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2025/08/17

1905【少年の日の戦争】80年前の少年の記憶の戦争は小さな城下町盆地の鎮守の森に

中国侵略日本軍の父(1939年保定にて)
  今年2025年の夏は、1945年8月15日に当時の裕仁天皇が、太平洋戦争に負けたことを、ラジオ放送を使って、国民に直接知らせた日から、ちょうど80年ということらしい。それをなんだか特別に雰囲気が世の中,特にジャーナリズムにある。80年だろうが79年だろうが変わりはないだろうが、なぜか。たぶんそうやって戦争を忘れないようにする仕掛けであろう。それは故人をしのぶ法事のようなものだろうか。

 でもまあ、わたしも88歳という覚えやすい年齢だから、せっかくの敗戦80年に協賛して、幼年時少年時に出くわした戦争の、いかにもそれらしい出来事を、記憶から引っ張り出すことにした。実はこれまでもばらばらにこのブロブに書いている(参照:まちもり通信「戦争の記憶」)のだが、 まだボケないうちに、ここでまとめて書いておくことにする。

 たまたま、今年いっぱいかけて月間として私的発行している歌集に挟み込む栞に、少年時を過ごした生まれ故郷故郷高梁盆地での戦争の記憶を書いたので、それに少し手を加えたものをここに載せる。

故郷高梁盆地の戦争の記憶   伊達 美徳

 この文を藤本孝子第五歌集「碧空へぽかりぽかりとんでゆけ」の8月版栞原稿として書いている日は2025年8月14日です。80年前の明日15日は、日本が太平洋戦争に負けたことを、当時の天皇がラジオ放送で国民に伝えた日です。この日を日本では敗戦記念日としています。夏八月は今でも戦争を思い出します。

 わたしは日本の十五年戦争(1931~45)の真っただ中の1937年に生れ、敗戦の時は国民学校初等科3年生でした。高梁盆地は空襲という直接的な被害はありませんでした、住民の生活には深い被害がありました。わたしには戦後の貧窮で空腹の日々こそが最大の戦争被害でした。8歳の夏に敗戦の日を迎えたわたしの戦争の記憶を書きます。

●80年前の8月15日のこと

 1945年8月15日は、いかにも夏らしい晴天でした。わたしの生家は御前神社です。その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて滞在していました。盆地内のほかの寺社などに児童51名が戦争避難しており、その子どもには戦場でした。

 そのころはラジオのある家は限られていましたが、その疎開学級にはありました。その社務所の玄関口に近所の人々十数人が集まってラジオを囲んでいます。その横でわたしは大人たちを見ていました。ラジオからヒロヒトさんの分かりにくい言葉と雑音がながれていました。それが敗戦の詔勅放送でした。もちろん8歳のわたしには内容を分りません。その場の情景の記憶のみです。

 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、誰もみな黙りこくって一列になって、参道の長い石段をトボトボと下って行くのを、わたしは社務所縁側から見送っていました。緑濃い社叢林の上空あくまで晴れわたり、森の中はいつものように蝉の声に満ちていました。

沈黙の湖になりたる盆の地よ昭和二十年八月真昼 

           (2014年藤本孝子第二歌集あとがき掲載の拙詠) 

 それから数日の後に疎開児童たちは芦屋に戻ってゆきました。ところが芦屋はその数日前に空襲を受けており、中には親を亡くした子もいたのでした。あの女の子たちはその後どのような人生だったのでしょうか。
 その半月後、父が参道の石段を登ってきて、3度目の戦争からの帰還をしました。

●父を戦場に送り出して号泣する母

 わたしの父は、日本の十五年戦争中に三度も招集され、最初と2回目は中国へ赴き、3回目は国内に居ました。延べ7年半も兵員として過ごしたのでした。その三度目の太平洋戦争への招集礼状は1943年12月に来ました。これについて強烈な記憶があります。

 戦争に出かける父の出発を、備中高梁駅で母と共に見送りました。家に帰りついて玄関を上がり、畳の間に入ったとたん、母は前に倒れ、両手で顔を覆って畳に押し付け、号泣し始めました。その慟哭の大声はやむことなくつづきます。目の前で大人に泣かれる5歳の幼児のわたしは、そばに座りこんでおろおろ、号泣に合せて母の背にある帯の結び目が大きく上下するのを、ただただ見つめているばかりでした。

 やがて誰かがやってきたらしく勝手口の方から案内を乞う声が聞こえました。母は急に泣き止み、今泣いていたことを誰にも言ってはいけないと、わたしに厳しく言いつけて立ちあがりました。その時に母の胎内には半年後に生まれる第三子がいましたから、その慟哭は当然でしたが、世間で表向きには、戦場への出征を嘆くのは非国民でした。

 父は南方戦線に送られるのを姫路城内にあった兵営で、しばらく待機していました。何回か母と共にそこに面会に行った記憶があり、幼児には楽しい遠足でした。だが、負け続ける日本軍は制海権を失い、輸送船もなくなり南方行きは取りやめになりました。母とわたしたちには幸運でした。

 1945年春に父の隊は小田原に移駐しました。湘南海岸に上陸するであろう連合軍を迎え撃つべく、本土決戦準備をしていました。小田原はその敗戦記念日となった日に、アメリカ軍の空襲を受けたのですが、父は仰撃陣地づくりの山中に居て無事でした。敗戦の月末に帰宅したときは、家族が一人増えていました。

 こうして幸いにも母の嘆きはむなしいものとなり、戦争が終わると同時に夫を無事に取り戻すことができました。しかし母の実弟は、その年の5月にフィリピン・ルソン島山中のジャングルで戦死し、その若妻と乳児が母の実家に残されたのでした。思えば敗戦時に、父母はともに35歳でしたが、3度の戦争兵役を経て夫婦ともに健在は、奇跡的だったかもしれません。

●国民学校初等科の戦中戦後 

 戦争教育については、国民学校初等科の低学年ですから、あまりそれらしい記憶はありません。修身の時間に校長先生が教室にやってきて、神話の話をしたような気がします。広くもない校庭でグライダーを見た記憶があります。

 本館に天皇の写真があるという奉安殿があり、前を通るときに「奉安殿に礼!」の号令で一礼しました。ある時、悪ガキ上級生が「オオアンゴウに礼!」と怒鳴って逃げて行きました。岡山方言で大馬鹿者の意味です。

 校庭で毎日の朝礼の時に、壇の上に立った先生か上級生かが、モールス信号の機械でなにか文を打ち、分かった生徒は手をあげて答えます。今のクイズのようで面白く「イトー」「ロジョーホコー」と信号を覚えたものです。こうして「銃後の少国民」が育っていました。

 戦争が終わると、月に1回ぐらいの割合で、学級に編入生がやってきました。ほとんどが引き揚げ者、つまり中国や朝鮮半島からの帰国者のこどもです。はじめは転校生に違和感をもっていても、子どもはすぐに仲良くなりました。田舎の子には刺激になりました。隣町の小学校に、満州の奉天(現在は審陽)からの引き揚げ少女が編入しました。ずっと後にわたしの連れ合いとなる人です。

 敗戦の年は教科書が問題でした。教育方針が180度転換して内容を変える必要があるけれど、紙がないし印刷も間に合わない。学校からの指示にしたがって、それまで使っていた教科書のあちこちの文章を、母と一緒に筆で墨塗りしました。教科書は大切にして汚さないようにといわれ、使い終われば知り合いに譲っていたものでした。それをこんなことしてもよいのか、と思ったものです。

  でもそれは、なんだか面白い作業でもあり、あちこち消すために終わりのペー ジまで読むことになり、ちょっと勉強した気になりました。消すところは国語に多くて、どういうわけか理科にもあったような気がします。なぜここを消すのか不思議に思ったところもありましたが、母がそういったのかもしれません。

 次の年、印刷した新しい教科書がきましたが、それは製本してありませんでした。8ページ分が1枚になったままの数枚でしたので、それらを切りはなしてページ順にそろえて、自分流の表紙をつけて1冊の書物に作り上げました。自分が教科書を作ったような気になりましたが、それは今のわたしの「本づくり趣味」のルーツかもしれません。

 大人たちは価値観の大転換に直面してとまどい右往左往でした。小学校の教育のやりかたも変わり、教室の席の並び方が何度も変わった記憶があります。黒板に向いて先生の話を聞く授業から、みんなで話し合って考える方式になったらしいのです。でも、教師もよく分かっていないらしく、グループに分けたり、丸くならべたり、四角にしたりと、あれは実験していたのでしょうか。

 時には、教師が授業中に黒板に書きながら、「こんなやりかたをしてはいけないんだけど、」と、弁解していた記憶があります。それは戦時中の教育方法で、これからはやってはいけないと教育委員会あたりからでも言われていたのでしょう。どこがいけないのか子どもには分かりませんが、教師が学童に弁解するのもおかしなものだと思いました。大人たちは狼狽していました。

●新制中学校へ

 そんな中から、戦後民主主義教育は着々と進んできました。戦後の教育改革でわたしが出会って当惑したのは、1947年に新制度になって新しい中学校が誕生したことです。盆地内には旧制の中学校がありましたが、これを新制の高等学校としたので、新制中学校は盆地内の別の場所に建てられました。

 ところがその新制中学校の急造校舎は狭くて、生徒が入り切らないのでした。そこで二年生からそこに入ることにして、進入の一年生は盆地内の南端にあった南小学校の空き教室に仮住まいしました。わたしたち小学校を卒業してまた別の小学校へ通うのでした。

 わたしの家は盆地の北の方でしたから、通学路は盆地を北から南まで縦断する遠距離でした。2年生から急造校舎の本校へ通うようになりましたが、校庭は狭く、校舎は粗末、鉄道騒音や工場悪臭など、酷い環境でした。だからでしょうが卒業数年後に他に移転しました。

 でも、ここでよかったと思うことは、新制中学校には戦後の新しい高等教育を受けた教師が赴任してきて、素晴らしい教育に出会ったことでした。わたしは戦後民主主義教育の最前線を歩んで来て、「民主主義スクスク世代」と自負しています。教育は敗戦がもたらした良いことでした。

●空腹の日々 

 敗戦は飢餓をもたらしました。幼い少年にとってはここから戦禍が始まりました。盆地内の別のところに、神社経営を支えていた広い小作の水田がありましたが、農地改革でなくなりました。長期割賦支払いの補償金は、戦後の超インフレにより紙屑同然になりました。

 神社の小作米収入が消えて、父母は食糧の調達に苦労をしていたようです。5人家族が食べていくのは大変なことだったでしょう。神社の広い境内広場は、戦中は武道鍛錬の野外弓道場でしたが、戦後は芋畑に転じました。子どもにはただただ空腹の記憶ばかりです。

 なによりも、戦争推進の末端組織の一つでもあった神社への信仰が、敗戦で地に落ちてしまいました。父の神社神主という職業自体がなりたたなくなり収入の道が絶えたようです。 教科書も給食も有料でしたから、学校への支払いについての親の態度で、わが家の経済状態が児童のわたしにもよく分かりました。数年後に父が高等学校に事務職を得るまでは、家計は大変だったようです。

 大人たちは、どこでもいつでも食糧調達の話ばかりしていました。それが大人の通常の会話なのだとわたしは思っていたのですが、あるとき伯父が誰かとの会話で、こんな食い物の話ばかりして世の中困ったものだ、というのを聞いて、これは大人にも異常な状況なのだと気がついたことがあります。

 小学校で給食が始まりました。脱脂粉乳を湯に溶いたミルクと、マイロ粉という輸入トウモロコシ粉の黄色コッペパンがメインで、たまに干した果物がついたりしました。当時でも美味だったとは言えませんが、空腹のこどもには嬉しかったものです。多分、一番嬉しかったのは、一食分を食べさせなくてもよくなった親たちでしょう。

 まともな主食はなくて、朝早く行列して買った水ぶくれこんにゃく、麦のほうがはるかに多いお粥、野菜たくさんの雑炊、薄いうどん粉団子のすいとん(団子汁といいました)、蒸したさつま芋(これはご馳走)などが主役でした。もちろん、これらが同時に食卓に並ぶことはなく、一人あたりの量もすくなく空腹でした。あの頃の親たちは、自分の分を減らし、時には食べないで、こどもに食べさせていたはずです。思い出したくない食い物の恨みです。

●神社に今ものこる戦争の傷

戦争に行った釣り鐘の帰還を待ち続ける御前神社鐘撞堂
 生家のあった御前神社は、今も境内の山林も広場も変わりなく存在しています。戦前からの社殿建築の本殿、拝殿、御輿蔵、鐘撞堂もそのままに建っています。変わったのは老朽化した社務所が建て替えられたことと、宮司の社宅(わたしの生家)が消滅したことです。

 実は神社建築にはいまだに癒えない戦争の傷跡があります。それは17世紀から鐘撞堂に釣られていた時の鐘(1651年設置)が、鋳潰されて兵器となるために1940年に金属供出され、いまだに不在のままであることです。鐘のない鐘撞堂は鐘の帰還を待ちくたびれて、今や立ち腐れしようとしています。

 この鐘は城下に時刻を知らせる「時の鐘」の役目で、当時の藩主により設置されました。藩政期には鐘守役の人たちの住む長屋が近くにあり、毎朝夕の定時につきました。維新以後は神社に帰属して宮司が守役となり、父も撞いていました。父が不在の時は母が撞いていました。高い楼閣に上る急な階段は、結構怖いものでした。

●またもや戦争の気配

 今、世界各地で国家間や国家内部で紛争や戦争が起きて、止みそうもありません。欧米諸国でも日本でも、あの戦争を忘れた言説を唱える極右政党が台頭しつつあります。理解できない奇妙な言動をする大国リーダーたちもいて、力を振り回しています。
 なんだか世界戦争の再来の気配です。戦後90年、戦後100年には、第三次世界大戦になっているに違いない雰囲気です。しかしそうなるにしても、その時にはわたしは存在していないので、安心です。その前に「絶対究極安全圏」へ、早急の避難しておきたましょう。もう88年も生きたので人間生活は十分に体験しました。

(2025年8月14日記、補綴2025/0817)

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2025/04/10

1877【戦間期終わるか】昔の防空壕をシェルターと言い換えてすでに用意を始めたらしい日本

 

そろそろ防空頭巾を用意するかな

●あれから80年余またもや防空壕か

 どうやら戦争が迫っているらしい。ひたひたと足元に来ているようだ。今朝(20250410)の新聞で、小さな記事を読んで、そう確信した。こんなべた記事だが、こんなことを政府が調査していることに驚いた。いや、知らないのはわたしだけで、驚くのが遅すぎるのかもしれない。あれから80年、またもや防空壕が必要らしい。


 これって、昔々わたしもよく見たことがある防空壕でしょ。ほら、80年ちょっと前の頃、空から飛行機で爆弾落としに来る時代を迎えてしまって、家の裏山の崖に横穴を掘って、避難する場所を作った。都会では、家の地下に穴を掘って、そこに避難する場所をを確保した。

 空襲でそこに逃げ込み避難して助かった者もあれば、火の海となってそのまま蒸し焼きになった者もいた。
 そんなことを思いつつこの記事を読んだら、同じ新聞の別のページに右のような記事が載っている。あの戦中の防空壕政策でむしろ被害が大きくなったというのだ。

 今ではビルが立ち並ぶ都会では、地下室のあるビルも多いから、上の調査のようになるだろう。しかし戸建て住宅地では、やはり地下を掘るしかないだろう。

 だが、思うにあの頃の戦争と、今の戦争はどう違うのだろうか。名をシェルターと替えた防空壕は、いまでも有効なのだろうか。

●バカトラ世界関税戦争が引き金か

 このところUSAのトランプのバカが暴れており、世界経済戦争が始まった。関税という経済ミサイルを世界の国々に見境なく、或は狙いを定めて、次々と発射している。発してみて突然やめたり、2重に発射したり、出たとこ勝負を好き勝手にやっている。いやまったく面白いだろうなあ、世界を手玉に取っている気分だろうなあ。

 だが、これが本物のミサイルになる日が、もうすぐやってくるに違いない。かつて日本が戦争に乗り出したのは、ABCD包囲網とか言って、経済封鎖を国際的にやられたことが、直接的な原因と言われている。

 とにかく今はロシア、ウクライナ、イスラエル、ガザ、中東、ミャンマー、アフリカ諸国などなど紛争があちことであり、いつ戦争になってもおかしくない。
 そんな不安全な地球に、平和なはずのUSAから経済紛争をこんな生っぽい形で仕掛けてよいことがあるはずがない。今のトランプ関税攻撃が、どこかに戦争の引き金を引かせるかもしれない。
 それにしても思うのは、あの国の大統領選挙民の目を覆わんばかりのバカさかげんに、先達だったUSA民主主義の余りの凋落ぶりである。よくもこんな人を選ぶものだ、バカUSA国民どもよ!

 そうか、だから今から防空壕なのかい、おっと、今はシェルターと言うそうだ、戦争シェルターというのかしら、そういえば、ちょっと前には「核シェルター」が話題になったことがあった。
 そうだ、あの福島原発爆発の時は、本当にシェルターが必要だったんだな。いや、これからも日本全国にこんなにたくさんの核発電所があるのだし、もっと増やそうとしているようだから、多数の核シェルターが必要だろう。

 日本はどこかから飛んできたミサイルが、どこの核発電所にぶつかれば、それでもう核戦争になってしまう環境にある。福島原発爆発で、その恐怖を実体験したのに、核発電所をやめようとしない。何故だろうか。

 そういえば防空頭巾というものもあったな、用意しとくかなあ。飛散核物質除けに役立つかどうか知らないが、ないよりはよいかもしれない。それよりもなによりも、できるだけ早いうちに、事前避難しておく方がよいとの思いがますます強くなる。
 その点、わたしには身近に絶好の避難シェルターがある。そこに今のうち避難しておけば、それからは2度と避難の必要がない絶対的シェルター、それはあの世である。

(2025/04/10記)

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2024/09/01

1834【ようやく秋】猛暑や豪雨が毎年だから今や異常気象じゃなくてこれが普通かも、戦争もこれが普通かも

 今日から2024年9月、停滞のろのろ台風でこの数日は雨続き、おかげで涼しくなって、秋の気分だ。例年になく暑い夏と言っていたが、やはり秋は来るものだ。そして水害という災害も毎年のようにちゃんと来るものだ。異常気象が異常でなくなる時とは、災害も暑さも例年通の過酷現象になったときだろう。いつも異常だと異常とは言えなくなるからだ。

●異常気象が普通になる

 コメが食品店から消えてもう何日になるだろうか。これも異常気象のせいだろうか。しょうがないから三食を麺かパンか外食に頼る毎日だ。
 米を買えない現象はいつだったか大不作の年があって、タイから緊急輸入したのだった。今年はどうなんだろうか。農水省がコメの作柄を発表している。不作でもなさそうだからもうちょっとの辛抱か。


 このコメの状況のマップを見て思ったのは、コメは熱帯植物とばかり思っていたら、北海道や東北の方が育ちがよいらしく、冷温帯の植物に変化していることだ。
 これはコメの品種改良によるのだろうが、それよりも気になるのは、暑い日々が続く異常気象が定着して、コメも南方よりも北方の方が育ちやすくなっているのだろう。南方の昆虫や魚が来たのちや海でみられると同じことで、稲も次第に北上しているのだ。
 念の為2016年の同じマップ(右)を見たら、ほぼ傾向は同じだから、もうずっと前から本州中四国はもとより北海道も熱帯に近くなっているらしい。

●コロナは今や第11波だが

 異常気象が異常じゃなくなれば、新型コロナ禍も普及してしまって、いまや異常ではなくなるほどにも定着してきたのかもしれない。5年前の当初から数えると感染の流行の山は今や第11波だそうだ。こうも何度もやってくると異常ではなくて普通のことに思ってしまうのももっともだ。マスクもつけなくてもいいや、飲み会やって大声でしゃべりあってもいいや、なんて思う。

 2020年初からのコロナ来襲で、人々との出会い制限が特に老人には強烈にはたらき、社会的ネットワークが次々となくなってきた。これに加えて2021年から家人への介護が始まり、コロナ禍と老々介護が重なってくるともう身動きとれない日々であった。辛かった。

 今コロナ禍はほぼなくなり、家人の介護も7月末に終了し、5年ぶりに獄外に出て自由な日々を謳歌してよい日々が来た。ただし、その間にわたしに老いを確実に重ねてもいたのであった。いったん切れた社会的ネットワークはおいてしまうともう元には戻らないし、身体の老化も不可逆である。この最晩年という貴重な日々を失ったのは、大きなショックであった。

●プーチン戦争は泥沼化して続く

 そして今のもう一つの大きな悩みは、s無所の地球の争いと分断である。プーチン戦争については報道メディアのニュースは小さくなってきたが、コロナのように終息が見えてきたのではなく、むしろロシア本土攻撃へとウクライナは戦争拡大の様子である。

 これは泥沼戦争なのか、かつてに日本軍がチャイナへと攻め入った日中戦争と同じかどうか知らぬが、日本の軍部が当初考えていた短期終結が泥沼化したようなことを、今はプーチンがやっているのだろうか。
 クリミア半島は朝鮮半島であり、東南部諸州は満州のようなものか。日本の失敗の歴史的教訓をプーチンに教えてはどうか、なんて思う。いや、もっと近い時代にもベトナム戦争とか9・11復讐アフガン戦争におけるUSAの泥沼敗退の歴史もあるよなあ。
 
 気候はどんどん悪くなるし、戦争はあちこちでやまないし、USAトップ選挙に代表されるような人間社会の分断は地球上のあちこちで起きているし、わが身は老いに迫られているし、全くろくでもない時代に生きてるものだ。もしかしたら、異常気象が定着して異常といえなくなるように、戦争も定着してこれが人間の普通の地球というようになる時代が来る、いやもう来ているのかもしれない。と、慨嘆しきりの日々である。
(20240901記)
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2024/08/16

1832【敗戦記念日定点観測】靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑に戦争残滓と予兆を探る徘徊

 8月半ばになっても暑い日が続く。それでも思い立って、昨日(2024年8月15日)のこと、東京九段の靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑を徘徊して来た。そう、参拝ではなくて徘徊である。

 5年前までは毎年のこの日、つまり太平洋戦争敗戦放送記念日に訪ねていたのが、この数年はコロナパンデミック老々介護に襲われて遠出することができず、2020年を最後に途切れていた。今年の夏はコロナも遠ざかったようだし、2年余の老々介護が終了したので、ようやく復活した。

 なぜそこを毎年8月15日訪れていたかといえば、そこに祀られる戦死者への参拝では決してないのだ。その日にこの二つの場に出現するあの戦争の残影を眺め、さらに次の戦争の予兆を探り観るためである。いわば社会見学的な野次馬見物である。
 4年ぶりの九段徘徊だったが、靖国神社には大勢の人出であり、それに比べて戦没者墓苑は静かなものであった。

九段坂上へ

 九段坂下の地下鉄駅から靖国神社に一番近い出口を地上に出ると、いきなりにぎやかな客引きの群れというか、ビラ配りというか、各種の政治的アピール集団が歩道の両側に並び、まことにかまびすしいのは例年通りだ。
 さまざまなその集団は、日本の右寄りの人たちばかりではなくて、台湾やチャイナからの政治的な訴えもあるようだ。ウィグル族の訴えがあったのは、これまでで初めてだ。





 それらの勧誘をかわしつつ抜けて、靖国神社境内の外苑に入り大鳥居をくぐると、一転して静かになる。10年ほども前まではこの境内の中にいろいろな訴えの集団がいて煩かったものだが、今は排除されてしまったので参道は広々としている。

 4年前まではこの広場にテントをはって、何か記念集会らしもの催されて、演説のようなものが聞こえていたものだが、それもなくなっていた。もっとも、その集会がなくなったのではなく、野外ではあまりに暑いのでどこか室内のホールにでも場所を移したのかもしれない。


 それでも毎年おなじみの軍服コスプレのおじさんたちが数人いて、日の丸や日章旗を掲げたりしているが、いっときと比べて勢いがない。

軍服コスプレおじさんたち

 十数人の集団らしきの男女たちが、何かの記念碑を囲んで国歌や軍歌の合唱をしている。靖国神社らしい音楽だ。
 前にはよく出会った見るからにウヨク集団らしいお兄さんたちに、今回は出会わなかったのは、いなくなったのではなくて、わたしが来るのが遅かったからだろうか。

君が代や軍歌を合唱する人たち

 内苑に入る二の鳥居をくぐると、神門から行列がはみ出している。拝殿まで続く参拝の待ち行列である。この暑い中をじっと立ち尽くしてそろそろと列が進むのに従っている。わたしは参拝者ではないので、その横を通りぬけて神門をくぐる。そして能楽堂を横に見て、遊就館に入る。

神門外に伸びる拝殿からの参拝者行列


拝殿前

遊就館展示

戦記物は戦意高揚の本ばかり

戦争コスプレさせている母と子

 ここまでいつものコースである。今年の様子を一応眺めたので、これでもう引き返すことにした。これまでと比べて、境内全体が少し落ち着いてきた感がある。それでも戦争の残滓の臭気が漂う。

千鳥ヶ淵へ

 南門を出て、千鳥ヶ淵に向かう。堀の沿った桜並木の木陰道は、この暑い日でも気持がよい。歩く人が急に少なくなってしまった。堀の向こうの森の上に、東京駅あたりだろうか、超高層ビルがたくさんに建ち並んで、でこぼこのスカイラインを見せている。しばらく来なかったら、森の上部の風景がずいぶん変わった。

千鳥ヶ淵の桜並木も老いてヨレヨレ

森の上に都心超高層スカイライン出現

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、いつものように靖国神社とは比較にならぬほどの少ない人である。これくらいの人、建物、緑の密度が最も気分がよい。
 六角堂には礼拝する人たちが十数人集まっている。その中で女性が立ち上がって何かしゃべり始めたが、拡声器付きやかましくい。雰囲気が壊れる。つい耳に入ったのはコリアヘイトスピーチであった。そうか、ここにもヘイト集団がやってきたとちょっと驚いた。これも戦争の残滓であろうか。

靖国神社と比べて静かな戦没者霊園にもヘイトスピーチ

 長居は無用と引き返して九段坂を下りつつ見れば、かつての軍人会館、今の九段会館が復元保全修復されて見え、その背後に超高層ビルが建っている。これもいわば戦争の残滓のひとつである。
左に菊竹清訓設計の昭和記念館、中央に旧軍人会館、右に九段会館新高層ビル

 九段坂下の交差点に来れば、おお、やっているよ今年も、ウヨクさんの演説である。通り過ぎようとして耳に入ったのは、ここでもコリアヘイトスピーチであったのは、今はこれが右方面では流行っているのだろうか。

九段交差点のウヨクさん

 日の丸デモ行進が来るかと思ったがが来なかった。しかし、戻ってからYOUTUBEを見ていたら、デモの映像が出てきたから今年もやったらしい。ずいぶん大勢の中年や若い男女が、こういうデモに参加するって、そういう時代が来たのかなあと、これは毎年8月15日に感じる戦争復活の気配である。
九段下の日の丸デモ(youtubeより引用)

 そうやって久しぶりの九段徘徊だった。靖国界隈の戦争の残滓と気配は、5年前と大きな変化はないようだった。戦死者賛美の空気は色濃く漂うのである。
 そこでいつも思うのだが、戦争兵員として殺されたものは、その一方で人を殺した可能性がることを、だれもが忘れていることだ。そしてあの戦争で死んだのは日本人だけではなく、それ以上の人々がアジア各地で死んだことも、これまた忘れていることだ。

 これまでの九段徘徊につてはずいぶん書いてきた。わたしが戦死者を悼まない理由も何度も書いてきた。今年で最後になるかもしれないので、これまでの一連の8月15日の思いをまとめておく。
 〇2005年と2013年・靖国神社815定点観測風景2005、2013
 〇2014年・終戦記念日の靖国神社の喧騒と千鳥ヶ淵戦没者墓苑の静寂
 〇2017年金モール軍服長靴の若者がスマホをいじる靖国の夏
 〇2018年・夏まつり森の社のにぎわいは今日も戦をたたえる見世物
 〇2019年敗戦記念日は東京九段の靖国神社に戦争の残影を見物に
 〇2020年・コロナ禍敗戦記念日の変わらぬ靖国神社風景が怖い
 〇2021年・この前はアメリカに敗れこの度はコロナに破れかぶれ
 〇2022年あの敗戦から77年の歳月に次々と戦争の日々が重なる 
 
2023年・敗戦記念日に戦争準備を叫ぶ政治状況に閉口するばかり

 それにしても、今年もいつものコースを歩きとおすことができたが、5年前には普通に歩いた道のりに苦労するようになり、来年があるかどうかわからない歳になってしまった。
 乗り慣れていた地下鉄の駅駅でうろうろ迷ってしまった始末は、わたしが老いたのではなくて、この間に駅改造や路線進展のためであると思いたい。次は東京駅周辺と渋谷駅周辺の徘徊に出かけなければなるまい。そう、浦島太郎気分で街で迷うのは楽しいものだ。

(2024/08/16記)

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2024/04/01

1807【四月バカの日】戦場と戦争準備の記事の日々エイプリルフール毎日であれかし

 2024年4月1日東京新聞、見開き全部が4月バカ記事ばかり。もちろんのこと広告の腰痛薬も、飲む目薬も、オーディオ高価買取も、男の悩みズバリも、み~んなエイプリルフール!(だよね)。


 更に下に載せた同日の別面の記事、沖縄ではもうすぐ戦争になるから準備を始めたというのだ!、これももちろんエイプリルフール記事であろう、これこそ四月バカであろうなあ。


 日本が戦争する気になっていることは、エイプリルがまだ来ない数日前のこんな新聞記事にも表れているから、もう確実に本当のことであろう。いやだいやだ。
 安倍政権のころから特にそうなのだが、じわじわと戦争やりたい気分が日本国政府には高まってきている気配であったが、ここまで来ているのである。いやだいやだ。


 わたしはギリギリ戦争当時を身体的に知る年齢である。戦争によって少年時に最も身に応えたことは、日常的に食べるものが少なくて、いつも腹を空かせていたことだった。食い物の恨みは一生続くものだ。たぶんそのころの親たちは、自分が食べる分の食事を、その子たちに食べさせていたのだと、大人になってからようやくわかったのであった。

 幸いにもわたしの子等にそれを体験させないできたが、どうやら孫(わたしには孫はいないが)の世代の親子たちには、またもやありそうな気配だ。すでに外国では現実にウクライナやパレスチナあるいはミャンマーで起きているから、日本にそれがやってくるのは確実だろう。

 もう年とってよれよれになって何もできないわたしは、この現実から早く立ち去るしかない。そう、「あの世」と言う絶対的に安全にして、いつでも行くことができる避難先を用意しているのだ。

戦場と戦争準備の記事の日々エイプリルフール毎日であれかし

(20240401記)

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2023/12/10

1761【国連右往左往】米・英・独・仏・伊・蘭・露・印・土・白・波・越・宇いくつ判るかな

 イスラエルのパレスチナのガザへの攻撃は続く。国連安全保障理事会では何度目かの即時停戦決議案が、9日に提案された。15常任理事国の内で13か国が賛成、反対1国、棄権1国だそうだ。常識ではこれで決議案は可決だが、USAが拒否権発動の反対で没になった。
 棄権はUKであり、西側諸国の代表的な2国が停戦に賛成のである。いろいろ国際情勢で理由はあるのだろうが、いずれにしても困った地球である。

休戦決議反対の手をあを挙げるUNITED STATES
 
 この写真を見て、UNITED STATESUNITED KINGDOMの国名表示にふと思った。これらのどこにもアメリカとかイギリスとか、日本のマスコミが使う国名が無いのは、どうしてなのだろうか。国連が使う国名と違うのはなぜか、日本では間違った翻訳をしたままで使っているのだろうか。

 マスコミでは表記を短縮するために米国とか英国とか書くこともおおいが、これこそ明治かそこらの開国当時の外国語の漢字表記をそのままだろう。独、伊、露、比など使わないのはなぜか。あまりに古すぎてもう通じないと言ってもよい。ときにとあるので食べると勘違いする。米国はよしてほしい。英国も今では何の意味もないからよしてほしい。

 参照:http://www1.odn.ne.jp/haru/data-list/w_ryaku.html

 米国を正式に日本語で書くとなるとアメリカ合衆国なのだから、これもめいじかよ~と笑うしかない。連邦というのが普通だろう。ときに合州国と書く人もいるが、stateを州と翻訳したから、この方がそれなりに合理性があるように思える。

 話を戻して国連で机の前の国名であるが、UNITED STATESUNITED KINGDOMもどちらも一般名称であり、国名という固有名詞ではないのはなぜか。世界で俺たちの国だけが連邦だというのか。大国の影をひけらかしているのか。

 ちょっと調べたら、United Mexican StatesUnited Republic of Tanzaniaという国名がある。ならばメキシコもUnited  Statesであり、タンザニアはUnited Republicだろうか。一般名称を国名にするのは、思い上がりというものだ、とそんな嫌な感がある。特にUKとUSAの地球上における大国としての歴史を考えると、気持ちが悪い。

 国名ついでに言うと、北朝鮮というのも何とかならなものか。国交がないからとか、棄権跡売り者がいるからとかで、わざと見下す言い方をするのは、どこか子供っぽい。もっと大人になって朝鮮民主主義人民共和国(Democratic People's Republic of Korea)の短縮国名を使ってはどうか。

 実は韓国についても同じように思っているのだが、大韓民国(Republic of Korea)が正式国名だから、短縮するなら大韓というべきだろう。ついでに中国もおかしいと思っている。大国、中国、小国に通じるから、今や大国に復活したから変えるべきで、中華人民共和国(People's Republic of China)ならば中華または中共と短縮するべきだろう。そういえば、国民党と内戦やっていたころは、中共といえば中国共産党のことだった。

 それで思い出したが、日本JPANはこのままで良いのだろうか。だって当事国の人たちは誰にトリとして、じぶんのくにをJAPANと呼ばないのに、国連など外国ではJAPANと呼ぶのは、どうかんがえても奇妙と思う人はいないのかしら。

 USA人たちは自国をアメリカとは呼ぶことはなくて、UNITED STATESと自国を呼ぶ。そして国連での表記もUNITED STATESである。
 一方、日本人たちは自国をJAPANと呼ぶことはなくて、日本と呼ぶ。それなのに国連での表記はJAPANである。USAがそうならば日本も、国連ではNIPPONまたはNIHONと表記するべきであろう。
 この食い違いはどこから来たのだろうか。政府は是正する必要はないのか、その気もないのかしら。もっとも、わたし個人は困らないが何となく気分がすっきりしない。

 (20231210記)

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2023/12/06

1758【今日も戦争】薄暗い廊下の奥に閉じ込めた戦争がまた目覚める気配

  昨日は現在起きている外国の戦争のことを書いたから、今日は現在の日本で起きている戦争のことを書いておく。もちろん戦火が起きているのではない。戦争の気配が濃厚になっているのだ。
 去年にはウクライナで侵略戦争が起きて(実はもう2014年に起きていただが)、今年はパレスチナのガザで第5次ともいうべき中東戦争が起きている。ミャンマーでは内戦が拡大して続くし、朝鮮半島の北ではミサイル打ち上げに精を出しているし、チャイナは海洋に乗り出して東南アジアであちこちきな臭い。

 という世界戦乱情勢の中の日本は、今のところ戦乱は起きていないのに、なんだかきな臭い。ちょうど10年前の2013年に「特定秘密保護法」なる反情報公開法ができたのは、戦争につきもののスパイ策であったらしい。つまり戦争が近いからスパイに備えておこうというのである。その頃からどうもきな臭い。

 次に2014年には、憲法についてそれまでとは大きく異なり、日本は集団自衛権行使を可能とすると解釈を変更した。つまり、アメリカと一緒なら戦争できることにした。
 わたしは新憲法ができたとき11歳だったから、物心ついてからは憲法と一緒に育ってきた。戦争絶対しないと思い込んでいたのに、わたしより後から来た安倍さんに勝手に変えられてしまった。

 そして近ごろは武器を作ってその輸出さえ可能にするという方向へ論議しているらしい。現実に、ウクライナの戦争支援を公然とやっている。沖縄あたりの南西諸島では戦争基地づくりをどんどん進めている。
 いつ戦争が起きてもよいように備えるらしい。次の戦争が起きると沖縄は一番に攻撃される運命に落とし込まれている。戦火が上がるのは近いのかもしれない。


 今日の新聞に、その集団的自衛権行使への憲法解釈変更について、憲法9条違反だとして訴訟した人たちがいて、その控訴審判決が載っている。
 判決は敗訴、「いろいろ問題がありそうだが、明白な違反とは言えないなあ、、」てな感じである。わたしが一緒に生きてきた憲法が次第に離れて行って、戦争へとなびき傾いていくようだ。

 親友というか守り神と思っていた憲法君が育ちすぎて、わたしとは遊んでくれない不良になり、どこかに家出していった気分である。そうなったのは考えてみると、2006年に公然と憲法改正を唱えて自民党のリーダーになり総理大臣になった安倍晋三の登場からのような気がする。あの時のマスコミが伝える安倍晋三のいうことを見聞きして、デジャビュに襲われたことがある。赤尾敏である。

 わたしが学生時代に有楽町駅近くの公園で演説していた赤尾敏のいう右翼が居た。それに実によく似た言葉だったので、今どきこのようなことを言う政治家がまたも出たのか、と思ったものだ。
 それがするすると総理大臣になるこの国にすっかり不信を持ってしまった。安倍晋三にわたしの親友であった憲法君を拉致されたのだった。その拉致者が暗殺されたのも、かれゆえに怖い世を招いたご当人にも責任がある。

 わたしは日本の十五年戦争の半ばで生まれ、戦火こそ蒙らずに済んだが、その末期の教育を受け、敗戦の日も見届けた。そして敗戦後の混乱期も、腹ペコという現実的な不幸に襲われて、これが私の本当の戦争だったかもしれない。

 戦争を身に染みて知る最後の世代と言える。今、戦争を知らぬ世代の人々によって、戦火を招くような方向に世は動いているように見えて仕方がない。
 死ぬ時はまた戦火の時代になるのは勘弁してほしい。その前に死ぬしかないな。
 なお、タイトルは渡辺白泉の1939年の句「戦争が廊下の奥に立つてゐた」による。
(20231206記)
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2023/12/05

1757【今日の戦争】ウクライナは今や戦い疲れ、ガザはこれから疲れるほどに戦うのか

 ウクライナでは、今や市民は戦争疲れの気分とある。その一方で、パレスチナのガザではますます戦争が盛んである。これも今に戦争疲れが来るのだろうか。
 そういわれると、毎日毎日戦争記事を読まされるこちらも、戦争疲れであると言えなくもない。戦火の中にいないのにそう思っては申し訳ないと思う。そこには何もできないでいる自分自身への責め疲れがあるかもしれない。


 そして思うに1944年から45年にかけて、わたしの父母たちの世代は、戦争に疲れたと思わなかったのだろうか。思ったに違いないだろうが、口に出すことができなかったのだろう。わたしの戦争時の記憶に、父と母が新聞を見ながらの会話がある。

 母が父に新聞を示しながら「こんなことを記事載せていいのでしょうかねえ」というのだった。それ以上は覚えていない。7~8歳の子には何かよくは分からない記憶の雰囲気では、どうも日本の戦局がかなり不利な状況の記事が載っている、そんな様子を感じたのだった。母は声を潜めているようだった。

 そうか、いま気が付いたが、母が声を潜めたのは、わたしに会話を聞かせたくなかったのだ。小さい子は外に行って無邪気に、家庭内での父母の会話を話すであろうからだ。そんな世の中だった。
 さて今頃のウクライナとかロシアの家庭内で、こんな会話があるのだろうか。

 ウクライナで盛んな局地のたくさんの戦いは、当然今も続いているのであろうが、今やニュース価値はパレスチナのガザに移ったみたいである。それでよいのだろうか。

 今ガザで起きている市民をたくさん巻き込んでの殺し合いは、ウクライナではもう終わって、軍隊同塩田高いばかりなのだろうか。ということは、そのうちにガザでもそうなるのだろうか。

 「あの頃はバカなことやったものよ」と、1945年頃を思い出すように今を思い出す時があるのだろうが、わたしには関係がない世界のことである。
 とにかく今日の戦争の記録を、ここに載せておく。

追記20231206ミャンマーの戦況図をみると内戦が広がっている。かつて日本軍がこの地を戦乱の場とし、そして敗れた日本軍の死者が撤退路に連なり重なる白骨街道を作った。

(20231205記)

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2023/11/06

1731【分らぬ宗教と戦争】ほのぼのとコロナ世の暗夜明けゆけば いくさ世の暗雲立ち込める見ゆ

ウクライナとパレスチナの紙面での扱い
 なんともはや、コロナが落ち着くと戦争と政争との地球が浮かびあがって来た。
 その戦争もつい先ごろまではウクライナ可哀そうロシヤ憎しばかりだったようなのに、今やパレスチナ可哀そうイスラエル憎しにどんどんと傾くのである。

 ますます可哀そうなのはウクライナである。もう新聞やSNSの片隅にしか出てこない。あれ、あの戦争はついに終ったのかと間違うほどの、このところのウクライナ登場の少なさである。

 ゼレンスキー氏がイライラらしているに違いない。でもよく分からないのは、彼はイスラエルに味方すると言ったそうだが、それって自分ところの戦いに武器支援してもらっている大スポンサーのU.S.A.がイスラエルの味方をしているから、そっちにつくしかないのだろう。
 戦争当事国が別の戦争の国への対応は、なかなか政治的に難しいだろうなあ、気の毒になあ。

 こんなマップをネットから拾ったが、なるほど地球の人間は大きく5宗教に分かれて、あちこちでいがみ合っているのか。困ったもんだ。
 特に緑と水色の二つのキリスト教系と、赤色のイスラム教系との確執が高いらしい。なぜいがみ合うのか無宗教のわたしにはまったく理解できない。

 この地図を見ていて思ったのは、アフリカから中東にかけてのイスラム系レッドゾーンが、人口爆発を起こしており、その溶岩がヨーロッパに流れ出しているのだなあ、と見えることだ。
 もうひとつへえーそうなのかと思ったのは、ロシアの北半分はロシア正教ではないということ。人口は超少ないのだろうが、これってどうしてなんだろうか。

 いま、キリスト教系とイスラム系の争いの先端を行くのが、パレスチナ戦争である。これもそのあまりに深い歴史の底から始まり、近現代における植民地政策の原因と結果らしいので、東アジアの島国で育ったものには、複雑すぎてなにが何やらさっぱり分からない。

 ユーラシア大陸の端から端までなんだかんだともめていても、南北アメリカ大陸あたりは同じ色の系統だから比較的に平穏と思っていた。ところが世界の警察としてその平穏を保ってきたU.S.A.において、そのリーダ選びドタバタで民衆主義さえ危ういという。
 あの国がねえ、困ったもんだ、トランプなんて与太者ひとりにかき回されてなんて、あの国の人たちはいったいどうしたんだろ。俺たちは昔お手本にしたものだよ、嘆かわしい。

 こりゃもうもう地球はダメだな、人間どうしがいがみ合うところにもってきて、温暖化が進んで人間が住めなくなる地球になる方向にあるらしいから、もういいことはないね。早くオサラバした奴が勝ちですな
 コロナ後に良い世界が来ると思っていたのになあ、辞世の歌でも詠うか。
  コロナ世の後を継ぐらし戦の世 もはや地球に見切りつけなむ
(20231106記)


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2023/10/29

1723【コロナ後戦乱世界到来】ああ、これが期待していたコロナパンデミック後に拓く新世界だったか、ガックリ

 イスラエルとパレスチナの戦争が、またまたまたまた始まっている。1948年のそもそもからず~っと中東戦争である。いい加減にしろ、バカめ。

●休戦決議案って去年冬にもやったよなあ

 そして先日、国連安全保障理事会でで人道的休戦決議案が、否決されたそうだ。世界各国のそれに対する態度は、みたところ半分半分であるから、今、地球は真っ二つに割れつつあるということか。

 このニューズを読んでいて、あれ、これって去年にもやったぞとデジャビュになった。でもこの戦争は今年からだよ、あ、そうか、忘れそうになっていたが、ウクライナでも戦争をやっているんだ、その戦いをやめろと、人道的な決議案を去年の3月に出して、やっぱり世界が半分に割れていると思ったことがったのだ。

2022年3月24日の国連決議案賛否の国別色分け

 そうだよ、去年2月末にプーチンがウクライナに攻め込んだという大事件のことを、世界はすっかり忘れたのか、同じ人道的という言葉をつかった決議案であった。そして未だにその戦争は止まらないのが、何とも人類はバカになったものだとつくづく思う、情けない。

●火事場見舞いに1兆円

 そしてその真半分になった分断世界の片方に、わたしの住む島も属してしまっている。この島の政府は、中立ではなくて一方の味方に入れ込んでおり、この1年7カ月ほどでウクライナ支援金を、なんと65億ユーロもつぎ込み、味方の各国では5番目に多いとのこと。

 65億ユーロって1兆円を超えるんだぞ、驚いたなあ、他の支援各国を見るといずれも西ヨーロッパと北アメリカの国々であり、東洋ではわたしの住む国だけとはねえ。何の縁もない遠方の人の火事見舞いに1兆円とは、この国はそんなにもお大尽であったのか、それにしては、、、。

●国名表記の不思議

 ところで国連の今回の人道休戦決議案への賛否一覧の各国名を見ていたら、なんだか変である。実でにどうでもよいことだけど書いておく。

・国の名前については、平等に表現するべきであると思うが、一部の国だけが「国」がついているのは何故か。
・そもそも外国語だから、「日本」のほかはカタカナ表記にするべきと思うが、漢字が混じるのはなぜか。
・とにかく中国、北朝鮮、米国、豪州、韓国、英国を何とかしてもらいたい。他のほとんどがカタカナ表記だから、これらもそのようにして、平等な表現としてもらいたい。

・コンゴ民主主義共和国だけが、なぜ民主義共和国なんてついているのか、ほかの国だってありそうだぞ。例えば朝鮮人民民主主義共和国とかね。
・そもそも北朝鮮と言う国名ではないだろうに、ここだけがどうして地域名を国名のように書いているのは何故か?

 ついでに、日本と書いているが、これってその国の人だけがそう言っているだけで、その他の国の人たちはがそう呼ぶことはほぼ皆無であり、全く別の名称で呼ぶことを誰もが知っている。この巨大な国際的ギャップを埋める気は、だれもないのかしら?

●これがコロナパンデミック後の新世界なのか

 それにしても、コロナパンデミックは落ち着いたらしいが、その最中にはこのブログにも何度も書いたが、パンデミック後の大変化が来た世界を見てから死にたいものだと思っていた。今ようやくそれが来つつあるのか、期待してワクワクしているのだが、、、

 それでいま気がついたのは、実はもうコロナパンデミックがもたらした大変化の世界に突入しているのかもしれない、ということだ。そう、このウクライナ戦争と中東戦争が典型的なコロナ後の世界であり、これから同じ様な戦争が次々と起こるのだろう。

 地球上の人間が真半分に分かれて戦う日が来つつある気配が濃厚だ、そうか、この戦争の地球こそがコロナパンデミック後の新世界であったか、ああまったくもう、期待外れもはなはだしい、ああ、コロナに罹って死ねばよかった、つくづくそう思う。

(20231029記)

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2023/10/19

1713 【吹けば飛ぶよな…】地球の西方で何百人もが戦争で死ぬ日々に日本の新聞は、、、

  

 これは2023年10月12日に、フェイスバカに書いた記事である。

 こんなことがなんで新聞のトップニュースなんだ?、世の中もっと大切なことがあるだろうに。

2023/10/12 各新聞のトップ記事

 いや、これは平和な世の中の証拠だから、と言うには、今の地球上はあまりにあちこちで戦争紛争や巨大自然災害が起きているのに、マスコミはボケているに違いない。 ここまでの一文は、先月9月9日にも似たようなことを書いたが、その時はジョニーとか言う芸人会社の社長が、美少年強姦魔だったという事件である。

 今回は吹けば飛ぶようなプロ将棋勝負である。なんでも誰かが8大タイトル全部を取ったとかって言う。そんなにたくさんタイトルがあるって、タイトルに権威がない証拠みたいだ。それぞれに企業スポンサーがついているらしく、読んでいて噴き出したのは「おーい、お茶」王位タイトルは茶業者がスポンサーのようだが、そのコマーシャル文句は旧弊な家庭内格差の表現だから今どきいかがかと思うし、駄洒落タイトルって権威ないよなあ、なんて将棋好きの人たちは思わないのだろうなあ。

 わたしはジョニーも将棋も囲碁もスポーも、見世物勝負ごとに興味がない。お好きな方はご勝手にだが、新聞の一面を占めるような(見ないけどTVもそうだろう)バカらしいことを、マスコミややめてほしい、購読料を返せ。 

 ここからは2023年10月19日に書く記事である。

 上の10月12日第1面トップ将棋記事新聞の第3面には、こんな記事があったのだ。

10月12日第3面の記事(朝日新聞)

 世界が注目している大事件、そして今日の10月19日には、ガザの病院が爆発して数百人が死んだという記事がある。



 そしてその爆発の原因者は、ガザのハマスに言わせるとイスラエルの空爆であり、イスラエルに言わせるとガザから発射したロケット弾による誤射、それぞれが非難の応酬、世界各国もそれぞれの味方になって政治声明とか、それぞれの味方をする市民たちのデモとか、いま地球は割れつつある。

 そんな時に、吹けば飛ぶよな将棋の駒いじりとか、美少年レイピストさわぎとか、マスコミの報道の重点がヘンだ、いや世間の目がおかしくなったのか、う~ん、そんなバカばかりの地球なら、大戦争が近いな。

 このところ毎日が、イスラエルのガザへの侵攻が、今起きるか明日起きるかのハラハラの日々である。USA大統領が大西洋を越えて、イスラエル訪問して応援すると言いつつも牽制して進行を遅らせる時間稼ぎとか、よくやるもんだと思うが、こんな危ない橋を渡るのは、世界の警察を今も任じているのだろうか。

 ところで、あのウクライナはどうしているんだろうか、新聞登場情報は激減したが、戦争が止んだのではないらしい。それがジャーナリズムと言うもんなんだろうなあ、どうもわからない。
 どうやら東ヨーロッパから中東にかけてが地球の火薬庫として、ウクライナを発火点となり、パレスチナは爆発起点となり、第3次世界大戦になるのだろうか。シリア、レバノン、イランなど、巻き込み巻き込まれて戦火拡大か?


 火薬庫から遠くのアジアやアメリカでは、その戦争に兵器供給で大儲けを企んでいる死の商人が多くいるに違いない。このところながらく地球各地に小戦争はあっても大戦争が無くて、各国がこれまで作り貯めててきた兵器が老朽化していたころだ。ここで世界大戦が起きてくれると、兵器一新の巨大産業活動がはじまり、地球は景気良くなるに違いない。

 日本が第2次世界大戦敗北のどん底から回復したのは、朝鮮戦争のおかげだったし、飛躍的に高度性と要した陰にはベトナム戦争があった。兵器産業の世界ではあの景気よ再来せよとの願望が叶いそうなのだろう。
 もちろんそれにはその兵器で死ぬ人間の山が、地球上の各地にできるのだ。そんなことがあった時代を経験した最後の世代なんだなあ、わたしは。

 ヤレヤレ、わたしはこんなにもバカらしい時代に、地球に生まれ出て死ぬのかあ、日本の十五年戦争の真最中に生れ、いま第3次世界大戦前夜か、うっかりすると戦中に死ぬのだろうなあ、良い日々も無かったわけではないが、初めと終わりが悪ければ、すべてが悪いとなる人生世だな。(2023/10/19記)


2023/10/17

1712【戦争とTV放送】中東の戦争悲劇と美少年強姦魔事件と商品広告が同棲するTVに羞恥

 中東のイスラエルとパレスチナとで、なにかスポーツの大会があるようで、TVが騒がしい。つい先日もラグビ-試合で騒がしかったから、今度はサッカーとかだろうか、わたしには興味がないのにうるさいだけ。

 わたしはTVを見る習慣がまったくないのだが、最近になって家人が難聴になり、そのTV視聴時には音が大きくて、こちらもついつい聞かされてしまう日々を送っている。

 冒頭のいちゃもん文句はもちろん、ハマスの攻撃(反撃か)に対するイスラエルの攻撃(報復か)という、またまた始まった中東戦争であると知っている。はるかに氏の彼方のことだが、ふと思えば、日本だって中国東北部で満州というパレスチナの悲劇を作ったのだ。

 だが、それがTVの中ではスポーツ関係の放送に聞こえてしまう。いまに試合が始まるぞ、双方の選手が入場しようとしている、ハラハラドキドキの実況中継だ。聞いているこちらの心が、期待と不安、はっと気が付いて羞恥、そのあいだでで奇妙に揺れる。

 昨日までの悲劇よりももっと大きな悲劇が、今にも起こりそうだ。そう思って聞いていると、突然に音声が切り替わって、バカらしくも陽気なコマーシャル放送が延々と続く、これはいったいなんだ、いまや娯楽番組かよ、戦争さえも、、、。




 わたしが30年くらい前まではTV放送を時には見ていたが、今は全く見ない。このまえにTVを熱心に視聴したのは、東日本大震災の時だった。ニュースはPCのネットで見ればよろしい。

 TVを完全無視することにした動機は、あのコマーシャルなるバカらしくて、ガキが喜ぶような寸劇が、そこまでの放送内容とは全く無関係に割り込んできて、延々と居座るのにまったくもって辟易したたからだ。

 TV放送とはそんなものかと漫然とおもっていたが、あるとき事情があってTVをしばらく見ない日が続いたら、気が付いたのだ。こんなもの無くてもいっこうに困らない、ネットから発するニュースでを、自分の好きな時間に好きなように選んで視聴すれば、時間も内容も押し付け一方のTVよりも、はるかに短時間で必要な情報が得られると分かった。
 もう、もうTVオサラバだ。

 今、はからずも音だけTVを聞くと、あの辟易したころと全く変わらない様子である。何でもないことを大げさに大金をかけて放送に仕立てるようだし、ということはそれを提供する金持ち企業がいるのだろう。そし「TVで放送中」とわざわざ書く新聞の広告欄を見ると、TV放送が何か権威となって来ている世の中に、ただ嗤うしかない。

 一方でTVで売り出した(らしい)芸人たちが、実は次々と美少年好き強姦魔の魔手にかかっていたとかって、現代のシモネタ怪談ときたら、もうTVからはみ出してしまい、中東の悲劇と並んで新聞やネットを賑わわせている。

 いやはや、世も末じゃよ、なあ、熊さんよ、もう嫌になったよこの世がね、いいかげんにせい、ああ、やっぱり長生きはするもんじゃないね。(20231017記)