2012/12/31

701新年になっても手帳を持たなくてもよい身分になりたいようななりたくないような

本年の締めくくりは、自作1年手帳の制作である。3年前から手帳を買うのをやめて、自分でMSWORDで編集、卓上で印刷して綴じる。裏表冊子印刷でたったの16ページ、1か月が1ページである。
 百円店で買ってきたカードフォルダーなるビニルのカード袋がいっぱい綴じこんで手帳に、自作手帳を合わせて綴りこんだだけである。
 材料原価は120円くらいか、とりあえず見た目はそれなりに立派である。

 カード入れに諸カードやら名刺を入れるとけっこう分厚い。カードの数を勘定したら、なんと25枚もある。
 オレはカード嫌いなのにいつの間にこんなに、、、医院、図書館、銀行、電器屋、学会などなど、今や何でもカードである。
 自慢じゃないがと自慢するが、乗り物カードは持っていないのだ。あ、1枚あるなあ「横浜市敬老特別乗車証」、タダじゃないよ、市内の地下鉄バス乗り放題で年間8000円である。

 4年前までは、だれもするように毎年の暮れに文房具屋で買っていた。今から考えると、もっと前から自作してもよかったはずだが、知恵がなかった。
 わたしは1974年からの手帳を39冊を保存している。39年分の簡単自分史である。
 それよりも前にも手帳を持っていただろうが、その年から勤め先の経理システムができて、何の何をいつ何時間やったか記録することになったので、手帳を克明につけ出した。

 もちろん仕事の記録だけではなくて、いろいろな行動記録がある。日記をつける習慣を持っていなかったけれど、この手帳を見ればほぼその日に何をしたかがわかる。
 ただし、ほとんど符牒書いてあり、その符牒が何であるかもう忘れているので、その頃何をしたのか手帳を見て思い出そうとしても困ることが多い。

 毎年買ってきた手帳の仕様は、大きさだけは一定だが、中身は毎年のように違うものを買っている。
 要するに毎年気に入らなくて、毎年今年こそは適切なものをと、毎年探していたのである。自分の行動を自分流に書き込む手帳は意外にないものである。
 それでいつかは自作をしようと思っていたのだが、技術がなくてできないままできて、今頃になってようやくできる様になったのだ。

 だが、今はもう仕事をほとんどしていないから、昔のように毎日びっしりと書き込むことがない。
 かつての手帳は原則として1週間が2ページであったのが、今や1か月が1ページで済むのが、嬉しいような情けないような。だから自作手帳も簡単で済むのだ。
 技術的には市販品のようなあれこれと付録をつくることもできるのだが、今や電話帳も地下鉄路線図も、その他あれこれも不要であるのが悔しい。

 そのうちに手帳そのものが不要な身分、というか境遇になるだろう。その日は近い。
 とりあえず今年は終わり、来年の手帳もできた。あと1時間半で2013年となる。
 今年は世は右回りになってイヤな年であった。身には歯と眼と手の故障があった。
 ここまで生きてくると、まあ、年が明けようが明けまいが、ほとんど気にならない。

 
 では、これをお読みいただいたあなたに、来年はよいことありますように。

2012/12/29

700海軍聯合艦隊司令部として戦争に翻弄された谷口吉郎設計の戦前モダン建築

◆丘の上のモダンデザイン建築
 横浜市の北に位置する日吉に、慶応義塾大学日吉キャンパスがある。広大なキャンパスの南に半島状に張りだした台地の端に白亜の建築が見える。1937年に建った慶応義塾日吉寄宿舎である。
建築史の専門家には、日本の戦前モダンデザインのはしりの典型的な建築として、その設計者とともに知られていたが、慶應関係者は別にしても一般には全く知られていない。  ここでこれをとりあげるのは、現代の視点で見ると、実はただ物でない歴史を背負っていると知ったからである。

 これは日本近代史上において、教育機関としての慶應義塾としてはもちろんだが、日本の近代建築史においてばかりか、太平洋戦争において実に重要な役割を果たした記念的な建造物であり場所であるのだ。

 もしかしたら、復原前の東京駅赤レンガ駅舎と並ぶ戦争記念碑かもしれない。戦争及び戦後復興記念碑としての東京駅赤レンガ駅舎は、復原という仕業で記念的造形が消えてしまったが、この日吉寄宿舎も同じ轍を踏むかもしれないのが心配である。
 所有者の慶應義塾大学が、老朽化していたこの建物を再評価し、2012年からその一部をリニューアルして現代的な学生寮として再生したと聞いて、興味をもっていろいろと調べたのである。

(以下全文は下記へ)
第1章<戦前>慶応モダンボーイの日吉新キャンパス
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi
第2章<戦中>海軍中枢の秘密基地となった日吉キャンパス
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi/hiyosi2
第3章<戦後そして今>戦争の傷を癒しきれない日吉寄宿舎
https://sites.google.com/site/dandysworldg/hiyosi/hiyosi3

2012/12/19

699選挙結果を見ると福島県の人たちも実は原発推進であったのか、ガックリ

 あれっ、え~っ、そうなのお~、もう、これにはビックリした。
 新聞で今回の衆議院議員選挙の結果について福島県の欄を見たら、なんとまあ、福島県の方々も原発推進党の方々をわんさと当選させているんですね~、ほお~ッ、へえ~ッ。

 今回は原発推進党のひとたちがめちゃめちゃたくさん当選したが、わたしは福島県だけはそうなってないだろうと、勝手に思い込んでいた。
 ところが大違い、どうしてこうなったのか、ぜんぜん分からないけど、わたしがお人よしであることだけは分かった。

 だって、福島県が策定した「福島県復興計画」(第1次)2011年12月の基本理念にはこう書いてあるんだもの(4ページ)。

基本理念
 復興計画は、復興ビジョンで掲げた以下の基本理念の下に復興を進めるものとする。
Ⅱ 基本理念
○ 「脱原発」という考え方の下、原子力に依存しない社会を目指し、環境との共生が図られた社会づくりを推進。このため、国及び原子力発電事業者に対し、県内の原子力発電所についてはすべて廃炉とすることを求める。


 そしてまた、今年の11月には、東京電力に課してきた核燃料税を今年限りで廃止したそうである。
 億の単位の金が入るのをやめるのだから、原発頼りの財源を絶って、その覚悟のほどがわかる。

 それなのに、ああ、それなのに、この選挙の結果はどういうことなのだろうか。
 その筋の消息通はいろいろ解説はできるのだろうが、解説してもらっても、結果は結果でそれが物を言う。

 福島さえもこれなんだから、日本全体が原発推進党に票を入れたのもわかるけれども、うん、だけれどもである、どうしてなの?、ねえ、どうしてなの?

 今、わたしがわかることは、わたしがもう世間のことが分からなくなったボケ老人である、ということだけである。
 認知症って言葉は嫌いだが、どうやらわたしは世間不認知症になったらしい。

参照→弧乱夢「地震津波火事原発」

2012/12/16

698浦島太郎の選挙風景(追記あり、翼賛選挙大成功)

 
 40数年ぶりに選挙なるものをやってきた。
 向かいにある中学校の体育館が投票所である。3つもの紙に記入するのに、案内がてきぱきとして円滑であった。

 大昔の投票では、候補者の名前だけを書いていた様な気がするが、へ~、今は政党の名前も書くんだなあ。
 その候補者名とか政党名とかの一覧表が、投票の記入ブースに張り付けてある。
 で、40数年ぶりの投票が無効になってはたまらんから、超正確に書こうとして、しっかり一覧表を見ながら、一字一字を写して書いた。

 ここで、当惑したのは、全部の漢字に振り仮名がついていることだ。
 ということは、振り仮名も合わせて候補者名であり政党名だろうから、これも書かないと無効になるんだろうなあと、面倒ながらこれも写した。

 さらに戸惑ったのは、政党名には略称というのも、正式名称の下につづけて書いてある。これもご丁寧に振り仮名つきである。
 さて、これも書かなければ無効投票になるんだろうかと、しばし思案した。
 案内係の人に聞こうかと思ったが、どうもいい年寄りが初めて投票するようなことを聞いては、恥ずかしいような気がした。周りに大勢いるしなあ。
 まあ、常識として、正式名称と略称の両方を書くことはあるまいと、思うことにした。

 さて、一連の投票が終わって校門を出ようとしたら、若い女に呼び止められた。
「出口調査にご協力ください」
 え、たしかにおれは入るときは西門からで、今出ようとするのは南門、それっていけないのかい。
 それとも、どこの門が出口として一番使われているか、今後の投票所の設計のために調べてるのかい。

 そうじゃなくて、なんでもNHK放送局が、投票所から出てくる人に、どこのだれに投票したか聞くのだそうだ。
 じゃあ、出口調査してんじゃなくて、投票調査してんだろうが。
 大きなお世話である。そんなプライバシーをタダで教えるもんか。

 じゃあなにかい、入り口調査ってものもやってるんだろうな。
 入るときに考えてた投票先を、投票所の中でどう変更したか、あるいは変更しなかったか、そんなことを調べて、どうするんだい。

(12月16日23:00追記 開票速報を見て)
おやおや、これはこれは、なんともはや。
この前の政権交代選挙の裏返しですか、ふ~ん、オセロゲームかよ。
政治評論家は、あの時の言を、民主と自民を入れ替えればよいのね。
またもや恐怖の翼賛選挙で、もう、ほとほと世の中をイヤになった。
また、「棄権党」を再結成して総裁に就任することにしました。

まあ、後は若いもんで勝手にやってくれい、
原発が事故ろうと、中国と戦争しようと、わしゃ知らんわい、
若いもんが選挙で選んだ道だものね、
 ♪この道はいつか来た道、あ~あ、そうだよ~お、
   ほ~ら、右に下る坂道~、


というわけで、開票速報見てもしょうがないので、
もう、ふて寝するもんね。

(追記2012.12.17 朝の新聞を見て)
 今朝の新聞を見たら、なんと自民公明で320議員を越えたそうな。これで衆議院だけで物事を決めることができる。そういう選択を選挙民はしたのであるか、ふ~ん、。
  わたしのアンチ翼賛票は、見事に死んだのであった。

 昔々投票に行ってたまだ若いころ、毎度毎度死に票を投じる結果となって、もうバカらしくて選挙投票に行くのはやめた。
  今回はその棄権主義を反省したのじゃなくて、あまりにひどい右翼への翼賛選挙となる予想に反発して、40数年ぶりに投票したが、やっぱり死に票となった。


 まあ、投票と言えば競馬の勝ち馬投票みたいなもんで、ギャンブルだから、結果は残念だけど、みんながお選びなんだから、しょうがない。
  だが、わたしの今回の投票したことへの痛恨は、憲法違反に加担したことである。
  さて、この違憲状態の選挙による政権は、正統性をもっているんだろうか。
  この選挙をした57,134,678人、みんなそろって憲法違反したような。

 日本の総理大臣は一年交代主義の伝統があるらしいし、この伝統の始祖が今回また首相になるお方である。
 だから、来年の今頃はその伝統に従っておられることでしょう。

(追記2012.12.18 福島でも、、) 
 今朝の新聞で、じっくりと各地の当選者を見て、ガックリ。
 あの福島県でも、しっかり原発賛成党が当選者を占めている翼賛選挙だったのですね。
 もう、日本のことがよくわからなくなったので、世の中から本格的に引退することにしま~す。

 あ、どこか外国でも行くか、ネパールか、それともブータンがいいかなあ。

697みんなが揃って一定方向に流れるのが我慢できないへそ曲がりの性分が騒いで

2012/12/15

697みんなが揃って一定方向に流れるのが我慢できないへそ曲がりの性分が騒いで

 明日は衆議院議員選挙である。
 わたしは、もう40年以上も「棄権党」の党首(党首兼党員ひとり)を務めてきた。
 今回、棄権党を解党して「へそ曲げ党」を設立して、投票に行くことにした。
 長い間の選挙しない主義の節操を破るのは残念だが、今回の選挙についてアホメディアの予想が、自民党大勝というにのに、カチ~ンと来たからだ。

 なんだよ~、またかよ~、小泉郵政選挙の時に翼賛選挙であとで困ったろうがよ~、この前の政権交代選挙で翼賛選挙して今また困ってるじゃんかよ~、え、わかってんかよ~。
 昔々戦争してた頃に大政翼賛会をつくって翼賛選挙した結果が、あの悲劇だったろうがよ~。
 日本の選挙民は何やっとんじゃあ~。

 あの右翼のオッサンどもに政権をとられてたまるもんかってんだあ。
 てなことで「ごまめの歯ぎしり党」というほうが正しいが、アンチ右翼票を入れるだけのために、40数年の棄権党党首としての節操を破ることにした。

 と、いかにも格好良い言い方をしたが、実の本音は、みんなが揃ってある一定方向にダダ~ッと流れるのが我慢できないって、へそ曲がりの性分が騒いでいるのである。

●参照⇒
172またもや翼賛選挙(2009年8月のブログ)
http://datey.blogspot.jp/2009/08/172.html
695憲法改正で戦争可能になると核兵器がいるので原発推進して核開発するのか
http://datey.blogspot.jp/2012/12/695.html

2012/12/11

696日本で地震からも津波からも核毒からも米軍基地からも逃れる地域はどこだろうか


●疑わしくても罰しないのが原発だって
 今朝の新聞には、国の原子力規制委員会が敦賀原子力発電所2号機の真下を走る断層が、活断層の可能性があると発表したというニュースがある。
 ということは、この原発はかなり危ないってことであるらしい。

 原発事業者は、そんなことは絶対ないと否定し、敦賀市長は、可能性あると言ってるだけだからまだ黒じゃない、疑わしきは罰せずだ、と言っているそうだ。
 この疑わしきは罰せずって、ここで言うのがすごいと思う。普通はこういう時に使うもんじゃないよなあ。明日、敦賀地震が来たらどうなるのか。

 それにしても、今や日本では原発近くに住むってのはかなり勇気がいると思う。
 それは、地震の津波で襲われるとわかっていながらも海岸地域に住むのと似ている。
 こうなったら思い切って、原発から20㎞か30㎞圏に住むことを法律で禁止してはどうか。建築基準法第39条の「災害危険区域」に指定するのである。

●東北では津波被災で災害危険区域を決めた
 今、東北地方の被災地では、津波で被災した地域に、法律による災害危険区域を定めて、かなり広い範囲の土地に、これからは居住禁止を強制することにした。
 その指定区域内では、住宅を造って住むのは禁止だが、工場や店舗はよいのだ。

 たとえば宮城県山元町では町域の3分の1がそうなっている。それだけ津波被害が広かったということである。
 だからその地域に住居のある人たちは、他に移転しなければならない。安全のためには仕方ないが、移住のための法的な支援措置があっても、あれこれ大変なことである。

 それはそれで気になるが、わたしがもっと気になるのは、そうやって居住禁止した土地は、これからどうなるのだろうかということである。
 住宅でなければいいというのだが、それでは工場や店舗の事業者が、そんな危険なところを選んで立地してくるだろうか。
 地域の人たちだって、そういう危険な地域で働くのも考えものだし、買い物に行くのも気になるだろう。

 ショピングセンターの事業者は、喜んでやってくるかもしれない。彼らは2年くらいで投資を回収するから、それまで津波が来なければよいのである。まあ、10年くらいは来ないだろうよなあ、?、いや、つい3日前にも津波騒ぎがあったなあ。

        (津波が来た街)
でもそうなると、今の日本各地で問題になっている中心街の疲弊、つまり生活圏の便利さが失われていくことが、ますます進むだろう。
 となると、せっかく計画的に作った移住先の街も、また住みにくくなるかも知れない。

 多分、空き地のままの災害危険区域が広がっている風景となるだろう。
 防災集団移転促進事業によって移住した跡地ならば、公有地になるから公園にする案もあるだろう。しかし、何か施設を造ってもそんな広くては、維持管理が大変である。
 田畑にして耕作するのが一番良いだろうが、農業振興の問題が横たわっている。TPP問題もあれば農業人口の高齢化問題もある。

 その土地はもとはと言えば海だったところである。自然の持ち物だった海を埋め立てて、人間が使うようになったのである。津波はいわば自然からの返却命令である。
 ならば、いっそのこと海に戻してはどうか。浚渫して出てくる土で陸のかさ上げをし、掘り込んでできた内海は港や養殖漁業の場とするのだ。

●太平洋岸はどこも災害危険区域でしょうに
 ところで、東北の被災地では今になってあわてて災害危険区域を指定しているが、同じように津波での災害危険区域ならば、茨城から鹿児島まで太平洋岸全部がそうであるはずだ。
 こっちはどうなっているのだろうか。

                 (これから津波が来る街)
東海、南海、なんとか大地震が言われているのだが、地震津波が来てから災害危険区域を指定しても、遅すぎやしませんかねえ。
 こちらの津波で危ない海岸地域全部に、あらかじめ指定しておいて、津波が来る前に移住するようにするのが、あるべき防災政策と思うのだけど、そうはいかないのだろうなあ。
 なにしろ、現実にあまりに多くの人が住んでいて、それを移住させるとなると超大問題になって、とても区域指定できないのだろう。わたしが日ごろ唱えているマンション禁止と同じである。

 つまり、大津波が来て何万人何十万人も死んでから、おもむろに災害危険地域を指定するってことにならざるを得ないと、これはとても科学的判断じゃなくて、いわば政治的判断ですな。
 日本は人柱が立たないと、前に進まないのである、昔から。
 実はかく言うわたしが住んでいるところも、海抜2~3m、港から2km足らずだから、もうその時はその時である、歳だって先は長くないことだし、。
 ある人から聞いたのだが、海岸地域に住む人が次第に内陸に移転しているそうだ。持ち家の人は簡単じゃないが、借家の人は好んで海辺に住むことはないから、とうぜん内陸に移住するだろう。

 原発の近くも災害危険区域その指定をして、これから廃炉になり、地震が来ても核毒が漏れないようになるまで、指定解除はしないことにする。
 沖縄の嘉手納基地周辺なんてのも、災害危険区域の資格が十分にあるように思う。ここも移住するなら防集事業である。もっとも、基地のほうが移住するべきだろうが。

●地震津波核毒基地から安全な地域はどこだ
 津波海岸から遠く、地震の巣から遠く、原発から遠く、そして軍事基地からも遠く、かつ学校病院文化施設や飲み屋から近い、そんなところに、わたしは住みたい。
 ということは、そういうところが日本の中にあるならば、そしてそこが人口減少で悩む地域ならば、それを宣伝すると地域再生になると思いますが、いかがですか。

 実は、先ごろそう思って、あれこれ調べていたら、わたしの生まれ故郷(岡山県高梁市)がそれにぴったりとわかったのであった。


  まずこれを見てください。高梁のあたりは地震が少ない。
  日本全国広域 最新30日間の震央分布図 (独立行政法人防災科学技術研究所)
 http://www.hinet.bosai.go.jp/hypomap/

 そして今の一番怖い四国沖での南海大地震が起きても、何とか大丈夫のよう。もちろん津波はここまでは来ない。
  中央防災会議資料
 http://www.jjjnet.com/image/shindo_nankai.gif

 上の地図だと島根県あたりのほうが安全に見えるけど、そこには島根原発がある。島根原発は高梁に一番近い原発だがそれでもかなり遠い。下記のサイトで島根原発のところの図を見てください。
  全国の原子力発電所の周辺人口(2005年)埼玉大学谷謙二研究室
 http://ktgis.net/tohoku_data/genpatsu/

 南海やら東海やら大地震が起きてもなんとかなるだろうし、津波が起きても瀬戸内海から高梁川をさかのぼるには遠すぎるし、島根原発が核毒まき散らしてもここまでは来ないだろうし、富士山が爆発するらしいけど高梁まで灰が降ってくることはなかろうし、一番近い米軍基地は山口県岩国だからかなり遠い。

 というわけで、故郷はよいところと分ってはいたけど、こういう意味でよいところと今頃になって知ったのである。
  もう何年も減り続けている人口が、これを日本全国に宣伝すると、増える方向になるでしょうね、多分。
 故郷の方々、いかがですか。

2012/12/05

695憲法改正で戦争可能になると核兵器がいるので原発推進して核開発するのか

●コロコロ変わるから選挙に行く気がしない
熊五郎 寒い時に選挙になりましたねえ、ご隠居。
ご隠居 おお、熊さん、よく来たねえ。寒いと選挙に行く人が減るかもなあ。
熊 そんなことないでしょ、大事な選挙なんだから。
隠 まあねえ、でも実はね、わたしはもう40年以上も選挙に行ったことはない、えへん。
熊 あのね、いくらご隠居がへそ曲がりだといっても、威張ることじゃないでしょ。
隠 そのとおりだがね、政治には興味ないんだよ。棄権もわたしの意思表示なんだ。まあ、格好よく言えば無政府主義者ってところだな。はやく言えばめんどくさい、わからない。
熊 ふ~ん、でもね、今回の選挙にゃ、あれやこれやいっぱい政党があり、政策のようなものが右翼から左翼まで、同じように並んでて、あっしにも何のことかわかりませんや、こりゃ棄権しようかな。
隠 うん、うん、それに政党の代表者が言ってることが、コロコロと変わるらしいな。
熊 そうそう、それなんですよ、うっかり投票したら、次に日にコロッと変わるかもなあ。なんだか、ご隠居の危険じゃなくて棄権思想がうつったなあ。

●一票の重みに大差あってもよいと憲法改正か
隠 今回の選挙でなんといっても一番すごいことは、憲法違反状態って最高裁判所が言ってるのに、な~にかまうもんかって選挙するってことだな。
熊 あのね、それで思うんですが、憲法を変えようって言ってる政党があるでしょ、あれって選挙の違憲状態をなくすために、投票一票の重みがいくら違ってもよろしいって、憲法を変えようってんでしょ。
隠 まさか、う~ん、そうかもなあ。それにしても、むかしは選挙で、憲法改正って大声で言ってるのは、右翼の泡沫候補に決まってたのが、今回は大政党の党首が堂々と言ってるんだね。なんだか世の中すごいことになってきたね。
熊 面白いのは、憲法改正というひとは、たいてい原発賛成と言ってるんですね、何か関係があるのでしょうかね。
隠 そうだなあ、憲法を変えて戦争できるようにするとなると、現代の戦争は核兵器が必要だ、だとしたら核技術が必要だ、日本の核技術は原発に支えられている、だから原発賛成だって、多分、こうなるような気がするけど、どうだろう。
熊 な~るほど、憲法変えると原発栄えるって、風が吹けば桶屋が儲かるよりも、はるかにわかりやすいや。

●さてこんどは選挙民はどっちに流れ着くか
隠 またまた翼賛選挙になるんだろうなあって、ますます選挙に行く気が無くなってるんだ。
熊 なんです、その奥さんの選挙ってのは。
隠、そうじゃないんだよ、翼賛てね、戦争中に誰もかれもが体制賛成派になっちまって、一億戦争につっこんだんだよ、あれみたいにだ~っと選挙のたびにどこかに傾くんだな。
熊 わかった、小泉さんの郵政解散の時にありましたね。それから民主党が3年前にトップになった時もね、あっしたちゃそんときの気分で右でも左でも見境なく流れて行くんですねえ、ほら、え~っと、ポッポのリズムって。
隠 なんだいそりゃ、ポピュリズムだろ。今回はどうなんだろね、民主党がヘマしたから、今度はまた自民党だって、どっど~っと翼賛するんだろうかねえ。
熊 いや、もう原発はこりごりだって、どどっと未来党に偏るとか、、。それにしてもこんなにいっぱい政党があるとなんて書いていいかわかりませんね。
隠 そうだろ、だから私は考えたんだよ、こういう名の政党をつくりゃいいんだよ。
『日本民主自民公明国民生活維新共産社民大地改革社大減税反TPP脱原発消費増税凍結太陽未来みんなみどりたちあがれきづなさきがけ緑風農民新自由愛国労働雑民スマイル幸福諸派無所属党』
ってね、どうだ、無敵の政党名だろ。
熊 ウワッ、そんなの覚えられっこないですよ。
隠 あのな、政党は選挙で略称を使ってもいいんだよ、そこでこういうんだよ『日本ちゃんぽん党』

●参照→またも翼賛選挙

 

2012/12/03

694藤沢の海岸にある中国国歌作曲者の聶耳(ニエ・アル)の碑は山口文象設計  

   
●湘南海岸の森の長城
 東北の津波被災地に行ってから、森の長城のことが気になり、鎌倉の世界遺産ワークショップでも、そのことをしゃべった。
 その森の長城のモデルケースが、藤沢から平塚にかけての海岸は湘南海岸沿いにある幅広で長大な防砂林である。
 砂丘の上に松林を主としながらも常緑広葉樹との混交林であるところが特徴的で、震災復興で「森の長城」を提唱している植生学者の宮脇昭先生の指導でつくった森である。
 よくある白砂青松の疎林の松林ではないのは、砂が飛ぶのを防ぐ目的だからだ。同時に、津波が来たら密な植生はその水の勢いを幾分かはそぐだろうとも思う。

 先日その森の長城を見に行ってきた。その森のことを書く前に、そこで思いがけなく建築家・山口文象の作品に出会ったので、そのことを書く。
 その東西に長い樹林帯が東の端で切れるのが、藤沢市の引地川の河口部であり、その海岸の向かいに江の島が見えるところである。


●中国国歌作曲者の記念碑
 この河口部にある公園の中に「聶耳記念広場」がある。真ん中に四角な1m角ほど、高さ60センチばかりの石のモニュメントがあり、周りを低い塀と生垣が取り囲む。
 モニュメントは陸側から海側にむかって眺めるように配置され、その背景の一部に2m角ほどの壁がたっていて、若い男の顔のレリーフがはめ込まれている。
 その男の名は聶耳(ニエ・アル 1912~35)、中国の音楽家であり、日本に来ていた1935年に この海で泳いでいて溺死した。まだ23歳であった。
若くして異郷で死んだにもかかわらず、「義勇軍行進曲」の作曲者として有名な人であるらしい。彼の故郷の昆明には、彼の名をつけた公園があるという。
 その「義勇軍行進曲」が、1949年に中華人民共和国の国歌となったのを記念して、藤沢市民の有志からその海で死んだ聶耳を記念する事業を行おうとする運動が起こり、1954年に碑を建てたのであった。
 まだ日本と中国とは国交が開いていない時代だったが、除幕式には中国からの要人も出席した。その後も今日まで中国の要人がくるという。

 その碑の設計者が、建築家の山口文象であった。
 雑誌「新建築」1955年4月号に山口文象が設計者としての言葉を書いているのを読んでみても、聶耳ととくに親交があったようでもない。何が故に山口文象がデザインすることになったのかはわからないが、社会党系の文化人に知り合いが多かったことから、その方面からの紹介だったのかもしれない。
 1954年の山口文象のデザインの範囲は、碑、秋田雨燕による碑文、敷石とその周りの砂利敷きを縁取る石までであるようだ。サルスベリの木のことを「思わぬエフェクトを創り出してくれました」(設計者のことば「新建築1955.4」)と山口は書いているので、周りの造園は彼の設計ではないだろう。

 碑のデザインは、ムクの稲田石を四角に切って、耳の字をモチーフの切り込みと突起をつけている。謎解きのようで面白いが、こういう類の記念碑がほかにあるだろうか。
 このころ記念碑デザインの第1人者は、建築家谷口吉郎であった。山口文象と谷口は親交があったが、こういうもののデザインについては、山口が谷口を意識していたであろう。
 それが「私は今までの定型化された碑の概念を捨てようとしました」(設計者のことば「新建築1955.4」)となっているのだろうが、果たして谷口の向こうを張るほどのものになったと言えるだろうか。

●変転した配置と位置
 1958年に関東を襲った狩野川台風による高波で碑は流されて荒廃していたが、1965年に再建された。この時に山口文象が関わったかどうかわからない。
 さらに1986年に再整備がされているが、この時は山口文象は他界しているから関係はなさそうだ。RIAも関係していないことは、わたしが知っている。


 
 新建築1955年4月号に載っている写真や配置図と比べると、現在はずいぶんと変わっている。ネットに登場する写真で見ると、何回も配置も造園もデザインが変わっているようである。しかし、碑そのものは作り直されることもなく変わらずに中心にある。

 秋田雨雀による銅板の碑銘は、1954年の当初には碑の前に浮くようにあったが、いまは周囲の壁にはめ込まれている。
 なお、この碑文は、一部に誤りがあったので1986年に井上靖が手を入れて訂正して作り直したという(「聶耳歿後60周年記念講演」葉山俊1995年)。
 新たな記念物として、碑の背後に聶耳のレリーフ(作:菅沼五郎)がはめ込まれた壁が建っている。これは1986年の整備の時に設けられたとある。

 この再整備の時に、元は引地川の西にあった碑を、東側に移動した。
 引地川河口部の見晴らしの良い公園の中にあって、明るい雰囲気である。
 気になったのは、いろいろな碑文やら解説版やら標識やらが建っていることである。再整備の時や何かの記念行事の時に増えていくらしいが、環境デザインとしては煩瑣になってきていることだ。

●中国との友好な時代はどこへ
 
 ところで、、昨今話題となっている東南海大地震による津波のことを考えると、引地川は津波の遡上のルートとなるだろう。
 ここには防波堤も防潮林もないから、津波に一番に持って行かれるだろう。この碑だけではなくて、海に裸で向かっている無防備なこのあたりの市街地全部がそうなるだろう。

 もう一つの大波も気になる。このところ尖閣列島事件以来、日本と中国の関係が不安定である。この碑が国交のない時代から日中友好の役割を持っていたことを、いま思い出す人がいるのだろうか。(2012.12.02)

詳しくはこちらを参照のこと
●参照:1954聶耳の碑

2012/11/25

693【東北被災地徘徊譚3】東松島野蒜で思う:自然と人間はどう折り合って持続する環境を維持できるのか

  ここに1枚の写真がある。広い海の風景のようである。

 今月の初め、わたしははじめて当方被災地を訪れた。小さな復興ボランティア活動に合わせて被災地を見物してきた。まさに見物であり、よく言えば見学、見て学ぶことであった。
 仙台からJR仙石線に乗って東へと向かう。途中の松島海岸駅で代行バスに乗り換える。つまり、震災でここから先が復旧していないのだ。ここまでは被災の姿が見えなかった。

 しばらくバスが走ると、あたりはまだ売れていないと見える宅地分譲地の草原になったが、そうではない、津波にさらわれてしまった街が、瓦礫塵芥がかたずいた風景である。
 バスは普通の線の跨線橋の上に上がって見晴らしがよくなった。と、海の景色が開けたと思ってとったのがこの写真である。
 だが海にしては、家が建っていたり区画が見える。あ、これは津波後に海面下になった土地なのだと覚った。

 実はそのあたりに行ったのは初めてで、土地勘が全くない。どこをバスが走っているのかさえその時はわからなかった。
 戻ってから調べた。現代は「貧者の百科事典」たるインタネットウェブサイトが充実していて、なんでも出てくる。
 そしていろいろなことが分かった。縄文遺跡、塩田開発、野蒜築港、航空自衛隊基地など、この地域には長い長い水と陸と人との戦いの歴史があったのだ。
 そしていま、この地の人々は縄文時代に戻ろうとしているらしい。これはまことに考えることが多い風景である。

このエッセイの全文は
「ー地震津波被災地を見て思う―自然と人間はどこで折り合って持続する環境を維持できるのか」
http://goo.gl/MioUb
●関連
691【東北被災地徘徊譚2】森の長城で大津波に備える市民プロジェクトが動き出した
http://datey.blogspot.jp/2012/11/691.html
・689【東北被災地徘徊譚1】石巻で映画「猿の惑星」の主人公になった眩惑に
http://datey.blogspot.jp/2012/11/689.html
・地震津波火事原発コラム
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#jisin

2012/11/19

692相模湾の虎が暴れる前に世界遺産鎌倉の海岸に森の長城を造りたい

●鎌倉の世界遺産登録推進ワークショップ
熊五郎 ご隠居、寒くなりましたねえ。
ご隠居 この鎌倉の裏長屋にも、表のマンションにも、冬は公平にやってくるね。
熊 今年も鎌倉世界遺産登録推進の「市民ワークショップ」ってのがありましてね、行ってきましたよ。
隠 おお、そうかい、始めてからもう6年で6回目だね、市民の参加はどうだった。
熊 今年はちょっと少なかったですねえ。やはり、とうとう登録の申請が出されたってことで、市民も安心したのでしょうかねえ。
隠 いま日本から富士山と鎌倉が、世界遺産登録審査にかかってるんだったね。来年6月、どっちも登録になるか、それとも富士山だけが登録で、鎌倉は置いてけぼりを食うか、かたずをのんで待ってるってところだね。
熊 外国人への有名度じゃあ、カマク~ラダイブ~ツはフジヤ~マゲイシャにはちょっと負けるかもなあ。
隠 いまどきそういうレベルでもあるまいよ。で、熊さん、ワークショップでどんなこと言ったんだい。
熊 そうそう、それですよ、まあ、聞いてくださいよ。今回は鎌倉が世界遺産登録になった後のことを考えようってことでした。
隠 なるほど、登録されっぱなしじゃなくて、市民がそのあとどうするべきかってことだな。
熊 そうなんですよ、それで思い出したのが、ご隠居が先日行ったっていう東北のどんぐり拾いのことですよ。
隠 ああ、東北の津波被災海岸部に沿って300kmの防潮堤をつくるってんで、そこの森にする樹木の種を拾いに行ったんだな。宮脇昭先生が提唱する「森の長城」プロジェクトだよ。それがどうして世界遺産の話になるんだい。

●世界遺産鎌倉を守る森の長城を
熊 考えてみりゃ、鎌倉だって津波被災地になったかもしれないし、明日にでもなるかもしれませんよ。なんでも相模湾に虎がいて暴れると津波が来るって話でしょ。
隠 虎じゃなくてトラフだろ。でもその通りだねえ、。
熊 せっかく世界遺産登録になったとたん、地震津波がやってきて街が全部こわれちまったってことになったら、どうするんです、ねえ、ご隠居、ねえ。
隠 わたしに迫られても困るよ、相模湾のトラに聞いとくれ。でも先日、被災した石巻や七ヶ浜を見てきたが、いつの日か鎌倉もああなるかもしれないのは、だれも否定できないね。
熊 でね、あっしはご隠居の話を聞いてたからね、ワークショップで提案したんですよ、世界遺産登録になった鎌倉を津波から守るのが登録後にやることだ、だとしたら由比ヶ浜から材木座の海岸に「森の長城」を築くしかないよっ、緑の山脈が3方を囲んでいるから、海のほうにも土手の山脈を築いて常緑の森をつくって津波に対応しましょうよって。
隠 おうおう、お前も言うねえ、それで鎌倉の街は四方が緑に囲まれるんだな。考えてみれば鎌倉時代は海岸線はもっと内にあったし、一の鳥居あたりが高くなってるのは、砂丘が続いていてずっと松林だったんだろうなあ。
熊 そうそう、それを復元するんですよ、東北では松林が根こそぎ倒れたから、こんどは根の深いシイの木やタブの木などの常緑広葉樹の森にするんですよ。
隠 で、ほかの人はそれについて、どう言ってたんだい。
熊 鎌倉は街と海が続いているのが良いのに、それが森の長城でとぎれるのはどうもねえ、というお方もいましたね。
隠 もっともだねえ、海と暮らしとが密接なところが鎌倉のいいところだからねえ。それに由比ヶ浜沿いには長城を造るほどの余裕のある土地がないだろ。海の埋め立てとか宅地の買収は無理だしね。

●一石二鳥の森の長城
熊 あっしはこうしたらいいと思うんですがね、ほら、海岸を走ってる国道134号ね、こいつに丸い蓋をかけてトンネルにするんですよ、その上にこんもりと土をもって木を植えて「森の長城」にする、どうですこれは。
隠 あ、今は134号が街と海を途切れさせているのが、そうすると森でつながるね。砂浜から森の長城まで一続きのレクリエーションの場にすると、緑の環境と津波防災の一石二鳥だねえ。
熊 どうです、こいつあ、ほれぼれするほど凄いいいアイデアでしょ、えへんえへん。
隠 おまえね、威張ってるけど、もとはあたしの東北どんぐり拾いにヒントを得たんだろ。
熊 マア、そうですがね。それに国道を地下にしようってアイデアは昔からあるんですね。
隠 だからいいんだよ、そうやってみんなでいろいろ考えて、森の長城を造っていきたいね。ところで神奈川県にはすでにそうやって樹木を植えた森の長城があるんだよ、知ってるかい。
熊 え、どこなんです。
隠 その国道134号の続きの藤沢から平塚まで11㎞ちょっとの湘南海岸の防砂林だよ。松と常緑広葉樹の混交林で、植えて25年ほどだけど立派な森になっているよ。
熊 へえ、しょうなんですか、知らなかった。とにかく、鎌倉が世界遺産になろうがなるまいが、相模湾のトラが吠える前に森の長城を造りたいですね。

もしも鎌倉の由比ヶ浜と材木座の海岸に緑の長城を造ったら

湘南海岸「飛砂防備林」(藤沢~茅ヶ崎)
この緑の長城の標高は6m程度、樹高は4~8m、津波に対応できるか

●参照外部サイト、ページ
・森の長城プロジェクト
http://greatforestwall.com/

・神奈川県サイト:湘南海岸防砂林
http://morinobouchoutei.com/?page_id=169
・鎌倉市津波浸水予測図暫定版
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/sougoubousai/documents/tsunamib3.pdf
・鎌倉世界遺産登録推進協議会
http://www.kamakura-wh.org/

●参照伊達サイト・ページ
・森の長城で大津波に備える市民プロジェクトが動き出した
http://goo.gl/vK7RY
・裏長屋の世界遺産談義
http://homepage2.nifty.com/datey/kama-sekaiisan.htm
・609森の長城が津波災害を防ぐ
http://datey.blogspot.jp/2012/04/609.html
・611震災ガレキによる森づくりで思い出す
http://datey.blogspot.jp/2012/04/611.html
・578鎌倉世界遺産正式推薦へ
http://datey.blogspot.jp/2012/01/578.html

2012/11/17

691【東北被災地徘徊譚2】森の長城で大津波に備える市民プロジェクトが動き出した

●どんぐり拾いに東北へ
熊五郎 こんちわ、ご隠居、この裏長屋も寒くなってきましたね。ちょっと見なかったけど、どちらか旅だったんですか。
ご隠居 おや熊さん、いらっしゃい。ああ、ちょっと仙台から塩竈、石巻あたりに行って徘徊老人をやってたんだよ。
熊 それって、もしかして大震災被災地見物ですか。
隠 そうともいえるが、実は震災復興ボランティア活動に行ったんだよ。わたしはどうも東北にはこれまで縁がなくて、どこで何をすればよいかわからないままに、1年と8か月も過ぎたんだね。
熊 去年3月11日から、もうそんなに経ったんですね。
隠 そんな時、どんぐり拾いボランティア募集ってのを、インタネットで見つけてね、これなら徘徊老人のわたしに向いていると、被災地見物もかねて行ってきたんだよ。実は震災以来初めてなんだよ。
熊 えッ、どんぐり拾いなんて子どもの遊びでしょ。なんで震災復興ボランティアなんですか。
隠 それはね、どんぐりは冬も緑のシイの木から落ちた実だろ、これをたくさん拾ってきて、芽を出させて苗木をつくるんだな。その苗木を津波が来た海岸にずらーっと植えようってんだよ。
熊 へーっ、そんな苗木で津波を防ごうってんですか、そんなの無理無理。
隠 まあ、お聴きよ、津波の来た海岸に沿ってね、中国の万里の長城のように長い長い土手というか、土塁をつくるんだよ、、

この続きと全文はhttp://goo.gl/vK7RY
「森の長城で大津波に備える市民プロジェクトが動き出した」

2012/11/15

690後期高齢初心者になると身体が反応して縁のなかった医者にも行かせてくれる

 とうとう右手首の屈曲回転禁止となった。ギブスがはまったのだ。文字通りハンデイキャップである。指だけが動く。
11月3日の夕暮れに駅前で派手につまづき転んで、6日に医師に診てもらうとⅩ線写真から右手首の骨にひびが入っているとて、取り外し自由の添え木ギブスを付けた。

 あれから1週間、再診して早く治すにはギブスで手首を固定してしまいましょうとなった。ギブスとは石膏のことだが、いまやそんなものは使わなくて、腕に巻きつけた布にしみこませた化学物質が、コチンコチンに固まる仕掛けになっている。

 ギブスをつけるのは2週間程度だというが、手を洗うのも風呂に入るのも、濡らしてはいけないというから、面倒なことである。
 防水手袋を探したのだが、ギブスごとはいる太いものがないのに困った。無理やり伸ばして嵌めるしかない。
 右腕をひねってはいけないのでタオルが絞れないし、重いものを持ちあげるのもいけないのだが、実際は右手を使うのはあまり不自由はない。ギブスがうっとおしいだけである。

 でも、せっかくだからこれを利用して重傷を装って、あれこれと他人にもたれかかることにしよう。あ、何事も形から入るのが大切であるから、どうせなら三角巾で腕をつろうかなあ。
 同情してくれる人がいるといいけど、、。

 それにしても9月から、眼科で白内障手術で両眼にプラスチックレンズ挿入、歯科で欠けた前歯治療でブリッジ架橋、そして外科で両足の親指巻爪治療に続いてこの右腕ひび割れ治療と、連続して医者通いである。

 さすがに後期高齢初心者ともなれば、身体がきちんと反応して、これまでほとんど縁のなかった医者に、連続して行かせてくれるようになるものであるらしい。
 でも、保険料が高いから、まだ2年分くらいを取り戻した感だ。

(追記 2012.11.24)
 右手首のギブスで、水を使うときや風呂に入るときに不自由である。適当な大きさの防水手袋がないから、タオル巻いて腕カバーするなど風呂の時は面倒でしょうがない。
 でも、最近どうやら手首の痛さがほとんどなくなってきたような気がする。タオルを絞るのにも、右手もちゃんとつかんで回せる。骨のひびが治ったか。
 左と比べると若干の違和感はあるが、医者に行ってギブスを外してもらおう。
 1030、はやし整形外科にいくと、ものすごい混みようである。30人くらいが待ち、さらに入れ代わり立ち代わりである。7割がたは老婆である。
 40分ほど待たされてX線撮影4枚、また10分ほど待って診察。「もう治ったみたいです、痛くないし、タオルは普通に絞ることできるし」というと、「全然治ってないよ、子どもでも4週はかかるが、まだ2週、ほれ、この写真、折れてるでしょ」「えー、そうですかあ、よくわからないなあ」「マア、軽いけどあと2週は要るでしょ、毎週XC線撮りに来なさいよ」てなことでギブスを外してくれなかった。
 ああ、まだ半月もこのうっとおしいギブスが続くのかあ。

(追記 2012.12.03)
930、はやし整形外科、まずX写真撮影、医師「痛みはどうですか」、わたし「もう全然ありません」「これで4週間、X線写真では傷は見えません。ギブスを外しましょう」「おお、うれしい」、別室でジョキジョキ切り離す、「痛くないですね」「嬉しいです」「4週間で外せるのは通常より早いですね、傷が浅かった」「それよりも先生に治療がよかった」「風呂の中で手首を曲げる練習をするように、あまり重いものを持ち上げないように、では2週間後に診てそれでおしまいにしましょう」、ギブス後の腕を洗って終わり。460円。ほっとした。

(追記 2013.01.29)
上の追記に書いた「2週間後」に診てもらいに行くのを忘れてしまって、ずるずると正月も越してしまった。忘れるぐらいだから、それでいいんだともいえるが、完全治癒ではなくて若干の違和感がある。さて、診てもらいにいくかどうしようか。

2012/11/13

689(東北被災地徘徊譚1)石巻で映画「猿の惑星」の主人公になった眩惑に見舞われた

 宮城県の石巻は、旧北上川の河口にある港町らしい。石巻駅に降りて、観光地図を眺めたら、なんだか妙な宇宙船のような建物があるらしい。
 あ、そうか、津波被災地の写真でたびたび見た石ノ森章太郎萬画館はここにあるのか、あの風景の街はここかと気が付いた。
 なんの下調べもせずに、朝起きて急に思いたってふらりと、被災地徘徊に訪れたのである。石巻のことは全く知らない。石巻どころかほかの街のことも知らない。

 東北地方に大震災の被害が起きていることは百も承知である。せめて冥途土産に(こういう言葉を使いたい年頃である)に、被災模様を見学に行きたいと思う。
 だが、あちら方面は恥ずかしいほどに地理不案内で土地勘が全くない。知り合いもいない。特に太平洋沿岸部には、一度も行ったことがない。
 神戸の大震災の時は、土地勘あり知り合いありで、すぐに行ったし、繰り返し行った。もっとも恥ずかしながら、野次馬だったが、。
 
  もう1年と8か月もたって、仙台に用事をつくって、ようやくにして沿岸部を訪れて惨状を見る機会をもった。
 だが、どこにどうやって行けばよいか、さっぱりわからないから、とにかく仙石線で東のほうに行けば、途中で気が付くだろうと出かけた。
 仙石線は途中が被災したまま未開通で、代行バスに乗った。これは1995年の2月に訪れた神戸でもそうであった。

 さて、石ノ森章太郎萬画館である。旧北上川河口の中州にそれはあった。
 中州のかつての姿は知らないが、この萬画館があるということは、ほかにも観光的な施設が建っていたに違いない。
 それが荒涼たる荒れ野の島になり、この萬画館とそばのハリストス教会があるだけで、遠くに廃屋が2、3みえる。
 萬画館は荒野に降り立った宇宙船というか、荒れ地に生えた毒キノコの体である。
 この形ならば、津波をさらりと受け流したのかもしれない。どうやら修理中らしい。
 
 と、萬画館から下流部の中州の中に、何やら白い人の彫像のようなものが建っているのが見える。
 こちらに背中を向けて、右手を挙げて何やら赤いものを掲げているのは、もしかして「自由の女神」の像か。でも左下半身あたりが隠れている。 
 水辺に花束があるのは、だれか津波遭難者への供養だろうか。

 荒れ地の中を近づいて見ると、これはまさに自由の女神であった。立派なコンクリづくりの台座の上に立ち、左下半身を失いながらも、トーチを掲げて海のほうを見ている。
 プラスチックの裾広がりの衣類が腰まで破れて、心棒の鉄柱が丸見え、見上げるとスカートの中を覗くようで、なんだかはずかしい。
被災した自由の女神は、どんな出自でここに立っているのだろうか。もしかしてここにはラブホテルが建っていて、そのシンボルだったのか。

 振り返ると、片足女神の向こうに、宇宙船のごとき萬画館が横たわって見える。
 荒野でこの二つの取り合いの風景は、なにか異郷風景というよりも、超現実的なイメージに誘われてしまう。なんだろう、それは。
 
アッ、と気がついた。
 これは映画のシーンだ、あの「猿の惑星」のラストシーンである。
 地球を出発した宇宙船が不時着した惑星は、猿が支配する世界であった。船長(チャールトン・ヘストン)ひとりが助かって、あれやこれやとあるのだが、最後に猿の世界が立ち入り禁止とした地域に逃げ出して見たものは、荒野の中に半分埋もれた自由の女神の像であった。「帰ってきていたのだ」と船長は号泣する。
 つまり船長がどこかの惑星と思ったのは、実は進化(退化か)した地球であり、しかもここはニューヨークだったという、オチだけが面白いB級映画だった。
 なお、船長の時間と地球の時間には数千年の差があるのは、よくわからないが光速に近い航行すると宇宙船内の時間が縮まるという相対性原理トカナントカによるらしい。

 被災地徘徊でこのような幻惑にとらわれるとは、なんということだろう。被災する前にここにきていたら、同じようなこと思っただろうか。
 戻ってからインタネットで調べてみたら、どうやらここは公園であったらしく、そのなかに立ついくつかの修景施設のひとつに自由の女神もあったらしい。ほかのものは流れてしまったが、これだけが負傷しながらもけなげに耐えたらしい。
 わたしと同じように、猿の惑星のラストシーンを思いついて、BLOGなどに書いている人も発見した。

 石巻はこのような像を街に建てるのが好きらしい。
 メイン商店街らしい「マンガロード」となずけられた道沿いには、石ノ森章太郎が生み出した漫画の主人公たちの像が立ち並んでいる。
 その極彩色の像群と、被災してほとんど営業していないさびしい商店街の対比が悲しい。
 地方都市はどこも中心市街地が空洞化している問題を抱えているが、地震と津波に空洞化の後押しをされてしまったのが現状だろう。さて、これはどう復興するのか。

 駅前にいかにも大型店舗でございという姿のビルがある。だが看板に石巻市役所と書いてある。
 ああ、そうか、地震と津波で被災した庁舎をここに移したのか、多分、閉店した跡ビルなのだろうなあ、なかなかいいことだ、中心市街地活性化に役立つなあ、と、思ったのであった。
 ところが、戻って調べたら、経営不振で閉店した百貨店跡には違いないが、市役所が移ったのは震災前の2010年であった。
 2階から上が市庁舎で、1階には商店があるのはなかなかよろしい。土曜日で市役所は休みでも一階の商店はあいているから人の出入りがある。

 かつての繁華街の一角であったと思われる四つ角に、向かい合わせに奇妙なビルがあった。地方都市によくあるのだが、洋風の姿をまとう木造建築である。
 「SSビル」とあるほうは、多分、元は金融機関の建物であったろうが、左官仕事のギリシャ風のオーダーの付いた柱型がある。
 「観慶丸商店」とあるほうは、タイル張りの洋館風建物で、その名の千石船の船頭であった創業者に由来するそうだ。1930年に百貨店として建ったとパフレットにある。
 たくさんの新しい建物が失われた市街地の中で、よくまあ地震にも津波にも耐えたものである。


 
参照
・石巻の自由の女神パノラマ写真サイト
http://photo.sankei.jp.msn.com/panorama/data/2012/0328ishinomaki03/
・森の長城づくりがはじまった
https://sites.google.com/site/dandysworldg/greatforestwall
・地震被災地:人間と自然はどう折り合うのか
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

2012/11/12

688原発事故調報告を読んだアメリカのプロジェクト・マネジメント専門家が論評をくれた

 アメリカ航空宇宙局(NASA)は、月ロケットを飛ばしたアメリカ合衆国(USA)政府の宇宙開発機関であることくらいは、わたしでも知っている。いまどきは子どもでも知っているだろう。
 そこにわたしの大学同期生がいて、そのプロジェクトのマネージメントをやっていた。といっても、わたしには何のことかわからない。

 まあ、あんなものに人間を載せて、月まで送って、また戻ってこさせるには、なみたいていじゃない複雑極まるあれやこれやがあるに違いないから、その運営のマネージメントなんてものは、どえらい幅の広い積み重ねのある多様な技術や多様な人々がかかわっていて、どえらく大変なことだろうと思う。

 
 月に行く途中で故障して、月を回るだけで引き返した失敗のアポロ13号事件のことは、本で読み映画でも見たが、よくまあここまでやったものだと思った。
 それは、月往復の成功のための方法はどんどん積み上げていても、まさかの中途故障の場合の対策はできていないはずなのに、あの超難しい帰還を成功させたのは、そのまさかの「想定外」の場合(Crisis)への対応策があったからだろうかしら、と思ったからだ。

 そこで「福島原発事件」である。まさかの想定外への対応がなかったことが如実になった事件である。これがNASAだったらどうしていたのだろうか。
 そんなところに、冒頭に書いたNASAをリタイアした大竹博氏が、日本の国会と政府とのふたつの原発事故調査委会報告を読んで、その論評をくれた。彼は、プロジェクト・マネジメントの専門家として太平洋をまたいで仕事をしている。

 それらの報告書を読んで、彼は、大きく3つの問題点を指摘する。
(1)RiskとCrisisを管理する問題
(2)Responsibility(直接責任)とAccountability(最終責任)の違いと使い分けの問題
(3)リーダーとリーダーシップの問題
 なお、ここで指摘する問題点とは、原発そのものへの直接的な問題ではなく、事故調査会の報告の態度や内容への問題点であって、日本と欧米との巨大プロジェクトへの対応の違いをみることができる。
 
 ここに掲載したので、読んでほしい。
国会及び政府の原発事故調報告に対する論評  著:大竹 博Ph. D.
http://goo.gl/tNjHV

2012/11/08

687わが故郷の高梁盆地を訪ねた先輩からエッセイ「がんじい備中高梁に寄る」をいただいた

 大学の先輩のわが敬愛する建築家が、わたしの故郷の高梁盆地を訪ねて、エッセイ「がんじい備中高梁に寄る」を書いて送ってくださいました。
 この著者・松吉利記さん、つまり「がんじい」さんは、わたくしと同じ横浜市内に住んでいらして、松江市が故郷だそうです。
 その松江に法事にいらっしゃるとて、久しぶりに列車で行くから、途中で高梁に寄ってみたいとおっしゃるのです。
  わたくしは大喜びで、あれこれと訪問していただきたいところなどを、地図に書き込んで差し上げたのでした。
 故郷を出てしまったわたくしでも、たまに故郷を訪ねると、やはり内なる眼で見るのですが、いただいたエッセイを読むと、なるほど余所者の眼ではこうなるのかと面白いのです。
 暖かい心のこもった内容とともに、まことに興味ある書きぶりなので、ご了解を得てここに掲載をしました。

●松吉利記氏エッセイ全文がんじい備中高梁に寄る
https://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/ganji
●参考⇒故郷高梁盆地の風景
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#hurusato

2012/11/04

686世阿弥元清の眠くなる能と小次郎信光の面白くなる能の競演を見た

 横浜能楽堂で、能「砧」(世阿弥作)と「玉井」(観世小次郎信光作)を観た。
 能のスーパースターの世阿弥(観世元清)は1443年没、小次郎信光は1516年没だから、70年ほどの活躍の時代差がある。
 世阿弥が完成させたいわゆる幽玄なる能、早く言えば見ていて眠たくなる能に対して、信光の能は面白能、要するにスペクタクル能である。道成寺、紅葉狩、安宅などである。

 多分、戦国時代のおエライ能スポンサーたちが、言ったに違いない。
「世阿弥の能は眠くなって困る、もっと面白いものをつくれ」
 横浜能楽堂の企画は、その両方の代表作を一日のうちに並べて演じさせようというのであるから面白い。

 わたしが昨日見たのが、その2回目の企画公演で、「砧」も「玉井」も浅見真州のシテであった。シテ方の出演の顔ぶれは銕仙会のメンバーであった。
 青山の銕仙会には20年も前から何度も見に行っていたから、久しぶりに見た地謡座のあの人この人の年とった顔つきにびっくり、それはすなわちわたしのことでもあるんだよなあ、、。
             ◆◆
 で、まず眠くなるほうの「砧」である。
 実は眠くならなかった。前場がよかった。
 砧は何度か見たことがある。この能はある部分の詞章もメロディーも実に美しいのはよいが、ストーリーにどうも難があると、わたしは思う。

 前場の見せ場は砧を打つところだろうが、まずそのきっかけがおかしい。
 シテの女性が「聞こえてくるあの音はなんだろうか」と、都から戻ったばかりの侍女に聞くと、それは砧を打っている音であると答えるのだ。
 でも、おかしいよ、だって自分の家で聞いているのだし、砧を打つなんての日常的な音だから、今日初めて聞いた音のはずがない。なのに、それを知らないなんてねえ。

 下々の仕事である砧を打つ作業を、豪族?の妻が福岡県にいながらやることで、京都にいる夫にその音を聞かせて、郷愁を誘って帰ってこさせようという作戦だが、なんでそういうことをするかというと、中国での故事に倣っているのである。
 だから、あらかじめその故事を知っていないと、なんのことやら分からない。

 まあ、能は源氏物語や平家物語を知っていないと何のことやら分からない演目が多いのだが、中国のその故事までも知っていろというのは無理がある。
 わたしは何回か「砧」を見たからそれを知っている。だから前場がよかったと言えるのである。でないと眠いだけである。

 後場にも、わたしには腑に落ちないところがある。
 妻が死んだ後に戻ってきた夫が供養の席を設けるのだが、そこに妻が亡霊となって出てくる。蒼白な顔(痩せ女面)で、長々と恨みの言葉をうたい、ほったらかしにした夫に詰め寄って非難する。
「君、いかなれば旅枕、夜寒の衣うつつとも、夢ともせめてなど、思い知らずや恨めしや」
 地謡が厳しく盛り上がってきた。

 さて夫はどうこれにこたえるかと見ると、持っている数珠をちょっとあげるだけである。すると突然に地謡が調子を変えてこう謡う。
「法華の読誦の力にて、幽霊まさに成仏の、道明らかになりにけり、、」
 幽霊はよろよろしざってたちあがり、しずかに引き下がってしまうのだ。
 そりゃないでしょ、そんなに簡単に成仏してたまるもんか、と、今回も思ったのであった。肩すかしジャン。この能の終わり方が嫌いである。安易である。抹香くさい。

 立場は反対だが、能「清経」の妻が幽霊の夫に、勝手に自死したのを非難して迫るのを思い出した。この幽霊は悲しむ妻をおきざりにして突然成仏してしまう。
 どうも勝手な話なので、能「清経」は面白い演目なのだが、せっかく盛り上がった最後のところで、ひょいと肩すかしとなるのが嫌いである。
             ◆◆
 さて次は小次郎信光の面白能「玉井」(たまのい)である。
 これは小さいときに絵本で読んだことが海幸彦と山幸彦の物語である。
 もともとは古事記・日本書紀に出てくる話らしいが、今どきの子供はこんな物語を読んでいるのだろうか。

 まあ、ストーリーはどうでもよろしい、いろいろな扮装の役者がおおぜい出てきて(26人)、いろいろな演技をしてみせ、いろいろ謡い、囃子もいろいろあって、見て楽しいが、それだけの能である。
 小書きが狂言のための「貝づくし」で、アイ狂言で山本東次郎家が一家そろって出演した。6人もそろえることができるのだから偉いものである。
 その全部が狂言面を付けていたのも珍しい。

 シテが後場の後半にしか登場しないのも珍しい。
 それに対して、ワキは最初から最後まで出ずっぱりである。海幸彦のワキが、ワキツレ二人を連れて登場するのだが、もともとは彼がこの物語の主人公であるはずだのに、どうも役のしどころがないのはつまらないし、ワキに気の毒だ。
 こんな見世物づくしの能なのだから、なにかワキにも面白い演技をさせる演出をしてほしいものだ。
             ◆◆
横浜能楽堂企画公演 美の世阿弥 華の信光 2012年11月3日
●能「砧」(観世流)
シテ(蘆屋の妻・妻の霊)浅見真州、ツレ(夕霧)北浪貴裕
ワキ(蘆屋某)森常好、ワキツレ(従者)森常太郎、アイ(下人)山本泰太郎
笛:一噌隆之、小鼓:飯田清一、大鼓:亀井広忠、太鼓:小寺佐七
後見:小早川修, 浅見慈一
地謡:観世銕之丞,浅井文義,柴田稔,馬野正基,長山桂三,谷本健吾,安藤貴康,青木健一
             ◆◆
能「玉井 貝尽
シテ(海神の宮主)浅見真州、ツレ(豊玉姫)片山九郎右衞門、ツレ(玉依姫)味方 玄
ワキ(彦火々出見尊)森 常好、ワキツレ(従者)森常太郎、則久英志、
アイ(文蛤の精)山本東次郎、(鮑の精)山本則俊、(蛤の精)山本凛太郎、(赤貝の精)山本則孝、(法螺貝の精)山本則重、(栄螺の精)山本則秀、
笛:一噌隆之、小鼓:飯田清一、大鼓:亀井広忠、太鼓:小寺真佐人
後見:観世銕之丞、谷本健吾
地謡:浅井文義、清水寛二、西村高夫、岡田麗史、安藤貴康、青木健一、小早川泰照、観世淳夫

2012/11/03

685衆人環視の駅前歩道で突然に転んでしまってもう歳だなあと思うばかりの秋の夜

 徘徊老人には、今は徘徊に絶好の気持ちの良い秋の夜である。
 今夜は横浜は桜木町駅前あたり、ミーハー好みの美しい海辺の夜景の中を、わたしは能楽見物帰りで気分よく、さっそうと姿勢よく歩いているつもりであった。

 突然、グラッ、つま先がなにかに引っ掛かった、オットットット~、前のめりに上体が崩れ落ちてゆく。
 体勢をカバーしようと、両腕を伸ばして地面につけて支えたが、右手は握っているカメラを保護するべく、手の甲の側をついてしまった。でもそれじゃあグニャリと曲がって支える力にならない。
 脚も当然出ておるはずだが、これがもうまったく機敏でなくて、ヨタヨタと遅いのである。おい、なんだよこの脚は、と思いつつも出てこないのである、ああ、昔と違うなあ。
 なんだかスローモーション撮影実演をしているなあ、と、思えども止まらない。

 そしてドタ~ン、見事に歩道に伏せて転んだ。
 せっかく右手で上向きに支えてたカメラが外れてガチャン、カバンから何か飛び出してガチャン、あ、これは電子辞書だ。
 
 右手がアイテテ、右膝もアイテテ、、。

 道行く人たちが口々に「大丈夫ですか」と言ってくださるが、特に止まって起こして下さるようすもない。
 初心者とはいえわたしは後期高齢者なのだが、あたりはもう暗いし、赤い帽子をかぶり、真っ黒なフリースを着ていて、そうは見えなかったのであろう。ま、ガタイもでかいし、。
 こちらも恥ずかしいから、そそくさと起き上がる。カメラと電子辞書を拾う。

「は~い、ありがとう、大丈夫です、、、タブン、、」と、右手と右ひざの痛さをこらえ、びっこひきつつ強がりを言う。
「ダイジョウブデスカ」って、コーカソイド系のおじさんが言ってくれるので、「サンキュウ、イッツオーケイ、メイビー、」なんて。

 あれはもう15年も前であったか、長崎市中の繁華街で転んだことがある。石で舗装してあるのになぜ転んだか、わずかに舗石に高さの差があったらしく、それにひかっかかった。今回もどうやらそうらしい。
 どうも歳とると歩くときに足を上げないで、地面を擦るように歩いているらしいのだ。だから1ミリの突起でもひっかっかる。
 引っかかって前によろけたら、脚が姿勢をカバーして身体よりも前に出るはずだが、もうこれがてんで出なくなってるんですねえ、ナサケナイ。

 これはちょっと休むほうがよいなと、まことに都合のよい理由ができたので飲み屋に入った。
 右手がちょっとおかしい。コップ酒をついつい左手で握る。箸を持って肴をつまむところまでは何とかよいが、口に運ぼうと曲げるのが苦しい。
 家に帰って風呂に入るとき、右ひざ小僧を見たら、ズボンは何ともないのに、まるで小学生が転んだように、擦り傷であった。これは長崎でもそうだったが、なんだか懐かしい傷ぶりである。

 この文章は、まあ普通に両手の指で打っている。
 さて、明日の朝は忘れているだろうか。

(追記2012.11.06)
 たいしていたくもないが、どうもある方向は力は入らないし、曲げにくいし、ちょっと腫れている感じもあるので、今朝、近くの整形外科に行った。
 X線写真を撮ったのをみて医師が言う。骨が折れてはいないが、ひびが入っている可能性がある、特に手首の一部を押すと痛いのはその証拠だ。
 で、そのままだと痛みが2,3カ月続くから、ギブスで固定する。ただし、右手なのでそのままだと不自由なので、取り外し型にして、ギブスがあると困るとき、たとえば飯、風呂では外すのだ。
 ギブスを肯定するための包帯を巻くと、右手が重傷に見える。

参照→
http://datey.blogspot.jp/2012/11/690.html


 

2012/11/01

684東京駅復原出戻り譚(その5)東京駅ライトアップは昔からやってたのに急にミーハーで賑わう丸の内


 なんだか東京駅あたりの丸の内が、近頃は休日も夜もにぎやからしい。
 昔は(年寄りはすぐこう言う)丸の内なんて夜は暗いし、休日はガラ~ンとしてさびしかったものだ。
 1988年に4省庁の東京駅周辺再開発レポートを出した八十島委員会での討議でも(わたしはその作業班メンバーだった)、丸の内に百貨店などを誘致してにぎわいをもたらすべきだという意見が出されていた。
 それから四半世紀後の今、こんなににぎやかになるとは、世の中は変わったものだ、と、歳よりは慨嘆というか感嘆というか、ホーッと息を吐くのである。

 噂だけではつまらない、さっそく夜の東京駅に出かけてみると、いるはいるは、お上りさんばかり、という形容はもう古いが、近くからも遠くからもミーちゃんハーちゃんがやってきて、駅の中も駅前広場もウロウロとケータイをカメラにして振り回しているのであった。
 つまり、わたしも今夜はその一人になったのである。

 ふ~ん、赤レンガ東京駅はこうなる前からライトアップしていたのに、そのころはたいして見向きもされなかった。今やディズニーランド並みである。
 前もディズニーランド風ではあったが、復元してますます磨きがかかって、こういうのをディズニーランダイゼイションというのだな、よくわかったよ。
 丸ビルも新丸ビルも東京駅も、中はまるでデパートというか、飲み屋街というか、現代版路地裏というか、たまたま土曜日だったからか、わんさと人がいて飲み食いしている。

 丸ビルから撮った昔の東京駅夜景写真を、同じアングルで今と比べてみたら、今は巨大背後霊をいっぱい従えている。そのなかのひとつは東京駅自身の身売り先であるな。

 これは只今の東京駅夜景。

こちらは2005年の夜景。

 その丸の内側の身売り先のひとつである新丸ビルからの夜景。

 駅前の二つの老舗の中央郵便局と丸ビルも、お化粧なおし山高帽子かぶり再登場。ウゥ~イ、ヒック、酔眼になってきた。



●参照→ 東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2012/10/31

683東京築地市場はいまや観光名所で超高層建築群も迫るから移転したら跡はどうなる

20年ぶりくらいだろうか、築地市場を訪ねた。
市場が目的ではなく、そばの朝日新聞社が経営する浜離宮ホールでの音楽公演に行ったのだが、早く着きすぎたので昼飯を食おうかと行ってみた。
 それにしても、立地からいうと「浜離宮」ホールというよりも「築地市場」ホールのほうが正しいだろうが、それじゃあ文化イメージが違うのか。

  
 以前に来た時と違ったイメージは、場外に観光客がおおぜいいるということである。
 外国人もおおぜい、若い男女や家族連れおおぜいいて、すし屋の前に行列を作って待っている。表に書いてある値段を見ると、安くても1200円で2000円以上が普通、これじゃあ懐具合とともに行列嫌いのわたしは飯を食うところがない。
 いや、なくもないが、蕎麦、ラーメン、丼ではしょうがない。結局は握り飯を買って公園で食った。


 観光客相手のお土産店もあり、はんてんや長靴などにキャラクターの絵を描いた市場グッズを売っているし、グルメ関係の本ばかりの書店もある。
 有名な寿司店らしいところは大混雑であるが、観光客が用のない路地はひっそり。そんなところには、市場に必要な梱包材や刃物、雑貨類の店が並んでいる。
それはそれで面白い新ものがありそうだが、そこまでわたしはマニアではない。
 場外はにぎやかだが、本場のほうは真昼だからすでに閉店していて、ひっそり。朝はどんなにか騒がしいところだろうかと想像しながら、魚臭い路地をあるく。
 
 敷地の外か内かわからないが、二つの神社がある。ひとつは「水神社」、もう一つは「波除稲荷」で、どちらも魚河岸らしい水にまつわる神社である。


 築地市場は豊洲に移転するしないでなんだかごちゃごちゃやってきたが、結局はどうなったのだろうか。もしも移転したら、神社も一緒に行くのだろうか。
 それとも神社は往々にして土地に居ついているものだから、やはりここに残るのだろうか。
 でも、市場関係者が氏子だろうから、ここに残ると氏子がいなくなって維持できなくなるだろうから、一緒に移るのかもしれない。

 市場が移転したら跡地はどうなるのだろうか。浜離宮ホールから市場のほうを眺めると、向こうから超高層建築群が迫ってきている。もちろん、こちらからも迫ってきている。
 さすが東京は開発ポテンシャルがあるから、ここにも似たような超高層建築が立ち並ぶ街になるのだろう。
 

2012/10/30

682越後の棚田天日干し新米と地元産野菜のお得なセットはいかがですか?

今年も棚田の新米ができた。今が一番うまい。
 2004年に中越震災復興支援で入って、2006年から耕作放棄田で毎年の米つくり、山村の棚田の米がうまいのは、深い雪が融けて土にしみ込んだ水のせいらしい。
 特に冷めたごはんがうまいので、握り飯が楽しみとなる。
 うまいはず、この棚田のあるところは、魚沼産コシヒカリとブランド名をつけることができる地域の境界から50mほどである。
 その棚田の新米と集落産の野菜を、わたしも出資する現地法人「株式会社 法末天神囃子」が販売中です。
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 越後の天日干し棚田米と地元産野菜のお得なセットです
 小国町の山間地にある法末集落は棚田に囲まれた村です。
 雪解けの湧き水と標高300mの高地が美味しいお米を育てます。
 そのコシヒカリを自然の太陽の恵みの天日で干して、香りと甘味のあるお米に仕上げました。
 黒姫山と米山を望む棚田で育てられたコシヒカリを、暮れのご挨拶にいかがですか。

[セット1] 5,000円(送料込)
 プレミアム棚田米(天日干し)5kg+地元産野菜(1,000円相当) 
[セット2] 3,000円(送料込)
 プレミアム棚田米(天日干し)3kg+地元産野菜(500円相当) 
[セット3] 3,000円(送料込)
 美味棚田米(機械乾燥)5kg+地元産野菜(500円相当) 

●お問合せ・ご注文は下記まで
株式会社 法末天神囃子  販売担当 宮田裕介
電話:0258-95-3125 メールアドレス:miyata@h-tenjin.com
=========================

●参照
法末集落へようこそ
https://sites.google.com/site/hossuey/
株式会社法末天神囃子
http://blog.h-tenjin.com/
https://sites.google.com/site/tenjinbayashi/
法末の四季
http://homepage2.nifty.com/datey/hosse/hosse-index.htm

2012/10/29

681東電売春女性殺害事件から東電福島原発事故核毒拡散人身傷害財産侵犯事件へ

 このところ新聞に騒がしいのは(TVは見ないから知らないが同じだろう)、ネパール人が無実の罪で15年も検察に拘束されたって事件ですね。
 お気の毒でありましたが、わたしの興味はそこじゃあない。

 記事の見出しが「東京電力女性社員殺害事件」と書いてあって、どうやら、東京電力会社の務めていた女性が、渋谷で売春中に殺されたらしいのですな。
 へえ~、「売春婦殺人事件」じゃなくて、被害者の仕事先の東京電力を事件の名称としてわざわざ書いてあるということは、被害者は東京電力会社の仕事として売春をしていたって、そういうことなんでしょうな。
 そうに違いない。
 そうでなければ、いちいち東電、東電と書く理由がわからない。

 毎日毎日、殺人事件が起きてますが、その被害者の勤め先を書いていることは、あんまり見ませんな。
 このところ、尼崎でおおぜいが殺されている事件があるけど、これを書くにあたって死人の勤め先を書いてあるかと見たら、全然ないのは偶然みんな無職だったのかしら。
 もしも、わたしが仕事してた頃に殺されたら、「伊達計画文化研究所男性社長殺害事件」と新聞は書いてくれたのでしょうね、きっと。

 さてあの事件から14年後に、東電は大事件を引き起こしましたな。
 言わずと知れた福島原発事故ですよ。
 だのに新聞は、なぜ「東電核毒事件」、つまり「東電福島原発事故核毒拡散人身傷害財産侵犯事件」と書かないのだろうか。

 渋谷での売春は東電が会社としてやったのだが、福島での原発事故は東電が会社としてやったではないと、日本のジャーナリズムは言っているのでしょうね。
「東電売春殺害事件」なんてアホラシくて新聞見出しだけしか読まないし、TVも見ないからよくわからない。

 だけど、庶民はそう思いますが、どうなんでしょうか?

2012/10/24

680中越山村の美しい風景には柏崎刈羽原発からの死の灰の脅威が潜んでいた

熊五郎 やあ、ご隠居、元気かい。
ご隠居 ああ、熊さん、おまえはいつもうるさいね。
 え、珍しくご機嫌ななめですね。
 熊さんにあたってもしょうがないけど、ちょっと、聞いとくれ。まずこの写真をご覧よ。
 おお、いい景色だなあ、これ見て不機嫌なんて、ご隠居もモウロクしたね。
 そうじゃないよ、これは私がもう7年も通っている新潟県の山村だよ。
 ああ、いつもご自慢の法末集落でしょ。棚田の米がうまい、人情が厚い、四季の風景が美しいってね。
 そうだよ、いまはちょうど新米ができたてて、毎日3食とも美味い飯を食ってて、生きててよかったと思ってるんだよ。
 いいねえ、それなのに何で不機嫌なんです?
 じゃあね、これをご覧よ。

 地図ですかい、なになに、「柏崎刈羽原発事故で放射性物質が拡散した場合に避難すべき量が落下する方位別の原発からの距離」って、なんです、こりゃ?
 今日(2012年10月24日)、原子力規制委員会が日本の各地の原発事故によるシミュレーションを発表したんだけどね、その法末集落が避難するべき位置にあるんだよ。
 この赤い印のところが法末ですか、で、なんで避難するんです?
 それがだな、緑の線があるだろ、風向きのせいで、その線から原発に近い側は「国際的な避難基準である1週間の積算の被ばく量が100ミリシーベルトに達する地点」なんだそうだよ。
 それがどうしたんです?
 早く言えば、そこには核毒の死の灰が死ぬほど降り積もるってんだな。
 ウワッ、ブルブルッ、そうなりゃ美味い米も篤い人情も美しい景色もあったもんじゃない、なにもかも放り出して逃げるに限るってことになっちゃうんだ。
 そうだよ、わたしが通ってる自慢の村がそうなるなんて、不機嫌なわけがわかるだろ。まあ、この写真をご覧よ。
 ウワッ、冬の雪ですね。
 そう、4メートルも積もるんだ、今見えてるのは2階だよ、こうやって出入りするんだ。
 ってことは、もしも冬に原発事故あると、こんなふうに死の灰が積もったのが目に見えるんですね。
 これが毎日降ってくるから毎日雪堀りしなきゃ、閉じ込められて出られなくなるし、家がつぶれるんだな。でも、雪堀りすると死の灰を浴びてしまう、どっちにしても死ぬんだな。
 でも、まあ、明日や明後日にあるわけじゃなし。
 いや、いつ起きるかだれもわからないよ、福島の人たちだってそうだったんだから。
 そうですねえ、こわいこわい、ご隠居、こうなりゃ法末に通うよりも、国会議事堂や首相官邸周辺に通って、原発反対デモするんですね。
 国会デモには7月に一度行ったきりだが、またいかなきゃならないね。
 今度はあたしも連れてってくださいよ。 デモにも法末にも。
 こうやって自分の身近なことになって初めて目が覚めるんもんだね、なさけないけど。

(訂正:2012年10月29日に原子力規制員会が、24日発表の資料の訂正を発表したので、地図を差し替えた。どちらにしても法末は危ない地域である)
参照⇒原子力規制委員会の発表
http://www.nsr.go.jp/committee/kisei/20121024.html

2012/10/21

679東京駅復原出戻り譚(その4)戦災復興東京駅は世の噂のように本当に仮の仕事だったのか

 東京駅の赤レンガ駅舎は、1945年5月に空爆によって炎上して、残ったのはレンガ壁とコンクリートの床だけになった。
 その壁と床を再利用して再建したのが1947年の「復興」東京駅で、2007年まで62年間を姿を見せていたであった。
 1914年の「創建」東京駅が姿を見せていた1945年までは32年間だから、「復興」東京駅のほうが寿命は長かった。
 そして2012年10月、こんどは「復旧」東京駅が姿を現した。創建時の旧の姿に戻ったのだから「復旧」なのである。また新たな東京駅の歴史が始まった。

 ところで、今回の復原というか復元というか復旧というか、その姿を現した東京駅赤レンガ駅舎を、なぜ戦災前の姿にしたかという理由について、世にこんな噂が流れている。
 それは、戦災後の復興東京駅は、金がなくて元の姿に復旧することができなかったので、とりあえず使えるように応急措置として作り、そのあと本格的に建てる予定で、2、3年も保てばよいような全くの仮の仕事の建物であったからだ、というのである。

 まったくの仮のものという人は、敗戦後の焼け野原の東京に累々として出現した、そこらあたりのありあわせの材料を使って造ったバラック建築と同じだと言いたいのだろう。
 ではそのバラック建築であったと言われる「復興東京駅」を、いま姿を現した「復旧東京駅」と、ちょっと比べてみよう。

 一般に良く見えるもっとも大きな違いは、南北二つのドームの外観と内観、そして外壁である。
  南と北のドームについて、復興と復旧両東京駅の風景を比較する。
 まずは外観、これらを見てどれほどの違いがあるか、わかるだろうか。

これは戦後復興東京駅(2004年撮影)

これは今回の復旧東京駅(2012年撮影)

 そう、復旧東京駅は丸頭、復興東京駅は台形頭である。復興東京駅が仮の仕事なら、切妻の3寸勾配のトタン屋根でもよかったろうに、なぜこんなに巨大な台形ドームを造る必要があったのか。

 当時の東京駅復興の工事現場で設計と工事管理のトップとして采配を振るっていた、鉄道省の建築家である松本延太郎(1910~2002)が書いた「東京駅戦災復興工事の思い出」(1991年自費出版)という本がある。
 そこに松本の上司であった建築課長の伊藤滋(1898~1971)が、ドームの根元は8角形、上に行くと4角形になるドームをつくることを指示したことが記されている。高さは戦前のドームと同じである。
 これは決して仮の姿ではない。

 ドームの中の天井デザインを比較してみる。
 これは戦後復興東京駅のドーム天井(2003年撮影)

これは今回復旧東京駅のドーム天井(2012年撮影)

 今あらわれた復旧東京駅のドームは、華やかな西洋宮殿風に見えるが、よく見ると上部では和風建築の折り上げ格天井をモチーフとしていることも分かって、その折衷ぶりが面白い。
 これに対して戦後の復興東京駅の天井は、まるでローマのパンテオンをベースにして、モダンデザインを展開したように見える。
 これは戦争終結で生産が止まった飛行機工場に残った、戦闘機の材料のジュラルミンを成形したのだそうである。

 このデザインは、上記の松本の本によれば、工事現場で設計監理を担当していた鉄道省の建築家たち12人がデザインコンペをして、今村三郎の案が採用されたとある。
 仮の仕事なら真っ平らに天井を張ってもよさそうなものだったのに、この頑張りはいったい何なのだろうか。

 外壁をみよう。戦後の復興東京駅は2階建て、今回の復旧東京駅は3階建てである。
これは戦後復興東京駅(2006年撮影)
 
これは今回の復旧東京駅

 戦後復興の工事のときに、3階の屋根と壁を取り壊して2階建てにしたので、レンガ外壁についている装飾付け柱(ピラスター)も上部をちょん切られて、柱頭部には何も飾りはないはずだが、上の写真をよく見ると、柱頭飾りがある。
 仮の仕事ならちょん切られたままでもよさそうなものを、わざわざ3階にあったと同じ柱頭を付けて、柱には短くなってもバランス良いように膨らみ(エンタシス)もつけ直したそうである。丁寧な左官仕事であった。まったくもってご苦労なことである。

 だが、さすがに裏側(東側)までは手が回らなかったと見えて、こちらはのっぺらぽうの赤ペンキ塗りであった。これならまさに仮の仕事といえる。西側外壁にいかに力を入れたかよくわかる。
         
戦後復興東京駅の東側の風景(1987年撮影)

 ほかにもいろいろとデザインと工事の苦労を書いている。
 日本が疲弊しきっていた当時、鉄道省の仕事だからこそできたのだろうが、鉄道を使って資材を全国から集め、戦争から本来の仕事に戻った鉄道省建築家たちの努力に頭が下がる。
 この本をどう読んでも、そしてできあがった戦災復興東京駅をどう見ても、それは仮の仕事ではなかったと、断言できる。

 JR東日本や建築界の方々は、辰野金吾にばかり目を向けず、鉄道省の伊藤滋(復旧東京駅づくりの音頭をとった同姓同名の都市計画家と混同しないように)や松本延太郎たちにも、しっかりと目を向けてはいかがですか。
 特にJR東日本の建築家の方たちは、ご自分の先輩たちに、もっと敬意を表してはいかがですか。

 わたしは復旧東京駅の出現を怪しからんとか残念に思っているのではなく、新たな歴史が始まったことに興味津々なのである。
 だが、あの復興東京駅への評価が、あれは進駐軍に命令されてやった仮の仕事だ、としてさげすむのが、わたしは気に食わないのである。
 まるで日本国憲法への右のほうからの言い分みたいである。

 さて、復旧東京駅を、これから建築や都市関係専門家たちがどう評価し、社会人文系の専門家たちがどう評価するか、楽しみである。        

●参照
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)