2017/05/26

1268【タイムマシン】中学生のわたしが作文をもち、大学生のわたしが論文かかえ、前世期から21世紀にやってきた

 しばらくぶりに、M先生からお手紙を頂戴した。中学校3年生の時のクラス担任だった数学の教師である。特別な事件があったのでもないが、M先生には絶大な尊敬の念を抱いている。何年かに一度の感じで、特に用事もないが、なにかで文通がある。
 先日のお手紙のなかに、3枚の古ぼけた紙が同封してあり、こう書いてある。

終活へ向けて整理していました処、中三の時 伊達・(ほかにM君・H君の名が書いてある)三人の「自己を語る」が出てきて、びっくりいたしました。この三人だけのが残っていました。
 どうか十五の君に会ってみてください。大人の階段を上りはじめた時と思います。

 どれどれと赤茶けた紙を開けば、その題でクラス全員が書かされた作文らしく、ヘタクソな字で何やらゴタゴタ書いてある。
 読んで赤面した。書いたとは全く覚えていないが、わたしが書いたとは分かる。2年生のクラスでの悩み、3年のクラスになっての希望、これからの小さな抱負とか、内容に思い出せることもあるが、ほとんど思い出せない。
 その幼い書きぶりには、今、これを書くために、読み返してもはずかしい。タイムマシンに乗ってきた十五歳のわたしはなんとまあ幼いことよ、とても大人の階段を上りはじめてなんかいないのであった。

 ハイ、M先生、十五歳のわたしに会いました。読みながら恥ずかしくてモジモジしたくなり、先生の前に居るような空気が漂ってきました。
 先生は大学を出て、わたしたちのところが最初の赴任校で、最初の担任学級でしたね。先生に出会えて本当によかったと思っています。もちろんわたしだけじゃなくて、あの三年五組の少年少女たちは、みんながそう思っています。
 だから今も、先生の隠居所に誰とかれとなく誘い合って、ちょくちょく押しかけるのですね。
卒業記念写真 1953年

 M先生は、わたしたちが卒業する時に結婚されたが、それまではO先生だった。結婚相手は同僚の理科教師のM先生である。その男のM先生も生徒たちに慕われる人だったから、こちらは驚くと同時に大いに喜んで、最高のカップルと思ったものだ。
 両先生を慕う生徒たちは高校生になっても、新婚M先生の自宅にしょっちゅう押しかける常連がいた。中には大学進学相談もしていたやつもいた。
 それにしてもあれから65年、今もこうして遠くにいる疎遠のわたしにも手紙を下さる。そしてあのころの教え子たち慕われ続けるとは、教師冥利に尽きるお方である。うらやましい。

 作文を同封してあったM君、H君ともに近傍に住んでいるので、さっそくそれぞれに転送した。3作文でわたしのがいちばん幼いのに、ちょっとガックリした。2人の作文も読んだので、やむを得ずわたしのコピーも同封した。
 故郷のあたりにいる同クラスだった元少女たちに、M先生からこんなお手紙を戴いたよって、羨ましいだろうと自慢げにメールしたら、その作文を読ませろと返事が来た。
 でも、見せないのだ。あんな幼い奴だった自分を、たとえ同期生とは言え、いや同期生だからこそ逢わせるなんて、恥ずかしくてできない。
1953年に作った学級誌

 M先生、わたしは不肖の生徒にて、故郷を離れてから先生に会いに伺ったのは1度だけです。あれはもう20年近くも前でしたか、故郷で高校同期会があった帰途に、M君が行こうよと誘ってくれて、倉敷駅の喫茶店でお会いしました。
 ほぼ半世紀前のあのはつらつとした若い先生が、どんな老婆で現れるか実は心配で、逢いたいけれども逢いたくないと悩んでいました。幸いにも現れた古希の先生は昔のままで、不思議な驚嘆とともに安心したのでした。思い返すと、あれもタイムマシーンでしたね。

 このM先生に出会ったことから、しばらくはわたしも教師になろうとおもっていたが、高校生になったら建築家になろうと心変わりしてしまった。
 そして大学で建築を勉強するとき、人生でもうひとりの尊敬するH先生に出会ったのだった。社会に出てからも仕事で建築史に関する調べごとがあると、いつも指導していただいた。
 今もかくしゃくとして、被災した熊本城の復元の指導をされ、もう何十年もNHKTV大河ドラマの建築考証を続けておられる。
 このH先生も教え子たちから慕われて、今も毎年1回囲む会をしているが、先生は毎年登場されるのに、教え子の方に超高齢化による脱落者が出てくるのはなんともはや。

 実はこのH先生からも、一昨年にタイムマシーンに乗った23歳のわたしに逢わせていただいたことがある。それは保管して下さっていた、わたしの大学卒業研究論文である。
 その研究を指導して下さったのはもちろんH先生であるが、今まで保管されていたのには恐縮してしまった。まさかわたしの論文だけではあるまいが、先生の専門研究分野の近世住宅史の資料の一部だからであろう。
 さすがに中学生とは違う意味だが、読んでみて面白くもあり恥ずかしくもあった。ほう、けっこう面白い論考だったよなあ、あ、そこをなんでもっと突っ込まなかったのか、なんて思ってしまった。
 いま読んでも面白い一部分を、エッセイ風にしたのが「京の名刹 法然院の謎」である。

 そうだ、わたしの終活で整理品の中から、なにかタイムマシン種を見つけて、だれかに送りつけてやろうかな。
 どうぞ、M先生もH先生も、お元気にお過ごしください。 

2017/05/17

1267【東京風景GSIX】内に草間ツブツブ提灯がぶら下がり外に暖簾がかかる「銀六」大箱出現で銀座の空が狭くなった

●GSIXあたりは国際的ミーハー大混雑
 1年半ぶりに東京銀座に遊びに行ってきた。最近できた話題の大型施設「銀座シクス」を観てきた。6丁目にあるからシクスだろうが、安易なネーミングだよなあ、そうだ、わたしが粋な名づけをしてあげましょ、銀六って。
 とはいっても本当の目的は、その中にできた観世能楽堂で能楽を観るためであったが、当然のことについでに「銀六」も見てきた。
 再びとはいっても、買い物する気も金もないから、内部は能楽堂だけでよいのだ。どうせ大きな吹き抜けがあって、わたしには縁のない品物が並ぶだけのことだろう。
昔々、銀座松屋の吹き抜けをはじめて見たときビックリしたが、
いまどき、もうこんなことで驚かない
またまた、とはいっても、全く観ないのも徘徊ミーハーとしてシャクだから、能の休憩時間に地下3階から地上5階まで登って、吹き抜け空間のあたりの便所に行ってきた。
 案の定、エスカレーターが上り下りする大きなアトリウムがある常識的大規模商業空間である。
 今、人気沸騰の草間弥生模様の提灯がたくさんぶら下がる。わたしは草間の大量ツブツブ羅列ゲージツを観ると、じんましんが出そうになる。

 それにしても、この人混みは尋常ではない。ミーハーが増殖しつあるようで、しかも国際的である。表通りはヨチヨチ歩きでないと進めないほどの混みようで、アジア系外国人がいっぱいいる。平和な世の中だ。

●銀六は銀座伝統景観をフィーチャーか

 銀六出現で銀座景観がどうなったか、周りを歩いてみてきた。
 建物の高さは銀座ルールとか言って、建築の最高の高さを56mに抑えてあるので、今どきの墓石型超高層ビルではない。ほぼ敷地いっぱいにドデンと大箱が転がっている。
 立面と利用を上下2段に分けて、下3分の1は店舗、上3分の2はオフィスらしい。上層階は黒いガラス窓に階ごとに庇が出ているが、下層階も同じように庇を出しているが、庇の先にパネルを取り付けて、ダブルスキンにしているらしい。

 つまりこれは商家が軒先につるした暖簾だな、その証拠には暖簾に店の名を大きく書いている、Dior(縁がないなあ)とかCÉLINE(これも)とかGSIX(これは銀六のことらしい)とか。そのパネルがぺらぺらしているのは、暖簾だからだな。

 内部のテナントに対応して、縦割りに別々の暖簾デザインになっている。個別の店舗ビルが立ち並んでいる風情なのである。どうやら、銀座特有のコマ割りペンシルビル街並みをフィーチャーしたらしい。
 以前ここに建っていた松坂屋は、百貨店でございとデカく見せていたけど、こうやって銀座寸法に分節するのも、よろしい。
めいめいの暖簾をかけたファサード

かつての銀座松坂屋はこんな立面だった
これは、テナントの変更があったら、暖簾をかけ替えるようにパネルを取り換えるのだろう。おお、商家の伝統的発想であり、建築家谷口モダニストにそのような商才があるとはねえ。
暖簾ごとに光り方が異なる
●銀座の空が狭くなった
 今どきの超高層仕立てなら、上層階を下層階よりも壁面を引っ込めて高く立ち上がるのだが、ここでは高さ制限があるために引っ込めると床面積を損するとて、下層も上層も同じ壁面のズンドウ仕立てにして、容積を稼いだらしい。
 地下も6階まで掘っている。能楽堂も地下3階にあって、地下深く潜り潜って観に行くことになったし、しかも見所の幅が狭くなっったので、閉所恐怖症のわたしは、もう松濤にあった時のような観世能楽堂通いをや~めたッと。

 高さ31mがざっと2倍の56mの箱になって、それが横に転がっていると、さすがに銀座の空が狭くなった感を免れない。上層部を左右に分けて、あいだに隙間をつくって空を見せてくれると良かったのに。
 三原通りは広くなってセットバックもしているが、そのほかはほぼ道路いっぱいの壁面であるから、圧迫感がある。セットバックすればいいってもんでもないが、。
 超高層反対の銀座ルールも良し悪しである。 
三原通り
それで思い出したが、ずっと前にこんな戯画を作ったことがある。銀座の近未来風景である。なんだかつまらない。http://datey.blogspot.jp/2014/03/903.html

中央通りと三原通りの間にあった区画街路を廃止して、その道幅分を三原通り拡幅に付け替えたらしい。
 だがその自動車交通の排除をできなかったようで、ビルのまん中を串刺しにトンネル状に通路が抜けて車が通っている。つまり1階はあいかわらず以前と同じに二つに分かれている。せっかく共同化したのに、これじゃあ床の使い方がもったいないよなあ。
 交通機能からはこの貫通車動線を外せなかったのか、それとも完全廃道にするには近隣街区関係者の同意が得られなかったのか。
 建築の床利用計画にはかなり不都合なのは、現に銀座通りから入って能楽堂に行こうとしたら、いったん外に出てぐるっと三原通りまで回らされてしまった。
貫通道路
銀六を貫通した区画街路は更に三越も貫通する
●再開発事業のプランナーはだれだろうか
 この開発は14名の地権者たちによる、組合方式の市街地再開発事業であるそうだ。
 商業的超一等地でも共同事業だから、表と裏の大勢の銀座旦那衆権利者間の調整はけっこう大変だったろう。
 法定再開発だから行政手続きも面倒だっただろうが、だれがやったのだろうか。
 設計は谷口吉生と鹿島建設と公表資料にはあるが、この共同大事業のプロジェクトマネージャーは、いったい誰だったのか分らない。

 1昨年の工事中にこの前を通った時に、仮囲いに表示があり、設計監理は銀座六丁目地区市街地再開発計画設計共同体と書いてあったが、これは谷口と鹿島のことだろう。
 それに並ぶもう一枚の看板があり、設計プロジェクトマネージャーとして森ビルとアール・アイ・エーの名が書いてあった。この2者の役割が事業のマネージャーなんだろうが、公開されている資料には、どれにも見えないのはどうしてだろうか。


 このような大規模な事業は、設計に入る前に構想や企画や計画の段階がかなり長いし、それが設計の条件を決める重要な仕事なのだが、この種の公表資料には、最後の設計者の名は出ても、初めの企画者や計画者の名が出てこないのは、例えば新国立競技場でも豊洲市場でもそうであり、なんとも不思議である。
 プランナーの仕事をやってきたわたしには、不満である。
 まあ、日本では設計者の建築家の名が普通に知られるのも珍しいから、ましてやその前さばきをするプランナーって、そんなものが世の中に居るのかいって、そんなもんだろう。悲しいねえ。

●銀座4丁目あたりも変化か
 銀座と言えば昔は尾張町交差点、今は4丁目であるが、わたしは戦前の風景を見たことはない。1950年代半ば以降の記憶で言えば、服部時計店は相かわらず、三越が交差点角に顔を出してきたのは2010年だった。

 サッポロ銀座ビルは1970年に建ったが、このたび見たら建て替わっていた。
 なんだかもこもこした網目で、これってビール瓶が転んでも割れないように網目発泡スチロールでくるんだつもりのデザインだろうか。
 ただし、裏に回ると普通の壁になってしまうから手抜きであるよなあ。
向うに三越、手前にサッポロだけど網目模様が横や裏にはない
銀座三愛ビルが日建の林昌二の設計で建ったのは1960年のこと、それは建築界でも話題だったが、一般にもその姿が評判になった。
 建築自体が広告塔となり、戦後商業ビルとして成功の先端を行ったが、今もその姿が健在なのは服部時計店と同様である。
 これを見上げて、昔々その向こうにあった「森永ミルクキャラメル」地球儀広告を思い出す。三愛と比べて屋上ネオンサイン広告の迫力に建築と無縁の景観のいやらしさがあった。
 あ、今思い出したが、三愛ビルの足元の陰に、流政之作の小さな黒い招き猫が鎮座していたが、観てくるのを忘れた。いまも居るのだろうか。
こうや手見ると三愛ビルが有象無象の街並みを率いているようだ
人、人、人で埋まっている銀座であった。その半分以上は外国人観光客のような感じだが、昔々、日本人団体旅行の一団が、パリでもミラノでもロンドンでもニューヨークでも、わがもの顔に歩いていた時代があったのに、今は日本がその舞台になっていることを肌で感じる。
 まあ、平和で宜しいじゃござんせんか。
 7丁目のライオンビアホールは健在のようだから、近いうちに行っておこう。これもいつつ建て替えで消えるかわからないし、こちらがいつ消える身になるかもわからないのだから。

参照:銀座おのぼりさん徘徊と松坂屋の巨大再開発http://datey.blogspot.jp/2015/10/1132.html


2017/05/12

1266【正岡子規の展覧会】徘徊老人が俳諧巨人の偉大な足跡に驚嘆してきた

生誕150年 正岡子規展 ――病牀六尺の宇宙」を神奈川文学館で見てきた(2017年5月11日)ので、いくつか覚え書き。http://www.kanabun.or.jp/exhibition/5643/

 膨大な資料の系統的かつ分りやすい展示、そして長谷川櫂氏の解説、先ごろ某大臣から非難された学芸員さんに敬意を表したい。
 平日の昼間、しかも子規となると、観客のほとんどが老女だったなあ、こちとらは俳諧ならぬ徘徊老爺である。
 じっと立ちっぱなしで展示資料を読んでいて、歩くよりよほど疲れてしまった。なにしろ展示品が、見るよりも読む者圧倒的に多いのだかからなあ、かといって椅子に座って読ませたら、客が閊えるだろうしなあ。

 子規についてはつまみ食い的な知識はあったが、文学研究者として、日本詩文学改革者として、教育者として、いやまあ、すごい人物だったのだなあ、若死にさせて惜しかった。啄木もモーツアルトも若死にだった、漱石だって若死にだ。
 子規は喀血して先の短いことを覚って生き急いだ。かえりみて、わたしも先が短いと今や覚ったのだが、ちっとも生き急がない馬齢そのもの、あ、馬に叱られるか。 

 政治家になるとの大望を持って松山から東京に移った子規は、結核で挫折、そして文学に生き急ぐ方向を見つけた。
 長谷川の解説に、子規が古今集を罵倒して万葉集に傾倒したのは、当時の政府の国家主義にうまく対応したものであり、その面で大望を果たしたとあった。
 そうであるならば、もしも子規が健康であったなら、日本の危ないリーダーのひとりになって大望を果たした可能性も多分にあるから、文学に行ってくれてよかった。

 子規の家系図には、母方は母方は曽祖父まで書いて詳細だが、父方は父の名だけというのは、父方は平々凡々な人々であったか。わたしは関係ないが、家系に有名な偉い人がいるって、どういう気持ちだろうか。
 子規のような人については、家系図よりも交友相関図をつくってほしい。華麗なる人物が超大勢登場するのだから。

 漱石のたくさんの句作を、子規が容赦なく批評添削している手紙を、面白くて読みふけってしまった。そうだよなあ、そこ、たしかに下手だ、おお、これを子規はうまい句とみるのかあ、など、。
 夏目漱石と子規は同い年、二人が出会ってから互いに文学的な高めあうのを羨ましいと思った。
 子規も小説家になりたかったが、先に文壇に出た同年の幸田露伴に作品を観てもらったら、悪評を受けてくじけたらしい。露伴は子規と違って、教育者ではなかったのか。

 子規が東京に移って入学した東大予備門での、同期学生の学業成績一覧表が展示してありそこに南方熊楠の名がある。
 同年生まれ、同学年で勉強した二人だが、学業の場も専門の場もその後は分かれてしまい、特に交流は無かったらしい。
 巨人二人が教室で出会った若い日は、どんなことを話したのだろうか。
 
 文学館のチケットカウンターで、65歳以上割引をお願いしたら、なにか証明できるものを見せろと言われ、「この顔」といったら、「お若く見えますので」と逆襲サービスされた。

2017/05/10

1265【年齢確認サービス】酒を店で買おうとすると店員が年齢確認するのは商人の新サービスらしい

 徘徊していたら喉が渇いたので、見つけた便利店(コンビニとも言う)で缶ビールを買うことにした。
 金を払おうとすると、「タッチしてください」という。
 おお、その女店員がボディのどこかに触ってくれというのか、でも、お年を召しているよなあ、、てなことではなくて、年齢確認タッチパネルを叩けと言うのである。
う~む、ボケて来たから、オレは20歳以上かどうかわからんなあ
「分りません」ってタッチは無いのかい?
「えッ、あのなあ、この顔を見りゃわかるでしょ」
「はあ、でも、きまりですので、お願いします」
「あのね、法律で年齢を確認するのは、酒を売る方であって、買う方じゃないんですよ」
「でも、店のきまりなんです」
「あのなあ、わたしは自分が未成年でないと自分で確認しなけりゃならないほど、ボケてるつもりはありませんがねえ」
「でも、、、」
「じゃあ、買うのを、やめます」(もしかしてオレは未成年かも)
てなことで、喉が渇いたまま徘徊を続けたのであった。
 しばらくして、これってもしかしたら、「あなたは若く見えますね」って、リップサービスのハイテク版かもしれないと気が付いた。ありがとうって言うべきだったが、もう遅い。
 
 また別の時、病院を出てすぐ前にある処方箋薬局に入る。薬を製造するまでずいぶん待たされたが、ようやくよばれた。
 若い女性が言う。
「むすこさんですか?」
 むすこさんとは息子さんのことか、まさか、、、何か違うことを聞かれたのだろう。
「え?……、はあ?、?……、……」
「ご本人ですか?」
「あ、はい」
 やはり息子かと訊かれたらしい。
 この薬は、代理人の息子が買いに来るほどの、よぼよぼ老人にしか処方しないのか、いやいや、痛み止め貼り薬ですよ。
 う~む、これもリップサービスなんだろうか、薬屋も競争が激しいもんなあ。
 あるいは、この人の視力にかなり問題があるんだろう。

 商人はもっと実のあるサービスを考えなさいよ。

2017/05/06

1264【銀座に戻った観世能楽堂】超便利になったけれども地下3階しかも狭くなって閉所恐怖症にはどうも苦手だなあ

 渋谷の松濤にあった「観世能楽堂」が、銀座に移って開業した。そこでの「野村四郎傘寿特別公演」能楽鑑賞と、それが入る松坂屋の建て替えによる銀座景観の変化を見物に、久しぶりに銀座に行ってきた(2017年5月5日)。
観世能楽堂がやってきた銀座風景 スカイラインが高くなり狭くなったナア
まずは能楽堂の話である。能楽堂は「GSIX」なるビルの地下3階にある。そのビルの正面入り口は、もちろん銀座通りにある。だが、能楽堂への入り口は、東の三原通りから入る。まあ、裏口である。
 松濤では、能楽堂に近づいていく道のあたりから能楽鑑賞気分になったものだが、ここではそうはならない。見所に入って初めてその気分になる。つまらない。

 入ると直ぐ能楽堂があるのじゃなくて、直ぐにエスカレーターを3本、下へ下へと乗り継ぐ。もちろんエレベーターもある。
 ようやく能楽堂がある地下3階についたが、ロビーやホワイエが狭いなあ、狭い、、、今日はお祝いとて、たくさんの胡蝶蘭の花が飾られているせいもあるが、ホントに狭いなあ。
 松濤の観世能楽堂のホワイエもそれほど広くもなかったが、前庭がガラス越しみえたし、休憩にはそこに出ればよかったのだが、ここのビル内では外に出てもエスカレータやエレベータでないと出られないので面倒だ。
 出た先も商店などの通路だから、ゆったりと舞台を思い出して休憩するには、どこかの店に入らざるを得ない。あるいは屋上広場があるのだろうか。

 特に終演直後の一時に大勢の退出時が問題だろう。昨日も終ってから出口で待たせて、調整して少しづつを送りだしていた。たまたま最後のあたりで出たのでわかったが、出る人の長い待ち行列ができて、かなり時間がかかった。
 なんだかなあ、閉所恐怖症のわたしには、大げさに言えば心理的に息がつまりそう。いっそのこと屋上庭園があるなら、そこに舞台を建てて野外能楽堂にしてほしかったな。
幅が足りないなあ、天井が低いなあ
さて見所に入ると、松濤から移してきたらしい舞台が懐かしい。だが見所の広さ形態が変った。
 縦長のシュウボックス型になっている。能楽堂は一般に正方形で、舞台がその右奥の一角にあるのだが、ここでは縦長で正面席が奥に長く、中正面と脇正面の席が左方から攻められている。橋掛かりも短くなったのだろうか。
 ここも広さが足りない感じがするが、まあよろしいでしょう。でも、貧乏人のわたしは安い中正面席をいつも買っているのに、そこが減ったのは痛いなあ。近ごろは能の見料が高くなったしなあ。
国立では後方の席では舞台がけっこう遠い感じがする。
観世ではさらに遠いから、左を広げて後ろを縮めたらよかったのに。
 見所に床の段差をなくしたのはよろしい。なにしろ能の客には、ヨロヨロの年寄りが多いからなあ。
昨日も、そのような老人たちがゆっくりと前を進んで入るので、ちょっと苛ついたのだが、それは数年後のわたしの姿であると気が付いた。
 千駄ヶ谷も横浜もスロープでよいのだが、松濤は階段だらけの見所だった。どこの音楽ホールも2階から上は階段、しかも踏面幅や蹴上げ髙さが不揃いの階段を登るしかないが、わたしもこれがつらいもんなあ。

 日本一と言ってもよい商業床価値のある銀座のビルの中で広い床面積を取得するには、さすがに超高級住宅地松濤の土地を売っても(たぶん)足りなかったのであろうと、観世宗家に同情するしかない。
 江戸時代にはこのあたりに能楽師たちが住んでいたのは、今も金春通りの名に残されているが、観世家もいたから戻ってきたことになる。
 松濤よりも格段に便利な場所になり、能楽の振興にもなるだろう。多目的ホールとも案内にあったから、能に限らず使われるなら、若い人たちが能へのアクセスにもなるだろう。

 では、能楽の話に移ろう。
 能番組は、安宅(野村昌司)、末広がり(野村萬斎)、羽衣彩色之伝(野村四郎)で、能も狂言もシテが野村家であるところがすごい。
 四郎から見て昌司は息子、萬斎は次兄の万作の子であり、このほかに長兄の萬の孫である野村太一郎(故五世野村万之丞の子)が安宅のオモアイで出ていたから、野村3兄弟関係者がそろった。
 お祝いで、観世宗家3兄弟も、仕舞で出そろった。
内祝いとて金平糖のおみやげは金沢産の金箔入り
野村太一郎をはじめて見た。プログラムの名前をみて、はてどの野村狂言家かと思っていたのだが、舞台に登場して分かった。おお、これは野村耕介の声だと。
 野村耕介は野村萬の長男であり、伎楽面の研究者としても著名であり、実験的な狂言も演出・出演して将来を嘱望されながら、その働き盛りに逝ったのだった。
 父そっくりの声で、ふと、耕介が演出した「唐人相撲」を思い出した。
 能楽師の遺児と言えば、安宅の同山のひとりに関根祥丸がいた。これも嘱望されながらある日突然逝った関根祥人の子、先般逝った観世の最長老だった関根祥六の孫である。ここにも跡継ぎが育っている。

 安宅のワキは福王和孝で、羽衣のワキは殿田謙吉、若手には若手をベテランにはベテランの組み合わせだが、羽衣のワキは宝生閑(故人)であってほしかった。
 羽衣の地謡にひとりだけだが女性がいた。四郎の弟子の渡辺瑞子である。ようやく女性能楽師が、男性能楽師とともに普通に出演する時代が来たらしい。
 さて昌司は、父であり師である名匠の四郎に追いつくだろうか。

 観世能楽堂が入った再開発ビルの話は、また後で。

参照:能役者野村四郎http://nomura-shiro.blogspot.jp/