と共に常連数人が誘い合って鑑賞に行き、鑑賞批評会のつもりの飲み会をやるのであった。だがコロナのせいで昨年はできなかった。

 今年はどうしても見に行きたいので、波底でもあるし常連を誘って行ってきた。
 本来の常連は大学同期生たちのF君、K君、Y君、S君、I君、私の6名である。だが、八十路ともなればいろいろと身体事情が発生してくるものだ。
 F君はそういうわけであり、Y君は足の手術をするというし、K君ときたら一昨年にあの世に行ってしまった。というわけで今回は3人だけだった。

 それでも展覧会場で久しぶりに顔合せて喜びつつ、いつものF画伯の抽象絵画にアレコレと頭ひねりあって盛り上がったのであった。

「明け方にみたかった夢」古田淳一郎


 そしていつも行っていた魚を食わせる居酒屋に場所を移したら、なんとまあ休業しているのであった。コロナのせいだろう。フラフラと野毛の飲み屋街を彷徨って魚を食わせる店を探す。
 なんだか懐かしい名前の「養老の滝」なる居酒屋を見つけて入った。この居酒屋チェーンはずいぶん昔からあるので知っていたが、久しぶりに出会って気が付いたのは、老人向けの店名であるということだった。自分が老人になったからだな。
 養老の滝で思い出したが、10年ほど前にこんなことがあった。
   信州山中の金ぴか御殿 https://datey.blogspot.com/2010/10/241.html

 店内に客が誰もいない。平日の午後1時前だから当たり前かもしれぬが、それにしてもコロナ不景気はこういうものかと、久し振りの居酒屋の空気にたじろぐのだった。
 といわけで、3老人は誰に気兼ねもなく、マスクを外して大声で話あうのだった。

 久しぶり過ぎる飲み会に、酒の飲み方を忘れたとか言いながら、しだいに調子を取り戻して酔っぱらった。
 話題は絵のことをすっかり忘れていて、老人を困らせるスマホとかコンピュータとかの愚痴であり、ちかごろ知人の訃報が多いとか、いつしか3時間もしゃべっていた。

 明らかに3人ともハイになりすぎて、「やっぱりこうやって顔つき合せて飲むって、ボケが治るよなあ」と言い合ったのである。そう、飲み会こそ老人福祉である。
 その間にほかの客が一人だけはいってきたのみ、お勘定は割り勘にして2500円ずつ、こんなので居酒屋経営が成り立つのか。

 外に出るとまだ明るいが冬が来そうな気配の街、このへんで老人は帰宅しよう。なんにしても、結構な絵画鑑賞会と愉快な飲み会開催の機会を作ってくれたF画伯に感謝した日であった。ああ、生き返った。(20211022記)

参照:コロナ大戦おろおろ日録

2021/08/30

1585【名人能役者野村四郎師逝く】素人弟子として師匠へのオマージュに名を借りて個人趣味記録

 能役者野村四郎(幻雪)が逝った。8月21日午前11時6分、多発性血管炎性肉芽腫症によるという。名人能役者の急逝を惜しむばかりである。

 8月24日には「能を知ろう会(第6回)」で「隅田川」レクチャー案内が来ていて、行きたいなあ、久しぶりに会いたいなあ、でもこんな時だからなあと悩んでいた。その前の会に行っておけばよかったと後悔しているが、もはや遅い。
 この歳になると、何かやりたいと思うときは即実行あるのみ、またいつかと思っていると人生に間に合わない、こう思っているのだが、そうか、それは自分の人生ばかりではなくて、他人でも同じであると気が付いた。

 個人的には野村四郎先生と言うべきである。20年にわたって能謡の稽古をしていただいた素人弟子だから、野村四郎師といってもよいだろう。わたしより1歳年上である。
 わたしが師と呼びたい人は、学業時代には2名、社会に出て仕事関係で5名をかぞえるが、習い事の師はこの野村四郎先生のみである。もともと習い事が嫌いなので、これが唯一である。ちょっと思い出を記録して、野村先生へのオマージュがわりとする。

 能謡を習うことになったのは1992年のこと、大学の先輩から強引に誘われて仕方なく義理で始めたのだった。だが、すぐにこれは面白いと思い、中断しつつも20年ほどもつづけた。稽古場は渋谷の桜ケ丘の坂下の谷間にある共同住宅ビル1階にある貸稽古場だった。

 素人弟子十数人がここで謡と舞の稽古を受けていたが、四郎先生は他にも何カ所か稽古場をお持ちだったようだ。鎌倉の小町通でばったり出会ったこともあるが、稽古の帰りだった。稀に先生の都合が急に悪くなり、玄人弟子が代稽古にやって来た。
 わたしのような素人弟子は100人以上いたのだろう。観世能楽堂での年に一回の素人弟子による恒例の発表会「観生会」出演者が、朝から晩までつづいたものだ。

 稽古日は月に2回で、1回が30~40分の1対1のさしによる伝授であるから、人間国宝(その当時は未だだったが)のこの人を独占する贅沢なものだ。
 もっとも、束脩(入門料)と月謝は安くない。年に一度の「観生会」(おさらい発表会)も結構な額だった。他の稽古事を知らないから、比較しようがないが、当時の手帳を見ると、入門料4万円、月謝1.5万円、会場費月2500円、中元歳暮各1.5万円とある。その後に値上げされた記憶がある。

 書棚にある「観世流初心謡本・上」を出してみる。最初にわたしの書き込み「1992年2月7日より」とあるから、その日から20年ほどの稽古になったのだ。
 この本の最初の「鶴亀」からが始まり、その初めの4ページにもわたって四郎先生による赤ボールペンの書き込みがある。謡本にある記号の謡い方についての最も基礎的解説である。口で説明だけでは忘れるからと、口伝えと筆伝えである。

「鶴亀」謡本への野村先生による赤字書き込み

謡本

 稽古はとにもかくにも口伝えで、師の謡を一生懸命真似するだけである。ヒマな時は半日も稽古場に居て、他の人の稽古もずっと見聞きしている。仕舞の稽古も見ていて、先生の教え方の上手いのに素人ながら感服する。全部終ると近く居酒屋に先生と数人で行くのを数年は続けていたものだ。そんなお稽古だったこともある。

 そうやってつぎつぎと「橋弁慶」「吉野天人」「土蜘蛛」「竹生島」「経正」ときて、秋11月「観生会」がきたのだ。未だろくに謡えないわたしが出演発表するはずがないと思っていたら、「経正」のシテで出演するようにと先生から指示を受けた。
 実のところなにがなんだか分からないまま、先輩方の言われるままになんとか舞台を務めた。相手ワキをやってくださったのは、同じ稽古場のベテラン女性であった。観世会のプロが大勢一緒に出演して素人をひきたてる演出の舞台に驚いた。
 そのとき、わたしは意外に舞台度胸があるのだと気が付いた。間違っても動じないのである。仕事で大勢相手に講演やら大学講義していたから当然かもしれない。

 その時の手帳を見ると先生から指示された当日の費用メモがあり、役料8万円、会費5万円、引き出物5万円、貸衣裳1.1万円、2次会1万円、録音テープ2千円とある。これから毎年の会ではこれ以上がかかった。
 でもこれは初心者だから短時間出演で安い方だろうと思うのは、中には能を丸々やって出演する素人弟子がいて、100万円以上の金額になるらしいのだ。装束もすごいが、プロがあれだけ大勢で支えてくれたら、それはかかるだろう。これもプロの生計の種だろう。野村先生は弟子たちの出演のすべてに一緒に登場だから、その体力に驚くばかりだった。
 月々のお稽古にかかる出費とともに、年に数回の先生公演チケット購入もあるから、その頃の私は何とかこの程度はできたが、20年後には無理になった。

初舞「経正」 1992年11月観生会 観世能楽堂

 わたしは何とか基礎的な謡はできる気がしてきたのは、2年たったころだったろうか。大学先輩たちの謡を趣味とする会に誘われたが、どうも私には向かないと分った。謡そのもののテクニックに凝る人がおおいのだ。
 だが、謡よりも能楽そのものに興味が湧いて来て、わたしは謡テクニックに興味を失い、はじめの頃のように予習復習をしなくなった。能見物に松濤の観世能楽堂や青山の銕仙会能楽堂、あるいは水道橋の宝生能楽堂に通い、一時は毎週のように観ていた。

 そして稽古場での野村先生の能楽に関する雑談を愉しむようになったのだ。その教え上手に喜びながら、話し上手に能楽界のいろいろなことを聞いて楽しみ、自分が習うよりも教える先生の美声を聞くことが、わたし稽古ごとになった。
 これが私が能を観るときのバックボーンとなったのである。自分が謡うためではなくて、能楽鑑賞のための稽古になった。

 教わったのは観世流現行約200曲中の62曲であった。「鶴亀」がもっとも初心の5級(観世流ランキング)であり、結局もっとも上級の重習には至らず、その一つ下の9番習いの「藤戸」がわが謡い稽古の最高級であり、その下の準9番習は「西行桜」で、この2つは観生会出演のために稽古したのであった。

「藤戸」2006年9月観生会 観世能楽堂

 先生の稽古は口移しに真似させることであり、こちらはとにかく先生についていくのが精いっぱいであった。曲の内容とか曲趣に関する教授はほとんど無かった。
 先生は話し上手の話好きであり、わたしもそれを聞くのが楽しみだったが、稽古としてのその謡の場面の謡い方を教えても、謡曲の内容について話されることはなかった。それはこちらは結構な大人だから、必要ないとされたのだろう。

 とにかく、これほどに多くの謡曲を習うばかりか、能楽を200番くらいは見てきたから、日本古典文学や和歌への基礎的素養ができていることに、今となってわかるのである。野村先生のおかげである。短歌を遊びで作るとき、古語の言い回しもそれなりにできる。
 なるほど、昔の年寄りが何やら古めかしい言い回しができるのは、こういうことがあったのか、自分がそうなって気が付く。

 能楽舞台として鑑賞に、稽古での多様なお話が鑑賞の大きな助けになったことは言うまでもない。能楽界の裏話的な話題もあったし、自分の舞台での失敗話、観世家にある能楽資料のことなど、話は尽きないのだった。芸談として公然と録音していたこともあった。
 稽古時の先生の美声のテープがたくさんあったが、ずいぶん前に廃棄した。今いくつかの野村四郎能公演録音テープがあるが、そのころ能楽堂で密かに録音したものである。もうあの美声を聞くことはできないから、貴重かもしれない。
 あの美声の裏に潜む何かが微妙に聞こえてきてそれが美しいのだが、稽古の時のそれを真似しようとしても不可能だった。

 四郎先生は東京芸大の教授に就任されてからは、他の流派とか他の分野とのコラボ舞台を企画演出出演されるようになり、これは実に興味深かった。古典中の古典と言われる能楽でこのような冒険ができるのかと思った。私がまだ能楽に興味なかった頃、先生の師である観世寿夫たちがそのような活動したらしいが、観たことがなかった。
 例えば、村尚也の作・演出、豊竹咲大夫の義太夫によって、「謡かたり隅田川」を能舞台にあげたのは画期的意欲作だった。芸大では音楽学部の他分野も美術学部も入れて、新しい「熊野」公演の企画演出出演もあった。能の新作「実朝」も観た。モンテベルディのオペラ「オルフェオ」も、演出と出演で面白かった。

 私が観た最近の四郎先生の舞台は、去年の横浜能楽堂「善知鳥」だった。その前は2017年5月5日「野村四郎傘寿特別公演」であった。観世能楽堂が渋谷の松濤から銀座に移ったので、それも見たかったのだ。でも松濤の能楽堂のほうがはるかに良かった。こんどはせせこましく地下4階に閉じ込められて、閉所恐怖症のわたしは2度と行かない。
 特別記念だから大曲を出すのかと思ったら、それは息子の野村昌司「安宅」に任せて、野村四郎は「羽衣 彩色の伝」であった。そういう取り合わせの意味するところを知らないが、隠居への道かと思ってしまった。

  その前の2017年1月に国立能楽堂で「隅田川」を観て以来だった。そのときに、さすが年には勝てないのか、あの華麗なる謡にいくぶんかの錆と淀みを聴いたのが、ながくその美声ファンのわたしには寂しいと感じた。その前の2016年11月「横浜能楽堂で観た「六浦」ではそんなことを感じないでうっとり聞いたのだったが、、。
 能謡の稽古をやめてからも、能演を観に行くことはそれなりにやっている。近所の横浜能楽堂にちょくちょく行くのだが、5年前の「六浦」からこちら、おいでがないままに会うこと出来なくなった。

 1998年のこと、そのころ私はある商業出版雑誌の編集に関わっていて、能楽関係の特集号を企画した。そして野村四郎インタビュー原稿「名人能役者に能楽を聞く」を書いた。だが、雑誌の廃刊で日の目を見なかった。この時は稽古仲間の建築家に頼んで、佐渡島に能舞台を訪ねる紀行の企画もあった。要するに遊びを仕事に仕立てるのに失敗したのだった。

 わたしは野村四郎の舞台をかなり数多く観た。そのうちのごく一部についてブログにこんな素人鑑賞記録を書いた。
・【能楽】野村四郎「善知鳥」と25年前の友枝昭世を2020/10/11
・【能楽】
銀座移転の観世能楽堂移転は超便利だが苦手2017/05/06
・【能楽】傘寿人間国宝・野村四郎が演じる「隅田川」2017/01/27
・【能楽】野村四郎「六浦」楓の精に音と姿の構図美②016/11/28
・【能楽】野村四郎兄弟3人そろって人間国宝とは2016/07/16
・【能楽】「仲光」演技は素晴らしいがストーリーが2016/02/20
・【能楽】「檜垣」に演者にも観客にも老いを重ね観る2013/12
・【能楽】「盛久」の英語字幕を見てお経の意味理解2013/11
・【能楽】野村四郎の能「鵺」を観る2009/12
・【能楽】能「摂待」と「安宅」2008/10
*【能楽+義太夫】コラボ能「謡かたり隅田川」2005/12/03

 わたしは「能役者野村四郎」サイトを作っていたが、最近は怠惰になり公演情報も途切れがちだった。勝手に作ったのではなくて、始めるときに先生の了解を得ていた。どうやらこれでもうこのサイトも消えてもよいだろう。
 能楽界での重鎮として大きな貢献されたことは素人には分からないが、個人的にわたしに唯一の趣味を育てくださったことに感謝を申し上げて、ご冥福を祈る。

 能役者野村四郎、そちらの世界でも舞い続けよ、合掌。  (2021/08/30)

参照・能役者野村四郎サイト https://nomura-shiro.blogspot.com/p/at.html
  ・趣味の能楽等鑑賞記録 https://matchmori.blogspot.com/p/noh.html

2021/04/12

1560【コロナ爺典:まん坊】まん防とは蔓延防止のことなのかマン濃厚接触防止かと思った

  3月末だったか新聞一面トップにでかい字で「まん防」なる言葉が登場、周りの見出しから察するにコロナ緊急事態宣言に次ぐ規制をおこなう法律用語らしい。

 ピンときた。そうか、ついにとうとう「そこ」まで来たか、「そこ」とは、マンだから人間とくに男に濃厚接触することを防止するのか、いやもっと人類共通の人と人が互いに濃密濃厚密着接触して行うアノ行為までもいまや防止か、そうかそうか、次は「マン禁」だな。
 十分にありうることと思ったが、もちろん大違い、ふふん。

 記事を読むと特措法に基づく「まん延防止等重点措置」を縮めて「まん防」というのあった。なるほど、緊急事態宣言なんて長たらしいよりも口にしやすくてよろしい。
 ようやくに法律つくる役人も、国民の身に危険が及ぶのだからその用語普及に考えが及ぶようになったか。どうせなら「まん重」とか「まん措」のほうが、わたしのような変な誤解まねかぬ感もある、いや、おなじか。

 ところが4月1日からその「まん防」めでたく開始なのに、「まん防」なる言葉がニュースににいっこうに登場しない。法律の通りに長たらしく「まん延防止等重点措置」と書いている。わたしはTVを観ないから、そちらはどうなのか知らない。

 どうしたんだとネットで調べたら、「まん防」ってちょっと語感がユルメでおふざけ感があり、緊張がなくなるのとかって、TV番組でそんなこと言った人がいるらしい。で、言わないようにと政府筋からの発言もあったとか。なんだよ、海で泳ぐマンボウが聞いたら名誉棄損だと怒るぞ。

 でもそんなことでこの覚えやすい言葉をさっさと捨てる世の中っておかしい。いちいち「まん延防止等重点措置」なんて誰も言わないから覚えないし、そのうち気にしなくなるぞ。
 「まん防」のほうが、次は「まん禁」だ、なんて連想するから緊張感を保つことができるってもんでしょう。

 そうだ、それなら「まん防宣言」といったらどうですか、緊張感出るでしょう。そもそも緊急事態宣言とは言っても、「まん延防止等重点措置宣言」といわないは、なぜなんだろうか。
 宣言という重厚感用語のあるなしで、感染ひっ迫度に差をつけたのだろうか。

 「緊急事態宣言」も同様で、もともと法には「新型インフルエンザ等緊急事態宣言」とあるから、これでも略したほうとしても、「緊事」とか「緊宣」とかって言えば覚えやすく口にするでしょうにねえ。
 これもいまではちっとも緊張感がない有様、ま、宣言といったとたんに、宣言する人物の権威とか信頼性によるからね、いっそのこと天皇が「朕思うに・・」って宣言したら効果あったか、。

 そういえばコロナ用語はなぜか略語にしない。「スマートフォン」なんて簡単な言葉でも「スマホ」と略すのに、「ソーシャルディスタンシング」なんて、いまだに「ソーデス」なんて言わないのはなぜか、あるいは日本語の「疎開」を使わないのも不思議である。わたしは「開間」という新語を提案しているのだが。

 さて「まん延防止等重点措置」の区域の指定は、次第に拡大する傾向のようだ。「まん禁」に格上げするときが今に来るだろうなあ。でも「蔓延」を「まん延」と混ぜ書きするのが何とも気になる。(20210412記)

 参照:コロナ大戦おろおろ日録

2021/03/22

1523【前衛音楽会】一柳慧作曲「ピアノ音楽」河合拓始演奏って超面白くてコロナ憂鬱しばし忘却

 春が来た日、久しぶりに音楽演奏会を聴きに行ってきた。コロナ緊急事態措置区域に指定されている関東4都県、明日から指定解除とのこと、その最後の日に行くのも記念になるかもしれぬ、なんて思う。

●前衛現代音楽って面白い

 一柳慧という音楽家については、日本の現代音楽の作曲家として、名前だけは知っていた。それは武満徹とか三善晃とかについても同じである。あるいは旧友が団員でいたころの新交響楽団定期演奏会に年2回通っていたで、何か彼らの作曲を聴いたかもしれない。

 春の日の午後全部を、その一柳の世界にどっぷりと浸ってきたのは、ひとえにコロナのせいである。この閉じ込め空気満杯の世で、何とかして月に1回くらいは非日常世界に出かけてコロナ忘却に浸りたい、それが先月までは能楽であったのが、今月は現代音楽の一柳慧になったのである。

 ただし、たまたまそれをネットで見かけて、会場が近所だし、コロナ逼塞の中で面白いかもしれないと、予約チケットを買ったに過ぎない。プログラム内容をほとんど知らぬままだったから、一柳氏には恐縮するしかないが、結果は実に面白かった。同プログラムで再度の公演あれば、またぜひ行きたい。

 一柳慧氏が神奈川芸術文化財団芸術監督就任20周年記念事業として、神奈川県立音楽堂で、3月20日13時から18時まで連続で、多様なジャンル、多様な演奏家、多様な演出の音楽が、次から次へと登場する駅伝レースのような演奏会、面白かった。コロナ憂さが晴れた。

 もちろん楽曲にも演奏にも教養は何もない、その良し悪しは分からない。現代音楽に関しては、NHKFMで毎日曜日の朝、西村晃による「現代の音楽」を、ただ面白いと聞き流すばかりである。それを今回は興味深く聴いたのは、眼で観る演奏も多かったこと、和楽器による演奏もあったことである。

 コロナがもたらした思いがけない体験を、まったくの初心聴衆のひとりとして、この日の感想を書いておく。3部構成になっている。


●Classicalの部

 出だしの一柳慧作曲「フレンズ」V成田達輝、ふむふむこれが一柳の曲であるか。


 つづいて、武満徹「一柳慧のためのブルーオーロラ」、舞台に紗幕が垂れ下がって、そのむこうに背丈ほどの高さに照明灯らしきものがついている。真っ暗な舞台になり、4人の演奏者が紗幕の裏にひそかに登場して演奏開始、楽器は4人ともサキソフォン、紗幕に抽象的映像が動きつつ映写、演奏者も動く、ふむふむ、これが前衛音楽だな。

 フランク「ソナタイ長調」V成田、P萩原麻未、おお、これって聞いたことあるぞ、そうか、前衛だけじゃないんだな今日は、、武満の口直しか、ちょっと安心なような。

 つぎはベートーベン「クロイチェル」P一柳慧、V成田達輝とプログラムにあるので、これは知ってると思えど、聴けば違うのである。
 単調なピアノ、抒情的なヴァイオリン、知らない曲だが気持ちよいからクラシックなんだろう。あとでプログラムに挟まれた訂正記述、アルヴォ・ペルト「鏡の中の鏡」に変更。臨機応変型音楽家一柳らしいと、このあとの幕間にホワイエでの片山杜秀の話。

●Traditionalの部

 舞台には3面の筝、三味線、胡弓、尺八、大鼓、小鼓、大太鼓がならぶ。黒子のような服装の演奏者たちは6人、和楽器ばかりだが、どうやら古典和楽でないらしい。
 わたしの和楽体験は能楽だけはけっこう多い、面白そう。プログラムを見れば作者にジョン・ケージとかノルドグレンとかスメタナとかあるから、やはり今日の日らしいと期待。

 知っている曲はスメタナ「モルダウ」だけ、でも、どうもなあ、前半はともかくとしても、後半の大河の表現は大編成交響楽団でなくては無理かなあ、筝をもっと数多くすればよいような。

 今日のための新曲初演の森円花「三番叟」、能の三番叟を頭に描きながら聴き始めたが、それと関係なく面白く引き込まれた。よかった。どうでもよい鑑賞方法だが、十五弦筝の柱を動かすのが忙しいことよ。

 和楽演奏というと「春の海」とかで琴ピンコロリンシャン尺八プオーだが、これは大いに違って面白かった。この楽団(というのか)J-TRAD ensemble-MAHOROBAの演奏会あれば行きたいと思った。

●Expeimentalの部

 これが一番面白かった、そう、これは前衛音楽そのものだな、ほとほと参った、おそれいった、クセになりそう、すごい、再度聴きたい、いや観たい。

 一柳慧「ピアノ音楽第1,2,3,4,5、6、7」P河合拓始、聴くというよりも観た眺めたといいたい。演奏者を待つ舞台には、蓋を取り払ったグランドピアノ、演奏者の椅子のまわりにテーブル、その上にガラクタらしき小間物がたくさん、気になる。


 下手から出てきたのは、くりくり坊主、柄シャツ、首に白タオルを巻き、裸足、おお、町工場のおっさん、ピアノ故障直しかよ。なんの予備知識もないから、まさかとは思いながらも、半分はそう思った。

 プログラムには演奏順番は、その日に決めるとあった。そしてそのオッサンは、「今日は1番から順番に演奏する、各パートごとに準備で時間を取るからその間はしばらく待て」とのご注意あり、そうかこの人が演奏者河合であるか。 

 そばの小間物屋の店先から、空き缶やら紐やら何やらとりあげて、蓋の無いピアノの上にかがみこんで、弦に取り付けている。演奏は鍵盤をたたくよりも、弦に直接手を突っ込んで,弾いたり擦ったり叩いたり、時には柄杓、箸、棒、鏝などで弦をつつくほうが多い。

 でたらめ、いや、即興かと思えばそうでもないらしく、楽譜らしき紙を手にとって観つつ確かめつ、小間物を取り上げてピアノにセットしたり、やおら演奏したりしている。
 どこが終わりではじめやら聞いても観ても分からないが、河合が一応は切れ目でお辞儀するから、こちらは拍手をする。

 アッ、ホワイエに展示してあったくさんの抽象画とか詩のような書き物は、この楽譜だったのかあと、いまごろ気が付いた。
 よく見ておけばよかった、とは思えど、見たって今の演奏との関係を理解できるはずもなく、ただただその演奏と曲間の準備とを興味深く眺めいるばかり、準備動作も演奏であろう。

 そうか、これこそが前衛音楽だな、第4(?)ではピアノのそばを歩きつつ、手を突っ込んで演奏、初めのうちは触っているだけで音を出さない静寂ばかり、その間に1観客のイビキがクークーと響く、おおこれは「4分33秒」か、そう、一柳はジョン・ケージに師事したとある。

 ピアノをいじくる演奏者の動き、ピアノから出る音、いったいどうやって河合はあの抽象楽譜から、このような演奏というかピアノ調律というかパーフォーマンスというか、それらを生み出すのか、興味津々で鑑賞していた。おもしろい。

●コロナ禍中演奏会と環境整備

 コロナ対策で、ホールの暖房をしなくて換気だけだろう、だんだんと寒くなってきた。今日の陽気に誘われてつい油断した服装で来たのであった。年寄りは困る、先ほどのインタバルに飲んだコーラが体外に出たいとしきりに訴えてきている。第5終ったところであわてて扉の外に出てしまって、第6、第7を聴き逃し見逃したのは残念。

 あのスタインウェイのピアノは、あんなに弦をいじくられても大丈夫かしらん、もしかして見なかった最後7番でピアノ破壊なんてのがあったかもなあ、あ、そうだ、終演予定の18時ころ大きな地震がったが、その時も演奏していたのだろうか、前衛音楽にふさわしいアクションがあったのだろうか。

 それにしてもこのコロナ緊急事態指定の地域でありながら、よくぞ開催してくれた。途中2回のインタバルにホール内をカラにして消毒作業とのこと、その間にホワイエで片山杜秀が一柳と対話とて、なかなかしゃれている。
 おかげで予期しない音楽会で予期しない演目演奏にであって、現代音楽にはまりそうになっている。コロナのおかげである。

 もっとも、コロナのおかげだろうが、コーヒーくらいは出すコーナーを開設するだろうと思っていたらぜんぜんなくて、自販機コーラに頼る始末。そういえば紅葉ヶ丘文化ゾーン唯一だった青少年センターのレストランがコロナせいか去年閉店、いまや飲み食いなにもできない。コロナ時代向きであるが、、。

 そばの掃部山では桜花がちらほら、よい季節になった。だが環境に大いに不満がある。
 この文化ゾーン施設を県が再整備してのが1昨年、けっこう繁っていた樹木をり倒した。管理上それは仕方ないとも思うが、この音楽堂前の殺風景広場をなんとかしてほしかった。


 広いコンクリート駐車場にタブノキがたったの一本だけ、夏はとてもいられたものではない。駐車場が必要なのはわかる、駐車場でよいからその中に樹木を植えてはどうか、復元的整備とてこのようにしたのなら、それが間違っている。

 これが建った頃はまわりには樹木の多かったし、広場は砂利敷きだったし、音楽堂には楽屋がなかった。そう復元するのでないなら、現代に対応する復元をするべきである。東京駅のように復元さえすればよいとの考え方は間違っている。(202121記)