2009/09/30

186【世相戯評】東芝の不可解な広告

 2009年9月21日朝日新聞の全面広告に、地球の森をどんどん切り倒して行って、そこにソーラーパネルを敷き詰めていくイラストレーションが描いてあって、こんな言葉が書いてある。
王子さま、太陽の光をもっと上手につかえば、未来はもっと明るくなると思うんです
 イラストレーションは、サン=テグジュペリの「LE PETIT PRINCE」の挿絵をモディファイしている。
 この広告主の東芝は、どういう頭の持ち主なのであろうか。
 きっと地球人の科学技術信仰への皮肉としてこの広告を載せたのにちがいないと、わたしは思うのだ。
 だがしかし、どうも東芝はまじめに森をパネルに置き換えたいと考えているようにも思える。
 地球を大切にしたくないという意思を表明する、いまどき大胆というか、不可解な企業の広告である。

185【法末の四季】棚田で稲刈りが終わったがへとへと 

 棚田の稲刈りをこの前の週末2日間で終えた。3段に分かれた棚田の約700平方メートルの稲を、延11人が取り組んで、実働は10時間くらいで、全部をハサにかけた。
 倒れている稲が6割くらいあって、腰を曲げて起こしつつ刈るのは骨が折れた。

 更にまた、水が引いていないところが全体の2割くらいあって、ここでの稲刈りは、田の草取りと同様の難儀なことであった。
 とにかく脚が泥田に取られて、簡単に移動できないのだ。
 泥の中に倒れている稲を起こしつつかるのだが、刈った稲を泥の中に置くわけにも行かないので、畦まで持っていくのが一苦労である。

 地元の人たちはコンバインでダダダ~ッと刈り取り・脱穀・稲藁裁断散布を同時にやっているが、わたしたちは昔流の手刈りだ。
 しかし、手刈りだけだと2日間では終えることができないので、バインダーなる手押し刈り取り&結束機を借りてきて、一部は機械刈りとなった。
 刈った稲を束ねて、背負ってハサ掛け場まで持って行き、ハサに下から順に乗せ掛けていくのだ。

 この作業を一日中やっていると、次の日は背中と腰が猛烈に痛くなって、2~3日は起き上がれなくなる経験を3年前にした結果、いまではアミノバイタルなる筋肉疲労予防薬をあらかじめ飲んでから取りかかっている。どうやら効き目があるらしい。

 今年はプロの田んぼも稲の倒壊が著しい。倒壊した稲を刈るコンバインは大型でないと、起こしながら刈ることができないのだそうだ。
 機械が刈り取りやすいように、倒れた稲を一定方向に揃える人手もかかる。

 ある地元の篤農の人の話では、稲のでき具合はそれほど悪くないのだがほとんど倒れたために、いつもは要らない大型コンバインを借りた損料や、人手が要ったための人件費などで、これも百年に一度の不況みたいに人生70年初めての天候のせいで、今年は稲作の儲けはゼロになったと嘆いていた。

 ハサ掛けで乾燥した米を取り込んで、脱穀・籾摺・精米して飯となって口に入るのは、2週間後のお楽しみである。

2009/09/25

184【法末の四季】もうすぐ美味い新米が食えるぞ嬉しいなあ

 明日から稲刈りである。中越山村・法末集落の棚田の米作りは今年で4年目、稲は稔っている。
 今年は雨が多くて育ちが悪いのか良いのか、半分以上は育ちすぎて倒れているので、稲刈りが面倒そうである。いちいち起こしながらかるので、手間がかかるのである。

 わたしたちの田んぼばかりではなく、米つくりプロの地元の人たちの田んぼでも、今年は稲が倒れているところが多い。
 わたしたちは手で刈って、ハサ掛けして天日干を10日ばかりやった後に、脱穀・精米する。

 田植えも手でやったし、草取りも這いつくばってやったし、そんな手間のかかることやっているのは、これが趣味だからである。
 地元の人たちはコンバインなる機械で、ダーッと刈り取りから脱穀・稲藁を切り刻んで田に撒くところまでいっぺんにやってしまう。乾燥は機械で行なうのだ。

 でも、集落内のところどころにハサ掛けもしているから、プロだって自分の食べる米は美味いのが良いと、ひと手間かけているらしい。
 春の田植えからようやく口に入るときがやってきた。あと半月ほどである。
 農作は天の導くままに1年がかりのサイクルでやるだけで、高度工業化しようと高度情報化しようと、急ぐこともゆっくりすることもできない。

2009/09/24

183【言葉の酔時記】仏事の経文と神事の祝詞

 今朝の朝日新聞にお経の現代語訳を唱えているという坊さんの投稿が載っている。
 わけの分からぬ言葉ではなく、しっかりと意味の通った現代日本語に翻訳して、仏前で唱えるのだそうである。
 当然のことのように、年寄りにはありがたみがないと評判悪く、若者には評判が良いとのことである。
 葬儀や法事などの訪問先の仏事で、坊さんのお経と唱和するようにと、葬式屋が経文パンフレットを渡してくれることが往々にしてある。
 やむをえず周りに合わせて口だけ動かすまねをしつつ、この字をどうしてこう読むのかしら、解説を読んでどうしてこういう意味になるのかしら等とマジメに見ても、ほとんど意味を成さないのである。
 どうも中国語でもなさそうなので、インド語のなまったのじゃあるまいかと思いつつ、それ以上の興味も湧かないでいる。
   ◆◆
 では神事ではどうか。
 こちらは祝詞(のりと)であるが、共通祝詞とイベントごとに作る祝詞とがある。
 前者は「大祓詞」(おおはらえことば)とよばれて、万葉仮名による古文の日本語ではあるが、経文ほどではないがわからぬことには変わりはない。
 後者は、読み下し漢文もどきの擬古文であるから、聞いていてほぼ何とかわかる。
 経文も祝詞も特徴ある抑揚をつけて唱えるのは、なにか宗教的ヒーリング効果を狙っているのだろう。歌みたいなもので、うたっていると安らいできて、それがありがたみにつながるのだろう。これはキリスト教の賛美歌の類と全く同じだろう。
 だから聞いていて意味がいちいちわかると、そのたびに頭が覚醒してしまうので困る、なんてことで、年寄りが抵抗するのは、年寄りとしてわかるような気がする。
 わたしは経や祝詞などを唱えるような殊勝な心がけは全く無い。門内の小僧と違って、鳥居内の子は習わぬ祝詞は読めないのである。
 しかしながら何事にも例外はある。昨年の母の葬儀では、父がこの日のために書き遺していた母への誄詞(れいし、死者へは祝詞ではなくこういうらしい)を、わたしが奏上した。糟糠の妻をたたえる言葉が連ねてあった。 

2009/09/22

182【言葉の酔時記】ジェフリーアーチャーの小説に出てくるJapanese knotweedって変だよ

 イギリスの大衆小説家ジェフリー・アーチャーJeffrey Howard Archerの『A Prisoner of Birth』なる三文小説を、今、ペーパーバックで読んでいる。
 全615ページの349ページまできたところに、Japanese knotweedという単語が出てきた。
 なにかわからないままに読み進むと植物らしく、それが土地に生えているとそこに建っている建物に地下茎が侵蝕していって、コンクリート建物でも知らぬ間に倒壊するほどになる、とあり、大阪でそのために集合住宅が倒壊した事件があって、それにちなんでの命名だと書いてある。

 え、そんな危ない植物があるかしら、そんな事件あったっけ、聞いたこともない。
 困ったときのウィキペディアで、検索してみるとなんとイタドリのことである。
 イタドリとはスカンポともいって、その辺に生えている雑草で、わたしたちが子供のころは皮をむいて塩をつけて食った、あのただの雑草のことだそうである。

 あんなものが家を倒すことは絶対にない。せいぜい道路舗装の割れ目が広がるくらいだ。
 英語版Wikipediaを見ると、どうやらイギリスでは繁茂しすぎて困っている外来種植物で、駆除を進めているらしい。でも建物を倒すとは書いていない。

 この小説の舞台は主にロンドンである。どうやらイタドリ建築倒壊説は、小説家の創作であるらしい。
 この公害植物がこれからどのような役割を小説の中で果たすのか、いまのところおよその見当がついているが、ここではもちろん書かない。
 でも、これを読んだ世界中の読者が、そんな怖い植物が日本にあるのかと思うに違いない。
 Japaneseとあるだけに、日本にとっては罪作りである。

   ◆◆

 アーチャーの三文小説は、Kane and Abel、As the Crow Flies、First Among Equals、Sons of Fortune等、ほぼ例外なく面白い。最近は、偽証罪で有罪となって投獄された経験を生かして、A Prisoner of Birthのように牢獄小説とでも言うべきジャンルで稼いでいて、小説家は転んでもただでは起きない。

 イギリスにはケンフォレットKen Follettがストーリーテラーとして名高いが、作品の質によしあしがある。概して歴史もの(The Eye of the Needle、The Pillars of the Earth、A Place Called Freedom、World without End 等)は面白いが、現代物はどうも面白くない。

 フォーサイスFrederick Forsythは最近は書かないようだ。処女作「ジャッカルの日」や「The Devil's Alternative」のように実に面白いのだが、本題に入る前に衒学的に説明がくどすぎて、わたしのような英語を母国語としないものが受験英語勉強程度の実力で読むには、ちょっとめんどくさい。そこを乗り越えると面白くなるのだが、。

 三文小説に限って英語ペーパバックで読んでいるが、原則として辞書を引かない。単にめんどくさいからであって、3割くらいは分からない単語があるが、前後から類推すると、三文小説だからなんとかなるものである。

 それでも読み終えるのに、同じ値段の日本語三文小説の5倍以上の時間がかかる。だから安くつく娯楽であるし、なんだか英語の勉強しているような気になるところが、三文小説にうつつを抜かしている自分に対する言い訳けになる。
 毎日読み続けていると、時に夢が英語になることがある。目覚めてなんであったか思い出せないが、夢の中では流暢にしゃべっていたのであった。

2009/09/21

181【横浜ご近所探検】お三ノ宮神社の神輿見物

横浜都心の関外地区は、今、お祭の最中である。ビルの谷間にお囃子のBGMが流れている。
 メインストリートの伊勢佐木町の通りは、端から端まで車はシャットアウトして、道の真ん中にみこしがデンと置いてあったりする。
 関外の鎮守とも言うべき「日枝神社」、通称「お三ノ宮神社」の祭であることが、あちこち掲示してある。

 うちの空中陋屋にも、お囃子と神輿のワッショイなる掛け声が聞こえて、バルコニーから見下ろせば子ども神輿が行く。町内のものらしい。
 ワッショイではなくて、雅楽の優雅な響きが聞こえてきて、また見下ろせば今度は本物の神輿である。日枝神社のものらしい。担ぐのではなくてトラクターのようなものが曳いている。 

 では、日枝神社に神輿を見に行くかと、ご近所探検の徘徊に出かける。
このあたりは各町内に神輿や山車があって、それぞれに街角や町内会館に飾っている。そこが日枝神社の神輿のお旅所でもあるらしい。

 日枝神社は江戸中期に江戸山王の日枝神社を勧請し、埋立地の吉田新田の守り神様にしたとかで、埋立地の端っこの大岡川のほとりにある。かつては伊勢佐木通りが参道のようになっていたのかもしれない。

 境内には懐かしい露店がたちならび、神楽殿では笛・太鼓・鉦のお囃子を大人や子どもが演奏している。
 あった、神社の一角に見下ろしたあの神輿が鎮座している。実に立派な典型的な百貫神輿である。
 境内には大人や子どもが祭気分丸出しで大勢たむろしていて、せんだって長岡市小国町の太郎丸で見た村の祭も、この横浜都心の街の祭も雰囲気はまったく同じである。

 そこからぶらぶらと大岡川沿いに弘明寺まで散歩することにした。
 やがてやってきた弦巻橋、そのたもとの傾いた公衆便所はまだ健在であった。
 1年前に「発見」して、いつまであるか気にかかっていたが、大丈夫であった。きちんと用を足してきた。
 次に来たときもあるといいなあ、って、別にとり立てて特別なデザインじゃないけど、傾きだけで立派な存在価値がある、、か。

2009/09/20

180【言葉の酔時記】わが国わが党ってなんだか差別感ある言い方だよなあ

 このところ政治の季節で、政治家は「わが党は、、」ってあちこちで言っているようだ。わざわざ「わが党」なんて、こ難しく言わなくてもよさそうなものである。
 まあ、他の党とうちの党ではこんなに違うんだよと、政策の差を強調するつもりであろう。でも、なんだか威張っているようで、いやな語感である。

 わが国、わが軍、わが党、わが社、わが町、わが家などは、そう言う人が帰属する組織や社会を意味しているようだ。
 「我が大君」なる言葉がある(あった)が、これは国家への帰属を明確に言い表していたのだ。

 わが意、わが命、わが田、わが妻、わが子、わが輩、わが身、わが物顔、わが世の春などは、言う人の所有観念の表現である。
 このうちほとんど死語はわが輩であろうが、そのほかもある特定の慣用句とか格言でしか使われない。

 政府文書には「わが国」との言い方がほとんどである。なぜ「日本」と書かないのだろうか。他国へ対置する表現としてならそういう必要もあるだろうが、かならずしも他の国とは違うんだといいたいばかりでもないときも使うから、慣用語になっているのか。

 色々な学術的な論文類にも「わが国」は実に多く登場するのは、どうしてなのだろうか。
 なんにしても現代の「わが・・」は、帰属意識の強調であると共に、他との区別・差別を強調していて、わたしにはあまり快くは聞こえない言葉である。

 昨年に共同執筆して出版した本「はじめて学ぶ都市計画」では、原稿に「わが国」とある表現は、全て「日本」と直したのであった。
 ところで英語圏では、my country my party my company my home my town等の日常的な言い方があるのだろうか。

2009/09/14

179【世相戯評】敬老から軽老へ

 19日から5連休であるとか。
 え、どうして?、9月23日は秋分の日だから休日だと知っているが、21,22、がどうして休日なのか?
 そういえば、9月15日が敬老の日だったはずが、今年はなくなっている。21日あたりに飛んだらしいが、まあ、どうでもよろしい。そのあたりは混むだろうから、出かけないようにする。
 横浜市から「敬老パス」なる、市営地下鉄、市内バス路線乗り放題の乗車証を受け取ることができるお知らせが来た。70歳以上がその資格がある。
 乗り放題と言っても、無料ではなく1年間6500円、去年が8000円だったから、今年は値下げになった、のではなくて、所得額つまり課税額によって負担額が異なる制度(5段階)なので、こちらの所得が下がったということである。
 地下鉄は200円、バスは210円が最低料金だから、往復16回ほどで投資採算がなりたつ。なんにしてもこれは買ったほうが得である。
   ◆◆
 解説パンフレットが同封してあり、「70歳以上の市民の社会参加に役立てていただける」ことが目的であるが、2009年度は利用者自己負担額が15億円に対して、市費負担額が85.6億円、そして「運営が困難な状況となっています」とある。老人が毎年増える一方だから支出は多くなるばかりだから、制度維持が今後は危ないのだろう。
 よく分からないのは、では、この老人パスは老人の社会参加に役立っていて、それは金額に換算すると、どの程度社会に還元されているのだろうかってことである。
 そもそも敬老パスは、どうして出てきたものだったのだろうか。
 70歳を越えると暇になるから、その人たちを社会活動に参加させて有用に活用したいってことなのか。それならば有料パス保持者に、なんらかの社会活動義務を負わせてはどうか。
 あるいは、病気がちの老人を病院に通いやすくするためか。
 それとも、健康な老人がゲートボールに行きやすくして、保健費用支出を減少させるためか。
 所得額によって負担額が違うということは、基本は福祉政策のようである。社会活動参加促進政策ではなさそうだ。
 よその都市の同様の老人優遇例として、東京都では20510円(課税者)、川崎市では課税額によらず毎回100円か年12000円かの選択だそうである。
   ◆◆
 負担額といえば、健康保険による医療負担額について奇妙なことがあった。
 わたしの保健医療費は1割負担であったが、一昨年の年度の途中で政府管掌保険から国保に切り替えたら、アラ不思議、1割から3割負担になったのだ。
 年度途中だから、その保険料の算定根拠となる所得額は同じなのに、なぜ負担額が変わるのか?? もちろん、わたしは市の窓口の人に噛み付いたのであった。
 彼は社会保険事務所の担当者と電話で話していたが、それでわかったことは、政府管掌健康保険料の所得根拠は「給与」だけであるのに対して、国保のそれは報酬とか原稿料とか印税など他の収入も含むのだそうである。
 それで国保に切り替えたとたんに保健料の算定根拠の所得額が上がり、わたしの医療負担額は一挙に3倍になったのだ。
 え、法律は同じじゃないの?、変だと思いませんか?、と食い下がったが決まりは決まりだと退けられた。
 そこで今年の所得税の確定申告は「慎重に計算」して、1割に戻ったのであった。 これは敬老パス負担減額にも及んだ。
 しかし、国と地方自治体で保健医療負担額算定根拠が違うってのが、いまだに腑に落ちない。地方分権だからってことではあるまい。ただし、理論的には自治体のそれが正当なように思う。
    ◆◆
 そもそも敬老って、その意味はどこから出てきたのだろうか。
 多分、老人が今ほど有り余っていなくて、彼等が希少価値の時代の思想というか、世の思惑だったのであろう。
 年金制度がなくて、年寄りは誰かに頼らなければならない時代の処世の言い訳であったか、。
 それがこれほど老人が多くなり、しかも金持ち不良老人も多くなると、敬老などと言って大事にする必要はないぞ、なんてことかもしれない。
 それでも、敬老パスとかシニア料金とか、惰性で続いているとしたら、行政の財政が逼迫してくると、なんで特別扱いをする必要があるのかという市長や議員が出てくるだろう。
 普通は特別扱いってのはマイノリティのためだから、マジョリティのための特別扱いは、理屈から言えばヘンではある。
 先日、横浜市長選挙があって、民主党が支援して当選した女性市長となった。敬老パスがどうなるのだろうかと思うが、なにしろ企業経営者が出自だからなあ、、。
 あ、今に、軽老の日、軽老パス、軽老料金になって、むしろ高値設定とか、、困る。

2009/09/11

178【怪しいハイテク】どなたが読んでいるかしら

 この「伊達な世界」ブログなるものを書き始めてから1年4ヶ月、もうひとつの「まちもり通信」サイトを始めてから9年9ヶ月である。
 読んでるよといってくれる近しい友人はいるが、そのほかどなたが読んでいいただいているのか気になるのが、それはわからない。
 せめて人数でも知りたいと、「まちもり通信」に8年4ヶ月前につけたカウンターが、今、93636となっている。もちろん正確な数ではないが、これだと1日に30人程度のお方が見て下さっているらしい。ありがとうございます。

 ところで、「伊達な世界」と「まちもり通信」とで、ヒットする回数がずいぶん違うことに最近気がついた。ちょうど1ヶ月前にそれぞれにカウンターをつけてみたら、「伊達な世界」は1266ヒット(42/日)、「まちもり通信」は644ヒット(21/日)と、倍の差があるのだ。
 どちらのサイトからも互いにリンクするようにしているのだから、普通に考えると同じになりそうなものだが、これはどういう違いなのか。多分、10~30日間隔記入の「まちもり通信」と、2~3日間隔の「伊達な世界」との差が出るのだろう。

    ◆

 どちらのサイトからも読者のご意見などを、メールでいただくことができるようにしているのだが、これからの反応はあまり無い。1ヶ月にひとつあるかないか程度である。
 ご意見などをいただくと、必ず返事をすることにしているのだが、たまに匿名で変なことを書いてくる人がいる。あるいはまじめな質問をするのに、匿名で書いてくる人もいる。こちらが本名を出してるのだから、失礼なものである。
 そこで匿名の人には返事をしないと記している。

 まじめな質問をいただくことがいくつかあるのだが、そのなかで真剣なのは難病の「大腿骨頭壊死症、同萎縮症」に関するわが体験記を読んだ、同病患者からのものである。
 こちらは医者ではないから、まちもり通信に書いている以上には答えることはできないのだが、なんらかのご返事をさし上げることで、ちょっとはお役に立つかもしれないとは思っている。

 それにしても、かつては「家庭の医学」なんてのを読んで一人で悩んでいたのを、いまどきはインターネットで同病相哀れむのだから、すごいもんである。
 余計な知識で悩みは増えるのか、それとも減るのか?
 最近来た質問で、匿名の意味がわかっていないらしく、「サンマ(もちろんHN)」と名前を書いて、若い人の拙い文ながらもまじめなメールがあり、困った。

2009/09/10

177【老いゆく自分】理工学部卒引退後の趣味

 理工学部を出たものが現役を引退すると、どんなことを趣味にして生きていくのかと、自分のことはさておいて、同期あたりに興味を持っている。
 趣味も理工系かとおもうと、趣味とはそういうものではないらしいく、絵画、登山、旅行が普通だが、なかに日本舞踊のひともいる。

 昨日、横浜都心の大岡川沿いの画廊で、化学を出た同期生たちの展覧会とて、観にいった。
 洋画、日本画、写真、陶磁器と、これはまさに世の趣味一般である。なかに焼き物の金継ぎ(日本古来の修理方法)を趣味にしている人もいたのが、ちょっと理工系っぽいような、、。

 これを観に来たわたしの仲間6人の趣味がウォーキングで、これまた理工系と関係ない。
 数年前から誘い合って、春秋に5日間100キロを歩く旅をしている。なかには1日に50キロ以上も歩けるマニアもいる。

 この歳になると、建築、寮、山岳部など、年に数回あれこれと大学同期のあつまりがある。
 高校の同期会もあった。暇になって酒を飲む言い訳けをみつけることと、頭が未だナントカしている今のうちに昔の仲間の顔を見ておこうということか。

 先日は建築学課程(わたしの頃は学科制はなかった)のあつまりで、エンジンつき模型ヘリコプターを飛ばすのが趣味という、理工系のようだが、とても建築出とは思えない者もいる。孫は大喜びらしいが、。
 ではわたしの趣味はといえば、近所の裏町やら、地方都市の商店街やら、棚田の農村やら、それも名所でもなんでもないところを彷徨することが、かなりのウェイトを占めている。

 そしてそれをこうして駄文に綴ることが趣味であるが、これは明らかに建築から都市計画へと仕事をやってきた延長上にあるのだ。
 建築でも都市計画でも、街の構造を現場で調べて、それがどのような背景でできてきたのか、それはどんな方向に動こうとしているのか、今後どうあるべきかを考察する。
 そしてそれを文や図や写真で記述し、その町に暮らす人々にわかりやすく伝えること、これが建築や都市計画の仕事であるのだから、今もその延長を走っていることになる。

 違うのは、現役時代はそれによって報酬を得ていたが、いまは無料であることだ。この駄文が、時には社会の役に立つかもしれないと思いつつ、、。
 あ、そうか、もしかたら、わたしは趣味を仕事にしていたのかも、、、どうりで儲からなかった。

2009/09/02

176【老い行く自分】本に埋もれて逝く至福

 8月11日だったかに静岡でちょっとした地震があり、死者が出た。その人はなんと本にうずもれて胸部圧迫窒息死だったそうだ。
 これは他人ごとではない。そう思ってネット検索したら、やはり同じようなことを思った人たちがいる。
 わが狭小なる書斎兼PC部屋兼寝室兼物置兼工作室兼・・・の四周の壁全部が(つまり窓と扉部分を除いて)、床から天井間際まで本棚であり、本がぎっしり詰まっている。
 もちろん本棚そのものは、紐や針金で壁にひっくくったり、棒で押し付けたりして、どうやらこうやら倒れないように工夫はしているが、本そのものはとめようがないので、落ちてくるだろう、コブくらいつくるかもなあ、とは思っていた。
 でも、窒息死なんてことがほんとにあるんだ、、、、まあ、本にうずもれて逝くなら、それはなんとなく至福の感がないでもないが、、、。