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2025/01/18

1863【大地震記憶】阪神淡路・中越・東日本・奥能登の大震災現地そして幼少期の大震災記憶

 これまで88年もの長い人生でありながら、幸いにして南キャリフォニアのような大火災にも、能登のような大地震にも直接に被災したことは無く過ごしてきた。これからどれほど生きるかわからぬが、大災害に合わない保証はない。できればそんな体験の無いまま今のうちに、この世からおさらばしたいものだ。

●阪神淡路大震災の現場へ

 昨日、2025年1月17日は、あの1995年阪神淡路大震災からちょうど30年目の日であった。わたしはそのような時間と事件とを結びつけて記憶するのは良いとしても、それから10年目とか30年目とかに特別な意味があるとは思えない。身内の死を何年忌とか言って覚えるのと同じかもしれない。わたしはあまりその記念日に興味はないが、事のついでにこれまでに出会った直接間接の地震について、まとめて書きとめておこうおこう。

 1995年の阪神淡路大震災は、長い人生でも飛び切り記憶に刻まれれている。自身が体験したのではないが、幼いころから比較的よく知っている大阪神戸あたりがどうなったか、どうなるのか大いに気になったので、関東住まいであったが仕事で関西に出かける度に、都合つけて神戸を何度も見に行ったものだった。もちろんそれには都市計画家としての興味が一番大きな動機だった。

 1月17日からTV映像を見続けて、すぐに行きたかったが支援する勇気はなくて、見学にゆっくには交通機関が通じてからと思っていて、3月4日になってようやく三宮に入ることができた。

 そこから破壊しつくされた街々を歩き歩きめぐった。何回も何日も見にいった。西は明石、東は芦屋まで歩きに歩いたものだった。カラー写真を何本も使って写真を撮り、スライドに残していた。今や一部をデジタルデータにしてPCに入れたほかは、最近になりすべて終活破棄した。30年とはそういう時間である。

 この地震は、最大震度7、死者・行方不明者6,437人であった。このときは何も復興支援にかかわることは無かったが、とにかくこの目で見ないと災害についてはわからないことばかりであると、心底知ったのが収穫であったと言える。

 以下は初めて神戸に入った1995年3月4日から5日にかけての写真のほんの一部。



 



●中越大震災の現場へ
 
 その次の地震災害地に入った体験は、2004年10月の新潟県中越大震災であった。このころわたしはNPO日本都市計画家協会の事務局長をしており、協会としての震災復興支援活動を行うことになった。
 この中越震災復興現場のひとつである長岡市の法末(ほっせ)という山村集落に、わたしもNPO仲間たち十数人のメンバーと頻繁に通うことになる。10年ほども続く長い支援活動がはじまり、初めは毎週末には泊りがけで通ったものだった。

 私的には豪雪の地域の生活に大いに驚いたものだった。生まれ育った山陽の地はめったに積雪はないし、その後に住んだ関東も同じようなものだったから、全く知らなかった北国の暮らしを知って、本業の都市計画に大いに役立った。

 復興支援とはいったい何だろうかと迷いつついろいろなことをした。要はその小さな被災山村を持続するための多様な活動だったが、人口減少がどこでも起きている日本で、これが果たして成功したのだろうか。






 美しい集落は復興したが、定住人口は減っている。減るとこの山村を支える農業者が減ることになる。生活圏としての山村は、元の緑の自然にもそどっていくばかりである。
 ひとつだけ成功と思うことは復興支援活動仲間の一人が、その山村に住み着いて農民となり、耕作放棄される棚田を引き付けて、美味い米つくりをしていることだ。
 その間のことをわたしの「まちもり通信サイト」の「法末集落復興日録」に載せている。

●東日本大震災の現場へ

 次の大災害現場は、2011年東日本大震災の東北地方であった。地震動災害に加えて津波災害、さらに加えて原子力発電所事故による核毒災害という三重苦巨大災害である。わたしはもう支援に加わる体力はなく、NPO日本都市計画家協会の一員として、何回か災害現場視察企画に参加して訪れ、人間と自然との対応にあれこれと思いをいたすばかりであった。

 それらについては、「まちもり通信サイト」の「災害日本オロオロ日録」に載せている。

地震災害に加えて核毒でゴーストタウンになった富岡町


津波と核毒に襲われた浪江町の漁港の街の廃墟の陸上のあちこちに漁船が

除染という核毒集塵掃除作業の結果は膨大な核毒ゴミ黒袋の山

浪江の村のどこもかしこも核毒汚染された田畑の一番豊かな土をはぎ取る

 特に福島第1発電所の原子炉の事故による巨大災害には、心底驚き、あきれるばかりのことばかりである。広範囲に核毒を振り撒いて国土を取り戻しようがないほどの汚染するという大事件である。今それから14年がたつのに、もはや忘れたように核発電所が、列島おあちこちに生き返りつつある。その後の処理がいまだに完了しないのに、忘れたとはどういうことだろうか。

●かつて訪れた能登半島地震の現場の今は?

 さて現在の地震災害主役は2024年能登半島地震であるが、もうわたしは現地を訪ねる気力も体力もない。2004年に訪ね巡ったあの奥能登の地は、今どうなっているのだろうか。
 じつは個人的には2004年の中越地震による大きな揺れを、偶然にも比較的近くの奥能登で身をもって体験したのであった。その地は輪島であったが、そこはまさに昨年2024年元日の能登半島大地震の地である。

 この能登半島で中越地震に遭遇したときのことはこのブログに載せているので、一部引用する。 
ガタガタみしみしとゆれる、地震だ、大きい。余震もきた。
2004年の奥能登ウォーキングコース
能登半島の輪島市の郊外、漁村集落の民宿について、やれやれと一休みしていた。大きな木造2階家は、古くて客が歩くとみしみしがたがた足音がする。音だけではなくてゆれたので、これは地震だ。コンクリ長屋の上のほうでユルユル揺れるのとは違う、ナツカシイゆれ方だ 
囲炉裏部屋のテレビを見ていると、震源は新潟といいつつ、しだいに被害が広がるのが分かる。能登は震度4だった。外では防災無線放送が津波の心配はないと言っている。
2004年10月23日夕刻から始まった中越地震に、こうして旅先で出会ったのだった。この旅は、わが大学同期の翁12人が、能登空港を起終点にして奥能登をひとまわりする120キロの行程を、5日間かけて歩きとおす企画である。
           (全文は『奥能登100キロウォーク』参照のこと)

 わたしが今も所属だけしているNPO日本都市計画家協会は、この能登半島震災復興のために、門前町に入っているようだ。わたしの奥能登の旅ではその街の黒島で一泊した。あの伝建地区の街並みどうなっているのだろうか。

●幼少期の大地震記憶

 ところで私の震災に関する記憶で最も古いものは、1943年9月の鳥取地震であるらしい。幼少時に揺れた記憶は一つしかないからこれであろう。わたしは7歳の時である。
 鳥取県の南隣の岡山県の高梁盆地で少年時代を過ごした。家が揺れるばかりか、周りの巨木もゆさゆさと揺れて倒れ掛かるのかと、怖かった記憶がある。わたしの生家は丘の中腹にある神社の森の中であったから、境内には巨木が立ち並んでいたのだ。
 それ以後でも、台風の時などは、巨木が揺れて枝が折れて落ちてくることはしょっちゅうで、森の中に住むのは平素の見た様子とは大いに違って、けっこう怖いのであった。

 その次の地震の記憶は、1948年の福井地震であった。新聞に載った百貨店建物の被災写真に強い記憶がある。
 また別の記憶につよい地震に関する新聞写真は、コンクリート中層共同住宅建築が横倒しになった悲惨な光景であるがいつのことか思い出せない。ネットを探したらあった、意外に最近で1964年の新潟地震であった。

 1957年からわたしは関東に住むようになったのだが、こちらは生まれた西の地と違ってずいぶん地震が多い地域であると思ったものだ。しょっちゅう体感地震があり、2年くらい離れなくてその度に怖くて胸がドキドキしたものだった。そのうちに慣れた。


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伊達美徳=まちもり散人
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2023/12/16

1764【雪国イメージと現実】中越大震災復興の手伝いに通った豪雪山村の今年の雪の具合は?

  今朝の東京新聞の1面のコラムにこんなことが書いてある。通産大臣の頃の田中角栄氏が、その秘書が岡山県出身と知って、「君にとって雪はロマンの世界だよな」と言ったと秘書の著書にあるそうだ。
 これはつまり新潟県人にとっての岡山県人感を語っているのだが、岡山県出身のわたしが新潟県をそう思ったことはなかった。どこか食い違っている。

 わたしが新潟県の雪を初めて体験したのは、学生時代のスキー遊びで行ったのが初めてだった。それが何処だったか思い出せないが、単にスキー場の雪で特にロマンでもない。
 じっくりと雪国それも豪雪の地の生活を体験したのは、2004年に中越地震がおきて、次の2005年から震災復興支援に中越山村に入り込んでからだった。

 10年ほどの期間をかなり多くの日々を過ごしたが、それはまさにロマンというものからほど遠く、四季を通じて大災害から立ち直る雪国の四季を体験した。
 多い時は4m積もる雪の中で数日を過ごす日々は、よくこのような環境で人間は暮らすものだと思ったものだ。白一色の中でありながら、雪囲いで牢獄のような家屋で暮らす日々は、実際に暗いものだった。豪雪生活を全く知らなかったのでよい体験だった。

 冬は毎日が家の屋根と周りの雪かきが生活の必須の一部である。あまりに深いので「雪掘り」というほどで、これをしないと家から外に出ることさえできないどころか、雪に家と共にが押しつぶされる恐れが十分にあるのだ。
 外から雪の圧力で硝子戸が破損するのを防ぐために、冬は家の周りを厚い板で囲い込むので、当然に日中も電灯をつけなければならない。怖いのは、もしも火災を出したなら、雪囲いという格子の中の牢獄となって、焼け死ぬ恐れが高いことだ。

 わたしが生まれた岡山県中部の高梁盆地は、雪は降らないことはないが、積もるほど降るのはかなり珍しいことだった。
 わたしがスキーを始めて見たのは小学生の頃に、かなり珍しく深く雪が積もった日のことだった。いつも遊ぶ坂道ですべっている人がいたのを、しばらく眺めていたものだ。
 以後は大学に入るために故郷を出るまでスキーを見たことはなかった。大学山岳部にはいって初めてスキーを履いた。大雪の山にも登ったが、それは雪国の生活ではなかった。

 故郷の盆地で雪がふった日のもう一つの記憶は、家の裏にある広い竹やぶで、雪の重みで竹が折れる音である。鋭く大きな音でポキーン、パキーンと次々に折れてゆく。その音に続いてその竹に積もる雪がザーッと落ちる音がする。これを夜中に布団の中で聞き、耳で雪を感じたものだった。珍しいことだったから記憶が鮮明だ。

 中越山村では竹藪がないことはないが、庭の一部に大事に植えられている珍しい存在であった。竹と雪は相性が悪いのであろう。

 角栄氏が「生活との戦い」と言ったとあるが、冬はむしろ雪という自然との闘いであった。それだけに雪が解けてのちの、初夏に向かって萌えあがる緑の山や森そして田畑にこそロマンを感じるのであった。冬さえなければ、この地は天国であると思ったほどだ。

雪に埋もれる中越山村の家

萌え上がる緑に埋もれる中越山村集落

 その中越山村の日々は、このブログにつぶさに書いているが、さて異常気象の今年の積雪はどうなのであろうか。(参照「法末集落復興日録」)。

(2023/12/16記)

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2023/10/26

1720【中越震災19年目のコメ】豪雪山村の棚田から毎秋にやってくる新米コシヒカリの美味いことよ

  新聞記事に、今年は異常に暑かったので、米の名産地新潟でも、品質の等級が下がっているとある。そのようなところに、越後の山村から、今年もうまいコメがやってきた。



 ここのコシヒカリの飯は実に旨い、冷めてもうまいのだ。その証拠にはこのコメを収穫す棚田は、有名なブランド米の南魚沼コシヒカリ産地に隣接するのだから、事実上は同じところである。

 その棚田のある集落の名は「法末」(新潟県長岡市)と言う。今から19年前の2004年10月23日の夕刻、大地が大きく揺れて、山地は崩れ、集落は崩壊した。中越大震災である。

中越地震による法末集落の大崩落

 その集落からこのコメはやってきたのだ。そう、法末集落も1年もの間、集落民みんなが避難していたが、いまや復興してまた米作りをやっているのだ。

 わたしは震災翌年からNPO仲間たちと一緒に、この住民100人ほどの集落の復興支援を手伝うようになり、次第に後退しながらも10年も通った。わたしたち仲間でできることは、その集落の生活仲間となって、一時避難で消えようとする集落の生活を、また元の様に戻そうとする人々を応援することであった。一軒の大きな茅葺屋根の家を手に入れて拠点とした。

 中でも耕作放棄されていた棚田を復活して、米作りをさせてもらったのは貴重な体験であった。NPO仲間の誰も知らない米作り術を、集落の人たちに手とり足とりで教わると、美味いコメができて嬉しかった。
 一方の教える集落民にも楽しいことであり、初めての収穫のときは集落の人たちを集会所に集めて宴会をして食べてもらったものだ。
 年中行事の復活など、多くの交流がここから生まれ、10年ほど素人米作りを伴う集落維持支援活動が続いた。

 その仲間のひとりが集落に居ついてしまい、米作りで生計を立てることなり、仲間で出資して営農会社を立ち上げた。その会社は今もつづいており、毎年秋に新米ができると出資への配当として5kgがやってくる。
 今年は異常に言暑い夏だったが、どうやら平年並みのできを保つとのことである。そして味は、やはりうまいのであった。でも、今年から3㎏に減配となったのが残念。

法末集落展望

 わたしは雪国育ちではないので、この集落が豪雪の地であり、毎冬2~3mの積雪が普通で、時には4mを超える雪に出くわす冬も体験して驚きつつ、雪国の暮らしに大いに興味を覚えたが、さすがに住みつく気は起らなかった。
 その真っ白な景観に魅了されたが、冬のほかの緑の景観はもっと素晴らしかった。春から夏そして秋へと移り変わる田畑や野山の日々の景観を、まるでわが身にまとっている日々は、実に楽しいものだった。冬にあまりに深い季節の底へと誘われたから、反動的に春夏秋が浮きたつ日々であった。

法末集落棚田の四季

 さてあの大震災から20年にもなろうとしている今、集落はまた静かに老いてゆき、耕作放棄の田畑も増えているらしい。農業会社はその棚田の耕作を引き受けることで、米を作り続け、東京で直接販売も手掛け、それが豪雪山村を維持しているようである。

 美味いコメを食いつつ、それを産むあの巧みな水利技術が支える美しい棚田に、新幹線で米作りに通っていたころを思い出し、集落人同様に老いたわたしはもう行くことはないであろうと考えている。あそこはもしかしたら、いったん出るともう二度とは入れない別天地はたまた桃源郷であったかと思うのだ。

(20231026記)

これに関連するこのブログの記事
・1496【中越大地震発災16年目】2020/10/23 
中越大地震被災山村復興お手伝い日録2005~2020 

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2019/08/11

1414【戦争の八月(1)】広島核爆弾体験少女の短歌、本土と植民地で戦時体験少年たちの記憶簿、中国大陸と南方戦場の父世代の体験記録

アメリカ歌人が原爆被爆体験を詠む

 原爆証言聞きにしあともなお核が抑止力として要ると君らは

 原爆を日本がつくったと仮定して使ったかと問わる使ったと思う
         (アメリカ)大竹幾久子

 上に掲げた2首の歌は、今朝(2019年8月11日)の朝日歌壇の入選歌である。詠者の夫と兄がわたしの大学同期生である。
 この人は広島の被爆者であり、いまはその被爆させた国に生きて、被爆体験を語り、それを英語の本にして出版している。
 
●参照:『いまなお原爆と向き合ってー原爆を落とせし国でー』大竹幾久子著
     https://datey.blogspot.com/2015/10/1134.html

大学同期仲間たちが戦時体験記憶を記す

 今年も戦争を思い出す月が来た。1945年夏の真昼、雑音交じりのラジオ放送が晴れわたった日本列島を沈黙列島にした。
 わたしの年齢は、戦争の時を体験した最後の者にあたるかもしれないと思いついて、大学同期仲間たちの戦時戦後の体験記憶を集めた。
 仲間だけで読むのはもったいない、戦時の空気を後代に伝えたいと、ブログサイトを作って公開した。

 東京の大学に各地からやってきた若者たちの戦争体験の場は、日本列島の各地ばかりか、当時の植民地であった満州、朝鮮、台湾にも及ぶ。
 わたしのように静かな田舎町で敗戦放送の日のみ記憶鮮やかなものもいれば、植民地から内地にもどる過酷な旅をしたものもいる。広島で核爆発に被爆したもの、そのキノコ雲を遠くから眺めた者もいる。
 
●参照:昭和二十年それぞれの戦 七~八歳児の戦争体験記憶簿 
  https://kgr36.blogspot.com/2019/07/00520170711.html

父親世代の戦場体験を記録する

 日本は19世紀末から断続的に国際戦争をしてきた。大雑把に見ると次のようになる。
 1894~98年日清戦争、1904年~05年 日露戦争、1914年~18年第一次世界大戦、
 1931年~33年満州事変、1937年~45年日中戦争、1941年~45年太平洋戦争
 1950年~53年朝鮮戦争(直接参戦していないが兵站基地となり事実上参戦)、
 1990年~91年湾岸戦争(直接参戦していないが戦費1.2兆円負担して事実上参戦)

 このうちで国際的にも身近にも戦争の悲惨を未だにとどめているのが1931年から1945年までの戦争で、「アジア・太平洋戦争」あるいは「十五年戦争」ともいう。
 この十五戦争において実際に戦場体験をした二人の記録を、わたしはつくっている。ひとりは中越山村の長老であり、もうひとりはわたしの父である。

 中越山村の法末集落で90歳の長老・大橋正平さんに出会ったのは、2004年に起きた中越大震災の被災地であるその集落へ、復興支援の手伝いにボランティアで通っていたときあった。
 農作業の合間に話していると、正平さんはあの悪名高いインパール作戦の数少ない生き残りのひとりと知り、ぜひにと頼んでその家に上がりこんでじっくりと聞き記録した。
 兵役に出て行ったきり7年半も戻ってくることができなかった戦場体験を、その語り口を保ちながらオーラルヒストリーにした。
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 参照●大橋正平戦場物語 インパール作戦戦場の悲惨j

 もうひとつは父の戦場体験記録だが、父から直接に聴く機会を逸してしまって、その遺品のなかに発見した自筆の戦場記録を、わたしが解読して書いたものである。
 父は十五年戦争(支那事変、満州事変、太平洋戦争)の間に、通算7年半にわたり3度の兵役に就いた。その間に結婚し、1人の娘を失い、3人の息子を得た。
 わたしはこの父の戦争記録を書いて、15年戦争を俯瞰することができたとともに、わたしの戦中史にもなった。8月15日体験も、このなかに記した。

 参照●父の十五年戦争神主通信兵伊達真直の手記を読み解く
https://matchmori.blogspot.com/p/15senso-0.html

わたしの戦後における戦争定点観測

 もうすぐ8月15日が来る。定点定時観測地点「靖国神社」に今年も見物に行って見るかなあ、でも暑いなあ。
  集る人たちを眺めて哂ったり考えたりする、夏休みの宿題レクリエーションである。ここでこの日に毎夏に、いかにもアナクロな現象が出現するので、もしかしてアナクロじゃなくて現実になりつつあるのかと、怖くなってきている。
 なお、どんな宗教施設でも墓地でも、わたしは礼拝することはない。
 
●参照:2018靖国神社https://datey.blogspot.com/2018/08/1157.html
    2017靖国神社https://datey.blogspot.com/2017/08/1282.html
    2015靖国神社https://datey.blogspot.com/2015/01/1045.html
    2014靖国神社https://datey.blogspot.com/2014/08/983.html
    2005年、2013年靖国神社
        ttps://sites.google.com/site/dandysworldg/yasukuni20130815

(追記2018/08/19)
 大竹幾久子さんが2019年8月18日朝日新聞朝日俳壇(選者:高山れおな)に入選している。
   板橋を渡り終えれば散る蜥蜴      (アメリカ 大竹幾久子)
 原爆歌人であることを知っていればこそ、この平和で平凡な風景を詠むことが、心に沁みる。
(追記2018/08/25)
 大竹幾久子さんが今週も原爆の歌で朝日歌壇に入選、選者は高野公彦と馬場あき子の2人。
   父は死に我は生きたり原子雲の下で二キロを離れただけで
 その父君は広島市内の兵営にいたはずだが、地上から消えてしまった。


2016/10/26

1226【法末集落の四季】大震災から12年目の山里、棚田で採れた美味い新米、美しい紅葉やがて降り積む豪雪、わたしは今や飯を味わいつつ想い出のみ


今年も美味いコシヒカリ新米が、中越の法末集落からやってきた。その日は10月22日、その次の10月23日は、12年前の2004年にその集落が大被災した中越地震だった。
 そしてまた、その前の今年の21日は、鳥取の倉吉あたりで大地震、つい先般の4月には熊本大地震、あれから5年経ってもまだまだ大変な東日本大地震、さて、この日本地震列島はどうなるのか。

 新米のが育った新潟県長岡市の法末集落の復興はおわって、いまやこの小さな集落のこれからの課題はその存続であろう。
 わたしはこの集落に2005年秋から2014年まで、延べ100日くらいは訪ねたことになるだろうか。その豪雪に驚き、その緑の景観を愛で、その人々の情に癒され、わたしが知らなかった風土に親しんだ歳月だった。
 その縁で、ずっとその集落の棚田で採れる美味いコシヒカリを、営農組合から毎年買って隔月に送ってもらっている。米をつくる村人も、それを食べるこちらも老いてきた。わたしはこれをいつまで食べ続けられるだろうか。

そこは都市から遠く離れた谷川を上り詰めた峠のあたりに、ヒョイと出現する別天地の桃源郷のような山村集落である。
 そこに行くルートはいろいろあるが、わたしのお気に入りは、小千谷駅からバスで30分ほどの小さな集落に降りて、そこから更に標高差300mほどを山道を1時間ほどかけて登って、ようやくたどり着くルートである。
 もう消える寸前の集落を通り抜け、棚田のなかの道を曲がりくねって登り、峠の陰の法末集落にようやくたどり着けば、そのたしかな立地を風土の中で明確につかむことができるのだ。好きな道だった。
 そして人間は、こんなにも奥深くにあって、まさに独立した地域でも、集まって生きることができるのだと知った。

 かつて四国の奥祖谷の有名な平家落人集落を、川に沿ってさかのぼり2日がかりで歩いて訪ねたときにそう思ったことがある。あそこも奥深い山村であった。
 この法末集落での四季を通じての長期にわたる体験で、人間が自然を飼い慣らす力量のほどを知って、なるほどそうなのかと身をもって知ったのだった。
 それにしても、雪のないところで育ったわたしには、毎年2mは当たり前、ときには4mも積もる豪雪をも、強引に飼いならそうとするしたたかな生活には、ほとほと感服するばかりである。温暖な奥祖谷とは、そこが大きく違うところだ。

わたしたちの中越復興支援グループは、ハードウェアの復旧には何の力もないから、小さなイベントのようなことを起して、集落の人たちを励ますくらいのソフトウェアでしかできない。
 いったいどれほどこの集落に役立ったのか、実はわたしには分っていない。1年ほど全戸避難していた集落の人々が戻ってきて立ち直る時に、わたしたちのような余所者がほぼ棲みついて、ウロウロすることでなにかの励ましになったのであろうか。
 
 あれから12年、法末集落は見たところは何事もななかったように、大昔からの山里の四季を繰り返しつつ、人々の暮らしが続いている。
 だが、12年という歳月は確実に人を老いさせ、住民は減ってきている。老いは集落の人々とともに、訪れつづけたわたしたちも同じである。
 わたしは熱心な支援者ではなかったが、この11年間に訪れた日数は100日くらいにはなったいるだろう。初めのころは月に3回は訪れていたが、次第に足が遠くなり、2014年に2回訪れてから、ついに昨年は1回も行かなかった。わたしも老いた。
 おもえば、わたしがこの地に眼に見えるものとして残したものは、たったひとつ、それは仲間とともにつくりあげた小さな茅葺の小屋である。これからも豪雪に耐えていつまで棚田のなかに佇んでいるだろうか。

わたしたちが法末を訪れるのを、震災復興が終わっても毎年時機に応じて続けてきたのは、集落復興から集落の継続へと視点が移ってきたからだだろう。
 典型的な限界集落の継続は、大局的には大きな社会的課題だが、暮らしの現場は日々の積み重ねである。なにができるのだろうか。
 そのひとつに支援仲間の女性たちがはじめた新しい年中行事の「お茶会」がある。キチンとお茶をたてて集落の人たちに振る舞うイベントである。
 初めた頃は正月、春、秋にやったが、そのうちに小正月の地元伝統行事「賽の神」にあわせて開くようになり、継続している。絶えようとしていた賽の神行事が復活した。

もうひとつは、仲間のひとりが集落住民となって住みついたことだ。
 復興支援仲間と集落住民の有志が出資して、彼を中心とする地元会社を設立し、高齢等で営農できなくなった住民たちの農地を引き受け、都市に米の販路を開拓し、古民家での民泊営業を目指している。これが集落継続のきめてになるかもしれない。
 他から移住してきた人、住民の次世代で戻ってきた人、古民家を改修して別荘として住む人などの、少ないながらも震災後に新たな住民もある。
 
そろそろ紅葉が美しい時を迎え、やがて雪が来る。今年は地震が多かったから、豪雪だろう。あの204年中越地震の年もそうだった。
 わたしも老いた。あの山道を1時間も登って、法末集落にたどりつく脚力はもうない。豪雪の雪の中を歩いて転ぶのが怖い。現に2014年の小正月の日、雪道で転んで捻挫して仲間に迷惑をかけた。
 わたしがもう訪ねることはないであろう法末集落、あの地震の後もしなやかに生きつづける村人たち、この間の歳月の中に静かに逝った村人たち、いっしょに訪ねた仲間たち(その中には逝った人もいる)、そして美しい四季の風景、いまはそれらの想い出にオマージュをささげよう。
 わたしと法末とのつながりは今や、地元営農組合から毎月来る米と、仲間が興した会社への出資だけとなってしまった。
 
 これまで書き連ねてきた「法末の四季物語」を、このあたりで締めくくることにする。その中の一部を、わたしが法末集落で学んだ成果として、自家製出版DTP「まちもり叢書」のなかの一巻にまとめてオマージュとした。
(まちもり叢書第17号『法末四季賦』
   ‐中越震災復興から次なる課題へ‐
 

・わたしのサイト関連ページ
●伊達の眼鏡ブログ「中越山村・法末集落の四季」
http://datey.blogspot.jp/p/2004-2005-2014623966-httpdatey.html
●まちもり通信サイト「中山間地の今とこれから」
https://matchmori.blogspot.com/p/chusankanchi.html

・外部ウェブサイト
●法末集落へようこそー法末集落の案内、歴史、名物など
https://sites.google.com/site/hossuey/
●法末天神囃子ー復興支援仲間が法末に住みついて続ける活動
http://www.hossue.jp/clubhossue.html
●越後の棚田集落/新潟県長岡市小国町法末(ほうすえ)集落
http://localnippon.muji.com/news/1391/

2016/10/17

1223【新潟県知事選挙:核発電所慎重派当選】わたしが毎日食べている飯は柏崎核発電所から20km圏内の棚田の米で命がかかってるから新知事さんよろしくね

熊五郎 こんちわあ、ご隠居、なんだか涼しくなってきましたね。
ご隠居 おや、熊さん、いらっしゃい。あ、ちょうど昼のご飯が炊きあがったところだよ、一緒に食べよう。
 ハハ、昼飯時を狙ってきて大成功、ご隠居んちの米の飯はとても美味いんだもの。
 おお、ありがとよ、うちの米は新潟県の山奥の棚田で採れる、特別にうまいコシヒカリだからね。
 そうそう、ご隠居がいっとき米つくりに通っていた長岡の法末って集落ですよね。
 米つくりが目的で10年も通ったんじゃなくて、中越震災復興支援の手伝いに行ってたんだな。その縁でその村から直接に米を買って食べ続けているんだよ、もちろん美味いからだよ。
 新潟県と言えば、県知事選挙で原子力発電所について慎重派の人が当選しましたね。
 そうそう、核発電積極推進派の人になったら、この美味い飯を食い続けるのが難しくなると心配してたんだよ。
 え、だってあそこの発電所は海のそば、この米の村は遠くの山奥でしょ。
 それがねえ、なんと20km圏内にあるんだよ。ほら、東日本大地震で福島核毒ばらまき事件の時に、それに気がついて驚いたね。
参照
http://datey.blogspot.jp/2012/10/680.html
 エ~ッ、それじゃあ福島のようになると、避難しなきゃならないんですね。
 豪雪と共に核毒が降り積もったら、もうどうしようもないね。だからわたしは慎重派の人が当選して良かったって思ったよ。
 へえ~、こちとら関係ないと思ってたけど、この米の飯で大いに関係あるんですね。
 そう、この米に命がかかってるんだな。
 ちょっと前に鹿児島県知事選挙でも、似たようなことがありましたね。
 そうそう、慎重派新人が推進派現職を抑えて当選したね。熊本地震が県民に影響したのだろうかねえ。
 これからの核発電所設置県の知事は、どんどん慎重派になるんでしょうかねえ。
 いや、そうかなあ、今は核発電所設置自治体だけにお土産があるけど、これからは設置県県内自治体全部にお土産を出すようにしたら、コロッと推進派へ変るかもしれないよ。
 まさかねえ、やれやれ、明日の命よりも今日のカネって、やっぱり日本は貧乏なんですね。
隠 ♪米山さんから雲が出た いまに夕立が来るやら
   ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと 音がする♪
 なんです、突然歌いだして、ビックリした。
 おや、知らないのかい、新潟民謡の三階節だよ、新知事が米山さんと言うらしいからね。いや、歌の米山は新潟県の名山なんだけどね、事態にピッタリでしょ。

2015/10/11

1133【越後の棚田米】中越震災復興支援が縁で都市計画家から村興し篤農家に転向して棲みついた山村で作る美味い棚田米

 有楽町駅前で屋台を出しているのは、越後の山奥の限界集落からやってきた農民。
 今日は、自分で育てた採れたて新米を、2合づつ美麗な包装で(300円)、まるでお菓子のように見せて売っている。
 同じく畑で作ったカボチャやナスもあれば、自家製の餡団子やおやきもある。
 親子でそろって、ここでの販売に出かけて来たらしい。

実はその農民は、わたしの旧知の宮田裕介氏である。
 彼は2004年中越大震災の復興支援で、東京からその山村(長岡市小国町法末)に通っていたのだが、そのうちに集落に居続けになり、ついには「帰化」してしまったのだ。
 都市計画家から篤農家に転向したのである。

 住民60人ほどの限界集落で、次第に増える耕作放棄になる棚田を頼まれて次々に引き受け、本格的百姓になりきって、米つくりに精を出している。
 いくつかの大きな古民家に手を入れて、古民家民宿も始めている。村興しである。
 豪雪の高原の棚田でできる米は、実に美味い飯になる。暖かい飯がうまいのは当たり前だが、冷めても美味いのが不思議である。わたしはもう10年もその村でとれた米を食い続けている。

 ここにその美味い棚田米の宣伝をしておくので、買ってあげてください。
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 越後の天日干し棚田米と地元産野菜のお得なセットです
 小国町の山間地にある法末集落は棚田に囲まれた村です。
 雪解けの湧き水と標高300mの高地が美味しいお米を育てます。
 そのコシヒカリを自然の太陽の恵みの天日で干して、香りと甘味のあるお米に仕上げました。
 黒姫山と米山を望む棚田で育てられたコシヒカリを、季節ののご挨拶にいかがですか。

[セット1] 5,000円(送料込)
 プレミアム棚田米(天日干し)5kg+地元産野菜(1,000円相当) 
[セット2] 3,000円(送料込)
 プレミアム棚田米(天日干し)3kg+地元産野菜(500円相当) 
[セット3] 3,000円(送料込)
 美味棚田米(機械乾燥)5kg+地元産野菜(500円相当) 

●お問合せ・ご注文は下記まで
株式会社 法末天神囃子  販売担当 宮田裕介
電話:0258-95-3125 メールアドレス:miyata@h-tenjin.com
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●参照:法末集落へようこそ
https://sites.google.com/site/hossuey/



2015/06/11

1099【中越山村の四季】中越震災から10年の法末集落、この山村はこれから先の10年どうなるか

 この美味い米の飯を毎日食うようになってから、はや10年経ったのか。あの豪雪の山里の棚田にできるコシヒカリを、毎月送ってもらうようになったのは、2005年のことだった。
 新潟ブランド米の「魚沼産コシヒカリ」が旧魚沼郡地域産の米に名づけられるのだが、わたしのコシヒカリはその地域にすぐ隣接する山里で採れるのだ。名乗ることはできないが、事実上は魚沼産と変らない。
 
 10年前にその米に出会ったのは、その前の年の2004年10月に中越大震災があって、わたしが所属していたNPOが復興支援で、その被災山里に入り込んだことからである。復興支援のひとつと思って、集落の営農組合から買い求めて10年となった。
 じつは、この米の飯に慣れてしまったわたしの舌は、外食で美味い飯を食うことをあきらめさせた。入院した病院の飯が不味くて、パンに代えてもらったこともある。

 中越震災復興というと山古志村ばかりが有名だが、あのあたりの山里はどこも山古志のような状態だった。
 わたしたちのNPOが入り込んだのは、そのような被災地山里のひとつである長岡市小国町法末集落である。
 平地はほとんどない傾斜地ばかりの集落、森林と棚田と伝統茅葺民家群が織りなす風景は、日本の山里の原型を想わせる。

 地震で山林は崩れ、田畑は割れ、家屋は傾き、道路は壊れた。中越大地震のときの集落民119人・53戸の全世帯が麓の町に避難した。避難勧告解除は翌年の夏だった。
 法末集落の住民たちは、行政支援を待たずに震災直後に自力復旧にとりかかった。集落が生きる基盤の棚田の修復が最も急務で、来年に米の作付けできるかどうか大きな心配だった。
 年によっては4mも積もる豪雪がやってくる前に、土に埋もれ崩れた棚田や農道を修復したい。他の被災地域のほとんどの農地が、行政による復旧を待って1年の休耕をしたのに、この集落では次の年には3分の2の棚田が作付けをしたのは、自力復旧の故である。
 米つくり農業こそがこの集落民の生きがいなのである。そうやって、自力で家も神社も修復しつつ、集落に戻ってきた。


 あれから10年、集落ではその間にはいろいろなことがあった。今では震災時の6割の70人の住民がいる。高齢化率は73%である。
 あの大戦の終った頃には、今の10倍の700人も住んでいたとは、ちょっと信じられない。

 この10年、集落人口も世帯も減ったが、新たに4世帯が入ってきた。この村は内山さんと大橋さんばかりだが、そこに新たな姓が増えた。
 そのうちの1世帯は、わたしたちの仲間であり、とうとう棲みついて集落住民となり、米つくりに精を出し、山村活性化への策を起しつつある。

 わたしたちのNPOの支援活動も一段落して、時々遊びに行く程度になった。わたしたちも10年の歳を重ねて、高齢化したのである。
 
 この春、『和 震災復興 法末の10年』という冊子が、法末集落から発行された。この10年間の集落と住民たちのさまざまな物語が載っている。
 下記にその抜粋を紹介した。
  震災復興 法末の10年』
https://sites.google.com/site/hossuey/housue10
 さて、これからの10年、人口減少と超高齢化時代の日本のなかで、この集落はどのような道を歩むのだろうか。

●参照
中越震災から10年・復興の山村はこれから
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hossey10

・法末集落へようこそ
https://sites.google.com/site/hossuey/
・中越山村の暮らし
https://sites.google.com/site/machimorig0/datemegane-index#chuetu
・山村の四季を愉しむ
http://datey.blogspot.jp/2013/05/775.html

2014/11/12

1025・越後の山里の有機棚田新米コシヒカリお歳暮キャンペーン

<この記事は、わたしも関わってきた中越震災復興支援の延長で仲間が起こした地域振興会社「法末天神囃子」の宣伝です。今年の美味いお米を買ってくださいませ>

 越後の山村の棚田で作った「天日干し有機棚田米」と「地元産野菜」のお得なセットを、お歳暮にいかがですか。
 新潟県長岡市小国町の山間地にある法末集落は、森に囲まれた棚田の中の小さな集落です。
標高300mの高地の気候と豪雪による湧き水を活かして、棚田に有機農法によってコシヒカリを育てました。
 そうやって豊かに実ったコシヒカリを、陽光の下で天然乾燥してから精米したので、香りと甘味のある美味しいお米に仕上がりました。
 越後の名山の黒姫山と米山を望む棚田で育ったコシヒカリを、お世話になった方への暮れのご挨拶にいかがでしょうか。

<お歳暮セット価格>
【商品タイプ1】
プレミアム棚田米(天日干し)5kg+地元産の野菜(千円相当)セット  5,000円(送料込)
【商品タイプ2】
プレミアム棚田米(天日干し)3kg+地元産の野菜(500円相当)セット 3,000円(送料込)
【商品タイプ3】
美味棚田米(機械乾燥)5kg+地元産の野菜(500円相当)お手頃セット 3,000円(送料込)

<ご注文方法>
 必要事項を記入して、下記宛ファックスまたはEメールでご注文ください。
株式会社 法末天神囃子
販売担当 宮田裕介
電話&Fax:0258-95-3125
メールアドレス:miyata@h-tenjin.com

<ご記入事項>
【ご注文主】お名前、ご住所、郵便番号、電話番号、(メールアドレス)
【お届け先】商品タイプの番号、お名前、ご住所、郵便番号、電話番号
 複数あれば続けて同じように記入してください。

<お支払方法>下記の口座にお振り込みください。
柏崎農業協同組合 小国支店
普通口座 0022726
株式会社法末天神囃子
代表取締役 宮田裕介

案内ちらし(これをダウンロードして記入、メールかファクスしてくださっても結構です)


参照⇒「法末集落へようこそ

2014/10/17

1013【棚田の有機栽培新米宣伝】越後の棚田の山里から今年も美味しい新米がやってきた

 今年も新米の季節になった。越後の山村の棚田から、コシヒカリの美味い新米がやってきた。
 炊き立ての飯も美味いが、冷めても美味いのがこのコメの良いところだ。
 わたしはここの米をもう10年も食い続けてきたので、いつぞや入院した病院の飯が不味くて困ったことがあった。
 冬の深い雪が田んぼにしみ出てきて、美味い米を育てるのだ。

 新潟県長岡市小国町にある法末集落は、3mも積もる豪雪の山里であり、ほとんど平地がなくてもう尾根筋に近い村だから、普通ならば林業か畑作が産業のはずが、江戸時代からきりひらいてきた棚田での米作が主要産業である。
 
 2004年の中越震災で一時は全集落避難したが、今やその傷はすっかり癒えて、平穏な美しい典型的な日本の山村風景である。もうすぐ紅葉が村を染める。参照「法末の四季風景
 限界集落の典型だが、その村を持続させ振興するための会社を、震災復興支援から継続している仲間が作った(わたしも出資)。今、その会社が栽培した今年の新米を売り出している。

 その美味い米を、ここで宣伝をしますので、どうぞお買い求めください。
 ただ今のお得なセットは、特選棚田新米5キロと地元野菜500円分詰め合わせで4000円(送料共)、メールでお申し込みください。
 メール miyata@hossue.jp  ㈱法末天神囃子 社長 宮田裕介
 記入事項は、注文主(名前、住所、電話、メールアドレス)、
       送付先(名前、住所、電話)
 支払方法は、注文主に郵便振替用紙を送りますので、払い込んでください。

 ほかにも、3キロセット、30キロ(分割配送)、18キロ(分割配送)など、あります。
 1キロ800円は高いと思われるかもしれないが、有機栽培の棚田米はうまいことを保証します。贈答にもどうぞ。

参照

2014/06/23

966・中越山村の棚田集落は草木の自然と人間の営為が激しく攻防する戦いの最前線の風景

 半年ぶりの中越山村・法末集落である。
愛宕山から見る緑に覆われた法末集落全景 20140622
このまえは小正月行事にやってきて、雪道で転んで捻挫、ほうほうの体で帰宅したが、今回は転ぶこともなく、友人の車で往復した。
 この前来た1月は、どこもかしこも深い雪に埋もれていた。色の白いは七難隠すとて美しい風景だが、豪雪は生活を脅かすものでもある。その一方では美味い米のできる棚田の水源である。

 今や初夏、野山に田畑はどこもかしこも深い緑が覆っている。これも七難かくすとは言わないにしても、雪の白にとって替わる美しい風景である。棚田も稲が育ってきて緑である。
 だが、怖いほどに繁茂する草木は、家々の生活空間や棚田の生産空間を脅かすものでもある。見ようによっては緑に襲われている。豪雪に対応して豪緑とでもいおうか。

 山村集落とは、生活や生産のための山林・田畑・家々が、地域をバランスよく支配している人文空間である。眼に見える緑が多いとて、そこは決して自然そのものではない。
 もともとは草木が支配する自然空間であった山谷を、営々と長い時間をかけて人間が手を入れてつくりあげてきた人文空間である。
 その人文空間は、それを維持する人間がそこに暮らしていてこそ、存在することができる空間である。人間がいなくなると、たちまちにして草木が空間を支配して、10~20年で元の自然空間に還っていく。
法末集落の中の小千谷道(おじゃんち)風景 20140621

上と同じだが2008年の夏の風景 少し異なるところもある
 いま、山村集落は人間が減っていくばかりの人口減少最前線だから、その生産や生活のための空間は縮んで行って、人間が放棄した人文空間に、たちまち自然がはびこってきつつある。
そこは人間が自然を克服する闘いの最前線であったが、今や人間が退却していく最後尾の闘いの地になりつつある。
 そう、殿(しんがり)である。昔から戦いでは、殿が最も難しいされる。

 この山村における人間と自然との戦いの最前線にあるのは、斜面に水面を積み重ねる棚田である。谷筋から尾根へと斜面を幾重にも水平に切り裂いて登っていく。冬の豪雪がもたらす豊かな水が、実に美味な棚田米を生み出すのだ。
 棚田の風景を美しい自然環境と誤解している人もいるが、棚田は決して自然ではない。むしろ人工物の極致と言ってよいほどの、米つくり工房である。
 平地の水田は機械による米生産工場であるのに対して、人手がかかる棚田はまるで盆栽つくりである。それくらい人工度が高い。

 この棚田の米が、この地の自然と人間の闘いの最前線から産出する「黄金」である。わたしは食い物にはあまり関心がないのだが、この棚田米を喰い続けていたら、米の飯に関してだけは、すっかり口が奢ってしまった。
 だがこの金鉱山も、次第に鉱脈が後退している。耕作放棄地が広がりつつある。放棄棚田はたちまちにして草地になり、林地へと還っていきつつある。
 今や棚田という人文空間は、人間が自然に押される撤退戦の最後尾の場である。
棚田の人文空間と草木の自然空間が競り合う風景 20140621
耕作放棄地ばかりではなくて、居住放棄家屋も誰も住まなくなると、次第に自然に還っていく。
 毎年の豪雪が、放棄家屋を傾け、押しつぶし、土に還らせる。春になると草が覆いかぶさり、やがて樹木が生えてきて、20年もすれば樹林になる。
今、家屋が今消えようとし、草木の地に還ろうとしている風景 20140622
2年前の上と同じ位置の風景 20140514

5年前の上と同じ位置からの風景 20090418
 この集落の人口は、1950年代末には600人近くもいたのだが減少が進み、2004年の全村避難した中越震災でそれが一気に進み、今は70人、40戸ほどになっている。もちろん超高齢化である。
 ところが、子どももいなくて減少していく一方かと思っていたが、意外にそうでもない。2人の小学生がいて、麓の町の小学校から通学バスがやってくる。
 町に出ていた跡継ぎ息子が戻ってきて農業をしている家もある。町に出て行った元住民で、休日には農作業にやってくる休日住民たちもいる。
空き家を買って2地域居住をしている都市住民が数名いる。今年、夫婦でこの地に移転してきた人もいるそうだ。近いうちに、わたしたちの仲間の一人が、住民票を移して住むという。
 ここは大橋さんと内山さんしかいなかったのだが、姓も多様化してくる。

 人間撤退戦線の最後尾でありながら、意外に善戦する兵士は、美味い棚田米であるにちがいない。この魅力があるから、この山村はしぶといのだ。
 それは深い雪と緑の自然が人間に与えてくれているから、敵から贈られる塩であるのか。
2007年からの活動拠点3代目「へんなかフェ」は豪雪で傾き傷み草にも覆われてくたびれてきた

4代目「ヘンなかフェ」では、農家民宿を始めようか

参照